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「ぜ、全周にアンノン(不明艦)多数。概算40を超過っ。我々は、我々は大艦隊のド真ん中に居ますっ」 その報告を受けた艦橋には、もう言葉を発する者は居なかった。誰でもいい、この状況を納得できるように説明してくれ。誰もがそう落胆しかけていた時、艦長の梅津だけは思考を止めてはいなかった。「真珠湾の米海軍が早々と出張って来たのかもしれん。確認しろ」 はっとなって、角松は無線を拾い指示を出した。「電測員、米軍バンド(周波数)にて確認せよ」 すぐにCICで確認が行われたが応信無しであった。「応信ありません。IFF(識別装置)反応無し」「艦影接近、本艦正面。距離500。戦艦クラスです」 距離500か、艦橋からも確認できるな。そう思うと梅津は望遠鏡を手に取り覗き込んだ。そして、一連の騒動の中でも動揺を抑えていた梅津が初めて狼狽の表情を浮かべた。 こんな事が―――。 その梅津の変化を角松だけは見逃さなかった。梅津の視線の先を追う。そしてゆっくりとその影の大きさを増していく戦艦が目に映り始め、やがてその細部をも捉えた。だが、それはにわかに受け入れられるものでは無かった。 右舷の小栗ら観測員にも接近してくる艦の姿が見えていた。「見ろ、ニュージャージーかアイオワか?」「馬鹿言え。アイオワ級は全て退役している。太平洋にはいねーよ」「じゃあ、いったい―――」 隊員たちは口々にその不明艦を当てようと艦の名を出してはそれは違う、あれはどうだと言い合っていた。小栗はそれを片耳で聞きながら双眼鏡に目を凝らす。徐々に艦が近づくにつれ、小栗は心の蔵が激しく脈打つのを感じていた。
2005.10.17
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窓の外に向かい角松は叫んだ。だがその声も嵐の音に掻き消され、中空に漂い言の葉としての力は失われた。その中で唯一人だけ落ち着き払い騒ぎを見ていた梅津が口を開いた。「ロストした僚艦を全力で探せ。まさか沈んだわけではなかろう」「はっ」 即座に指示を出そうと無線を手に取った角松は、窓の外を見て無線を手放し落としてしまった。度重なる異常事態に思考が停止しそうになるのをこらえるが、もはや言葉は選べていない。「何だ、こりゃぁ……」 角松を困惑させた光景は、右舷に居る小栗らの目にも当然ながら映っていた。「こ、航海長。これは―――」 小栗は答えられない。彼自身もまた同様な疑問に脳は支配され、思考は熱を帯び始めていた。 そんな馬鹿な。 あの日、小栗らがこの航海に出る運命が決まったあの日、小栗の頭上に降り注いでいたものが、今また天からゆっくりと降りてきているのだ。今「みらい」を包む光景を俯瞰で見られたのなら、なんと幻想的で荘厳とした美しいものだろう。だが有りえないのだ。なんど瞳に映してみても有り得はしない光景なのだ。小栗は「それ」に手を伸ばし感覚を指先に集め触れてみた。―――冷たい。なんてこった、本当に「これ」は―――。「―――雪だ」 小栗は呟いた。今までの嵐が嘘のように静まり、雪が厳かに、深々と降り始めていた。そんな筈は無い。まさか、ここは東経171度・北緯27度、ハワイ沖だぞ。まして今は六月なのだ。雪など降る筈が無い。では眼前のこの光景は何だ? ピ―――ッ「うわっ。な、なんだ―――」 電測員はレーダーに映ったものを見て、そのままの反応を示した。すかさず艦橋の角松が問いただす。「どうした、すぐに報告しろっ」「ぜ、全周にアンノン(不明艦)多数。概算40を超過っ。我々は、我々は大艦隊のド真ん中に居ますっ」
2005.08.27
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望遠鏡を覗いた角松は困惑した。先行しているはずの僚艦「はるか」の艦影が消えたからだ。どういうことだ、それほどまでに視界が悪化してきているというのか。次の瞬間、角松の目の前は真っ白い光に包まれた。ガガ―――――ッン。 強い衝撃が艦と乗組員らを襲った。右舷に待機していた小栗らは吹き飛ばされ壁に激突した。「痛っ。な、なんだ今のは。落雷か?」 小栗は立ち上がりながら辺りの状況をすぐさま確認する。とくに火の手は上がっていないし、右舷の船員には大きな被害も見られない。「ダメージ・コントロール。艦内各部の損傷を報告せよっ」 艦橋で角松が声を荒げる。「電気、油圧、電算機能正常。システム・オール・グリーン。艦内各部、稼動しています」 だが、直後にレーダーを見たCIC付きの電測員は絶叫しかけた。「ば、馬鹿な――」 数十秒前までレーダー上に映っていた、三隻の僚艦の位置座標を表す光点が消失していた。「CICより艦橋へーっ。OPS―28(対水上レーダー)、反射波をとらえられません。僚艦をロスト(失探)」「消えた?レーダーが利かないってことがあるか。出力最大で探せっ」 角松の心中に黒い霧がたちこめていく。 落ち着け。俺が冷静で居なければ部下達の不安はさらに広まるのだ。落ち着け、落ち着くのだ。まず優先すべきは僚艦との交信域の確保。そうだ、現状を把握せねばならない。だが、事態は角松のこの思案すらも及ばぬ域に達している事を、こののち彼は知る事となる。 