しかたのない蜜

しかたのない蜜


「それではこれで、ホームルームを終了します」
 私が一言そう言うと、それまでざわついていた生徒たちはやっと退屈な時間が終わったとばかりに伸びをし出した。机につっぷして居眠りしていた生徒もだるそうに顔を上げる。日直の女生徒が投げやりに「きりィィつ、気をつけェ、れェい」と号令した。
 それから掃除のために、みんなが一斉に机を後ろに引き出す。何度注意しても彼らは机を持ち上げて運ばない。だから教室中は机の足に床がこすりつけられる金属音でいっぱいになった。それはよりいっそう私の不安感を増大させる。
 私は深呼吸して、クラス一の問題児の名前を呼んだ。
「一ノ瀬さん」
 さっさと机を片づけて、友人と教室から出て行こうとしていた一ノ瀬光子は私に声をかけられたことにやや驚いたようだった。当然だ。私はこのクラスの生徒たちと同じように、いや、それ以上に一ノ瀬を避けているのだから。
 一ノ瀬光子は俗に言う不良少女だった。両親は早くに離婚し、現在は父親と二人暮らしだ。その父親はわけありの職業についていると職員室ではもっぱらの噂だった。彼はまったく学校の行事に参加したことがない。
 かく言う私も、一ノ瀬の父親には一度も会ったことがない。授業参観の時ですら、一ノ瀬の父親は家にいなかった。一ノ瀬と父親が住むアパートは洗濯物とスナック菓子、酒瓶が散乱する六畳一間だった。長い黒髪をかきあげながら、つめを磨く一ノ瀬に私はおそるおそる尋ねたものだ。
”一ノ瀬さん、お父さんはいつお帰りになるの?”
 一ノ瀬は鼻で笑った。つりあがった大きな双眸と白い肌を持つこの少女はこうした高慢な笑みがよく似合う。一ノ瀬はその日、黒いタンクトップと穴の開いたジーンズを身につけていた。これほどストリートファッションが様になる少女を私は一ノ瀬以外に知らない。
”あのオヤジがいつ帰ってくるかなんて、娘のあたしでもわかんないよ”
”え……じゃあ、一ノ瀬さんってもしかしてずっとひとりぼっちなことが多いの?”
 まあね、と一ノ瀬は答えた。私は深く考えずに思わず言った。
”それは、ずいぶんと寂しいでしょうね”
”たしかに寂しいよ。たしかにあたしはひとりぼっちだ。でも、生きてること自体がひとりぼっちだってことじゃない?”
 私はその時、不覚にもこの生徒にあこがれてしまった。きっと一ノ瀬はどんなにつらくて理不尽な目に遭っても、大きな瞳にきつい光を宿して笑っているのだろう。そのうち相手も、一ノ瀬に見下されたような気がして、一ノ瀬を攻撃するのをやめてしまうはずだ。私は一ノ瀬が黒い髪をなびかせて、夜の街をゆく姿を夢想した。 
 もし私に、そして少年Aに一ノ瀬ほどの強さがあったら、リストカットなどしないだろう。自分を傷つけることで感情を表現し、赤い血を見ることで生きていることを実感したりしないだろう。
 それでも私は一ノ瀬と実際に接するのは怖かった。一ノ瀬は私をいじめる生徒のグループには入っていない。一ノ瀬にしてみれば、学校などお子ちゃまの集団で、教師いびりなどちゃんちゃらおかしいのだろう。一ノ瀬は黙っていても抜き身の刀のような冷たい凄みがあったので、いじめっこグループが逆におびえているほどだった。
 今日、私がいやいやながら一ノ瀬を呼びつけたのは、一ノ瀬が耳にピアスをつけたからという理由だった。それを古文の授業中に発見した中島が一ノ瀬を注意したそうなのだが、一ノ瀬が無視したというのだ。
 屈辱に顔をゆがめた中島が、私に担任教師としての制裁を求めたというわけなのである。
「一ノ瀬さん、これからちょっと生徒相談室に来てもらえる?」
