「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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しかたのない蜜
神域の花嫁 77~84
たしかに日浦町は鬱蒼とした山間に囲まれ、駅から赤い鳥居が見えるなどといった特徴が晴信のビジョンそっくりだった。
凛太郎、秀信、祥、そして明は、祥の運転する車で日浦町まで向かった。
凛太郎は現在、学校は休んでいる。
秀信が裏から手を回して出席日数はどうにかしてくれるらしい。伸一郎に学校を休んでいることは内緒である。ただ、「何日かの間、友達の家に泊まるから」とだけ言うと、伸一郎はあっさり承諾してくれた。
元から放任主義の父親だとは思っていたが、ここまでくると、放ったからしにされているようで凛太郎は寂しかった。
「うおお~、空気がうまいぜ!」
車から降りて、明は大きく伸びをした。
日浦町についた時、すでに辺りには夕焼けが広がっていた。
周囲を囲む緑の山々に、橙色の光が射して美しい。カラスの鳴く声が、のどかに聞こえる。
「先生、今夜はどこに泊まるんですか?」
明に続いて、車から降りながら凛太郎は尋ねた。
助手席のドアを閉めながら、秀信が答える。
「大津家だ」
「大津家って?」
車からキーを抜いたばかりの祥が答える。「この辺り一帯の旧家です。かつて陰陽師家として栄え、弓削家とも親交があります。今回の事件にも手を貸してくださるそうです」
「旧家ってことは、綺麗なお姫さまでもいるのかねえ?」
明がだらしなくやにさがった。凛太郎に軽蔑のまなざしを向けられて、あわててマジメな表情になる。
「俺には、おまえしかいねえんだからな。俺がお前を守ってやる、凛太郎」
「ありがと、明」
苦笑しながらも、凛太郎は礼を言った。
明の言葉に、それなりの真意を感じたからである。
数日前起こった、鈴薙の一件で明がかなり落ち込んでいるのを凛太郎は気づいている。
主に命じられれば、すでにそれを察知してはせ参じられるのが鬼の能力の一つであるはずなのに、明はそれができなかった。
そして、鈴薙にまったくの敗北を期した。 秀信の見解によると、鈴薙が強すぎたのだそうだ。だから鈴薙が張った結界の力が強すぎて、その内側にいる凛太郎の声が、。明選考に届かなかったというのである。
明に言わせれば、「けったくそ悪い陰険眼鏡の家に行ったから、こっちの具合まで悪くなった」そうだが。
真相は不明だが、鈴薙がパワーアップしたのはたしかだった。以前は互角に渡り合っていた明をあそこまでたたきのめしたのだ。
秀信によると、
”お前がいなければ、私たちは死んでいたかもしれない。礼を言うぞ、凛太郎”
秀信はめずらしく眼鏡の奥の鋭い双眸をなごませて、凛太郎にそう言った。
”先生こそ、僕のために戦ってくださったのに”
凛太郎はそう恐縮しつつも、秀信に認められたことで舞い上がるばかりに嬉しかった。明がおもしろくなさそうな顔をしていたことは言うまでもない。
凛太郎がその後、自由自在に力を使えるようになったかというと、それはべつだった。凛太郎は秀信のように式も打てないし、晴信のように神懸かりもできない。あれはいわゆる火事場の馬鹿力だったのだ。
それでも、修行の意味があったと、晴信はひどく喜んでくれたが。
「僕も、日浦町に着いていきたいんですけど」
神懸かりして、めっきり体力を消耗した晴信は、布団につきながら凛太郎にそう言った。あどけないどんぐり眼は、精一杯の心配をたたえて凛太郎を見つめていた。
「お前はここでゆっくり休んでいろ。弓削家の巫子が倒れたら、私たちは元も子もない」
秀信にそう言われて、晴信は照れくさそうに、けれど誇らしげに納得して、おとなしく引き下がった。
そして凛太郎に耳打ちした。
「僕、凛太郎さまが日浦町にいらっしゃる間も、ちゃんとお勉強しておきますから」 凛太郎はいとおしい気持ちでうなずいた。 晴信は凛太郎にあれからずっと勉強を教わっていた。そして金釘文字で書かれたいじらしい手紙をすでに凛太郎に何通かくれていたのである。
その日、凛太郎が晴信からもらった手紙にはこうしるされていた。
”りんたろうさま がんばってください”
「そろそろ迎えが来るころなのですが……」 祥はそう言って、腕時計を見た。
するとその時、一陣の風が吹いた。目も開けていられないほどの突風だった。
凛太郎が目の前に手をかざしながら、前方を見た時、そこには一人のセーラー服姿の少女が立っていた。
少女は長い黒髪をたなびかせて、血のように赤い夕暮れに立っていた。日本人形が命を得たかのような容姿だった。
少女は凛太郎と目が合うと、黒光りのする双眸を細めて、ニタァァと笑った。
「危ない、凛太郎!」
次の瞬間、明が凛太郎の体を地面に押し倒した。
凛太郎は明にかばわれるようにして、地面に伏しながら、見た。
少女の体から、無数の瑠璃色の蝶が舞い出て、自分に襲いかかってくるのを。
「凛太郎! 息止めろ!」
明は凛太郎の鼻と口を自分の胸元に押しつけた。明の雄々しい体臭が凛太郎の鼻腔に満ちる。と、同時に呼吸がろくにできなくなった。
「苦しっ……!」
凛太郎はうめいた。
秀信が叫ぶ声が聞こえた。
「行け、祥!」
祥は跳躍した。短刀を手にして、蝶の群れに飛び込んで行く。
蝶は祥の体に蟻のように群がり、やがて四散していった。
後には、一枚の紙が残された。その紙は蝶の形に切り抜かれていた。
その紙を手に取りながら、秀信はつぶやいた。
「……式に蝶を使うか。雅なことだな」
凛太郎は明の体の下から抜け出して、祥に駆け寄った。
「祥さん、大丈夫ですかっ?」
祥は地面に突っ伏していた。激しく咳き込んでいるため、その体は上下に大きく揺らいでいる。
