2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

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2006年05月08日
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カテゴリ: 音楽・芸術
「フランツ・シューベルト――余の大音楽家よりも重みの少ない芸術家であるフランツ・シューベルトは、それでいてすべての者のうち一番大きい音楽の世襲の富をもっていた。彼はそれを手一杯に優しい心でばらまいた。だから音楽家たちはまだ二三世紀は彼の思想や着想を食って生きるだけのものはあろうと思われるぐらいだ。彼の作品には使い古されぬ発想の宝庫がある。他の人たちは使い古すことに偉大さがあるのだろう。もし、ベートーヴェンを楽師の理想的な聴手と呼んでいいとすれば、シューベルトは、自身理想的な楽師と呼ばれていい権利があろう」(『人間的な、あまりに人間的な』下巻・第二部「漂泊者とその影」フリードリッヒ・ニーチェ著/阿部六郎訳)

拙著『妄想無間 仏法サラリーマンはかく語りき』で、フランツ・ゼラーフ・ペーター・シューベルト(1797・1・31-1828・11・19)は、俎上に載せて、一通り料理したつもりだが、再びここで取り上げる。シューベルトを論じることは、私にとっては、限りないインプロヴィゼーションを実感させてくれるからだ。ニーチェが指摘したとおり、シューベルトほど音楽の本当のオリジナルを書いた人を私は知らない。そして、その尽きせぬ泉ほど即興の材料になるものは他にはありそうにも思えないほどだ。

ビートルズとカーペンターズで始まった音楽渉猟歴は30年強、食い尽くしたレコード・CDの黒銀の円盤は、5千枚を超えた頃から数えていないが、『妄想無間』の前文に37尊の一角として列挙されている16人の作曲家・演奏家は、格別の存在だ。酋長の鼻唄であろうが、俗謡であろうが、いやしくも音楽と呼ばれるものに対しては、何かしら聴く耳をもち、なんでも好きになってしまう私ではあるが、16尊は、私の現代の五蘊(ごうん)を形成した重大元素だと言ってもいい。なかでも、究竟(くきょう)は、シューベルトとブルックナーである。

彼らの音楽がなかったなら、わたくしのような人間が、果たしてこの齢まで生き延びることが出来たか疑問である。苦しいときも、楽しいときも、悲しいときも、喜びのときも、瞋恚(しんに)のほむらを抱き、憎しみと恨みに身がさいなまれるときも、みんな、彼らと一緒だった。彼らは、私にとっては私を見守っていてくれる仏・菩薩のようなものだ。私には、いまや一切家族がいないから、こんなことを言うのではなく、そうとしか言えないから言うのだ。

最初は、リズムに身を任せ、美しいメロディー、妙なる和声、予測もつかない即興のどれかを聴いているだけだったが、修練を積むうちに、それらの差異を認めつつも渾然一体のものとして把握すると、彼らの音楽が、仏や菩薩となって私の体に入り込み、私も音楽からイメージされる実相に入り込み、この世を生きるわたくしの心と体の区別はなくなり、すなわち私の阿頼耶識(あらやしき)が音楽の力によって抽出され、絶対持続の宇宙意志へと涅槃に導かれるのである。彼らと共にある音楽鑑賞史は、私の仏法修行の軌跡でもある。

興奮と狂騒、やすい涙を誘い、カタストロフィを演出する楽曲は少なくないが、生き物の根源的な喜びと悲しみを知らしめ、宇宙意志とそこからの解脱に至らしむる楽曲は極めて希なるものだ。

普遍的に阿頼耶識の顕現を知らしめ、その成仏と解脱を導く作曲家・演奏家はいるのであって、その成否が、私にとっては、音楽家としての高低と価値づけられる。ジャンルを問わずそういう音楽家は存在する。たとえば、ロック・ミュージシャンのジミ・ヘンドリックスの演奏には、必ずしも、いつもというわけではないが、聖なる火花が彼岸を映し出している。

