ペトラプト・パルテプト

第2話 夕焼け その2

『 おかえりなさい! 』







第2話  夕焼け  ~ Abendröte ~ その2







「ほぅー。巴御前様にはお気に召されまへんか?」



その声の主にギョッとする。ありえない人物の声だからだ。



「ええっ! 山田課長! どうして? いつ帰っていらしたのですか? 来週の予定では!?」



思わず立ち上がって声の主を見た。


やや薄くなった頭髪をかきながら、小太りの中年の男性が立っていた。

この人が20年以上も海外三課に君臨する偉大な!?課長だ。

本来なら海外事業部長とか専務とかに出世していてもおかしくない人なのだが、EC専に対する想いは他人には理解できないくらい深いらしく生涯をこの海外三課に捧げているらしい。


もっとも出張と言う名目で欧州を遊び歩いていけるからと言う噂もあるのだけれど。




「いやぁ、急用ができてなぁ。14時の便で帰ってきたとこなんや。たまには巴御前様の顔も拝んどかんとあかんやろ。ごくろうさん。」



「拝んでおくって…!? イタリアのカルツェッタ・ミラノ社との契約は?」



ある程度の予想はついているけどね…。とりあえず聞いてみる。



「ああ、昨日済んどるよ。ほれ!」



聞かなきゃよかった。やっぱり…。




そういって課長は私の机に分厚い書類の束を投げ置いた。

かなり重要な書類のはずだが、とじ方が妙だ。

こういう表現は不謹慎かもしれないけど、まるで古新聞を集めたような感じに見える。

いかにも課長らしいと言えばそうなんだけどね。



「課長…!? よかったぁ。帰ってきてくれたんですね。」



西野さんの顔が明るくなった。


私もその気持ちはわからないでもないような気がする。

課長の雰囲気と言うかオーラはどこか人を安心させる感じがするから。

それくらい見た目と存在のギャップが激しい。この海外三課に勤める人の特徴のまさに頂点に立つ人だからだ。



ということは私も案外ギャップが激しい!? そんなこと…まさかね!?





「小夏ちゃんに喜んでもらえて嬉しいな。わしも会いたかったでぇー。」



山田課長は両手を広げて西野さんを抱きしめようとした。


西野さんはぽやぽやとした表情で微笑んでいる。

この娘らしいやわらかい笑顔だ。



あっ、そうじゃなくて、ちょっと待って!!