凛太郎に返答する余裕すら、祥にはないようだった。ふだんは柔和な光をたたえている垂れ目は苦しげにゆがめられ、幾筋もの涙を流している。
長身をかがめて祥をのぞきこんで、明は言った。
「こりゃ、さっきの蝶の鱗粉にやられてるな。おい、陰険眼鏡! ちょっとはこいつの面倒見てやれよ。お前が式返しにこいつを使ったんだろ」
凛太郎は祥の背中をさすりながら、秀信を見た。秀信は立ったまま、冷ややかに祥を見下ろしている。
「祥は、そこまでひ弱な男ではない。なあ、祥?」
思わず凛太郎は秀信に反論しようとした。 秀信に命じられて戦った祥はここまで苦しげなのに、何かねぎらいの言葉をかけてもいいのではないか。明も眉をしかめて、何か言いたげに秀信をにらんでいた。 思わず凛太郎は秀信に反論しようとした。 秀信に命じられて戦った祥はここまで苦しげなのに、何かねぎらいの言葉をかけてもいいのではないか。明も眉をしかめて、何か言いたげに秀信をにらんでいた。
だが、祥の口から出た言葉は意外なものだった。
「私のことなど、気になさる必要はございません、凛太郎さま」
咳き込みながら、祥は答えた。長い前髪が脂汗で、額に張り付いていて痛々しい。
「で、でも……」
「私は秀信様のために人であることをすでに捨てた身。ゆえに、凛太郎さまの心遣いはありがたくももったいのうございます。そうでしょう、秀信様?」
祥は、荒い呼吸のまま、秀信を見上げた。 秀信はひざまずいた姿勢になっている祥を睥睨しながら言った。
「お前がそう思うのなら、そうなんだろうよ」
「何だよ、その冷たい言い方は……」
「明、よせ」
凛太郎は秀信に拳をつきつけた明を止めた。
「けど、凛太郎ちゃんよォ……」
「祥さんがそれでいいと言っているんだから、僕たちの出る幕じゃないよ」
凛太郎は明に耳打ちした。明は毅然と立ったままの姿勢でいる秀信と、咳き込んでいる祥を代わる代わる見比べた。釈然としなさそうな表情でぼやく。
「まったく俺には理解できねえ関係だぜ。主従関係ってやつか? それともこいつらデキてたりしてな」
ガハハ、と下品に笑う明を、凛太郎が平手打ちしようとした時、その若者はやって来た。
「遠いところ、はるばるよくお越しくださいました、皆様。私は大津家の跡取り、大津文彦と申します。秀信さま、おひさしぶりでございます」」
二十代前半とおぼしきその青年は、凛太郎たちにそう言ってから、丁寧にお辞儀した。
秀信が軽く一礼して、凛太郎たちの簡単な自己紹介をした。もちろん明の正体が鬼で、凛太郎が凛姫の生まれ変わりであるという話には触れていない。
凛太郎は祥の体を支えながら、文彦に自分もあいさつした。文彦はブルージーンズがよく似合う現代的な好青年だった。一重まぶたの涼しげな双眸が、祥の様子を見て心配げに曇った。
「あの……どうかなさったんですか? ひどく顔色が悪いようですが」
「何ともございません。どうか心配なさらずに」
祥は素早く切り返した。
「ところで、さっそくそちらのお屋敷にご案内していただきたいのですが……」
祥に言われて、青年は照れくさそうに頭をかいた。
「うちの家は、お屋敷などというほどたいそうなものではないのですが。ではご案内します」
それから文彦は自分のワゴンカーに乗り込んで、凛太郎たちが乗る車の前を走り、水先案内をした。
大津家の屋敷は、駅から車で三十分ほど走ったところにあった。夕暮れにはイノシシも出るという、山の上にその屋敷は建てられていた。こざっぱりとしているが、それなりの風格を感じさせる日本家屋だった。 辺りが竹林につつまれていて、かぐや姫でも出てきそうな神秘的な雰囲気があると凛太郎は思った。
「こちらが居間です。お茶でも煎れてきますので、どうかごゆっくりください」
文彦はそう言って、台所に引っ込んだ。 居間は十五畳ほどの広さがあり、黒檀でできた立派な応接セットがあった。間接照明が優しいあかりを投げかけていて、派手さはないがくつろげる空間だった。
文彦の趣味だろうか。いたるところに人形が置いてある。
凛太郎はソファーに深く腰掛けた。旅の疲れもあって、あくびが出そうになる。が、秀信と祥が背筋を伸ばして座っているのを見てあわててやめた。
先ほどあれだけ式神にダメージを受けていた祥までもが、しゃんとして座っているというのに。自分はなんとふがいないのだろう、と凛太郎は己を恥じた。
「ふあ~あ、疲れた、疲れた」
明は大あくびをして、ソファの上で伸びをする。
「明、よしてよ、だらしない」
凛太郎は頬を熱くしながら、明の背中をぴしゃぴしゃと叩いた。
「なんでェ、いいじゃねえかよ。疲れてるのは本当なんだからよ」
「礼儀ってものがあるだろう? 先生と祥さんを見習えよ」
凛太郎は秀信たちの反応を横目でうかがいながら、そう言った。秀信は静かに座っていた。祥はまだ苦しそうだ。
「ねえ、明、わかってるの?」
そう言った時、凛太郎は明が何かを一心に見つめているのを感じた。
「明、どうしたの?」
凛太郎は明の目線を追った。秀信たちも異常に気づいたのか、同じ所に目をやる。 明は、部屋のドアの外を凝視していた。
そこには、セーラー服姿の少女が立っていた。
あの式神を放った少女、その人だった。
少女は薄く笑った。
先ほど蝶の式神を放ちながら見せた笑顔と同じだった。
あどけなく可憐で、それでいて邪悪さがにじんだ笑顔。
凛太郎は戦慄した。
祥は立ち上がって、構えの体勢を取った。「待て、祥」
秀信が祥の肩をつかんで座らせた。
「で、ですが、秀信さま……」
明がニヤッと笑って、秀信を見る。
「あんた、癪にさわるけどさすがだな。こいつには邪気は感じられねえ」
「お褒めの言葉、恐悦至極に存じ上げます、鬼神さま」
秀信が皮肉っぽく笑って言った。
凛太郎が明にその言葉の意味を尋ねようとした時、トレイを持った文彦が部屋に入ってきた。
「お待たせしました……あれ、さゆり?
