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2010年05月10日
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ゴールデンウイークに、夫の祖母が住んでいる山口へ行ってきた。

白髪に痩せた体で、いわゆる昔話に出てくるおばあさんの風体に
なってきた。
親戚の居るところへ移り住むのも、ホームに入るのも拒み、
地域のヘルパーさんや、月に一、二度通ってくる息子夫婦に
見守られて自力で生活している。
洗濯は手洗い、風呂は五右衛門風呂を自分で焚いている。
自分でその生活がいい!と言って聞かないので、


一年ぶりに訪ねたが、前回訪れた時と殆ど何も変わっていない。
広い敷地にある母屋は普段使わず、離れの二部屋が生活空間。
台所とその続きの和室で一日のほとんどを過ごしているようだ。
ちゃぶ台に座椅子を置いて、専らそこでテレビを見ているか、
何かを読んでいる。
「私には『活字』があるから」と言って、いわゆる人付き合いは
極力しない。おそらく近所からも、とっつきにくい人と思われている
のだろう。本人もそれをわかって、「それでいい」と。
読んでいるのは新聞、それに文芸春秋、家庭画報などの雑誌類。
毎日、毎月決まって届くそれらを、きっと隅々まで静かに目を通しているのだろう。
バックナンバーが整然と並べられていた。

隣の小机には、庭の草花がこじんまりと活けられている。
台所には使い古された道具が、綺麗に手入れがされ片付けてある。

食事の支度をするのに、祖母のいつも使っている冷蔵庫を開けた。
小さな冷蔵庫に最低限の食料。
保存容器にはきちんと取った「だし」が入れてある。

どれもきっちりラップをして、ちょこんと冷蔵庫に並んでいた。
週に一度訪ねてくる訪問販売の商店から少しずつ、必要なものだけを買い、
それらを大切に食べているのだろう。
冷蔵庫を見ただけで、どんな食生活なのかすぐにわかった。

いわゆるお出かけもすることがない。
祖父が亡くなって30年近く、一度の入院以外、
毎日途切れることなくそんな日々を積み重ねている。

祖母が日々触れている物たち、それらの並ぶ風景、
どこを切り取ってみても、「心乱れた」形跡がない。
日々の生活の所作の一つ一つが、規則正しく、とても慎ましやかに行われている。
静かな時間のなかで、「心穏やか」に暮らしているのだろう。


隣の家とは少し距離があり、前は畑、裏は山、空は満天の星。
夜は本当に周りから隔絶されたように静かだ。
私にとっては、怖くてむしろ落ち着かないくらい。
ここで、一人明かりを灯して、一体どんなことを考えているんだろう。

とても失礼だけど、「一体どんなことが楽しくて生きているんだろう」と
いう疑問が浮かんだ。

私たちが普段生きているような生活のペースとは、まるで違う。
そして、何より、91年も齢を重ねるということの意味が、私には
まるでわからない。
だから、想像しようにも、とっかかりすら掴めない。

私たちの想像する個人の楽しみ、なんてものは祖母の日々の
行動からすると、おそらく「活字を読むこと」ぐらいしか
見つからない。でも、それが生き甲斐と言うほどの楽しみ
ではないだろう。
他には・・・探してみるけどなかなか見つからない。

孫やひ孫の顔を見ること?
でも、頻繁に訪ねてくるわけでもないし、
そもそも、祖母の方から「顔を見せに来い」と言ったこともない。

いわゆる長男の嫁だから、「家を守る」ということに
誇りを持っているんだろうか。

でも、それだけで30年も一人暮らしができる??

考えても、考えてもピンとこない。


夕食後、デザートを差し入れに祖母の部屋へ行った。
そこで、二人きりでしばらく話をした。
血の繋がった孫ではないけれど、祖母は私に気を許してくれて
いるようで、ざっくばらんに色んなことを話してくれる。

毎回話してくれることは、
「子どもが男の子でよかったねえ(祖母も息子が二人)」
「私は近所の人たちとは、話が合わないのよ」
「私には『活字』があるからね」
などなど。
そして、今回は91歳にもなったことについて、
「もう十分すぎるくらい十分」と。

私に気を遣っているのか、いわゆる「愚痴」のような、ネガティブな
ことは一言も言わない。
でも、血の繋がった家族にも、
「一人暮らしが、大変だ」とか「体が不自由だ」とか
助けを請うようなことは、言っていないようだ。

息子夫婦や私たちは、やはり見てわかる肉体の老いや
どんなに頑張っても管理しきれない大きな屋敷から考えて、
祖母に頼まれてではなく、自主的に様子を見に行っている。

そういう形になっていること、そのことがまさに祖母のプライド
というか心の支えになっているのは確かだ。

そして、その「十分すぎるくらい十分」といったときの表情で、
私ははっとした。
私たちが想像するような、「個人の幸せ」みたいなものを
もうさすがに求めてはいないんだろうなあ、ということ。
そういうと仙人みたいだけど、あの暮らしはある意味現代の仙人。

当たり前だけど、死ぬまで生きなくてはならない。
そこに、生き甲斐だのなんだの、ぐちゃぐちゃ理由付けを
する必要がない、もはやそういうところに居るのではないか。

命があるから、生きてる。
それはもう祖母の個人的な「命」ではなくて、
あの土地で何代も何代も生きてきた沢山の先祖から、
たまに訪ねてくる、小さなひ孫たちまで、
しっかりと続いている、ひとつの大きな「命」。
そこにすべてを委ねているかのよう。

私たちはといえば、
やっぱり命はまず「自分の命」であり、
それが満たされなければ、すぐに不平を言い、
生き甲斐や楽しみなどを、必死で求め、
やっと子を持っても、まだ自分とその子の「命」にしがみつき。
そりゃ、いろいろと大変な訳で。

「どんなことを楽しみにして生きてるんだろう」なんて、愚問だったな。
反省。

91歳まで、遥か遠く感じる。
でも、もしかしたら、この私を悩ます「私の命」が少しずつ「大きな命」
に変わっていく、それが老いることだとしたら、
それはそれで、歳をとるのも怖くはないのかな、
なんて、祖母に会って感じた。





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最終更新日  2010年05月11日 23時38分16秒
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