朝吹龍一朗の目・眼・芽

朝吹龍一朗の目・眼・芽

幽霊  第十六回から



 9時少しすぎたくらいにホテルに戻ることができた。明朝は8時半の列車でM**市まで、ベルギーからルクセンブルグを越えてフランス領まで行かねばならない。俺たちに明日はない、ってとこか。タクシーの中では、Veuillez m'epouser(結婚して下さい)なんてとても言えなかったから、これからアンジェが帰ると言い出すまでが勝負。

 赤ワイン1本と、例の『天使の誘惑(La tentation d'un ange)』をグラスに1杯しか飲んでいないから、森之宮としてはやや飲み足りないところだ。幸いまだ半分くらい残っているブランデーを、あまり色気はないが仕方なく洗面にある変哲ないコップに注いで二人で飲むことにした。

「取り敢えず(Tout d'abord)、乾杯!」
 森之宮のしぐさがあまりにぎこちなかったのだろうか、アンジェがいきなり笑いだした。Kimi、Daijobu(大丈夫)、Ne tu inquietes pas!(心配しないで)、わたしはここにいるから、KimiはKimiだし、アンジェはアンジェだから。

 そう言いながらグラスから一口、すすると、にっこり笑っておいしい、とささやく。父親の助言が再び生きた。フランスでだって、いや、ここはベルギーだが、カミュのナポレオンは高級だ。
 次の瞬間、アンジェはまるで石ころか何かを放り込むようにグラスに残った液体を口の中に投げ込むと、窓際にある丸テーブルに音もなくグラスを置いた。

「君のグラスがまだ欲しいってささやいているよ」
 取っておきのセリフ、夕べから、いや、もっと前から考えていた気取ったたセリフをせっかくつぶやいたのだが、アンジェはそれを全く無視して、ロップス(Rops)の美術館はどうだったかと聞いてきた。仕方なく森之宮は話題を合わせた。

「衝撃的でした。特別展で『Arbre(木)』についてのRops以外の小品も集めていました。とても日本では展示できないような、オトナの見るものでしたね、セクシャルで」
 私も、見た(Je Vu)。私、いたでしょう? アンジェの頬に酒のせいではない朱味が差した。
「ああ、あの画、私も見ました。そう、アンジェに似ていた。まじまじと見てしまった」
 アンジェは、わたしは恥ずかしくて見られなかった、Kimiは私の本物をまじまじと見たいのでしょう、と言う。森之宮もその絵を思い出してちょっと恥ずかしい気分に襲われた。

 仕方がないので左隣に並んで座っているアンジェから目を離して正面の窓を見る。目に入ったテーブルに乗っているアンジェの空のコップにブランデーを注ぎ足そうとベッドを離れ、窓際に歩み寄った。

 Kimi、狩人ではありませんね、獲物はここ。

 すぐ後ろに音もなく近づいたアンジェが立っていた。音もなく、ドレスも、脱いでいた。

 下着を外した胸は予想外に豊かで、森之宮の掌では覆いつくせない。先端に待ち受けている部分はしかし森之宮が高校時代に農業実習で作った小豆のように小ぶりで、口に含むとかすかに甘い香りがした。
 C'est bon, ou pas? (おいしい? そうでもない?) かすれた声でアンジェがつぶやく。
「もちろん、おいしい」
何度も繰り返し言う。ゆっくりとアンジェを押しながらベッドまでたどり着く。小豆をくわえたまま腰のあたりに右腕を回して持ち上げ、そっと降ろす。アエロフロートのスチュワーデス、ローザさんにもらったファーストクラスのアメニティのスリッパを片方ずつ脱ぎながら体をアンジェの上にかぶせていく。スチームが前提なので冬でも薄手の毛布しかかかっていない寝台を少しずつ後ずさりする。唇だけでアンジェに接しているので、空いている両手で毛布をはいでいける。やがてお目当ての三叉路にたどりつく。

 Vu?(見た?)
 Oui!(ウィ)
 アンジェが手をのばして照明を落とした。ベッドサイドランプだけの薄明りが残った。


 彼女は初めてだった。


 スチーム暖房のせいで部屋はやや乾燥気味だが、火照った体にはちょうどいい。薄手の毛布を二人でシェアしつつ上半身ははだけている。仰向けのアンジェの首の下では森之宮の左腕が枕代わりになっている。右手は持ち重りのする乳房の上だ。時々思い出したように痛そうな顔をする。天井を見つめているように見える。相変わらずライトはベッドの横だけで、それも行燈のようなほの暗さだ。

