あま野球日記@大学野球

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2011.02.20
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カテゴリ: プロ野球

■先週、旭川で3日間過ごした。冬の旭川は初めて。朝の気温がマイナス2℃ほどだったけど、想像していたほど寒くは感じなかった。地元の人に聞いたら、この3日間はたまたま暖かい日だったこと、また地形が盆地のため風があまり強くないことで、寒さを感じにくい土地であることがわかった。体感温度は東京の方がずっと寒く感じた。

旭川といえば、ボクが思い出すのは ヴィクトル・スタルヒン のこと。スタルヒンは旧制旭川中3年の時、来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する全日本チームの投手として選抜され、その後、大日本東京野球倶楽部の後身である東京巨人軍に入団。巨人軍の黎明期において 沢村栄治 とともにチームを支えた右腕。191cm、90kg。現役19年の通算成績は、586試合、303勝176敗、防御率2.09。


■ヴィクトル・スタルヒン。1925年、9歳のときに両親とともにロシアから日本に亡命。その時から40歳で事故死するまで国籍はなかった。

-さて、スタルヒンとはどんな人物だったか。その人物像について紹介されている書物があったので、以下に記します。大投手だったことはもちろんだけど、とても苦労が多く、それでいて愛嬌ある人だったことを知ることができます。-


1)まず、戦前、ほぼスタルヒンと同じ時期に巨人軍で二塁手として活躍した 千葉茂 さんの回想から。『猛牛一代の譜』(千葉茂著、ベースボール・マガジン社刊)より。

・コントロール抜群だった沢村栄治とくらべると、スタルヒンときたら、これは天衣無縫と言 うか、どこに行くかわからないと言えば大げさだけど、なかなかの荒れ模様なのが特徴でありました。それがあるから、守っている方はイライラ、イライラ。中島班長なんか、外野から怒鳴るのだもん、
「こら、スタ公、お前なにしてるんだ、いったいどこに投げているんだ」
いやもう、その声の大きいこと。中島先輩はライトを守っていましたが、その声はセカンドの吾輩の背越しに、とどろくのです。

歴史に名を残す大投手・スタルヒン、先輩の 中島治康 さんからは「スタ公!」と呼ばれていた、らしい。

・わりと喜怒哀楽を顔に出してくるシンプルさがありました。ファインプレーすると「よく捕ってくれた」と素直に喜ぶし、エラーすると、「まぁ気にしなさんなや」と慰めてくれたり・・・。

・柄に似合わず日本人的人情をもったお人で沢村投手と比べれば、人間くさい所がありました。あの大きな男が、妙なジンクスを担ぐところなど、たいへんにご愛嬌。スタルヒン投手はいつも、バスタオルに、着替えのアンダーシャツなどを包んでベンチに持ってくるのだけど、これの置き場所が常に同じところでなければ承知しない。ゲンが悪くなるというのでありまして、自分が打者としてベンチをあけるとき、どういうわけか、吾輩にそのお守りをさせる。「おい。チバ、それ、動かさんようにしといてや・・・」
そう言って打席に向かいます。ところが意地の悪い先輩がこっそりそのバスタオルを移動させます。すると、帰ってきたスタルヒン先生、烈火のごとく怒り狂うわけで・・・。


2)次に戦前、スタルヒンが巨人軍にいた頃、監督だった 藤本定義 さんの回想。『覇者の謀略』(藤本定義著、ベースボール・マガジン社刊)より。
終戦直後、一日も早くプロ球団を結成しようと、藤本さんが東奔西走していた頃のこと。

・すっかり焼野が原になった溜池のあたりで、偶然スタルヒンと会った。わが物顔に走り回っていた米軍のジープが、急ブレーキをかけて目の前で止まった。ギョッとして立ち止まっていると、歩み寄ってきた兵隊の中の一人が、「藤本さんじゃありませんか」。ニコニコして笑いかけながら手を上げた。それがスタルヒンだった。けっこううまくやっているらしく元気そうだったが、「今は、進駐軍の仕事をしている。しかし、藤本さんが野球をはじめれば、必ず参加するから呼んでくれ」と、スタルヒンは繰り返し、私に念を押した。

