ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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カテゴリ: 歴 史

 「結論を先送りして、のらりくらりする態度」「屁理屈好き」「人を欺くようなやり方」などです。言葉になるという事は、それがイタリア人の偽らざる感覚なのでしょう。

 どの地域のイタリア人よりも、ビザンティン人と関係の深かったヴェネツィア人は、彼らの性質を熟知していたはずです。やはり彼らの経験に基づく危惧は的中します。

 金角湾に泊まっているヴェネツィアの船に、火が付けられたのです。民衆の不満に迎合し、人気の回復を図ろうとしたアレクシウス4世が、十字軍を裏切ったためでした。
 何とか火は消し止められ、被害は最小限ですみましたが、十字軍側からすると、これは事実上の宣戦布告に他なりません。帝国内の、ラテン人居住区も焼き払われ、もはや命を守るには戦う事しか残されていないようでした。

 そんなビザンティン、十字軍双方ともに張りつめた状況の中、旧老皇帝と息子のアレクシウス4世が殺害されるという事件が起きたのです。権力の座を、これまた奪い取ろうとした、アレクシウス5世(4世の従兄弟)が謀ったことでした。


 1204年4月12日朝、コンスタンティノープルへの攻撃が開始されました。
 初日こそ、それなりの抵抗を示したビザンティンの大軍隊でしたが、皇帝がくるくると変わる中、戦うモチベーションも指揮系統も失い、翌日の朝には、街の南部が十字軍により制圧されました。そこかしこで火の手が上がり、ビザンティンの住民が逃げ惑う中、コンスタンティノープルは十字軍の手に落ちたのでした。

 そこで慣習により、十字軍兵士の三日間の略奪が行われました。緊張の後の勝者の興奮に、舞台は世界一の華やかな都。美しく貴重であればあるほど、彼らの征服欲と破壊欲を満たしたことでしょう。それが宝物であっても、宮中や貴族の女達であっても。
 コンスタンティノープルの街は、目も当てられないほどに荒らされ損なわれました。

 ヴェネツィアの男達がそれに加わらなかった、という証拠はありません。しかし彼らは、兵士というより商人であったので、貴重な写本やイコン、モザイク画、屏風などなどあらゆるものを持ち帰るのに夢中だったのです。
 と言っても、後で転売して儲けようというよりも、ヴェネツィア人にとって、ビザンティン芸術は彼ら自身の誇りだったからです。古代ローマの栄華を継承する唯一の文明として、憧れと同時に彼らの「ルーツ」のようなものを感じていたのです。

 この後、広大なビザンティン帝国の、領土の分割が行われます。







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Last updated  2008/12/27 05:39:59 PM
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