CICの菊地はこの様な状況下でも焦る事無く、部下に指示を出していた。彼が出した指示は二つ。一つはレーダー故障の可能性の確認と、故障が見られた場合におけるその箇所の即急な修復。もう一つは、角松の心を知ってか知らずしてか、先行艦との交信域の確保であった。しかし、「先行艦「はるか」との交信不能。「ゆきなみ」「あまぎ」共に返信ありません。全交信可能域、完全に沈黙っ」 という通信員の悲壮な報告が響く。菊地は軽く唇を噛んだ。だが部下は次の指示を待っている。諦観は今できる事を全てしてからでも遅くは無い。即座に声を振り絞る。「五分前まで4キロ先の「はるか」を確認している。フリーサット(衛星通信)で試してみろ」「フリーサット軌道上に確認できません」「衛星追尾アンテナ、チェック」「だめです。エラー(故障)ではありません。全艦から応答ありません」 艦橋にCICから悲況の報告が入る。にわかに室内がざわめいた。乗組員らの表情に暗い影が射す。それは角松とて例外ではなかった。「僚艦が全て消えた―――?何が起きた?何が起こっているんだーっ」 窓の外に向かい角松は吠えた。
2005.08.09
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艦橋の角松は檄にも近い怒声を張り上げていた。 最新鋭のイージス艦が時化で航行に支障をきたすなど笑い話にもなりはしない。だが、嵐の規模は予想以上に甚大であり、予定に多少の遅れが見られはじめている。 短時間でこれ程の影響を受けるものなのか。 角松に僅かな狼狽の色が見える。といっても人的被害はまだ確認されてはいないし、艦の各部に以上もない。ただ航行速度に若干の減退が見られるだけであり、それは僚艦全てにいえる事であった。 だのに、この危機感は、焦燥感は何だ?状況を冷静に判断すれば何も困惑する場面ではないと分かるはずだ。この嵐を抜けた後で十分に修正可能なレヴェルの事態でしかない。 眼の前に広がる山の如き雲のすそ野を無闇やたらと引っ張って、その終わりを遠くへ、遠くへと感じようとしているのは俺自身ではないだろうか。目の前の雲をわざと巨大に感じ、心中の漠然とした不安を全て飲み込んでもらいたいのだろう? 先の見えない闇の中にこの不安を全て残して進む事が出来るのならばどんなに楽な事か。けれど、それではまた新たな不安を覚えても自己解決し得ることも無きままで、別の闇を捌け口にせんと彷徨うだけだ。そうやっていずれ、手放してはいけないものまでも闇の中に「贄」として置いてきてしまう。失ったものを取り戻すのは容易では無い。 角松はそのことを痛いほどに感じてきた。不意に陸に残してきた女房と息子の顔をゆっくりと脳裏に浮かべる。いや、むしろ残されているのは俺の方か。二人とも俺のいない生活という道をしっかりと歩き続けている。それに比べ俺は不安から目を逸らすように海に出てきておきながら今度はその海に不安を覚え、挙句それすらも甘受できずに置いていこうというのか。なんと脆弱な、なんと惰性にまみれた精神か。そんな自分自身が一番受け入れ難いな、と角松は嘲笑した。 この航海を終えたら、もう一度家族と向き合おう。あいつらとの時間を無下にせず大切にひとつひとつを感じよう。この困難な航海の先にそんな希望を置いておこう。それこそが、胸を蝕む一抹の不安を取り除くことになるのだから。
2005.08.02
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ドオォと波が「みらい」の体を揺らしていた。 ジャーナリストの片桐は艦内を撮影して回っていたが、乗組員の指示で自室にて待機するように促されていた。だが取材中の彼にとってこの緊急事態ほど「おいしい絵」をものにする機会は無い。夢中になって艦内中を走り回っていたのだが、いささか揺れの激しさが危なくなりはじめていたので指示通りに自室で待とうと向かっていたのだ。 ドンと再び大きく艦が揺れた。よろけた拍子にフィルムが手元を離れてしまう。「くそっ、フィルムが」 夢中で拾い集める。が、転がってなかなか集められない。こうなってくると嵐は邪魔なものでしかなくなっていた。 ったくもう、ステルス効果抜群の新鋭艦なら台風の目もごまかせよ。 さっき、砲雷長の菊池という男に話してもらった、イージス艦「みらい」の長所を皮肉った我ながらできのいい嫌味だな、と片桐は笑った。 それにしてもこの嵐の中心にあった雲。仕事柄、嵐や雲の写真を何度も見てきたがあんな迫力のある雲は見たことが無い。思わず何枚か仕事を忘れカメラに収めてしまったが早く現像してみたいな。片桐は年がいも無くそわそわとしている自分に気付き赤面した。仕事を忘れて、か。 そういえばここ数年プライベートで写真を撮ったことがあっただろうか。取材だとか仕事を抜きにした写真を撮っただろうか。他からの圧力など構わずに取りたいと思うものこそ撮るべきものであるはずだ。いや、自衛艦隊や隊員たちの写真を撮りたいと思わない訳ではない。むしろかねてから興味が有り、今回の取材も自分から進み出たもので願ったり叶ったりであった。 ただ、何も考えずに撮るという衝動的なものが自分とカメラを繋げてきたはずだ。撮りたいという衝動無しには良い写真など撮れはしないではないか。とはいえ、これで飯を食っていっている以上は取材をしない訳にもいかない。あの頃の自分とはシャッターを押す理由が違う。それすら分からずカメラを手にしているつもりもない。社に戻ってこれらを一つの記事に纏め上げるまでは「私」など無いのだ。それは承知している。 あの雲は自分に、初めてカメラを手にした時のような新鮮な衝動を思い出させてくれた。この衝動に従ってみたい。「みらい」の取材を終えたら休暇を取って自分の撮りたい物をたくさん撮ろう、仕事も何も考えずに。片桐は密かに心に誓った。 そういえば初めて自前のカメラで撮った写真も空と雲であった。