 私は早口で一気にそこまで言った。そうしないと自分がひるんでいることが一ノ瀬にバレてしまいそうだった。そうでなくても生徒たちは好奇の目を向けて私と一ノ瀬のやりとりをうかがっている。
「いいですけど」
 一ノ瀬はそう言って、静かに笑った。
 そして私たちは校舎の一階にある生徒相談室に向かった。ここは三階にある私のうけもちのクラスからかなり離れている。それに隣に職員室があるから、生徒たちもおもしろがって聞き耳を立てたり、私をからかおうとはしない。だから私はこの部屋を使うことにしたのだった。
 私は警察の取調室を思わせる殺風景な白い部屋に入ると、一ノ瀬をパイプ椅子に座るよう勧めた。一ノ瀬は脚をそろえずにその椅子に腰をおろす。
 私は一ノ瀬と灰色の机をへだてて向かい合わせに座った。一ノ瀬の大きな双眸はまっすぐ私を見ている。それに気圧されて目をそらせてしまいたい誘惑と戦いながら、私は用件をさっそく述べることにした。嫌な仕事はなるべく早くすませてしまった方がいい。
「一ノ瀬さん、ちょっと耳たぶ見せてくれないかな」
 一ノ瀬はなにげない仕草で、私に命じられた通り、長い髪を両手でかきあげた。青白い耳たぶには、赤ん坊の小指ほど太さの銀色のわっかがはまっていた。それは小さいながらも一ノ瀬の肉を貫通していた。
「ピアスが校則で禁止されてるって知ってるよね?」
 一ノ瀬は髪を手で梳きながら返事はしなかった。ナメられている。私は日頃から感じていたことをあらためて痛感した。自然と語気が荒くなる。
「どうしてピアスなんかするの?」
「男とおそろいだから」
 一ノ瀬は男という単語を力強く発音した。自分にとってのたしかなものがそこにあると確信している声だった。一ノ瀬はひるむ私に微笑みかける余裕さえ見せて、言葉を続ける。
「これ、あたしが買ってあいつにもプレゼントしたの。これつけてるとあいつといつも一緒にいられる気がするんだ」
 私は一ノ瀬の校則違反をとがめるのも忘れて、彼女の話に聞き入っていた。いつもは皮肉っぽくゆがんでいる一ノ瀬の口元が実に幸せそうな笑みを浮かべているのだ。
 一ノ瀬は片手を銀色のピアスに当てた。
「こうすると、どんな嫌なことにも耐えられる気がするの。オヤジに殴られてる時もちっとも痛くない気がする。あいつがあたしのこと守ってくれてるみたいなんだよ」 
 一ノ瀬はふと我に返ったように私を見た。私に向けていらうような笑みを浮かべる。「ねえ、先生は好きなヤツいないの? そいつに指輪でもなんでも送ってもらいなよ。そうすれば先生もちょっとは自信がつくよ。先生がクラスのヤツらにナメられてるのは先生がいつもオドオドしてるからだよ。自分なんかがこの世にいちゃいけないって顔してるからだよ。大事な人間との証があれば、少しは心が強くなるよ」
 一ノ瀬の口ぶりはあいかわらず生意気だったが、自分にとって確実なものを見つけた人間の自信に満ちあふれていた。
 私の男。私の好きな男。私の大事な男。私は一ノ瀬の言葉からキーワードをひろって、自分にとってのそんな人間を頭の中で検索してみた。とりあえず、真っ先に少年Aの顔が思い浮かぶ。昨夜、私の膝の間に自分自身を埋め込んだ少年A。射精している時、きつく目を閉じた顔。その顔はまだまだあどけなくて、若さにあふれている。その顔は私の男というには、まだ未来がありすぎる。私が少年Aに指輪をねだったら、少年Aは私を重荷に感じるのではないだろうか。私は一ノ瀬がうらやましかった。十五歳の一ノ瀬にとって、恋とセックスはまだただの楽しみでしかないのだから。だからこそ一ノ瀬は、安物のピアスをこの上もないお守りにしていられるのだ。
 私は一ノ瀬から目をそらせて言った。
