2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

2007年10月07日
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カテゴリ: 仏法
 家で誦経(ずきょう)するように滞りなく出来るか不安であったが、ここで言えないと、今夜でグリドラクータ(霊鷲山=りょうじゅせん)の夜も終わってしまうのかと勝手に決め込み、ボンゾは咳払いを2回すると、気合を入れて、『方便品(ほうべんぽん)』の有名なくだりを唱え始めた。

「……所以者何(しょいーしゃーが)。仏所成就(ぶっしょーじょーじゅ)。第一希有(だいいちけーう)。難解之法(なんげーしーほう)。唯仏与仏(ゆいぶつよーぶつ)。乃能究尽(ないのーくーじん)。諸法実相(しょーほうじっそー)。所謂諸法(しょいーしょほー)。如是相(にょぜーそう)、如是性(にょぜーしょう)、如是体(にょぜーたい)、如是力(にょーぜーりき)、如是作(にょーぜーさー)、如是因(にょーぜーいん)、如是縁(にょーぜーえん)、如是果(にょーぜーかー)、如是報(にょーぜーほう)、如是本末究竟等(にょーぜーほんまっくーきょうとー)」

 ボンゾとアナンタ・チャーリトラ(無辺行菩薩=むへんぎょうぼさつ)のみの世界となったグリドラクータの闇のなかで、ボンゾの普段の声量をはるかに飛び越え、それはマイクロフォンを通した宇宙コンサートの主の他人の声のように朗々と響きわたった。

「おぬし、なかなかいい声じゃ。わしの前世は中華の坊主だったが、倭語(わご)の音読みでも充分美しいもんじゃのう。むしろ、こちらの方が、五音がはっきりしていて、区切りも良く、落ち着いていて、いいかも知れん。これも、羅什(らじゅう)の書き換えの成せる業じゃ。中華でも、朝鮮でも、倭でも、どの国の言葉でも、等しく音楽になるように、漢字が配列されておるのじゃ。梵語の原語よりはるかに、こちらの方が美しい。序巻にもあるように、『妙法蓮華経』は、東アジアでひろがるとの釈尊の預言があったが、特にうぬの生国の倭国に、この経が保持されると白毫相(びゃくごうそう)が光を貫いたとおりじゃ。わしの解説(げせつ)した一念三千(いちねんさんぜん)理論体系も、倭国の台宗(たいしゅう)のなかで成熟をみて、新義台にいたり修行の事(じ)を得るようになったのじゃからな。

 21世紀という末の世に、『妙法蓮華経』が一番、人々に読誦(どくじゅ)されている国は、倭国に他ならない。しかるに、経文がいまだに一部宗教的営業団体の玩具の状態なのは悲しいことじゃ。ボンゾよ、西暦2020年より、いよいよ本当の末法に突入する。それは、うぬが預言したとおりじゃ。白蓮(びゃくれん)の法を真実に復活させるもの、それは、すぐれた文学的表現力をもつものであり、それと同時に幻視の音楽を奏でることの出来るサットヴァのみが成せる業じゃ」

「しかし、それは、絶望的な話です」

「なにをぬかすのじゃ。それは、そなたの文業と幻視にかかっておるのじゃ」

「なんということを、おっしゃるのでしょう。この国では、わたくし以前のとっくの昔に、真の文学的表現は尽きております。わたくしは文学者としては挫折いたしたものであります。一般に表現力が下った現代においてすらも、わたくしの文学的才能は認められてはおりません。以前にも申したとおり、わたくしは、一介の独覚(どっかく)であります。また、それでいいのです」

「いいや、それは、わしが許さん。おぬしの文学的才能を誰が、判定したというのじゃ。そんな奴らこそは、文学のくずのような男だったのじゃろう。うぬを見込んで、今晩は、一念三千の理法の円満を講ぜよう。わしが華人として骨肉のあるころの講義ではどうしても舌足らずだったところだ。その後、うぬの国の蓮法師が、わしの一念三千の理法から、一念三千の事法を導き出し、経文をからだで読み込む色読(しきどく)と、『妙法蓮華経』の題目音読と、経文信心に身口意三密(しんくいさんみつ)を置き換え、相即相入させ、凡夫(ぼんぷ)の実践としたのじゃが、わしがいわんとする本当の理の体系を、おぬしに進ぜよう。もう一度言うが、台の根本の一大事は、一念三千の理法にあるのじゃ。これが、根本識を時空にひらくものであり、覚悟あるアーラヤが、この理に触れると、とんでもないことになるのじゃ。よくよく、うぬの色心(しきしん)にとどめ、うつつに戻ったならば、おぬしの文章力(りき)で書き直し、大衆(だいしゅ)に示すがよい。わしも、それをひそかに期するところじゃ。



