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haruru-n @ Re[1]:今年の『おめでとうございます』(01/29) ショコラララさん >うめたん、おめでと…
2010.08.15
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カテゴリ: カテゴリ未分類
長い捕虜生活の間にだんだんと栄養失調と衛生不良による伝染病でたくさんの仲間が死んでいった。

ただ どのくらいの期間の捕虜生活だったか 覚えていないです。
そんなに短くはなかったし、半年から1年くらい?

そして やっと日本からの迎えが来て、その船の中で ポロポロと歯が抜けてき始めた。

日本に着いた時にはかなりの歯がなかった・・・と。

『人間はねー 極度の栄養失調で歯がなくなるんですよ・・』



日本に帰ってから・・・

彼の捕虜生活は彼に実地の英語のレッスンとなり、

彼は英語が出来るという事で


戦後の戦犯・・・・裁判の通訳だった。

嫌な事も 理不尽な事も そのまま通訳せねばならなかった。

嫌な仕事だった・・・と。



その後、彼は 東京のアメリカの企業で働き、定年退職して
こちらに移り住んできた。

奥さんとの二人暮らし。
子供さんはいなかった。


彼はいろんな意味で アメリカ人が好きだったようです。
すべてを受け入れる それがアメリカだ・・・とも。

彼らはクールだよね とも。


今は他界されている Mr.O の思い 少しでもお話出来たら・・・と思い・・・


ありがとうございました。
スルーしてくださいね。 おしまい





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最終更新日  2010.08.15 16:54:10
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Re:Mr.O  3  (08/15)  
isaox  さん
私の父親は大正15年生まれですが
招集されて静岡連隊で訓練を受けていましたが兵隊を運ぶ輸送船がなくなってしまい敗戦を迎えました
兄が3名戦地に赴きました
2名は空の棺おけで帰って来たそうです
南方の地で玉砕したので何も無いという意味だったようですが
「犬の骨でも入れてくれた方がまだましだ、天皇陛下に責任を取ってほしい」
大人しい母親は二つ目の空の棺おけを見て泣くのではなく怒ったそうです
これは毎年必ず話しが出ることです
父の実家の物置を片付けていると当時の絵葉書がありました
勇ましい軍艦の絵柄にお国の為に頑張っていますと書いてありました 家族の健康を祈っていました
父の直ぐ上の兄は中国を経由してベトナムまで行って帰ってきました
時折合った時は昔の話をしてくれましたが
「ベトナムは本当に豊かで暮らしやすい、老後は行きたい」
そう言う話しばかりでした
この叔父が亡くなってから彼が元皇宮警察でありそこから出兵したと知りました 定年後もお勤めに言った人のようでした

「終戦記念日」となると両親から聞くのは当時の食べ物事情と静岡大火の話です
山間部に住んでいましたが市内の様子は良く見えたようです
空からいつまでも焼夷弾が花火のように落ちてきて静岡市内は真っ赤に染まったと言う事です
広島・長崎は原爆で灰になったが他の都市は焼夷弾で灰になった
でも、鉄橋やトンネルは灰にはしなかったそうです

大学の英語の授業でその先生はその講義の最後の日に戦争体験を話してくれました
本土決戦の陳腐さを自分の反省をこめて話してくれました
ロシア語の先生は長い抑留生活の末に帰ってこられた人でしたが戦争の話をされる事はありませんでした


(2010.08.17 14:47:07)

Re[1]:Mr.O  3  (08/15)  
haruru-n  さん
isaoxさん

父は大正12年でした生まれでした。
私は兄弟一番下でしたので、親が戦争に行った、最後の世代かな?と思ったりしています。

父母の兄弟
祖父の弟も無くなっていますし、
満州からやっとの思いで引き上げてきたものの、食べ物をすべて子供に食べさせて船上で親を亡くして 日本に帰ってきたおば・・・当時12歳

現実の戦争が身の回りにあった事をやはり話ておきたかったのかな?と思ったり。

戦争は二度としてはならないから。

戦争の事を話さない 義父 
話せるような記憶ではないのでしょうね。
決して話しませんね。

そんな時代に比べたら今は幸せな時代でしょうね。 (2010.08.20 02:45:13)

Re:Mr.O  3  (08/15)  
かふぇりん  さん
風化させることは避けなければいけませんね。
でも、親たちから話には聞いていますが、私ですら、詳しくは聞いていませんからねぇ~
風化させずに伝えていくって難しいですね。 (2010.08.21 14:55:15)

Re[1]:Mr.O  3  (08/15)  
haruru-n  さん
かふぇりんさん
>風化させることは避けなければいけませんね。
>でも、親たちから話には聞いていますが、私ですら、詳しくは聞いていませんからねぇ~
>風化させずに伝えていくって難しいですね。
-----
風化・・・という訳でもなかったのですが、知ってるのに話さずにいるのはやはり・・・せめて知っている事だけでも話した方が・・・と思った 。。。のでしょうねえ。

でも 子供には話していませんものねえ。
子供はおじいちゃんが シベリアに行ったらしい・・というくらいです。 (2010.08.25 11:36:27)

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