「とりあえずそのピアスはずしなさい。校則違反は校則違反だから」
 私はそのままそそくさと席を立った。私をつまらない大人と軽蔑しているであろう一ノ瀬の顔を見るのがつらかったのだ。
 その日も少年Aは、私のアパートにやって来た。
 丁寧な、ゆっくりしたトーンで押されたブザーが鳴る。私がドアを開けると、少年Aはいつものように背中にリュックサックを背負って立っていた。私はきょろきょろとあたりを見回しながら、少年Aを部屋に入れる。元、とはいえ、少年Aは私の教え子なのだ。どこにいるかもわからない学校関係者に私たちの関係を知られるのはまずい。
「先生、今日の献立はお好み焼きだよ」
「え、どうして?」
 私はさっそく台所に立った少年Aに素っ頓狂な声を上げた。
「どうして、って……」
 少年Aはリュックから、値札のついたままのお好み焼き粉を出しながら、困ったように笑った。
「だって少年A、お好み焼きなんて今まで作ったことなかったじゃない。それにこういう粉物、少年Aは嫌いじゃなかった?」
 少年Aは驚いたように私を見てから、もごもごと口を動かして、やがて目をそむけた。その時私は気がついた。少年Aの耳たぶに銀色のピアスがはめられていることを。それは一ノ瀬がはめていたものとそっくり同じだった。
 私の脳裏に、一ノ瀬とその友人の会話がよみがえった。
”一ノ瀬のカレって、すっごくまじめそうだよね。眼鏡なんてかけちゃってさ”

 それから私はひどく冷静に少年Aに接した。
 少年Aの作ったお好み焼きはほとんど味がしなかった。きっと少年Aがお好み焼きを作るのが下手でソースを入れすぎたせいだと思う。きっと少年Aがその夜は私にいつもより優しくて、無理のある笑顔をふりまいていたせいだと思う。
 だから私は少年Aと話したことをほとんど覚えていない。少年Aはいつもより口数が多く、どうでもいいことばかり話した。そのわりには自分がどうしてピアスを耳たぶにはめたかということには一切触れなかった。私はそのことを訊こうとはしなかった。
 だって、私と少年Aはしょせん恋人同士ではないのだから。少年Aはあくまで少年Aで、私にとっては名前すらどうでもいい存在なのだから。
 私はべつに少年Aと二度と会えなくなってもさみしくなんかない。少年Aがどこで恋愛をしようともそれは少年Aの問題だ。
 そう、私は二十九歳の大人の女だ。十八歳のガキとつきあっているのは、単なるなりゆきだ。少年Aがまた手首を切って、自殺未遂をしないように私は見張っているだけだ。
 生意気な少年Aは、それなりに慣れた仕草でその夜も私を押し倒した。
 少年Aは丁寧な手つきで私の服を脱がせ、丹念に私の体を舐め回す。
 私はこんなガキにリードされるのがいやで、少年Aのものを口にふくんだ。
「先生いいよ、そんなことしなくて……」
 少年Aが眉をひそめて、下目づかいで私に言う。少年Aはいつも私にされるとこんな表情をする。
 だが、目の色が少し違う。
 いつもは口ではそう言っているけれど、してもらえる興奮を隠しきれないのに、その夜は本気で困っていた。私はその理由を問いたくなる口を少年Aの肉塊でふさぐ。
 舌でゆっくりつつんで、軽く吸ってやると少年Aはいつものように鼻にかかったあえぎをもらす。きつく目を閉じて、腰をゆらす姿は女の子みたいだ。私はこうするといつも少年Aを犯しているみたいな気分になる。いつも私は満たされる。少年Aにとって、私はなくてはならない存在で、少年Aは私にしかこの器管をゆだねたことがないと思えるから。
 私と違って、少年Aは私以外の異性しか知らないのだ。
