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テレビの『歴史のみち歩き旅』とかいう番組で、街道好きになった。街道の歴史とか、経済とか、暮らしぶりをみてると実に面白い。ここの人達は、農業に優れているとか、商売に優れているとか、宗教が勢力だったとか。そこで、前から念願だった、司馬遼太郎の『街道をゆく』を読み始めた。司馬遼太郎先生をリスペクトしてるからね。歴史小説はほとんど読んだ。今度はこれかぁ~と…。全43冊だからね。読むだけじゃなく、ネットで探すだけでも時間がかかるよ。昨日も1円で出てる本を5冊見つけて注文した。つまり、送料だけで本が手に入った。日本ってなんて素晴らしい国なんだ。老後の歴史読書という楽しみを、ネットが応援してくれる。これを使わない手はない。ネットは実にありがたいなぁ~。『街道をゆく』全43冊中。12冊ゲットした。歴史読書って、本当に楽しいですね。
2016年08月04日
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国はどうやってできるのか?ロビンソンプロジェクト“名古屋弁はどこと似てる”から、奈良平安好きになった。“日本ってなんだ?”どうできてるんだに興味が広がり、さらにさかのぼって、古代史にハマってます。古代日本に影響を与えた国として、古代中国・中央アジアに興味津々。 歴史研究プロジェクトは、“世界は刺激しあって動いてる”と広がった。日本から、中央アジアまで攻めていってるわ。…だんだん大ぶろしきになってきたぞ!! 世界は、砂漠と山に突き当たったので、風が文化を伝えたとしか言えないわ。でも、秦までは西洋の香りがプンプンするわ。そして、大陸沿いに船は往来してたんじゃなかろうか?縄文人は、大陸との移動も可能な操船技術があったかもという八丈島の遺跡もある。砂漠からの風と、海の流れが日本をどんどん作ったみたいだ。 産経ニュースから、またまた日本に戻ってきた。ここ数日、国はどうしてできたか?を妄想してる。おいらの妄想は妄想まったくの嘘だけどね。図書館の考古学・歴史研究書を読んで、一応時代順に記録してる。その分からないところを妄想しているというわけだ。歴史ブログやユーチューブで観たことは、参考程度としているよ。 さて、大国主が、最後に淡路島に行ったって言うのは嘘だった。…嘘を書いてごめんね。記憶違いだったわ。淡路島に行って死んだのは、小彦名命だった。スクナヒコは、大国主を助けて戦った人だ。熊野の岬・淡路島に行って常世に行ったと古事記に書いてあった。淡路島に行ったのは、小彦名彦(スクナヒコ)だった。大己貴命(大国主)は、事代主と相談して、出雲を国譲りして、天孫系の后を迎える。美保や丹波出雲にいたが、大和事代主となる。神武皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライズヒメ)は、三輪大物主の娘である。三輪氏というのは、大国主・事代主・大物主の子孫と考えられる。当時の国津系のトップは出雲系だったってことだな。姻戚関係を結び、臣下になったってことかなぁ?大国主は、大和三輪山のご神体になったようだ。スサノオと大国主は、地祇(国津系)に分類されている。さて、これは、雄略天皇時代の大和のフォーメーションだ。三輪山を中心に物部・大伴・阿部が取り囲んでいる。 …同族もしくは臣下?そして、和爾・平群・葛城・巨勢・羽田・蘇我が囲んでいる。 …元王たち?当時葛城氏は大勢力だった。次々と后を出していた。 大和は、農地を持つ国ではない。中央集権の都市首都としてできているのだ。臣…平群臣・蘇我臣・吉備臣 …国津系の王族の子孫か?連…大伴連・物部連・忌部連 …武官?直属系?伴造…鳥飼部・陶部・鞍部など、スペシャル技術者集団 渡来系?国譲りと婚姻によって国がまとめられていったような気がする。ここがほかの国づくりと大きく違うところだな。このあと、葛城氏・蘇我氏・吉備氏は、次々滅ぼされることになる。 …国津系をそして次に力を持った、大伴氏・物部氏・巨勢氏が九州磐井の反乱を抑える。 …直属系 さて、もう一人、国づくりで大活躍したニギハヤヒが気にかかる。ニギハヤヒは、ニニギノミコトの兄弟といわれる。つまり、天孫系である。当時の大阪辺りの国王ナガスネヒコの娘と結婚をしている。そして、最初に大和を平定していた。つまり、大和ができるまでの国津系のベストオブキングは、 大国主(大物主)とナガスネヒコだったわけだ。 ニギハヤヒは、イワレヒコとお互いの王の印(レガリア)を見せあってから、国譲りを決める。…なぜここで、禅譲したのか?そこに興味があるなぁ。 その後ナガスネヒコは死ぬが、ニギハヤヒはどうなった??初代王となるはずだった人なんだけど…。ニギハヤヒは、日本書紀には書かれていない。消された天孫系の王子だ!『先代旧事日本書紀』には、アマテラスの孫の火明命(ホアカリノミコト)が河内国に天降ったとされる。尾張・物部が同祖先とされるが…??ニギハヤヒも河内に天降って、その後大和に移動している。混同しているのか、同一人物なのかわからない。『新撰姓氏録』では、ニギハヤヒの子孫は、物部氏となっている。物部氏は、天孫族に分類。遠賀川流域に、二田物部・嶋渡物部・坂戸物部が見られる。ニギハヤヒの領地は、遠賀川流域にあったのかと思われる。 今朝は、雨だからね。古代の妄想に漂った。古代の王、ナガスネヒコと大物主に思いをはせて終わろう。
2016年04月14日
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神武天皇の没後何年?ニュースで神武何年の行事ってのを見た。何年か調べてみた。皇祖・神武天皇の没後2600年の命日とされる3日、奈良県橿原市の神武天皇陵で式年祭の山陵の儀が行われ、天皇、皇后両陛下が厳かに参拝された。神武天皇の式年祭は大正5年以来100年ぶり。 4月9日 産経ニュース皇室ウィークリーより皇室の記録によると、神武天皇没後2600年だそうだ。今年が、2016年だから、紀元前584年に亡くなったことになる。即位は、紀元前660年1月1日みたいですが、即位時に52歳とあるので、 …wikipediaより生まれたのは、紀元前712年みたい。西周末期。 天照大神がニニギノミコトに葦原中国を治めるように言い、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命を伴に 日向の高千穂の峰に降ったという。先導は猿田彦だった。ニニギノミコトの子どもが海幸山幸、孫がウガヤフキアエズの命。ひ孫が神武天皇。天孫族3代で100年としても、高千穂の峰に降ったのは、紀元前810年ごろとなるのかなぁ?紀元前800年代は、周の力が落ちてきて、10番目の王が追放された時代ですねぇ。 こんな時に天降ってきた人たちですから、一緒に来た部下も軍事・祭祀・金属技術者・踊り・鏡作り・玉造の専門家をそろえている。当然文字や天文の知識もあったでしょう。妄想ですが、周時代には各国が記録を残してますから記録もできる人がいたんじゃないでしょうか? だから、それほど大きな誤差はないんじゃないでしょうかねぇ。おいらはそう思います。
2016年04月12日
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姫氏から黄帝へたどり着く中国のキングはどこから来るのか考えた。周時代のキングは、姫氏。姫氏はどこから来たと思う?何と中国の始まりとされる、黄帝に繋がった。 もっと古い中国の神話を調べていたら、『史記五帝本記第一黄帝』というのがあるそうで、 以下ウィペディア『黄帝』司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊、昌意の父。 彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。ここまでたどり着いて、将門Web:司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』 - livedoor Blog ... このblogを見つけたら、読みこんじゃって午前中が終わった。あかんあかん。ルーティンを崩したわ。自給自足おばさんは、畑をしなくっちゃ。歴史ではお腹が膨れないわ。 中国の始まりは、少典の子孫が国を作った?神話伝説時代7 神農氏から黄帝へ こんな面白そうなブログも見つけた。 PS.あれ首露王の母親は、伽耶山の女神正見母主。中国人だったとか?祖先は、黄帝の子で、少昊金天氏…という話も?韓国の王様も姫氏だったってことかなぁ?キムスロの金氏は、金海金氏の本貫とされる。黄帝というのは、ベストオブキングの家系らしい。じゃあ日本のキングはどうできたかって気になるね。 PS.皇帝の兄弟(異母兄弟?)の炎帝は、神農と言われたが、透き通るように白かったらしい。後年は、薬草を試しすぎて、体のあちこちに黒ずみができたそうだ。薬の神様だそうです。まったくの妄想だけど、白人との混血かもと思ったわ。血管まで透き通る肌とそばかすが出来やすい欧米人タイプの皮膚だったのかも?紀元前3000年ぐらいの話で、確かめようがないんですがね。三内丸山遺跡と同時代。
2016年03月12日
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中国の古代から後漢まで項羽と劉邦以前の中国を調べていて、姫氏の力が大きいことに気が付いた。姫氏は、周王家の姓だった。周・春秋・戦国時代の周王家に関係する国は赤色にしてみた。力の大きさが分かる。姫氏の由来に興味ある。アーリア人の初期の移動と同時期ではないのか?圧倒的な力で国を治めていたようだ。Tomy's Homeさんの『中国歴代王朝』が、国と国の関係がわかりやすかったので参考にさせていただいた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中国歴代王朝より抜粋 http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/jidai.htm・殷 ~紀元前1500年頃 実在が明白な最古の王朝。今の河南省を中心に黄河下流域に威を振るう。「商」と自称。開祖は湯王。神権国家で、王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として、卜占(ぼくせん)をもって天意をうかがった。30代紂(ちゅう)王の時、周(しゅう)の武王(ぶおう)に滅ぼされた。最後の都(王朝の後半期)が殷墟(いんきょ)。青銅器文化が栄え、文字(甲骨文)の使用開始。・周 紀元前1100年~紀元前256年姓は姫(き)。西周とも呼ぶ。封建制度をもって統治。開祖は武王(ぶおう)。太公望(たいこうぼう)の力をかりて殷を滅ぼす。都は鎬京(こうけい)(12代幽王まで。後の長安)。諸侯国間に礼秩序による政治体制を敷く。前771年北西方から侵入した犬戎(けんじゅう)に追われ、前770年、13代平王は成周(今の洛陽(らくよう)付近)に遷都。これ以後を東周と呼ぶ。王室の統治力が弱まり、春秋戦国時代となる。周王室は前256年、37代のとき秦(しん)に滅ぼされる。・春秋戦国時代 前770年~前221年前770年、周の東遷から、前221年、秦の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、韓・魏・趙が晋を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 周室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かった秦・晋・斉・楚・魯・衛・燕・曹・宋・陳・蔡・鄭・呉・越の14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、晋を韓・魏・趙の3氏が分割し、周王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 新興の韓・魏・趙と斉を奪った田氏と秦・楚・燕の7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方の秦の力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、秦の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、成文法(刑法)が公布、官僚制成立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開発により生産力が飛躍的に増大、金属貨幣の流通が始まった。諸子百家が活躍、中国思想の源流を形作った。晋 紀元前1100頃~紀元前376 姫姓。周の成王の弟叔虞の後裔という。都は絳(こう)(山西省侯馬市)。前7世紀後半、文公に至って楚を破り周を助けて国力大いに振い、領土は河北の南部、河南の北部に及んだ。権臣の力が強まり前453年、韓・魏・趙(三晋)の3家に分割。前403年に3家は周の王室から諸侯として認められた。前376年、晋の公室は40世約7百年で三国に滅ぼされた。 斉 紀元前1122年~紀元前221 周の武王が呂尚(太公望)を封じた国。今の山東省の地。都は臨シ。姓は姜(きょう)氏。前679年、15代桓公(かんこう)は覇者となる。386年、29世で田氏に滅ぼされた。都は営丘。前221年秦に滅ぼされた。楚 ~紀元前223年 江中流域を領有。周の武王の時、帝ギョクの子孫の熊繹(ゆうえき)が封ぜられたと称する。都は郢(えい)。前597年荘王の時、中原に覇を唱える。強大を誇ったが、前223年秦に滅ぼされた。魯 紀元前1055年~前249年 周公旦の長子伯禽が封ぜられる。都は曲阜(きょくふ)。のち分家の三桓氏が実権を握り、前249年34代頃公の時、楚に滅ぼされた。孔子の生国。「春秋」を編纂。 衛 紀元前11世紀~紀元前209年 周の武王の弟康叔を祖とする。今の河北省西南部から河南省北部にわたる地。初め朝歌(河南省)に都し、後しばしば遷都。前209年君角の時、秦に滅ぼされた。 燕 紀元前11世紀~紀元前222年 始祖は周の武王の弟、召公セキ。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領す。都は薊(けい)(現、北京)。前222年43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。 宋 ~紀元前286年 殷の宗族微子啓が封ぜられ、商丘(河南省商丘県)に都した。前286年32世で斉・魏・楚3国に滅ぼされた。 陳 ~紀元前478年 周の武王が舜の後裔を求めて陳(今の河南省淮陽県)に封じたもの。前478年楚に滅ぼされた。蔡 ~紀元前447年 都は河南省上蔡県の南西。武王の同母弟叔度の封ぜられた国。前531年楚に攻められ、都を安徽に遷した後を下蔡といい、それ以前を上蔡という。のち楚の恵王に滅ぼされた。 鄭 紀元前806年~紀元前375年 周の宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南県の地。のち、今の河南省新鄭県に移る。韓の哀侯に滅ぼされた。 呉 ~紀元前473年 周の文王の伯父太伯の建国と称する。長江河口地方を領有。楚を破り勢を張ったが、前473年夫差(ふさ)の時、越王勾践に滅ぼされた。 越 紀元前600年~紀元前334年 はじめ中国東南の少数民族から出たと考えられる。隣国呉と抗争、前473年、勾践(こうせん)は呉王夫差を破り覇者となる。都は会稽。前334年楚の威王に滅ぼされた。韓 紀元前403年~紀元前230年 もと晋の六卿の一。前453年魏・趙とともに晋を3分割し自立。前403年に周王により諸侯に列せられた。都は平陽・宜陽・鄭と変遷。国勢盛んであったが、前230年11世で秦に滅ぼされた。 魏 紀元前403年~紀元前225年 晋の六卿の一。前453年、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を3分割し自立。前403年に周王により諸侯に列せられた。都は安邑、のち大梁に遷る。山西の南部から陝西(せんせい)の東部および河南の北部を占めた。後に前225年秦に滅ぼされた。趙 紀元前403年~紀元前222年 もと晋の六卿の一であったが、前453年、韓・魏とともに晋を3分割し独立。前403年、諸侯となった。都は晋陽(しんよう)、のち邯鄲(かんたん)。武霊王の時、王号を僭称、一時強盛を誇ったが、前222年秦に滅ぼされた。・秦 紀元前771年~紀元前206年 最初に中国を統一した。戦国時代に台頭、前256年に周の王室を滅ぼす。さらに、始皇帝は前230年~前221年に六国を滅ぼして天下を統一、初めて皇帝の号を用いる。しかし、その死後、帝国は瓦解、3世にして漢の高祖に滅ぼされる。始皇帝は中央集権を推進するとともに、外征を行い中国の領土を拡大。万里の長城や阿房宮を建設、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行い、度量衡・貨幣・文字を統一した。・前漢 紀元前202年~紀元後8年 西漢とも呼ぶ。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)が天下を統一した。都は長安。官制・法律のほとんどを秦制にならい、郡国制を採った。7代武帝の代に儒教を国教として思想統一を図り、中央集権的専制支配を完成。後8年、15代の時、王莽(おうもう)に簒奪される。・新 紀元後8年~紀元後23年 王莽が建国した国。前漢の外戚だった王莽が幼少の皇帝を立てて実権を握った後、自ら帝位についた。古典を重んじた現実性のない政治に、内外ともに反抗をまねき自滅。光武帝により漢朝が復興。・後漢 紀元後25年~紀元後220年 東漢とも呼ぶ。25年、劉秀(光武帝)が劉氏の天下を復興した。都は洛陽。幼帝の即位が続き、外戚・宦官の政争が重なると共に、184年黄巾(こうきん)の乱により漢王朝は衰退。220年魏に滅ぼされる。
2016年03月10日
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紀元前700年の世界をのぞく『春秋左氏伝』昨日ブックオフで古代中国の本を探した。中国の本は、三国志までだな。三国志の時代は、紀元180年~280年。卑弥呼の時代。もっと古い中国が知りたい。『春秋左史伝』を見つけた。春秋というと、殷・周の次の時代です。紀元前700年ごろからです。これ読んでみましょう。レジで、960円て言われた。あれ?定価860円+税の本ですが、960円ですか?声には出しませんでしたが、高いなぁ!!108円の歴史研究を目指してたんだけどね。無ければ仕方がない。頑張って読みましょう。紀元前552年生まれの孔子が知る限りの古代の歴史書ってことですね。しきたりやら、礼がたくさん出てくるのは、儒教の考えが入ってるんですね。 しかし、びっくりしますよ。紀元前700年の外交術・社交術・祭祀方法・嫁取り・帝王学・戦争馬で戦争をしてるし、箱車を使ってるし、馬に装飾があるし、 …以下発掘遺跡中国最大の車馬坑から大型馬車、楚王の墳墓か―湖北省荊州市中国最大の車馬坑・熊家冢車馬坑で、6頭引きの大型馬車3台をはじめ、43台の馬車、100頭あまりの馬の遺骸が発掘された。墳墓は楚王のものと...発掘された墓は春秋戦国時代(紀元前770年-紀元前221年)の楚国(?-紀元前223年)の墓と見られ、武漢市で発掘された楚国の墓としては最大面積酒はあるし、鉄の剣もあるし、豚も飼ってるし、鶏も飼ってる。小麦も作ってる。ほとんどペルシャと変わらんな。これが、日本では縄文晩期のことだって。この文化格差がすごい。 中国は、この文化を作った民族とその後支配した民族が違うんだな。多分。春秋左史伝のハイレベルな国家観・大王観から、 たいして進化してると思えないからね。【世界史】勢力図で覚える中国歴代王朝まとめ.たとえば、楚という国をみると、春秋時代初めは、四川辺りにある。海岸近くは、越・呉・宗・斉の国々がある。ところが、秦末にはどんどん増大していくのだ。同じ土地でも、国名がしじゅう変わるんだ。中国の国盗り物語だな。 紀氏木編のき氏を見つけたわ。これ、日本に来たかも?蘇民将来って、やっぱり蘇民が、将に来るっていう意味じゃない?この戦闘力のすごさ…。スサノオ系の戦闘民族だわ。多分。古代において、姫氏というのが大王家らしい?? 紀元前700年周王朝ではすでに、王同士の家格というのがあるんだよね。つまり誰でも王になれるわけじゃない。そのルーツは何だ???このこんがらがった国の糸をぶった切って考えていこう。≪参考記事≫Wikipediaより・『春秋左史伝』孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』(さでん)。『春秋左伝』、『左氏伝』ともいうことがある。・『春秋』(しゅんじゅう)は、魯国の年次によって記録された、中国春秋時代に関する編年体の歴史書である。儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされ、その聖典である経書(五経または六経)の一つとされている。・『孔子』紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
2016年03月10日
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古代の中国から見たら日本は、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読んで、古代日本を妄想してる。今朝は、目が早く覚めすぎて、2度目を読了した。 これが紀元前202年のことだから、中国から海をはさんで、遙か東の島の日本はどうなってる?秦の長安から日本を見てみた。長安からは遠いなぁ。 だけど、徐福の斉からは、かなり近いな。斉は、人と物の交流する場所で、早くから経済的にも、文化的にも開けていた。孔子が生まれたのは、周末期の紀元前552年の魯国。斉のすぐ隣。『項羽と劉邦』の300年前に、多くの文化人が出てるのだ。この辺りの思想や文化が高かったことが分かるね。 戦国時代に秦と最後まで戦ったのは、斉だったのだ。武力もあった。斉は、河川と道路と港と穀倉地帯を持った都市だった。財力もあった。いろんな地方の情報もたくさん入っただろう。日本のかなり正確な位置も分かっていたのではないか。陸地伝いではなく、船をたくさん用意したそうだから。おいらが徐福なら、どうやって3000人以上の人を日本まで渡らせることができるかな? それから、呉も近いなぁ。越・韓・楚も…。国破れた王族豪族は、殺されることが多いからね。逃げた人も多い。難民になって、日本に渡来した人も多いんじゃないの?徐福以前にもたくさんの人が来ていたと思う。 徐は、紀元前512年呉に滅ぼされる。 呉は、紀元前473年越に滅ぼされる。 杭州は鉱山・水銀の採取。 中央構造線沿い。丹生姫。国姓は姫。 …丹生姫 紀氏 越は、紀元前334年楚に滅ぼされる。 稲作や銅の精製 断髪・刺青 北陸? …銅鐸銅矛 韓は、紀元前226年秦に滅ぼされる。 土木工事 姫姓韓氏。 …楚は、紀元前223年秦に滅ぼされる。 楚・蘇 阿蘇 熊襲 強い戦士 九州へ? 徐福が斉を出港 紀元前210年(208年?)ひょっとして都落ちの王族によって、次々建国したかも?
