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背番号27(その5)
背番号27の第5回目です
ここまで13名の選手を紹介してきたんだけど 5年着けた人が最長だったよね 今回は初めて10年以上付けた人が登場するよ
この人は毎日オリオンズで8年プレーしてからトレードでタイガースに来てそこから11年も現役で頑張った選手 しかもそのあとさらに広島へ移籍して2年プレーしてる息の長い選手生活を送ってます コーチとして指導してもらった投手も多いのよ
今回はほかにも2名の選手を掲載しますよ 読んでみてね
若生 智男 投手
宮城県仙台市太白区の出身で高校は名門東北高校。甲子園出場はならず、1956(昭和31)年に高校を卒業後すぐに毎日オリオンズに入団している。
1960(昭和35)年、入団5年目にして一気に能力が開花する。44試合(先発28)13勝8敗、196回1 /
3を投げて自責点47、防御率2 .
15の好成績を残し、リーグ優勝へ貢献した。若生は日本シリーズでも第2戦の先発を含め2試合に登板しているが大洋ホエールズに4連敗で日本一は逃している。
翌1961(昭和36)年が50試合9勝9敗、防御率3 . 19、さらに1962(昭和37)年には55試合15勝13敗、防御率2 . 73と主力投手に成長する。
ところが1963(昭和38)年、18試合で3勝7敗に終わって迎えた秋、あの小山正明・山内和弘の「世紀のトレード」が世間を揺るがせる。
エースと4番打者の交換という電撃的なトレードに注目が集まる中、小山を失うタイガースと山内を失うオリオンズがマイク・ソロムコと若生を交換するという穴埋めトレードを行ったことで、若生はタイガースに移籍してくる。
翌1964(昭和39)年、タイガースはリーグ優勝した年だが、移籍1年目の若生は33試合5勝6敗で防御率3 .
15という成績に終わっている。日本シリーズでは中継ぎとして2試合に登板したが、南海ホークスに敗れ日本一にはなれなかった。
1966(昭和ア41)年には移籍3年目にして10勝4敗と二けた勝利を挙げ、1969(昭和44)年から12勝12敗、13勝10敗、10勝12敗と3年連続で二けた勝利を記録するなど、先発とリリーフを掛け持ちでよく頑張っている。
若生は182センチで当時としては大柄で、ストレートも威力がある本格派投手だったが、野球は頭を使うものという持論を持っていた。
若生がタイガースで活躍したのはONを擁した巨人の全盛期に重なっている。その凌ぎあいの中で若生は伝統の一戦で王の内角を突いて三振を奪った際、自身の頭を指さし「投手はここや」と満足そうに笑っていたという逸話が残っており、その教えは引退した後のコーチ業でも若い選手への指導の中で伝授されていくことになる。
1971年の10勝を最後に二けた勝てなくなり、1974年は7勝を挙げたものの、新監督となった吉田義男がストッパー獲得のために広島の安仁屋宗八との交換で放出してしまう。
タイガースには11年間在籍し、背番号は「27」で通しており、348試合72勝74敗、1295回を投げ自責点374、防御率2 .
60の数字を残した。通算121勝のうち半分以上をタイガース在籍中に稼いだことになる。
広島に移籍した1年目の1975(昭和50)年は広島が初優勝した年である。若生は20試合に登板し7度の先発も務めるなど3勝3敗1セーブ、防御率3 .