年によっては、花粉症でくしゃみ地獄となるが、それでも春は、私の一等好きな季節である。すべてが始まるときである。草花が芽吹き、鳥たちは卵を生み、雛を育てる。この季節を逃すと、新しい生は封印される。春は残酷な季節でもある。気楽に行った山登りが、雪崩で惨事となり、突風が環境を破壊し、入学や入社を決定的に拒否される時でもある。せっかく1年を我慢して咲き出た梅や桜の花びらは、短い命に妍を競い合い、死にゆく。

桜という花は、仏法のテキストのような花で、やれ、酒だ、団子だと席を取り合い、花見という儀式に妄執する人々も、散ってしまえば、悲しみの無常を知る。私も、オルガと、雨あられと降り注ぐ桜花を見つめ合った時を思い出すにつれ、淡い花びらの色彩に赤い怨念の情が映し出される。



さても、フランツ・シューベルトである。

彼は十界互具(じっかいごぐ)せる世界を音にした作曲家である。十界とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏界のことで、存在のカテゴリーである。これを現代語で説明してみれば、シューベルトは、天と地、仏界と魔界、春夏秋冬、そう、山川草木人獣鳥虫すべてを変幻自在に表現出来た作曲家と言えるのだが、春の憧れと残酷を、顕現させる曲をたくさん書いた人でもある。彼は、31歳の生涯で1千曲以上を書き上げた人だから、季節の限定は危険ではあるが、冬と春を描くのに巧みであった。ちなみに、彼は、楽曲の大半を、誰かに頼まれもしないのに書いた。彼は、めん鳥がせっせと卵を生むように曲を書き、積極的に社会に売り込もうとしない例外的な作曲家だった。当時の人には、金の卵の価値はほとんど理解されなかったのだ。そんな政治・経済学を有しない作曲家が他にいるだろうか。

『野薔薇』『緑野の歌』『ミューズの子』『蝶』等の歌曲は、自然の命の躍動感を写し取ったかのようであり、代表作『冬の旅』中の『春の夢』は、最期の冬をあてどもなく旅する悲しい男の見る幻の追憶である。最初の連作歌曲集『美しき水車小屋の娘』は、恋に敗れ、春の小川に成仏する若者の悲哀を言い尽くして限りがない。

3曲ある『バイオリン・ソナチネ』や『ピアノ三重奏曲第1番・変ロ長調』、『未完成交響曲(ロ短調)』より前の若書きの交響曲や、劇音楽『ロザムンデ』などは、春を表す季語が聴き取れ、優しさと喜びにあふれている。

ただ、こんな優美な楽曲のどこかに、いや、至るところに、シューベルトの悲しみは、尽きることなく歌い続けられる。それは、耳をふさごうが、曲の音響が終わっても、えんえん続くのである。名だたる作曲家には、悲しみの色というものがあるのだが、シューベルトの悲しみは、どうにも業のように深く、永劫に癒されることのない、絶対持続の悲しみだ。生き物が生まれた限り、抱え続ける、かなしみ――どんな曲を書くときもシューベルトはそのことを忘れなかった。これは、クリエーターとしてはつらいことであり、彼の指先からは自然にそういうものが流れだし、彼はその意味を常に問うように曲を書いた。彼の早すぎる晩年の音楽的深化はここに由来する。シューベルトを書き殴り屋だと誹謗するものは、この悲しみを聴き取れないものに他ならない。

絶対持続の悲しみを、最期の歌曲集『白鳥の歌』の後半で、ハインリッヒ・ハイネの『歌の本』の『帰郷』より、たった6詩を選び取って、題名を付して、それらを氷に閉じ込めたシューベルト――この世の人間の力ではどうにもならない力と必死にあらがうシューベルト。ここには、彼の文学的教養と感受性を疑うものに対しては決定的な回答があるし、また、現代音楽の方法を導いた先見性が豊富に見出される。ワーグナーには告白がなかったが、彼の楽劇の伝統を逸脱した方法と、新ウィーン学派の無調と表現主義の淵源はここにあるのである。ただ、彼らには、シューベルトの黄泉のデーモンが決定的にない。