 私はアンジェ。カトリック。普遍。どこにでもいます。ゆっくりとアンジェが言った。いや、おまえ(Tu)の名前はアンジェだし、心の優しさはアンジェ(天使)のそれと同じだけれど、お前はお前、いま、ここにだけいる。私の、腕の中にだけ、いる。そうなのですね、そう、でもどうしてKimiは私の心がわかるのでしょうか。ときどき私の心を読んだりあやつったりする人がいるのだけれど、そういうのは私の病気のせいだとおばあさんや医者は言うのだけれど、Kimiの場合は微妙に違っていて、サイエンスのことや歴史のことは私が考える前からわかっているのに、私がKimiを好きだということはぜんぜんわからないみたいで、私はKimiが理解できなくて、私とKimiは違うらしくて、なんだか私は、私は。

 痛みのせいなのか、それとも本心からなのか、ちょっとわざとらしい明るい調子でアンジェがつぶやく。黙って聞いている森之宮。

 なんだか私は私みたいなのです。へんですよね、変ですか?
 もうだれも私の噂話をしていないみたいだし、テレビで私が笑いものになっていることもないみたい。ダランベールさん、ホテルの支配人の人、あの人はいつも私のアイデアを盗んだり私の思っていることを先回りしてクリスティアンやルネや、他のコックさんやギャルソンに言いふらすのですが、今日はそんなことはないみたいだし。

 統合失調症(その当時は精神分裂病と呼ばれた)が治るなどということがあるはずはない。少し症状が軽くなったりするのかもしれないと考えていた。でも弾むように話すアンジェを見るのはすごくうれしい。たとえ症状が重くなることがあるとしても、自分が支えてあげられるのではないか、支えてあげたい、と思っている。森之宮には、まるで二人が結婚するのが既成事実のように思えてくる。

 帰したくなかったが、いつの間にかあしたになっていた。アンジェは勝手知ったように部屋から外線でタクシーを呼ぶ。一緒に送って行こうかという申し出はあっさり断られ、代わりに真っ白な毛の塊のようなものを渡された。いつも身につけているタリスマン(お守り)だという。
 ジビエ、ですよ。アンジェが笑いながら言う。
 白い野兎、珍しいのです、その前足です、子供の時から持っています、願い事をするとき、その指を一本折るのです。もうこれまでに2本、折ってしまいました、昨日、もう一本、折りました、おかげでKimiに愛してもらえました、Kimiに残っているのはだからあと2つだけです。

 アンジェはここで言葉を切った。

 そのうえ、もうひとつ、最後の1本を折ると、その望みは確かに叶うのですが、願った人にはそのかわり、悪いことが起きるとされています、たとえば事故が起きるとか、罪をかぶるとか、あるいは死んでしまうとか、だから、実質あと一つだけなんですけれど、それでも、Kimiにこれをあげます。

 天使の贈り物ですね。
 もらったことを誰かに言ったらこのお守り、消えてしまいますよ。
 そんな、妖精の贈り物でもあるまいし。天使の贈り物も妖精と同じなのでしょうか。
 試しますか?
 やめておきます、決して人には言いません。

 こんな会話をしながら身づくろいをすると、二人でロビーまで降りて行った。5分も待たずに夕べホテルに戻ってきたのと同じタクシーが来た。
 あした、Dejeuner(お弁当)を作るから駅の入口で8時頃待っていてくださいと言い残してアンジェが去って行った。

 部屋に戻り、とうとう『結婚して下さい』は言えなかったけれど、考えてみればこのホテルで初めて、満ち足りた眠りにつくことができた。

                                (続く)


第十七回

 翌朝もいい天気だった。すでに時計は冬時間に合わせてある。もう間違うこともあるまい。最後の朝食をゆっくり楽しんでから、頼んでおいた英語のできるタクシーに乗ってN**駅へと向かう。

 アンジェは駅の入口で8時頃待っていてくれとのことだったのだが、すでに8時をだいぶ回ってしまった。列車は8時半発で、ブリュッセルからN**を経由してルクセンブルクまで行く。そこでスイスのバーゼル行きの長距離列車に乗り換えて、M**駅で降りることになっている。これを逃すと次は乗り継ぎの関係でM**到着が2時間以上遅れてしまう。