 だがいつもは塩辛くて汗の匂いをはなっている少年Aのそこは、今夜はシャボンの香りがした。
 私はそれが悲しくて頭を振る。少年Aの泣いているような声が私によるものだと思うことで、私は自分に生まれてくる疑念を消す。
 きっと少年Aは偶然、ここにくる前に入浴したのだ。何事もすぐ気にする性質の少年Aだから、きっと今の季節、自分が汗くさいのではないかと気になったのだろう。ピアスだって、単なるファッションに違いない。そうだ、私に見せるためのおしゃれなのだ。
 一ノ瀬の恋人だという男だって、単に眼鏡をかけていただけで少年A本人だとは限らない。そう無理矢理自分を納得させようとした時、私の中でもうひとりの私が言う。
 じゃあ、どうしてそのピアスを私に見せなかったのか。 
 私はその声に耳をそむけたくて、一生懸命少年Aを舐める。とりあえずこうしている間は、少年Aは私のことを考えてくれているはずだから。

 翌朝、ホームルームの時間に教卓には小さな箱が置かれていた。ハート模様の包装紙に、ピンク色のリボンがかけられている。
 私が出席簿を置いて、その箱に見入っている間に、日直が間延びした号令をかけた。
 私は異変を感じた。ふだんなら教室はおしゃべりの声で騒々しいはずなのに、その日は妙に静まりかえっていたからだ。
 顔を上げると、嘲笑をむりやりまじめな表情で塗り隠している生徒たちの顔がたくさん視界に飛び込んできた。
 ただ一人、一ノ瀬だけがまっすぐに私を見つめている。一ノ瀬の白目は朝の光を白く反射していて、そこだけ潔い空気が発散されているようだった。
 私は嫌な予感がして、その小箱を無視することにした。どうも悪い予感がする。ひょっとして、箱の中にはとんでもない代物ーーーーたとえば小動物の死骸か何かが入っているのではないか。以前も私はプレゼントと称して、机の中に死体写真を入れられたことがあった。どこかの事故現場を撮影したものであろう、車にひかれて脳漿を巻き散らしたその写真に私はとうぶんの間、ケチャップがかかったものが食べられなかった。
「ねえ先生、その箱開けてくださいよ」
 学級委員がお下げ髪をゆらしながら小首をかしげて言う。
「そうだよ、俺らのプレゼントなんだからよォ」
 飛んでくる声に、私はできる限りの威厳ーーーーそんなものが私にあればの話だけれどーーーーを込めて言った。
「ホームルームが終了してから、ゆっくり見せてもらうわ」
 私の言葉に一ノ瀬以外の生徒は一斉にブーイングした。
「生徒の好意を無視するって言うのかよ~」
「うわー、すっげーエラそう!」
「俺ら、淳ちゃんの授業、ボイコットしてやろうか? ついでに学校の目安箱に、淳ちゃん先生が生徒の気持ちを踏みにじりましたって書いてみたりして~」
 情けないことに、私はその生徒の言葉に真剣におびえた。職員会議ではしょっちゅう生徒が問題を起こしているクラスの担任がやりだまに上げられる。そうして他の教員から嫌みを言われたり、バカにされたりする教師もめずらしくない。
 ただでさえ教室でこれだけいじめられているのに、この上職員室でも立場がまずくなると、私は退職するしかなさそうだった。
 幸い、生徒たちのいじめはまだ表沙汰になっていない。それはすなわち彼らのやり方がそれだけ如才なくて陰湿だということでもあるが。
「みんな、静かにして!」
 私は叫んだ。声が震えているのがなさけない。
「じゃあ、あなたたちの好意を受けて、プレゼントを開けてみることにします。これが終わったら、さっさとホームルームに戻るわよ。いいわね?」
「は~い」
 生徒たちは悪のりそのものの声でユニゾンした。
 私が好意、という単語を口にした途端、生徒たちはニヤニヤ笑いをしていた。