「課長、それセクハラ!」




私は鋭く言い放った。


さもないと西野さんに再会のキスすらしそうな勢いだ。さすがに職場では勘弁して欲しい。

職場以外でも勘弁して欲しいけど。



「あ~ん、巴ちゃんは厳しいなぁ。こんなんイタリアでは当たり前やのに…。」


山田課長は残念そうな顔をして苦笑した。どうやらセクハラは免れたみたいだ。

もっともどこまでが冗談でどこまでが本気かはわからない。いや、たぶん本気だろう。



私も何度かされそうになったことはある。


奇しくも成功させてしまったのは一度だけだったが、その時は意外にもこの脂ぎった中年男性に嫌悪は微塵も感じられなかった。

ありえないくらい不思議なことなんだけど、嫌悪感を抱かない自分がいまだに納得いかない。


私の名誉のために言っておくけど、私その気はまったくないんだから。一応、頬にちょこんとされただけだし…。

立派なセクハラと言えばセクハラなんだけどね…。ちょっぴり嬉しかったのがいまだに悔しいような気がする。


だからといって、これ以上女子社員にセクハラを認めていいはずがないわ。

そして立場上、これ以上被害者を増やすわけにもいかない。



「ここは日本です。」


「ちゃうちゃう、大阪やんか。大阪。巴ちゃんもええ加減大阪に慣れてきたと思とったのにまだまだやなぁ。大阪でも当たり前やでぇ。」


「どこの大阪ですか課長? セクハラしてもいいなんて大阪は!」


「そりゃやっぱり…って、何を言わせるんや。あかんでー、セクハラは! 訴えられたらかなわんし。」


「それで済みませんよ!」



私はビッとひとさし指を立てて睨んだ。自然と眉間にしわが寄る。



「怒らんといてぇな。久しぶりに我が家に帰ってきたのに…。」


「我が家じゃなくて会社です。」


「わしにとったらここは我が家も同然や。それも大家族やんか。」




まったく、あー言えばこう言う。




「課長!!」


「あ~巴御前様はご立腹のようすやなぁ。せっかくの可愛い顔が台無しやでぇ。」




課長はそう言って私の肩をポンポンと叩き、職場に響き渡る号令をかけた。





「おーい!みんな元気にしとったか!」



それを聞いた海外三課の社員全員が仕事の手を止め、一斉にオーって言う掛け声とともにこぶしを振り上げる。

他の課の社員が見たら何が起こったのかと思うぐらい、喚声が海外三課のあるフロアに響き渡る。



いやたぶん、他の課もなんとも思わないんだろうな…。いつものことだし…。


なんど見てもおかしな光景であるが、伝統なのだから仕方がない。




さすがに私はこのノリにはついていけない。


私は椅子にへなへなと座り込んだ。



「もぅ、課長ったら…。」


そうは言ったものの、この明るい雰囲気は悪くない。むしろ暖かくっていい感じだと思う。


すべてが楽しい職場とは言わないけど、ここには人のぬくもりがある。







「ああそうや、小夏ちゃん!お茶入れて来てくれへんか? 久しぶりに日本のお茶が飲みたいなぁ。」


「はい♪ すぐにお持ちします。今ですね、とっておきのがあるんですよ。本当においしいんですから。」


「そうかありがとうな。ゆっくりでええで。」




だから、西野小夏ちゃんはお茶くみ女子社員じゃないって!



そう突っ込もうと思ったが、小夏ちゃんのあまりのけなげな笑顔に負けた。今時、何事にも全力投球できる貴重な人材だ。


お茶を頼まれて嬉しそうな彼女に何も言えない。





視線を落とすと古新聞の束、もとい課長のとってきた契約書の束が目に入った。



このかなり手の込んだ荷造りをしている契約書は後回しにしよう。それより…。




奇抜な社員旅行企画書を先に片付けるべきだわ。私の手に負えないしね。





「それで課長。この小野田さんの企画なのですけど…、その…。」


「小野田君の企画やったら、それでええんちゃうか。どれ…。」



課長は目を細め、企画書を読み始めた。途端に目が輝く。嫌な予感がした



「ほぉー、また凝った内容やな。おもろいから採用しよか!」


「って、それだけですか!?」


「相変わらずええセンスしてるやないか。これこそ社員旅行の醍醐味やなぁ。」


「醍醐味って、これの意味がわかっているのですか?」


「あぁ!? シェイクスピアやろ? ソルボンヌ大学の図書館にある仏語訳のやつ。昔よう読んださかいに。」



確かにシェイクスピアの一節が使われていた部分はあったけど…。内容に関係ない注訳だったような…。



「いや、そうじゃなくって。内容に関してです。」


「内容なんか乾杯してビール一杯飲んだら、後はなんでもええもんや! おもろいもん勝ちって言葉があるやろう?」


「ございません。」



それって酒飲みの屁理屈でしょ。



「巴ちゃんも飲んだら変身できるやないか。これかって同じことや。ほら、ここ見てみい。」



そういって企画書のある部分を部長は指差した。



「何ですか?」



ヘブライ語かラテン語らしいってのはわかったけど、さすがに読めない。



「準備するもんに平安末期の甲冑一式って書いてあるやろ。ラテン語は読めんかったか!? ようこんな訳し方を思いついたもんやな。
さすがは小野田君や。」


「甲冑一式ですか? そんなもの何に?」


「もちろん巴ちゃんの衣装ってことなんやろな。これで名実ともに『巴御前様』ってこっちゃ。あーでも馬はさすがに用意するんは
難しいんちゃうかな。園田競馬場から借りてこうか。」