 切符は土曜日にD**市に行った帰りにちゃんと予約してある。今回もゲントでのソフィーさんの忠告通り、1等車を取った。発車するホームも確かめてあるから、最悪でも5分前に階段を駆け上がれば間に合うと思っている。でもそれにしても遅い。夕べ、時々痛そうに顔をしかめていた、起きられなかったのかもしれない、タクシーで送って行けばよかった、雲助だったら大変なことだ、もしかして家にすらたどり着いていないかもしれない。

 kimi! と聞こえた気がした。
 黒い馬が疾駆してくる。駅の正面からゆるやかに左へ曲がる大通りを疾走してくる。アンジェだ。歩道も花壇も車道もない。歩道は人を立ち止まらせ、花壇は障害よろしく飛越した。車は一斉にクラクションを鳴らすがエトワール号は全くひるむ様子を見せずにどんどん走る。森之宮の左側から駅に向って通じている一方通行路に入った。時計を見た。8時20分。まだ間に合う。

 顔をあげると同時に、道路の左端に停まっていたワゴンが急発進した。横からエトワールにぶつかったのか、エトワールがよけようとしたのか。

 アンジェが10メートルくらい跳んだ。飛ばされた。スローモーションを見るように、森之宮の方に向ってゆっくりと空から近づいてくる、左手には茶色の紙袋がしっかりと握られているのが見える。Dejeuner(お弁当)に違いない。


 天使が、地に墜ちた。


 わっと人々が駆け寄るのが見える。森之宮は足が震えて前に出ない。行かなければ、アンジェをこの手で助け起こさなければ、早く救急車を呼ばなければ、あのお弁当袋はどこへ飛んでいったのだろう、いい天気だ、運転手は誰だ、ああ、あの大聖堂にいたおむすび顔で目が吊り上がっている背の低い東洋人だ、信者以外は来るな、と言ったやつだ、なんてことだ。ああもうだめだ、列車の時間だ。

 たむろしていたタクシーの一台が救急車代わりになってすぐ近くにあるはずの病院へ向かって走り出すのを見届けた後、森之宮はN**駅の階段を上った。スーツケースが手すりや階段の角にぶつかって壊れそうな音を立てた。

 頭の中は文字通り真っ白だった。一等車の乗客はみなアンジェの友人のように見える。一人で冷たく乗ってしまった自分を白い目で見ているように思える。しかし物事を順序立てて考えることができない。じっさい、自分がしたことの非道さに思いが及んだのはだいぶ後になってからだった。ルクセンブルクでどうやって乗り換えたのか、まったく覚えていない。途中の風景もところどころしか記憶にない。うっすらと印象にあるのは、ベルギー領は文字通り畑ばかりの田園風景で、ルクセンブルクに入ると畑が消え、代わりに荒れ地が広がり、そのいささか荒涼とした原野に忽然と巨大な工場群が現れるという程度だ。その間、アンジェの白い顔が、上気した頬が、着衣の上からは想像がつかないほど豊かな胸が、ほどよくくびれた腰が、ほっそりした腕が、そしてやわらかな下腹部が、間欠的に春の海の波のようにゆっくりと頭の中に現れては消えていった。

 そんな夢うつつのような森之宮を乗せ、M*駅に定刻通りに着いた列車から降ると、そこはなにもかもかっちりとできていて、ここは実際はフランス領なのだが、フランスというよりまるでドイツのような雰囲気のある街だった。世の中に規則通りでないことはなく、不規則に見える石畳のでこぼこにさえも理由があり、森之宮がここにいることにも理由があり、目的があり、ある行為の結果でもあるのだからその目的を完遂するのが当面の使命であると、街全体が語りかけてくるような気がした。それも、拗音の多い甘ったるいフランス語ではなく、促音と撥音が勝つドイツ語で森之宮を叱咤しているように思えた。

 広くて整然とした駅前広場で拾ったタクシーは行く先を英語で聞き取ると、無言のままどんどん郊外へ向かって走る。目的地の研究所の門でパスポートと引き換えに入構証を受け取り、研究所長室のある立派な建物までスーツケースを押していく。玄関を入ってすぐ右のデスクにいたいかめしい顔のおじさんを見て、再びアンジェを思い出した。窓口に立っていただいているドクター・ガイエ(Gaye)への取次をお願いし、ついでに電話を借りることにした。

 欧州事務所にかけると、運よく加藤さんは席にいた。理由を話すと、わかりました、安否や連絡先なんかは全部調べておくので、今日のところは発表と交流に専念しなさいとのことだった。ありがたかった。

