■1973年甲子園センバツは、作新学院高・ 江川卓
1回戦の北陽高戦で19三振を奪い勝利した。打球が前に飛ぶだけで拍手がわくほどだった。初回、剛速球全開で北陽の選手のバットに一度も触れさせず三者連続三振。続く2回も先頭の4番打者に1球もボールに触れさせず三振。上位打線が1人もバットにボールをかすることすらできず、高校生の中で1人だけプロ野球選手が混じって試合が行われていると揶揄された。あまりの実力差を見せつけられ、甲子園球場は異様などよめきに包まれた。続く5番有田がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると、この有田に対して超満員の観客(5万2000人)から大きな拍手が巻き起こった。
2回戦の小倉南高戦は7イニングで10奪三振、準々決勝の今治西高戦は1安打20奪三振。しかし、準決勝で佃-達川のバッテリーの広島商高と対戦。死球を恐れない捨て身の打法に苦しみ、8回ダブルスチールで敗れた。
※後に、江川は広島商のエース・佃正樹や主将・ 金光興二
とともに法政大に進学し、「法政黄金時代」を築く。
■同年夏、江川は再び甲子園に登場した。初戦は柳川商高のプッシュ打法と5人内野の守備に苦しみながら延長15回で振り切ったが、2回戦の銚子高戦では、延長12回の末、押し出し四球で敗退した。
この銚子高戦の詳細は、 こちらへ
。
【お詫び】 金光興二
さんについて
このブログでは、「金光さんは法政大卒業時に広島カープ入団を熱望したが、広島は金光さんを指名せず、近鉄が強行指名した」と数度にわたり書きましたが、これはまったくの誤りでした。 澤宮優著『ひとを見抜く-伝説のスカウト河西俊雄の生涯』(河出書房新社)
を読み、誤りであることに気づきました。
以下に同書から引用し、このブログの読者各位にお詫びいたします。
昭和52年の近鉄ドラフト1位指名は、法政大学の内野手金光興二だった。この時近鉄は即戦力の内野手が喉から手が出るほど欲しかったのである。(近鉄の)河西はスカウト部長の中島とともに実家の広島に足を運んだが、家族が難色を示していた。
金光も早くから「プロに指名されても入団はしない」と語っていた。だが徹底的に彼の近辺を調査すると、「近鉄であれば入団してもよい」という情報が入ってきた。法政大学野球部のOB会からも同じ話が聞こえている。しかし、1位指名しても、交渉は難航した。
(中略)結局、金光は社会人野球の三菱重工広島へ進んだ・・・広島県出身の金光は地元球団の広島にも「入団しない」という意志を示していたため、義理立てして近鉄に入団できなかったのではないか、というのが河西の推測である。
(写真)作新学院高時代の江川卓 ~雑誌『忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)より~
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