今日(8月8日)、夏の甲子園大会(第91回全国高等学校野球選手権大会)
が開幕した。
ここ数日間、職業(プロ)野球や東京六大学野球の「終戦後の復活」について
記してきたので、今日は「高校野球」のことをメモしておきます。
◇ 戦後、大学野球の復活
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「大学野球復活を一番願った人」
(2009.8.4) →
こちら
へ。
◇ 戦後、職業野球の復活
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「東西対抗戦の背景」
(2009.8.1) →
こちら
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高校野球(当時は旧制中学)が甲子園で復活したのは1947年(昭和22年)
の春(センバツ大会)、3月30日のこと。正式名称は『選抜中等学校野球大会
第19回大会』。4月7日までの9日間、26校が出場して開催された。
■当時の様子は『真説・日本野球史 昭和篇その五』(大和球士著、ベースボール
・マガジン社刊)に詳しい。
「開会式には、占領軍大阪軍政部長、民間情報教育部長メリット少佐の祝辞あり、
大会を祝福して上空に舞ったのが、米25師団所属軽翼L5機、機上から始球の
ボールが落とされた・・・眼を水平に向けても、空を仰いでも、敗戦の爪跡は余り
にもナマナマしい。それを忘れようとして、超満員6万の大観衆は、第1試合の
開始を告げる主審森田のプレーボールの声に万雷の拍手」
※「戦争の爪跡」とは、甲子園名物の銀傘が戦時中に撤去されてなくなってしまった
風景のこと。また占領軍が依然として内・外野のスタンド下に宿泊していて、「進駐軍
専用席」が設けられ多くの米軍兵士が観戦していたなど、それまで日本人の観客らが
経験したことのないスタンドの異様な風景などを指している。
この当時までの甲子園は米軍に接収されていて、日本人の意のままに使える状況
ではなかった。このセンバツ大会の開催前に接収が一部解除になり、初めて挙行
されたもの。米軍兵士たちが多く観戦し「専用席」があったのはそういった事情が反映
している。
■戦時中の甲子園の様子について、『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンス』
中野晴行著、筑摩書房刊)が少しだけ触れていた。
(当時のいわゆるオープン戦である) 「試合は阪神・産業合同の猛虎軍と阪急・朝日
の隼軍の間で、昭和20年(1945年)1月1日から5日まで、甲子園球場と西宮球場
を舞台にして行われている。真冬で、交通事情も悪く、いつ空襲が来るかもわからな
い状況であったにもかかわらず、観客はちゃんとやってきた」
「金属供出のために名物の銀傘をはぎとられてむき出しの姿になった甲子園球場の
スタンドで、国民服や防空頭巾姿で寒そうに観戦する観客たち・・・」
「アメリカ軍の艦戴機が、阪神間の飛行場や港、民家などを爆撃したのは、それから
ほぼ3カ月後、3月19日のことである。爆弾は甲子園球場にも落とされた」
この記事は「ボクにとっての日本野球史」の中で、次の期に属します。
→ (第5期)
1946年(昭和21年)、終戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1)、 INDEXは こちら
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