2005.07.29
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梅津は艦橋から外の景色を睨みつけていた。何故かこの雲を見ていると眉間に力が入ってしまう。窓越しに見える雲は一層に圧迫感を増して梅津の四肢を強張らせている。 海に出て35年と2ヶ月、こんな雲は見たことが無い。たかだか雲からこれほどまで胸に圧力を感じた事があっただろうか。今になって、先ほどの角松の報告を聞いたときの妙な感覚が生生しく理解できた。 私の第六感が呟いている。 「みらい」はなにか良くないことに巻き込まれようとしているのだ。 以前にもこれと似た感覚を覚えたことがあった。あれは梅津がまだ下士官で、レスキュー艇による人命救助の任務に当たっていた時の事である。 197X年某日。 海上自衛隊にレスキュー要請が入った。沖合にてレジャーボート転覆、乗っていた家族の救助が目的である。 梅津を含む自衛隊員数十名が現場に向かうと、岩礁に乗り上げてしまい非常に危険な状況のボートを発見した。 即座に海上、海中両面からの救助作戦が展開、梅津は海上からボートを固定する任務にあたった。現場が岩礁地帯ということもあり波が高く、ただでさえ荒れている海の中でも際立って危険な場所と化していた。熟練の自衛隊員でも命を危険に晒すような場面である。まして当時、梅津は自衛隊に入りたての新人であり、これが初の「実戦」であった。 それまで、プールでの海上レスキュー訓練を十分に積み優秀な成績を収めていた梅津を本物の海という魔物がその凶悪な姿を剥き出しにし襲いかかった。 一瞬でも気を抜こうものなら躊躇無く深い海の底へ引きずりこもうと、波という爪が梅津をとらえ、その牙は梅津を足元から襲いゆっくりとだが確実にその体温と精神力を奪い取っていく。全身が沈んでいく様な幻覚に何度も襲われ、梅津は恐怖と自らの小ささを知った。 そして、岩壁で削った手の甲の傷以上に梅津の心に深い爪痕が残される事となる。 それまでの梅津は「常に死と背中あわせ」という自衛隊員のストイックなイメージに踊らされていた。死という人間の結末を乗り越えた、ある種の到達点に登りつめていく感覚に酔っていた。 「人の為なら我が命をも投げ出せる」というのではなく、「人に向け投げ出す為に我が命がある」というあまりに偏った自己犠牲精神。そのヒロイックな正義感に酔いしれていた。 事実、かつての梅津は早く人を救い出したい、この命を投げ出すような場面に出会いたいと心中にしたためていたようだった。人の命を救う者が自分自身の命も大切にできないのでは冗談にもなるまい。その事に気付けるまでに自分は時間が掛かりすぎた、と梅津は思っていた。 そして今、あの時と同じ感覚を眼前の雲から受けている。この生生しさは、過去の自分との一時的な邂逅がもたらしているのか。ではなぜ、このような時に過去の事を思い出しているのだ。 梅津は左手をおもむろに見た。そこにあの時の傷はもう残ってはいない。年月という名の風に晒されてきた、無数のしわが刻まれている「今」の自分の手の甲だけが確かにそこに在った。
2005.07.20
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三、落雷 出港から四日目の未明。 「みらい」上空は不気味な雲に覆われていた。遥か彼方の天まで覆い尽くすが如く広がる積乱雲。 まるで黙示録の光景だな。定位置を離れ、外の景色を見ていた菊地は眼前の光景をそう評した。黙示録か。だとすれば、この光景を目にしている我々には祝福が約束されるというのだろうか。 国民の許容する自衛力を優に超える武力を有する、「みらい」というこの忌まわしき戦艦を祝福するものがあるというのか。 神よ、あなたはヨハネの黙示録において、歴史を直線的に解しある一点に終末を置く事により人の生を世界を意味付ける終末論を人類に与えたもうた。我々の航海にも同じように一点の結末と意味を与えてくださいますか?それとも眼前のこの雲のように明瞭な終末のない航路を突き進めとおっしゃるのですか? 菊地の脳裏を黙示録の一説がよぎる。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。 (ヨハネの黙示録 第三章 第七節) そう、扉は開かれ、我々の前には先へ進む航路しか伸びてはいないのだ。懐郷の地へと続く安楽の道は閉ざされている。眼前に在るはさしずめ全てを喰らい尽くさんとする怪物の口か。あるいは我々を地の底に引きずり込む深遠な暗闇か。 たとえ向かうは深き闇だとしても、振り返らずに進ましてはくれまいか。