書籍『昭和20年11月23日のプレイボール』 (鈴木明著、光人社刊)では、 終戦直後、プロ野球復興のために 小西得郎 さんらの下で走りまわっていた 川村俊作 さんも、偶然スタルヒンと会ったことを紹介している。 ただこの時、必死にプロ野球への参加を求める川村さんに対し、スタルヒンは「その意思はない」と返答していた。矛盾しているが、藤本さんのチーム以外なら復帰したくないというのが、スタルヒンの真意だったか。

・顔は白人であったが、日本で教育を受けたので、日本人的な義理人情をわきまえているところがあった。カナ文字程度は読めた。それで当時振りがな付きだった『講談クラブ』とか、『キング』というような雑誌を読みふけって孤独をまぎらわせていた。スタルヒンの義理人情は、多分にこういう大衆雑誌から仕込まれたものであった。

・1956年9月4日、スタルヒン(当時、高橋ユニオンズに在籍)はついに300勝の記録を樹立した。ところは京都の西京極球場、相手は私(藤本)が監督している大映だった。300勝といっても、その中の約3分の2にあたる197勝は、戦前巨人時代の9年間であげたものである。とくに年間40勝をあげた全盛期の1939年前後の数年間は、真に無敵を誇ったものだった。熊の玩具を唯一の友として北海道の旭川からやってきた、西も東もわからぬ少年が、300勝をあげるのを目の当たりにして、私は何とも今昔の感に堪えなかった。ナインの祝福を受けた彼は、さっそく相手チームの私のところにやってきて、「藤本さん、ありがとうございました」と、まじめくさった顔で頭を下げた。私は彼と堅い握手を交わした。国籍なき流浪の民として、種々の圧迫を受けながら、それに負けず、ついに300勝を成し遂げたスタルヒンは、やはりりっぱなスポーツマンであった。



3)最後に、巨人軍の往年の名二塁手・ 苅田久徳 さんの回想。『伝説のプロ野球選手に
会いに行く』(高橋安幸著、白夜書房刊)より。
苅田さん、1935年(昭和10年)2月、職業野球チームが初めて米国に遠征したオールジャパンの一員として渡米した。その遠征、実はあまり予算がなく、しかも3月から7月までの期間に約100試合をこなす強行軍でもあった。 メンバーにはまだ若手投手だったスタルヒンや沢村栄治もいた。

・もう大変だよ。金がなくて。ホテルでも、私らは大先輩だからベッドに寝て、補欠の後輩は床に寝かせた時もあった。ユニフォームバッグを枕にしてね。アラメダで泊まったホテルでは、朝飯代としてたったの25セントしかくれなかった。25セントでどういうものが食えると思う? ハムエッグとパンだけ。コーヒーはタダだったけど。昼間は90セント、夜が1ドル20セント。これを持って日本人の店に行くわけ。そこで天丼が1ドル20セント、親子丼が1ドルですよ

・そんな生活をしながら4ヶ月か。旅立つ前はいいこと言いやがってね。『月に一人10ドルは出しますから、小遣いはそれほど持っていかなくて大丈夫』だって。で、行ったらね、くれないの。5セントのアイスクリームも買えない。

・もうどうにも我慢できなくなって、わたしが代表で抗議に行った。総監督の市岡のところに。するとその場でとりあえず、10ドルくれたよ。その金で、沢村とスタルヒンにアイスクリームを買ってやったんだよ。まったく、何度ダマされたかわかんない。とにかく、その頃は悪いヤツがたくさんいたんだよ。

スタルヒンと沢村にアイスクリームを買ってやったという行(くだり)がいいな・・・。


■YOUTUBEでもこの往年のスタルヒン投手を見ることができます。興味ある方は こちら をどうぞ。

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Last updated  2011.02.21 23:41:26
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