06と貢献している。若生は日本シリーズでも第1戦と第6戦にリリーフで登板しているものの、またしても日本一は成らな
かった。
しかし若生は所属した3球団すべてでリーグ優勝を経験し3度の日本シリーズに登板するという珍しい記録を残したことになる。
1976(昭和51)年のシーズンはさすがに衰えが目立ち、19試合で0勝1敗1セーブの成績で終わると現役を退いた。
通算成績は628試合(先発267)121勝120敗2セーブ、2260回1 / 3を投げて奪三振1396、632四球、自責点680で防御率2 . 71という立派な数字を残す。
引退後は広島やロッテの投手コーチを経て、1984(昭和59)年からタイガースのコーチに就任する。日本一となった1985(昭和60)年はファームの投手コーチを務めている。翌年はフロント入りしチーム編成に携わる。
1990(平成2)年からダイエーでコーチやスカウト、1993(平成5)年からは横浜に招かれ二軍投手コーチなどを務めた。
2024年6月3日に船橋市内の病院で死去。87歳。
宮崎 昭二 投手
佐賀県鹿島市の出身で鹿島高校2年時の夏の選手権で甲子園を経験している。この時はエースとしてベスト4まで進んだが、準決勝で法政二高の柴田勲(のち巨人)に投げ負けて涙を呑んでいる。
宮崎はプロ生活14年の実績を持つがタイガースにいたのは現役最後の1年だけであり、1962(昭和37)年に高校を出て入った球団は東映フライヤーズだった。ここで13年間在籍している。
東映では396試合に投げている。そのうち363試合はリリーフだったこともあり、ルーキーの時から13年間毎年一軍のブルペンには入っている。
1967(昭和42)年には唯一の二けた勝利となる12勝を挙げているが、自己最多の58試合に登板して先発が3試合ということから、ほぼ救援での勝ち星ということになる。
1974(昭和49)年のオフにタイガースへ移籍。背番号は若生の着けていた「27」を継承している。
しかしタイガースではわずか3試合のリリーフ登板に終わって勝ち負けもなく、1年で引退してしまったため宮崎を覚えている人はごく少ないだろう。
通算成績は399試合38勝46敗、889回1 / 3を投げ481奪三振、314四球、自責点は338で防御率3 . 42。
宮田 典計(のりかず) 投手
兵庫県加東郡社町の出身で高校は県立社(やしろ)高校。高校時代は無名で卒業後は社会人の鐘淵化学へ進む。1974(昭和49)年の都市対抗野球本戦で1回戦で完封勝ちを収めるなど好投したことで評価が高まる。
1975(昭和50)年の社会人日本選手権は4試合すべての先発して2完封。チームを優勝に導きMVPを獲得したことで、同年秋のドラフト会議でタイガースから3巡目で指名されて入団することになる。背番号は宮崎の着けていた「27」を引き継いだ。
ルーキーシーズンの1976(昭和51)年は1試合、翌1977(昭和52)年は2試合しか登板機会がなかった。
3年目の1978(昭和53)年、14試合で1勝1敗、防御率3 . 77の数字を残したが、9月27日の対中日26回戦での勝利がプロで挙げた唯一の白星となる。
続く2年間は、7試合、4試合の登板で敗戦処理。1981(昭和56)年のシーズン途中に阪急ブレーブスへ金銭トレードにより移籍する。
阪急では3年間現役を続けたが8試合しか登板機会はなく、1983年で現役をあきらめ、翌年から打撃投手になっている。
球団がオリックスになっても引き続き打撃投手やスコアラーを務めており、イチローが入団してからは「専属の打撃投手」として調整に貢献していた。
2001(平成13)年からはオリックスのフロント入り、ファームの寮長などを務め2021(令和3)年3月に退職。
通算成績は36試合1勝1敗、68回1 / 3で自責点38、防御率5 . 00。
まとめ
若生さんは小山さん=山内さんの「世紀のトレード」に巻き込まれる形でタイガースに来たんだねえ でも11年間も投げてくれて72勝を挙げてるのは貢献してくれた部類に入るよね しかもコーチ時代の教え子も多いし一人前にしてもらってるわ
宮崎さんは覚えてる人いるのかなって・・・ 第 1 期吉田監督の1年目に在籍してるからどうなのかな 先代は全く知らなかったようだけど
宮田さんもかなり怪しいかな タイガースファンよりオリックスファンのほうがよく知ってそうだね
背番号27―6につづく
タイガース背番号史 27-6 2024年12月03日 コメント(2)
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