おおう どうちゅう えのもとたけあき
奥羽 道中 榎本 武揚
せんけつ あと とど きゅうせんぽう そうと いっち き なん ごう
鮮血 痕は留まる 旧 戦袍 壮図 一躓 気 何ぞ豪なる
しょういん りょう うご うしゅう みち はくうん てん かか ちょうかいたか
松陰 涼 は 動く 羽州の 路 白雲 天に掛って鳥海 高し
詩文説明
陣羽織の鮮血はまだ生々しく一敗地にまみれたが、あれは一寸のつまずきである。奥羽まで退き、松の木陰で涼を取りながら眺めた鳥海山は、雪を戴いてすがすがしく聳えたっている。
(
明治元年官軍江戸入城により、幕軍は最後に一戦を函館で交えんと奥羽の道を退く時の作)。
1、 榎本武揚が函館めざす途中松の木陰で涼をとる
(背景は奥羽の道筋でなく北海道の「 土方歳三嘆きの松
」の前で一休み(現在)を使い作成)
2、 五稜郭の説明版
(武田斐三郎成章が中世ヨーロッパの城塞都市を参考に設計した西洋式土塁)
3、 五稜郭周囲の堀の水は固く完全に凍っている (3月下旬なので驚きました)。
作者 榎本武揚 ( 釜次郎 ) 。(天保 7 年~明治 41 年) 1836 ~ 1908
幕臣円兵衛の二男として江戸に生まれる。弘化
4
年昌平坂学問所に通い江川太郎左衛門に学びそこで中浜万次郎に西洋の知識を得る。
20
歳で幕府の海軍伝習所に入り、航海術を習得する。同
5
年江戸築地の海軍操練所の御軍艦操練教授に採用される。文久
2
年
27
歳、オランダ留学生に選ばれて渡欧、洋学の習得に努める。慶応
3
年、オランダに発注した開陽丸
(
軍監
)
を廻送して帰国する。明治元年
(1868)
海軍副総裁に就任、江戸開城に際し、官軍への軍艦譲渡を拒否し、幕府艦隊を率いて逃亡。函館に蝦夷共和国政府をつくる。同
2
年新政府軍の攻撃を支えきれず、この間土方歳三は戦死、新政府参謀黒田清隆の勧告により降伏、五稜郭開城となり捕らえられて入獄。同
5
年赦免され、のち明治政府に出仕、開拓使に属する。同
7
年海軍中将に任ぜられ特命全権公使露国公使館在勤を命じられる。同
8
年千島・樺太交換条約を締結する。同
11
年にロシアより帰国。同
18
年外務大輔、議定官、海軍卿、駐清特命全権公使などを歴任、同
20
年に子爵を授けられ、その後文部大臣、枢密院顧問官、外務大臣、農商務大臣を務め同年
73
歳で没した。
1、五稜郭の中にあった箱館奉行所 (復元されたもの)
2、 箱舘奉行所入口に掲げてある内部の見取り図と説明。
3、五稜郭公園より五郎郭タワーを望む。

1、函館戦争図 2、五稜郭内の大砲 3、五稜郭タワー1Fにある土方歳三像と説明

1、五稜郭タワー1Fにある大砲。 2、松の木陰ならず五郎郭跡碑の前で一休み。
3、ペリー来航記念碑前
(泰平の日本の幕末にいきなり黒船を率いて幕末騒乱の基を起こした米海軍司令官ぺりー)