2016年03月09日
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『項羽と劉邦』で、韓という字が気になった!今朝は畑をやる気が起きずに、『項羽と劉邦』2度目の下を読んでた。中国の戦争は、黄河を上ったり、下ったりしてるんだわ。黄河流域を制するものが、中国を制するって感じかなぁ? そういえば、黄河っていうのも甲賀と同じ音だね。漢字の読み方には、音と訓がある。訓は日本読みだけど、音というのは、呉音・漢音・唐音・宗音があるらしい。漢字の読み方もいろいろで、それでもルーツが分かるんじゃないかと思うだけど、それを調べるまで行ってないなぁ。…伊賀・源氏系?新羅系 李イ 甲賀・平氏系?秦系 黄コウ …妄想だけどさ。 劉邦の武将に、韓信というのがいる。韓の信さんだわね。実に優秀な戦略家であり、戦闘家だった。真田幸村や黒田官兵衛みたいな人だったのかも?わからんけどね。 そこでおいらの脳は、暴走し始めた!!秦の時代に 韓という国があったんだ!中国の韓と韓国の韓は、どういう関係? 不思議じゃない?そう言えば韓国には、三韓時代ってのがあった。ソウルのことを、漢城(ハニャン)というし。中国と韓国は、何かが近いって気がするんだけど、でも、そのまんまじゃない? 韓さんとか、昔の同僚にもいたなぁ。韓ハンは、朝鮮人の姓の一つだけど韓国と関係があるのかな?…韓氏は韓国の最古の歴史を持ったいわゆる三韓甲族である。本貫は殆どが清州韓氏であるが、文献には清州韓氏以外にも10余本が記録され、皆清州韓氏の分派だともいうが詳細はわからない。Wikipedia『韓(姓)』 というと、韓とは、三韓に通じるらしい。中国の韓と 韓国の韓との関係を調べていたら、昼になってしまったわ。 中国の韓の国と、三韓の韓と、韓さんとの関係はありそうだわ。そういえば、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国。国は分かれたが、民族は同じかと思っていたが、民族そのものが違うのかも?とにかく大陸の歴史を学ばなくては、日本は分からないなぁ。
2016年03月08日
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草薙の剣で切られたのは、徐福の子孫かも? ヤマトタケル東征路今朝、ふっと「ヤマトタケルって、東国で焼かれそうになったよな。」と思い出した。あれどこだっけ? ひょっとして、小田原あたりでは?朝から調べてみた。古事記と日本書紀で違うんだけど、相模らしいよ。つまり、今の神奈川県。 ヤマトタケルのお話はこうだよ。 …古事記タイプ≪草薙の剣(くさなぎのつるぎ)≫ …白鳥の英雄伝説より http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_05.htmlそして、ヤマトタケルは、相模の国(現在の神奈川県)に入りました。すると、相模の国造たちが、「この野には、大きな沼があって、そこに住んでいる神は、とても乱暴な神です。」と嘘を言って、ヤマトタケルをだまそうとしたのです。ヤマトタケルが、その神を見てやろうと思って、その野に入ったところ、待ち伏せしていた国造たちが、いっせいに野に火を放ちました。火はたちまちのうちに、ヤマトタケルの周りを包み込みました。「ちくしょうめ、だまされたか。」と言って、ヤマトタケルは、叔母のヤマトヒメの言葉を思い出し、もらった袋の口を開けました。するとそこには、火打石が入っていました。そこで、ヤマトタケルは、まず草を刀で切り払って、その切った草に火打石で火をつけました。するとどうでしょう、燃え上がった火が向かい火となって、周りの火も鎮まりました。そこで一旦、ヤマトタケルはその場所を逃げ出し、隠れていた国造どもをすべて切り殺し、その死体に火を付けすべて焼いてしましました。このようなことから、今では、その刀を草薙の剣(くさなぎのつるぎ)三種の神器の一つ。熱田神宮に祀られる)といい、この場所を焼津(やいづ=静岡県焼津市?)というようになったのです。これは、ヤマトタケルサイドで書いているので、相模国造からみたら、また違った歴史になるだろうね。ざっくり言って、相模川両岸と考えて、秦野盆地・相模原・八王子あたりまで含むんじゃなかろうか?ここの国造たちは、アンチヤマトタケルだったわけだ。国造といっても、もともとここの豪族で、支配されるのを嫌がってたわけだ。自分の土地なのに、地方長官扱いになって、税金をたくさん取られたらたまらんよね。 だから、相模の国造たちが結束して、ヤマトタケル軍をやっつけようとした。だけど結局やられて、一族皆殺しの焼き殺しにされたという話。徐福一族が、山の中に作ったのは、正解だったわけだ。相模川周辺は、黄河や揚子江みたいなもの。食糧庫だわね。その川上の盆地・天然の要塞に、秦があったように、大月・都留・富士吉田・山中湖に拠点を作ったんじゃないか?そうすると、奥の院は、富士吉田。徐福一族のすべてがやられたわけではなかったと思うわ。 さて、その近くの甲府盆地は、だれが支配していたと思います?甲府の竜王とか、甲の文字から、日本の中では、滋賀県の竜王インターが浮かんだ。竜王のあたりには、甲賀・甲良など甲の字があります。竜王近辺の民と甲州との民の関係を感じます。 …妄想の範囲。 さて、甲州盆地へは、富士川沿いに進みます。静岡県の富士市・富士宮市あたりからさかのぼります。甲州盆地の西半分は、昔は巨摩郡といったそうです。高句麗からの渡来もあったようです。 …7C高句麗滅亡戦後の話ですが…。馬をたくさん朝廷に差し出したようです。甲というのは、高句麗系なのでしょうか??中国の広東州香港近くに広州があります。また、浙江省上海近くに杭州があります。どちらも海近くの町なので、渡来は可能です。馬というキーワードから、甲州は、高句麗系の国づくりを感じますが、時代が新しすぎるので妄想の範囲です。富士見近辺・静岡平野は昔(登呂遺跡)から豊かで暖かかったので、徐福の時代でも、強い民が入っていたでしょう。 ヤマトタケル遠征図ヤマトタケルにしても、蘇民将来のスサノオ?にしても、皆殺し、焼き捨てるという行動に、騎馬民族系の恐ろしさを感じます。タケルが、双子の兄を殺すところも、実に恐ろしいです。景行天皇が、その荒々しさを恐れたというのも頷けます。でもその景行天皇もなかなか、恐ろしかった。当時彼らに支配された人々、相模の国造のように古い豪族も庶民も、ただ恐れていたのでしょう。 ついでに、国会議員の甘利明氏は、確かここら辺の出身だったよな。と、調べてみたら、びっくりポンでした。甲斐源氏の子孫。甘利氏の本貫は、甲斐の巨麻郡だそうです。甲州の巨摩群です。武田に仕えたり、長篠の戦に参戦しているそうです。強い武将の家系なんですね。 …wikipedia『甘利氏』より ≪縄文から弥生へどう変わったを考える≫2016年2月13日 司馬遼太郎と考える日本人とはなんだ? 2016年2月13日 川を上った人たち 2016年2月14日 日本に来た桃太郎は、鉄を求めた! 2016年2月20日 項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る! 2016年2月27日 歴史は大移動で始まる! 2016年2月28日 始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? 2016年2月28日 日本に渡った徐福 “数々の徐福伝説” 2016年2月29日 同じ時期に同じことを2016年3月2日 徐福は、日本で何をしたか? 2016年3月2日 徐福は、鉄も探していたかも?2016年3月3日 徐福とヤマトタケルを重ねてみる 2016年3月5日 相棒の逃亡犯から連想する徐福
2016年03月06日
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相棒の逃亡犯から連想する徐福徐福(その子孫かもしれない)が、富士吉田近辺に住んでいたとして、Why?この高い山の様子から考えて、守りが固い。逃げ込んでいる。と考えたのは、相棒の逃亡犯から思いついたこと。だって、小田原近辺に住んでもいいんじゃない?田んぼもできるし。徐福は、海岸に近いところで生まれて、住んでる。渡航の船の手配もした。大陸伝いに移動するのではなく、海路を選んだ。つまり、海に慣れた民であったと思う。…騎馬系の歴史も文化も十分知っていたが。それなのに、山の中の富士吉田近辺に住んだわけは、防御中心だったのか? 徐福伝説の地徐福伝説の地は、海岸沿いばかり。徐福が来た時に、佐賀・熊本・宇佐・瀬戸内海・大阪・和歌山(紀)・伊勢には、既に国が作られていたのではないか。だから避けた。東に東に行ったわけだ。 神武東征図 参考引用徐福より300年ほど前、紀元前500年ごろの神武の東征図では、 …これは仮定福岡(宗像)・大分(宇佐)・広島(安芸)・岡山(吉備)・大阪に来てるが、内陸には入れなかった。熊野に回って、吉野・奈良盆地に入ってる。勢力もここまでなのだ。神武天皇が通ってないところに、大きな勢力があったと見る。四国には、別の勢力があった。山陰にも大きな勢力があった。奈良・紀州・伊勢にも大きな勢力があった。真っすぐに近畿を目指したのは、そこに倒したい大きな勢力があったからだ。それが、神武天皇の后・五十鈴媛命の父、事代主だった。神武以前の日本No1の大ボスと考えている。…事代主についてはまた、考えよう。これだけ何年にもわたる長い遠征をするということは、自国は、かなりの勢力を持ち、攻撃される心配がなかったということではないか?イワレヒコは、南九州の王になっていた。 …まだ神武ではない。神武というのはのちにつけられた名前。イワレヒコは、九州勢力の暫定リーダーとなっていたのか? …呉王の子孫の狗奴国?熊本説もありかも? 呉国は、米作りの国。 ヨコハマ古道紀行さんより参考引用ついでに、西暦100年前後と推定するヤマトタケルの東征図。神武天皇が制圧した瀬戸内海と九州の制圧に向かってる。ということは、王の権力はまだゆるいものであったと考えられる。古事記で、出雲方面に回っているのは、まだこの方面に不安があったからだ。東北まで行ったか?行かなかったかは、定かではないし、ヤマトタケルが、一人だったか、複数の勇士だったは、わっかりませ~ん。でもね。おいらがネットで調べた桃太郎伝説の最北端は、宮城でした。宮城には、鉄が採れ、扱う民がいたんです。 …日本の中のカナンを探そう! 現在の宮城県石巻市もと宮城県桃生郡河南町には、金剛山があって、男鹿半島には金華山があるそうです。ここはアテルイで出てきた多賀城に近いです。宮城県桃生郡河南町には、河南・金剛山・金華山…誰が来てたんでしょねぇ??脱線ついでに、宮城の桃太郎伝説は面白いので、読んでください。 桃太郎神社/宮城県桃生郡河南町 その2から引用させていただきました。 桃太郎は・・・・・鬼ケ島に行って鬼征伐をして、犬、猿、雉を連れて帰って来て、お爺さんとお婆を喜ばせ、めでたしめでたしで終るのが殆どの桃太郎 話ですけれど、その後の桃太郎はね、日本で俺くらい強い者はいないと慢心して、犬や猿や雉を相手にして、毎日酒盛り して遊んでいたそうです。鬼は、悪い事をして貯えた物だけれども、あんな若僧に持って行かれてしまった。いつも酒ばかり飲んで悪事をしてきた罰だけれども、このまま引っ込んではいられない、と思い虎の皮の褌を引き締めて、 捩り鉢巻きで一所懸命働いたそうです。そうして、すっかり準備ができてから、舟を仕立てて宝物を取り返しに行ったそうです。桃太郎は毎日酒ばりくらっていたので、体がなまってしまい、 犬も猿も雉も酔っ払っていましたから、鬼共に負けてしまった そうです。 鬼共は宝物を取りかえし、意気揚揚と帰って行ったそうです。 桃太郎をはじめ、犬と猿と雉は傷だらげになって、それから桃太郎は心を入れ替えて、一所懸命働いたんだとさ。 ・・・一部略・・・ヤマトタケルが、宮城まで行ったかどうかは分からないけど、桃太郎一族はここまで到達していることは確かだと思います。 さて、昨日は相棒ついでに、信州グルメで思いついた。よく『秘密のケンミンショー』を観てたが、グルメが違うんだよね。おやきを食べる地域と五平餅を食べる地域がある。麦と米。知ってた?どうも、北信濃と南信濃で別れるらしいんだけどさ。それも混ざらないんだって。それって、秦から来た人たちと、楚呉から来た人たちの食性の違いなんじゃないかと思ったわけ。『項羽と劉邦』で、秦を制圧した項羽は、麦食が嫌で、関中を部下に与え、自分は米がとれるところに戻ったって書いてあった。食性は変わりにくいってこと。その作物が穫れるところに住む。昨日の午後は、これを調べていて、ブログアップもできなかったけどね。 つまり、秦系の人は、麦食・粉食だったらしい。麦食か米食かは、揚子江辺りで分かれるらしい。「徐州徐州と軍歌は進む。徐州いよいか、住みよいか。しゃれた文句に振りかえりゃ、お国訛りのおけさ節。髭が微笑む、麦畑。」徐州は、麦だってことね。 徐福は、麦食だったんではないかな? 緑色が羌民族 羌 - Wikipedia徐福は、羌(キョウ)という民族らしいという説が多い。羌は、どこか調べた。羌は、緑色の地域に住んだ。左下から中央部にかけて。チベットから黄土高原に広がっている。戦いに強い種族だ。 秦は、氐(テイ)という民族で、ピンク色の地域。氐と羌はすごく近くて、生活様式もかなり近い。ってことで何が言いたいかというと、彼らは、麦を食べていたってこと。肉と牛乳もだろうけどね。秦系の渡来人は、麦ができそうなところに住んだだろうし、楚呉系の渡来人は、米ができそうなところに住んだだろうという妄想。 信州に戻って、米系と麦系が住んでたんじゃないかという仮説が浮かんだわけよ。そば系は、多分麦系の一種。 しかも、米系も、中央構造線で2つに分かれるらしい。五平餅を完全につぶす系と 半殺しにする系があるらしい。妄想が広がりすぎて、まとまりのがない話だわね。ごめん。でもおいら的には面白い。 人は変わらないってことさ。2500年前の痕跡がどこかにあるはず!!今日も、妄想史は進む。 ≪縄文から弥生へどう変わったを考える≫2016年2月13日 司馬遼太郎と考える日本人とはなんだ? 2016年2月13日 川を上った人たち 2016年2月14日 日本に来た桃太郎は、鉄を求めた! 2016年2月20日 項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る! 2016年2月27日 歴史は大移動で始まる! 2016年2月28日 始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? 2016年2月28日 日本に渡った徐福 “数々の徐福伝説” 2016年2月29日 同じ時期に同じことを2016年3月2日 徐福は、日本で何をしたか? 2016年3月2日 徐福は、鉄も探していたかも?2016年3月3日 徐福とヤマトタケルを重ねてみる 2016年3月5日 相棒の逃亡犯から連想する徐福
2016年03月05日
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徐福とヤマトタケルを重ねてみる夕飯の時に昨日の『相棒14』を観た。犯人が、山梨県と神奈川県だったかの境に逃げて、大月(都留?)の旅館に泊まっているのではという話がやっていた。犯人は、水晶の業者と称していた。この辺り、宝石の研磨の仕事も多いのでは?あまりにもマイブームと重なる話なので、驚いたよ。さて、その犯人の逃亡経路じゃないよ。景行天皇の息子 ヤマトタケルの東征図を作ってみた。ヤマトタケルの東征図は、古事記と日本書紀では違うことを知ったわ。それはまた今度調べるとして、山梨近辺だけ。 徐福に関係のありそうな秦野市・大月・都留。通っていますね。山中湖というのは、後に住んだのではないかなぁ?ついでに、グーグルアースでも書いてみた。甲斐・甲州・甲府はまた違う人がいたのか。甲は兜を表します。陰陽五行説では、木を表します。木部の民か、兵士の民がいたのかと妄想。 …甲賀忍者ってのもあったな。箱根の近くに足柄山があります。金太郎で有名です。金がついています。鉱物を取る民だったのか?昔から力強い民が多かったのですね。妄想だけど。 妄想ついでに、徐福が日本に来た時に孝謙天皇だとして、それ以降の天皇を書き入れた。徐福は、天皇一族ではない。徐福以前に、中国での文化をもった民が流入して、国を作っていたと考えられる。それが、天皇一族。つまり、通常認識されている時代より、ずっと古い時代から国の組織ができていたのではないかと思える。…国と国の戦争から逃れてきた人たち問題点は、書きのこされている古事記や日本書紀の中に、卑弥呼が書かれていない。ヤマトタケルは、熊襲や出雲を征服に行ったように、大月・都留にも行っている。そのころ、信州はかなり栄えていたのではないかと思う。天孫族は、マイヒストリーを作るために、紀元前600年ごろには日本を統一したように書かれている。しかし、実際は、100もの国がある状態が続いているはずなんだが。その他の渡来人の国についての記録がない。また、天皇の臣や連の出身についてもよくわからない。分かると出身地が分かっちゃうからかなぁ。 …そうだ。信州が秦なら、大月は函谷関のようなものだった?…つまり、徐福たちは、秦を模して、信州(シンシュウ)を作ってた…徐福は、騎馬民族系の国の作り方をした。 …かも? 徐福は、秦の官僚。知識も豊富で家柄もいい。豊かな土地といろんな技術のある大都市を知っていた。さて、徐福さんたちの子孫はどうなったのかな? ≪徐福年表≫紀元前3000年~2000年 三内丸山遺跡紀元前772年~481年 春秋時代 …多分多くの難民 …ここが一番古い渡来人??紀元前473年? 呉王の子 忌 熊本県菊池市 狗奴国を作る?? 未確認 …これほんとか?ここ辺りが最古の国か?紀元前400年ごろ 戦国時代の中国から逃れて大量の渡来人(遺跡)紀元前278年(255?) 徐福が生まれる。斉(江蘇省)の徐福村(連運港市)紀元前221年 秦中国全土を統一する。郡県制・文字・重さ貨幣の統一。 焚書坑儒・匈奴と戦争。15年で滅びる。紀元前219年 徐福東方に出港。紀元前208年(210年?) 3000人の若者と多くの技術者を連れて、徐福東方へ2度目の出港。 徐福が日本へ …孝霊天皇の時代とすると?紀元前206年 秦が滅び漢ができる。紀元前200年~180年ごろ 徐福死ぬ。紀元前100年ごろ 日本は100の国に分かれる。 使者や通訳が往来していた。お互いに情報を把握。 ?北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣 …垂仁天皇の時代?紀元前91年ごろ 司馬遷が史記を完成させる。生年BC145年?BC87年 …崇神天皇の時代?紀元前0年ごろ 日本でも青銅器(銅矛)が福岡で作られた。人骨の傷西暦9年 漢王朝が滅ぼされる。 西暦25年 後漢末期戦乱と食料不足 緩やかな支配へ …ヤマトタケル活躍か?西暦57年 倭奴国王 後漢から金印を授かる。 …景行56年蝦夷平定?西暦107年 倭の国王 後漢へ奴隷を送る。 西暦178年 鮮卑族倭人を捕まえ、移住させ魚を取らせる(後漢書)西暦188年 このころ卑弥呼が邪馬台国をまとめる。 …成務天皇? …仲哀天皇? 西暦238年 赤鳥元年の鏡 西暦239年 卑弥呼に使い 西暦247年 壱与立つ。 …応神天皇? ≪縄文から弥生へどう変わったを考える≫2016年2月13日 司馬遼太郎と考える日本人とはなんだ? 2016年2月13日 川を上った人たち 2016年2月14日 日本に来た桃太郎は、鉄を求めた! 2016年2月20日 項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る! 2016年2月27日 歴史は大移動で始まる! 2016年2月28日 始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? 2016年2月28日 日本に渡った徐福 “数々の徐福伝説” 2016年2月29日 同じ時期に同じことを2016年3月2日 徐福は、日本で何をしたか? 2016年3月2日 徐福は、鉄も探していたかも?2016年3月3日 徐福とヤマトタケルを重ねてみる
