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これまで「こどものあそび」についていろいろ書いてきたが、お気づきの方もおられるかとも思うが、文中で「あそび」と「遊び」をなるべく意識して使い分けるようにしているが、それには理由がある。 文章上読みづらい場合を除いて、遊び全般を指す場合やスポーツ・趣味など次に書く「あそび」を除いた遊びを指す場合は「遊び」と表記し、スポーツ・お稽古ごとなどを除いた「こどもの遊び」を「あそび」と表記している。 この様に分けて表記しているのは、「遊び」と「あそび」に質的な違いがあると言う考え方をしているからだ。その質的違いについては、「遊び学の遊邑舎」本館サイトの「遊び学」風私論に詳細を譲るものとする。 その一方の「あそび」が、今こども達の生活のなかで減少して来たり、様相が変化してきている様に思われるので、それについての私見をこの日記(エッセイ)のテーマのひとつにしてきた。ともかくどこまで続くか、がんばっていこう! なお、この日記の文体として、以下のように3つの文体を使い分けている。「である」調:エッセイ(この日記の主内容)「です・ます」調:ご訪問の方へのメッセージ大阪弁調:管理人の独白「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2004.01.18
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前にも書いたが、トランプあそびの「神経衰弱(しんけいすいじゃく)」で、小学校低学年前後の年ごろの、幼いこども達の抜群の強さに驚く事がよくある。 何故そうなるのか、あまりハッキリしなかったが、今読み進めている本で、その理由の一端を教えられた。その本は「脳と心の地形図」(リタ・カーター/藤井留美-訳、養老孟司-監修:原書房/1999)と言う本だ。 その本には、「写真さながらに鮮明に記憶する能力は、小さな子どもなら当たり前のことだが、大きくなって大脳部分の接続が間引きされていくと、そういう記憶は無くなる。」とある。 この前半部分、こども達は神経衰弱ゲームに於いて、カードを写真で撮った様に記憶していると言う事だ。その写真と照合すれば、前に表向けたカードがどこにあったか、直ぐにわかるのだ。 なるほど、赤ちゃんや幼児に、こうした能力がないと、自分を育ててくれる親の顔を忘れる様では、生き延びていく事でいろいろと不都合な事に遭遇するだろう。 ともかく、幼い子どもには私達おとなに無い素晴らしい能力があるのだ。そして、先ほどの引用の後半部に書いてある様に、そうした能力が成長とともに無くなっていくのだ。 それは、新しい脳の働き・能力を育む上では、致し方がないのだ。だから、おとなは幼い子どもと違った方法で、神経衰弱ゲームでのカードの記憶の仕方をするのだ。 例えば、「エースのカードは、右から3枚目で手前から2枚目」というように、もっぱら位置情報や言語的記憶などを総合して記憶する様になる。 こうした記憶は、ある意味では優れているが、「右から2枚目手前から3枚目」などの混乱が起きる可能性も持っている。だから、かなり頑張らないと、幼いこどもに負けるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト-------私的ウィルス情報------W32.Netsky 本日15通 通算181通(今月)W32.Mytob 本日0通 通算18通(今月)W32.Mota 本日0通 通算6通(今月)W32.Klez 本日0通 通算1通(今月)W32.Lovgate 本日0通 通算1通(今月)(送られてきたウィルスメールは今月合計207通)ちなみに、アンチウィルスソフトは、このシリーズを使っています。
2005.03.18
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チーム対戦系のあそびにおいて、じゃんけんの「グー」と「パー」で組み分けをすることも多いが、もう一つの「取り合いじゃんけん」も同様にポピュラーだ。この「取り合いじゃんけん」には、極めて微妙なこどもの心理が関係している。見方を変えれば、その子の置かれている社会的立場や子ども同士の人間関係が、この「取り合いじゃんけん」には色濃く反映されるのだ。 例えば、柔らかいゴムまりを使ってあそぶ「庭球野球」のチーム分けにおいて、参加者それぞれの打撃に勝るなどの力量や、負けん気の強いなど性格が、「取り合いじゃんけん」には大きく影響する。「取り合いじゃんけん」をする子は、他の子の力量や性格の判断を迫られる。また、残りの取られる側のこどもたちは、自分の力量や性格を思い知らされることにもなる。 自分の憧れの友達に取られるか、あまり好きになれない友達に取られるか、ドキドキしながら自分の名前が呼ばれる時を待つこともある。さらには、「取り合いじゃんけん」の全体の推移の中で、自分がその集団で置かれている立場を知ることにもなる。この経験は、あそびのなかで実践的に学べる、大事な社会経験のひとつなのだ。 この「取り合いじゃんけん」は、私の知っている大阪のこどもたちは、「取りっき」と呼んでいて、実際にじゃんけんをする時も「とりっき」と掛け声をかけていた。また、「取り合い」は「取りっこ」と言うこともあるが、大阪のこどもたちは訛って「とりやい」と言っていた。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.03.17
