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父が7月26日、77歳の生涯を終えました。・父の最後の2ヶ月5月の連休中に熱が続き、検査の結果、左側の腎盂にがんが見つかりました。その時にはステージ4で治療のすべがなく、父は緩和ケアを選びました。6月末に、午後には下がっていた熱が下がらなくなり緩和ケア病棟に入院しました。入院中は調子も良く、お見舞いに来てくださった方達と楽しく談笑することもあったそうです。ただ、母と私は状態が確実に悪くなっているのは医師から知らされていました。目に見えて悪くなったのは最後の数日間で、それでも日曜日にはうなぎ丼を少し食べたそうです。月曜日に最後となった私との会話を交わし、火曜日に意識をなくし、水曜日の朝に亡くなりました。私たちに十分心の準備をさせてくれ、しかも長く苦しまず旅立ってくれたのは本当に心の救いでした。母もつきっきりでそばにいたわけではありませんが、たまたまそばにいた時に息を引き取ったそうです。寂しがり屋で甘ったれの父、一人の時に逝くのは嫌だったんでしょう。・「今年会わないと後悔する」という思いアメリカ人でボストン育ちの夫と日本で出会って結婚し、その2年後にボストンに移住すると決めた時、私たちは30代、私の両親は60代で、まだまだ双方とも「老いる」ということについて深く考えていませんでした。当時、まだ子供もいなかった私達は、日本とアメリカ半々ぐらいの生活が出来たらいいね、などと夢のようなことを話していましたが、アメリカでの生活が実際に始まり、特に子供が出来てからは、年に1度の里帰りもなかなか思い通りには行かないことを思い知らされました。ここ数年は夏休み中の航空券代もだいぶ下がりましたが、1名分が約1200ドルほどの往復航空券代(×家族4名)に日本での滞在費(実家に泊まっても交通費、小旅行費、交際費など諸々かかります)を含めると日本円にして50万円以上の費用を毎年捻出することはなかなか難しい。その都度、日本の父が経済的に援助してくれたり、両親がこちらに来てくれたりで、毎年とは行かなくても数年に一度は両親に会えましたが、両親が老いるにつれ、会うたびに「これが最後になるかも」と思うようになりました。遠いところに嫁いでしまったことに罪悪感を感じていた時期もありました。もっと近くに住んでいれば、連休の時などにちょくちょく会えたのに。もっと孫たちの顔を見せることもできたのに。そんなことを考えては憂鬱な気分になってしまったり。あることがきっかけで、子供たちは夫に任せ、1人で里帰りをしたことがありました。その翌年の夏には両親がボストンまで久しぶりに遊びに来てくれ、大きくなった孫たちを会わせることがあったのですが、それまでに親が亡くなってしまったら、私は一生後悔するだろうとずっと思っていました。今回会わなければ、私は一生後悔するだろう。。。そんな時が何度かありました。そして、そんな時は、いつもより努力して会うようにしました。それが何回か続き、ある時やっと、私は「親孝行として、もうやれるだけのことはやった」と思えたのです。それから会えたとしたら、それはもう「おまけ」なんだと思えるぐらいに。結果的に、生きている父に会えたのは、昨年の秋が最後になりました。あの、ボストンの空港での別れが、最後になったのだと。それが最初で最後の「おまけ」になりましたが、後悔はありませんでした。今年の5月に父が末期のがんであることを知らされた時、私は1年近い乳がんの治療を終えたばかりでした。放射線治療の跡がひどい日焼けのようになって痛痒く、抗がん剤治療による脱毛でほぼ頭は禿げに近く、とても日本に帰れるような状態ではありませんでした。それは父も母も十分に分かっていて、私に帰って来いとは言いませんでした。むしろ、帰ってきちゃダメと言っているぐらいでした。父の病状は医師もなかなか読めず、余命は2か月から今年いっぱいぐらいまでと言われていました。そう言われると、人間は勝手に長い方に期待してしまうもので、症状が進んで6月末に入院してからも、私は「夏いっぱいは少なくとも大丈夫だろうから、8月半ばぐらいになったら航空券代も安くなるし(笑)、顔を見に行こうかな」などと、呑気に考えていました。それが、入院してから2週間ほどした辺りから、容態は急速に悪化して行き、毎日のように母から電話で状況を聞くようになりました。ただ、それでも、母は死に目に間に合わないんだったら帰ってきてもしょうがない、という風に私に言ってくれていました。でも、私は考えました。この2か月間で自分の体調はかなり回復した。父の死に目には会えなくても、きちんとお別れはしたい。お葬式には帰りたい。それを母に伝えました。そんな私の気持ちを知ってからは、母は私が帰って来ることを心待ちにしてくれました。私には、1人になってしまう母を支えたいという気持ちもありました。父は、私が日本行きの航空券を買ったその日に亡くなりました。やはり死に目に会えなかったのは残念でしたが、おかげで日本までの道中、焦ることなく落ち着いて過ごすことが出来ました。これも父の粋な取り計らいだったと思っています。親から遠く離れて暮らしていれば、できることは限られています。あれもしたい、これもしたい、と色々思いは募ります。でも、離れているからこそ、自分で納得のできる線引きをすることが大事だと思うのです。もちろん、今回の私の場合、父は急に亡くなったわけでもなく、また、療養期間も2か月と短く、母がいたので看病は任せることができました。母のきょうだい達も助けてくれました。そういう意味では、私にとっては非常に恵まれた状況だったと思います。母の時はそういう訳にも行かないでしょう。でも、その時も、自分で納得の行く選択をしたいと思います。
2017.08.17
1. アイラブユーは「人間愛」に集約される。日本で英語の「アイラブユー」というのは、恋愛感情を表現するものという風に主に捉えられていると思いますが、私は、恋愛関係で言えば、切った腫れた惚れたの状況ではなく、そこから一歩進んだ人間関係になった時に頻繁に使われるようになる表現だと思います。 アメリカ人は家族や親しい友達同士で、アイラブユーを頻繁に使います。でも、いつでもどこでも使う訳ではなく、だいたい別れる時(毎朝会社へ行くといった日常的なものも含め)とか、手紙の末文や電話を切る時などに使います。あなた、日本語で夫や妻が配偶者に対し「行ってきます。愛してるよ」なんて言ったらいったいどうしたのかとビックリしますよね。じゃあ、日本人の方がアメリカ人より愛情が薄いのかというと、そういう訳ではなく、日本人の場合は、「それじゃまたね」「行ってきます」という中に愛してるよ、がすでに含まれているんだと思います。 子供も親に対してしょっちゅう、アイラブユーアイラブユーと言います。これは「ママ(パパ)大好き!」というところでしょう。親も子供に対してアイラブユーアイラブユーを連発です。要するに、「ママだーいすき!」「ママも〇〇ちゃんのことだーいすき!」ってことでしょう。子供のアイラブユーは誰に対しても「だいすき!」という意味と考えて良いでしょう。 このようにアイラブユーはいろいろな関係において使われますが、突き詰めればその感情は「人間愛」に集約されると思います。そして、アイラブユーの域になるまでには、時間の経過と関係の深さがある程度に達することが必要になります。まあ、子に対する親の愛は、子が生れた瞬間にその域に達するのかもしれませんが。 この前、(私が最近気になっている 笑)ジャスティンビーバーのコンサートの動画を観ていた時にも、アイラブユーに出くわしました。ジャスティンは現在、2年前に出したアルバム「パーパス」を引っ提げて全世界をツアー中ですが、そのコンサートで、表題曲でもある「パーパス」を歌うシーンがあります。これは、しばらくの間、荒れに荒れ狂って愚行を繰り返し表舞台からも遠ざかっていたジャスティンが「人は皆目的をもって生まれてきているんだ」ということに気づき、それについて説いている歌です。彼は(実は?笑)敬虔なクリスチャンらしく、この歌を歌うと感極まって毎回のように泣くんです。そうすると、近くにいるファンが、アイラブユー(もしくはウィーラブユー)ジャスティン!