2016年03月03日
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徐福は鉄も探していたかも?ふっと思いついたわ。確か山梨には桃太郎伝説があったわ。どこかなと調べてみたら、都留市の上の大月市。徐福が鶴になって死んだところが都留。すぐ近くじゃない?徐福の子孫が住んだとされる山中湖も近いです。徐福の古文書が残ってるのは、富士吉田市です。それから、徐福一族は富士吉田近辺に国を作ったと思われます。徐福たちは、鬼一族で桃太郎に宝物(鉱山)を奪われた一族ですな。たぶん。前から大月という地名に、大月氏を思わせるなと思ってます。黒海東のトルクメニスタン辺りにあった大国で、秦の時代に栄えたが、漢によって壊滅する。そこから来た人たちがいたのかもと思うわけよ。びっくりポンだったわ。徐福は、大月氏の民かも?≪参考資料≫失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」(飛鳥昭雄著)の「第8章 秦始皇帝はユダヤ人だった!!」からお送りします。 徐福の羸氏(えいし))という姓は紀元前10世紀末、周(しゅう)の孝王(こうおう)から非子(ひし)が授かったもので、広義の羌族を示すという。徐福自身は漢民族ではなかったようだ。また、秦の始皇帝と徐福は同族であったという著者の見解が正しいとすれば、不老不死の仙薬を東国の蓬莱山に求めさせた意図は一体どういうことだったのか?また、失敗してもどった徐福に再度、機会を与えたのは、不老不死の薬を求めさせただけではなく、他の理由があったのではないだろうか?推測してしまう。 …るいネット秦始皇帝とユダヤ5~徐福もユダヤ人?よりユダヤ人かはともかく、羌族というのは、月氏の一族なのだ。つまり、黒海の近くからやってきた部族の子孫ということだ。だから、西洋的な文化に詳しかったのかも?そして、富士山近くの大月は、大月氏、つまり徐福のルーツは大月氏なのではないか??ここで、徐福が大月氏の国を作ったと考えるのは、古代史のロマンかな? …2013年9月13日山梨県大月市にある桃太郎伝説! に考えた 大月市の名前の由来は、大槻からだという。鉄を扱う渡来人たちは、サマルカンドの近くのモンゴルに滅ぼされた国 大月氏から来たと考えられないか? ビンゴかも?≪鉄関係メモ≫ 日本とイギリスの巨石文化 メモ 伊勢神宮・サウダー山ラインを地図に書いてみた! サウダー山から遺伝子の続く道! ≪はてな?≫・景行天皇の息子 ヤマトタケルの東征の経路と年代照合・大月近辺にハタの地名を調べる・ハタと八幡の関係・信州と秦と辰と音が同じなので、関係ないか?・信州の豪族と中央との関係 ・濃の字を分解する。辰が秦だとすると サンズイは揚子江北のサンズイ(稲作民族)で、曲はマガールなのかも?マガール兵はネパールの最強グルカ兵のもととなっている。信州信濃。濃の仲間なのか?・濃・豊・呉・越・楚(蘇)・高・駒・入り乱れた日本だった?・キングは誰で、なぜキングになれたか?≪参考資料≫『徐福伝説』http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htmより、富士吉田の徐福伝説を引用山中湖に面した長池村は,以前は長命村と呼ばれており,蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついたとされる村です。河口湖にも徐福に関する言い伝えが残っています。 不老不死の仙薬を探し求めた徐福でしたが結局見つけることができませんでした。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意しました。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をしました。この地の娘を妻として帰化し(注),村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えましたが,やがてここで亡くなりました。 亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡(つるごおり)と呼ぶようになりました。河口湖浅間神社の由緒書には「富士山の神,浅間明神を此の地に奉斎,・・・・伴直真貞(とものあたいまさだ)公を祝(はふり)に同郡の人伴秋吉公を祢宜(ねぎ)に任じ,富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀」とあります。 浅間神社本殿に向かう表参道両脇には杉の大木が立ち,境内地にも天然記念物の七本杉(直径2m以上,高さ40m以上)があります。 この参道の中央に波多志神社と呼ばれる小さな祠が建っています。浅間神社の宮司さんに聞くと,この神社の創祀者である伴直真貞公を祀ってあると言います。この人物は徐福の子孫ではないかと考えられるのです。 また,ここ河口湖周辺地域は昔から機織り・裁縫が盛んであったのです。徐福あるいは同行していた技術者たちが伝え広めたと考えます。富士吉田市には真偽は定かではないのですが「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されています。宮下古文書については東三河と徐福伝説(秦の徐福は東三河に定住していた!?)を参照 富士吉田市小明見にある徐福像は徐福がここ富士吉田市に最終的に到達し,機織り,養蚕などの技術を伝えたことを記念して建てられています。 「甲斐絹(かいき)」は山梨の織物として知られています。江戸時代に誕生したものと言われますが,甲斐国から「甲斐絹」と命名されたのは明治時代です。しかし,富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んでした。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられています。徐福像の隣に建つのが徐福雨乞地蔵祠 この祠のある小明見地区には龍神伝説が残っています。ここより西へ少し歩いたところに明見湖があり,かつては湖であったのが,富士山の噴火によって埋まってしまい,小さな池のようになったと言われています。ここに龍神が住むと言い伝えられており,村人たちは五穀豊穣を願って雨乞いをした所でもあるのです。湖畔に明見龍神社もあります。上の祠から東へ100mほどの所に小山があります。民家の横を通り,細い道を行くと太神社の鳥居が見えます。そこから石段を上ると徐福祠の前に至ります。ともに徐福祠。右は徐福大明神と書かれていました。 この祠が徐福の墓ではないかと言われていますが定かではありません。富士吉田市の北口本宮富士浅間神社東側にある高さ約1.6mの徐福碑。中国仏教協会長の趙樸初氏が徐福故事をしのんだ詩が石に刻まれています。この横に高さ約2.3mの日中友好の碑が建てられています。徐福は不老不死の仙薬を求めて富士山に入りましたが,その途中で亡くなってしまいます。そして,3羽の鶴に化身して空に舞い上がったのですが,うち1羽が死んで福源寺に落ちてしまいました。この鶴を葬ったのが鶴塚です。 富士山北麓地域の人たちはこの鶴塚を徐福の墓としています。こうして徐福はおよそ70歳でここ富士山麓で果てました。徐福やその子孫たちは多くの知識・技術を伝え,日本の文化や国の発展に大いに貢献しました。徐福と関わりの深い町は今でも中国との交流があり,姉妹都市提携を結んでいるところもあります。徐福は2000年以上経ってもなお語り継がれ,国を越えて人々の心の架け橋となっているのです。
2016年03月02日
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徐福は日本で何をしたか?徐福は、紀元前3世紀中ごろ(BC278年?BC255年?)斉の、王族の4男の子孫。現在の江蘇省連雲港市かんゆき県金山郷徐阜(昔は、徐福村)に生まれた。中国で確認済み。原典は不明だが、インドに7年留学していたともいわれる。方士。呪術師。祈祷師。薬剤師。占星術。天文学などができた。超名家の超エリートであったと考えられる。司馬遷の『史記』によると、始皇帝に東方に不老不死の霊薬があると具申して、3000人の若い男女と多くの技術者と、五穀の種を持って、当方に船出したが、中国に帰らなかったと伝えられる。紀元前221年に始皇帝が秦を統一して2年後の、BC219年と、BC210年(BC208年?)の2度出発している。時は、秦末期。戦乱と粛清が続く中で、徐福は、なぜ東方へ旅をしたのか?また、膨大な費用がかかることを 始皇帝は、なぜ2度も許したのか?どうやら始皇帝は、既に丹なども服用していたらしい。東方の島の占領政策の第1陣だったのか?本当に霊薬を欲したのか?霊薬を探すだけで、これだけ人数と技術者と物を持つ旅団は必要ないような気がする。これは、統一後の、次なる秦の侵略政策の一環だったんじゃないのかと思う。 日本全国に徐福伝説がある。 黒丸は、徐福伝説の場所全国の徐福伝説は、日本海側は、青森・秋田・丹後半島。九州各地と四国太平洋岸・紀伊半島・最後は富士山と、実に広範囲にわたる。また、徐福が教えたとされることは、テンダイウヤク・行者ニンニクなどの薬草、焼き物、井戸、硯、秦代の半両銭、すりばち、農耕、土木、機織り、捕鯨、医薬、南方の木など多岐にわたる。しかし、徐福伝説を読むと、徐福は丹を求めることもなく、鉄を探し回ってるわけでもない。九州のいちき串木野に来た時に冠を捨て、この国の王になると決めたかどうかは知らない。しかし、武力による侵略ではなく、主に蓬莱山を探し薬草を探している。後には、住民に耕作・機織り・土木・捕鯨・医薬を教えることに重きが置かれたようだ。徐福最後の地として、三重県熊野市波田須と冨士山の辺りで亡くなったとする説が有力。技術として焼き物機織りとして、技術が後継されているし、日本にはないビャクシンという暖かい地方の木が、育っていることなどから。全国に徐福伝説があるのは、徐福の渡来が2度だったことと、一団が4000名ほどの大軍団で、船がいろんなところにたどり着いたことと考えられる。徐福は、70歳で亡くなったとされるので、BC200年前後には、亡くなっている。『宮下文書』に含まれる『富士文献』と『海東諸国紀』によると、徐福が、日本に来たのは、孝霊天皇の頃だと書かれているそうだ。 年表歴史的に実在とは考えられていないが、紀元前215年退位と考えられている。徐福と同時期なのが分かる。びっくりポン。これおいらの妄想と合ってる。崇神天皇からが歴史のギアに合ってると思ったが、その3代前も徐福とともに確認ができた気がする。紀元前200年でも、徐福はインテリでもちろん字が書けた。年号も十分理解していたからね。…それとも後年誰かが時代をあてはめた??? ついでに、これで換算すると神武天皇は、紀元前660年即位。もちろん縄文時代。中国で鉄器生産が始まる前。春秋時代の真っただ中。周の悪政から、鄭・斉・楚が交互に力をふるう戦乱の時代。逃れてきた人がいたんでしょうか?その人たちの剣は、鋳鉄だったんでしょうかね。それとも銅剣だった? それより前のスサノオって、いつごろの人だろう。古事記には、機織りも、酒も、鏡も、田んぼも出てくるんだけどなぁ??ヤマタノオロチには、酒をいくつもかめに入れてるけどな。剣で首を切ってるんだけどな。スサノオ伝説・蘇民将来・天孫降臨・徐福・神武東征・首露王とその子どもたち・卑弥呼なんか時代が近いんじゃないのという気がするんだが…。どの順なんだろう?? そうそう、呉の太白の子孫が日本の祖先だって説が、中国にあるってのを思い出した。以下Wikipedia『太白』より司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太伯・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。ちなみに中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説があり…。って、いつの時代のこと?紀元前473年以降ってことだわね。???また謎が出た。 今日はここまで。旦那が帰ってきたからね。夕飯だぁ~。紀元前400年よりも前とは考えられないんだが…。またまた謎が出てきた。ここんところは、まだ未確認時代だな。 ≪縄文から弥生へどう変わったを考える≫2016年2月13日 司馬遼太郎と考える日本人とはなんだ? 2016年2月13日 川を上った人たち 2016年2月14日 日本に来た桃太郎は、鉄を求めた! 2016年2月20日 項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る! 2016年2月27日 歴史は大移動で始まる! 2016年2月28日 始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? 2016年2月28日 日本に渡った徐福 “数々の徐福伝説” 2016年2月29日 同じ時期に同じことを2016年3月2日 徐福は日本で何をしたか?
2016年03月02日
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同じ時期に同じことを人類と日本人の歩みを探してる人は、ここにもいるんだな~。面白い。 中部大学武田邦彦教授の鉄器と歴史は面白かった。大きな歴史その7 貨幣・文化、そして二極化 2016年2月26日大きな歴史その6 鉄器と歴史 2016年2月23日大きな歴史その5 一神教の誕生大きな歴史その4 アーリア人の出現 2016年2月18日鉄器は、BC3500年前にメソポタミア・エジプトで始まり、BC1300年頃には、ヒッタイトが戦車と一緒に各地に広めた。紀元前500年には、世界に広がっていた。紀元前500年には中国に伝わり、鉄器の使用により農業生産力が高まり、人口が増加し、戦力も増加し、中国は、戦国時代に突入した。 弥生時代に製鉄はあった/最古の製鉄遺跡分布図2013年版 …古代の製鉄炉あと地図No12 日本の鉄器生産は縄文・弥生時代から ―いかがわしい考古学界の年代観―どうも縄文時代から鉄器生産はあったようだ。それはあると思うよ。武田教授によると紀元前500年には鉄器は紀元前500年頃には世界に広がっていたそうだから。つまり、これ以降に、中国から日本に来た人たちの中に、鉄の剣を持つ人や、製鉄技術を持つ人がいたと思うんだよね。中国の戦国時代に大量の渡来人が日本に来た痕跡があるのだから、鉄器も来た。 精度がいい鉄の剣を持って来た人たちが、日本を支配したと思ってた。それが桃太郎一族だ。少し前に背が高くて鬼のような掘りの深い人たちが、山で鉄を作ってた。鬼の鉄の山と宝を奪ったのが、桃太郎ってわけだ。縄文末期~弥生初期には、鉄器はあったと思うし、弥生時代には鉄器は作れたと思う。だから、農業は爆発的に進化したし、戦争もたびたび起こった。 KAZUMOTO IGUTI昔のブログから:「日本人の起源」から「オーパーツの”逆襲”:最古の計算機」まで 2016年2月27日昔のブログから:2002年「いやー、人類進化の問題は実に面白いネ」他 2016年2月27日井口和基さんの記事からは、遺伝子研究からの、縄文人と弥生人の特徴が面白かった。詳しくは本文を読んでほしいが、縄文人の祖先は、アジア系のかなり古いタイプだが、歯の形状などからすると原コーカソイド(白人の祖先)に似た、「短いコーンの歯を持ち、小柄だが手足が長く、掘りが深く目鼻立ちのはっきりした、小顔、目元が二重ですっきり、耳は福耳、耳垢はネバネバしたタイプ。体毛は毛深く、大衆が強い。」タイプで、おおらかな性格の狩猟採集民族で、遠い東南アジアやアメリカの先住民族の一部と共通するモンゴロイドであった。そこに、後にアジア大陸で寒冷地対応した「ずんぐりむっくりで、手足短く、歯が長く、シャベル状前歯、目は一重ではれぼったく、縦長で大きな顔を持ち、耳は耳たぶが小さく、耳垢は乾燥型で、体毛は少なく、体臭も弱い」タイプで戦闘攻撃的な性格の稲作農耕民族の弥生渡来人が縄文人に戦争を仕掛けていき、次第に日本列島から南北に支配地を広げ、原日本人であった縄文人は、北のアイヌと南の琉球人のみになった。NHKの番組で縄文人を取り上げた番組で出てきた縄文人と似てるな。縄文人は、けっこういい顔をしてたんだな。 日本人のルーツ縄文人を研究する! 弥生人もう一度録画を探して見直してみようかな?