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【いいか、絶対にあきらめるな。いじめが一生続く、自分だけが不幸なんだって思ってるだろ? 俺自身もそうだったから。でも、いじめはきっとなくなるものなんだ。(中略)俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2012年7月13日) 引用記事は、内藤大助さんの《いじめられている君へ》と言う表題のコラム記事だ。いじめに関連して多用される語に、この記事にもあるように「チクる」がある。この語についての私見をつづる。 記事の内藤さんの言に、「先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。」とあるが、この内藤さんの指摘に賛同するとともに、さらに一歩推し進めて、「チクる」と言う語そのものを無くすか、「チクる」を相手に対して攻撃的に使うことを、極めて恥ずかしいことだと言う社会認識をつくることを提案したい。 そもそも、「チクる」を、肯定的あるいは自己弁護的に、相手に対して攻撃的に使用するのは、犯罪者や加害者、そこまで至らなくても何らかの後ろめたさを抱くものがほとんどなのだ。だから、本当に「カッコ悪い」のは、そうした場合における「チクった」側ではなくて、「チクられた」側なのだ。 もちろん、他人の欠点など、有りもしない誹謗中傷を、第三者に告げ口する場合もあるかとは思うが、それらは恥ずべき行為、時には犯罪にもなるのは当然で、あえて言うなら、これこそ「カッコ悪い」「チクり」なのだ。それでも、「チクる」は使用しないの方が賢明だろう。 「チクり」が「カッコ悪い」と言う風潮が無ければ、どれだけ多くのいじめが初期の段階でストップできたか、正当な告発を「チクり」と揶揄されるような雰囲気が無ければ、どれだけ多くの命を守れたかと、怒りがこみ上げる。 おそらく、多くの人たちの、少なくとも弱い立場の人たちの、本心では、そう思われているのではないだろうか。犯罪・不正・不当行為などにおいて、「チクった」を悪とする論理は、強者の自己保身の論理なのだ。 しかし、現実は、多くのバラエティ番組・お笑い番組などで、典型的に見られるように、「チクった」を、悪とは言わないまでも、「カッコ悪い」恥ずべき行為だとして一般化するように使用されている。こうした風潮を抜本的に打破しないと、内藤さんが指摘する「チクったと言われたって、カッコ悪いことじゃない」が実現するのは難しいかも知れない。 「チクった」方より、自分の問題行為を反省せず「チクった」と言い迫る方が「カッコ悪い」と言う、世論喚起こそ、内藤さんの「先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。」が実現する道ではないだろうか。これは、私自身への自戒の意味もある。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2012.07.23
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住み慣れている街でも、歩いていると時折、可愛い花を見つけて、ふと立ち止まることも多い。時には、我が家へデジカメを取りに戻って、そうした花を撮影することもある。これまで、花の名前には頓着しなかった生活を送っていたので、そうした花の名前がわからないことがほとんどだ。 特に、栽培品種の多さは尋常な数ではないので、似たような花の仲間の見当ついても、ここから先がわからない。そうした時に活用するのが、インターネット検索だが、これが思った以上に簡単には、目的の花にたどり着かない。 今日も、昨日撮った花(左図)の名前を調べたのだが、やはり悪戦苦闘した。アジサイに似た葉と花の形だったので、アジサイから見ていったが、だめだった。次に「アジサイに似た花」でもだめで、「ピンク 花 小さい 毬」で見つかった「花手毬」をたどって、やっと「ランタナ」に行き着けた。 それも、偶然の賜物だ、「花手毬」とは直接は関係なく、その「花手毬」の検索結果に「ランタナ、バーベナ、花手毬、わすれな草」のページに偶然に同じ花の写真を発見したからだ。また、お恥ずかしい話だが、同じような調子で先日も「ひなげし」を見つけた。 このように、ネット検索は名前から画像や意味は、比較的探しやすいが、その反対は難しい。特に、見たものの記憶や画像から名前を探すのは難しい。しかし、その過程で、いろんなことを学習・発見できるので、時間さえあれば楽しみのひとつともなるだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.06.03