闇を闇のままにしておいてはそこに何があったのかすらも認識することもなきままに、暗澹たる思いが残るだけであろう。願わくば、この雲より吐き出されし「意思」が我々にとって暗中の灯火たらんことを。「みらい」の行き先を照らしだす希望の灯火たらんことを。 しかし、菊地のこの密かな願いは後に彼らを待ち受ける、試練と言うにもあまりに熾烈かつ驚愕な事態となって、彼自信を裏切る事となる。 菊池が外の景色に漠然とした不安にとられていたのと時を同じくして、情報センターに届いた気象情報を持って角松は艦橋に向かっていた。これは一仕事になるかもしれんな。「艦長。気象士からの報告です。ミッドウェー島西北に低気圧あり。気圧965へクトパスカル。風速40。なお勢いを増しているとのことです」 意外な報告に梅津はいぶかしがる。 月例予報には無かった天候の変化だ。何か妙な感覚を覚えた。しかし元来、海の天候など正確に予測し得るのは海に出てからであり、出港前からの月例予報などというものは、えてして外れるものである。 三十年以上も海に出ている梅津はその事を文字どおり身にしみるまで味わい、知り尽くしていた。このような事にいちいち動揺していては自衛艦の艦長など勤まるはずも無い。とはいえこの調子では嵐はかなりの規模のようだな、荒れるかもしれん。備えるに越した事はない、か。「非直の者も総員艦内配置に。時化に備える。僚艦との距離4キロに設定。連絡を密にせよ」「はっ」 艦内にサイレンが鳴り響く。途端に慌ただしく乗組員らが走り回り始めた。小栗もその流れにまみれ、右舷へ出て各員に指示を飛ばす。「柳以下三名は格納庫に回れ。波が高い、残りの者で各部固定を行うぞ」 雨で声が流されそうになる所だが小栗の声は良く通り隊員たちに届いていた。「こりゃ演習じゃねーぞ。本物だ」 と、若い隊員を気遣いながらも小栗自身、この嵐に戸惑いを感じていた。なんて不気味な雲が広がってやがる。入ってしまったが最期、二度と出てくる事が出来なくなるんじゃないか。 言い知れぬ不安が小栗を緩やかに包み始める。降りしきる雨はその勢いを増すばかりで乗組員らに安息の時を与えようとはしないばかりか、精神的にも彼らを徐々に追い詰めようとしていた。
2005.07.19
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「お父さんが海自で、その話を聞いているうちに憧れて防大へ。それだけ……ですか」 角松の部屋で片桐のインタビューが行われていた。「他に何かなくちゃいけないか」 角松の素っ気無い話の仕方とその内容に片桐はつっかかっていった。 やれやれ、嫌われているとは思ってはいたが、これでは記事にもならんな。片桐は溜息を漏らしそうになったのを抑えた。いかんいかん、これでは角松の思惑通りではないか。よもやここで引き下がるわけにはいくまい。「例えば国防意識に燃えてとか、自衛隊の現状を憂いてとか。もっとキャッチ―になりそうなのをお願いできませんかね」「俺がわかることは艦のことだけなんでね」 とあくまで軽くあしらう。なるほど、これはなかなかの堅物だな。この男から本気のコメントを取り出すのには骨が折れるぞ、と片桐は心中つぶやく。 だが、片桐もこの仕事に着いて短くはない。記者の仕事をしていればこのような相手に巡り合うのには慣れている。そんな時、埋め合わせの言葉で取り繕った記事を書く事など造作も無いことだがそれではつまらない。 片桐はなんとかこの男の核心に触れてみたいという衝動に駆られていた。この鐘、強く叩けば叩くほどに大きく鳴り響くかもしれんぞ。ジャーナリストとしての片桐の嗅覚が何かを確実に捕らえ始めていた。「じゃあ、どうなんです。今回の派遣でもし実戦になった時、海自は戦えますかね」 片桐はあえて挑発的に質問した。この手の男は自らの職務を小ばかにされる事には黙っていられず凛として反論するものだ。これでもすましているようなら、ひとまずはお手上げである。さあ勝負だ。片桐は角松がこれにのってくる方に賭けた。「片桐さん。あんた人を殺した事があるか」 角松が口を開く。 よし、かかった。 片桐は歓喜を押し殺し答える。「いえ」「俺達も同じさ。機械いじりは習っても、誰も本当の殺し合いはやったことがないしやりたくもない。ただ、あんたと違うとこは、この制服を着ているってことさ。命令とあらば殺る。それが俺達だ」 と言うと角松は目を閉じて、すぅと仮眠を取り始めてしまった。片桐はギュっと拳を握る。 これが自衛隊員―――。「武力」という責任を背負わされた者達か。その覚悟の片鱗に触れ、片桐は不覚にも気押されてしまっていた。なんと強靭な意志なのだろうか。 片桐は背中に冷たい感覚を覚え、窓が開いてはいないかと確認した。しかし船底に位置するこの部屋には、窓など在りはしなかった。 すきま風ではないのか。その事実にまた寒気を覚える。 しかし、その拳には汗と共に確かな手ごたえが握られていた。 外では、後一歩で満ちる月が闇夜を照らしている。明日には美しい満月の夜になるだろう。
2005.07.18