いつのまにこんなところにいたんだ?」
文彦には答えず、黒髪の少女ーーーーさゆりは凛太郎たちを凝視している。
文彦は少し気まずそうにさゆりに呼びかけた。
「まあ、いい。お前のきまぐれは今に始まったことじゃないからな。さゆり、お客様方にごあいさつしなさい」
「はい、お兄様」
さゆりは急に何かのスイッチが入ったかのように、愛想よくうなずいた。
「私は大津さゆりと申します。皆様、ようこそ我が家へお越しくださいました」
それから凛太郎たちは文彦のもてなしを受けた。料理は、大津家に仕える家政婦が作ったものだった。家政婦は五十代半ばの女性で、文彦の死去した両親の代から、この家で働いているのだという。
料理は豪華さはなかったが、旬の素材をうまく使ったまさにおふくろの味だった。
大津家は、三百年ほど前に歴史をさかのぼる民間陰陽師家だった。
民間陰陽師とは、都の陰陽師寮には属さずに、一般の村や町で活躍した陰陽師のことである。病気を治癒したり、冠婚葬祭のおはらいなどを請け負っている。だから、
村人たちの絶大な信用と尊敬を受け、下級位の陰陽師より豊かな暮らしをしている場合が多かったという。大津家の大きな屋敷はそうして得た富の象徴なのである。
文彦はその五十一代目の当主にあたる。
さゆりは、現在十七歳になる文彦の妹だった。
今では、陰陽師としての仕事はほとんどないという。
「やはり時代の流れとでも言うべきなのでしょうか」
文彦はそう言って、寂しげに笑った。
「けど、いいじゃないですか。文彦さんは別の分野で立派にご活躍なさっているんですから」
凛太郎は文彦に励ますように言った。
「そうですか? お恥ずかしい、そんなたいそうなものではないです」
照れくさそうに頭をかく文彦に、明が言う。
「ンなことねえぜ。あんたの作ったこの人形、すっげえよくできてるよ。今にも動き出しそうだもん。で、こっちはどうかな、と……」
人形の着物をまくりあげようとする明の手をぴしゃりとたたきながら、凛太郎は言った。
「本当に文彦さんはすばらしい人形作家さんですよ」
居間に飾ってある数々の人形は、すべて文彦の手によるものなのだった。西洋人形もあれば、日本人形もある。妖艶な美女の人形もあれば、いたいけな少女の人形もある。
だが、それらすべてには特徴があった。呼吸をしているように自然でリアルなのだ。 文彦は趣味で作っていた人形を、美術展に出品し、そこで賞を受け、以来、依頼が来るようになったのだという。
ポーカーフェイスな秀信までもが、人形の美しさに心ひかれたようだった。眼鏡の奥の双眸を細めて、人形に見入っている。「さゆりさん、よかったですね。こんな立派なお兄さんがいて」
凛太郎は、食卓の上で静かに箸を動かしているさゆりに声をかけた。こうして見ると、さゆりはごく普通の可憐な少女だった。 その典雅な魅力に、凛太郎は男として心動かされないわけでもない。それにさゆりが本当に敵なのかどうか見定めたいという気持ちもあって話しかけた。
明と秀信たちも興味があるのか、二人の様子をじっと見守っている。
さゆりは顔を上げて、凛太郎をまっすぐ見た。涼しげな双眸に、凛太郎の胸は思わず高鳴る。さゆりは静かに口を開いた。
「人を愛せない兄を持つのが、そんなに幸せかしら?」
「さゆり、いきなり何を……」
文彦は困惑顔だった。さゆりはそんな文彦を無視して、席を立った。
「ごちそうさま」
「さゆり、待ちなさい! お客様の前で無礼だぞ!」
さゆりは怒る文彦を尻目に、ドアを開けて出て行った。階段を駆け上がる軽い足音が聞こえる。
文彦はため息をついた。
「ごめんなさい。まったくうちの妹ときたら……」
「いわゆる反抗期というやつですか」
祥が微笑みながら、文彦を取りなす。文彦は苦笑しながら答えた。
「そうかもしれません。以前はうるさいほど明るい子だったのに、いつしかこんなふうになって……母が生きていれば、もう少しあいつも変わっていたのかもしれませんが」
凛太郎は、さゆりがうらやましくなった。 文彦がこんなにさゆりのことを心配しているからだ。
(僕にも兄さんがいたら、楽しかったかなあ)
もし今日、式神を放った少女とさゆりが同一人物だったら、文彦はさぞ悲しむだろう。やはりさゆりには、勾玉が取り憑いているのだろうか。
そのためにも、早く事件を解決しないと。凛太郎はそう心に誓った。
夜も更けたころ。
凛太郎はふとんから起きあがった。隣では、明が高いびきをかいて寝ている。
凛太郎と明は、屋敷の二階にある客間の一室に寝ていた。秀信と祥はその隣室をあてがわれている。
長時間の車での移動で疲れているはずなのに、妙に目がさえている。明日からは勾玉探しが待っている。だから、ちゃんと休んでおかねばならないと分かっているはずなのに、眠れなかった。