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先日もこのブログで取り上げた事と同様の事故がまた起こってしまった。【二十日午後四時ごろ、板野町那東のあすたむらんど徳島で、遊具のエアドーム「ふわふわあすたむ」が突風にあおられ横倒しになって転がり、中にいた児童四人が軽いをした。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/徳島新聞:2008年3月21日) 先日の事故の教訓が全く生かされなかったのだ。おそらく、過去の例や報道されていない例も含めれば、同様の事故がもっと多く繰り返されていると思われる。遊具管理者の責任も当然のことだが、遊具メーカーも事故が起こった時点で、同種の遊具の販売先に注意喚起することも大切だ。もし、そうした注意喚起があれば、遊具管理者の安全管理意識も高められただろう。 今日掲載された記事から、もう少し詳しい事情をひろってみる。【製造メーカーは、風で飛ばされないように砂袋(重さ21キロ)6個を取り付け、風速6・7メートル以上では使用しないよう求めており、同施設ではふだん、砂袋14個を設置。20日は、雨天で午前中は同遊具の使用を見合わせていたが、午後0時30分から砂袋18個をつけて、使用していた。ただ、同施設には風速計がなく、職員の体感や天気予報などで判断していたという。徳島地方気象台によると、徳島市では当時、風速9・2メートルの強風が観測されていた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2008年3月22日) 記事を見て驚くのは、風速規定があるにも拘らず、「同施設には風速計がなく、職員の体感や天気予報などで判断していた」とある。詳しい事故調査を待つ必要があるが、遊具設置時の設備基準(風速計の義務化など)や遊具運用規定の問題があるように感じられる。また、遊具固定を砂袋などの重しに頼ることが適切な固定手段なのかの吟味も必要だろう。 この種の遊具の事故が繰り返されていることを考えたとき、そういった点も含めて、遊具メーカーは遊具構造や遊具運用の基準を見直す必要があるだろう。監督官庁の国土交通省は、遊具の安全基準を策定中だと聞き及ぶが、当然「ふわふわ遊具」についても、一刻も早く安全基準を設けていただきたい。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.03.22
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あそびに限らず、何らかの競争で最下位になることは嫌われるが、そんな最下位をあわらすことばに、「ベッタ」や「べべ」などがある。これは、大阪などの関西に多いようだが、この言葉の語源には、有力とされる説がある。 昔の悪銭の「鐚銭(びたせん)」から転訛したとの説がそれだ。しかし、これは「べた」と「びた」のどちらが先かを吟味しなければならない。そこで、私なりに、この「ベッタ」の語源を想像してみる。 「べった」は「べた」から転訛したものと推定できるので、まず「べた」から考えていく。この「べた」、話すことが苦手なことを意味する「口べた」が思い付くように、「へた」すなわち「下手」から「べた」には、合理的に変化する。 さて、その「下手」だが、もちろん、これは当て字で、「へた」を吟味する必要がある。これは、ほぼ定説となっていて、「へた」は「縁(へり)」や「端(はし)」を意味する同義語と考えていい。 最下位を、先頭から最も離れた「端」と考えると、自ずと「へた」に行き着く。「へた」から「べた」そして、「べった」に変化するのは、自然な流れだ。その後、「ベッタコ」「ベベタコ」「ドベタ」「ドベ」「ドンベ」「ドンベリ」「ベリ」と多様に変化する。 「ベリ」までくれば「ビリ」はあと一歩だが、この標準語的に最下位を意味する「ビリ」には、「尻(しり)」から「ひり」に転嫁して、最終的に「ビリ」になったとの説がある。 これよりは、「ベッタ」も「ビリ」も、「へた」から変化したものと、考えてはどうだろうか。その昔、日本の言葉は、都があった奈良や京都がある関西から各地に広まった。 また、庶民文化や遊び文化も、商人の町大阪がある、これまた関西から広まった。だから、その関西の「ベタ」から「ビリ」になったとしても、何の違和感もない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2014.12.28
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