って叫んだりするんです。この時はどんな感情なんでしょう。もちろん、ジャスティンのファンで大好きなのには違いないけど、ただただきゃーきゃー叫ぶんじゃなくて、ジャスティンのことを大事に思っているとか、気にかけているっていう意味を持つアイラブユーなのではないかなと思うのです。(こういう時、日本のファンだったら、がんばってーって言うんじゃないかと思う) このように、アイラブユーの中には、大事に思う、気にかける、という意味も大いに含まれていると思います。ジャスティンがらみで、彼のマネージャーであるScooter Braunという人が(和訳された)インタビュー記事の中で「自分が愛している人間(ジャスティンのことです)が苦しんでいるのを見るのはつらい」というような発言がありました。これは、マネージャーと歌手の関係においてですから、日本語で言う「愛している」というよりも、「大事に思って気にかけている」という意味なんだと思います。 あ、さらにジャスティンがらみですが(笑)、ジャスティンは最近のインタビューの中でセレーナゴメスのことをI love her. って言ってました。もう2人の間には恋愛関係はないわけですから、この場合は、彼女を人としては今でも好きだということなんでしょう。これを「愛している」と訳しちゃうと未練があるように取られるかもしれません(あ、実際にジャスティンは未練があるって言われてますよねw)。もう恋愛感情はないけど、今でも相手のことを人としては好きで尊敬していて大事に思っている、って、そういう切ない関係ってありますよね(遠い目)。 どきどきわくわくの恋愛関係から一歩進んで初めてアイラブユーという関係になるんだろうという私の推察を裏付ける例をもう一つ。 ちょっと前にウィルス感染パニック系の連続ドラマを観ていたことがありました。そこで、万が一ウィルスに感染しているかもしれないからという理由で病院内で隔離されてしまった見知らぬ男女が恋に落ちるのです。で、そのうちの女性の方が感染してしまい、感染すると2日以内に死ぬことが分かっているので、感染まもなくして、彼女が彼に「アイラブユー」というのです。そうすると、彼が「ダメだよ、まだダメだよそんなこと言っちゃ。これから先、(治療法が見つかり)僕たちの間はずっと続いて行くんだからその時まで待たなくちゃ」みたいなことを言うんです。でまあ、やはり死期が迫ってもうダメだ、っていう時になって、彼が感染防止の防護服を着て彼女を抱きかかえながら、アイラブユー!今なら君も言ってもいいよ!って言うのです。 どうでしょう?(ちなみに私はアイラブユーはいまだにうまく言えません)(ちなみに私の夫は家族にはアイラブユーって言いますが、私には積極的には言いません。私とは日本人脳になるのか???>夫) (追記)家族の間でのアイラブユーは、「ここぞ」という場面で使うという意味でもあると思います。いま、思い出したんですけど、普段、私にはアイラブユーとあまり言わない夫が、アイラブユーと言った時のことを思い出しました。それは、私が2人目の子供を出産するときに予定帝王切開でこれからいざ手術という時のことでした。病院服を着て手術室に入ってきた夫が、開口一番、アイラブユーって言ったんです。これにはかなりやられました。もう、うるうるでした(笑)。
2017.06.01
ここで、オーケストラに入れるかもしれないプログラム=Intensive Community Program について解説。ICPプログラム概要 Website http://www.bysoweb.org/pages/19_intensive_community_program.cfm Video https://www.youtube.com/watch?v=7K6fuGUaZYE) 「才能と熱意のある子供は誰でも適切な訓練を受ければ優れた演奏家になれる」という理念の下、経済的事情などで楽器を継続して習うことが困難な家庭が集中する地域 (underrepresented communities) の4歳から7歳の子供達を隔年のオーディションで選抜し、週2回から始まる定期的な練習を経て数年後に直属のボストン青少年交響楽団(BYSO: Boston Youth Symphony Orchestras)のオーディションを受ける実力をつけるまで育成するという内容である。オーディションは外部から受験する子供達と同等に扱われ、ICPの生徒だからといって有利なわけではない。合格後は、楽団を12年生(高校3年生)で卒業するまで、楽器の貸出、個人レッスン、授業料補助といった支援が継続して受けられる。 楽器は弦楽器のみ、選抜された20名の子供達は、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスに各5名ずつ割り当てられる。 ボストンでは「貧困層の多くは黒人をはじめとする有色人種」といった事実はまだまだあり、そのためか、このプログラムの下に育成される子供たちの約7割は黒人だ。しかし、1999年に始まったこのプログラム、それまでBYSOの貧困地域の子供の割合(要するに非白人率)は1%だったのが、現在は14%まで増えたとのことである。 オーディションから選抜されるまで(9月~12月)1.学校から持ち帰ったオーディションのチラシ(9月)2.オーディション(9月末~10月初旬) 3.第1回目選抜・6回のお試しコース(10月中旬~11月下旬) 4.本選抜・楽器選択(12月中旬) FIRST YEARS(1年目)クラス概要 (1月中旬~6月初旬)1.アンサンブル練習(毎週水曜) 2.楽器ごとの練習(毎週日曜) 3.リサイタル(5月下旬) 4.Evaluation(5月下旬) 5.卒業コンサートへの出演(6月初旬)
2016.07.30
オーディションから選抜されるまで(9月~12月)1.学校から持ち帰ったオーディションのチラシ(9月)すべてはその1枚のチラシから始まった。 新学期が始まって間もない9月のある日、息子が学校から1枚のチラシを持ち帰った。学校の音楽の先生からもらったと言う。で、これ行ってもいい?と。内容を読むと、何やら楽器のオーディション。ボクちんこれがやりたいの、と息子が指差す先には、コントラバスを抱えて立っている男の子の写真が。だって、これコントラバスだよ。ママ、コントラバスって何?と聞かれて答えに詰まる私。とりあえず、大きいバイオリンだよ、と適当な答えをしてその場をしのぐ。さらに私は問いかける。これクラシック音楽だよ。クラシック音楽って何?じゃあ、あとでおうちに帰ったらYoutubeで聴いてみようね。あとね、これはオーディションするんだよ。オーディションってなに?うーん、テストみたいなものかな。ふーん、じゃあ机に座って何か書くの?うーん、それはちょっと違うかな。。。(いや、いったいどんなオーディションするんだろ。楽器の経験は問わないって書いてあるし。。。) という、親も子も全く分かっていないまま不毛なやりとりが交わされたのだが、息子はそれでも、ボクちんこれに行ってもいい?と引き下がらない。とりあえず家に帰って夫に話し、もう一度チラシを読んでみる。すると、これはボストン青少年交響楽団のプログラムの一環で、表現は丁寧だが要するにビンボーな地域の子供を選び抜いてオーケストラに入団できるまでの実力をつけさせるプログラムだという。 オーディション料はたったの5ドル。締切も迫っていたので夫が慌ててオンラインで申し込んだ。2.オーディション(9月末~10月初旬)半信半疑で申し込んだオーディションだったが、まもなくEメールにて案内が届いた。会場はボストン市内の私立大学のアートセンタービル内。オーディションは1時間ほど。その間、保護者に対しては担当者からプログラムの説明と質疑応答の機会が設けられるとのこと。 オーディション当日、息子は特に緊張する様子もなく、何人かの子供達と教室に入って行った。会場には近所のママ友が子供達をオーディションに連れてきており、このプログラム直属の交響楽団のコンサートにも何度も行っているのだと言う。 一方、子供向けのコンサートはおろか、クラシック音楽のコンサートなどほとんど行ったことのない我が家。