しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 85~91


 桜吹雪の中、明子は微笑んでいた。
 両手を広げて、この世に苦しみや悲しみなど何もないというように。
 公園の時計は、午後八時をまわっていた。
 土曜日の夜は、絶好の花見びよりだった。辺りにはござの上で、宴会をくりひろげる会社員や学生達がひしめいている。
 酒を飲んで騒ぐ彼らは、秀信にとっては醜態もいいところだったが、明子はそれすらもきらきらと大きな目を輝かせて見つめた。美しい少女に微笑みかけられ、相好をくずすものも少なくない。そのたびに秀信は悪い虫がついてはいけないと、明子の手をひっぱって彼らの見えないところへ連れて行った。ふだん祭祀に閉じこめられている明子は、人を見るだけでめずらしく、そして楽しい気分になるのだという。
 秀信にとっては明子のその無邪気さがうらやましかった。
 春風がふわっと吹いた。明子の肩で切りそろえられた髪が、扇のようにはためく。
 十三歳の秀信は、明子のその髪型がただのボブカットやおかっぱ頭などではないことをすでに知っていた。それはかむろ頭と呼ばれる代物だった。巫子として生きることを定められた明子が、これから先、神と人の仲介者として生きる証の髪型。
 そのつややかな黒髪を腰まで伸ばしたらさぞかし明子は女らしいだろうに、と秀信はひそかに思ってみたりする。
 今夜、お忍びで秀信を連れて屋敷を出た明子は、白い木綿のワンピースを身につけていた。それは明子の姉の洋服たんすからこっそり秀信が明子に命じられて拝借したものだった。なんの変哲もない部屋着だったが、明子が着るとまばゆい輝きをそのワンピースは放った。
「どうしてあなたはそんな悲しそうな表情をしているの? こんなに桜は綺麗なのに」
 秀信の顔を、明子は心配そうにのぞきこんだ。
 中学一年生にしてはひどく大人びている秀信を、明子はいつも「すまし屋さん」と言ってからかっている。実際、今年十八になる明子より、十三歳の秀信は落ち着いていた。
 それは明子が巫女として生き、外界から遮断されているのに対して、秀信は妾腹の子としてひどくいじめられてきたせいかもしれないけれど。
 秀信とその母を、弓削家の中で暖かく接しているのは、明子だけだった。父である弓削家の頭首も、ほとんど秀信たちにはしらぬ顔を決め込んでいる。そのくせ、父は秀信が知らないと思って、時折思い出したかのように体の弱い母を一晩かけてさいなむのだ。強い霊力のある子を産め、そのためにお前を娶ったのだ、と言って。
 秀信は母に似た秀麗な面と、弓削家随一の優秀な頭脳には恵まれたが、霊力は今ひとつだった。秀信は母と自分を守るため、死ぬ思いをして陰陽師としての修行を続けている。
 陰陽師は、ある程度の才能と、抜群の頭脳、そして知識があればなれるやもしれぬ。
 だが、神と交信し、未来を読む巫子は生まれもっての素質がないと決してなれないのだ。
 今のところ弓削家で巫子として認められているのは、明子だけだった。
 秀信は明子の白くはかない、やさしい顔を見ながら思う。
 もし明子が巫子でなければ、自分はここで明子にくちづけているのに。
 それを正直に明子に告げるわけにも行かず、秀信は小さく笑いながら答える。
「僕は、満開の桜を見ていると不安になってくるんです」
「どうして?」
 明子は目を丸くした。秀信はなぜ自分がとっさにそんなことを言ってしまったのだろうと考えてから、正直な言葉を口にした。
 星空の下、明子の体は透き通ってしまいそうなほど、華奢ではかなかった。それはどこかあの桜の樹々と似ている。
「……咲き誇っている桜は、これから後散ってしまうだけだから。こんなに美しいものはこの世にはふさわしくない。だからすぐなくなってしまうんです。それがどうにも悲しく思えて」
 我ながら感傷的だな、と言い終えてから秀信は自嘲した。
 明子は美しい眉を上げて、黙って秀信を見つめている。明子にもあきれられたか、と秀信が思った時。
 明子はたおやかな両手を広げて、秀信をだきしめていた。
 明子の甘酸っぱい体臭につつまれて、秀信は息を詰める。明子のやわらかな胸の感触があたたかく秀信をつつんだ。
