里崎智也
。特に9回の土壇場に放った同点本塁打は値千金だった。
ただテレビ東京系のスポーツニュースで解説していた 阿波野秀幸
の見方は少し違っていた。里崎の打撃を認めつつも 「投手に内角攻めを徹底させた里崎のインサイドワークこそが、チームに流れを呼び込んだ」
とコメントをしていた。
なるほど。勝因をインサイドワークや配球に求めるのは、投手として数々の辛苦を経験した阿波野らしいコメントだと思った。そして同時に、ボクは全く別のことを思い出した。それは阿波野のたった一球の配球ミスが、阿波野をそして近鉄バファローズを地獄に突き落とした、いわゆる「伝説の10・19」のこと。
■今から22年前、1988年10月19日。近鉄はロッテとのダブルヘッダー初戦を勝利し、優勝を決めるはずだった2戦目に事件は起きた。
スコア4-3、近鉄が1点リードで迎えた8回裏。胴上げ投手になるべく、この回からマウンドに立ったのがエース・阿波野だった。先頭の 愛甲猛
を三塁ゴロに打ち取って1アウト。連戦続きでスタミナを心配された阿波野だったが、まずまずの滑り出しを見せた。
ところが次打者・ 高沢秀昭
に対し、阿波野は痛恨のミスを犯してしまう。速球と得意のスクリューを交え、フルカウントになった直後の6球目。 山下和彦
捕手のサインは速球だったが、阿波野は首を横に振る。
そして速球よりも自信のあるスクリューで勝負を挑んだが、それが完全に裏目。高沢はスクリューを待っていたかのように腰を低く落として球をすくい上げると、打球は近鉄ファンで埋まるレフトスタンドに飛び込んだ。
結局この一打が最後まで響いて、この試合は引分けに終わった。と同時に1988年、近鉄の優勝は消えてしまったのだ。
ベンチで戦況を見ていた 梨田昌孝
は後日 「あの時、6球目は速球で行くべきだった。なぜスクリューを投げたのかわからない」
と悔しがっていた。阿波野自身も「連戦で疲労が蓄積し、速球で打ち取る自信がなかった」と後日述懐していた。
阿波野にとって一球の重みをイヤというほど思い知る試合になった。そしてこのことを礎にして、翌1989年、見事にパ・リーグの覇者になった。
今日も1クリックお願いします![]()
PR
Keyword Search
Calendar
Comments