私は4歳から高校3年生までヤマハのエレクトーンを習っていた程度。クラシックも、よく聴く有名な曲を知っている程度。というわけで、息子に対する期待も非常に小さく、本人もオーディションが終わった後はニコニコしながら楽しかったー、と教室から出て来て、かなりあっけなく終わった。 どんなことをしたのか尋ねてみると、歌を歌ったり楽器を試し弾きしたとのこと。楽器の経験も聞かれ、息子は学校の音楽の時間にフルートとバイオリンとキーボードをやったことがあると答えたそうなのだが、それさえも知らなかった私。。。 3.第1回目選抜・6回のお試しコース(10月中旬~11月下旬)プログラムへの選抜は2回にわたって実施される。まず約100名の応募者から第1回目のオーディションで36名へ絞り込み、その子供達に対し、毎週日曜日、感謝祭直前までの6回にわたって弦楽器の基礎を教える。各回の練習ではバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスから1つずつ、計2楽器を割り当てられて試し弾き。 オーディション時点で楽器の経験は問われないというのだから、いったい何を見て選抜するのかはズブの素人には全く知る由もなかったが、息子は無事一次予選を通過。この6回のお試しコースを受講することになった。これは全て無料。 息子は初心貫徹で、どの楽器を弾いてみても、コントラバスが一番いいと言う。最後のクラスでは保護者も招いてのミニ演奏会が開かれ、4つの弦楽器にそれぞれ振り分けられた子供達は、ピチカート奏法(弓を使わず、指で弦を弾く)でごく簡単な短い曲をいくつか披露し、最初と最後のお辞儀もみっちり仕込まれ、立派な演奏家達に成長した。 私は弦楽器など全く触ったことがないので、うわーちゃんと音が出てる!というまことにお粗末なレベルで喜んでいたが、中には演奏が終わってから子供に姿勢などを注意している親もいた。きっと本人も経験があるんだろう。私も娘のダンスの時は、娘の身体の向きや細かいところが何かと気になってしまったものだが、子供の習い事は、親は何にも知らない方が子供にとってはよいのかもしれない(笑)。 演奏会の後には一人一人に修了証書も授与され、後は36名から20名にさらに絞り込まれる本選抜の結果を待つことになった。 4.本選抜・楽器選択(12月中旬)最初は何が何だか訳が分からず、毎週始まったお試しコースにバタバタと通うので精一杯だったが、ここまで来るとせっかくだから合格して欲しいなあ、と親としても欲が出て来る。どこからどういう血が流れて来たのかは全くもって謎だが、コントラバスに惹かれた少年。これまで、これと言ってお稽古事などやっていなかった8歳の子供が自分からやりたいと言ってきたことである。しかも楽しそう。 そして、慌しいホリデーシーズンの真っ只中にその通知は来た。合格である。まもなくして先生からも電話で連絡があり、楽器はコントラバスかビオラを勧められ、息子は迷わずコントラバスを選択。息子のように年齢も背も大きい子はこの2つの楽器のいずれかを、小さい子はバイオリンかチェロを選ぶことになっているらしいので、規格も希望も一致して本当に良かった。全く何もかもが偶然とはいえ、幸運に幸運が重なって良い方向に向かっている。 その後、膨大な量の各種書類と共に教材・付属品購入リストも送付されて来たが、内容を見ても何の事だかさっぱり分からない。どんな物なのか全く脳内に絵が浮かばない。パソコンを初めて買った時に、実はパソコンだけじゃなくて付属品もあれこれ揃えないといけないんだけど、各付属品がいったいどんな物で何のために使うのかがさっぱり分からないのと同じ。 幸い、現在はネットという便利なものがあり、お勧めの弦楽器専門店のウェブサイトに行って、リストのものを順番にコピペして検索し、無事に買い物終了。 そして、気の遠くなるような量の書類を書かされ、健康診断書などのコピーを添えて提出し、ようやく準備は整った。
2016.07.30
受験を振り返る受験は6年生(ミドルスクール1年目)の11月の土曜日に実施される。新学期が始まってからおよそ2ヵ月後。ISEEと呼ばれる共通テストで、教科は数学と英語(国語)のマークシート方式。うちの娘が時間が足りずに一部空欄で出したヤツである。娘が現在通っている学校も、合格して来年度から通うことになる学校も共にBPS(Boston Public Schools ボストン市公立区・教育委員会)の一部であり、願書提出などは学校が一括でやってくれて、いわば内部受験みたいなものだが、だからといって合格に有利というわけでは一切ない。ISEE対策問題集というのも市販で出回っており、それに沿った2週間ほどの夏期講習が受験した学校の有志によって無料で開催された。娘はそれに参加したのだが、その頃娘は受験に対して非常に神経質になっていて、具体的にどんな勉強をしているのかがまともに聞けない状態だったので、その講習任せにしてしまっていて内容は全く把握していなかったのだが。受験が終わってよくよく考えてみると、このISEEのスコアが高くて、学校の内申書が良ければ合格するという、私がその昔、愛知県で高校受験した時と選考基準はほぼ同じなのだが、事前に統一模試などは一切なく、自分の子供がだいたいどのぐらいのランクにいるとか、合格率はどのぐらいなのかは一切分からない。まあ、分かったからといって合格する保証もないのだが、これはもう本番一発勝負である。でまあ、それでいて、受験すると合否結果とともに、スコアと順位が個人宛に通知されて来るというのがまたビックリである。記憶が確かならば、高校・大学あわせた私の受験人生で、試験のスコアと順位が送付されてきたことは一度もない。ちなみに、それによると、一部空欄で提出したにも関わらず、娘のスコアも順位もそれほど悪くなかった。いやもう要らぬ心配しましたよ。白髪増えただけ。そしてまた合格発表までの期間が長い。6年生の前期の内申書が選考の基準になるという点も影響しているのかもしれないが、11月初旬に受験して合格発表は3月半ば。しかも合格発表は何日に「予定(は未定)」されています、みたいな表記。。。しかし、内申書は日頃の勉強の成果を反映するとして、ISEEのスコアに関しては、時間の配分も含めテクニックを磨いたもん勝ちのような気もする。そう思ってネットを検索してみると、実はISEE対策の家庭教師派遣のウェブサイトなども色々あることが(受験が終わってからw)分かった。なんだ、それだったら進学クラスで3年近くもひーひー勉強させずに家庭教師を雇えばよかったのか(雇うお金ないけど)と思っても後の祭り。まあ、合格したからいいんだけど。それでもう一度、夏期講習の案内を見てみたら、「これは生徒を取り巻く経済格差(要するにISEE対策の家庭教師を払うお金のない家庭とある家庭の格差)をなくすため、本校の有志が無料で提供するものである」といった内容が記されていた。なるほど。というわけで、状況をあまり把握しないまま受験をさせていたという。。。
2016.07.29
はじめに気の遠くなるような長い受験・事務手続プロセスを経て、ようやく娘が今年の9月から通学することになる学校から入学案内が届いた。たぶんこれで本当に入学できるんだろう(笑)。娘はこの学校に7年生から6年間通うことになる。日本でいうと、中学2年生から高校3年生までのちょっと変則中高一貫。これは6・6制のイギリスの学校制度を踏襲しているかららしい。創立1635年と、イギリスから清教徒がボストン近郊のプリマスに上陸してからわずか15年後、まだアメリカがアメリカでなかった頃に開校したことが影響しているのだろう。地元では筋金入りの進学校として名高い学校であり、入学案内には任意とはいえ、数学の学力別クラス分けテストの開催についてのお知らせや、夏休み中のオリエンテーションについての案内が入っていた。がんばってねー。勉強の2文字からはすっかり縁遠くなってしまった母には別世界であるが、アメリカの公立(この場合はボストン市立)の進学校ってどんな感じなんだろう。どんな教育を施すんだろうという点ではきわめて興味あり。というわけで、これから折にふれて、潜入ルポ的に迫って書いていきたいと思います。皆様からの茶々・揶揄・ツッコミ・コメントもいつでも大歓迎よ!
