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ピーター・ウルリッヒ (独・反核運動家)
このニュースは、在独のある日本人がツイッターで発信したこともあり、ドイツでも話題になった。日本の親たちがどのように子どもたちの危機を訴えるか、多くの人が注目していた。
私もツイッターを使い、福島の親たちと国がどのようなやりとりをしているのかをリアルタイムで配信した。
しかし、率直に言って、ほとんどの人ががっかりした。
なぜならば、毎日のように福島の子どもたちが被曝の危機にさらされているというのに、福島の親たちは怒りを表明するだけで、文部科学省を後にしてしまったからだ。どうして帰ってしまうのか、近くにいた何人かの日本人ジャーナリストに理由を尋ねてみた。すると、意外な言葉が返ってきた。
「バスの貸し切りが今日一日だけだから」「粘っていても明確な返答が出てこないのは親たちもわかっている」「これが日本人式の抗議スタイルだから」......。
ドイツだったら、大臣や役人のトップが面会するまで訴え続けただろう。そのまま居残って、座り込みやハンガーストライキを始めることだってできた。ドイツだけではない、ヨーロッパの人々のセンスならそうする。場合によっては抗議行動が暴動にふくれあがったり、善策とは言わないがテロだって起こる。しかし、日本人は大人しすぎる。民主主義を尊ぶ日本人の精神は理解できるが、子どもたちや自分の命、美しい郷土より勝るものなど、他に何があるというのか。
それとも、福島の親たちは忍耐強くて、常識をわきまえた人たちなのだろうか。せっかく東京まで抗議にやって来たのに、 何の進展もないままあっさり帰ってしまったら役人の思う壺だ。 役人や政治家たちはこう言っているはずだ──「痛くも痒くもない」。
確かに、福島では大切な子どもたちが親の帰りを待っているだろうし、仕事にも行かなければならないだろう。しかし、抗議のために東京にやって来る前と福島に帰った時に状況が何も変わっていない抗議なら、何の意味もない。利益があったのは、バス会社だけだ。
自分たちの意思を表明するために、何らかの行動をすることには意味がある。しかし、行動にはさらなる行動が継続して伴わなければいけない。私たちドイツの運動家たちはそうやって勝利を手にした。政治家や役人が動かない以上、自分自身を犠牲にしなければ国を動かすことなど到底できない。一過性の抗議行動など無に等しく、間を空けないことが団体争議の鉄則ということを肝に銘じてほしい。
私は、4月10日と5月7日の東京の反原発デモにも参加した。しかし、あのデモにも幻滅した。社会の注目を集めるにはイベント性を付加することも大切だが、反核や反原発を訴えるのにハードコアパンクやレゲエの音楽、それに「1万人が参加した」という規模などはそれほど重要ではない。必要なのは、体制を論破できるほどの知恵と語彙であり、大衆を巻き込む説得力や感情だ。暴動もテロも起こらない平和な国ならば、そのような要素はなおさら重要だ。
夏の屋外ロックフェスティバルのような稚拙なスタイルでは、私も経験した80年代後半の日本の反原発運動のように、ファッション化してしぼんでいくのがオチだろう。
そして、抗議行動でもっとも不利益につながるものは、行動をしたからという満足感に浸ることだ。抗議行動は多くの人に共感してもらってさらに広げていくものなのだから、ツイッターやブログで「報告」しているばかりでは意味がない。そんなことをくり返していれば、反原発の世論などすぐに醒める。この盛り上がりが「人の噂も七十五日」的で終わってしまっては、日本の将来には何の利益もない。 勝つのは 「風評被害」という言葉と「原子力村」の輩だ。
もはや、日本を見る海外の目は冷ややかだ。国や自治体、政治家や役人が国民の生命と財産をこれほどないがしろにしているのに、日本の人たちはそれでも大人しくしていると見られている。 フランスの若手思想家は「日本人はまるで被曝を楽しんでいるかのようだ。さすがは耐え忍ぶサムライの国」と揶揄し、当初は日本人に同情的だった人々も呆れ果て、この思想家に同調する傾向さえある。
ドイツの週刊誌に、こんなブラックジョークが載った。白人の反原発運動家が日本人に尋ねる──「あなたがたの生きる権利を守る憲法があるのに、どうして国に不満を訴えないのですか?」。日本人はこう答える──「放射能と同じで、日本人の目には憲法が見えないからです」
。(翻訳:イナ婆)
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