 うぬは、すでに台宗の素養のあるものだから、骨格だけをつないでゆこうぞ。
それでは、『十界(じっかい)』を口に出して言ってみい」

「仏教でいう存在と生存のカテゴリーです。迷える世界から覚りの世界への存在領域、すなわち、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅(あしゅら)、人間、天上、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏界のことです」

「そのとおりじゃ。うぬの住む人間界にもまた十界が具足(ぐそく)しておるのじゃ。戦争で、爆弾や銃弾や核が落ちれば、人間界にあってもそこは即地獄であろう。人間界で戦争が始まれば、勝者の論理で合法的な殺人だと定義されるが、因と縁によりその指導と前線の渦中にいる人間は、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四界をめぐる化身であり、人間道をたもつことが出来ない。

 現代倭国のように科学文明がゆきわたり、平和を享受するな国家ではあっても、天界どまりの仕合わせぐらいがせいぜいじゃがのう。心を清くし、行いをただせば、有頂天あたりものぞけるじゃろうが、大多数の労働者・資本家たちは、市場原理で価値をはかる経済社会システムに侵され、その心は人間をよそおう修羅と畜生と餓鬼じゃ。競争に敗れ、借金と犯罪に手を染めるものは、人の財産を盗み、或はみずからに命を絶ち、或は他人を殺し、ひとりひとりばらばらと地獄に堕ちてゆく。

 しかるに、仏縁にふれて菩提心をおこせば、縁覚以上の四界が見えて来よう。阿含(あごん)や諸々の大乗経典を手に取り、諸行無常の空観(くうがん)を体得すれば、声聞・縁覚にはなれよう。ところが、この二界にも阿修羅の自殺の可能性は残されておるのじゃ。彼らは、自らの覚りのみに専念することによって、あらたな煩悩に陥る。というのも、利他を忘れた彼らには、色心の解放というものがないからじゃ。孤独な自利の修行を進めてゆくにつれ、彼らは、色(しき)を分析し尽くし、空(くう)を突き詰め、覚りの妄執に固められ、みずからの色心にあつめられた五蘊(ごうん)がばらばらになったような虚無感を包まれるようになり、やがては生き物としての生の喜びをうしない、草木が枯れるように若くして骨から枯れてゆくのじゃ。

 彼らが、再び仏法を取り戻すためには、大乗の般若の空だけではおよばない。さらに、『妙法蓮華』をひもとき、五種法師(ごしゅほっし)にならんとすれば、慈悲をやがては覚り、利他をじねんに及ぼせば、加持身(かじしん)がやって来て菩薩の道が見えてこよう。そして、菩薩の加持身が、文底秘沈(もんていひちん)の仏法の究竟(くきょう)にふれるとき、即身にして成仏が成り立ち、仏の本地身(ほんじしん)が説法するのじゃ。このとき、空と慈悲が、くるまの両輪のようにひとしく円満に転がり、修行者は、法華に転がされ、法華を転がし、そしてついには、法華が法華を転がすのじゃ。それは、究竟(くきょう)の法身説法(ほっしんせっぽう)のときなのじゃ。

 同様に、他の九界にも、たがいに十界は互具(ごぐ)しよう。地獄にも、修羅道にも、仏・菩薩の階段はあるのじゃ。それが、種となればこそ、悪人・悪霊の成仏もあり得るのじゃ。一方、仏・菩薩界といえども、絶対界とは言えず、そこにも絶え間なき修行はあり、堕落すれば地獄や餓鬼も示現するのじゃ。応身仏であられたゴータマ・ブッダは、久遠実成(くおんじつじょう)のシャーキヤムニ・ブッダとなられた後も、無住処涅槃(むじゅうしょねはん)におられ、我々と一緒に修行されておられるのじゃ。ゴータマは、言語のうえでのつくりものの神ではない。往来永劫を回帰する仏じゃ。真実の仏・菩薩は、一カ所にとどまらず、じしん衆生を見守るとともに衆生とともに修行されておるのじゃ。