2016.07.29
アメリカにはキング牧師デーという祝日がある。1月15日の同牧師の誕生日にちなみ、その前後の月曜日が祝日となり3連休になる。今年は1月18日。普段は特に何もしないのだが、今年は関連行事に参加してみることにした。ボストンの観光地の一つともなっているFaneuil Hallの講堂(があることも知らなかったのだが)で、市長をはじめ、主にアフリカ系アメリカ人の有力者らがゲストスピーカーとして招かれ、キング牧師の業績を時系列に一人ずつ紹介し、その合間に地元の青少年交響楽団の演奏が行われると言う形式のイベントで、無料で誰でも参加可能。キング牧師が黒人公民権運動の指導者であることから、ゲストスピーカーのほとんどがアフリカ系アメリカ人であり、また、一般の参加者にも黒い肌の人達が目立ったが、もちろん、白人もアジア系もいたし、肌の色が違う親子もいたり、色々。私が今年、なぜこの行事に参加してみようかと思ったかというと、それは、ここで演奏をした青少年弦楽合奏団の育成プログラムに息子がこの度合格し、昨日から練習を始めたからである。息子はコントラバスを担当することになった。この育成プログラムについて簡単に説明すると、これは、「子供は誰でも適切なトレーニングを受ければ楽器が演奏できるようになる」という理念の下、実際は経済的事情などで満足な訓練を受けられない地域の5歳から7歳の子供達を隔年のオーディションで集め、週2回の定期的な練習を経て2,3年後に直属の青少年交響楽団のオーディションが受けられるようになるまで育成するという内容である。楽器は貸し出し、授業料も申請が通れば補助が受けられる。小学1年生から高校3年生から成る楽団員たちは、いわば息子の先輩達である。ボストンでは「貧困の多くは黒人」といった事実はまだまだあり、そのためか、このプログラムで育成される子供たちの多くは黒人だ。でも、開始されてから約20年になるこのプログラムの結果、それまでは青少年交響楽団の1パーセントにしか満たなかった非白人率が現在では14%に増えたとのことである。私はクラシック音楽は全く分からないので、生の弦楽器の演奏が歴史ある建物の中で聴けるだけで感激してしまった。また、今まではコントラバスなど全く注目したことなどなかったのだが、今日はそちらばかりに目が行ってしまった(笑)。各ゲストスピーカーの話は、私の語彙力が足りなかったのか音が聞き取りにくかったのか(多分両方)、あまり良く分からなかったのだが、最後に30分ほどの長きに渡りスピーチをした人権活動家が結論として言ったのは、多様性を受け入れながら一つにまとまろう、というようなことだった(と思う)。そして、それがただの絵空事に聞こえないのは、ここに集った人達をはじめ、アメリカ(特にボストン)で、このことについて生活のさまざまな場面で常に考えさせられるからだと思う。そのスピーチを受け、恐らく牧師だと思われる男性に代わり、楽団の演奏により、アメージング・グレースなど、教会をはじめこうした機会には良く歌われる歌を参加者全員で歌った。最後はWE SHALL OVERCOMEという歌で、そのタイトル通り、まだまだ人種差別の残るアメリカだけれど、いつかこれを乗り越えようと、さまざまな背景をもった参加者達が声を合わせ、何人かは一緒に手をつなぎながら歌う姿からは、ポジティブで温かいエネルギーを感じ、受け取ることができた。死を以ってその人の時間は終わってしまうけれど、その心は後世に受け継がれていくという趣旨の投稿を最近目にしたのだが、まさにその通りだと思った。息子が受かったプログラムも、まさにキング牧師の「夢」を実現させた一つの形である。アメリカでの生活は本当に色々なことが起こって、決してばら色とは言えないけれど、時々、こうして希望に満ち溢れた場がもたらす幸せを噛み締めることが出来る。
2016.01.19
8年前の今頃、私はまさに手探りの状態で、娘の翌年度の学校選びのために地元の小学校を見学に回っていた。最初はアメリカ生活おきまりの Do you have any questions? と聞かれても、いったい何を質問していいのやらさっぱり分からなかったが、何校かを見学しているうちに共通点や相違点などがおぼろげながら見えて来た。見学日は決まっているので、同じように学校選びをしているお父さんお母さんとも一緒になることが出て来た。その中で、なぜかたった一人、私の中で印象に残るお母さんがいた。分からないなりにもわが子に合った学校を選んでやりたいという一生懸命な様子が私にも伝わって来たからかもしれない。「うちの娘はアートやダンスが好きだからそういうことに力を入れている学校がいいかな、と思っているの」というそのお母さんの思いが私の中にもあったからかもしれない。その後何度か見学会で一緒になったにも関わらず、特に連絡先を交換することもなく、その後、娘さんがどこの小学校に通うことになったのかも分からずそのままになってしまっていたのだが、その後も町のあちこちでその姿を見かけることがあった。それは市営バスの中だったり、通りの反対側だったりでゆっくり話す時間もなく、頻度もまちまちで、見かけるたびに「どうせこちらのことは憶えていないだろう」という思いは募るばかりで、どんどん声をかけにくくなってしまった。すると、おりしも数ヶ月前の娘の受験日の朝、受験校前の長い列のすぐ後ろにその親子が並んでいたのである。娘さんの着ていたジャンパーの旨には、大学進学率を高めるための学業支援をすることで有名な非営利団体の名前が刺繍されていた。きっとこの親子も勉強を頑張ってこの日を迎えたのだろう。今日こそは思い切って声をかけてみようかと思ったのだが、私自身、受験をする娘のことが気がかりで落ち着かず、またその機会を逃してしまった。もうこのお母さんと話すことはないだろうと諦めていた。ところが、その後の学校紹介フェアで、また見かけたのである。今日は特に緊張する場でもないし時間もたっぷりある。今度こそ話してみなければと思った。もちろん相手は私の事を憶えていなかった。でも、8年前と代わらず穏やかな笑顔で私を迎え入れてくれた。娘さんはそのフェアにも参加していたカトリック系の学校に行っているとのことで、その宣伝用のチラシを渡してくれた。そして、お互いにGood Luckと言い合って別れた。子供の学校選びは選択肢が広いと逆に悩んでしまいがちだ。そんな中で、少しの間でもその難しいプロセスを共有した仲間として、私はそのお母さんのことをこれからも忘れないでいたいと思う。そして、これからも学校選択の時期が訪れたら、このプロセスを丁寧に繰り返し、親子ともに手を取り合って悔いのない選択をして行きたいと思う。
2015.12.30
『用語の説明』BPS(Boston Public Schools):ボストン市公立校区 又は ボストン市教育委員会AWC(Advanced Work Class):BPSにある4年生から6年生向けの進学クラスという訳で、E中学校には非常に良い感触を持った。次は、地元のチャータースクールも見学してもう少し検討の幅を広げてみたい。P小学校もE中学校も、BPSが公開しているMCAS・PARCCの統一試験の成績などを見た限りでは、決してベストと言うわけではない。地元では、AWCのある小学校が一番「イイ」学校だという評判だ。それは、統一試験の成績が一番よかったり(でもそれは勉強が出来るAWCの生徒が集まっているからだとも考えられる)、地元に代々住んでいる人達にとっては自分も子供時代に通っていた学校だったり、ご近所さんの子供もたくさん通っていて居心地が「いい」という意味だったりする。どこの学校がイイか?あるいは良くないか?という話題になった時、P小学校はどちらのレーダーにも引っかからず、正直、注目度は低い。でも、最近は、一般にも開放する秋祭りでたくさんの資金を集めたり、独自の校章を作って制服のポロシャツの胸の部分に取り入れるなど、徐々に地元の他の学校の参考になりつつある。その他に参考になるのは、BPSのウェブサイトに掲載されている各校の各種統計である。数字だけでは比較しきれないことも多いが、私が一つ、必ず参考にするのは生徒の人種構成である。これは、白人の比率が高いから「イイ」学校とか、黒人の比率が高いから「危ない」学校とか、そういう単純なことではない。私がその比率を見る時に注目するのは、その学校の人種構成が、その学校が所在する地域の人種構成を反映しているかどうか、という点である。そして、その学校が地域の人種構成を反映していなくて、しかもある特定の人種が高い場合は、その人種の生徒(の親)が校内で力を持ち雰囲気を決めていて、結果的に(本人達は意識していなくても)排他的にもなっている可能性が高いので、そこをある程度、実際に学校に通っている人に聞いてみたり見学に行くなりして確かめた方がいいと思っている(学校に入ってみるまで分からない場合も多いが)。とにかく、周りの評判や統計の数字に惑わされず、独自の基準と優先順位を明確にした上で、実際に学校を訪れて自分の目で確かめることが重要だと思う。最後は、「あ、ここは自分の子供に合っている」という親としての勘が後押ししてくれるはず。「ピンと来る」かどうかということである。これは、日本でもアメリカでも世界中どこでも絶対に変わらないと思う。『その7:お・ま・け』へ続く