「いりません!! な、なんで宴会に馬が必要なんですか! それ以前に甲冑なんて着ませんよ!」


「えーっ、似合いそうやのに…。フランスの支社長が見たら絶対泣いて喜ぶでぇ。それだけやない、世界中の取引先におる
巴ちゃんのファンが一度は見てみたい姿やと思うんやけど。せっかくの機会やからどうや。」


「駄目です。私、そういうの嫌いなんです。」


「そう言わんと、ちょっとだけでもどうや。乾杯の時だけでも。」


「お断りします。」


「う~、そうか残念やなぁ。あ~死ぬ前に一度巴ちゃんの晴れ姿見ておきたかった…。」



なんで晴れ姿なんだろ? 着物かもしないけど。



「まだまだ先の話ですね。でもそんな事ばかり言っていたら、ろくな死に方しませんよ。」


「そうやな6じゃなくって、8って感じやもんな。」


「なにがですか?」



「だから『しにがはち』、4かける2は8。」


「駄洒落ですか?」



「駄洒落は男の浪漫や。」


「もういいです。疲れましたから。」



ハ~っとため息をつく。なんで私、こんな仕事しているのだろう…。





「あれ? 今日はノリ悪いなぁ。疲れ溜まってんのんか? いかんなー。働きすぎは体に悪いでぇ。」


「だ、誰のせいで…。」



「よっしゃっ! わしにまかしとき。こんな時のために…。」


「こんな時の…ために…!?」



「温泉旅行なんてどうや。ゆっくり出来るでぇ。」


「温泉旅行…ですか?」



「せや、温泉旅行!ゆっくりのんびりポッかポカで命の洗濯やでぇ。」


「命の洗濯…。」



「海の幸、山の幸。おいしいもんをいっぱい食べて。」


「おいしいもの…。いっぱい…。」



「人間、うまいもんをたべる。こんな幸せなことはないやろ。」


「はぁ…。否定しませんけど…。」



「おーっと! こんなとこに温泉旅行の企画書が!」


「いや、あの、それって…。」



「なんや有馬温泉やないか。ええとこやで有馬は!」


「じゃなくって、その企画書は…。」



「というわけで、この社員旅行の企画書、柏葉さんに任せた。ほらこれですっきり・ゆっくり・のんびり・ポッかポカや!!」


「私が!?」



「巴ちゃんにまかせた。」


「えっ、だって私は…。」



『柏葉課長代理!そろそろいい加減に自分の立場と言うのを自覚したまえ。君はこの海外三課の課長代理だろう。
私の代わりにこれしきのことができなくてどうする!』



突然、課長が独語で怒鳴りだした。しかし…。



『あの…。変な独語でおっしゃられても意味は伝わるのですが…。発音が訛っていますよ。』


私は流暢な独語で返す。




「いやぁ、すまんなー。まだ伊語が抜けきってないみたいやな。時差ぼけのせいかぁ?」



いかにもとぼけたフリで今度は仏語だ。大阪弁ぽく訛って見せるのは課長の技かもしれない。




『課長に限って時差ぼけは考えられません。』



以前、課長に同席してイギリスに出張に出かけたことがあったのだが、時差の違いなど皆無に等しいくらい普段どおりなのだ。

しかも時計を持っていなくても現地時間をぴたりと言い当てられるくらい時間の感覚に優れた人だ。



これだけは断言できる。この人に限って時差ぼけなどありえない。




「まぁ、ということで後はよろしゅう頼むわ。明日は飛行機早いし…。」


「な、なんですって!?」



「そやから、明日は早いんや。ローマ行きが8時にでるさかい。」


「って、それじゃあ何しに帰ってきたんですか?」



「秘密なんやけどなぁ。実はなぁ…。」


「もういいです! 聞きたくありません。契約はこのとおり取ってこられたのですから。それに私としましてはまたイタリアに行く
理由がないと思うのですけど。」