「おおっ、ラブシーンかっ?」
 どこぞの酔っぱらいが騒ぎ立てる声がしたが、明子はまったく動じる気配がなかった。秀信は突然の抱擁を気恥ずかしく思いながらも、このまま時が止まってしまえばいいと思った。そういえば秀信は、この十三年間、こうやって誰かに強く抱かれた記憶がない。
 しばらくして、明子は秀信から体を離して言った。
「秀信くん、そんな悲しいこと言わないで」
 どんな桜の花より、明子は美しい。そして清らかだ。だから今にもここからいなくなってしまいそうだ。それがたまらなく秀信をおののかせる。
「この世界はそんなにつらくて嫌なところじゃないわ。神様が私たちを守ってくださっているのだもの。たしかに人一倍やさしくて、感じやすいあなたにはいろいろと苦しいこともあるだろうけど……」
「明子さんは本当に純粋ですね」
 秀信の口は、ひとりでに動き出していた。ふだん自分の不利にならぬよう、最低限の言葉しか発しない主義だったはずなのに、秀信は本音を語り出していた。明子もそれに驚いたのだろう。愛らしい唇が小さく開いている。
「俺にだまされないように注意した方がいいですよ。俺なんて、ずるくて小心者で、ろくな人間ではないんだから」
 明子の前で、初めて「俺」と言った。学校の悪友たちや、手下の前では「俺」だが、弓削家や目上の大人達の前では、秀信はいつも「僕」が一人称だったのだ。それに気づいて、秀信は少し焦った。明子に見せてはいけなかった自分の暗黒面をさらしてしまったような気がした。
 けれど明子は薄く微笑んだだけだった。
 明子はゆっくりとかぶりを振った。黒髪がやわらかく宙を舞う。
「大丈夫よ。私はこう見えてしっかりしているから。あなたは、絶対に私をだましたりはしない子だわ」
 明子に微笑みかけられて、秀信は心がふわっとなるのを感じた。
 常に計算して立ち回らなければ生きていけなかった、鎧をまとったこころが少しずつほぐれていく。
「さあ、いきましょう。桜並木はまだまだ続くのだから」
 明子はそう言って、秀信の手を取って歩き出した。
 秀信はその手をしっかりとつなぎ返して、明子とともに夜桜の下を歩んでいった。
 星明かりは、限りなく澄んでふたりをつつんでいた。
 その時だった。
「おい、お前!」
 低い恫喝の声が、二人を呼び止めた。
二人の前に立ちふさがったのは、学生風の若い男たちだった。片方は金髪で、もう一方はスキンヘッドだった。二人とも酒焼けした顔をにやつかせている。
「何でございましょう?」
 明子は悪びれずに尋ねた。途端に男たちが下卑た笑いを浮かべる。まずい、と内心秀信は舌打ちした。さゆりは酔っぱらいにからまれるなどという状況を理解していないのだ。
「俺たちの酒につきあえよ、そんなガキ相手にしてねえでよォ」
 スキンヘッドの男がさゆりに歩み寄った。秀信はとっさにさゆりを背中にかばう。
「何だよ、坊主? お子様は家に帰って寝てろよ」
「そうだぜ、お前にこの美人なネエちゃんはもったいなさすぎる」
 男たちはさも嬉しそうに、顔を見合わせて笑い合った。秀信は周囲を見回した。他の花見客は、秀信たちが酔っぱらいにからまれているのに注目していた。気の毒にねえ、などと言い合っている者もいる。
 だが、だれもがみな見て見ぬふりを決め込んでいた。それも仕方あるまい、と秀信は胸の内で苦笑する。しょせん、世の中などこういうところなのだ。明子の言う神などこの世にはいないのだ。だから秀信は明子を守らねばならない。
 明子はきょとんとした顔で、男たちを見つめ返していた。自分たちにおびえた様子を見せない明子に、男たちはよけい興味を抱いたらしい。ニヤつきながら明子の胸元や尻に遠慮ない視線を送っている。
 秀信は計算した。十三歳の秀信の体力では、この男たちに素手では勝てない。
 だが、どうにか使いこなせるようになった術を用いれば、この場を乗り切れるかもしれない。幸い、懐には何枚か札が忍ばせてある。
 しかし、衆目というものがある。もし自分がここで術を使えば、さぞかし人々は注目するだろう。そして、それが弓削家のものの耳に入れば、秀信自身が、そしてこっそり屋敷を抜け出した明子の立場はまずいものになるのだ。