2016年02月29日
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日本に渡った徐福 “数々の徐福伝説”≪徐福研究参考記事≫徐福伝説 http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm徐福という人 - 伝説の扉徐福伝説 - 邪馬台国大研究秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(前編)弥生の侵略者徐福 - TOK2.com徐福が日本を作った? - 日本神話・神社まとめ秦徐福上陸古代神話は史実を反映している?弥生時代再考(5)徐福がつくった日本 - 縄文と古代文明を探求 ...漢字は日本人が作った!? | 新・世界の裏徐福とは徐福伝説と稲の道(HTML)徐福 - Wikipedia
2016年02月28日
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始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? アーリア人が稲作を知ったのと、日本に稲作が伝わったのは、ほぼ同時だったことに気がついた。米の種類は違ったかもしれないが…。世界は広いようで狭い。 秦の滅亡を調べていて、徐福という人に会った。もともと知ってはいたが、想像上の人だろうと調べたことはなかった。が、しかし、『項羽と劉邦』を読んで、徐福は確かにいたと思えるようになった。史記を書いた司馬遷というのは、秦滅亡から100年ちょっと後に生まれた人なのだ。それも歴史好きな父に教育を受けていた。フィールドワークをして聞き取った中に、徐福の話があるというのは、妄想で無く、現実だったということではないか? 司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述(ウィペディア『徐福』より) 徐福が港を立ったのは、始皇帝が亡くなったころだと推定される。つまり、紀元前206年ごろ。当時の日本は、戦国時代を逃れた帰化人が大量に渡った縄文後期。稲作も行われていた。徐福は、斉辺りの人だったが、薬学を知り・西域・騎馬民族の戦い方・文字・郡県制・官僚支配・法治国家・重さの統一・貨幣・法家・儒家・畑作・米作を知っている人だった。3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、出発したのだ。 当時の日本人には、神様みたいに見えたのではないかな?徐福が到着してからの日本は、黒船がついた時みたいに、飛躍的に世界に近づいたのではないかな?これまで、少しずつ伝わっていた稲作や道具も爆発的に広がった。つまり、文明開化だわね。そして、正式な弥生時代となった。今まで縄文的に平野に暮らしてきた人たちは、命令する人とされる人に分かれ、富を奪い合うようになった。そして、大きな国ができて、戦うようになった。 …妄想だけどね。 そのあと100年ぐらいで、紀元前100年ごろ日本は、100の国に分かれていたそうだから、その中の一つにはなっていただろう。100の国の1つが、薬学を知り・西域・騎馬民族の戦い方・文字・郡県制・官僚支配・法治国家・重さの統一・貨幣・法家・儒家・畑作・米作を知っていたら、最強でしょうね。紀元前1世紀ごろに 北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣というのも、ありですよね。するとこのチームが、桃太郎に一番近いかも? さて、徐福はどこに着いたのか? ・・・to be continued. ≪日本から見た世界≫ 赤字は日本の出来事紀元前800年ごろ アーリア人青銅器についで鉄器を使用し始める。 先住民から稲作を知り農耕生活に。紀元前800年ごろ 九州北部に稲作が伝わる。紀元前770年~403年 春秋時代 戦争の時代紀元前700年ごろ インドでのアーリア人の国家は16国家となる。その一つが釈迦の国マガタ国。紀元前700年ごろ 秦が国になる、領土と戦力をつけたということ。紀元前600年ごろ アーリア人インダス川に移動。いくつもの都市国家。釈迦の時代。 バラモン教と身分制度カーストを作る。紀元前600年 縄文晩期終末 佐賀県唐津市菜畑遺跡・福岡県糸島郡曲り田遺跡・福岡市有田遺跡 朝鮮半島系の支石墓・石剣などを発見。 九州北部四国などに渡来人がきた。紀元前403年~221年 戦国時代紀元前400年ごろ 縄文後期 大量の渡来人紀元前332年 アレクサンドロス大王により古代エジプトが滅ぼされる。紀元前300年ごろ マウリヤ朝アショカ王インド統一。兄弟家来を大量に殺したとされる。 統一後熱心な仏教徒となる。 紀元前221年 秦中国全土を統一する。郡県制・文字・重さ貨幣の統一。 焚書坑儒・匈奴と戦争。15年で滅びる。 徐福が日本へ紀元前206年 秦が滅び漢ができる。漢は、400年続いた。 ゆるやかな統治。郡県制と封建制を取り入れた。紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に。塩鉄酒を独占販売に。紀元前100年ごろ 日本は100の国に分かれる。 使者や通訳が往来していた。お互いに情報を把握。 ?北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に 塩鉄酒独占販売。紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に 紀元前91年ごろ 司馬遷が史記を完成させる。生年BC145年?BC87年紀元前30年 クレオパトラ7世自殺 紀元前0年ごろ 日本でも青銅器(銅矛)が福岡で作られた。人骨の傷西暦9年 漢王朝が滅ぼされる。西暦25年 後漢末期戦乱と食料不足 緩やかな支配へ西暦57年 倭奴国王 後漢から金印を授かる。西暦107年 倭の国王 後漢へ奴隷を送る。 ?景行56年蝦夷平定?西暦178年 鮮卑族倭人を捕まえ、移住させ魚を取らせる(後漢書)西暦188年 このころ卑弥呼が邪馬台国をまとめる。西暦199年 金首露王死西暦208年 赤壁の戦い西暦220年 後漢滅亡 魏の時代となる。西暦239年 卑弥呼魏へ使い。西暦247年 邪馬台国と狗奴国の紛争 卑弥呼没す。倭の騒乱。西暦252年? 百済尚古王使者に七支刀を献じる(石上神宮) 369年?西暦266年 倭女王晋に使い。西暦280年ごろ 陳寿が三国志を書いた。西暦391年 倭軍が朝鮮半島に出兵、高句麗と戦う。
2016年02月28日
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歴史は大移動で始まる! 武田邦彦 大きな歴史その4 アーリア人の出現 より司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読んでいて、 なぜ秦が中国全土を征服できたかを考えた。以下ウィキペディア『秦』を要約。秦は、紀元前900年ごろ、殷を倒した周王に、馬の生産に優れていたのを認められ、秦の土地をもらったのが始まり。紀元前700年から国となった。秦は、中原からは、野蛮な国と思われていたが、西威と戦い領土を広げ、法を整備し、国を作ってきた。外国人も多く官僚として登用した。長い春秋時代・戦国時代も大きな力を持ち続け、斉と秦で国を2分する力までになる。斉が中原の国々から攻撃を受けて弱った時に、秦は国々を破り、紀元前221年中国を統一した。劉邦に滅ぼされる紀元前206年まで続く。なんと秦は、統一からは15年で滅びた。つまり、秦が力を持ったのは、馬の生産と扱いに慣れており、西威と戦っていた。外国人の登用も多く、他からの知識が流入しやすかった。たくさんの民族を束ねるために 法治主義だった。法で縛ったってこと。こういう気質から考えると、騎馬民族系に近い。戦った西威とは、チュルク系(トルコ系)チベット系の人たち? 4世紀フン族の大移動によりゲルマン民族の大移動が起こったように、紀元前にアーリア人が大移動したことにより世界は大きく変わった。そして、秦もその影響を受けていたのではないかという仮説。アーリア人の移動と、秦の強大化は関係ありそうな気がするので、ちょっくら調べてみた。 世界の騒動元バルカンが動けば、インドも中国も動揺し、中国が動揺すれば、半島と日本に難民があふれるという仕組みらしいな。…仮説だけどね。これって、第一次世界大戦も、現代もおんなじかもな??さらに、今の世の中と似てるかも。イスラム国のパワーが、中東を激震させ、世界中にテロを起こして、アフリカから難民がヨーロッパへ流入。さらにアメリカやアジアにも広がる可能性も。 そういえば、首露王の后もインドだかアユタヤだかのお姫様とかどこかでみた。紀元前の世界も、人々が大きく動いていたのではないかな?≪秦ができるころまでの世界の歴史≫ 赤字は中国に関するもの紀元前2000年~1200年 コーカサス北方に住んでいたアーリア族が寒さと食料不足で移動を始めた。上の地図参照。馬と戦車で移動。アーリアというのは高貴なという意味。紀元前1700年ごろ 殷紀元前1500年~ アーリア人 肌白く・背高く・鼻筋が通り・他民族を下に見る・他人の物は自分の物という考えを持ち、侵入すると皆殺しをした。紀元前1100年~紀元前700年 周紀元前1000年 アーリア人がガンジス川流域に入る。紀元前900年ごろ 秦の土地をもらう。西威と戦うため。紀元前800年ごろ アーリア人青銅器についで鉄器を使用し始める。 先住民から稲作を知り農耕生活に。紀元前800年ごろ 九州北部に稲作が伝わる。紀元前770年~403年 春秋時代 戦争の時代紀元前700年ごろ インドでのアーリア人の国家は16国家となる。 その一つが釈迦の国マガタ国。紀元前700年ごろ 秦が国になる、領土と戦力をつけたということ。紀元前600年ごろ アーリア人インダス川に移動。いくつもの都市国家。 釈迦の時代。 バラモン教と身分制度カーストを作る。紀元前600年 縄文晩期終末 佐賀県唐津市菜畑遺跡・福岡県糸島郡曲り田遺跡・福岡市有田遺跡 朝鮮半島系の支石墓・石剣などを発見。九州北部四国などに渡来人がきた。紀元前403年~221年 戦国時代紀元前400年ごろ 縄文後期 大量の渡来人紀元前332年 アレクサンドロス大王により古代エジプトが滅ぼされる。紀元前300年ごろ マウリヤ朝アショカ王インド統一。兄弟家来を大量に殺したとされる。 統一後熱心な仏教徒となる。 紀元前221年 秦中国全土を統一する。郡県制・文字・重さ貨幣の統一。 焚書坑儒・匈奴と戦争。15年で滅びる。 徐福が日本へ紀元前206年 秦が滅び漢ができる。漢は、400年続いた。 ゆるやかな統治。郡県制と封建制を取り入れた。紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に。塩鉄酒独占販売。紀元前100年ごろ 日本は100の国に分かれる。 使者や通訳が往来していた。お互いに情報を把握。 ?北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣紀元前91年ごろ 司馬遷が史記を完成させる。紀元前30年 クレオパトラ7世自殺 紀元前0年ごろ 日本でも青銅器(銅矛)が福岡で作られた。人骨の傷西暦9年 漢王朝が滅ぼされる。西暦25年 後漢末期戦乱と食料不足 緩やかな支配へ西暦57年 倭奴国王 後漢から金印を授かる。西暦107年 倭の国王 後漢へ奴隷を送る。 ?景行56年蝦夷平定?西暦178年 鮮卑族倭人を捕まえ、移住させ魚を取らせる(後漢書)西暦188年 このころ卑弥呼が邪馬台国をまとめる。西暦199年 金首露王死西暦208年 赤壁の戦い西暦220年 後漢滅亡 魏の時代となる。西暦239年 卑弥呼魏へ使い。西暦247年 邪馬台国と狗奴国の紛争 卑弥呼没す。倭の騒乱。西暦252年? 百済尚古王使者に七支刀を献じる(石上神宮) 369年?西暦266年 倭女王晋に使い。西暦280年ごろ 陳寿が三国志を書いた。西暦391年 倭軍が朝鮮半島に出兵高句麗と戦う。
2016年02月27日
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項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る!今日は雨だからさ。日本を離れて、遠い昔の中国の妄想を広げます。中国は、漫画で『三国志』を読んだぐらいしか知識がありません。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読みながら、地名を地図でたどっています。すごく面白いですよ。 話は、始皇帝が秦を作った、起源前221年から始まります。当時日本は、縄文後期です。弥生前期ともいえます。BC200年前後から農耕がどんどん日本に入ってきたのが分かりますね。 中原から遠い、山間の小さな秦が、中国を統一できたわけは何だったのでしょう?たぶん、東から、他よりも新しい情報と技術が流れてきていたのでしょう。世の中に偶然てありません。必然がある。他と一緒だったら、勝てませんからね。だから強い兵力があった。法と官僚による地方統治ができた。厳しい税収と労役をさせた。なんと、始皇帝一代で大帝国と、万里の長城と、大きな墓と、建造物を作った。前漢時代の地図中国は、多民族で、多国家でした。秦に搾取された人々は、始皇帝の死後、次々と反乱を起こします。最初に反乱を起こしたのは、陳勝・呉広という二人の楚の農民であった。楚というのは、揚子江下流の北側です。劉邦は楚の農家の生まれです。文字と学問はほとんどなかったようです。南側が、呉です。項羽は、楚の将軍の孫として、呉で育ちます。亡命家族なんですね。叔父に教育を受けているようです。 呉といえば、時代は下りますが、赤壁の戦いの孫権の国ですね。孫権と言うと南アジアティックなイメージが強かったので、ベトナムの上ぐらいに思っていたのですが、地図でみると、鹿児島・種子島・屋久島ぐらいの緯度でした。楚・呉というのは、中原の漢民族と較べて、顔も体格も服装もちがって、異民族だったようです。 中原の人たち(黄河周辺)は、小麦食で背が高く、長い顔だったようです。楚・呉の人たち(揚子江周辺)は、コメ食で、背が低めで、断髪、刺青等の習慣があったようです。今日は、この続きから進みます。 年金生活の楽しみの一つは、歴史研究。これ、初めは名古屋弁研究から始まった。 …2013年8月7日 日本の中で名古屋弁ってどこに似てる?ほんとの元は、韓ドラを観ていて、大邱あたりに親近感を感じたところからかも? 名古屋弁のアクセントから、全国にいくつか似ている地方があることを知り、それって、歴史とかぶるなと思ったことから、地元の津島神社のスサノオに興味をもって、古事記の話に進んでいった。古事記を読んでると面白い。だけど 歴史学者や考古学者の本はたくさん読んだけど面白くないのよね。小難しいし。それで、歴史小説を読むことにしたんだけど、これも人によって知識の差があるんだよね。一番司馬遼太郎が、一番面白かったわけ。 …司馬遼太郎脳育成 おいらの日本ってなんだ研究は、芋づる式にどんどん広がっています。《妄想日本史 隠された須佐の男を探せ!1 》2014年1月26日改訂 《妄想日本史 隠された須佐の男を探せ!2 》2014年2月9日改訂 中央構造線上を歴史ドライブする! 司馬遼太郎脳育成 ここまでの日本てなんだプロジェクトは、2年半。毎晩飽きもせずに、進んでいます。いつか、民俗学者柳田國男さんの本が読みたいと思ってます。歴史と痕跡でわかることがあると思います。読んだらすぐ忘れちゃうので、メモもして置かなくっちゃね。 PS.秦に対する暴動を起こしたのが、陳勝も劉邦も項羽も楚の人というのが気になったわ。楚の人は、支配されるのを嫌っていた。個人ではおとなしいが、集団になると爆発的に燃えるエネルギーがある。楚って蘇に通じるかも? ここからは、妄想なんだけどね。楚のあたりを現在江蘇省といいます。そして、蘇州っていう地名もあります。鹿児島にも近いです。体格も気風も近いものを感じますが…。薩摩隼人は、奈良の時代から兵士として活躍していたんですが。阿蘇も近いです。またまた、蘇民将来というのもありますね。スサノオが旅していた時に 蘇民将来が丁寧にもてなしたので、生き残れたという話。それ以来、蘇民将来という札を全国で貼るというやつ。それは、住んでいた人が蘇民だったのではなく、蘇民が将来 来るっていうこと?もしくは、将来蘇民だったことかも?その時には助けるってこと。もう一つ、スサノオは文字を知っていたってことだな。庶民?もちろん読めもしなかっただろうよ。暗号だな。妄想ですがね。妄想史も楽しいもんだ。
2016年02月20日
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日本に来た桃太郎は、鉄を求めた! 2度観たよ。構造線上の丹を求めた人たちがいた。丹の人たちは、中国の辰州、懐化というところから来た。中国辰州には、丹の大きな産地があったからね。 赤い三角が辰州の懐化今の湖南省。ここには水に潜る種族も、稲を作る種族も、丹を取る種族もいた。米の原産地にも近い。支流から、揚子江に通じる。何らかの理由で、ここから日本に来た人たちがいたことは間違いないな。 また次の時代、桃太郎になって鉄を求めた人たちがいた。鬼がすでに掘って鬼の棒を作っていたのを、横取りした。桃太郎伝説があるところが、それではないかな?桃太郎伝説でふっと思ったこと! 桃太郎研究 参考資料1 犬と猿と雉の役割とは?山梨県大月市にある桃太郎伝説!吉備の桃太郎伝説 古代吉備王国の栄光と衰亡桃太郎を追え! 吉備編桃太郎伝説のあるところに鉱山!沸流と 温羅とは同じかも? 葛城・金剛山地・河南・石舞台古墳・太陽の道で連想すること 甲州と宮城の桃太郎大垣の金生山の赤鉄鉱は、壬申の乱を助けた? 美濃にいた桃太郎は 桃太郎の登場時期は、卑弥呼と同時期か、もう少し後か? 何時の時代も島国日本に新しいものを持って来た者が、時代を制したのかも?今の時代の新しいものって何だろう???? ふっと思い出したが、金管加羅首露王。韓ドラのキムスロだけどね。鉄の王。キムスロ(首露王)の母親は、伽耶山の女神正見母主。中国人だった。祖先は、黄帝(中国の神話上の王)の子で、少昊金天氏とされているので、金を名乗っていた。首露王の父は、天神夷毗訶。天神って、テムジンなんだろうか?梵天・帝釈天の意味なんだろうか?とにかく外国人だわ。製鉄技術がある外国人。韓国に住んでいたのに、どちらも外国人だった。その許黄玉王妃は、インドのお姫様って話だよね。全部外国人。それなのに、首露王は、韓国の金さんの始祖って言われてる。金海金氏。これ不思議。 王妃の許黄玉さんが、ベンガラの帆を張った舟に乗ってきたんじゃなかったっけなぁ?ベンガラって丹の赤じゃなかったっけ?記事が見つからないけど…。この一族も日本との関わりが大きいはずだ。鬼なのか桃太郎なのか知らないけどね。 これは妄想の話じゃないよ。確かな痕跡として首露王陵が慶尚南道金海市にある。また、許黄玉王妃の兄が作った西林寺も残っている。首露王の息子が何人か日本に来ているらしいんです。モンゴル系の民族は、自分のとこでなくても、あそこからの土地は誰それにやるとかいうこと多いですから。もらった人が来る。首露王と許黄玉王妃の子供たち! 首露王の父は、天神夷毗訶 てんじんえびす? 鉄の男 キムスロのルーツは? ホ・ジュン 16世紀医師を目指した男が面白い! 許黄玉の子孫? まぁ、いろんな人が日本に来てるわけです。縄文人は太刀打ちできませんよね。生き残るためのスーパーチョイスは、何でしょうかねぇ。縄文時代の話じゃありません。昔を考えながら、今を考えてるんです。この経済戦争の今を生き残る方法です。ま、しばらくは様子見ですかね。
2016年02月14日
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司馬遼太郎と考える日本人とはなんだ?夕べ読んだ司馬遼太郎の本のことを調べてた。雑賀衆というのが、鉄砲が得意な人たちで、集団になるのを嫌う。紀伊海部郡雑賀の荘に住んでいたんだと。紀伊にも海部郡があったんだ。おいらの生まれた愛知県にも海部郡がある。どっかの本で、古代から海部という地名は4か所あると読んだので、妄想のままに調べてみた。 海部郡 (愛知県) - 愛知県(尾張国)の郡。(あまぐん)1913年(大正2年)7月1日に海東郡と海西郡が合併して海部郡となった。海部郡 (和歌山県) - 和歌山県(紀伊国)にあった郡。(あまぐん)明治12年(1879年)(39村9浦)1月20日 - 郡区町村編制法の和歌山県での施行により、海部郡が発足。紀の川河口。海部郡 (隠岐国) - 隠岐国にあった郡。(あまぐん) → 海士郡 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の隠岐郡海士町にあたる。海部郡 (徳島県) - 徳島県(阿波国)の郡。(かいふぐん)明治12年(1879年)1月4日[1] - 郡区町村編制法の高知県での施行により行政区画としての海部郡が発足。郡役所が奥河内村に設置海部郡 (豊後国) - 大分県(豊後国)にあった郡。(あまべぐん)承平年間(931年 - 938年)に成立した『和名類聚抄』には、海部郡に、佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井の10郷があったと記されている ・・・つまり、海部という地名のところは、海の近くの河口近く。名古屋人なら、海部といえば 海部俊樹 元総理大臣 愛知県名古屋市出身。彼を思い出す。それから、歴史好きのおいらは、大海人皇子(天武天皇)。大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている。和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。海女・海人がいる地域って限られてるよ。…天草・壱岐・鐘崎・美波・志摩・鳥羽・三国・輪島・白浜・久慈・済州島魏志倭人伝に出てくる倭の海人は、鐘崎・松浦辺りの海人だったのか?つまり、佐賀県か福岡県あたりのことかもな。鐘崎は、宗像大社のすぐ近く。アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた三女神、田心姫神・ 湍津姫神(大国主に嫁いだとされる)・市杵島姫神(厳島神社にも祀られる)を祀る。神功皇后が三韓成敗に安全を祈願。天武天皇(大海人皇子)の息子高市皇子は宗像系尼子姫の子ども。大海人皇子と壬申の乱を戦った美濃勢と尾張氏。村国男依…美濃各務郡。地方豪族なので中央の職はない。多品治…美濃安八郡身毛広…美濃。景行天皇の子で、ヤマトタケルに殺された大碓命の子孫?和爾部君手…和爾氏の一族。美濃。尼子って言えば、尼子氏。京極氏の一族で、琵琶湖から関ヶ原に至る尼子という地区を治めていたらしい。のちに出雲を治める。琵琶湖の水運権を持っていたのかもよ?? 妄想ゲームだけど、海部・大海人・海人・宗像・和爾・美濃・尼子・出雲繋がるかも?大和には、海人勢力があった?海人勢力と息長勢力が重なるか調べていて、息が続かなくなったわ。息が長いって、海に潜る民族出身じゃないかなぁ??舒明天皇(息長田広額天皇)神功皇后(息長帯比売命)これはまた今度だな。 もう一つ、和歌山の海部も、大分の海部も、中央構造線沿いにあり、丹生、つまり水銀の産地の下流。 海人は、タダの海洋系民族じゃなくて、航海技術のあるレアメタルの水銀を探す民族だったとしたらどうだろ?つまり、海からやってきた外人てこと?この妄想もすごく面白い。妄想なんだけど、海部の一族って、アマテラス・スサノオの時代の系統の人じゃないか?つまり、魏志倭人伝の前に 紀元0~100年ごろ?日本に入ってきた人たちってことだな。スサノオ一族は、宗像から上陸し、紀の川を上ったとしたら??あ、スサノオは、その後出雲から上った???歴史って楽しいな。 さて、妄想はそこまでにして、NHKスペシャルで、司馬遼太郎の特集が、今夜と明日あります。司馬遼太郎は、日本とはどんな国だって思ったのかなぁ??楽しみだなぁ…。PS資料の多くは、Wikipediaで調べたよ。
2016年02月13日
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ロハスでデープな趣味“日本史研究”がグローバル化してきた!60歳前後から始まった日本ってなんだ研究。司馬遼太郎というメンターに出会い、どんどん深まってる。 …司馬遼太郎脳育成 おんぼろアパートの白アリ事件でとん挫していたが、またこの頃始まった。せっかく読書をする習慣がついたのだから、続けよう。今読んでるのは、『殉死』203高地で戦った乃木希典の話。読み始めると、少々眠いのでなかなか読み終わらないなぁ。 1月分の家計費が残ったので、司馬遼太郎を5冊買ってきた。『戦雲の夢』遅れてきた悲運の覇者長曾我部元親『軍師二人』後藤又兵衛と真田幸村 今回は、中国史も買ってみた。『項羽と劉邦』紀元前3世紀秦の滅亡により天下は大乱の時代に入った。呉・越・楚などの国が戦いを広げ、漢へとつながる。 日本でいえば、縄文後期から弥生前期なんだよ。国破れた難民が日本に来て、呉とか、越とか、楚(蘇??)という国を作ったかも?縄文時代の遺跡三内丸山遺跡でも、交易の痕跡があるし、宮崎辺りに呉の漂着民の記録があるって読んだこともあるし…ありそうなことじゃない? 去年の高校講座世界史で分かったんだけど、ワールドヒストリーという視点も大事だな。『項羽と劉邦』が、縄文後期から弥生前期までのことだとすると、項羽と劉邦時代の中国文化が、戦乱を逃れた人々によってどっと日本に流れ込んだ可能性はあるんじゃない?当時の最新の情報と技術と戦闘能力ってことだよね。 縄文を圧倒したのは、ここらあたりの勢力かもよ???いや、ここらあたりの時代の人の持って来た細菌ってこともあるな。 日本と世界の歴史を妄想するのにかかる今月のお金は、540円なり。ブックオフで歴史研究は、ロハスでデープでワイドな趣味でしょ? だけどね。婆さんの歴史研究は、記憶障害との戦いのようなもんよ。覚えた端から忘れるからね。 昨日、土佐の最後の殿様の名が浮かんでこない。だれだっけ?秀吉の部下で、奥さんがしっかり者で、家康にも気に入られて幕末まで続いた…。土佐藩主。幕末の名君の一人。池田じゃないし…思い出すのにすごくかかった。そうそう山内一豊の子孫… 誰でしたっけ?? 正解は、山内容堂でした。ここまでたどり着くのに、半日かかりました。はぁ~っ。ボケと戦うおいらを応援くださいませ。 ☆そうそう、うちの旦那、今朝の散歩に昨日の帽子をかぶっていった!! ←ばあさんのボケボケな毎日を応援してね。にほんブログ村 花・ガーデニング ブログランキングへ
2016年01月30日
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日本人のルーツ縄文人を研究する2富山県の小竹貝塚から発見された人骨から復元すると、縄文人は、こんな顔だった。熊みたいな濃い顔じゃなくて、鼻筋の通ったイケメンだった!!そして、これは九州のどっか…佐賀だったか?忘れた。その遺跡では、多くの籠が発掘され、中に食料を保存していた。大きな牡蠣やら、すっぽんやら、どんぐりのクッキーなど、豊かな食事だったこと分かる。なんとピアスまで付けていたことが分かった。もちろん、だれでもできることじゃないよ。豊かな人がだね。三台丸山遺跡やほかの遺跡でも、他の土地の産物で作った装身具が発見されている。多くの遺跡で発見されるのが、ヒスイだ。ヒスイは、古代珍重された。 蘇我氏がその加工流通の利権を保有していたと、他の本で読んだことがある。光が当たると、ヒスイが輝くことを番組で初めて知った。ヒスイの持つ神秘性は、そこにあったんだな。 そして、ヒスイの緑色は、植物育っていく色でもあった。ヒスイは、霊力や権力の象徴でもあったのかも?ヒスイというのは、糸魚川周辺でしか産出しない。 古事記に出てくるヌナカワヒメっていうのは、そのヒスイの利権を持った王の娘だな。スサノオの息子、または子孫、または女婿といわれる大国主が、懸想した話に出てくる。ヌナカワヒメと大国主との間に生まれたのが、タカミナカタという話がある。タケミナカタは、出雲での新勢力(天孫系)への国譲りに納得できない。最後まで戦って、信州の諏訪に逃げ込んで、諏訪大社に祀られている。そっちに逃げても、かばってくれる濃い知り合いがいたってことだろう。 古事記の中にも、権力がヒスイに寄っていくところが見られる。そういえば、ツヌガアラヒトも玉に魅せられて日本にやってきた新羅の王子だったとか?つまり、半島まで、ヌナカワのヒスイは流通していたということ。ヒスイでできた装飾品の発掘遺跡を見ると、中央構造線から東だと分かる。東と西では、縄文時代から文化が違うのだ。ちょうどこの中央構造線辺りで、分かれるらしい。…これは現在にも残ってるらしいよ。 マックというところとマクドというところがあるとかさ。冗談話じゃないよ。 道具とかいっぱい違うらしい。誰か有名な先生の本で読んだ。誰だったかなぁ…。 しかし、いつかヒスイが霊力を失う時代がやってくるのだ。その勢力転換が、完全に終わるのが蘇我氏が滅びるころと重なるような気がしてる。新しい勢力が日本に多くなったのではないかな。 ヒスイに替わる霊力があるものは、何になったんだろう?鏡だったんじゃないかなと推測する。アマテラスが岩谷に隠れた時も鏡が使われた。卑弥呼も、大量の鏡を配布して勢力を伸ばした。 その後、銅鐸、銅矛、鉄、古墳?何時の時代も、権力者は自分の力に威厳(霊力)カリスマ性を持つ必要があったのだ。 縄文土器は独特な火炎の形をしている。土偶もまた独特な作品だ。近年土偶は、世界の考古学の中で高い評価を得ている。最も古い芸術作品とか。 土偶の女性は、どれも豊満な体をしている。当時の美の基準は、豊かさだったのだ。はぁ~、それならおいらは確実に美人だな。縄文美人。痩せているということは、十分食料がないということだからな。がりがりちゃんたちは、人気がないってことさ。 豊かな食生活と、創造的な暮らし。縄文時代って、なんて魅力的なんだろう!! にほんブログ村 人気ブログランキングへ ←土偶を美人と思う人は、ガッテンをしてね。
2015年12月28日
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日本人のルーツ縄文人を研究する! 縄文人はこんな顔年を取ると、自分とはなんだろうと思う。日本人ってどんな民族か気になる。 はじめは、名古屋人とか名古屋弁のアクセントに興味を持った。…詳しくは、日本ってなんだ研究 を見てね。 行き着いたところが、日本人の根底に縄文時代があるって思った。そこが、多くの日本人の始まりだと思う。正しくは、おいらの根源だな。もっと後の日本に流入した人もいっぱいいるからね。そして、流入する弥生人との戦い・共存・混血。 我が家でいえば、おいらは縄文的であり、旦那は弥生人的だ。昨日のNHKの番組によると、日本には、1万か所以上の旧石器・縄文時代の遺跡があるそうだ。その中で、ほぼ完全な人骨が残ってるのが2か所しかないんだそうだ。地質が酸性で、骨が解けちゃって残りにくいそうだ。 一つは沖縄で、一つは富山の小竹貝塚。小竹貝塚では、貝によって酸性化せず、ほぼ完全な縄文人の骨が発見された。 平均的な身長は、158センチだったか?160cmはなかったと思う。その顔を復元すると、この顔になるそうだ。今まで、教科書に描かれてる濃い顔よりずっとイケメンだよね。これが、人骨から想像される縄文人の顔だ。小竹貝塚で発見された人骨のDNAを調べると、バイカル湖近くを含む5カ所に多く見られるDNAが見つかった。この分布は、ほぼ予想される範囲だよね。当時でも、これだけ人は動いていたってことだよね。出演者のDNAでいえば、全員D4。D4の中でも、縄文時代に到来した型の人と、弥生時代に到来した型がある。やっぱり旦那は弥生系で、おいらは縄文系だって分かる。…夕飯の準備だから、一時お休み。縄文話は、つ・づ・く…。 にほんブログ村 人気ブログランキングへ ←縄文があなたを呼んでいると思う人は、タッチ!