水でも飲もうと凛太郎は部屋を出た。そのまま水場のある一階に下りる。
月明かりの差し込む台所に出た時、凛太郎を呼び止める軽やかな声があった。
「凛太郎さん」
少しギョっとしながら振り返ると、そこにはさゆりが立っていた。さゆりは薄手のパジャマを身につけていた。月光に生地が 少しギョっとしながら振り返ると、そこにはさゆりが立っていた。さゆりは薄手のパジャマを身につけていた。月光に生地が透けて、薄く花びらのような乳首が見えた。
凛太郎はあわてて、さゆりの胸から目をそらす。さゆりはそれに気づいたのか、忍び笑いをもらした。
「あなた、かわいいのね。凛太郎くん、って呼んでいいかしら」
たとえ自分より二歳年上でも、女の子にかわいいと言われるのはあまりいい気持ちではない。特に凛太郎はクラスの女子生徒に「お姫さまみたいにかわいい」だの何だのとからかわれた嫌な思い出があった。
それでも、世話になっている家の娘にたてつくのはよくないと思い、凛太郎はその申し出をしぶしぶ承諾した。
「まあ、いいですけど……」
「そう。じゃあ、私のこともさゆりって呼んでね」
さゆりは長い黒髪をかきあげながら、にっこりと笑った。入浴後なのだろう。さゆりの髪はしっとりと濡れていた。細いうなじにはりつく後れ毛に色気を感じて、凛太郎は頬が熱くなるのを感じた。
このまま敵かもしれない少女と二人っきりでいるのはよくない。それ以上に、自分が赤くなっているのをさゆりに勘ぐられるのは嫌だった。
「じゃあ、僕はこれで……」
凛太郎はそそくさとその場を立ち去ろうとした。
「待って」
さゆりに呼び止められて、凛太郎は振り返る。さゆりは涼しげな一重まぶたを悲しそうにすがめていた。
「私の部屋でお茶でも飲んでいかない?
喉乾いてたんでしょ?」
結局、凛太郎はさゆりの誘いを拒みきれなかった。大人びた雰囲気を持つさゆりが
すがるように自分を見つめていたからである。
勾玉は人の心の弱い部分に取り憑くと、明は言っていた。さゆりが自分に悩み話でも打ち明けてくれたら、もしかして勾玉もさゆりから離れるかもしれないではないか。 もし、さゆりが何か自分にしてきたら、すぐに明に指令を出そう。
そう考えて、凛太郎はさゆりの部屋に招き入れられた。
さゆりの部屋は母屋ではなく、離れにあった。
「兄さんがうるさいから、ここを自分の部屋にすることにしたの。母屋の部屋を使っていた時は、私が夜更かししただけで、兄さん部屋に入ってきて、私に説教したものだったわ。明日学校があるんだから、早く寝ろって」
兄の口うるささをぼやくさゆりは、本当にごく普通の少女だった。今日のあの妖しい少女は、さゆりではないかもしれないと凛太郎は思い始めていた。
畳敷きの部屋には、学習机とオーディオセットなどがあり、少女らしいファンシーグッズがところどころに置かれている。
畳の上にはすでにふとんが敷かれていた。なんとなく見てはいけないものを見たような気がして、凛太郎は目をそらした。すると今度は、朱塗りの鏡台が視界に入る。螺鈿細工がほどこされた、美しいものだった。「それ、母さんが使っていたの」
凛太郎のまなざしに気づいて、さゆりは説明した。
「母さんが事故で亡くなってから、私がゆずりうけたのよ」
「ご、ごめん……」
「凛太郎くんが謝ることないわよ」
さゆりは凛太郎に、冷蔵庫から持ってきたオレンジジュースを渡しながら言った。
「もう三年前のことだもの。父さんと母さんのことはいい思い出になってるわ。みんな私のここにいるの。ねっ?」
さゆりはそう言って、凛太郎の手を自分の胸に押し当てた。真綿よりやわらかい感触が凛太郎の手に伝わる。
「わっ!」
凛太郎はあわてて手を離した。鼓動がまたたくまに早くなる。さゆりはふふっと笑った。
「ごめんなさいね、からかっちゃって。凛太郎くんって、とっても綺麗な男の子だから、つい」
「わ、悪ふざけはやめてくださいっ」
凛太郎はうわずった声で抗議した。さゆりはそれを見て、ふふっと笑う。
正直、悪い気はしなかった。凛太郎は明や鈴薙によって、男同士の交わりを経験させられている。だから、今ひとつ男としての自分に自信が持てない面があった。クラスメイトの女子生徒たちの中にも凛太郎に好意を持っているものはいる。
だが、彼女たちのアプローチは子供じみていて、色恋には鈍感な凛太郎には届いていないのだった。
さゆりは二歳年上の大人びた少女だ。そんなさゆりが、自分にモーションをかけているのは、悪い気はしないのである。
凛太郎ははやる鼓動を抑えるために、オレンジジュースをぐびぐびと飲み干した。
さゆりはその間に、鏡台のたんすから二つの櫛を取り出した。かなりの年代物だろう。象牙でできている。赤い櫛には太陽が、黒い櫛には月が彫り込まれていた。
「綺麗だなあ……」
つや光りする櫛に、凛太郎は思わず感嘆の声をあげた。さゆりは誇らしそうにその櫛を凛太郎に見せた。