 どうにかしてこの場を納める方法はないものか。
 秀信がそう考えている間に、スキンヘッドの男が秀信を押しのけて、明子の細い肩をつかもうとした。
「うっ」
 男に突き飛ばされて、秀信はよろめいた。
 その時、乾いた音がした。
 明子が男を平手打ちしたのだ。まずい、と秀信が思った時にはもう遅かった。
 明子は毅然として手を上げたまま、男に言った。
「あなた、失礼ではないですか。秀信くんになんということをするの。年下の者に乱暴はいけません」
「なんだとォ、このアマ!」
 男は頬を押さえて、明子にすごんだ。明子は平然と男を見つめ返す。
「非礼をこの子にわびなさい」
「僕はいいんです、明子様!」
 秀信は必死に叫んだ。
「良くはありません。あなたは不当な扱いを受けたのですから」
 明子は秀信に微笑みかける。ああ、この女は本当にけがれを知らないのだ、と秀信は思う。だから、この世にいつも正論が通るわけではないということを知らない。
「理屈こねんじゃねえ、このバカ女!」
 スキンヘッドはいきり立った。
「ごめんなさい! この人はよく世間のことを知らないんです、だから……」
「あなたが謝る理由がどこにあるというの、秀信くん」
 スキンヘッドに追いすがるようにして、頭を下げる秀信に明子は言う。その白い顔には一点の迷いもなかった。
 それまで腕組みして事態を見守っていた金髪の男が、大股で明子に歩み寄った。肩をゆらして歩く男の姿に、秀信はいよいよやっかいな事態になった、と思う。秀信の予想通りに金髪は巻き舌でまくしたて始めた。
「俺らはよォ、あんたとちょっと一杯やりてェって言っただけだろ? それをどうしてそうつんけんするんだよ?」
「それはあなた方がこの子に狼藉を働いたからです。そんな方におつきあいするつもりはありません」
「ふざけんじゃねえぞ、てめェ!」
 金髪が明子に手を振り上げようとした時、秀信は男の脚にすがりついた。
「申し訳ありません! ですから、明子様に手出しはなさらないでください! お願いです!」
「およしなさい、あなたが謝ることはないと言ったでしょう、秀信くん!」
 明子の制止を無視して、秀信は金髪にしがみつきながらわびつづける。
「お願いします、どうか、どうか……」
 上目遣いで男を見る。金髪男は自分の優位が嬉しくてたまらないというようにニヤついていた。さぞかし秀信をプライドのない人間だと思っていることだろう。
 だが、そんなことはどうでもいいのだ。不当に頭を下げることなら慣れている。妾腹の子、いやしい生まれの女の子。いつだって秀信はさげすまれ続けていた。秀信を人間扱いしてくれるのは母と、そしてこの明子だけなのだ。この美しく、優しく、そしてはかない女を守るためなら自分は何だってする。そう誓いながら、秀信は明子に目を向けた。明子は胸の前に手を当てて、大きな瞳をゆらがせていた。
 なぜあなたがそんなことを、とその瞳は秀信に問いかけていた。明子にとっては今の秀信はさぞや理解不能な行動を取る、卑屈な男に見えるだろう。それでもいい。それでも秀信は明子を守りたいのだ。
「ごめんですめば警察いらねえんだよォ、てめえ!」
 スキンヘッドが秀信に怒鳴った。秀信を殴りつけようとする男を、金髪は制した。
 金髪は芝居がかかった仕草で、自分に頭を下げ続ける秀信に言った。
「お前よォ、許してやらねえこともねえぜ」
「本当ですか?」
 秀信はほっとして顔を上げた。だが、男の意地の悪いニヤついた顔を見て、頬をこわばらせる。
「ああ。ここで土下座してみせたらな」
 スキンヘッドが高笑いした。
「そりゃあいい! そりゃあおもしれえ考えだぜ!」
「秀信くん、およしなさい! こんな人たちの言うことを聞く必要はないわ!」
 秀信に駆け寄ろうとする明子を、スキンヘッドが羽交い締めにする。
「明子さまに手を出すな!」
 秀信は叫んだ。明子は男に強く肩をつかまれて、苦痛に顔をゆがめていた。
「あの姉ちゃんを助けたいなら、さっさとお前が土下座しな!」
 金髪男が腕組みして言う。
 秀信は膝をついた。アスファルトの地面は氷のように冷たい。
「へっ、いい格好だぜ!」
