■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズの攻撃が始まった。
広島 101 002 000 =4
近鉄 000 021 00 =
【近鉄メンバー】
1(6)石渡 茂
2(3)小川 亨
3(9)チャーリー・マニエル
4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝
5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌
6(5) 羽田 耕一
→ (PR)藤瀬 史朗
7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一
8(8)平野 光泰
9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲
→ (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介
■作家の 山際淳司
氏は『江夏の21球』に書いた。
「(9回表)高橋慶彦が三振に倒れると、江夏はマウンドへ向かった。それから26分間、江夏は大阪球場に立ち尽くし、「勝者」と「敗者」の対角線上を激しく往復する。そしてその間に江夏の1球1球を巡って広島、近鉄両ベンチ、そしてグラウンドに立つ選手のあいだを様々な思惑が交錯した。野球とは、あるいはこの様々な思いが沸き立ち浮遊し交錯するゲームであるのかもしれない。・・・江夏がマウンドに歩いていく」。
この日の天候は雨、試合途中から降りだした。デーゲームにかかわらず、試合開始後まもなく照明が灯っていた。
■近鉄最後の攻撃に、1塁側応援席は無数の応援旗が振られ、笛の音が鳴り響く。
ベンチの 西本幸雄
監督は、椅子にかけたり立ったり落ち着かない様子である。そしておもむろに腰かけると、まず右手を口にあて、次に帽子のツバ、そして胸、最後に左腕に触れた。だがこのサインは何の意味ももたない。この時、西本監督と三塁コーチ・ 仰木彬
のサインの取り決めは、9回は左手が右腕に触れたときのみ有効だった。
西本の左横に座る 梨田昌孝
が、横目でチラチラと西本監督の動きを見やる。
■打席に6番・ 羽田耕一
が立った。このシリーズ第2戦では、 江夏豊
から適時打を放っている。
江夏は、初球に直球を選んだ。
外角へのシュート or 直球。
羽田は迷わずにバットを振り切った。江夏が慌ててグラブを上に出したが追いつかず、打球はライナーで飛び、二塁ベース後方でバウンドし、ゴロになってセンター達した。
一塁側スタンドから紙テープが飛んだ。近鉄にとって、願ってもない絶好のチャンスである。
そして、代走に足のスペシャリスト・ 藤瀬史朗
が送られた。
江夏豊
の話 「あいたー、と思った。この回を放ればもう休めると思っていたね、もう今年は野球をしなくてもいいと思っていた。簡単にシュートでストライクを取りに行った。1点リードされていて、9回、先頭打者はふつう初球から打ってこないと思っていたしね」
羽田耕一
の話 「外の真っ直ぐですよ。初球から真っ直ぐを狙っていましたからね。バットはすんなり出たという感じです。まぁ、会心の当たりというところですね」
■羽田にとってはしてやったり!の最高の気分だったろう。代走が送られてベンチに戻る時は、 「戻ってこいよ(本塁に生還しろよ)」
と藤瀬に声をかけた。![]()
だが羽田は、「和製大砲」「大器」と呼ばれ、背番号「3」を背負いながら、未完のまま選手生命を終えた感がボクには強い。チャンスでもピンチでも飄々とした表情で、まるで闘志というかやる気が見えず、結局凡打を繰り返した印象がある。だから、ボクはファンとして、いまひとつ信用できない選手だった。
この時から9年後、「10・19」第2試合の最後の打者になったのも(二ゴロ併殺)、この羽田の無気力に見えたバッティングだった。
江夏はさらに、こんなことも言っていた。
「羽田には第3戦の時の印象があったんだね。こっちが1点リードしているときの9回やったな。ノーアウト・ランナー・セカンドで出てきた羽田が、カウント1-2からじつに簡単にフライを打ち上げた。もうちょっと工夫して打てばいいのにと、オレが思ったくらいだった。あんまり賢こうない奴だなと思った」。
ま、そのことはいい。1点差を追う9回、近鉄は無死一塁の絶好のチャンスを作ったのだ。しかも一塁走者は藤瀬だ。でかしたぞ、羽田!
※出典はすべて、最終回に書きます。
今日も1クリックお願いします![]()
PR
Keyword Search
Calendar
Comments