「それがあかんねん。向こうの社長と一緒にゴルフしようかっちゅう話になってしもうてな。それで…。」


「それでゴルフバックを取りに帰ってきたわけですか? わざわざ日本まで!?」



「さすが巴ちゃん。何でもお見通しやな。」




やっぱり…。ということは…。





「でもそれだけやないんやで。今日は…。」


「お嬢さんの、あかりちゃんの誕生日ですよね?」



「あかん! そこまでバレてたんか!」


「先月、誕生日のプレゼントを何にしようか私に相談してきたの課長ですよ!




「あららぁ、やっぱり巴御前様にはかないまへんなぁ。さすがわしが見込んだだけはある。」




見込まれた覚えは…少しはあるかもしれないけど…。見込まれないほうが良かった…かも!?




「ゴルフの話まではは知りませんでしたけどね。」





身体中の力が抜けそうだった。

心の隅にほんのわずか残された気力でなんとか机に倒れるのを防いでる。




う~ん、いつものことだ。こんな事でめげちゃいけない。そう自分に言い聞かせた。

つらいのはいつもの事…。耐えるのもいつもの事…。







「課長~♪ お茶をお持ちしました。 あら、柏葉さん。どうかされました?」




元気いっぱいに西野さんが帰ってきた。テンション高いよ~。




「別に…。なんでもないわ。ちょっと疲れただけ…。」




がっくりとうなだれたい気分だわ。




「おお、小夏ちゃん。おおきにな。」




そう言って部長は西野さんからお茶を受け取るとホクホクした顔ですすりはじめた。


西野さんは試すかのような目で課長の姿を見ている。





「どうです。絶品でしょ! なかなか手に入らないんですよ、風月堂の一番煎茶。」


どうだと言わんばかりだ。嘘はついていない。私も知っている。




「ほぉ、こりゃいけるわ~。落ち着くなぁ~。やっぱり世界中回っても日本茶が一番や。」


「そりゃもうとっておきですからね~。」







そんな二人の会話を尻目に、目の前の二つの書類に頭を悩ましている私。
これはちょっと難題だわ。



ひとつは契約書だから、まぁいいとしても、もうひとつは…。


とりあえず順番に片付けるしかないのよね。とりあえず先に報告書を提出しなくちゃ…。これは終わったし…。


でもこれは…さすがに…。





「どうしたんや。巴ちゃん。お茶いらんのんか?」


「そうですよ柏葉さん。冷めないうちにどうぞ♪」



西野さんはそう言って、空になったコーヒーのカップを引き上げ、代わりにお茶を置いた。




「あ、ありがとう。」


「まだまだ若いんやから、もっと元気出さんとなぁ。」



それは全部、課長のせいでしょうがー! と叫んでやりたくなった。でもそこまでの気力がない。



「ほれあそこ見てみい。」



課長はそう言って西側の窓を指差した。硝子越しに夕暮れが迫ってきているのがわかる。


普段ならブラインドを閉じて西日を遮断しているのに、今日に限って開いている。




「きれいな夕焼けやろ。あれみたら明日もがんばろうって気にならへんか?」


「今日の問題がまだ解決していませんから…。」



一口、お茶を飲んだ。確かにとっておきのお茶らしい。お茶の香りを楽しみながら、ぼーっと西日を観賞する。





夕焼けか…。


オレンジ色のやわらかい光が射し込み、ビルの影を落としていった。


懐かしい色だな…。




あの頃の…。


そう、この色は昔から好きな色だ。思い出のいっぱい詰まったきれいなオレンジ色…。


そして約束の色…。








to be continue




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