「秀信くん、やめて!」
 スキンヘッドの声と、明子の嘆願が聞こえる。
 秀信は土下座したまま言った。
「どうか、許してください」
「誰が許すかよ!」
 金髪男の声が聞こえた。と思ったら、背中に鈍い痛みを感じた。金髪男が秀信を蹴りつけたのだ。
「秀信くん!」
 明子の悲鳴が聞こえる。秀信は男を見上げて、背中に広がる鈍痛をこらえた。ここで自分さえ我慢すればいいのだ。波風を立てたくない。元はと言えば、明子のそぞろ歩きに荷担した自分が悪かった。
「何ガンつけてんだよ! 生意気なガキめが!」
 金髪が蹴り脚をふたたび上げた。
「やめてー!」
 明子が叫ぶ。秀信はきつく目を閉じた。
 次の瞬間。
 金髪男の体は、宙に舞っていた。
秀信は驚いて顔を上げた。
 今は地面に突っ伏している金髪男が立っていたそこには、見知らぬ男が拳をつきあげて立っていた。詰め襟の学生服の襟を開けたまま着ている。そのややだらしない着こなしと精悍な顔立ちが堂々としたいでたちを醸し出していた。秀信はかつて古い小説で読んだことのある「バンカラ」という言葉は、こういう男のことを言うのだろうとぼんやり考えた。「坊主、大丈夫か?」
 男はおおらかそうな笑顔を秀信に向けた。生き生きとした光を放つ双眸が、人なつっこそうに細められる。これほど陰のない笑顔を秀信は見たことがなかった。
「後ろです!」
 明子の声が聞こえた。男は驚くべき反射神経で振り返り、それまで明子をはがいじめにしていたスキンヘッドの不意打ちをすんでのところでかわした。
「あらよっと!」
 男はスキンヘッドの腹に拳をたたきこんだ。スキンヘッドは低くうめいて、地面に倒れ込む。
 パンパン、と両手をはたきながら男は言った。
「おめえらよォ、ケンカ売るなら女子供なんか狙うなよ。俺みてえな強くたくましい男を狙え! なんつってな!」
 男は短く刈り上げた頭に手を当てて豪快に笑う。
「助けていただいて、ありがとうございます」
 秀信は立ちあがって男に礼を言った。
 その時気づいた。
 明子が頬を朱色に染めて、打たれたように男を見つめていることを。甘い微熱を帯びた瞳だった。こんな瞳をする明子を秀信は見たことがなかった。
 秀信の胸はじくり、と痛んだ。
「あなた、お名前は?」
 明子は尋ねた。いつもははきはきとものを言う少女なのに、今は声がうわずっている。
「俺かい? 俺は……」
 男は明子を振り返った。二人の視線が交わり合う。
 夜風が吹いて、桜吹雪が二人の間を流れる。
”A boy meets a girl”
 英語の授業で習った例文が秀信の頭に去来した。
 秀信は明子とこの男の間に割って入って、二人の出会いをなかったことにしてやりたかった。
 けれど実際はそんなこともできず、ただ二人を見つめていることしかできない。
 どちらからともなく二人は頬を赤くして微笑み合い、そしてうつむいた。
「俺は、清宮伸一郎。この近所にある清宮神社っていうちっせえ神社の息子だ。あんたは?」
「私は……私は弓削明子。明子と申します」
 二人は互いに知ったばかりの互いの名を、大切な約束のようにつぶやいた。
 秀信は冷え冷えとした気持ちで、未来の恋人たちを見つめる。
 もしあの時、秀信が明子にくちづけていたらどうなっていただろう。
 もしあの時、秀信がチンピラたちに躊躇せずなぐりかかっていけたら。
 明子は、この伸一郎という男と出会わなかったかもしれない。秀信に振り向いてくれたかもしれない。
 なぜ秀信はそれができなかったのか。
 自分が弱いからだ、と秀信は思った。自分は弱く卑小な存在だから、思うがままに振る舞い、明子を正々堂々と守ることができなかったのだ。
 十三歳の秀信は胸に誓う。
 ならば自分は強くなり、望むものを手に入れられる人間になろう、と。
 秀信は闇に墜ちていく自分にまだ気づいては、いない。

あの後しばらくして、明子の託宣はことごとくはずれるようになった。一族のものは明子に何があったのかと不思議がったが、秀信だけはその理由をよく知っていた。恋をした巫子が霊力を保てるわけがないのだ。だから巫子は外界と接触を断つように育てられる。
 明子は一族の目を盗んで、清宮伸一郎を逢瀬を続けた。