2015.12.30
『用語の説明』BPS(Boston Public Schools):ボストン市公立校区 又は ボストン市教育委員会AWC(Advanced Work Class):BPSにある4年生から6年生向けの進学クラス娘の転校先を探そうと決めた矢先、ちょうどいいタイミングでShowcaseと呼ばれる各校紹介の機会があることを知った。これは、ある会場に各校の担当者がブースを設置し、保護者や生徒の質問に答えるという形式の見学会で、とある平日の夜から我が町の高校を会場にして開催されるとのこと。家族全員で出向くことにした。これには我が町のBPS・私立・チャータースクール(特色のある公立校)の小中学校の担当者が参加しており、その他にも、隣町だが我が家のBPS学区内にもなっている町の中学校が参加していた。その「E中学校」の名前は、地元の親達から何度か聞いていた。いつも息子のバス停で一緒に待っていた男の子のお父さんも、中学校はそこがいいと言っていた。ただ、隣町とは言っても感覚的には「遠く」、また、時々電車の中で見かけるその中学校の生徒達(学校名の書かれた制服を着ているので分かる)を見た限りでは、その雰囲気が、いかにも都会育ちのちょっとすれた感じで、現在6年生として娘が通っている学校と何ら変わるところはないように見えて、転校先の候補としては特に考えていなかったのである。ところが、このShowcaseを見て気が変わった。こうしたフェアでの各ブースは、その学校の雰囲気がかなりはっきり表れるものである。E中学校は恐らく10校ほどの参加校の中でも1,2を争うほどに目立っていた。ちなみにもう一つ目立っていたのは、娘が3年生まで通っていて、そして現在2年生の息子が今でも通っているP小学校だった(笑)。どちらも、担当者だけでなく生徒も何人か参加していてPR係を担当し、学校の様子を紹介した写真がたくさん貼られたパネルが立っており、さらにE中学校の方はバックパックが当たるくじ引きがあったり、P小学校の方は校章が印刷された風船がもらえるというおまけがあった。P小学校の方は、校長のほかにこうした対外的なイベントの時には必ず同行する専任職員だけだったが、E中学校の方は教科担任やカウンセラーなども何人か来ていた。とにかく両校とも、人数の多さだけでも他を圧倒していた。娘は我が町にある評判の良いチャータースクール2校に興味があり、まずそちらのブースを訪れて情報を得て、そのうちの1つが気に入ったようだった。私は遅れて行ったので実際には話を聞いていないのだが、学習カリキュラムが充実していて色々な教科をまんべんなく学べること、課外授業も充実している点が魅力だったらしい。もう一つの学校は、主要教科(国語・数学)の時間が長い分、それ以外の教科は1年を通してではなく、半年ごとに入れ替わるというシステムで、しかもかなり勉強重視という印象を受けたとのことであった。会場にはピザやジュースなど簡単な食事も用意されていて、夫と娘がそれを食べている間、私は目に入ったその派手なブースのE中学校に行ってみることにした。ブースに近づくと、まず若い男性の教師が声を掛けて来た。理科と算数を教えていて、この学校に来て6年になると言う。この学校では、生徒が学校に来るのが楽しいから自分も来るのが楽しい、と、心からこの学校が好きなことが伝わって来た。その後、夫と娘に声をかけてブースに戻った時は、今度はカウンセラーの女性が声をかけて来た。最初は何を聞いていいのか分からなかった娘に、どんなことに興味があるの?との質問から上手に話を持って行ってくれ、そこからこの学校でも、勉強だけでなくスポーツやダンスなどの課外活動が盛んであることが分かり、このE中学校も急に候補として上がることになった。このShowcaseが開催された週の週末に、今度は学校で見学会があると聞き、これもまた家族全員で出向くことにした。土曜日の9時半から1時という時間帯で、朝寝坊して学校に到着したのは12時近くだったが、まず小さな教室に案内され、コーヒーとドーナツが提供され、それを持って回りながら(アメリカっぽいw)、担当者が学校の中を説明してくれた。学校に入った時、最初に思ったのは、P小学校と造りが似ているということだった。そして、学校を回っているうちに、土曜日で生徒達は学校にいなかったけれど、廊下に貼ってある伸び伸びした雰囲気の絵などから、P小学校のような、自由で楽しそうな雰囲気が伝わって来た。また、勉強面でも、先生達が学年ごとに毎週ミーティングをして、どの生徒がどの点でつまずいているかを元に強化すべき内容を週毎に設定し、各教科で連携しながら対応しているということだった。逆に、勉強について行っている生徒には、もう少し難しい問題にも挑戦させるらしい。どの学校も子供の学力を伸ばそうとするのは当たり前だが、それを個々の担任のやり方だけに任せるのではなく、学校共通の体制で継続的に実施しているという点は、非常に魅力的に感じた。また、一般的にSpecial Needsと呼ばれる障碍のある生徒達も同じクラスで学び、担任とその専門家の担任がチームになって教えているとのことだった。ツアーが終わって最初の教室に戻り、学校の様子を紹介した簡単なビデオを観た。写真がたくさん貼られたパネルもあり、そこにうちの近所の子が写っているのに気がついた娘が、「あ、これダニーだ」と声を上げると、担当者が「ダニーXXX?」とフルネームを言った。私達はその子の苗字を知らなかったので(笑)、知らないと答えると、その担当者は「ダニーはいっぱいいるんだよね」と、言いながら写真のところにやって来てその子の顔を見るとすぐ、「あ、これはダニー○○○」と別の苗字を言った。全校300名ほどの規模とは言え、この担当者もひとりひとりの生徒のことを良く知っているのではないかと思った。最後に設けられた質疑応答の時間では、娘は課外授業の方が気になったらしく、遠足はたくさんあるのか、クラブ活動はいくつ選べるのかなど、勉強とは全く関係ない質問に集中していた(笑)。私は生徒の素行に問題があった場合、具体的にどのように対応するのか、ということを聞いてみた。それに対しては、懲罰を与えるというよりは、具体的にどうすれば改善できるかを共に考える、というのが基本方針である、という回答を得られた。娘はAWCのある小学校で短い期間ではあるが、クラスメートからいじめを受けたことがあり、その時の学校側の対応に少々不満があったので、このE中学校の姿勢にはひと安心した。Showcase、学校での見学会ともに校長は姿を見せず、代わりに渉外担当の専門職員が複数名対応していたが、このポジションの人達が、これだけしっかり学校のことを把握していて質問にも明確に答えられるのであれば、きっと校長もしっかりしているのではないかと思った。娘の転校が具体化したら、校長にも是非会って話を聞いてみたいと思う。(追記:このE中学校、ずっと渉外担当の専門職員だと思っていた人が実は校長先生でした 苦笑。すごく若くて、いばってなくて、服装もすごくカジュアルだったので全然校長に見えなかったんです。。。)『その6:統計や周囲の評判に惑わされない』へ続く
2015.12.30