2015年12月28日
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縄文の暮らしを現代に!NHKスペシャルの『アジア巨大遺跡 縄文』観た!前から三内丸山遺跡には注目していた。縄文遺跡の中でも突出存在だったからね。 三内丸山遺跡は、青森市の郊外にある。数百人という集団で、計画的に整備された道路に竪穴式住居を作って暮らしていた。集団で使う大型の建物と 物見台のような高い塔があった。つまり、集団で何か作業をし、他から来る人を見ていたということだ。 装飾品の数々装飾品の中にヒスイの輪があったので、交易もしていたのだと思う。たくさんの縄文土器も作っていたので、売っていたのかもしれない。縄文人は、狩猟採集民だった。世界の4大文明は農耕民族だったので特異な経済だったといえる。一定の場所に定住した狩猟採集民の集団が、どこの文明よりも長く続いたということがすごい。食料の供給が十分であった。衛生管理がされていた。集団の統制がうまく取れていた。大きな争いがなかった。と考えられる。食料は、季節ごとの山菜、魚、貝、狩猟、栗、どんぐりで十分足りた。特定の権力者を持たず、土偶などで宗教的儀式を行って、集団意識を高めていたのではないか。 縄文人のすばらしさは、農耕民族ではなかったからではないかと思うんだ。農耕民族には、技術や富が集中して、弥生時代の初期の段階から、支配関係ができた。農耕に頼るので、他からの収入が無い。いってみれば、今のサラリーマンと同じじゃない? 縄文人の収入は、自然から得られる魚や貝や動物。季節ごとの山菜や木の実。村を囲む森は栗林になっていたが、人工的に植林したものだった。タダの採集生活ではなく、計画栽培だったわけだ。鮭などの干物・栗などの加工。製造した土器などで交易もできた。高い塔があるということは、他の地方の人が来たということだな。 縄文人の経済的基盤は、採集・狩猟・生産・加工・製造・交易。揺るがない経済基盤。むらづくりや、栗林経営に表れる、計画された運営。すごくないですか?三台丸山遺跡の縄文人の経営は、多角経営だったのですよ。三台丸山遺跡の縄文時代は、世界のどの文明よりも長く続いたのです。 サラリーマンだけでいいですか?年金だけでいいですか?自給自足だけでいいですか?年金暮らしだけど、多角経営。これが、おいらの課題です。今日も、清掃員がんばります。
2015年11月11日
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赤いリンゴが好きか?ミカンが好きか? 介護施設のお婆ちゃん用にダビングをしたDVDを観ていて気がついた。そうそう、古いビブロをお婆ちゃんのDVD再生用にしたらどうかと実験している。ただし、旦那が使えるかどうかがキーだけどね。 懐かしのメロディ―で、昭和21年にヒットした、りんごの歌。赤いリンゴにくちびるよせて~♪みかんの咲く丘みかんの花が咲いている~♪それぞれ大流行したらしいが、みんな故郷を思って歌ったそうだ。 これを聞いて思った。りんごの赤さに故郷を感じる人と、みかん色に故郷を感じる人がいるということ。色に対する感性が生まれた場所によって違うということ。 前から思ってたんだよね。赤が好きな会社とオレンジが好きな会社があるなぁって。会社のカラーよ。なんでかなぁ…。中国人も赤が好きだよね。どっかにオレンジが好きな国があるんじゃないだろうか??鳥居は朱色・オレンジだし。海系の神社は、赤い神社だよね。日本古来の神社は、白木なんだよね。日本の中に昔から、赤が好きな民族・オレンジが好きな民族・白木を好む民族がいたんじゃないだろうかと妄想してたんだけど。 北国系は、赤いリンゴに郷愁を覚え、暖系の国では、みかん色に郷愁を覚えるという視点もあったんだ。好きな色にもわけがあるってことだな。☆おいらは、ミカンの花が~のほうが、自分のみた原風景に近いので好きだな。みかんもだけど、柿もたくさんできてる風景を見てきた。田んぼには黄金の穂が実ってた。オレンジと黄金が幸せの色だな。
2015年11月01日
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NHKスペシャル アジア巨大遺跡アンコール面白かった! 11月8日待ち遠しい!!土曜日録画のアンコールワット面白かった。NHK90周年のスペシャルと力が入ってるよ。アンコールワットというのは、カンボジアの内陸で発見された巨大な石の遺跡。鎌倉時代、モンゴルが栄えていた時、カンボジアで豊かな国家が栄えていた。水路を巡らせ、3重の城壁に囲まれて高い仏塔(石の城)がある国。西洋とも、中国とも交易をしていた。石材を正確に加工する技術と、表情豊かな仏像を作る芸術性があった。 なぜ滅んだのだろう??豊かに進化した文化が、なぜ滅びるか?これは縄文文化と同じだと思った。 さて、このシリーズの最後に 日本の縄文文化の巨大遺跡三内丸山遺跡も出てくるようだ。縄文人の末裔のおいらは、待ち遠しい~。前からすごく興味があったんだ!! 縄文時代が見える場所を見つけた!三内丸山遺跡! よくよく番組ガイドを見ると、あれ昨夜もやってたんだ。知らなかった。予約しとこう。カンボジア アンコール 再放送は、10月21日0時10分~ミャンマー バガン 再放送は、10月23日1時30分~
2015年10月19日
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夜は満州で戦う!昼間は、畑で戦い。夕方は食欲と戦い。7時になったら、満州で戦ってる。司馬遼太郎の『坂の上の雲』6も 半分ほど過ぎた。遼東半島の先にある旅順がやっと陥落した。乃木希典率いる師団も 遼陽に集結した??奉天だったか?黒溝台がロシア軍に落ちて、日本軍が絶体絶命のピンチとなった。黒溝台近辺は、秋山好古率いる騎馬隊が、数か所に分かれて守っていた。日本軍の10倍ほどのロシア兵に囲まれて、どうすることもできない。ただ救援を待つのみだが、その救援隊もロシア軍に囲まれてしまった。時は真冬。2月ごろ。凍てつく満州での戦いが始まった。おいらは眠気との戦いが始まった。今晩は、6巻を読み終えられるだろうか??? そうそう、戦争って外国の軍人や特派員が戦場まで同行してるんだね。びっくりした。ロシア軍の方も 日本軍の方もおんなじだよ。陥落した旅順の要塞をすぐに視察団が見て周ってるのには驚いた。敵にやられた軍艦でも、丁寧に視察する。つまり次の戦争に生かすためだよ。こうやってどの国もどんどんイタチごっこのように 戦争能力が高くなっていく。はぁ~っ、そんな競争、どっかでやめてほしいもんだわ。
2015年10月17日
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司馬遼太郎『坂の上の雲』を写真と地図で見る! 、今日図書館で見つけた坂の上の雲参考資料2冊。写真右回りで、乃木希典・東郷平八郎・大山巌・児玉源太郎。なるほど~こんな人たちだったのか。薩摩系は、愛嬌のある丸顔で恰幅がいい。長州系は、細顔、細身が多いな。 秋山好古 秋山真之秋山兄弟は、元松山藩の下級武士の子ども。旧藩の奨学金で学んだ。2人ともハンサムだが、好古は、日本人離れした顔だった。…若い時の写真 あとで追加予定。 有名な長岡さんの長いひげ。現在『坂の上の雲』5冊目。児玉源太郎の指揮と大砲で203高地がやっと陥落したところ。『坂の上の雲』を読むまでは、203高地って、広いロシアの東のウラジオストク辺りかと、ぼーっと思ってた。ところが、朝鮮半島の根っこにある、遼東半島の爪の先のようなところ旅順のすぐ後ろだった。ロシアは、自分の領土で戦ってはいないのだ。東進政策で、満州と半島に進出してきていたのだ。旅順の裏山203高地を破るのに、何万人もの兵士が亡くなった。心が痛くなるような戦いだったのだ。そして、それはわずか110年前のことだった。おいらたち、自分の国の歴史をしっかりと学ぼう。
2015年10月14日
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司馬遼太郎『坂の上の雲』に突入!『耶律楚材』陳舜臣著 読み終わった。チンギスハンの参謀役だった契丹人の王室の子孫耶律楚材の生涯を描いたもの。歴史の勝ち組は記録に残るが、負け組には、また壮絶な生き残りの歴史があるんだな。それと民族の一般的傾向というのも興味深かった。モンゴル人は、土地に執着せず、略奪で富を得ていた。物事の考え方は、合理的であり、新しい情報や文化に敏感であった。他にイスラム人とか、漢人とか、契丹人とか。それそれの民族で、違いがあるんだな。それも考慮して、戦いが行われる。さて、読み終わったので、またまた司馬遼太郎に戻った。『坂の上の雲』NHKの大河ドラマでやっていた。観てないけどね。もう一度やってくれないかなぁ??時は明治。負け組の松山藩の下級武士の3男・4男と友人の正岡子規らが、新しい日本を作っていく様子が書かれている。。まだ1冊目の半分だからね。よくわからんけどね。松山ってどこかな??確か宇和島藩に近かったと思うが。今までの歴史の中では、あんまり出てこなかったなぁ。道後温泉が、そのあたりということは、大村益次郎かなんかの時に出てきたかも??そうだ!夏目漱石の坊ちゃんの場所じゃなかろか??山口や宇和島はすぐ近くなのに なぜ政府軍だったんだろう??≪司馬遼太郎脳育成ゲーム≫ 司馬遼太郎の歴史細胞は、おいらの脳でどんどん増殖中!・坂の上の雲 陸軍少将秋山好古、海軍少将秋山真之、正岡子規が主人公。・殉死 陸軍大将、乃木希典・菜の花の沖 幕末の蝦夷で海鮮問屋として活躍した高田谷嘉兵衛・酔って候 幕末の土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津久光、宇和島藩主伊達宗城ら・歴史と風土 雑誌連載の記事を集めたもの・・翔ぶが如く 西郷隆盛・大久保利通・司馬遼太郎『菜の花の沖』全6冊を買った! ・司馬遼太郎『世に棲む日日』 高杉晋作と久坂玄瑞を知ろう! ・竜馬がゆく 全8冊 『竜馬がゆく』竜馬ってどんな男だ! ・功名が辻 全4冊 108円歴史の旅『功名が辻』司馬遼太郎 長曾我部元親あとの土佐藩に山之内一豊が入った! 四国の長曾我部元親の戦国時代! ・夏草の賦上下 長曾我部元親・梟の城 『梟の城』司馬遼太郎で4時間が過ぎた! 司馬遼太郎を買う! ・花神 108円歴史の旅『花神』長州の大村益次郎 ・義経 全2冊 108円歴史の旅“義経” ・新撰組血風録 新撰組歴史年表 『壬生義士伝』 歴史は、勝てば官軍なり! ゲオの優待で『壬生義士伝』借りた! 新撰組ってどんな人たち? 108円歴史の旅 『新撰組血風録』は、あつい! ・司馬遼太郎の日本探訪 108円歴史の旅 司馬遼太郎の日本探訪 ・歴史の交差路にて 『歴史の交差路にて』やっぱり釜山は美人の産地? ・空海の風景 全2冊
2015年09月19日
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尾張人か名古屋人か?尾張人だわな!たまたま名古屋弁で検索してたら、見つけた尾張vs三河これが、でらおもしろい。 http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%B0%BE%E5%BC%B5vs%E4%B8%89%E6%B2%B3 愛知県人向きだな 尾張と三河が違うルーツ・文化だってわかるよね。実は、司馬遼太郎の本でも、戦国時代から気質が違っていたって書いてる。『覇王の家』気質言語の違いはルーツの違いじゃなかろか? おいらは、キリンのでらうまというビールが好きだった。濃くてでらうまかった。味噌カツも、味噌煮込みうどんも、ナポリタンもケチャップたっぷり。名古屋人は、味が濃いものが好きなんだな。でらおもしろい。というのは、どえらく面白いとうことだ。どというのは、度を超すの度。つまり最上級ということだ。度を越して面白いというのを短縮して、ど・えらくおもしろい。発音する時には、どぇりゃぁおもっしれぇ。名古屋弁でも高度な発音だわ。 さて、おいらは、尾張に18年名古屋に19年住んだ。名古屋弁か、尾張弁かと言うと、尾張名古屋弁なんだな。住んでた所と仕事をしていたところと言葉が近かったんだよね。だから違和感はなかった。ただ、上品な人の言葉と、普通の人の言葉はちょっと違ったかな?そんなことより、大衝撃だったのは、岡崎の人や、豊橋の人の言葉の違いだった。すっごくかわいい子が、すっごい話し方をするのだ。あわわ…。驚くよ。 そうそう、おいらは木曽川の近くだったので、三重県から仕事に来る人も多かった。だからその発音にはなれていた。優しい言葉だしね。困ったのは、アクセントの違い。はしといっても、端なのか箸なのかよくわからない。飴なのか雨なのか。雲なのか蜘蛛なのか。木曽川を境にして、アクセントが全く違うことを 中学生の時から知っていた。家庭科の担任が、伊勢の人だったからね。桑名の人も多度の人もいたからね。 愛知県は、言語も思想も一つじゃないんだよ!!多分!!それを考えて、上の記事を読むと笑える!!ふふっ!!
2015年09月06日
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やっとかめは、3か月ぶりのこと?名古屋人は必見だわ!朝、寝起きに『やっとかめ』は、何日ぶりのことか考えた。やっとかめって、何 意味わからんし…。ん… 名古屋弁は、言葉を縮めるのが好きなんだ。せっかちでもあった。短い言葉で正確に伝えようとした。もう一つ名古屋弁の特徴に、文字にすると標準語になるという原則もある。う~~ん。この法則を利用すると…。めは、目よね。やっとかというのは数字じゃなかろうか?八十日?やっとか?やっとかめ?これかな?はちじゅうにちめ=やっとかめ …ググってみたら正解だった! よう!久しぶり! どのぐらい久しぶりかというと、2・3か月ぶりということだ。おいらの畑仕事も、やっとかめというぐらい長いブランクがあったわけさ。気持ちを伝えるには、お国言葉が一番ていうことさ。 さて、おいらの日本史研究は、名古屋弁のはてなから始まったんだよ。2013年8月7日 日本の中で名古屋弁ってどこに似てる?思ったのがきっかけ。関西風でも関東風でもないよね。名古屋弁は、どこと似ていて、どういう特徴があるか?秀吉の部下で、尾張人が領主になったところには名古屋アクセントが残ってる。特に丹後半島の名古屋弁は、すごく近いらしい。…尾張から名古屋弁が広がったのではなく、実は丹後から移動してきたと思ってる。名古屋弁の仲間は、初代〇孫系ではないかと思う。スサノオ系ということ。壬申の乱では、大海人皇子の勢力。海人系だな。津島神社と熱田神社の祭りが、まきわら船なのだよ。調べてるうちに、どんどん日本史にハマりこんだ。 韓ドラにも。よく、サトリ(方言)が出てくるんだけど。釜山とか南海とか、全羅道とか、言葉の流れに違和感があるんだよね。ところが、大邱のイメージが名古屋弁に近いのよね。耳に聞きやすい。顔も名古屋美人に似てる気がする。親戚の美人だったおばさんに近い!!そうそう、竹下景子に近い。鶏が好きだしね。共通点が多い。つまり、ここを通ってきた人たちじゃなかろうか?妄想だよ。イメージ。秀吉の朝鮮出兵時に大邱に移り住んだ日本人もいるんだと。へ~。 名古屋弁イメージは、どこから来たか考えてみた。世界の言語の中では、フランス語に一番近い。2013年11月4日 名古屋弁と韓国語とフランス語をつなぐ人探し!…ドイツ語や英語はアングロサクソン系だからね。言葉が固い。フランス語のもとは、ケルト人だから、ケルト人も名古屋人に近いんじゃないだろうか?ケルト人はトルコの辺りに住んでいたが、ゲルマン民族に押しやられて、フランス・スペイン。イギリスなどに移動した。日本人と同じ古いタイプの遺伝子を持つ。日本人と非常に親和性が高いんだな。 ケルト人と日本人の近さ! 2014年8月26日DNAという見えないルーツ探しもあるけど、言語とか習慣という痕跡もルーツを知る一つだな。な~んてね。妄想が広がりまくったわけさ。世界は妄想で繋がる~。やっとかめから、イギリスのケルト人まで繋がりまくって、今朝はお終~い。おいらの名古屋弁研究は、 to be continued. ≪名古屋弁の特徴≫ 2013年8月7日 名古屋弁のアクセント仲間を探そう!より・名古屋弁は東京アクセントだけど 少し違う。・文字では、ほとんど方言は現れない。・名古屋弁は、8つの母音と 3つの2重母音がある。・フランス語のように前の音につながって 音便化する。フランスに近い??・てにをはが脱落しやすく、単語が短縮しやすい。・東海地区はせまいところに 個性のある言語が同居している。 桑名弁・名古屋弁・三河弁 交わらなかった理由があると考えてるわ。 宗教も言語も交わりにくい。ルーツが違うから。≪参考≫2014年8月26日 ケルト人と日本人の近さ! 2014年8月20日 丹後弁がどえりゃぁ名古屋弁に似とるわけは? 2014年8月19日 名古屋弁にどえりゃ~似とる丹後弁 2013年11月4日 名古屋弁と韓国語とフランス語をつなぐ人探し!2013年11月4日 リエゾン訛りは、フランス・韓国・名古屋弁!2013年8月8日 名古屋弁アクセントの仲間を探せ!2013年8月8日 アクセント仲間で探す 名古屋弁の仲間!四万十編2013年8月7日 名古屋弁のアクセント仲間を探そう!2013年8月7日 日本の中で名古屋弁ってどこに似てる?《妄想日本史 隠された須佐の男を探せ!1》2014年1月26日改訂 《妄想日本史 隠された須佐の男を探せ!2》2014年2月9日改訂 中央構造線上を歴史ドライブする!