 霊力が下がるのと反比例して、明子はめきめきと女らしくなり、美しくなった。秀信はそのころには明子を見るのが苦しくなった。明子の生き生きとした美しさは恋のためであると知っていたからだ。
 そのころには一族も、明子が誰かに恋いこがれていると感づいていた。
 だが、誰も明子をとがめようとしなかった。理由は晴信だった。
 そのころ晴信はまだ幼子だったが、霊力はずば抜けたものがあった。弓削一族は、明子の代わりに晴信を巫子に据えようとしていたのだ。
 同時にそれは秀信の少年期の終わりだった。
 妾腹の子である晴信が巫子になることに対する風当たりは強かった。秀信はさんざん母が親族たちによっていじめられるのを見てきた。あどけない晴信を守ってやらねば。
 秀信はそのためにコネクションを作ることにした。
 少年の秀信が持っていた武器。
 それは自らの肉体だった。
 以前から秀信に言い寄ってくる政治家や、陰陽師たちはいた。
 秀信は、明子への思慕もあってそれらに気づかないふりをしていた。強引に体を奪われそうになって、泣きそうになりながら逃げ出したこともある。
 けれど、今や明子は伸一郎のものとなった。それに晴信がいる。
 秀信はかけられる誘いにすべてのった。有力者は男女問わずすべて寝た。利用できるものはすべて利用した。
 死にたくなるほどの屈辱も一度や二度ではなかった。だが、力を手に入れられるためなら代償は必要なのだ。自分にそう言い聞かせた。
 その間に陰陽師としての修行は怠らなかった。体で作ったコネのおかげで、陰陽師たちはさまざまな秘法を秀信に授けてくれた。
 ある夜、明子が秀信の部屋をこっそりと訪れた。明子を避け続けていた秀信は、久々に見る明子を目が醒めるような思いで見つめた。さなぎが蝶になるように、明子は少女から女性になっていた。
 すでに、乙女ではない。
 性を知っていた秀信は直感した。
「秀信くん、少しの間にずいぶん大きくなったわね。男らしくなったし」
 秀信のベッドに腰をおろして語る明子の言葉には、どことなくとまどいがあった。自分が数々の男女と枕を交わしていることを明子も噂で知っているのかもしれない。
「育ち盛りですから。明子さまもずいぶんと女らしくなられて。恋の力でしょうか」
 秀信は薄く笑いながら言った。秀信の棘をたっぷりと含んだ言葉に、明子の大きな目が見開かれる。
「そうなの! 人を好きになるって本当に素敵よ」
 明子は頬を桜色に染めながら叫ぶように言った。その陰のない声に、秀信は毒気を抜かれて明子を見つめる。明子は頬に手を当てて、ふふっと笑った。その時、秀信は明子の髪が、肩近くまで伸びていることに気づいた。かむろ頭をやめることは巫子としては厳禁なはずだ。侍女たちが明子の髪は欠かさず切りそろえているはずだった。それがなされていないということは、明子が巫子としていよいよ見放されているということだった。
 明子は秀信の渋面にも気づかず、瞳をうるませて語り続ける
「その人に触れられただけで、胸がつぅんとして、体が溶けていくの。私はきっとこの人と会うために生まれてきたんだって心の底から思える。だからね、神様はいるのよ。私とあの人をめぐりあわせてくれたんだから」
「ーーーー神の声がもう聞こえなくなったっていうのに?」
 秀信は訊ねた。自分でも冷たい声だと思った。
明子は大きな目をすがめた。悲しいのか、嬉しいのか。どちらともとれる色を目に浮かべていた。その瞳で見つめられて、秀信は思わず息を詰めた。以前感じた胸の高鳴りとは違う、別の感情。それは崇高なものへの畏れだった。今の明子は、巫子であった時よりも神々しかった。
「たしかにそうかもね。私はもう神懸かりできなくなってしまった。けれどね、以前より近いところに神様を感じるの。それは、ここよ」
 明子はつと秀信の手を取って、自分の胸に当てた。秀信が明子の胸のふくらみに頬をほてらせている間に、明子は秀信を胸部から自分の腹部、そしてその下の部分へと導いていく。そこは子宮のある部分だった。
「私は巫子である前に人間なの。そして女なの。私は新しい生命を生み出せる体なのよ。愛する人の子供を産めるように、神様が作ってくださったの。そのことに気づいてから、私はもう毎日が幸せでたまらないわ。だから神様にいつも感謝しているの」