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「報告。一九時三0分、訓練終了しました」艦橋にいる角松に報告が届く。「よし、5分遅れだな」「なお、一分隊藤木二曹、二分隊柳一曹が負傷」「藤木?想定外の負傷か。どうした」「ハッ。ダメコン中に手を打撲した模様」 気概が足りん。と角松は思うが口にはしなかった。そういった艦内の雰囲気がどうあるべきかなどというのは、艦長の一存で決定するものだと思うからである。副長の俺がああだこうだと言うべきではないのだ。「まあ、よかろう」 と穏やかに口を開いたこの男こそ「みらい」艦長梅津三郎一等海佐である。「一月前の一0分から見れば、錬度は上がっとるよ」 と他の艦長が聞けば能天気とも楽天家とも取られるようなことを言うこの男が角松は好きだった。梅津は口調こそ厳しくはないが、相手によって主張を180度変える様な器用な真似はせず、一貫した態度をとってきたからだ。 先の環太平洋合同演習(リムパック演習)にも角松は梅津の指揮の下で参加していた。 リムパック演習とは、米国海軍が主催する太平洋地域最大規模の多国籍軍事演習のことである。米ソ冷戦時代の1971年にアメリカの呼びかけで西側諸国が集まり合同演習を行ったのが始まりで、日本も海上自衛隊が80年から参加している。ただし、直接的な攻撃の役割を一切担わずに、あくまで米海軍の支援という形での参加であった。 これに角松らが参加したとき、米海軍の水偵機が一機、自軍戦艦の誤射により打ち落とされるという悲劇が起きた。乗組員二人は海上に投げ出されたが、現場に急行した海上自衛隊護衛艦が角松の指示の下で迅速な救出を行い、奇跡的に両名共に一命は取り留めた。これに対し米海軍はシステムの誤作動であり、断じて人為的な事故では無いと言う事を強調。米軍内で解決可能であったものに自衛隊が介入したとして事態は軍事問題を超え、政治の世界へと舞台を移そうとしていた。 当然に評価されるべき角松らの行動も自衛官の権限を超えた独断専行な判断であり、由々しき問題だとして角松の責任が問われた。海軍上層部は政府との折り合いを取るべく角松の処分に踏み切ろうとしていたが、これに反対し角松をかばったのが梅津とその上官らであった。「彼らは自衛隊員として人命救助という職務をまっとうしただけです。政治責任を問うのならば、責任は艦長である私のみにあります」 と、自らの進退を盾に、若い角松らを救ったのである。「自衛官は自らの信念と職務に忠実であれ」 これが、梅津が角松らに体を張って伝えた事であった。この後、梅津は昇格の機会を大分逃してしまうが、献身的なその後の活動により、ついには一艦の艦長にまでなった。 この事件以来、角松は梅津を慕い、信頼している。曲げない信念をしっかりと持っている生粋の船乗りである、と思い尊敬しているのだ。 押し黙る角松に、梅津は笑顔で声を掛けた。「張り切りすぎちゃ先がもたんよ。緊張もほどほどにな」「金曜カレーはカツカレーか。食うぞー」 夕食時の「みらい」の食堂は騒々しい。すでにほとんどの席が屈強な海の男たちで埋め尽くされている。角松は、小栗と菊地の前の席が空いているのを見つけ小栗に話し掛けた。「航海長」「はっ」 席に着くや否や、角松は小栗に声をかける。いきなり役職で呼ばれ、小栗は気の抜けた返事をした。「聞いたぞ。鉄帽の上から部下を殴って気絶させる奴があるか」「ですがノロマに船を沈められちゃ、たまりませんや」 小栗の言い分はもっともである。いったん陸を離れれば四方を海に囲まれているため、船というものは常に自然の脅威にさらされているのだ。ましてや「みらい」は軍艦である。一人の行動如何が乗組員全ての命を奪いかねない。上官である小栗が厳しく下士官に当たる事が、結果、彼らの命を守る事になる。当の本人がそこまで考えていたかどうかはさて置き、角松は言葉を返した。「上が殺気だってどうする。上官に必要とされているのは冷静さだ。血の気の多い役はあいつらに任せておけ」「まだ五分遅れ…でしょ」 と、菊池が口を挟む。優雅にコーヒーを口に運び食後を楽しんでいたところを無粋な話題で邪魔されたのに少しご立腹なのか、生来の性格なのか。これに対し、ゆったりと皮肉で返す。「目標時間にはいまだ五分「も」達していません。まあよかろうって艦長の口癖ですが、あれではいつまでたっても士気は上がりませんよ」 角松はカレーを口に詰め込みながら聞いている。菊地はズズッとコーヒーを喉に流し込むと続けた。「今回、上が本艦を選んだのは梅津艦長のおっとり加減では独断専行の危険が無い、と判断したからでしょう。ですが今回はリムパック演習とは違って―――」「キエロ アセル エル アモール コンティーゴ」 菊地の言葉を遮り、角松がいきなりスペイン語で話した。「なんすか副長。それ?」黙ってしまった菊地に代わり小栗が聞く。「スペイン語でな、君を抱きたい、ってんだ。エクアドルに上陸したらミサイルよかこっちの方がよっぽど役に立つ。お前らも覚えとけ」 あの時の「スペイン語でも練習するか」というのは冗談じゃなかったのか。小栗は呆れてものも言えない。そんな小栗に代わり、菊地は精一杯の皮肉を込めて言った。「平和ボケも極まれリですな」「馬鹿言え。敵情を知るって立派な兵法じゃねえか」 と角松は笑っている。角松の言う兵法とは言わずもがな、孫子の兵法のことである。彼は入隊前から父の書斎に忍び込んでは軍法書に目を通していた。中でも孫子はお気に入りなのか会話の中でよく引き合いに出す。