2015年09月06日
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国が滅びたらどう生き残るか?『耶律楚材』アフリカから難民がトルコに押し寄せているトルコからドイツへと難民が移動するようすがニュースでやってた。国で住めなくなった人たちは、他国へ住処を求める。中国の軍事式典は、アジアNo1の軍事力を見せつけた。何かあったら、これは大きな爆薬庫だな。日本に何かあったら、おいらはどこへ逃げたらいいんだろう??あ?日本は、逃げるところもない東の果ての島国なのだから。日本は、島国だったので縄文から現代まで、他国の干渉は少なかった。だから、この島から他へ逃れることもなかった。…実は、多くの難民をアジアから受け入れてきた国なのだ…。秦・呉・蘇・越、こんな字がついたところがあるよね。これからはどうだろう??他国との戦争があれば、アジアからの難民が来る可能性もおお有りだ。ひどい侵略も略奪も経験せずに来た日本。生き残り方を知らない日本人。縄文人と同じだ。ガラパゴスともいう。しかし、アジアでは、人が住みだして5000年以上戦いの歴史が続いているのである。人と戦争は、切り離せないものだと考えた方がいい勝った国があれば、負けた国がある。負けた国は略奪しつくされ、滅ぼされる場合も多かった。生き残りは、大きな問題だった。司馬遼太郎の『菜の花の沖』でロシアと西洋事情が出てきた。歴史っての世界規模で動いてるんだって気がついたわ。そこで、今回読んでる『耶律楚材』は、国を滅ぼされた契丹人の話。耶律楚材は名前だよ。彼はどう生き残ったか?興味津々だわ。 …耶律楚材は、井上靖の『蒼き狼』の中にも出てくる。陳 舜臣は、大阪外語大学で司馬遼太郎の1年上の学年。神戸生まれの台湾人。先祖は、後漢時代の役人。楚材とは、『春秋左氏伝』の晋と楚の比較を言った、『楚材晋用』から来ている。晋は、楚から逃げてきた強い優秀な人材を使ったことから使われる。陳舜臣も楚材ということか?900年ごろ、日本でいうと平安時代後半かな??遊牧していたモンゴル系の契丹人は、遼(契丹)という国を作った。今でいう遼寧省の辺りかと思う。つまり、遼東半島辺り。首都は、韓ドラでもよく出てくる、燕。今でいう北京だよ。北宋は、遼が目障りだった。そこで、女真族の金と手を組んだ北と南から挟み撃ちにしようと思ったんだな。遼は、滅ぼされたが、北宋も滅ぼされてしまった。…あれ、南宋だったっけ?耶律楚材の父・耶律履は、敗れた遼王族の出身であったが、金王朝の重臣として仕えた。敵国の役人になったんだけど、優秀だったからすごい大臣になっていた。契丹人支配のために登用していたんだな。耶律楚材も試験を受けて、金王朝の役人となったが…時はちょうど、ジンギスカンが、モンゴルを疾風していた。遼から逃げて、トルコで西遼を作った契丹人も滅ぼされていた。時の風は、モンゴルに吹いていた。このまま金に仕えていていいのかという思いが、耶律楚材の心を落ち着かないものにしていた。どうする耶律楚材!!ってところで昨夜は寝てしまった。こんなところで寝るはずがないと思うんだけどね。日本は世界の中の一つ。世界の歴史にも挑戦だわ
2015年09月05日
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縄文時代が見える場所を見つけた!三内丸山遺跡! 見えるぞニッポン!NHKの小学生用の教育番組『見えるぞニッポン』を見た。青森。巨大な縄文遺跡三内丸山遺跡があるそうです。縄文ですってぇ~行ってみたいなぁ…。でも、いけないのでネットで調べてみた。でかいよ~!!縄文人は、やっぱり原始人じゃなかったわ!!下の動画を観たら、4分53秒で縄文のすごさがわかるよ~。三内丸山遺跡は、青森市の西30分ぐらいのところにある。700棟以上の住居跡が見つかっており、500人近い人が住んでいたと考えられる。横32mの大型住居も見つかっている。また、直径2mの穴が6つ見つかっていて、直径1m以上の栗の木が一緒に見つかった。つまり、20mほどの高さの建物があったのではないかと考えられる。住居の周りは、90%が栗の木でおおわれて、一部クルミの木も見られる。食料として、栗とクルミを栽培していたのが分かる。次の画像は1時間ほどで長いがより詳しい。時間がある人はどうぞ見てください。縄文の暮らしと気持ちが分かる品々。 おいらのDNAの60%は縄文でできていると思うな。では、縄文人は、なぜ生き残れなかったか???ここが問題だわ。
2015年08月28日
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残すものは、何だ!カンブリア宮殿の録画編集をした。西川ふとんだった。観てないので、詳しくは分からないが、創業は江戸時代らしい …創業449年だって。つまり戦国時代創業。長く続く。儲けている。新しい技術。こういう言葉に反応したわ。あとでじっくりと見ることにしよう そう言えば前に 島津製作所の話を観た。島津のマークは、マルに十文字の島津藩の家紋だ。藩御用達の仏壇のお店だったらしい。 …参考 カンブリア宮殿で特集!島津製作所がスゴすぎる!!江戸創業のお店には、酒・味噌・醤油・酢の醸造業も長く続いているところが多い。メーカーのところは、長く続いているところが多い。技術は、門外不出である。習得に時間もかかるので、真似ができにくい。また、座とかいう、カルテルみたいなもので、利権を固く守ってきた。一方、商人と呼ばれる、廻船問屋・卸問屋・貸金など江戸時代大金持ちがたくさん出たが、現在その多くは残っていないい。日本生命が三井生命と合併するとかニュースで見た。三井お前もかと、ちょっと悲しくなった。三井財閥の創業者、三井高俊は、伊勢商人だった。越後屋という屋号だった。質屋酒屋から、呉服屋となり、両替屋も経営した。有名な人なんだけど。三井が続いたわけがあるんよね。三井高俊は、遺言に息子たちの利益分配比率を決め、店は皆で継続することを遺言とした。つまり株式会社みたいなもんだ。利益配分を指定したわけだ。資産を分けると、市場競争力が無くなるからね。高俊の息子、三井高平は、江戸商人48人が没落していく様子を、『町人考見録』に書いた。当時も大きく儲ける商売人はあった。しかし、長く続くことは難しかった。だから、稼業が長く栄えるにはどうしたらいいか?どうしたらいけないかを深く研究したわけだ。三井家には、こうした考察がたびたびされ、家憲が残されている。『宗寿居士古遺言』『宗竺遺書』など。江戸時代の材木商、奈良屋茂左衛門は、莫大な遺産を築いた。時代の風を読み、資産全てを現金と家屋敷に替えた。そして、財産全てを妻子と奉公人に分けた。しかし、遺言として、一切の商いごとに資本を出してはいけないと残した。息子には、家主、貸金業者として生きるように。つまり、それぐらい大商人としてやっていくのは、適性がいる。あ~、妄想が広がりすぎた。今読んでいる、『日本の近世 商人の活動』の話だわ。三井生命の話からの暴走であった。商業・商人の活動は、時代背景に大きくかかわっている。時代が求めるものを、早く提供できたものが莫大な利益を得ることができた。そのためには、情報と交通が大きな役目を果たした。江戸時代って、情報閉鎖社会ではなかった。より早く情報を得ようと、商人はしのぎを削っていた。『日本の近世 情報と交通』 日本の中世 異郷を結ぶ商人と職人職人の世界は、実は中世から閉鎖的だった。座があって、その技術と権利は守られた。農業でもなく・漁業でもなく・職人でもない人の多くは、わずかなものを売って商売した。商人は、人との交流・地域との交流から、より多くの情報を知りえた。商人というのは、…ここんところがうまくまとまらんのだが…。どっかの考古学の本で読んだ。農耕民族の社会は、長く続くが、商業民族の社会の繁栄は短い。商業民族は、その地の利害のこだわらないからだ。つまり、金さえあればどこでもまたやってけると思うわけだ。フェニキア人的だな。日本でいえば、農耕社会の徳川幕府と、商業民族の平氏かな?何が言いたいのか?自分でもよくわからんのだが。長くかかったがまとまらんなぁ…。クワドラントの起業家や投資家というのは、一代だということだ。子孫がうまくやるとは限らない。固いのは、製造業であり、土地持ちじゃなかろうか?残すのは金じゃなくて、生き方だということかな
2015年08月28日
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縄文人がいたところは、安全な物件?さっき読んだ下のブログ記事が興味深かったです。縄文大好きなおいらにヒットしました。縄文遺跡があるところの土地は買いです!!古い神社があるところも買いです!! ぜひ本文をご覧ください。 …以下抜粋引用ですが…古くからの言い伝え「津波が来たら神社に逃げろ」が意味することhttp://by-s.me/article/124055827504034872?utm_source=fb_share&utm_medium=sp&utm_campaign&fb_ref=Default後で見る…津波が到達した浸水線をたどると、なぜか神社が現れる。それは偶然ではなく、神社のすぐ前まで波が押し寄せたにも拘わらず、そこで津波が止まった。そういう神社がとにかく多いのである。… 共有再生リストを共有する共有情報の取得中にエラーが発生しました。しばらくしてからもう一度お試しください。関連動画0:000:000:00 / 8:19ライブ大島さんは、「縄文人は遅れた人々ではない。神話的世界観を持った豊かな心性を持っていた」と主張する異端の考古学者です。…縄文時代の海岸線に沿って、遺跡と神社が重なりあうように位置していることが分かります。つまり、「神社とは縄文時代において大切な場所であったところに建てられた施設である」…3つ目のキーワード縄文人です。縄文時代と言えば縄文土器です。縄文というからには、縄の文がついているんです。縄文土器の縄が何を意味しているか誰にも分かっていませんが、私の本に「縄は蛇を示している」と書いたら学会から無視されました。(笑)一般に装飾だ、ファッションだ、と言われていますが、装飾やファッションが1万年続きますか?命の水を受ける土器に、その使者である蛇を巻いたとしか考えられません。≪おわりに≫日本人は歴史認識を少し変える必要があります。それは縄文人が石斧を持ち腰布一枚で生活していた文明の遅れた人たちで、優れた文化は後に大陸から入ってきた、という説です。見出し画像の女の子の服装。実は5000年前の遺跡から発掘されたものを復元したものです。今のアニメのコスプレと言っても通用するぐらいカワイイ服です。腰布一枚で走り回ってはいなかったということです。縄文時代は1万8千年続いたとされています。退屈な時代がそんなに長く続くでしょうか?きっと豊かなで平和な生活だったのだと思います。その証拠に遺跡から武器が一切見つかっていません。そのような生活の中で、縄文人は自分たちが大切だな、神聖だなと感じる海岸の入江の少し高い場所に神殿のようなものを作りました。そこがのちに「神社」となりました。時がめぐり、海面が下がりその「神社」が内陸に残されてからも、その場所は大切にされました。何しろ1万8千年の間、大切にされてきた場所です。そして、2011年3月11日に大津波が押し寄せてきたとき、その場所がかつての縄文時代の海岸線まで押し寄せました。古代からある「神社」は無傷でした。神社は月の水(命の水・新しい生命)を受ける場所。その入り口の鳥居には しめ縄(水を運ぶ蛇)がいて、受け入れられた命の水は参道(産道)を通り、お宮(子宮)へと向かいます。そして、新しい命が生まれるのです。まるで、入江に出入りする波のように。私たち日本人には、この豊かな縄文人の考えが内に生きています。5000年前の遺跡から見つかった漆塗りの朱色の櫛があります。櫛は女性が使うものです。では、櫛を贈るのは誰か?男性でしょう。縄文人女性が身につけている装飾品は男性が作ったと考えられています。縄文人の男性は狩猟採集を担い、自由な時間にはアートしたのです。そして、好きな女性にそれを贈りました。これはこれで「イクメン」ではないですか。そう考えると縄文人の生活がいかに豊かだったのか分かります。こんど神社を巡るときには、縄文人のメッセージに思い巡らせてはいかがでしょうか。「津波が来たら神社に逃げろ」に代表される古くからの言い伝え。それは2万年前の縄文人からのメッセージかもしれません。
2015年08月27日
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司馬遼太郎の『菜の花の沖』大暴走を乗り越えた! ピンクの部分がロシア大暴走部分!なかなか難関だった司馬遼太郎の『菜の花の沖』を読了。おいら頑張った。司馬遼太郎の本は大好きだ。いつも、ぐんぐん読むんだけど、この本は、途中で挫折しそうだった。5巻のほとんどが高田屋嘉兵衛ではなくロシア事情だった。繋がりはあるんだけどさ。話からそれること320ページって、長すぎるわ。司馬遼太郎大先生が、スーパーサイア人になって、大暴走だわ。おいらにとっては、逃げ出したかった試験勉強と同じ。はぁ~。読み疲れる。のたうち回りながら読んで、やっと先週通りすぎた。今週は、快調に飛ばして、さっき読了した。何時かまとめると思うけど、一番の印象は、鎖国でも、自給自足でも、外の情報を知らないと井の中の蛙だということ。これは大きいことだと思う。独立性が保てなくなるからね。いつも世界に目と耳を開きながら、足は自給自足!!
2015年08月19日
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日本語のひらがなとカタカナはこうして生まれた!日本の一番古い文字は、稲荷山古墳の鉄剣に書かれた文字である。大和にできた政権は、中国や半島から、新しいものをどんどん吸収していった。日本人は、漢字漢文を理解することで、律法・仏教を理解した。日本書紀・十七条憲法はすべて漢文で書かれた。漢字漢文は、政治的に法律的に公用語となった。ところが、古事記を書いた太安万侶は、困った。本文は漢文を使ったが、昔からある歌を表すことができないのだ。苦労して和語を1音漢字1字に置き換えて、和漢混交文で表した。それでも、当時の人には、読みにくい文だった。天武・持統の時代になって、宣命体ができ、体言や用言を漢字で書き、つなぐ言葉を万葉仮名で書いていく。今の漢字かな交じり文の原型である。柿本人麻呂らの苦労があって、万葉集では、この表現が生まれた。これで、かなり読みやすい文になった。万葉仮名には特定の文字が使われ、誰でも読みやすい文となった。万葉仮名が草書体に崩して書かれたものが、ひらがなの始まりだ。8世紀の正倉院文書に見られ、9世紀中ごろには、文書や京都の遺跡から見つかった土器、多賀城跡で見つかった土器など全国でみられるようになる。ひらがなが公的文書で正式に使われるのは、古今和歌集(905年)が最初である。ひらがなによる最初の文学作品は、紀貫之の『土佐日記』である。漢字の一部分を使って、文字の代わりにすることが7世紀から行われていた。カタカナの起源は、9世紀初めの奈良の僧侶たちが、漢文を倭読するための補助として使ったのが始まりといわれ、経典などにその記録が残っている。10世紀中ごろまでは異体字があったが、12世紀にはほぼ現在のカタカナになった。ひらがなは美的なものとして鑑賞に使われたが、カタカナは実用的なものとして使われた。中国の進んだものを日本人は漢字から学んだ。立法や経済・仏教を取り入れるために、すでに半島で使われていた漢文を読み下す方法も取り入れた。当初、帰化人や仏教僧が果たした役割は大きかったと思う。普及するにしたがって、より使いやすくという努力が、ひらがな、カタカナを生み、今の日本語のもととなった。こうして私たちは、日本の言葉で表現することが可能となった。文字がある。文字で書けるということは、記録が残せる。知識の伝達が正しくできる。文学が楽しめるようになる。人は文字が書けることで、飛躍的に政治・経済・文化を発達させることができた。しかし、おいらのような庶民にとってそれはいいことばかりではなかった。役所が作られ、地方での管理も厳しくなった。戸籍が作られ、ある単位の集団で管理される社会が始まった。税金の徴収が厳しくなった。労役の負担も逃れられないものとなってきた。文字を知っているのは、貴族か、官僚か、管理組織の一員か、僧侶だった。壬申の乱以降、身分差は乗り越えられないものとなっていった。庶民にとっては、文字はまだまだ遠い世界だったのだろう。★万葉仮名・カタカナの写真は、万葉仮名の最古の木簡出土 http://www.geocities.jp/yasuko8787/naniwa.htm を参考とさせていただきました。・日本では、いつごろから文字を使ってるのか? ・日本では、何時から自分の言葉として文字を使いだしたか? ・漢文ではない日本語の文が始まった!
