原題の直訳は「アメリ・プーランの寓話的(or 架空の or 素敵な)運命」。父親が幼いアメリに聴診器を当てたとき、親から他にスキンシップをまったくされていなかったために、診察の際父親に触られるアメリは異常にドキドキし、結果父親は彼女が心臓障害だと判断。他の子供たちとつき合うこともなく、一人孤独の中で育てられた。また幼い彼女が母親とパリのノートルダム寺院を出てきたとき、投身自殺のカナダ人女性が母親の上に落ちてきた。妻を失い増々妻への思いに閉じこもる父親。そんな子供時代を過ごしたアメリは空想の世界に生き、また他者とのコミュニケーションに問題を抱えていた。アメリは22才で実家を出、パリ・モンマルトルのカフェ「レ・ドゥー・ムーラン」(2つの風車)で働いている。水切り遊びが好きで、それに適した薄い小石をみつけるとポケットに入れる彼女。モンマルトルの丘からパリの屋根屋根を眺めながら、「今絶頂に達しているカップルは?。15組。」などと空想を楽しむ、そんな彼女だ。時は1997年8月30日夜。ちょうどテレビがダイアナ妃の死を報じているとき、部屋の浴室のタイルが浮き、外したタイルの陰から昔このアパルトマンに住んでいた少年が隠したらしい宝物を発見する。そして彼女は大人になっているはずの40年前の少年を探し出し、その宝物を返してみようと思いたつ。それが成功して、自分だとは明かさずに40年後の少年が思い出で幸福感を得たのを見て、アメリは犯罪的でもある術策を駆使して、身近な人々の幸福の手助けをするようになる。かなりひとり良がりに。それは彼女がテレビでドキュメンタリーを見る70年くらい前のアメリ・プーラン、人々の困窮を一人で救おうとし、23才で夭逝した女性アメリ・プーランを彼女的になぞることでもあった。
さてここから冒頭に書いた「政治性」や「胡散臭さ」の問題。それはオドレイ・トトゥ演じる主人公「アメリ・プーラン」という名前だ。「AMELIE POULAIN」という綴りを並び換えると「OUI A L'AMI LE PEN」となる。訳すと「友人ル・ペンに賛成」ないし「友人ル・ペンにYESと言う」といった意味だ。LE PEN(ル・ペン)とは何者か。フランスの極右政党FNの党首ジャン=マリー・ルペンだ。彼は移民排斥やEU脱退、ユーロではなくフランス・フランへの回帰、その他右翼的主張の政治家だ。そのことを知ってこの映画を解釈し直したらどうなるだろうか。ここで語られるのはル・ペンないしジュネ監督の理想とする、移民のいない正当フランス人だけの伝統的なフランス人庶民の小さな幸せの礼賛ではないだろうか。そう言えばタイトルロールでフラン硬貨も大きく映されフランス人の郷愁を刺激するし、市場のみかんの価格ボードの原産地FRANCEの文字もしっかり映される。そう解釈すると、無邪気な顔をしたこの映画、普通のフランス人に監督(ないしル・ペン)の理想とする社会の良さをしみ込ませる洗脳的、マインドコントロール的映画と言えるのではないだろうか。移民はやはりいない方がいいから排斥すべきだ、そうすればこの映画の中の人々のようにフランス人の幸せな暮らしが戻ってくる、と。900万人以上のフランス人が観たのだから、アナグラムにサブリミナル効果はないだろうから、変なアナグラム(OUI A L'AMI LE PEN→AMELIE POULAIN)を使っていなければもっと巧みだったと言えるのかも知れない。