一呼吸置くと角松は真剣な眼差しで菊地に「いいか菊池。艦長を批判する事は許さんぞ。それこそ士気に関わる」 と諭した。だが菊地は穏やかな表情である。そう、この角松の梅津艦長への全幅の信頼こそが、菊地に安堵を与えているのだ。角松は先のリムパック演習の頃から梅津になにかと面倒を見てもらっている。同じ頃から菊地も共に梅津の下で時を過ごした。角松は梅津を親同然に慕い、尊敬している。すると何故か菊池も梅津を信じてみたくなるのだ。 突然、パシャとカメラのシャッターが瞬いた。「仕官どうし和気藹々ってところで一枚いただきました」 一人の男がカメラを構えて立っていた。「みらい」に取材目的で搭乗している雑誌記者の片桐である。出港前からやたら乗組員らの周りをうろつき、なにかとカメラをふりかざすこの男が、角松はあまり好きではなかった。取材、取材と誰にでもへこへこと頭を下げる様な軽薄さがどうも鼻につくのだ。「角松さん、インタビューしたいのですがね。少し時間をとってもらえますか」「飯の後にしてくれ」 と心底ウンザリしながら答える。まあ、適当に答えれば直ぐに帰るだろう。食事を終えると、二人は「みらい」艦内の居住区へと移った。
2005.07.14
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二、「みらい」出港二〇〇X年 六月某日 海上自衛隊 横須賀基地にて「出港用―意。舫い放てっ」 横須賀基地の港で四隻の自衛艦が出港に向け着々と準備をしているところだ。空は厚い雲に覆われ、雨が横薙ぎに降り続けている。甲板では乗組員がずぶ濡れになりながら作業をしていた。 沿岸に目を向けてみると、そこは大勢のマスコミ各社や自衛隊派遣に反対する人々で埋め尽くされていた。彼らの頭上には自衛隊海外派遣反対だとか平和憲法を返せなどの煽り文句が掲げられている。 天にも陸にも彼らの出港を祝うものは誰一人いない。それゆえ、彼らは海へ身を寄せるのか。 四隻とも出港準備が終了し、乗組員が甲板に集まった。「総員、帽振れー」 甲板に集まった自衛艦の乗組員が整列し軍帽を振った。生憎の雨に邪魔されているとはいえ荘厳たる風景といえよう。だが、彼らに向けられるものは歓声でも声援でもなく群衆の罵声のみであった。「憲法を踏みにじって。お前らそれでも日本人か―――」「馬鹿野朗、アメリカの犬め」 厳しい現実という名の声が、乗組員に浴びせられている。 さて、この艦隊の中心となる旗艦は「ゆきなみ」。それに護衛艦として新鋭イージス艦の「はるか」と「みらい」、補給艦の「あまぎ」が続く。これらにより構成される第一護衛艦郡が今回エクアドルに派遣される。 そのうちの護衛艦「みらい」の甲板上の乗組員達の中に、当艦の副長である角松洋介二佐もいた。そして沿岸から押し寄せる敵意の波に耳を傾けていた。 今回の派遣は、演習とはいえ武器弾薬を配備した威嚇的なものだ。平和憲法下の戦後日本がヒステリックな反応を示すのは当然過ぎるほど当然である、と角松は考えていた。こうしてみると日本は「戦後」から未だ解放されずにいるのだとつくづく痛感させられるものだ。 そして我々自衛隊はいまだ、その武力に根拠を得られずにいる。国民の支持を得られずにいる。それらを覚悟の上で自分は自衛隊に入隊し、今回の派遣にも参加したのではなかったか。しかし、理屈では理解できていても眼前に広がるこの人々のうねりは―――。 角松の動揺は他所に、「みらい」は新鋭イージス艦の名にふさわしい速度で岸を離れていく。それにつれて角松の思考も航海へと切り替わっていった。 出港から二日後。乗組員は各々の持ち場に着いている。「みらい」のCIC(戦闘情報センター)ではコンピューターによるシミュレーション対空戦闘訓練が行われていた。「敵対艦ミサイル高速で接近。124度。距離10万。機影3確認」 水測長が叫ぶ。角松は艦橋からこれに無線で指示を与える。「機関最大戦速。取り舵20度」 イージス艦「みらい」の心臓部がうねりをあげ、鋼鉄の塊を加速させていく。「も、目標よりアクティブ・レーダー。完全にロック・オンされています」 水測員の男は緊張の余り声が震えていた。シミュレーションとはいえ室内の空気は張り詰めたもので、普段の陸の生活では味わえ無いものだろう。そんな姿を見かねて声を掛ける男がいた。砲雷長の菊池である。「落ち着いてやれ」「はっ」 水測員は深く呼吸をし、息を整えた。が、どうも喉が渇き緊張は解けない。「VLS(垂直発射装置)発射用―意。イ、イルミネーター・リンク。発射5秒前…4…3…2…1、発射」 CICの中の空気がにわかに和らいだ。砲雷長である菊地は、ここCICの総責任者である。事は順調に運び、菊地は部下にねぎらいの言葉を掛けた。「よし、いいぞ」 もちろん実際に敵艦より攻撃を受け、迎撃のためにミサイルが発射されたわけではない。すべてシミュレーションである。そして、さらにシミュレーションは続く。 場面は「みらい」右舷に移る。ここには航海長の小栗と三名の部下が待機していた。そこにCICでのシミュレーションの結果が届き、ここでの監視訓練が開始される。「一機命中、二機目標接近。たのんますよ、砲雷長」 小栗が皮肉を混ぜ報告する。