 顔を見合わせて笑っているものもいる。きっと私が自分たちの悪意に気づいていないとでも思っているのだろう。
 わかってます、それくらい。けど、鈍感なフリをしていなければ、私はとっくの間に教師をやめていた。少年Aみたいに手首を切っていたかもしれない。私にはもう手首を切れるほどの自由も残されていないのだ。私が手首を切ったら、きっと生徒たちや同僚の教員たちはめざとく私の傷跡を見つけるだろう。そして情緒不安定の教師として、この学校から追い出そうとするだろう。 
 もしそうなったら、私は一人暮らしの生計が立てていけなくなる。実家に戻って、両親に一家の恥として扱われなければならなくなる。若くない人間が負った心の傷なんて、今の世の中にとってはやっかいごとでしかないのだ。
 私は嫌いな食べ物を早くたいらげてしまおうとする子供のように、小箱を手にとってリボンを取った。包装紙をはずすと、瀟洒な紙ケースが目に入った。そのケースの意外なかわいらしさに意表をつかれながら、私はふたを開ける。
 そこに入っていたのは、一式のピアスだった。
 さっきから私をじぃっと見つめている一ノ瀬が耳たぶにつけているのと同じ銀色の輪っかの形をしたピアスだった。そう、少年Aがはめているのと同じピアスだった。
 その箱には、ハート型をしたメッセージカードが添えられていた。開いてみると丸っこい文字でカードにはこう書かれていた。
”一ノ瀬ばっかりひいきしてんじゃねえ、このバカ女。どうして一ノ瀬だけピアスOKなんだよ? てめーもピアスしてみたら? だったら少しはマシな人生送れるかもしれねえけどよ。まあ、てめえみたいなブスババァ、死ぬしかねえけどな”
 少しはマシな人生。
 赤いサインペンで書かれたその子供っぽい文字が、私の中の何かを呼び起こした。
”ねえ、君もピアスでもしてみたら?”
 かつて私に、このカードを書いた人間と同じことを指摘した者がいた。言い方はもっとやわらかく、常識的だったが。
 その人間とは、私の初めての男だった。大学時代、私が手首を切ってまで引き留めようとしたあの男は、私にそう言ったのだ。ピアスでも入れて、少しはおしゃれしたら、変われるかもしれないよと。
 たしかあの時は私は「ピアスは痛いからイヤだ」とか何とか言ったと思う。本当はピアスホールを開けるのが怖いからいやなのではなくて、私を変えようとしているあの男が悲しかった。
 君はそのままでいいよ、と私は言ってほしかったのだ。男は私に自分の提案をつっぱねられると、つまらなさそうに口をとがらせた。ひょっとしてあの時、すでに男には新しい女がいて、それは私が捨てられる前兆だったのかもしれない。
 私は置いていかれたのだ。
 私はピアスの入った箱を手にしたまま、一ノ瀬に目を向けた。今は髪の毛に隠れていてよく見えないが、一ノ瀬の耳にはあのピアスがはまったままだろう。だから生徒たちはこんな皮肉な贈り物を私にしてきたのだ。
 本来なら、攻められるのは私ではなく、校則を堂々と破った一ノ瀬のはずだ。それなのに今、生徒たちが「なんとか言ってみろよ」と私ばかりをなじっているのは、ひとえに一ノ瀬と真っ正面から衝突するのが怖いからであろう。
 一ノ瀬にはそういった強さがあった。
 強くなりたい。
 私は思う。きっと一ノ瀬は強いから、誰にも攻撃されないし、他人に好かれるのだ。少年Aの恋人にもなれるのだ。
 私が一ノ瀬のようになるためには、どうすればいいだろう。
 そう考えた私は、無意識のうちに一ノ瀬に視線を落としていた。一ノ瀬の耳におさまっているピアスの輝きが私の目を鋭く射抜いた。