 シャーキヤムニ・ブッダも言われたが、我々は、成仏したのちは、無住処涅槃におもむき、すなわち、この世とあの世を自在に往き交い、娑婆(サハー)世界を利するのじゃ。仏菩薩には、形がない。仏像には、はっきり形があるではないかと愚かな衆生は言うじゃろうけれど、ある生きている人間がどんな器量が良い人間でも、悪い人間でも、ひとつしか顔を持たぬようには仏像は作られてはおらない。

 いったい、たとえばシャーキヤムニ・ブッダのお顔は、この娑婆世界にいくつあるのだというのじゃ。天竺国、西域、毛唐国では、その地方のお顔になり、中華や朝鮮、倭国では、例外もあろうが、モンゴロイドのお顔になる。すなわち、仏菩薩は色心そなえる応身(おうじん)時代の御姿は、衆生と同じ一つだったにもかかわらず、形なき仏・菩薩となられた後には、百千万億のお顔があり、どれも方便の姿なのじゃ。その御姿は衆生に慰安と祈りを与えるが、偶像崇拝がゆき過ぎればそれも煩悩と堕し、仏法を損なうことになろう。

 地獄、餓鬼、畜生、阿修羅(あしゅら)、人間、天上、縁覚、声聞、菩薩、仏界の十界に、それぞれのなかの十界が掛け合わせられ、百界となる。これが、十界互具じゃ。谷底の深淵といえども、悪人成仏の種はあり、天上、仏菩薩といえども、絶え間なき修行があるということ、仏道とは、そうとう厳しい教えなのじゃ。


 アナンタ・チャーリトラは、原本の『サッダルマ・プダリーカ・スートラ』にはない、十如是がよほどお好きなようだった。

「諸々の法が、どのような特性・属性をもち、どのような本質を有するのか、主体としてどのような形体をたもつのか、その形体にはどのような潜在能力があって、それが顕現作してどのような活動をするのか、どのような直接的な原因があるのか、どのような間接的な原因と条件があるのか、それらによってどのような直接的な結果があるのか、またどのような間接的な結果があるのか、そして第一の相から、性、体、力、作、因、縁、果、報の第九までの事柄が究極的にどのように無差別平等に一貫してゆきわたっているのか、以上の十のカテゴリーにおいて、実相をむすび、諸法の実相を知られるをいいます」

「よいかな。よく言えた。そのことは、仏菩薩だけが、知っているのであって、声聞・縁覚らの、あずかり知るところではないところじゃ。空法を覚った声聞・縁覚の二乗は、仏法を方程式のように考え、空が絶対の真理であると固定化させ、空があたかも実体としてあるかのような錯覚を抱くようになってしまった。空に溺れる阿羅漢(あらかん)たちは、人生の傍観者と成り果て、慈悲の因と縁をはなれ、実践を離れ、仏法を学問とし磨き立て、修行は自己満足でしかなくなった。そこで、慈悲深きゴータマ・ブッダは、『お前たちでも、成仏はかなうのだ』と一乗妙法を示され、彼らに救いの手を差し延べたのじゃ。その御言葉に、二乗たちの目からうろこが落ちて、まずはブッダの慈悲を知るようになる。慈悲をもらった彼らは、じねんに慈悲を返すことを思い、一乗たる菩薩道、すなわち仏道を歩むことになったのじゃ。

 諸法の実相、つまり、ありのままの世界を観察すれば、空は色の、色は空の裏側に固定化されるものではなく、十界互具の百界が、十如是と仮和合(けわごう)して、法界は千界真如(せんかいしんにょ)に現成(げんじょう)する。羅什の『妙法蓮華経』で説かれるのは、ここまでじゃ。いうまでもなく、梵本の『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』には、十如是はない。羅什が、白蓮の法を方広(ほうこう)するために忍び込ませた作為じゃ。しかるに、さらなる三世間(さんせけん)が必要じゃった。これは数合わせではない。妙法蓮華を即身成仏方便経とするために補足かつ解説せねばならぬものだったのじゃ」

(陰暦8月27日楽天大衆に示す 『法華経秘釈』第2巻つづく)





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最終更新日  2007年10月07日 10時50分09秒


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