 発表と交流は、とりあえずうまくいった。2回目だし、すでにゲントで聞いている人もいて、森之宮がアワードを獲得しているのも知られていた。はじめから受け入れようという気になってくれている聴衆の前での発表ほど楽なものはない。たくさんの拍手で終わることができ、その上普段は見せてくれない(と先輩諸氏から聞いていた)、ラボの奥の方まで惜しげもなく見せてくれた。かなりの待遇だった。誇らしい感じがした。

 帰りがけに、若手の研究員を中心に、肩のこらないパーティーに誘われた。心に引っかかるものを感じながら、しかし森之宮は断らなかった。

 会食前にいったんホテルにチェックインすることを勧められた。城塞(シタデルCitadel)というそのものずばりの名前のホテルで、訪問先の研究所が手配してくれたものである。アプローチのはるか手前にゲートがあり、いかつい男が二人、小さな詰所をいかにも狭く見せるようにして控えている。セキュリティの確かさに感心していたのだが、研究所差し回しのタクシーの運転手が宿泊客であることを告げると、なにも確かめずにバーを上げてくれた。あっさりしたものだ。セキュリティに感心したのが馬鹿らしくなる。
 そういえば昼食を食べていないことに改めて気がついた。アンジェが弁当を作ってくれていたはずだったということをきゅうきゅういう胃が思い出させる。

 玄関を入るとすぐに15段くらい階段を降りる形になっている。降り切ったところが受付である。フロントでチェックインの用紙に名前を記入していると、手元をのぞきこんでいた若い女性従業員が、ムッシュウカトウからのファックスが届いているという。ショウミー、と言った森之宮の声には自分でもわかるくらいのとげが含まれていた。よく見ればかわいらしい受付嬢の顔にちらりと恐怖が浮かび、フランス語で悪態をつくのが聞こえた。


                                 (続く)



第十八回                  

 ファックスは怒りで始まっている。
 人をからかうものではない、N**市で今日は交通事故は一件も発生していない、市内の病院に片っ端から電話をかけてアンジェという女性が入院していないかどうか確かめたが、どこにもいない、さらに、シャトー・ド・N**というホテルにも、アンジェという従業員は、パートタイムも含めて実在しない、というものだった。

 文末には加藤さんが今日電話をかけた連絡先すべての名前と電話番号が列記されていて、その最後には、貴職が嘘をついているとも思いたくありません、嘘でなければ、貴職は幽霊でも見たのではないでしょうか、と記されていた。

 幽霊でも見たような顔をしている森之宮を、これは本当に目前に幽霊を見るような目つきで受付の若い女性がおびえた表情で見ている。ファックス用紙から目を上げたのを見計らって、本体より大きな真鍮製のプレートのついた鍵が差し出された。森之宮の左頬が緩んだ。受付嬢もやっと職業的な微笑が戻ったように見えた。

 階段を上ると左右にそれぞれ50メートル以上続く長い廊下の両側に部屋が並んでいるのが見える。森之宮の部屋は左側の一番奥のようだった。照明は中世の城のように松明が10メートル置きくらいに配置されているだけで、相当暗い。足元は毛足の長い上等な絨毯が敷き詰められているので、スーツケースの転がりが妨げられる。何度か荷物ともども横転しそうになりながら混乱した頭でドアを開けた。

 最近までフランス陸軍の駐屯地だったというそのホテルの土台はおよそ千年もさかのぼる古いもので、完全な石造りだったが、ホテルとして開業するに際してはさすがに当世風の大改装が施されており、大きなバスタブと清潔な洗面スペースがどことなくアメリカっぽい雰囲気すら漂わせている。しかしあえて残したと思われる石組みむき出しの壁は、もしかしたらたくさんのむごい場面も目撃してきたかと思わせるように冷たく佇んでいた。
 窓の外には茶色い三角屋根を載せた白壁の可愛らしい建物がある。作りつけのデスクには部屋全体の調和を乱しかねない巨大な鏡が組み合わされている。一目で頑丈であることがわかる引出しが二つ、どうしてもここはドイツだと主張したがっている。何気なく開けるとフランス語、ドイツ語、そして英語の順で並んだインフォメーションリーフレットが一枚だけ入ったクリヤケースがあった。裏返すと手書きで中世風を装った市内地図がはさんであった。
 余白の部分に名所解説のようなコラム記事が載っている。さっきの三角屋根も言及がある。中世に実際に使われたチャペルだとのことで、安全極まりない城塞の中、ここで結婚式も実際に挙げられたらしい。ついでに地図に目を近づけると、その建物の右手には武器庫、と記してあった。もう一度窓からのぞくと、 100メートル以上続く平屋建てがまるで壁のように連なっていて、そのはるか先にはライトアップされた大聖堂がかすかに見えている。確か、あの建物のそばにある店に予約を入れてあるとドクター・ガイエが言っていたのを思い出した。