 もしピアスをはめたら、私は変われるのだろうか。
 ピアッシングの痛みを我慢できたら、もっと強くなれるのだろうか。
 その考えはひどく私を魅了した。が、すぐに我に返って、生徒たちのニヤニヤ笑いを見るとそんな考えは吹っ飛んでいった。
 ここでピアスなど入れたら、生徒たちの悪のりにまんまとのってしまうことになるではないか。それに教職員の間では、イヤリングまでは許されるが、ピアスはやはり教師にふさわしくないやくざな行為と無言のうちにとらえられている。
 私は箱を教卓の中に押しやった。
「ホームルームを始めます」
 私は何かをふりきるようにそう言った。
 それから私は自分から雑用を引き受けて走り回って一日を過ごした。
 少しでも休んでしまうと、少年Aと一ノ瀬が抱き合うポルノまがいのシーンが頭によぎってしまうのだ。私は黙々と受け持っている授業を勧め、生徒たちのいびりも受け流した。
 職員室を出る頃には、私は疲れ切っていた。今夜も少年Aはやってくるのだろうか。もしそうだとしたら、この疲れがいい方に私たちを持っていってくれるかもしれない。今の私は少年Aに皮肉を言う力も残されていないだろうから。それに一ノ瀬と少年Aが交際しているとはまだはっきりとはわかっていない。こんなふうに日々を過ごしていれば、そのうちにそんな疑念は去っていってくれるのではないか。
 そんな思いをめぐらせているうちに、私は私に疑われている少年Aがかわいそうになった。昨夜、お好み焼きを無言で食べる私を心配そうに上目づかいで見ていた少年Aのせんぴょうしつな顔が脳裏に浮かぶ。私はふと子猫をいじめているような気分になった。
 学校から電車に乗り、アパートにつくまでの間にあるショッピングモールに立ち寄る。そこで私は少年Aの好きな食べ物を見繕っていくことにした。母親に連れてこられた五歳くらいの子供が、お菓子売り場を前にして、「ママ、これ買って」と甲高い声でねだっている。子供の無邪気な様子にいつしか私は毒気を抜かれていた。
 そういえば、少年Aはクッキーが好きだったっけ。少年Aの家に行った時、お母さんが「秀一はこれが大好きで、小さい頃あるだけ食べておなかをこわしたんですよ」とチョコチップクッキーを私と少年Aに出した。少年Aは「そんなこと、僕覚えていないよ」と赤くなって否定していたけれど、その後すぐにクッキーに手を伸ばしていた。そんなことを思い出して、私はくすぐったい気持ちになりながら、クッキーを物色していた。
 その時だった。背後で聞き覚えのある声がした。
「ねえ、秀一。今日はいったいいつまで一緒にいられるの?」
「う~ん、あと三十分くらいかな……六時過ぎには、先生いつも帰ってくるから……」
 私は無意識のうちに声のする方を振り返った。
 少年Aが、一ノ瀬に腕を組まれてショッピングモールを歩いている姿が目に飛び込んできた。少年Aはズボンのポケットに両手をつっこんで、前をむいたまま一ノ瀬に返事をしていた。一ノ瀬はすでに私服に着替えていて、ピチピチのTシャツからつきでた腕を少年Aにからめ、二つのこぶのような胸を少年Aに押し当てるようにしている。少年Aは私といっしょにいる時よりも、ふてぶてしい表情をしていた。肩の力の抜けた少年Aの自由な様子は私の胸に鈍い痛みを与えた。
 それは私の前では、少年Aがやはり気をつかっているという証拠だったからだ。私はやはり少年Aの先生で、恋人ではないのだ……。
 そんなことを考えているうちに、若い恋人たちは私に気づかずに私の前を通りすぎていった。

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