ミサイルを迎撃失敗した菊地に対する皮肉だが、無論二機のミサイル迎撃に失敗するのは訓練用に想定されたもので、菊池達CICメンバーの腕の問題では無い。これを受け艦橋から角松の指示が飛ぶ。「CIWS(近接防御火器)迎撃用意。チャフ発射」「敵ミサイル突入体勢」「CIWSコントロール・オープン」 「みらい」の高性能20mm多銃身機関砲が目標を補足する動きをする。イージス・システムにより一度認識さえすれば自動で目標を追尾可能である。「敵ミサイル本艦右舷に命中。柳一曹、負傷」 小栗が叫ぶ。ミサイルが着弾したものとしてシミュレーションを進める打ち合わせとなっていた。だが、負傷者「役」の柳はその事を知らされておらず、素っ頓狂な声で反応してしまった。「はぁ?」 これがまずかった。小栗は気が抜けた返事を訓練への意識がなってないと判断し、「きさまだ―――っ」と、柳の鉄帽の上からがこッと殴りつけ、哀れ柳一曹は気絶してしまった。「看護長に連絡。応急処置急げ」 さらに機関室では被弾時の浸水の対処―俗にダメコン(ダメージ・コントロール)と言う―の訓練が行われていた。浸水箇所に布地を当て、それを丸太で押し込み補強する。数名の乗組員が一斉に布を当てる。それを見ていた上官が叱責した。「お前ら学校で何習ってやがった。当て方が逆だ」あわてて当て直す。上官はさらに彼らを急かした。「ぐずぐずしていたら海の底だぞ」焦った一人が丸太で手をゴンと打ってしまった。
2005.07.13
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一、序章200X年 某日 某所にて 星一つ見えない夜空。真っ白な雪が視界を埋めていく。冷えた手に息を吹きかけて暖めようとすると、吐息は白々しく、妙に冷たくさえ感じられた。 海上自衛隊三等海佐の小栗康平は日本国内のとある自衛隊の施設に呼び出され、ある通達を受けた。それは小栗のような海の男にとって願っても無いもの、のはずであった。しかし、当の小栗はうかない表情である。 厚い雲の隙間から刹那、月が顔を覗かせた。三日月である。はっ、月まで俺を笑ってやがる。と、小栗は口を歪ませ自らを嘲笑した。 彼に与えられた任務は南米エクアドル争乱に伴う邦人の生命安全の確保と、それに平行して行われるエクアドル沖における米海軍との部隊展開の上での共同軍事演習への参加である。これに参加する新鋭イージス艦の航海長。小栗にとってはこの上ない名誉であるはずだ。ではなぜ小栗は素直に喜べずにいるのか。「洋介」 建物から出てきた男を小栗は呼び止めた。肌が浅黒く屈強な、いかにも軍人という風貌の男がちょうど正面玄関から出てきたところだった。男は立ち止まらず小栗の方に首をむけただけだ。小栗は尋ねる。「お前もエクアドルに?」 男は手に持った書類を見せると「ああ。さっそくスペイン語の勉強でもするかな」と、素っ気無く答えた。小栗は驚いて返す。「そうじゃないだろう。南米は紛争の真っ只中だ。武力衝突なんて日常茶飯事。そこに派遣されるって事は、だ。」 一呼吸を置いた。男はまだ歩くのを止めないでいる。小栗は追い掛けながら「俺らが武力を持つってのが現実になったってことだぜ。お前はなんとも思わないのかよ。」と両手を広げて問い掛ける。どうやら小栗という男には大きくジェスチャーをとりながら話す癖があるようだ。 さらに身振り手振りを加えながら続ける。「俺らが向かう先は戦場だ。そこに入っちまえば俺らが自衛隊だ専守防衛だなんていったところで、こっちが武装している以上は糞の役にも立たねえ。武力を持つってのはそういうことだろう?なあ聞いているのか、洋介」「康平」男は立ち止まり小栗を制した。「俺達は自衛隊員だ。この立場を選んだ時点でその問いの答えは出ている」「答えは出ている、だって?はっ、ぜひ聞きたいな。どんな答えがあるってんだ?」 小栗は興奮した様子で男の肩をがしと掴んだ。沈黙の時が流れる。風が清清しく二人の間を駆け抜けていった。雪はまだ深深と降り続けていて、二人の間を埋めていく。 古くより日本では政変を迎える時、雪が降っていたことが多かったように思える。二・二五事件しかりである。 男はおもむろに口を開こうとした、が「おやおや、航海長着任早々、副長に質問攻めか。その気合は出港まで取って置いて欲しいものだな、小栗三佐」「これは、これは。そちらこそ相も変わらぬ皮肉っぷり。お元気そうで、菊地三佐殿」と小栗はおどけてみせた。 男が話し始めるか否かの瞬間に細身の自衛隊員が口を挟んできた。 彼の名は菊地雅行。細身で容姿端麗。冷静沈着で理論派だがそれゆえ時に皮肉じみた事を口にすることも少なくは無い。小栗と同じ海上自衛隊三佐で今回のエクアドル遠征において参加自衛艦の砲雷長を務める者だ。 三人は防衛大学の同期で、それ以来の長い付き合いである。「菊地お前もエクアドルへ?」男は菊地に尋ねた。「ああ。他の連中もあらかた任官を受けたみたいだな」と答えると菊地は小栗に「洋介の言葉の通りだ。俺達が武力を持つ事の云々を言う時期はもう過ぎただろう。あとはいかに部下に犠牲を出さず、与えられた任務をこなすかだ」と突き放すように言った。 さて、この時点では菊地という男について十分に語られていないため語弊を招きかねないので記しておくが、決して菊池がこの自衛隊の武装という件に関して一切の懸念を抱いていなかった、と言うわけではない。 