 秀信は明子を見つめ返した。明子は「そうでしょう?」と同意を求めたげに、秀信に小首をかしげる。秀信は胸を突かれた。
 明子がまぶしかった。
 そして、明子と自分が完全に違う世界を生きようとしていることを思い知らされた。
 明子はあの太陽の匂いのする男と、ともに手をたずさえて生きていこうとしているのだ。 秀信は欲望と血にまみれた世界に骨の随まで浸かっていくというのに。
 そのことへの悲しみが、秀信から理性を奪った。
「ーーーー女の体は、愛していないものの子でも宿しますよ?」
 秀信は低くささやいた。そのまま明子の体をベッドに押し倒す。
「や、やめて、秀信くん!」
 明子が叫んだ。明子の巫子装束を秀信は引き破る。布を切り裂くヒステリックな音が部屋にこだました。
「助けを呼ぶなら呼べばいい。この屋敷で、どちらの言うことを皆は信じるでしょうね?あなたはすでに巫子とみなされていないのだから」
 秀信は明子を押さえつけながら言った。
「よしなさい、秀信くん」
 明子は懸命に身をよじりながら言った。引き破られた衣服から、明子の白い乳房が飛び出ている。そのなまめかしさよりも、自分が簡単に明子の自由を奪える体になっていることに秀信は驚いた。 
 明子は必死に抵抗する。
 だがそれは、秀信の被虐心をあおるだけだった。明子の白い乳房がこぼれ落ちる。秀信はそれに欲望をたぎらせながら、手を触れた。明子の胸は吸い付くようなやわらかさだった。
 秀信は思った。たしかに明子は美しい。
 けれども、自分が抱いた女たちとその肉体はさして変わらない。
 こんな清純な顔をして、好き合ったあの男とは乳繰り合っているのだろう。 
 所詮、人間だ。所詮、男と女だ。
 ならば、明子はあのどこの馬の骨ともしれない伸一郎よりも、自分のものになった方がいいのではないか。
 秀信はもう、桜の木の下で明子を守りきれなかった力無き少年ではない。
 数多くの権力者とコネクションを持ち、巫子である晴信を弟に持った男だ。弓削家の未来をしょって立つと言われている男だ。
「俺の女になれ、明子!」
 秀信は明子を組み敷いて、明子にくちづけようとした。明子の甘い体臭が秀信の鼻腔をくすぐる。
 次の瞬間、秀信は明子から身を離していた。
 明子は抵抗をやめていた。
一瞬、秀信は明子が観念して自分に身を任せるつもりになったのかと思った。
 けれど、それにしては明子の大きな瞳は強い意志を持って秀信に向けられている。それは姉が弟をさとそうとしている目だった。
「かわいそうに、秀信くん」
 明子はそうつぶやいて、秀信の頬を手のひらでつつんだ。深いやさしさがその言葉 秀信は驚いて、明子を見つめた。
 明子は静かに秀信を見つめ返している。白いシーツに、黒髪が扇のように広がっていた。
にはこめられていた。
「こんなにすさんで……さぞかしつらいことがあったんでしょう」
 明子の言葉は、砂に水がしみこむように秀信の心にしみこんでいった。心の奥に降り積もっていた固い澱が溶かされて、清められていくようだ。
 だがそれは、やがて秀信を畏怖させた。
 たおやかでやさしい明子に心を許してしまっては、明子の世界にのみこまれてしまう。
 今や巫子をやめ、弓削家から去ろうとしているこの女は、秀信のゆく修羅とはしょせん縁のない世界に生きる女なのだ。
 あの太陽のような伸一郎という男とともに歩もうとしている女なのだ。
 秀信がもし明子にほだされて、心を無防備にさらしてしまったら晴信はどうなる。 そして晴信を産んで以来、以前に増して生気のなくなった母は。
 秀信は明子のなよやかな手を振り払った。 そのまま明子から体を離して、起きあがる。
「秀信くん……」
 秀信はベッドから立ち上がって、明子に背を向けたまま告げた。
「ご自分のお部屋にお帰りなさい。もうこんな時間だ」
「秀信くん、あなた何か私に隠してるわ。ひどくつらそうだもの。ねえ、私に話してみて。昔のように」
「俺が昔の俺でないことは、あなたも今しがたわかったでしょう。俺は汚れた男だ。あなたを犯したくてたまらないのだから」「嘘よ!」
