chao★chao

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2022年03月11日
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カテゴリ: (・.・)
​                                   La France
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​    
  11年前のあの時に天に召されてしまったたくさんの人々、生きもの、草花や樹々、
                   それら全ての魂に心からの鎮魂の祈りを捧げます♥



  あの時なにが起こったのか、後になって知ってみれば
  東北の皆さまの直面なさったことに比べるべくもないことではあるのですが
2011.3.11の東京の私のところでは以下のようでした。


​ 


  """"""""""""""""""""""""""""""""




  その頃まだ、世田谷区の多摩川からほど近い、等々力​
​とどろき​ に住んでいました。
午後のひととき、いつものようにべリちゃんをリビングで自由に遊ばせながら、
  たしか本を読んでいたんです。

  ズン‼というあの不穏な体感に、ん?? と思って本から顔をあげた時には、
  もう結構な揺れ方をし始めてました。
  かなり慌てて、
      でも
気持ちが上ずりそうなのをべリちゃんに悟られないよう (私がビビってるとコワがるからね)、
      冷静を装って
  とにかく、べリちゃんに「オウチ入ろう~!」と普段の口調でケージへ戻しました。



  その間にも収まってくれろ、と願いつつ。。。

  でも、収まるどころか揺れ方が複雑になり、玄関のほうからドシャン、ガシャン、と
  なにか落ちる音がして!
  モノが落ちるような地震にはまだ遭ったことはなかったので
さすがに凄く緊張しました。
コワイ!と思ってもいたはずですが、
  それより「どした、どした? こんな揺れてるのに横揺れで。。。どこか東京から遠い
  場所での強い地震??  だとしたら、どこ? どこで地震??」
  
  収まりかけてはまた大きく揺れて、を長くくりかえし、
  もう地面がうねりながら揺れているのが、
体感でわかりましたし、
  べりちゃんのケージに覆いかぶさるように、というか、
  上からしがみついてましたねえ。
べリちゃんは。。。やはりいつもと違う私の様子に、固まっていました。


  でも、建物が崩れたりのことまでのことはないとし、次にベランダの戸を

  目いっぱいあけて、周りの木々も電線も大きく揺れているのを見ましたし、
  まだまだ、強弱もあり、うねって揺れているのも続きました。
  長かったですねえ。。。。

なにかに掴まっていないと立っていられないように感じた...のは、
  揺れがひどくて、ではなく、
  コワさで腰が抜けるのに似て、膝が踏ん張れないのでした。
東京で揺さぶられている私でさえ、そうでした。

  これが直撃しているとこはエライことになってるはず。。。震源地はどこ???

  ようやっとうねりの揺れが収まり、TVをつけ、宮城沖と知りました。




  すぐに、彼にもケータイで連絡入れてますが、もちろん繋がらず。
  夕方17時すぎ頃、家電のほうに彼からかかってきて、お互いの無事を確認。
  あちらからも固定電話でかけてやっとつながった模様。
  
  帰りの交通手段はすべてNGなので、なんとか歩いて帰るって。
  たぶん直線距離で20キロくらいあったのかなぁ。。。


  しかし、どういうわけだか幸いにも一瞬でしたが、銀座線が動いたそうで、
  なんと虎ノ門から渋谷までは、ゲキ混みながら地下鉄に乗れたそう!

  そこからは、徒歩徒歩、です。
  
  たくさんの人が246を黙々と歩いていたそうです。
  途中のコンビニやスーパーでいろいろ飲み物や食べ物買ったりトイレ借りたり、
  そういう方達がたくさんいたそうです。

彼は渋谷まで来てしまえば地元ですから、
  勿論、裏道・抜け道の最短距離を歩いて帰宅しましたが

  それでも、23時半すぎの「やれやれ、ただいま~!」でした。




  余震もたくさんありましたし、私達はそのままNHKをつけたままで  

  かなり遅い時間まで、知り得る情報の深刻さ、恐ろしさにおののいていました。 











  東京でもこんなでしたけれど。。。 
  もちろん、現地では地震、またすぐそのあとの津波や、原発や。。。
  そして大切なご家族をなくされたり、街を、家を失ったり。。。
  どんなにか怖ろしく悲しく、また無念の思いをされたことかと、
  想像するだに胸が潰れそうです。


11年経って、健気に前向きに粘り強く立ち上がっている方達の姿も
  TVなどの番組で知ることもあります。
  生きているものは、生きていかねばなりません。
  そして、希望を持って元気を出さねば生きて行かれません。
  
 

  人の想念は実現化していきますし、たくさん集まれば尚更です。

  祈ること、応援する気持ちは、けっして無駄になりませんので、
  もし、直接的な手助けができないとしても、
  心から、被災した方々の真の復興をお祈りしてやみません。








                                





  みなさんのあの日、あの時は、どんなご様子でしたか?



  我が家でのあの日以来の就寝時の後遺症は...

    ・真っ暗にしない

    ・ごく薄~くですが、ずっとラジオをつけっぱにしている
    ・すぐ着替えられるジャージの上下とスニーカーをベッド下に置いてある 

  思い返せばこれも11年ずっとしていることになります。
 彼が亡くなって独りになってからは、尚更、デス。










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​  今日は、3.11 の日の11年目ですが
  昨日、 3.10 の夜、77年前(1945)は、東京の隅田川あたりの下町一帯が
  撒き落とされた焼夷弾で火の海と化した、
かの東京大空襲がありました。
  15歳の父が墨田区本所の実家で被災し、隣近所がみな亡くなってしまった中
  奇跡的にウチの一家は助かって、しばらく江戸川区小岩へ疎開したそうです。

  私自身にとっても、父の命あっての今の我が身ですので
  この出来事はかなりの緊張をもって迫ってくるものがあります。






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Last updated  2022年03月11日 05時30分04秒
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