前回の記事 の続き。
大下弘
。
西鉄ライオンズの黄金時代(1950年代後半)には「不動の4番打者」。
『打撃の神様』と呼ばれた 川上哲治
氏が『赤バット』、その好敵手として大下
は『青バットの大下』と尊敬の念をもって呼ばれていた。豪放な性格の持ち主
で「二日酔いながら7打席連続安打の記録を作った」という逸話もある。
小学生時代は神戸小学校に所属し、同じ神戸にあった楠小学校の 別所明
(のち毅彦)と対戦したことがある。そして中学生時代(1936年)、母親の
仕事の関係で生まれ育った神戸を離れ台湾に渡る。入学した学校はこの年
に新設されたばかりの高雄商高。当時台湾の野球の名門は嘉義農林
(かぎのうりん)であり、甲子園のファンを沸かせていたから、大下の存在は
誰にも知られていない地味な存在だった。
※嘉義農林のOBには、後の東西対抗戦(1945年11月23日)で西軍の
1番を打った 呉昌征
(1942年までの名前は 呉 波
)がいる。但し、呉は大下
の6歳上であり、直接対戦したことはない。
そんな無名の大下を明治大に誘ったのは、明治大OBであり当時の都市対抗
チーム「オール台北」の監督だった 渡辺大陸
。それは大下の「剛球」に目を
奪われたことがキッカケだった。ただ1941年、わざわざ台湾から明治大に
やってきても、大下のやることは球拾いばかり。リーグ戦に一度も出場すること
もなく、航空隊に志願して戦場に向かった。
※この頃、神宮にはお互いの小学生時代を知る別所(当時・日本大)がいた。
甲子園で活躍してすでに名を馳せていた別所。その頃、2人の置かれた立場
には大きな開きがあった。大下は別所にこんな言葉をかけている。
「別にオレは大選手じゃないし、飛行機乗りが一番てっとり早く死ねるから、
飛行機乗りになるよ」
(『昭和20年11月23日のプレイボール』鈴木明著、光人社刊より)
■大下、公式戦に出場したことはないが、一度だけ立教大との対抗戦(非公式戦)
に出場したことがある。それは1943年4月7日に文部省から「六大学リーグ戦」
解散命令が出た後、各校が細々と続けていた(公式戦ではない)いわば練習試合
のような試合での出場だった。
その試合は1943年(昭和18年)5月23日に行われた。8回表、代打で登場した
大下は右越えの二塁打を放ち、走者2人が生還。同点に追いつく貴重な殊勲打と
なった。だがその後、立教大が1点を挙げて勝利。そしてこの試合を最後に明治大
野球部は解散、明大にとって戦前最後の試合となった。
※『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボールマガジン社刊)を見たら、その
試合のメンバー表が記載されていた。そして立教大の5番打者には、主将で一塁
を守る 西本幸雄
の名前があった。西本さんはその後繰り上げで卒業し、中国の
戦場に向かったはずだから、西本さんにとっても学生最後の試合になったのかも
しれない。
◇ 西本幸雄
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「西本幸雄の立教大時代」
(2009.3.22) →
こちら
へ。
この記事は「ボクにとっての日本野球史」の中で、次の期に属します。
→ (第4期) 1925年(大正14年)、東京六大学リーグが成立し、早慶戦が復活した時以降
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1)、 INDEXは こちら
へ。
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