【オリックス】WBC日本代表の伊東総合コーチと与田投手コーチが
視察に訪れた。2人ともブルペンで野茂テクニカル・アドバイザーと
接触。両コーチは現役時代、野茂TAとしのぎを削った。同期入団
だった与田コーチは「彼は『WBCのキャンプには来ない』と(冗談を)
言っていました。見ていて(教える雰囲気が)良かった」と旧友を褒めた。
(時事通信)
与田剛
コーチ(木更津中央高-亜細亜大)のことは後日書くことにして、
今日は 伊東勤
コーチ(前・西武監督、熊本工高-所沢高・定時制)のこと。
上記の記事にあるとおり、 野茂英雄
(元・近鉄、成城工高)と伊東は
お互いにしのぎを削った仲だった。 一番ボクの印象に残っているのは
1994年の開幕試合、西武vs近鉄戦(4月9日)のこと
。
以下、スポニチより。
見出しは 「野茂英雄の開幕戦悪夢の結末」
。
スタンドはざわついていた。ルーキーイヤーの90年に18勝、8個の
タイトルに輝いた野茂のトルネード投法。4年目を迎えた開幕戦でも、
球威とフォークの切れは抜群だった。8回まで西武は0行進。しかも
無安打。近鉄は9回に石井の3ランで先制。誰の目にも優位は揺る
がなかった。
しかしドラマはここから始まった。9回、先頭は清原。ライバルへ意地の
一打が飛び出す。ノーヒットノーランの夢を打ち砕く右二塁打。流れは変
わった。四球とエラーで1死満塁。近鉄はリリーフエース赤堀の投入を
決断した。迎える打者は伊東。赤堀の8球目は左翼スタンドに消えた。
逆転満塁サヨナラ弾。「夢のようです」。お立ち台での伊東の声を野茂は
背中で聞いた。野茂は翌95年、ドジャースの一員として開幕を迎える。
(以上、スポニチ)
野茂の気持ちは、マウンドを誰にも譲りたくなかったに違いない。だが
鈴木啓示
監督(当時)は野茂をマウンドから降ろして 赤堀元之
(静岡高)
を投入した。その結果がサヨナラ負けだった。開幕戦に先発したエース・
野茂のプライドはズタズタにされ、鈴木監督との不仲説が伝えられる中、
翌年野茂はメジャーに飛び立った。
この「事件」が近鉄を飛び出す理由のひとつだったという話もあるが、もし
そうならば、伊東は野茂のメジャー挑戦を強烈にアシストしたとも言える。
ボクはこの試合の結果をその日の夜に知り、野茂と赤堀のやりきれない
思いを想像した。そして、
「めったに打つことのなかった伊東がなぜこの場面で打つんだよ?」
と大いに憤慨したものだった。
伊東勤
現役時代は捕手として歴代2位となる2327試合に出場。西武ライオンズ
黄金時代の司令塔として活躍した。WBC日本代表の総合コーチに就任
した。
<熊本工高時代>
1980年夏、熊本県大会の決勝戦でエース・ 秋山幸二
(現・ホークス監督)
を擁する八代高を破って甲子園に出場した。1回戦、2回戦を順調に勝ちぬ
いたが、3回戦で天理高にスコア3-6で敗れた。伊東はもちろん捕手、そし
て打順は3番だった。
■チームメイト■
元・西武の 大津一洋
投手がいた。
■熊本県内のライバル■
前述した八代高・秋山幸二 、九州学院高・ 園川一美
(元・ロッテ、日本体育
大)らがいた。園川は昨日までこのブログに書いた 「10.19」
に登板してい
た。
■甲子園のライバル■
2回戦で対戦した大府高には、まだ2年生だった 槙原寛己
(元・読売)が控え
投手としてベンチにいた。そして3回戦で対戦した天理高で4番を打っていた
のは 藤本博史
(元・オリックス)だった。
伊東が甲子園に出場した80年夏、優勝したのは 愛甲猛
(元・ロッテ)がいた
横浜高(愛甲も「10.19」に打者として出場していた)。準優勝は 荒木大輔
(現・ヤクルト投手コーチ)がいた早稲田実。
そういえば荒木、西武の成績不振の責任をとって、2007年に伊東監督
(当時)とともに退団した過去がある。
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