(前回の続き)
広島 101 002 000 =4
近鉄 000 021 00 =
【近鉄メンバー】
1(6)石渡 茂
2(3)小川 亨
3(9)チャーリー・マニエル
4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝
5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌
6(5)羽田 耕一 → (PR) 藤瀬 史朗
7(4)クリス・アーノルド → (PR) 吹石 徳一
8(8) 平野 光泰
9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲
→ (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介
■無死一・三塁になり、打席には8番・ 平野光泰
が打席に入った。この試合は8番に入っているものの、本来は近鉄の切り込み隊長である。このシリーズはまったくの不調、この試合が始まるまで無安打だったため8番に降格していた。ただ5回裏には2点本塁打を放ち、平野本人はいい気分で打席に入ったはずである。
代走は 吹石徳一
。ベンチ前に立つ 西本幸雄
監督は吹石を呼び、耳元で一言、二言囁いた。
吹石は帽子を被るだけでヘルメットはない。手も素手で手袋をつけていない。ベンチ前にいるボールボーイの着たユニフォームの背中には「美津濃」と書かれていた。「MIZUNO」ではない。ま、そんな時代だった。
■一方の広島ベンチも動いた。ペナントレースでは考えられないことだが、ブルペンでは 池谷公二郎
が投球練習を始めていた。ストッパー・ 江夏豊
の後ろに、広島ベンチは別の投手を用意しているとは・・・?
<7球目>
高めに外れた速球は、明らかなボール。
■ボクは近鉄の無死一・三塁のチャンスに興奮していた。
思えば、小学校に入学して漢字を覚えた頃から近鉄ファンだった。この日本シリーズの時点で、ファン歴はすでに10年以上経っていた。
ファンになりたての頃、投手では 鈴木啓示
、 神部年男
、 清俊彦
、 佐々木宏一郎
がいた。打者では 土井正博
、 伊勢孝夫
、 永淵洋三
らがいた。
当時は負けてばかりで、お荷物球団と呼ばれていた。ボクは岩手に住んでいたから、遠く大阪から聞こえるラジオ放送をよく聞いていた。そんなものだからファンなのに、選手の顔、投球フォームや、ユニフォーム姿はほとんど知らなかった。たまに新聞の朝刊に近鉄選手の写真が掲載されたら、それが唯一の「ご対面」だった。
なんで、そこまで近鉄に惹かれたのか? 不思議なことである。今にして分かるのは、いつも勝利する巨人も当時は好きだったけれど、その対極にある近鉄が愛おしかった、というか...、たぶんそんな気持ちだったと思う。
そしてその後、かつてお荷物球団と呼ばれた近鉄が次第に力をつけ始めた。しかし優勝を狙える位置まで行っても、ここぞという時(天王山の藤井寺3連戦、もしくは西宮決戦などと呼ばれた)、いつも阪急ブレーブスが目の前に立ちはだかった。
■そんな近鉄が、この年(1979年)、ペナントレースの終盤はヨレヨレになりながらもパ・リーグで初優勝し、さらに日本一が目前に迫ってきたのだ。冷静でいられるはずはない。
そして、無死一・三塁のチャンスに、ボクが最も期待する打者・平野が打席に立っていた。
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