「そう? これ、大津家に代々伝わる櫛なの。大津家の女は、これをいつも二つ持ち歩くことになっているの」
「どうして二つなんですか?」
凛太郎が素直な疑問を述べると、さゆりの顔が曇った。
「それは……ねえ、そんなことより、この櫛で私の髪を梳いてよ。自分じゃなかなかうまくできないの」
それじゃふだんはどうしているのか、と凛太郎は訊きたくなった。が、日本人形のような美少女に甘えられるのは悪い気はしなかった。
凛太郎はためらいながらも、さゆりから赤い櫛を受け取った。さゆりが鏡台に向かう。凛太郎は自分に背をむけたさゆりの髪を梳き始めた。背中まであるさゆりの髪は、夜の結晶のようだった。
さゆりの髪は触れると、ひんやりとして手触りが良かった。一本も櫛にひっかかってはこないしなやかさだ。鏡台の鏡ごしに見えるさゆりは、うっとりと目を閉じていた。
「私、他人に髪を梳いてもらうのって大好き。よく母さんにこうしてもらったわ。安心して、とっても落ち着くの」
「さゆりさんのお母さんも手入れのしがいがあったと思いますよ。さゆりさんの髪、こんなに綺麗なんだから」
凛太郎は手を動かしながら言った。さゆりの髪からはほのかに甘い香りが漂っている。
「私の髪って、そんなに綺麗?」
「ええ、本当に」
「じゃあ、他の部分は?」
さゆりは体ごと振り返って、凛太郎を見つめた。
その涼しげな双眸は、妖しく輝いていた。
「さ、さゆりさんはお綺麗だと思いますよ」
「どこが綺麗なの? 具体的に言ってちょうだい」
凛太郎は困惑した。さゆりの切れ長の目、さゆりの透き通る肌、そして胸のふくらみ。どれも綺麗だと言われれば綺麗だ。だが、自分は単に年上のさゆりにからかわれているだけかもしれない。
凛太郎はうつむいて、畳を見つめていた。 さゆりがクスッと笑う声が聞こえた。
「じゃあ、私が自分で綺麗だって思うところをあなたに教えてあげる」
いたずらっぽい声でさゆりは言った。突然の申し出に凛太郎は驚いて顔を上げる。 途端に、さゆりは凛太郎の右手首を握っていた。さゆりの手は、ひんやりとしていてやわらかかった。
「まずはこの肌。母さんに似て、色白なのよ。頬も薄い薔薇色で、綺麗でしょ?」
凛太郎はあやつり人形のようにうなずいた。それを見て、満足げに微笑むさゆりは妖精のように美しかった。
「それじゃあ、次は私の目。一重まぶただけど、ちっともはれぼったくないでしょ?父さんは私の顔が天女さまに似てるってよく言ってたわ。きっと将来美人になるって」
凛太郎はさゆりの黒光りする目にひきつけられた。さゆりの瞳の中に、戸惑っている自分がうつっていた。
「この唇はどう? 口紅もさしていないのに、真っ赤よ。それに、ほうら、やわらかいでしょ」
さゆりは凛太郎の手を自分の唇に押し当てた。湿った粘膜が凛太郎の手に触れる。
さすがにこれはまずい、と凛太郎は我に返った。おふざけだとしても、度が過ぎる。
「さゆりさん、離して……」
凛太郎は手を引っ込めようとしたが、さゆりは凛太郎の手をしっかりつかんで離さなかった。そのまま、胸のふくらみに押し当てる。
雲で作ったマシュマロの感触が、凛太郎の手に広がった。
凛太郎は鼓動の高鳴りを感じた。おそらく自分は真っ赤になっているだろう。
さゆりは凛太郎を魅入るように見据える。 真っ赤な唇は濡れて輝いていた。
「あなた、ひょっとして女の子のここに触ったの初めて? 綺麗な顔してるから、ひょっとして経験済みかと思ったけど……」
さゆりの言葉は図星だった。凛太郎はさゆりから目をそらして唇を噛む。
「ふうん……やっぱりそうなんだ。でも恥ずかしがることないのよーーーーねえ、私と寝てみない? 私の綺麗なところ、まだまだあるのよ」
かすれた声でそう言って、さゆりは凛太郎に唇を近づけてきた。さゆりの吐息が凛太郎にかかる。凛太郎はそれをよけようとした瞬間、バランスを崩した。さゆりに押し倒される格好になる。
長い黒髪が凛太郎の肩に、滝のように落ちた。うっとりと目をとじたさゆりの睫毛長かった。
さゆりの甘い匂いにつつまれた凛太郎はしばし夢心地になった。
だが。
「やめてください、さゆりさん!」
凛太郎はさゆりを突き飛ばした。
さゆりは畳の上に投げ出された格好になって、悲鳴をあげた。
「あなた、私が嫌いなの?」
腕で体をかばうようにしながら、さゆりが非難がましく言う。その瞳が傷ついた色をしているのを見て、凛太郎の気持ちはゆらいだ。
だが、ここでひるんではいけないと思い直す。
「いいえ。でも、あなたにはこういうことはしてほしくないんです」
「どうして?」
「まず第一に、僕たちはまだ出会ったばかりだ。それに、あなたはこんなことをするべき人じゃない。もっと自分を大切にしてください」