 出ない幽霊というものもあるのではないか、という表現が頭に浮かんできた。可笑しくなるくらい変な論理だが、森之宮には満更でもない気がして、わざとコートを脱がずにベッドに座ると大きくため息をついた。目の前でアンジェが東洋人の神父の車にぶつけられて怪我をしたのは間違いない。けが、というのはまさに「希望的観測」であり、しかしそうとしか思いたくないのであえて口に出して言った。
「アンジェは怪我をした」

 黒だかり、じゃない、金色や銀色の髪のやつが多かったから、金銀だかりか、の、連中が口々に病院(ロピタル)、ロピタル、サン・クレール病院が近い、と叫んでいて、救急車役を買って出たタクシーが目の前の道を一方通行を逆走してまでその病院の方向へ走り去ったところまで目撃したのだ。

 加藤さんの誤解を解き、まずは感謝の意を伝えてから、あとは自分でやる旨、ベッドサイドの電話で話した。やや不満そうな感情をしっかりと押し殺した大人の反応が電話口から伝わってくる。さすがに欧州事務所勤務に抜擢されるだけのことはある。森之宮は久しぶりに日本語をしゃべった気がした。

 あと30分、研究所の面々が迎えに来るまで時間があることを確かめてから、頭を再度フランス語モードに切り替えて、アンジェのおばあさんの家の電話番号を回した。

 呼び出し音がむなしく聞こえ続ける。そうか、病院に詰めているなら、家には誰もいないかもしれない。それなら加藤さんのファックスにある病院にいるはずだ。まずは野次馬たちが叫んでいたサン・クレール病院にかけてみたが、そんなけが人はいない、という返事だった。8時30分ごろにタクシーで運びこまれたはずだ、とまで具体的に聞いてみても、答えは同じだった。アンジェ・ロレーヌさんと言うひとは入院しておりません。

 ふと思い出してアンジェにもらったお守りのウサギの足を取り出し、どうか無事なようにと祈りながら、残った2本のうちの1本の指を折った。折りながら、なんとも狩猟民族らしい習俗だと思った。期待したような乾いた響きはしない。いささか湿った音がしたきりである。これでは願い事が叶うような気がしない。迷信とわかっていてすがりたかったのに、二重に裏切られた気もしないではなかったが、その時、信じる者こそ救われるという、小学校の時法華の太鼓をたたきながら近所をうろついていた老婆の姿を瞬間的に思い出した。

 それは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの年だった。復興途上の新宿西口は浄水場が移転したあと、まだ高層ビルの姿はないころで、砂塵が舞い、荒涼とした浄水場跡地を一人で歩き回るその老女は、**神社の神主が明治の末に内藤新宿の芸者に産ませた子だとも噂されていた。近寄るとかわいい男の子はおちんちんを糸でくくって切り取られるという、あまりにも具体的で生々しい警話があり、実際切り取られた残りのおちんちんをつけたままの子を近くの銭湯で見かけたという同級生がいて森之宮たちは震え上がったものだ。一種の妖婆、幽霊か魔女か、そんなものに思えていたのだろう。

 なぜそんなことを思い出したのだろう。とりあえず気を取り直して加藤さんのリストにある病院に片っ端から電話した。ちょうど13あった。13回目の落胆を味わいつつあったとき、ノックの音が聞こえた。すでに約束の時間を過ぎているのにずっと話し中で電話がつながらないことをドアボーイが心配して迎えに来たのだった。

 ドアボーイに愛想笑いを一つくれてやって、森之宮はゆっくりベッドから立ち上がった。先を歩く黒人のドアボーイはまるで足がないかのように音も立てない。西洋の幽霊は確か足があるはず、日本人の自分にはヨーロッパにいてさえ日本式の幽霊を見るのかと、森之宮は暗い廊下のふかふかの絨毯を意味もなく踏みにじりながら思った。自分にはまだ足がある。でもアンジェにはもう足がないかもしれない。アンジェは、アンジェのことは、アンジェと自分の糸は、アンジェとの絆は、応挙の幽霊と同じ、ほの暗い城塞のどこかで。アリアドネの代わりにアンジェがくれた糸巻きは芯だけしか残っていない。

 これで、一切の手がかりは、尽きた。


                         幽霊 第一部 完

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