『用語の説明』BPS(Boston Public Schools):ボストン市公立校区 又は ボストン市教育委員会AWC(Advanced Work Class):BPSにある4年生から6年生向けの進学クラスでは、7年生からの学校選びにあたり、いったい娘にとってどんな学校が合っているのか、夫と改めて話し合ってみた。この3年弱の間、娘はAWCによって確かに学力は伸び、今後大学に入っても役立ちそうな勉強のやり方の基礎さえ身についた。AWC自体はメリットはあったと思う。でも、子供にとって学校は勉強の場だけではない。その点ではAWCのどちらの学校も親子共々不満はあった。娘が去る事になったP小学校の方がずっと「良い」。だから、4年遅れて入学した息子を今でもそのP小学校に通わせているぐらいである。では、私達はP小学校をなぜ「いい学校」だと思っているのかを整理してみた。日本とは共通する面も違う面もあって面白いんじゃないかと思う。(1) 学力の維持向上に力を入れている。当たり前のことではあるが、勉強はおろそかにしないで欲しい。でも、そのために具体的にどんな努力をしているのかが大事だと思う。公立校は子供を選べない。学区一のワルが入って来る可能性もある。学力もさまざまな子供が入って来る。それが当然、平均点で表示される各校の学力レベルに影響する。特にアメリカの場合は、英語が母国語でない子供もいるわけだから、その子達の試験が悪いから「成績の悪い学校=悪い学校」と決め付けるわけにも行かないだろう。それについて、教職員が一丸となって取り組んでいるかどうかがポイントとなると思う。試験の結果だけではなく、昨年度より試験の得点率が伸びたというような実績が上がれば、それはその小学校の頑張りを示すことになるのではないだろうか。P小学校は、毎年実施されるMCASやPARCCといった統一試験の成績の向上を具体的に目標として掲げ、達成した。(私はこの点についてはあまり注目していなかったので、具体的にどのように学校全体の学力を向上させたのかは正直分からないのだが。)また、教科書を学ぶ形式の勉強だけではなく、作文の発表会や、大統領選の年はクラスで二党に分かれての模擬選挙、「説得をする」というテーマの作文では、クラス全員が校長に宛てて「クラスでハムスターを飼いたい」という手紙を理由付きで書くなど、総合学習的な勉強もたくさんあって身になる。特に、五感全てを使って学ぶタイプの娘には合っていたと思う。(2) 主要教科以外の教科も充実している。初めてBPSの学校選びをした際にびっくりしたのは、同じ公立校でも、美術・音楽・体育・理科など、算数と英語(国語)以外の科目が小学校によってあったりなかったりすることであった。さらに、P小学校では過去に一度、予算の関係で美術や音楽の時間がカットされたことがあった。残念だが、アメリカの公立校ではこういった、突然の予算削減策は珍しくない。しかしその後、校長の努力もあって、新たに音楽や美術の教師を採用し、教科の充実にも力を入れている。音楽のコンサートでは、英語の歌だけではなく、ヒスパニック系の生徒が全校の9割近くを占めるという状況を生かし、スペイン語の曲や、生徒の出身の民族舞踊などを披露して、観に来た親達が喜んで大いに盛り上がった。(3)遠足、学校行事などが充実している。P小学校の一年は、新学期まもなくしての秋祭り、冬のホリデーコンサートや映画上映会、学年末には生徒の出身国を紹介するカルチャーデーなど、学校側と親子が集う機会がたくさんあり、親子にとって楽しい学校になっている。また、遠足も年に数回行なわれる。(4)子供の学力や性格を把握し、愛情を持って接してくれる。P小学校は各学年2~3クラス、全校で300名ほどの小さな学校であることも関係しているのかもしれないが、校長が子供ひとりひとりの名前を覚えていて声をよくかけているのには驚いた。小中高を通じて私の名前と顔を知っていた校長先生なんて、一人もいないんじゃないかと思う。校長だけでなく、各担任の先生も、娘の良いところも悪いところもよく分かっていた上で、娘を可愛がってくださっているのが感じられた。娘は少々難しい性格なので、それに理解を持った上で、娘の良いところを伸ばしてくれると助かる。また、私が用事で学校に行った時は、今でも転校した娘の様子を必ず聞いてくれる。(5) 校長の存在感が大きい。リーダーシップが強い。P小学校の校長はとにかくどこにでも出没する(笑)。毎朝登校時にはカフェテリアの入口に立って一人ひとりに声をかけ、学校行事の時は必ず顔を出す。校庭の雪かきも率先してやる(笑)。息子が「校長先生はイイ校長先生なんだよ」と言ったことがある。なぜ?と問うと、「皆に何かをしてもらいたいとき、先生も手伝うから」と答えた。当時、まだ1年生だった息子にも、校長先生は子供にとって身近で、学校のために「頑張っている」のが分かるというのは素晴らしいことではないだろうか。この学校では、様々な事情から校長がたびたび代わり、今の校長が就任した当時は、その半ば強引なやり方に教師陣のとまどいも保護者の不満も大きく、決して順調満帆というわけではなかった。しかし、数年にわたる粘り強い校長の努力が周囲の理解を促し、実を結びつつある。また、この一連の話の冒頭でも少し触れたが、アメリカ(少なくともボストン)の学校では校長の権限が非常に強く、校長いかんで学校ががらりと良くも悪くも変わったりする。上の人を周りが立て、後は下の衆がアリの集団のように細かく気を回し合いながら皆で頑張る、といった雰囲気と物事の進め方の土壌の中で育った身にとってはあまりピンと来ないのだが、アメリカというのは、大統領制という政治の世界でも見られるように、強力なリーダーシップの下にその他大勢が動くと物事が上手く行くようで、学校もその例に漏れない。(6)校長以下教職員が一致団結して、学校を良くするために取り組んでいる。私が、この点についてP小学校側の努力を非常に強く感じたのは、保護者の学校への関わりを大きくするための取り組みだった。先ほども触れたように、P小学校はヒスパニック系の生徒が全体の9割を占める。そのため、親はスペイン語話者の移民が多く、英語がほとんど分からない人も多い。言葉が通じない上に、アメリカの教育制度もよく分かっていない人も多いから、学校への関心が薄かったり、関心があってもどういう風に関わっていいのか良く分からない。それをどう変えて行くか、という点について、PTAと学校側が何度も話し合った。保護者会にはスペイン語の通訳をつけようとか、当日の朝に保護者会の開催を知らせるチラシを配ろうとか、いや、でも、もしかしたら母国での教育を満足に受けられなかったためにスペイン語も読めない保護者もいるんじゃないかとか、色々な意見が出た。校長も就任当時は挨拶程度のスペイン語しか出来なかったが、学年末までには事務的な連絡ならスペイン語で話せるようになった。新規の教員募集の際には、積極的にスペイン語と英語のバイリンガル教師を採用した。年度初めの各クラスの説明会で、スペイン語で説明が始まると、多くの保護者の顔がぱっと輝くのが分かった。学校全体が、「状況がよく分からないから興味も持てず関わらない」といった悪循環から少しずつ抜け出し、様々な場面で、参加する親の姿が増えた。今年度はPTA要員が少なく苦労しているなど、年度によって波はあるが、ここまで努力を続けているのは素晴らしいと思う。(7)専門性を持った教職員構成の下、分業化が進んでいる。「専門性」とそれによる「分業化」というのは、アメリカのあらゆる世界での基本といえる。たとえば医療業界などはその最たるもので、こっちは身一つで病気にかかっているのに、「いやあ、ここから先はボクの専門じゃないからあっちの医者に行って。紹介するから」などと言われてしまう(笑)。その代わり、その専門医はその分野ばかりを「この道一筋ン十年」とやっているので、扱っている症例も豊富で安心確実、という面もある。それと同じで、教育界でも、教師は教科を教える、カウンセラーは心の問題や発達について扱うなど、専門性と分業化が進んでいる。その中でもアメリカ独特だと思われるのは、対外関係を専門に担当する職員がいることだろう(ただし、必ずいるというわけではない)。アメリカの学校は、地域との連携も密接で、外部から専門家を招いたり、ファンドレイジング(資金集め)行事の際には外部の関連機関の協力を得るといった機会がちょくちょくある。P小学校には、それを一手に引き受ける職員がいる。Community Field Coordinatorと呼ばれるこの職員は、もともとはP小学校の教師だったが、今の校長が就任してから1年後にこの職が設置され転向した。こうした仕事は準備など多岐にわたり、教師が子供達の勉強を教えながら両立できるような仕事ではない。それを専任の職員が指揮を執ることにより、作業の円滑化と教職員や保護者の負担の分散化というメリットがある。P小学校の学校行事が充実していたり、子供の学力が向上しているのには、この要素も大いに貢献しているのかもしれない。さて、これに対し、AWCのあった小学校の方に限っていえば、勉強も算数英語以外はぱっとせず、ダンスの時間があったぐらいで音楽も美術もなく、コンサートといった学校行事もほとんどなかった。決して悪い学校ではなかったが、娘がわくわくするような学校ではなかった。親にとっても、子供が4年生になって急に新しい学校、新しい先生、新しいPTAという環境で単に「馴れていな」かったのかもしれないのだが、それを差し引いても、さして魅力は感じられなかった。まず校長先生がどの人なのか1年間ぐらいはっきりしなかったし(笑)、先生もばらばらで、一部のPTAの母親達が楽しそうにイベントなどをして盛り上がっていたが、生徒や保護者全体のニーズについて、校長をはじめ教職員もPTAも把握していないようだった。担任の先生も、朗らかな人ではあったが、娘の性格も、ちょっとしたトラブルなどクラス全体で起きていることも、よく見ているようには感じられなかった。そう。読み書き算数だけじゃなくていろんな教科があって勉強も頑張るけど、ただただ勉強勉強と追い立てるのではなく、クラブ活動や楽しい学校行事、遠足もいっぱいある。校長以下教職員がそれぞれの専門性の下に一致団結して、ひとりひとりの子供達のニーズをきちんと捉えた上で愛情をもって接してくれる。当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、そういう学校に娘を通わせたい。という点で、夫と私は意見が一致した。その上で、学校選びを進めることにした。 『その5:学校紹介フェアへ』へ続く
