after father’s wake the long walk in the moonlight to the darkened house [written by Nicholas Virgilio] (試訳:父の通夜の後 / 月の光の中をずっと歩く/ 暗くなった家に向かって)
Between two mountains the wings of a gliding hawk balancing sunlight [written by David Elliot] (試訳:山々の狭間を/滑空する鷹の翼/陽光を天秤にかけるように)
「1拍」の文字数が多い分、情報量も多くて、日本語の五七五の倍ぐらいのことが言えている(普通の歌の歌詞などもそうである。英語の歌詞を直訳したらとても元歌のメロディには乗らない)。 が、そのために、これでは長すぎて俳句の真髄である「限界的に短い中に情景や心情をこめる」という感じが鈍くなる、という説があり、今の英文俳句は五七五にはこだわっていないらしい。音節にしたら2とか3の短いものが主流だそうだ。ようは、上記の「真髄」が生きていればいいのである。 そもそも、いくら「拍の数」が同じでも、やはり日本語と英語ではリズムが違うところが多々あり、上記のものを声に出して読んでみても必ずしも日本で言う俳句、という感じはしない。それはそれで味があるが。 逆に、日本語の俳句をそのまま「ガイジン」に読んでもらっても、母国語のリズムのくせがある人の場合、やはり「ヘン」になる。 「フッリーケーヤー カッワズトゥビカーム ミーズノーット!」 で、冒頭のFree care cowards to become Ms.Not になってしまうわけである。
ところで、「古池や~」の句(をはじめとした松尾芭蕉の句)は、世界中の俳句愛好者のバイブルであるらしい。まじめな「訳」もいくつも試みられている。その例は The old pond; A frog jumps in, The sound of the water. (R. H. Blyth訳)