2015年07月26日
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日本人の心に共感した小泉八雲今日も、60の手習いテレビ講座を頑張って消化した。NHK『100分で名著 日本の面影 小泉八雲』小泉八雲の本名は、アフカディオ・ハーン。イギリス国籍でアイルランド人で軍人の父とギリシャ人の母の間にギリシャで生まれた。2歳でイギリスに戻るが、母は間もなくギリシャに帰った。父は再婚し、インドに赴任した。ハーンは、7歳から大叔母に育てられた。13歳で全寮制の寄宿舎に入るが、カソリックの教えや文化が嫌いだった。16歳で左目を失明。大叔母の破産により、19歳で親類を頼ってアメリカに渡る。24歳で新聞記者になり、世界を取材する。ニューオリンズの万国博覧会で日本に興味を持つ。古事記の英訳を読んだ。1980年4月に日本に旅行し、日本に魅了される。1984年アメリカで英文の『日本の面影』を出版する。小泉八雲は、欧米化を急ぐ日本人知識人への批判と、日本の本当の良さは庶民にあると伝えたかった。また、人間とは、幻想や想像力に頼る生物であり、日本の古代の物語は、ギリシャ神話に匹敵すると考えた。彼は、西洋の近代文明に批判的だった。小泉八雲の人生は、居場所を探す旅を続けていた。横浜に来て彼は、誰もが微笑んでくれる世界、人に愛されて美しく咲く桜に感動する。アイルランド人の八雲には、自然と一体になるアニミズムが感じられた。また幼児体感から、ゴーストを感じていた。鳥取で盆踊りに遭遇し、神と人とが一体になって踊ってる姿に、魂が響きあう感動を覚えた。そして、神々の国出雲で師範学校の外国語教師になる。出雲大社では荘厳さに動かされ、柏手の音にも感動した。日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、その魂のすべてが代々受け継がれ、はては無意識の本能の域まで至っているのである。 ≪思ったこと≫・日本人は、自分たちがどんな民族だったか忘れかけている。欧米の合理主義・資本主義・便利な生活に流されている。自然を恐れながらも、敬い共存してきた心を忘れている。また、祖先および前の時代の人たちを敬う心も忘れかけている。心豊かだった時代を忘れて、もっと欲しいと欲望を膨らませて、突き進んでいく先はどんな社会か立ち止まって考える必要がある。・アイルラン人と日本人とのシンパシーは、やっぱりあると思った。ケルト系アイルランド人と日本人は、古いタイプのDNA民族だと思う。自然崇拝・妖精を信じる・占いを信じる・巨石文化・ガーデニングが好き・好きな歌のタイプの声が似ている。 …今日は一日 スサノオのルーツ探しの旅 読みづらいのでメモ 2013年11月25日 …ケルト人と日本人の近さ! 2014年8月26日 …日本人はなぜコッツウォルズが好きか? 2015年2月18日 ・小泉八雲の『日本の面影』図書館で探して読んでみよう。
2015年07月26日
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漢文ではない日本語の文が始まった!熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 (万葉集)この文は、漢文ではない。口語を漢字で表そうという動きが始まったのだ。 681年天武天皇が川島皇子らに、帝紀および上古の諸事を記し定めるように命じた。705年舎人親王が日本書紀の責任者となる。これが、外国に向けた日本の歴史書物『日本書紀』の編集の始まりである。720年完成。684年天武天皇は、稗田阿礼に『帝紀』と『旧辞』を詠み習わすように命じた。711年元明天皇が太安万侶に稗田阿礼が詠習した『旧辞』の筆録を命じる。712年元明天皇に献上。これが、『古事記』である。 日本書紀は漢文なので、表現で困ることはなかった。ところが、太安万侶は、困ったのだ。稗田阿礼が詠習していた『旧辞』の本文は漢文を使うにしても、たくさんある歌を漢文で表すことができないのだ。そこで、苦労して1音1字に置き換えて表記する。和漢混交文という文体で書かれることとなった。太安万侶たちの苦労が分かる気がするな。…一部の神の名に、中国の四声の表記があるそうだ。それはどういうことか?それでも、当時の人には、読みにくい文だった。天武・持統の時代になって、宣命体という表記ができる。宣命や祝詞などの文である。体言や用言を漢字で書き、つなぐ言葉を万葉仮名で書いていく。今の漢字かな交じり文の原型である。宣命体は、古代半島でも行われていた方法で、モデルはここにあったといわれる。…天武時代と半島の近さが分かるね。柿本人麻呂らの苦労があって、万葉集では、この表現が生まれた。これで、かなり読みやすい文になった。さて、宣命体の万葉集を読んでみよう。熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 (万葉集)熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (額田王)これならちょっと考えれば読めそうだ。クロスワードレベルだけどね。いろんな国の助けで、日本人の表記はここまで進んだ。稲荷山から、240年が流れていた。ここから先の日本語は、お寺の坊さんたちの苦労から生まれる。☆口承の歌は、文にならずに大昔から続いていたんだな。それを表記するための苦労が、だれでも読めてかける日本語への進歩を始めた。
2015年07月24日
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日本では、何時から自分の言葉として文字を使いだしたか?昨日は、日本では、いつごろから文字を使ってるのか?まとめた。日本で書かれた一番古い文字は、稲荷山古墳の鉄剣の文字である。それは皇族の子孫の地方の古墳から見つかっている。当時から半島や中国との関わりは深かった。大和にできた政権は、中国や半島から、新しいものをどんどん吸収していった。日本人は、漢字漢文を理解することで、律法・仏教を理解した。日本書紀・十七条憲法はすべて漢文で書かれた。漢字漢文は、政治的に法律的に公用語となった。これは、お隣の国もおんなじだな。特に聖徳太子・蘇我氏の時代にその機運は高まり、自国の制度を確立し、遣隋使の派遣と国交成立という国際的な立場を確保する。≪漢字の公用語化までのあらすじ≫・471年稲荷山古墳出土の鉄剣の115文字。 ・513年百済から五経博士が来ている。・538年には仏教が伝来している。・550年ごろ、秦人漢人を一つ所に住まわせて、戸籍を作る。当時から渡来人が多かった。飛鳥戸・橘戸・春日戸・八戸など 戸がつく氏族は渡来人が多い。・渡来人王辰爾が田部の丁籍(戸籍)を作り、税収を増やして誉められてる。・600年には十七条憲法が作られている。(漢文)・607年には小野妹子を遣隋使にし正式な国交を成立。日本は、バリバリの漢文公用語国家となった。どっかの国と同じだわ。 さて、次なる日本語の進化は、天武・持統時代にやってくる!おいら、ここをクリアーできないと 万葉集に進めないんだわ。漢文社会がなぜ、万葉集を作ったか?万葉集が、文語としての日本語の発展に繋がったのではないか?と思ってる。せっかく隋と国交を回復したのに、618年に隋は滅んでしまう。改革の立役者聖徳太子も622年に死ぬ。国内はいっきに保守ムードとなる。中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした集団が、急進派の蘇我入鹿を倒す、乙巳の変が起こった。皇極天皇を斉明天皇として重祚する。行き過ぎた急進的改革は、保守反動を起こす。これいつの時代も一緒。ちょうど世界も動いていた。隋を倒した唐軍が高句麗遠征を始めていた。斉明天皇と中大兄皇子たちは百済救済の戦さに出る。…日本の政変と世界の政変はいつの時代でも連動してるよ。熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 (万葉集)そこで詠んだこの歌分かるかな?そう。額田王の歌で有名な歌です。熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな (万葉集)万葉集の第一巻は、斉明天皇・中大兄皇子・額田王・持統天皇の歌で飾られている。この国一の教養人たちだった。ここが和歌(万葉集)のパトロンだったと考える。はて、額田王はどうしてここに登場するのか?額田王の父は、皇族でもなく、臣でも君でもない。鏡王といわれるが定かではない。そんなどこの娘ともわからないのに中大兄皇子と大海人皇子を額田王を取りあった。中大兄皇子は、額田王は大海人皇子との子どもがいたのに奪って妻としたという話だが、妻となっていないようだ。妻になっていないが、こうやって百済救済の船団の中では、一緒に歌を歌ってるのだ。身分が低いと娘というが、額田王(万葉集)額田女王・額田姫王(日本書紀)額田部姫(薬師寺縁起)日本を代表する文献に王という名で書かれている。豪族の娘なら額田娘だよ。薬師寺縁起による額田部姫ということからも、外国から来た姫と考えられる。だから、大海人皇子も中大兄皇子も競って彼女を取ろうとした。つまり、貴種だったのではないかな?その貴種の額田王は、漢字もかけて、歌も作れた。皇子や天皇たちと一緒に戦争にも行った。額田王は、長生きをしている。60歳代でも持統天皇の吉野行幸で、弓削皇子と歌を交わしている。談山神社所蔵の国宝銘文に 比売朝臣額田 と書かれている。この比売が額田王なら、姓をもらって臣下に下ったとも考えられる。そして、藤原の有力者と結婚して80歳近くまで生きたという説もある。 それもあると思うよ。643年人質として日本に連れてきた百済皇子豊璋と同じように来たのかもしれない。でも、中大兄皇子は、663年白村江の戦いで大敗する。敗戦後多くの百済人が日本に帰化する。もう百済は興味がある国ではなくなったのかも。貴種性が毀損した?戦略的意味が薄れた。額田王は、斉明・天智・天武・持統の時代に貴種的地位から文化的地位になっていった。そうそう、額田王の姉といわれる鏡王女は、はじめ天智天皇の后だったが、のちに藤原鎌足の正妻となっている。鎌足死後、鏡王女の見舞いに天武天皇が訪れている。額田王が誰だったのか。鏡王女が誰だったのか分からないが、精神的にも地理的にも近いところに3人がいたことだけは確かだな。斉明・天智・天武・持統天皇の近くには、豊璋・額田王など外国人の王族がいて、文化を伝えたのではないかな?漢文は勉強できても、文化は一日にしてならずだわ。そう言えば昔読んだ、本を思い出した。天武時代にはペルシャの姫もいたとか??本当は怖ろしい万葉集 歌が告発する血塗られた古代史 / 小林 惠子 本当は怖ろしい万葉集―歌が告発する血塗られた古代史 (祥伝社黄金文庫) 林 惠子 (著)
2015年07月24日
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日本では、いつごろから文字を使ってるのか?万葉集や古事記が漢字だらけだって知ってた?どう読んだって、日本語にゃならない。意味不明だからね。ところどころ漢字で意味が取れそうなところもあるけど、英語を読むより難しい。・春楊 葛山 発雲 立座 妹念(万葉集)・夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯(古事記)700年代の人たちが、これをどうやって書いたんだと思うわ。かなりハードルが高いよ。漢字が書ける。漢字の音が分かる。漢字の意味が分かる。ここまで到達しないと書けない。…追加…そのうえ人を感動させる文が書けないとだめ。漢字を覚えたばかりの小学生に漢文で詩を作れとか、韻を踏めってわかるだろうか? どうやって勉強したのか??漢文も英語も苦手だったおいらは知りたいわ。それに、どれだけの人がこれを読めたんだろうか?もともと漢文が読めた人が、日本風に書いてみたって感じよね。脳内に漢字文化が熟成してないとできない仕事だよ。そうそうヘボン式のローマ字みたいだわ。日本書紀は、漢文なんだけどさ。それだって難しいよ。中国人にちゃんと読んでもらえる漢文の歴史本ってさ。中国人じゃないと書けないでしょ!日本初めての歴史書・歌集には謎が多いわ。さっき、昨夜の中国の歴史『項羽と劉邦』を見てたら、紀元前3世紀ごろ項羽と劉邦が秦を滅ぼしたとき、既に秦には戸籍があったんだってさ。文字も戸籍も税金もあった。国を作るのに 文字ってのは大事なんだな~。 日本で文字が使われたのはいつごろだと思う?そのころ国が作られたって思うんだけどね。中国で銅鏡に書かれた文字じゃなく、日本で書かれた文字ってことだよ。発掘されたもので一番古いのは、稲荷山古墳出土の鉄剣に金で象嵌された115文字。辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也おいらは天皇の息子のオオヒコの子孫で、戦闘員の頭として代々仕えてきた。雄略天皇の時それを記念してこの刀を作る…とかいう意味なんだけどね。これは漢文調で書かれている。471年には、このぐらいの書き方は、かなりできたということだ。自分も人も読めもしないものを書いても無駄だからね。おいらはこんなことをすることができるというステイタスではあったはずだ。513年百済から五経博士が来ている。538年には仏教が伝来している。500年代中ごろには、秦人漢人を一つ所に住まわせて、戸籍を作って管理している。当時から渡来人が多かったことが分かる。欽明7年。飛鳥戸・橘戸・春日戸・八戸など 戸がつく氏族は渡来人が多い。つまり額田部は渡来人てことかな??このころ、渡来人王辰爾が田部の丁籍(戸籍)をきっちりと調べて税収を増やして誉められてる。600年には十七条憲法が作られている。日本人は、漢字漢文を理解することで、律法・仏教を理解した。日本書紀・十七条憲法はすべて漢文で書かれた。稲荷山古墳から十七条憲法まで130年である。早かったなぁ…。600年には隋に使いをだし、607年には小野妹子を遣隋使にし正式の国交を成立している。5~6世紀の大和は、バリバリの漢文社会だった!!漢文ができないあなたは、エリートじゃない。って、漢文誰にならったのよ???それがいつから、今の日本語に変わっていったか?それはまた、次の時代だな。
2015年07月23日
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妄想日本の始まり “なぜ奈良だったのか?”大国主もニギハヤヒもイワレヒコも なぜ奈良を目指したのか?どう考えても、奈良盆地は弥生時代の世界観のはずれなんだけどね。田舎だよ。ではなぜ?理由は、中央構造線にあったらしい。伊勢から紀の川にかけて、中央構造線が走っている。中央構造線というのは、糸魚川にもつながってる。彼ら氏族は、鉱山系の民だったということだ。去年、中央構造線にどんな歴史があるか伊勢と丹生大師をドライブした。 …中央構造線上を歴史ドライブ “丹生鉱山跡” 丹生都比売命を祭る神社が、紀ノ川から、伊勢神宮の方角にかけて、中央構造線上にびっしりとある。その一つが丹生大師なんだ。丹生都比売命を祭る神社一覧つまり、スサノオもニギハヤヒも神武も丹を求めて動いていたと考える。丹というのは、硫化水銀のことだよ。丹生というのは水銀が取れる場所ということ。硫化水銀は、辰砂とも言われ、中国湖南省あたり(辰州)でたくさん採れた。魏志倭人伝には、邪馬台国で辰砂が取れることが書かれている。200年ごろには、邪馬台国で辰砂が取れていた。当時のレアメタルだよ!!タダの弥生人には理解できない最新の金属よ。魏も喉から手が出るほど欲しがっていた。邪馬台国は、これと交換に銅鏡をもらったらしい。なぜ水銀が大事だったか?金を作るの必要だったからだよ!つまり、湖南省あたりから流れてきた人たちが、採掘をしていたんじゃないのかな?辰州・辰砂という字から、半島の辰韓経由だったのかもしれないなぁ。中国系なのだが、半島経由。大国主の親戚が紀の国にいたのもそういうわけなのだ?スサノオも大国主も一度は紀国に逃げてるからね。あ、そうだった、スサノオの息子が紀の国を治めてたんだっけ?敦賀にも丹生神社がある。因幡・丹後・三国近辺にも丹生神社が。古代史の名所ばかりだね。そう言えば、丹後の丹は、水銀を表すのではないかな。つまり、間違いなくスサノオも大国主も、もともとは天孫なのが分かるよね。ヌナ川というのも水銀も意味するらしい。水銀の力は偉大だったことがわかる。神武は、紀の川から入れなかった。熊野から入ることになる。いや、熊野から戦争資金源の丹を求めたのかもしれない。吉野は水銀の産地だった。初期の大和の有力者たちが、葛城山・吉野近辺に住んだのも水銀がたくさん確保できる場所だったから。今でいえばレアメタルの鉱山だったわけさ。ここを確保するに限る。吉備が力を持っていたのも、鉱山によるのではないかな?出雲の力も鉱山。彼ら天孫系の軍事費は、鉱物資源だった。そして、それだけじゃ生きていけないから、領地からの米による税金だな。近くで鉱物が取れて、周りを山に囲まれて防備がよく、米もできる暖かな気候の奈良盆地は、彼ら鉱山系の天孫系にとって最高の拠点だったのだ。…どこの丹生山地にも近い。政権が取れるのは偶然なんかじゃない。金もかかるし、仲間もいる。食っていかなくちゃならない。当時田舎だった奈良盆地は、みんなが狙った宝の山だったのだ。さて、戦いに勝った神武は山に登り、国見をした。はっはっはぁ~!!やったぜ!!と言ったかどうかは知らないが、気分は最高だったはずだ。その時に、ぽろっと、オオムナジがどう言った、ニギハヤヒがどう言ったと述べてる。・神武は、オオムナジもニギハヤヒも知っているし、先王と考えてた。・ヤマトを制したのは、オオムナジ・ニギハヤヒの順だったことが分かる。≪今日分かったこと≫・奈良盆地は、防御に良し。資源が豊富。食料調達がしやすい最高の場所だった。・最新の技術・情報を持つものが強い。・戦争をするなら、金がないとだめだ。・伴(仲間)が少ないリーダーは負ける。・国づくりには、先駆者(信長)(スサノオ・大国主)と、まとめ役(秀吉)(ニギハヤヒ)と、 管理者(家康)(神武)がいる。
2015年07月18日
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妄想日本の始まり “なぜ畿内だったのか?”おいら、ばてて旦那にあんまをしてもらった。その時、大国主とニギハヤヒと神武の話をしたら、静かになって、居眠りをするんだよ!「長い話で、拷問だってさ!!」日本史ってこんなに面白いのに…。ぶつぶつ…。仕方がないので、今日も一人で楽しんでるわ。 今日は、なぜ三輪山の大和だったのか?を考えてみた。おいら、邪馬台国は九州だと思ってる。どこかはわからないけど、九州の南の方。高千穂の峰の近くだったのかもしれない。日向だったのかもしれない。北九州は、弥生時代の東京みたいなもんだわ。国際的な都市。文化の地。米作りの地。九州以外にないと思うわ。その後何かがあったのよ。何か分からんけど。それで、三輪山のある奈良盆地を目指した。でも、なぜ出雲勢も九州勢も、畿内に向かったか??大国主もニギハヤヒも神武もなぜ畿内だったのか?? あ、そうそう、大国主とニギハヤヒは、別の人だったわ。ニギハヤヒは、河内から大和を目指したんだって。ニギハヤヒは、ニニギノミコトの兄弟か?ニニギノミコトの子どもらしい。神武が東征を始める時に、ニギハヤヒは河内方面にいた。すでに三輪山あたりにいたのかも??先代旧事本紀に河内に天下りされたと書かれているらしい。新撰姓氏録によると、ニギハヤヒには3人の従者がいたらしい。北九州の遠賀川下流の物部の一族なんだ。つまり、ニギハヤヒも物部一族。そこに領地を持っていた。そこって和爾氏の故郷だよ。そして、ニギハヤヒは天孫族なんだ。アマテラスの子どもとニニギノミコトと日向3代は、天孫。それから、高天原にいた人たちは、天神なんだってさ。ニニギ以前は天神って感じかな?ところが、アマテラスの兄弟のスサノオも大国主も、地祇。つまり国津系なんだって。どうしてだろうね。我まま者は、アマテラスに追放されたってことかい??…眠くなったので、続きは明日だな。
2015年07月17日
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妄想日本の始まり物語 “大国主の作った大和はどこだ?”古事記には、大国主が大和を作ったと書かれているらしい。何時作ったんだい??大国主って、因幡の白うさぎを助けた心優しい末っ子。因幡は今の鳥取ぐらいかな?…因幡に宇佐がいたって?和爾が日本海側を動いていたんだろうか?因幡には、美人なヤガミヒメがいた。大国主の兄たちは、俺こそ嫁さんにしようと競っていた。ところが、ヤガミヒメは大国主を選んだ。大国主は、女の子にもてたんだわ。美人を末っ子に取られ怒った兄たちは、大国主をひどくいじめた。余りのひどさに、母親は末っ子の大国主をかばうわけよね。母性本能をくすぐるタイプの男だった。こういうタイプは、悲劇のヒーローの十分条件だわ。兄たちは、大国主を執拗にいじめた。大国主は、木の国に逃げた。木の国って、紀の国。つまり紀の川沿いだわね。ここには、親族が住んでいたかな?それでも兄たちが追ってくるので、大国主は根の国に逃げる。根の国は島根。出雲あたりじゃないの?スサノオが娘と住んでいた。大国主と娘のスセリビメは、一目あった時から恋仲になり、スサノオが次々試練を仕掛けてくるのを解決する。それもスセリビメの助けがあったからこそできた。よっぽどもてたのね。それで、スサノオは悔しがったけど、大国主とスセリビメは結婚するんだ。ところが大国主は、糸魚川のヌナカワヒメが恋しくなって、熱烈なアプローチをする。それがまた、大成功。子どもまでできちゃうんだよね。ヌナカワヒメは、生まれた子を大国主のところに連れてくるんだけど、スセリビメがこわくて、子を置いて帰っちゃうんだよね。その子どもが、タケミナカタ。 佐渡の金山に繋がる金の産地!!左端がヌナ川なんでヌナカワ(糸魚川)まで出かけたかって。糸魚川は、中央構造線である。そこでは貴重はヒスイが取れた。ヒスイが取れるところは、世界でも少ないんだって。もう一つ、ヒスイが取れるところは金が取れる。NHKの知恵の泉『伊達政宗』で見たけど、越後の伊達政宗の戦争の財源は、糸魚川・関川・信濃川周辺で取れる砂金だった。もう一つは、日本海沿岸を商売する船の入港料だったって。ぬな川(姫川)は、ヒスイが取れる、砂金が取れる、日本海側の重要な港だった。つまり、大国主が訪れる因幡・紀・根・ヌナカワは、当時大きな勢力を持つ国だったんじゃないかな?大国主勢力は、日本海側を制して大和へ入った。大国主が、まだヤマトが治まらないと悩んでいた時に、スクナヒコが来て、自分を三輪山に祀るなら国づくりを助けようと申し出る。大国主はスクナヒコとともに、熊野のみさき、あわしまに行き最後に常世郷に行く。つまり亡くなったのか??その後大国主は出雲に帰る。大国主は、天孫系の神に国譲りを言われる。自分を出雲に祀るならと約束して、海に沈んでいく。出来たのが出雲大社。よほど大国主の祟りがこわかったのか、出雲大社は今よりももっと大きな建物だったらしい。国譲りに最後まで抵抗したのが、ヌナカワヒメの子どもタケミナカタだった。でも、ついに負けて糸魚川をさかのぼって諏訪まで行き、神様となった。大国主は、出雲大社ほか多くの神社に祀られる。大国主・オオムナジ・八千矛神・大物主ともいわれる。矛という名前からも武神だったことが分かる。大国主の神社は多いが、スサノオを祀る神社はもっと多い。大国主はスサノオの息子。スサノオ6世の孫ともいわれる。大国主の妻は、ヤガミヒメ・スセリビメ・ヌナカワヒメ・タギリヒメ(イチキシマヒメ)・カムヤタテヒメ・トリトリがいる。それぞれ大きな国の王の娘だったと考える。その中で、正妻はスセリビメだった。スサノオの娘だ。つまり、当時最大の王は、スサノオだったと考える。スサノオ&大国主。 一方神武側は、宇佐や和爾など九州勢力、瀬戸内海の吉備勢力と協調しながら、大阪辺りを攻めたが守りが固かった。神武をバックアップしたのは、九州勢力の和爾、瀬戸内海の吉備だった?そこで、紀州に回ったが入れずに、神武勢は、熊野から畿内入りをした。大国主勢力は、相当強かったことが分かる。第10代崇神天皇は、即位3年後に三輪山西麓に宮を作る。崇神天皇に三輪山を譲ったのは、和爾系の王族。お母さんは、ニギハヤヒ5世の娘。和爾に乗っかって畿内にきた天孫が、三輪山に宮を開くことで、ニギハヤヒ(大国主)にも乗った?ニギハヤヒを取りこんだのは、崇神の前ということだ。でも、世が治まらなかった…。どうする崇神?…ということで、倭迹迹日百襲姫命が神がかり、事代主の子孫のオオタタネコに祀らせると世は治まると告げた。倭迹迹日百襲姫命は、孝元天皇・吉備津彦・稚武彦の兄弟。崇神にとっては、祖父の兄弟。おばあさんという存在。倭迹迹日百襲姫命の母は、和爾系の皇族の娘。吉備津彦の墓は、吉備津にある中山茶臼山古墳!!ジャウス!全国にある山に茶臼山名付け、茶臼の墓を作ったのは、この人たちなんだ。つまり和爾は製鉄系の一族なんだ。新しい天孫系。稚武彦の孫はのちに越前敦賀の国造となる。重要港を確保する。オオタタネコの先祖三輪山の事代主は、スサノオ・大国主。オオタタネコは、神武天皇の后ヒメタタライスズヒメの兄弟の直系。古事記では、ヒメタタライスズヒメは大国主の娘。三輪山大物主の子孫。大神氏の祖と考えられるそうだ。たたらというからには、出雲系の製鉄族だった。つまり、スサノオに近い。そうしたら、神武天皇に三輪山と国を譲ったのは、大国主じゃないの?崇神天皇の母親は、伊香色謎命で、ニギハヤヒ5世の娘。オオタタネコは事代主の5・6代子孫。スサノオ・大国主・ニギハヤヒ・神武・崇神って、すごく時間的にも距離的にも近い?特にニギハヤヒと大国主が近い時代に生きてるわ。神話レベルじゃないと思うけど。大国主が国譲りをしたのと、ニギハヤヒがナガスネヒコを見放して、神武に下ったのと似てるけど、どれぐらい時代が違うのだろう??大国主は、ニギハヤヒなのか??それとも大国主がニギハヤヒに負けたのか?日本海側の大国主と別に 強大な力としてニギハヤヒ&ナガスネヒコが別にいたのか??!!ナガスネヒコは、大阪湾寄りの王だったのかも??大国主は、ヤマトを撤退して、さらに出雲でも国を譲ったのなら、その怨念もでかいな。大和の三輪山を取られたら、出雲にでっかい神社が欲しくなるかも??日本史最大の悲劇のヒーローは、スサノオだな。つまりスサノオ一族。…最後まで戦った国津系のナガスネヒコは誰だ?これも大国主と婚姻関係を持った氏族か?ニギハヤヒとナガスネヒコの妹が結婚して、その子どもがウマシマジニミコト。ウマシマジノミコトの6代目が物部。物部と葛城もかなり近いのかも??あれ、あれ。なんかすっきりとしません。今夜も迷路にハマりこんだので、寝ることにする。≪わかったこと≫・三輪山を初めに祀ったのは、大国主だった。・大国主は、ヤマトを平定するために、因幡・出雲を中心に、北は糸魚川から、南は熊野淡路、西は宗像まで精力的に戦っていた。多くの大豪族と婚姻関係を持った。それもかなり大きな力を持っている豪族に限られた。・初代神武天皇の后は、大国主の娘。または、その子孫。・10代崇神天皇が三輪山を祀らせたのは、スサノオ・大国主の子孫のオオタタネコ。タネコの祖先は、神武天皇后の兄弟。力を祭祀に限定した?・大神神社…別名三輪神社。神武東征以前からある、先住の磯城彦が祀った神社。日本最古の神社の一つ。主祭神は、大物主。配神 大己貴神 (おおなむちのかみ)少彦名神 (すくなひこなのかみ)大物は、スサノオか??