2015.12.30
「用語の説明』BPS(Boston Public Schools):ボストン市公立校区 又は ボストン市教育委員会AWC(Advanced Work Class):BPSにある4年生から6年生向けの進学クラスそして進学クラスAWCの4年生の新学期。新しい学校、そして新しいクラスには問題なく溶け込んだ娘だったが、大量のAWCの宿題にはなかなか馴れず、付き合う親も非常に大変な思いをした。4年生で毎日最低でも2時間分の量、しかも土日も同じ量が出る。AWCの授業内容については、受験テクニック、というよりは、Exam Schoolでついて行けるような学力をつけるために、普通クラスに比べて高度かつ多岐にわたる内容を学ぶ、という印象を受けたが、とにかくこの2年間、娘は本当に頑張ったと思う。特に、国語(英語)の書く能力は飛躍的に伸びた。また、この学校を今年の6月に卒業し、同じ市内の中学校の6年生のAWCクラスに進学した際は、逆にラクに思えるようになったらしく、これまでと同じような量の宿題を毎日与えられているにも関わらず、泣いたり(笑)パニックになったりもせずにこなせるようになった。こうして去る11月、娘はExam Schoolsの受験を迎えた。試験は算数と国語(英語)のみで、全問マークシート方式。夏休みから新学期が始まって試験直前の土曜日の午前中は、この試験対策クラスも休まず受講し、4年生から一緒に頑張って来た同じクラスのお友達と励まし合って準備万端で迎えたはずの受験だったが。試験が終わって迎えに行くと、娘は時間が間に合わなくて全問回答が出来なかったと言うのである。試験対策の特別クラスでは当然、時間配分のような受験テクニックについてもやっているようだったので、試験官から「あと5分です」と言われた時にまだ出来ていなかったら、残りの問題をとにかく終わらせるということも出来たのに、それをやらなかったとは。でも、試験が思うように出来なくて、人目もかまわず道端でわんわん泣いて打ちひしがれている娘を見たら何も言えず、付添いの夫と共に抱きしめて慰めるしかなかった。ただ、まだまだそこは6年生、その週末はさすがに落ち込んでいたが、週が開けて学校に行ってお友達と再会してからは気持ちも落ち着いたようで、その後は日常の生活を続けながら親子共に3月の合格発表を待っているところである。でも、試験が思うように上手く行かなかった今、3月にExam Schoolsのどこにも合格しない可能性が出て来た。娘は今の中学校に残ることは出来るのだが、残りたくないと言う。この中学校にはAWCの6年生を終えるために便宜上通っているだけで、学校自体は好きではないと言うのだ。私も、「どうせ1年しかいないし」という気持ちで関わっているせいもあるとは思うのだが、どうも学校の様子が見えて来ず、何よりも娘が嫌だと言っている気持ちを無視するわけには行かない。学校に行きたくない、という子供の姿を見るのは親にとって何よりも辛いことである。というわけで、現在の中学校に7、8年生と通うことも選択肢として残しつつ、受験校に合格しなかった場合のために、7年生からの転校先を模索することになった。ちょうど、学校見学会が始まり、出願期間が始まる年明けが控えている時期でもある。3月までの合格発表を待ってから動いたのでは、すでに他の学校の出願期間は終わってしまっている。後悔しないために、今から親子共々行動を開始することにした。「その4:「イイ」学校ってどんな学校?」に続く
2015.12.30
『用語の説明』BPS(Boston Public Schools):ボストン市公立校区 又は ボストン市教育委員会AWC(Advanced Work Class):BPSにある4年生から6年生向けの進学クラスBPSに通う子供にとって、学区は他市に比べて広く選択肢が多いとしても、一番シンプルな形は、小学校:Kindergarten~5年生中学校:6~8年生高校:9~12年生に通うことである。日本と違い、公立校でも高校受験はなく、学区内の高校に通うことができる。そして、この形は、ボストン市だけでなく、他市でもだいたい標準の形である。娘も第2希望で入学できたP小学校にK1(4歳児クラス)から5年生まで通う予定だった。ところがBPSにはAWC(Advanced Work Class。エーダブリューシーと読む)といって、BPS内のExam Schoolsと呼ばれる3校の進学校の受験対策に特化したカリキュラムがあり、その選抜試験に娘が合格したことから状況は大きく変わった。まず、AWCの選抜試験は3年生の途中でBPS内の全小学校にて一斉に実施される。教科は国語と算数で、一定の成績を得るとAWCに編入する資格が得られる。AWCは4~6年生の3年間続き、6年生の11月にExam Schoolsを受験する。合格発表は3月。もし不合格だった場合でも、6年生で既に在籍している中学校に8年生まで残ることは可能である。ここで、このExam Schoolsの3校がシステムを複雑にしているのは、この3校が7年生から12年生までの学校であるということである。中高一貫ならまだしも、どうして7年生という中途半端な時期から始まるのか。日本で言えば、中学校2年から高校3年までの一貫校ということだ。したがって、Exam Schoolを受験する場合、6年生で中学校に入学後、半年足らずで受験し、もし合格した場合はたった1年でその中学校からExam Schoolへ転校することになり、非常に慌しい。(追記:Exam Schoolsが7年生から12年生の6年間なのは、アメリカ独立前のイギリスの教育(6・6制を踏襲しているからだそうです)AWCのコースは分かりやすくたとえれば、日本の大手予備校の「東大合格コース」みたいなものである。でも、その予備校のコースを受ければ東大に合格する確率は高くなったとしても合格する保証はないのと同じように、AWCに入ったからと行ってExam Schoolのいずれかに合格する保証はない。また、予備校に通わなくても東大を受験して合格する生徒もいるように、AWCに入らなくてもExam Schoolは受験できる。実際、Exam Schoolの受験は、AWCに在籍していないBPS内の学校、そして他市の公私立の学校から受験生が集まる。また、AWCはBPS内の全ての小学校にあるわけではない、という事実がまた状況を複雑にしている(書いててだんだんめんどくさくなってきたw)。たまたま3年生まで通っている小学校にAWCのクラスがあれば、4年生の進級時にクラス替えのような形でそのAWCに編入できるが、AWCがない場合はAWCのある学校に転校しなければならない。これが娘の場合にあてはまった。つまり、娘は3年生の終わりで、同じ町の中ではあるが、AWCのある小学校に転校して4、5年生と在籍し、その後6年生向けのAWCのある市内の中学校に入学して11月にExam Schoolの受験をし、そしてそれに合格すれば再度その学校へ翌年度から転校、と、転校に転校を重ねるという、非常にめまぐるしい状況に陥ってしまったのである。これが、K-8とよばれる、Kindergartenから8年生までの小中一貫校の中にAWCがあれば、たとえAWCに編入したとしても、4~6年生のAWCの期間は一度も転校をせずに済む。娘が通った小学校のように5年生までの学校はK-5と言うが、他市ではこのK-8の形態が増えており、BPS内にもいくつかある。娘の日本語学校のお友達で、やはりBPS内のAWCに入った子は、運よくAWCのあるK-8の学校に通っていたので、6年生の終わりまで一度も転校をしなくて済んだ。娘は非常に社交的で新しい環境にも早く馴れる子なので、転校による問題は起こらなかったが、これも子供によるのではないかと思う。それでも、これまで慣れ親しんだ学校やお友達と離れるのは悲しかったらしく、選抜試験に合格したことを担任の先生から知らされた日は、喜ぶどころか泣いて帰ってきたほどである。もちろん、AWCの選抜試験に合格したとしても、普通クラスに残るという選択肢もある。