さゆりを説得するために、凛太郎は目に力を入れて、さゆりを見つめる。さゆりの瞳がうるんだ。
さゆりは憎々しげに言った。
「何よ。もったいぶって説教しちゃって。私、知ってるわよ。あなたが清純そうな顔してるくせに、ものすごい淫乱だってことを」
凛太郎の胸はカッと熱くなり、次に冷たくなった。
なぜさゆりがこんなことを言い出すのか。
やはり、勾玉の仕業なのだろうか。
女性にこんなののしりを受けたのは、乃梨子に続いて二度目だった。
それとも、毎夜のごとく鬼に抱かれている自分は、存在だけで淫蕩なのだろうか。
呆然と考えをめぐらす凛太郎に、さゆりはトゲのある笑みを浮かべた。
「ふうん……反論もしないんだ。やっぱりあなた、淫乱なのね」
「ち、違います……」
それだけしか言えなかった。萎縮して、声が喉にひっかかる。
凛太郎は立ち上がった。
この部屋から出よう。それだけ思った。
ドアから出て行く直前に、さゆりが叫んだ。
「あんたに私を説教できる資格なんてないのよっ! だれも私に偉そうに言える権利なんてないんだからっ!」
翌朝まで、凛太郎はまんじりともせず起きていた。
「どうした、凛太郎? 目の下にクマできてんぞ。べつに俺ともヤってねえのによォ」 明はたわけたことを言いつつも心配していたが、凛太郎は自分が眠れなかったわけを正直に言うわけにはいかなかった。
朝食を取る時、さゆりとは顔を合わせた。 通学するためにセーラー服に着替えたさゆりは、昨夜のことなどおくびにも出さず凛太郎に挨拶だけしてきた。
黙々とみそ汁をすするさゆりを見て、凛太郎は「女の子って強いなあ」と思った。凛太郎は食欲が出ず、明にすべて朝食をあげた。
秀信と祥の視線を感じたような気がしたが、気のせいだろう。
午前中から、さっそく勾玉探索は始まった。四人は二手のチームに分かれることになった。凛太郎と秀信、祥と明の組み合わせである。
「どうして俺が凛太郎ちゃんとペアじゃないんだよ?」
「私は凛太郎の巫子としての能力が必要なのだ。明殿は鬼だから、勾玉を感知する力はもともと備わっているであろう? 祥を導いてやってほしい」
秀信はそう明を説得した。
「そう言って、俺と凛太郎の愛のきずなを引き離そうって気だなっ? この陰険エロ教師め!」
「明、先生のおっしゃることを聞いて」
凛太郎にそう指令されて、明はすごすごとひきさがった。
「明様。私とともに参りましょう」
祥はいやがる明の腕を取って、大津家から出て行った。
凛太郎は明がかわいそうな気もしたが、秀信と二人っきりで外出できるのは嬉しかった。考えてみれば、秀信と差し向かいで行動をともにしたことはなかったのである。 それに昨夜のさゆりとの一件で、心身共に疲れていたので、頼りがいのある秀信と行動をともにしたかった。
「では、私たちも行くとするか、凛太郎」
「はい、先生!」
凛太郎は元気にそう答えて、秀信の跡について行った。
そんな凛太郎の背中を、文彦とさゆりがじっと見ていたのを凛太郎は知らない。
秀信は村のあちこちに凛太郎を連れていった。
そのたびに凛太郎に何か邪気は感じるか、と問うたが、凛太郎は首を振るばかりだった。村は駅前以外はかなりさびれていて、老人が多く、子供の姿はあまり見かけなかった。この辺りは、過疎化が進んでいるのだと秀信は言った。
秀信いわく、村を囲む山は轟山と言って古くからある霊山だそうだ。たしかに鬱蒼とした山はどことなく神秘的だと凛太郎は思った。
日差しがそろそろかげり出したころ。
凛太郎は奇妙な胸騒ぎを感じた。
「どうした、凛太郎?」
頭を抱えて立ち止まる凛太郎に、秀信は期待と心配をこめて訊ねた。
凛太郎は、頭の中に響くその声に耳を澄ましながら答える。
「何か、聞こえるんです……女の子の悲鳴が。この声、どこかで聞いたような……」「どの方角から聞こえる? できるかぎりでいいから答えてみろ」
秀信は長身をかがめて、凛太郎の肩に手をかけた。凛太郎は意識を集中しながら、声のする方向を指さす。
凛太郎が指した方向は、轟山だった。
「あの霊山か……鈴薙殿は、あそこにおわしたことがあったのかもしれないな」
秀信は不敵に笑った。それから凛太郎は声のする方角に向かって、秀信とともに移動した。足を向けるにつれ、その声はより大きくなっていった。
十数分後。
凛太郎と秀信は山のふもとにたどりついていた。
すると、今度ははっきりと少女の叫び声が聞こえた。その少女の声は、さゆりのものだった。
「やめ……よしなさいよ!」
さゆりは見るからに柄の悪そうな詰め襟姿の男子生徒たちに、両腕を取られていた。 さゆりの細い顎先を、リーダー格らしい大柄の男が指先で持ち上げていた。
「さゆりさんっ」
凛太郎はそう叫んで、さゆりを助けに行こうとしたが、秀信に肩を掴まれた。
「先生、どうして……」