いや、むしろ自らの意思を心の奥深くに閉じ込め自衛隊員として与えられた任務を真っ当するという決意を固めていたという点で、小栗より辛い立場であったかもしれない。 事実、かつて防衛大学卒業も間近に迫った時期に、菊地は武力を持つ事の重責に悩み、任官拒否とそれに伴う自主退学を決意していた。結果、小栗らの説得もあり菊池は皆と同様に江田島での海上自衛隊の幹部候補生実習に参加し自衛隊への道を選んではいるが、小栗もそれを知っているためか、これ以上の討論を持ちかけようとはしなかった。 菊池も遠く明後日を見るかのように目を細めた。風がビュウと流れていった。また一段と風が強まったようだ。「寒いな」 小栗はふと思った。何か肌寒く感じる。 何がだ。何が寒いのだ。雪がだろうか。風がだろうか。月も見えないこの空がだろうか。あるいは割り切ってしまっている菊地の心に触れた事か。 思うにそれは時代なのだ。雪を降らすのも、風を吹かすのも、月を隠すのも、そして菊地の心を閉ざしたのも。小栗はかみしめる、時代のせいなのだと。寒い時代なのだと。 では何時から、何処から寒い時代がこの国を覆ったのだろう。分岐点があるとすれば、それはどの時点だったのだ。そう、いったいどの時点からこの国は―――。「康平、康平どうした」 自分の名を呼ばれて、小栗は思考が自分の思いも寄らぬ方向に進んでいた事に気付いた。俺は今、何故あんなことを考えていたのだ。「少し考え事を、な」と小栗が言うと、男と菊地は顔を見合わせ笑った。「なるほど、通りで雪も降るわけだ」 はっはっと二人が笑っているのを見て小栗はしばらく呆然としていたが、やっと我に帰りからかわれたと理解すると「この野郎」と男に掴みかかった。 菊地はそれを見てさらに笑っている。雪の上で大の大人である二人が転げ回っているのも滑稽だが、こんな時にもじゃれあっていられる二人を見て、心強くもあり、またさっきまでの自分の稚拙な不安が馬鹿らしく思えてきたのだ。 そう、いたずらに不安がっても仕方があるまい。自分も口にしたではないか。もう、その時は過ぎたのだ。 歴史は動き出している。多くの聡き先人達が時代という途方もないレンガをより高みへ上がりたいがために積み上げてきた。そして今、自分も小さいながらも「戦後日本の新たな選択」というレンガを手渡され、それを積み上げようとする側に立っている。 もしこれを一つ間違えようものなら、歴史という名の巨大な「バベルの塔」は強固なものにはなり得ないのだ。重圧があってしかるべきではないか。今、俺の双肩に乗っているのは日本そのものなのだ。俺は天才でも英雄でも無い。ただの人間だ。容易に受け止められよう筈も無いではないか。そう、今はこれでいい。これでいいのだ。 転げまわっている間に、書類が男の手から離れていた。 雪の上に中の通達書がひらひらと舞い落ちていった。その紙面には――― 海上自衛隊 角松洋介二等海佐第一護衛隊郡 護衛艦「みらい」副船長兼船務長を任ず
2005.07.12
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はじめに テレビの画面には、太平洋戦争時に米国駆逐艦に特攻を仕掛け、その若い命を散らした27歳の青年の姿が映し出されていた。 没後、青年は二階級特進したと言う。青年は階級のために、その命を懸けたわけではないだろう。御国のため、天皇陛下のため、であったはずである。 平成の世を生きる我々の眼には、それは異常に映るかもしれない。理解でき得るものでも無いかもしれない。 だが「今からたかだか60年前」、それらは常識であったのだ。 2001年9月11日、米国の経済発展のシンボルと言うべきビルが世界中の人々の目にもはっきりとわかる形で崩れ去った。 この事件が米国民ひいては世界中の人々に与えた衝撃、恐怖、そして悲しみは大きく、そして深い。 前大戦後、確かに大国間の戦争は無くなったと言えよう。しかしこの事件のように依然として宗教や民族問題に端を発する紛争は絶えず、それどころか、さらに憎しみの根を深くし、問題は複雑かつ凶悪化しているようにも見える。 ここで一度考えてみたい。日本国憲法の「恒久的平和」とは自国が平和であればそれで良い、というものなのか。戦争について考える事を放棄すれば平和なのか。戦争を知らない世代が増えてゆく。 戦争が日本人の記憶から失われていく。こんな素晴らしい事は無いのだが、このままの日本が「有事」を迎えるのは恐ろしくは無いだろうか。 当時の人々はすべからく身をもって普段の生活から戦争を学んでいた。今の我々は、戦争に思考を費やすとやれ右だの、やれ軍国主義だのと危険視される。 「そのギャップってなんだろうと言う問いから、この物語を始めたい」。
2005.07.12
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かわぐちかいじさんの「ジパング」大好きな小説家希望です!!2次創作に否定的な方も多くいらっしゃるかと思いますが、寛大な目で見ていただけたらと思います、、、wでは、素晴らしき壮大な抒情詩の幕開けです!!
2005.07.12
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