2015年07月15日
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妄想日本の芽生え…三輪山を中心とする国づくりをしたのは誰だ?21代雄略天皇の時代に …4世紀半ばのことです。…卑弥呼が死んでから200年後。推古天皇と聖徳太子の100年前です。三輪山をはさんで、物部氏と大伴氏がいる。政権生え抜きのツートップ。創業一族大伴氏、M&Aされたもと創業家一族物部氏。大伴氏は、天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされる。ニニギノミコトと一緒に天降ってきた来た武神。大伴とはたくさんの伴。特殊な仕事をする集団(役所)を管理する重要なポジションだった。また、宮廷警護もしていた。大番頭か専務みたいな士族だった。ところが、祀られる神社は少ない。どうしてかな?降幡神社(大阪府南河内郡河南町)周りには、大伴氏の士族が住んできた。油日神社(滋賀県甲賀市)、矢保佐神社(長崎県壱岐市)三重県伊勢市の上社では、天忍漁人命(あめのおしあまのみこと)として祀っている。物部氏は、ニギハヤヒを始祖としてる。天孫系のニギハヤヒが、土地の王ナガスネヒコの妹と結婚して、ウマシマジノミコトが生まれた。これが物部氏の始祖。ニギハヤヒは、ナガスネヒコが神武に敗れた後、神武側に下っている。物部氏は、警察・軍事・呪術を行う一族だった。だんだんと力をつけ、雄略天皇の時代には、大伴と並ぶ最高執政官を出している。物部氏の特徴として、下総・尾張・石見・備前・長門など全国にその氏族が残る。つまり、創業じゃないからね。新参者のつらさ。全国に派遣されたってことかい? 大伴と物部の真ん中に三輪山がある。つまりここが、政治の中心だったかも?? …妄想だけどさ・三輪山には誰が祀られているのか?・誰が祀ったのか? これが気になりますねぇ。神武がここに来る前から、三輪山が聖地だった気がします。ここを制するものが、ヤマトを制するぐらいの意味があったのでは??ここに国の始まりの秘密がありそうです。
2015年07月15日
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雄略時代の豪族はどうやってできたか?暑いから、歴史の中に避難。大和政権の地固めをしたと考えるられるのは、21代雄略天皇(ワカタケル)の時代。日本国中にどのぐらいの勢力があったかはわからないが、畿内での勢力は堅固となった。奈良の三輪山から左回りに、物部・和爾・平群・葛城・巨勢・羽田・蘇我・阿部・大伴で固めていた。完全のフォーメーション。この人たちは、生産活動はしていない。それなのに、すでに自分たちの米蔵を確保している様子。果たしてこの人たちは、どこから来てここまでになったのか?当時の畿内の勢力は、天孫系と皇孫系になる。つまり、天から降ってきた人たちと、地方の豪族との婚姻関係でできた集団だということ。あ~どうやってここに これだけの集団を作ることができたか?神話はともかく、リアルに何か痕跡がないかな?古事記から、ニニギノミコトの妻は、大山祇神(山)のコノハナサクヤヒメ。九州なんだろうな。息子のホオリノミコト(山幸)が結婚したのが、対馬大綿津見神(海)の娘トヨタマビメ(豊玉毘売)。神武天皇の妻は、三輪山大物主の娘、ヒメタタライスズヒメ。五十鈴とつくことで伊勢との関係を感じるなぁ。2代綏靖天皇の妻も、三輪山大物主の娘。たたらって、製鉄系かい?…そうそう、妻は一人じゃない。正妃で王位継承権がある人をピックアップしてる。…天皇と呼ばれるのは、天武天皇あたりから。それまでは、大王とか別の呼び名だった。大王は、日本中にたくさんいた。…神武とか天武という漢字2字の名前は、諡号。亡くなったあとについた名前。でもわかりやすいので、この名前で統一する。3代安寧天皇の妻は、ヌナソコナカツヒメ。ヌナということは、北陸のぬな川あたりの勢力じゃなかろか。4代懿徳天皇の妻は、2代安寧天皇の第1子息石耳命の娘。つまり三輪山系。5代孝昭天皇の妻は、尾張系の世襲足媛。6代孝安天皇の妻は、孝安天皇の兄弟の娘。つまり、尾張系なのか?7代孝霊天皇の妻は、磯城県主の娘 細命媛。葛城郡の東。春日・倭の妃もいる。8代孝元天皇の妻は、欝色謎命。伊香色謎命(イカガシコメノミコト)伊賀?。河内青玉繁娘。9代開化天皇の妻は、ニギハヤヒ5世の娘 伊香色謎命。あれ、上と同じ??謎。葛城・和爾・丹波からも后。10代崇神天皇の妻は、御間城姫。開化天皇の兄の娘。つまり姪。紀伊と尾張からの后も。それぞれ地域の豪族と婚姻により同盟を結んでるのではないかな?そうしながら、一方で王族の血を濃くする。 たまたま10代崇神天皇の母親が、伊香色謎命で、ニギハヤヒ5世の娘というのを読んで気がついたことだけど。伊香色謎命の孫が、武内宿禰。武内宿禰は、紀氏・葛城氏・物部氏・羽田氏・巨勢氏・蘇我氏・平群氏の始祖だそうな。つまり、9代開化天皇の辺りで、ヤマトの覇権と提携するとともに血族の勢力を増やした。その成果が、雄略時代の奈良の南半分の地帯は、ニギハヤヒ系列のだったわけだ。でも、これは雄略にとっては、やりづらかった。葛城系の勢力が増大しすぎたのだ。☆開化天皇のときの葛城と崇神天皇以降の葛城とは、名前が同じだがまったく違うのではないか?☆葛城氏は、雄略以前に王妃を多くだし、政権内に後の蘇我氏のような力を持っていた。特に朝鮮半島外交が得意であった。つまり地元の豪族なんかじゃない。
2015年07月14日
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日本人は、どうやってできたのか?集英社『日本の歴史 倭人争乱』を読み終わった。著者 田中琢(たなかみがく)1933年滋賀県生まれ。京都大学大学院修士課程修了。奈良国立文化財研究所。埋蔵文化センター長。 …1991年出版当時≪読書の視点≫・日本人と日本がどうやってできたか?・日本人はどのように文字を持ち、何時、何に使ったか?紀元前4世紀米作りが始まる紀元前3世紀環濠集落ができる。紀元前2世紀以降防御施設を持つ環濠集落ができる。石包丁・石おの・塩・銅鐸などで交流。 …黄河沿岸に防御施設を持つ環濠集落バンポー遺跡など6つある。紀元前5000年~3000年。 韓国の蔚山近くのコムタンリ遺跡がある。紀元前4世紀から3世紀。 青銅器の鋳型が見つかった場所 北九州・吉備・河内・大和 銅剣と銅鐸の分布図北九州を中心に銅剣銅矛が分布し、近畿を中心の銅鐸が分布する。 高地性集落の場所紀元前2世紀から2世紀にかけて、九州・瀬戸内海沿岸・近畿にかけて高地性集落ができる。紀元前1世紀ごろ九州島北部に鉄製の武器が使われる。1世紀前後、倭国100余国に分かれて戦う。本州島の鉄製の武器の普及は2世紀以降だろう。 初期の前方後円墳の分布3世紀前半以前から前方後円墳が見られる。円の部分に石室が作られた。方の部分は祭場だった。吉備・近畿を中心に分布する。魏から卑弥呼に贈られた三角縁神獣鏡は数百面になると考えられる。中国から与えられたものとして鏡を統治権の伸長に使用した。三角縁神獣鏡は150か所以上で出土全国で出土するが、奈良山の辺周辺での出土はない。高地性集落 三角縁神獣鏡この2つの分布図を観て、何かが分かりそうなんだけどなぁ。…工事中
2015年07月11日
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日本がどうやってできたか?集英社シリーズ万葉集を読みたいと思ってるのよね。NHKの番組で、日本人の心がここにあるとかいってたからね。それは、本当に日本人の心なのか?渡来系の人による作文だったのではないか?ちょっと疑ってるのよね。 7世紀の天智天皇の時代に 大王一族も豪族も歌が読めたって本当だろうか?字が書けたってすごいと思わない?文学的素養があったってすごいと思わない?防人が歌を歌ったって、本当だろうかと思うわ。確認される一番古い日本で書かれた文字は、5世紀後半の稲荷山古墳出土の鉄剣の文字。戸籍の管理のために秦人の発案で文字を使ったのが、6世紀中ごろ。100年で、多くの日本人が文字が書け、漢文が読め、日本風に音を当てて文をかけるようになったって本当だろうか?疑い深いおいらは、もともと漢字が書けて読めた人が、始めたんじゃないかと思うのよね。多くの日本人に文字が入ってくるのは、仏教が入って、仏典を僧が勉強し出してからじゃないのかなぁ??それもエリートたちの間だけ。つまり、中国の仏教僧が日本人に教えて広まった??仏のござは、6世紀半ばでしょ?万葉集、本当は誰が歌ったのかと。どんなことが歌われているのかと知りたいわ。そのために、今回は、万葉集とともに 集英社の日本の歴史を3冊借りてきた。まだまだ古代史の研究が必要だわ。研究者による視点と知識量の違いを探りながら、日本人がどうやってできたか調べてみる。そして、前回読み切れなかった『古代天皇列伝』と合わせて5冊借りてきた。2年ぐらい前まで本を読むなんて嫌いだったけど、いつの間にかこんな本まで読めるようになったわ。おばあさんの脳も鍛えれば進化するもんだよ。頭は飾りじゃないよ。☆今日は図書館・郵便局・買い物と忙しかった。 旦那と車をシェアしてるから、車をつかえる日は、効率よく回らないといけないわ。
2015年07月09日
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ダッシュ村で伊雑宮を見てここ古いと思った!土曜日朝のダッシュ村の再放送を観た。ダッシュ村は、縄文生活のお手本だからね。0円食堂で城島が伊雑宮(イザワノミヤ・イゾウノミヤ)の近くの餅屋さんに行った。お田植え祭りの説明があった。その祭りを見て、ここ古い祭りを残してるなぁと思った。お田植え祭りの神事。神田の中で青年団が裸で青竹取りを競う。ミヤネ屋でも全国の祭りをよく取材する。大きな丸太に乗って落ちるとか、竹を取りあうとか。運動会の種目みたいな祭りは、大きいものに神が宿る・力のあるものに神が宿る。そういう原始信仰に近いと思ってる。つまり、縄文的・原始の日本人的信仰心の表れかな。もうちょっと新しい祭りでは、集団でみこしを担いだり何かをする。この神社古いわ。伊雑宮。大王崎と伊勢のちょうど真ん中にある。リアス式の湾になっていて、いい港だっただろう。志摩にある小さな神社なんだけど、実はすごく歴史があって伊勢神宮より古いともいわれている。元伊勢といわれてる。伊勢神宮と同じように20年ごとに遷宮をしている。神田を持つ神社ってそうないと思うよ。3大植え祭りの一つといわれる。大昔に、大王が岬から上陸して。伊雑宮にベースキャンプを作ったと思ったのよね。田んぼもできるし、海の幸も豊富な土地。ちょうど良い場所だよ。…海洋系にはだけどね。でも、上陸したのは神武系ではない。もう少し古い渡来系の海洋系の農耕ができる民族ではないか。スサノオ系だわね。少し古い渡来系。中国の呉あたりから来た水稲をする海人系なのかも?垂仁の娘倭姫が、伊賀・近江・美濃・尾張を経て、伊勢に天照大神を祭った。当時力を持っていた豪族たちの地域ではないのか?尾張伊勢の平定をして、もとからあった大王信仰みたいな原始信仰を封印したのではないかな?伊勢は、ヤマト政権の同盟国ではあったが、いよいよ支配が強まった?支配が好きなこのタイプの政権は、ひょっとして、騎馬民族系?神武の出発点南九州には馬が多い。そして、隼人は戦闘にたけた人たちで、大和政権の奈良では、護衛の隼人の村があった。隼人の楯などいろんな武具が残ってるんだって。それに畿内は、高千穂の峰ほどじゃないけど山の中だわね。…そういえば薩摩も戦争が強かったな。倭姫の甥のヤマトタケルは、伊勢で草なぎの剣をもらって東国平定に出かけた。近畿から東海・関東・信州へ支配権拡大の政策の一環だということでは?ニニギノミコトを先導した猿田彦は、海に沈んで泡になった?猿田彦は、内宮のすぐ近くの猿田彦神社に祭られている。そうそう、猿田彦は縄文系だわ。貝に挟まれて海に沈んでいったそうな。これも殺されたってことじゃないのか?ここにも悲劇の英雄がいました。・2014年1月の記事大王崎から見て 伊雑宮・・内宮・・外宮?
2015年07月04日
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日本人はなぜ判官びいきになったか?中央公論社の『日本の古代6 王権をめぐる戦い』を読んでる。読んでて、日本人の判官びいきは、縄文脳が原因かも?と思った。仮説だけどね。 東京大学の大村太良教授によると 世界の英雄伝説には2通りあるという。1番目は、流浪の英雄。艱難辛苦の流浪のあとハッピーエンド。最後は、王になる。 神武・大国主・山幸・朱蒙・ペルセウス・家康・源頼朝・秀吉・平清盛・藤原鎌足・天武天皇 2番目は、悲劇の英雄。強い戦士。親や兄弟から疎外され放逐の地で死ぬ。前半は乱暴な性格だが後半になると穏やかな性格に変わる。 スサノオ・ヤマトタケル・義経・オイディプス・マカイ・信長 なるほどなぁ…と、ここで思ったのよ。流浪の英雄には天孫系が多い。そして悲劇の英雄は、国津系かもと思ったわけよ。縄文から弥生時代にかけて、古い渡来系が稲作や焼き物を伝えて村が起こり、富と権力が芽生えた。縄文系のリーダーが現れた。国津系といえる。石加工技術も縄文系に入るのかなぁ??さらに時代が経って、銅鉄製造・古墳建築など新しい文化と情報を持った渡来系のリーダーが現れる。初めは、渡来系もメンバーが少なかったので、縄文系と協調作戦を取っていた。連合政権の力が国内に及ぶようになると、渡来系は、直系の部下が増え、畿内を中心に屯田・屯倉を作り支配体制を固める。初めは協調路線だったのが、あれこれ難癖をつけて、縄文系(国津系)の王を倒す。国造をおき年貢を収めさせる。大和から送ることもあるが、地方の王を取りこんで支配させる。直轄の部下を○○直、国政に参加する大豪族を○○臣、独立の豪族を○○君。 …徳川幕府が戦国大名をつぶしたのと同じ方法。まず倒されたのは、出雲系だな。オオムナジの子孫。出雲が倒された時の話が、国引き。タケミカナタの信州入り。吉備が倒された時の話が、桃太郎のアウトラインじゃないかと思う。葛城系も雄略時代に倒される。527年継体の時代。磐井の反乱が起きる。磐井の君は九州北部の豪族。高句麗・百済・任那・新羅と国交をしていたというからかなりの国力と技術を持ってる。しかし、大王軍に負けて、賠償として北九州に大王納税地・屯倉がいくつもできる。つまり支配下になったということだな。しかし、磐井はその後もかなりの力を持ち、大王の墓に匹敵する古墳を作る。岩戸山古墳。つまり、527年でもまだ九州は流動的だったということだな。屯倉が置かれたといっても、国を全部取られたわけじゃないらしい。九州のこの豊かさと外交を重視する考え方がすごい。魏志倭人伝に出てくる199年ごろに卑弥呼が統治したという邪馬台国は、阿蘇から北九州にかけてのどこかだと思うわ。畿内に屯田・屯倉を作って力を持ちだしたところにそれだけの力はなかったと思う。雄略の時代に政権がしっかりとして、国造制度がいきわたるのは推古朝ごろ。こうやって、推古朝までには縄文系の王は倒されてしまう。そして、王族が新しい国造として配置される。そして、確かな大和政権ができる。さて、日本人が国づくりの中で無念に倒れていった人たちにシンパシー共感を持つということは、倒れていった人に近かったからと考える。つまり、おいらたち日本人の縄文混血系脳が、スサノオや他の国津系の神をかわいそうだったと思いだしてることかも?かわいそうと思う心が大きい人は、縄文脳比率が高いってことかも?…仮説ですけど。☆天孫系勝ち組がそのまま勝ち組であり続けたわけじゃないよ。それはまた藤原氏平氏源氏と戦闘組は戦闘を続ける。戦闘の中枢は、日本人じゃなかったということもあるわけよ。なんかいつの時代も一緒だな。
2015年07月04日
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