「今しばらくは様子を見よう。お前に思念を送ることができたのだから、さゆりさんは普通の娘ではない」
秀信は凛太郎にそうささやいた。凛太郎はさゆりに何かあってからでは遅いと抗議したかった。
だが、秀信の言うことなのでしぶしぶ黙った。
男はさゆりにキスしようとして、唾を吹きかけられた。さゆりは気丈に男をにらみつける。
「ずいぶんお高くとまってるこったな。先祖代々の売春婦のくせに」
男は下卑た声で笑った。
(売春婦、って……。さゆりさんの家系は民間陰陽師じゃ……)
凛太郎はどうにも不可解だった。秀信に解答を求めるように視線を送る。秀信はただ静かなまなざしで、さゆりたちのやりとりを見守っていた。
いきなり乾いた音がした。さゆりが男を平手打ちしたのだ。
「いってぇ……何するんだ、このアマ!」「いくら大金積まれたって、誰があんたなんかと!」
男三人に囲まれているというのに、さゆりは堂々としていた。怒気で赤く染まったさゆりの顔は戦いの女神のようだと凛太郎は思った。
男はさゆりの迫力に一瞬ひるんだが、すぐに狡猾な笑みを浮かべた。
「今のお前には、客を選ぶ権利なんかねえんだよっ!」
そう言って、さゆりのセーラー服の上着を引き裂いた。さゆりの白いブラジャーがむき出しになる。
「さゆりさんっ!」
ついにたまらなくなって、凛太郎がさゆりを助けだそうとした時。
秀信が、さゆりの制服を引き裂いた男の手首をねじりあげていた。
「な、何だ、てめえっ」
男は苦痛に顔をしかめながら、さゆりを押さえつけていた二人に指示を下す。
「おめーら、やっちまえ!」
二人の男は一斉に秀信に飛びかかった。 秀信は表情も変えずに、二人の男に一気に回し蹴りを決めた。ほとんど動きも見えないようなすさまじい早さだった。
その隙に、凛太郎はさゆりに駆け寄り、自分が着ていたジャケットをさゆりのむきだしになった肩にかける。
「あんた、どうしてここに……」
さゆりが安堵と羞恥が入り交じったまなざしを凛太郎に
「う、嘘だろ……」
リーダー格の男は、子分がやられるのを見て愕然とした。
秀信は眼鏡のふちを上げてから、冷たい微笑を浮かべる。
「お前、さっき、この娘のことを売春婦だと言っただろう?」
「て、てめえ、人の話を盗み聞きしてやがったのかっ」
「お前が品位のない大声でわめくから、嫌でも聞こえたのだ」
秀信は低く笑った。男はありったけの力をこめてもがいていたが、秀信はビクともしない。地面に伏した子分たちは、微動だにしなかった。
(せ、先生、強い……)
凛太郎は羨望と尊敬を込めて、秀信を見やる。さゆりまでもが瞠目していた。
秀信は男に向かって、静かに語りだした。
「お前に教えてやろう。この娘の家系のことを」
「お前はさきほど娘の家が代々続く売春婦だと言ったな」
「ああ、言ったさ。それがどうしたんだ……痛ッ!」
秀信に手首をふたたびねじられて、男は顔をしかめた。
「実にあさましく、浅はかな考えだ。この娘の家系は、代々、桂女だったのだ」
かつらめ、という耳慣れない単語に凛太郎は戸惑う。さゆりは胸元をかばうようにしながら、秀信を値踏みするようなきつい視線を投げかけていた。
秀信は静かに言葉を続ける。合間合間に男はひどく抵抗していたが、秀信の長身はびくともしなかった。
「桂女とは乱世において、自らの芸で人の心をなごませる役目を果たした女性たちのことだ。占いに秀で、また美しかったから彼女たちを求めるもののふも多かったという」
「け、結局体売ってたんじゃねえか!」
言いつのる男を、秀信は表情ひとつ変えずに締め上げた。
「痛ェーーーーッ」
男の絶叫に驚いて、山の木々から鳥たちが一斉に飛び立っていく。
「体を売っていたのではない。自らの肉体を通して、武士たちの魂を慰撫していたのだ。心と体で、人に安らぎを与えるとは深淵なる優しさだとは思わないか?」
秀信はそこで言葉を切って、男の顔をのぞきこんだ。脂汗を額ににじませた男は機械人形のようにこくこくとうなずく。秀信はにやりと笑った。
「彼女たちがなぐさめるのは生者だけではなかった。戦死した者をとむらい、斬られた首の髪を櫛で梳いて、その霊を弔ったのだ。だから桂女は自分のためと、死者のために二本の櫛を持ったと言われる」
秀信の言葉に、凛太郎は息をのんだ。反射的にさゆりに目を向ける。昨夜さゆりが持っていた二本の美しい櫛は、もしかしてその櫛なのではないか。
さゆりは凛太郎のまなざしなど気づかぬ風情で、風にそよぐ木々を見つめていた。さゆりの黒髪は生き物のように空を舞っていた。
「だから貴様に、この少女を馬鹿にする資格などないーーーーわかったか?」
意地を張って、沈黙を守る男の腕を秀信はいっそうねじりあげた。
男が絶叫する。
「わ、わかったよっ!」
「では、さっさとここを立ち去れ。この娘には二度と手出しをするなよ」