 秀信は息をのんだ。背中にまろやかな明子の肉体を感じたからだった。振り返ると、明子は半裸のまま秀信に後ろから抱きついていた。明子は長い睫毛を伏せて泣いていた。
「あなたはそんな人間じゃない。今だってちっとも変わっていない。ただ優しい自分を隠して、生きていこうとしているだけ。あなたがそこまで思い詰めるには、きっとなにかつらいことがあったはずだわ。だから、だから……」
 明子は涙をぬぐうこともせずに、秀信を見上げた。美しい顔をゆがめて思いきり泣くこともいとわない明子は、本当に純粋だと秀信は思う。
「お気遣いありがとうございます、明子様」 秀信は明子の額に唇をあてるようにして言った。明子の髪の匂いが、秀信の鼻孔をくすぐる。きっと明子とこんなに近くで触れ合うことはもう二度とないだろう、と秀信は思った。
「あなたと俺は太陽と月です。もう交わらない世界に生きるもの。月の世界から、あなたの幸福をお祈りしております」
 明子の瞳は大きく見開かれた。新たな涙が明子の頬を濡らす。
「秀信くん、どうして……」
「ご納得いただけませんか? ならば、あの男を捨てて、俺とともに人生を歩んでいただけますか?」
 明子は美しい眉をひそめて、いやいやをするようにかぶりを振った。自分はなんと幼いのだろう。秀信は自嘲する。
 この清流のような女に愛してくれと駄々をこねて困らせている。明子には何の罪もないのに。
「ならば、おいきなさい。早く」
 秀信は乳房をむきだしにしている明子に自らが着ていたジャケットを脱いで、肩にかけた。
「秀信くん……」
「いきなさい! 同情など俺の役には何も立たないのだから!」
 明子はビクっと体をすくめて、秀信をゆらぐ瞳で見つめた。万の悲しみがこめられたその瞳から目をそらして、秀信はドアを開けた。明子は長い黒髪を夜気にそよがせて去っていった。
 そのはかない背中が廊下の陰に消えるまで見つめていた。

「……夢か」
 秀信は起きあがりながらつぶやいた。
 我ながら感傷的な夢だな、と自嘲する。
 今はもうこの世にはいない女のことを思い出しても何にもならないものを。
 窓辺から差し込む日は、まだ青味を帯びていた。まだ夜は明けていないらしい。
 傍らでは祥が低い寝息を立てている。
 二日前、式と戦った痛手は完全に回復したようだ。さすが人ではないものだけのことはある。
 あれから数日して、明子は弓削屋敷から姿を消した。弓削家のものはロクに明子を捜すこともせず、晴信を巫子に据えた。
 晴信が立派に巫子としてのつとめを果たせるようになって、秀信が弓削家の中枢に食い込むようになってから秀信は聞いた。
 明子がすでに長い命ではなかったということを。
 代々、巫子をつとめる者は体が弱く、短命が多い。
 弱い肉体をおぎなうために霊力が発達するのか。それとも人の身でありながら、異界と交信するから命をすりへらしていくのか。
 いずれかはわからなかったが、明子は神託を受けるたびに高熱を出していた。さらに明子は生まれつき治療の難しい病をも負っていたという。
 秀信はそれを聞いた時、明子の抜けるように白い肌の意味がわかったような気がした。
 明子は凛太郎を産んですぐに亡くなったという。明子はおのれが子供を産める体ではないということを知っていたのだろうか。 おそらく知っていただろう。それでも自らの命を引き替えにして、あの女は凛太郎を出産したのだ。
 明子とは、そういう女だった。
 秀信は窓辺から見える白い月を見上げて、凛太郎の顔を思い浮かべる。
 昼間、凛太郎はひどく疲れた顔をしていた。明子によく似たつぶらな目の下には、青黒いくまが浮き出ていた。昨夜、あの鬼に夜を通して抱かれたのだろうか。
 あの鬼は、明子を秀信から奪った伸一郎と同じ匂いがする。太陽の匂いだ。
 だが、秀信はもうひるまない。凛太郎をこの手に入れてみせる。誰にもやらない。自分だけのものにしてみせる。
 そのためにはあともう少し、準備が必要だ。
 秀信はいつしか冷えた笑みを浮かべていた。








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