なお、この歌曲集は、シューベルトの死後、出版者・ハスリンガーが3人の詩人に付曲されたものを、一つの表題を付して2冊にまとめたものである。

『白鳥の歌』の後半は、100か0の幸か不幸かしか望まない男が、天を担ぎ支えなければならなくなった業苦を嘆く『アトラス』(『歌の本』「帰郷」第24)で幕が開く。世界の業苦は、アトラスの叫びでもある。それは奇しくも、ベートーヴェン後ドイツ浪漫派を一身に背負うシューベルトの姿とも重なる。忍び寄るような暗いピアノの二つ音から導かれる『彼女の肖像』(同23)の優しいメロディーは、オルガの不在の追憶だ。鎮魂歌のように伸びる旋律は、嘆きをますます激しいものとする。極度に音符が切り詰められる音空間は、時間を失った男のミニチュアでもある。一見スキップするように、楽しそうに始まる『漁師の娘』(同8)とのランデブーは、瀬踏みのバルカローレのリズムの繰り返しが、永遠の他者性と恋の不成就を象徴する。

神秘的で不気味なピアノ伴奏が、蜃気楼のように『都会』(同16)の幻影を現出させる。オルガを失った場所を、また、私は往ったり来たり、さまよっているのだ。『海辺にて』(同14)は終始、沈痛な表情を隠さない。不幸な女が流す涙が、白い手に落ちて、手を濡らした。そして私はその涙を、女の手を口に当ててすすった。それからというものは、女の涙が毒となって私の体に棲み着いているのだ。

『影法師』の街は、夜の闇に死んでいた。丑三つ時、一人の男が、ある廃屋の前でたたずんでいるのが見える。男は、激しく苦痛に身をよじり、天を仰いでいた。弔いの鐘のようなパッサカリアのピアノの霊気に乗せて、祈祷文のレチタティーヴォが始まる。それは、しだいに叫びとなりメロディーを消し去り、その身を真っ二つに引き裂いた。月明かりに見えたドッペルゲンガーの割れた顔は、私のものだった。その時、アスファルトの上の私の影がいつの間にかなくなっていて、私は空中分解していた。

そして、終曲の『鳩のたより』(ザイドル詩)で、空中分解した私の阿頼耶識が、ふたたび呼び寄せられ、やわらかな鳩の羽ばたきに乗って大空に運ばれて、5月の蒼穹のうちに成仏するさまを描き切るのだ。なんという魔法であろうか。



私の仕事は、その音を探り当てることである。我々には、こういう音楽に触れ、音の実相を聴くことによって、解脱を得ることも可能なのである。シューベルトやブルックナーは、宇宙意志の形而上学を音に自然に組み立て、さらに、そこからの解脱を表現した。それは、銀河宇宙が始まった時から鳴り響いていた音であり、解脱の方法は、彼らの清浄な個性と利己的な愛を離れた慈悲の努力による。宇宙意志の偉大さと恐怖を曲にしたものは、少なからず存在するが、そこに留まらず、己を捨てて、解脱への方便を作曲したものは極めて少ない。

まずは、『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』『白鳥の歌』と、三大歌曲集を聴くべし。次に、『交響曲第9番・ハ長調 ザ・グレイト』『弦楽五重奏曲・ハ長調』『弦楽四重奏曲・ニ短調 死と乙女』、さらに、『ピアノ・ソナタ第14番・イ短調』『同16番・同』『同19番・ハ短調』『同20番・イ長調』『同21番・変ロ長調』を落としてはなるまい。ここには、音楽芸術の究竟の高みがある。





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最終更新日  2006年05月09日 17時06分52秒
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