秀信が男を解放すると、男はよろめきながら去っていった。あとからよろよろと男の手下たちもついていく。
「大事はないか?」
「他愛もないな」
秀信はパンパン、と手を払ってから苦笑した。
少し心配げにさゆりに歩み寄る。
「大事はないか?」
さゆりは両腕で体を抱くようにしてうつむいていた。
肩にかけられた凛太郎のジャケットから、白い胸がこぼれそうになるのを必死に手でかばっている様が痛々しい。
さゆりの沈黙を男たちへの恐怖ととらえたのだろうか。秀信が安心させるように言った。
「あの男たちが二度と君に手出しできないよう、私が手を回しておく。また、君が二度とこんな目に遭わないようにーーーー」
「あなた、隠してるでしょう?」
不意に顔を上げて、さゆりが言った。黒髪にふちどられた白い顔は怒りとも悲しみともつかない複雑な色を浮かべていた。
秀信は眼鏡の奥の双眸を光らせて、さゆりを見つめていた。
「何のことだ?」
「とぼけないでよ。あなたの母親がーーーー弓削家の側室とやらになった女が、私の伯母さんだってことよ!」
「えっ?」
凛太郎は思わず驚きの声を上げた。たしかにさゆりの属する大津家は、秀信の弓削家と親交があると聞いていたが、秀信の
母親が大津家のものだとは知らなかった。さゆりの言うことが本当だとすれば、さゆりは秀信や晴信の従姉妹だということになる。
「そうでしょ、驚きでしょ?」
さゆりは凛太郎に皮肉っぽい笑いを向けた。
「この人、私や兄さんにまるで他人行儀な態度を取っていたものね。いままでうちに遊びに来たり、私たちを弓削の屋敷に招いてくれたこともなかったしーーーー母さん、本当に伯母さんに会いたがっていたわ。たった一人の姉なんだからって」
さゆりは悲しそうに目をすがめた。だがすぐにキッと秀信をにらみつける。
「けど、あなたたちは伯母さんを里帰りさせることも、親族と会わせることもしなかった。私は小さかったから、母さんの話でしか知らないけど、伯母さん、ずいぶん若死だったんですってね。それに急死したんでしょう? まったく何をされたかわかったもんじゃないわ。だって、弓削家って代々、時の権力者の陰謀に手を貸してばかりいたんでしょ? 伯母さんも呪い殺されたのかもしれないわね」
「それは君の勘違いだな」
秀信は眼鏡のふちを上げながら、穏やかな笑みをたたえて言った。さゆりは秀信の余裕たっぷりの態度にいらだったまなざしを浮かべたが、負けじと皮肉っぽく言う。
「弓削家の実質的頭首ともなれば、本当にしらばっくれるのもお得意ね。あなた、弟に巫子をやらせて、ここまでの地位にのしあがったんでしょ? あなたの弟は、私の伯母さんゆずりで大した霊力の持ち主だって言うじゃない。あなたのお父さんはそれが目当てで私の伯母さんを強引にめとったんだものね。本当はいやしい田舎の桂女の一族なんて軽蔑してるくせに」
さゆりはフフン、と秀信をねめつけた。
だが、自分の挑発に秀信が乗ってこないのを見ると、たちまち切れ長のひとみがつり上がった。
「家まで送ろう」
秀信がさゆりに手を貸して立ち上がらせようとすると、さゆりは秀信の秀麗な面を平手打ちした。
乾いた音が、林にこだまする。
「さゆりさん!」
凛太郎が声をかけたころには、さゆりは一目散に林の奥へ駆け出していた。
「先生、大丈夫ですか?」
凛太郎は頬を少し腫らした秀信に尋ねる。
「女性に殴られたのは久しぶりだな」
秀信は涼しげに微笑んでいた。その顔には怒りも悲しみも浮かんでいなかった。秀信はいつもの冷静な秀信だった。
秀信は凛太郎に微笑みかけながら言った。
「今、あの娘が語ったことは事実だ」
「えっ?」
不意に水を向けられて、凛太郎はとまどう。
秀信は凛太郎の狼狽ぶりがおかしかったのだろうか。乾いた声を上げて笑った。
「私を軽蔑してもいいのだぞ、凛太郎。私はずるい男だ」
「違います! 先生はとってもいい人です!」
凛太郎は無意識のうちに即答していた。
秀信は鋭い双眸を見開いて、驚いた表情をする。
木立が二人の間を吹き抜けた。
自分を卑下する秀信が悲しくて、凛太郎は胸の前に拳を握って、叫んでいた。
「先生はすばらしい人です! だから、そんなこと言わないで……」
必死にいいつのる凛太郎の頭を秀信はくしゃくしゃと撫でた。意外な展開に、凛太郎はとまどいつつも赤くなる。
「お前は本当に純粋だな、凛太郎。だまされないように注意した方がいいぞ」
秀信は優しくて悲しい目をして言った。凛太郎はふるふるとかぶりをふる。
「大丈夫です! 僕、こう見えてしっかりしてますから! それに、先生は僕を絶対だましたりなさらない方です」
凛太郎の言葉に秀信は瞠目し、やがて目を細めた。
その目は、凛太郎をすりぬけて、どこか遠くを見ていた。
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