親としては、せっかく与えられたチャンスを無駄にするのは惜しまれると思う反面、娘にとってはもちろん、親にとっても5年間で良好な関係を築き、思い入れのある学校となっていた場所から娘を引き離すのはいたたまれなかった。そこで、転校先となる学校のAWCの授業を親子で見学し、娘の気持ちに従うことにした。転校先のAWCの担任の先生も快く受け入れてくださり、国語の授業を見学させてもらうことになった。5年生、つまりAWC2年目の2学期だったと思うが、私はその授業の様子を見て面食らった。これはもう話に聞いたことのあるアメリカの大学の授業そのものである。生徒達は前日に小説のページを大量に読まされ、それを元に、小さなグループに分かれて先生の用意した質問表にしたがってディスカッションをし、質問に答えをまとめるという内容だった。というわけで、私はその授業の内容ばかりに気を取られていたのだが、娘はまだそこは子供なのか、その授業の終わりにクラス全員に聞いたのは「みんなは他の小学校から来たと思うんだけど、新しいこの学校に来てどう思いましたか?」という質問だった。その質問に対し、「最初は知らない人ばかりで心細かったけど、先生は新しいクラスに馴れるようにしてくださったし、お友達も出来て今は楽しい」といった答えを多く得た娘は、「お勉強は頑張りたいからAWCに行きたいけど、今までの学校とお友達と離れるのは嫌だ」というこれまでの気持ちから一歩前進することが出来て、結果的にはAWCに行くことに決めた。AWCのある学校の選択にも4歳児クラスの時のような抽選プロセスがあったが、見学に行った学校のAWCへの入学が運よく5月末には決まった。幸い、4歳児クラスからずっと同じクラスの仲良しさんもその学校のAWCに編入することになって心細さもぐっと減り、9月の新学期を迎えることになった。『その3:7年生はどうする?』 に続く
2015.12.30
目次「イイ」学校って? その1:背景編「イイ」学校って? その2:4歳児クラスから6年生まで「イイ」学校って? その3:7年生はどうする?「イイ」学校って? その4:「イイ」学校ってどんな学校?「イイ」学校って? その5:学校紹介フェアへ「イイ」学校って? その6:統計や周囲の評判に惑わされない「イイ」学校って? その7:お・ま・け9月が新学期のアメリカは、11月から翌年の2月辺りまでが学校選びの時期となる。我が家では、今年の9月に6年生になりミドルスクール(中学校)に通い始めた娘の翌年度の転校先を検討することになった。ミドルスクールは6年生から8年生まで。日本で言えば、中学2年生に進級するにあたり学校選びを再度やろうとしているのだから、これは時期的には中途半端。どうしてこんな状況になってしまっているのか。これは、現在、娘が通っているBPS(Boston Public Schools:ボストン市公立学校区 or ボストン市教育委員会)の複雑な学校システムが大いに関係している。このBPS独特のシステムとそれに半ば翻弄されることになってしまった娘の進学状況、そして、その経験を通じて、「イイ」学校というのはどういう学校なのか?ということについて、一人の親としての考えをここに、この時期にまとめておきたいと思う。さて、まず初めに、BPSの複雑怪奇な?学校システムについて説明しておきたい。背景としてこれを説明しておかないと、いったい何が今、娘を含め我が家にとって問題になっているのかサッパリ分からないと思うからである(笑)。アメリカの一般的な学校制度は次のとおりである。Elementary School(小学校): K(キンダーガーテン)~5年生Middle School(中学校): 6年生~8年生High School(高校): 9年生~12年生小学校の最初にあるKindergarten(キンダー)という学年は、9月1日に5歳(市町村によって若干違いあり)になっていることが入学条件であり、ほぼ日本の小学校1年生に当たる。日本で「幼稚園」は「Kindergarten」と英訳されることが多いので誤解しがちだが、アメリカのキンダーガーテンというのは小学校の一部であり、読み書き算数が本格的に始まり、学習内容はれっきとした小学校のそれである。BPSの場合は、このキンダーガーテンが次の3学年に分かれている:K2(ケーツー):5歳入学K1(ケーワン):4歳入学、そしてK0(ケーゼロ):3歳入学これはBPS独自のシステムなので、他市で子供を通わせている親にK2と言っても通じない(笑)。他市ではキンダーガーテンと呼ばれる学年がBPSではK2に当たる、と言うことになる。K2からはいちおう義務教育ということで必ず入学できるが、K0とK1はクラス数が少なく、小学校によってあったりなかったりもする。娘が小学校に入学する年齢になった時は、この複雑な制度を、しかも英語で理解するのは至難の技でありそれはもう非常に苦労した。当時、近所には日本人はおろかアメリカ人の知り合いもいなくて、情報収集はBPSのウェブサイトのみ。現在では、Countdowntokindergarten.orgという、見た目も可愛くて内容も分かりやすいウェブサイトが出来たが、当時はBPSの、いかにもお役所が作りましたという感じの、文字ばかりで味気ないウェブサイトのみで、それを必死に読むしかなかった。その後、娘より4歳下の息子のお友達の地元ママ友の間では、アメリカの教育など全く受けたことのないガイジンのこの私が誰よりもこのシステムに精通しており、ひととおりレクチャーが出来るようになったぐらいである(笑)。娘の時は、そもそも3歳児クラス(K0)が存在することさえ知らず募集の時期を逃してしまったため、その翌年に4歳児クラス(K1)の入学を目指して学校選びをすることになった。そしてまたこの学校選びが一筋縄では行かない(笑)。ボストン近郊の学校のほとんどはいわゆる「学区制」で、住んでる家の場所で通う学校が決まるが、BPSの場合は選べる学区がかなり広い。さすがに広すぎるので最近は隣町までぐらいに縮小されたが、娘の頃はもっと広くて、ボストンに土地勘がある人ならどれだけ広域なのか分かると思うが、私達は空港の近くに住んでいるのに、学区はオールストン、ブライトン、チャイナタウン、バックベイ、ドーチェスターの一部が含まれていた。4歳の子供をスクールバスでそんなに遠くまで通わせるのは現実的とは思えず、我が家のある地区で、しかもK1がある学校に選択肢を絞ることにしたのだが、それでも5校あった。これを、School Preview Timeと呼ばれる学校見学会が実施される11月、12月の時期に各校の開催日に見学に行って学校選びの参考にし、1月~2月に願書を提出、3月にコンピューター抽選によって学校が決まる。学校は第1希望からいくらでも希望は出しても良く、希望順に順位をつける。ただし、K0とK1は定員数が少ないため、抽選に漏れることもある。たとえば息子の場合は、K0の時はどこにも入れなかった。さて、この流れにしたがって出願し、娘に割り当てられたのは、第2希望の小学校だった。この学校を希望の上位にしたのは、・校長の人柄に惚れた・学校全体が楽しそうな雰囲気である・広い校庭がある・美術や音楽に専任の先生がいるといったことであった。それでも第2希望にしたのは、他にEECと言って、K0から2年生までの早期教育に特化した学校があり、建物も新しく小さい子向けに設計されており、昔は実は消防署でした、工場でした、といったレンガの建物を無理やり改装しました、というような他の学校とは一線を画しており、そこを第一希望にしていたからである。でも、やはりその学校は倍率が非常に高く、娘は入れなかった。その時は、第1希望の学校に入学できず多少がっかりしたのだが、とにかく定員の少ないK1の席を確保できたことにひと安心し、娘の学校生活が始まることになった。ちなみに私立については、単に経済的に難しかったので(苦笑)とりあえず申し込むだけにしておいた(しかも、この学校は財政難でいきなり閉校になってしまった)。また、通える範囲にある学校がカトリック系のみであり、私はクリスチャンではないし、夫もしいて言えばクリスチャンではあるがプロテスタントの家庭に育っていること、最近のアメリカ(特にボストンのような都市)では多様化が進み、宗教に偏らない文化、教育に力を入れるという風潮のところに、カトリックのみの環境で子供を学ばせることには抵抗があった。チャータースクールについては、当時ボストンコモンの近くに校舎のあった小学校を検討した。ただ、建物が昔は恐らくオフィスビルであったものを内装だけ変えたような造りで、閉塞感があった。また、小さな体育館スペースはあったが、校庭がなく、近くのボストンコモンに歩いて利用しているという点が引っかかった。さらに、4歳から勉強勉強と追い立てるような印象を受けた。夫と私は、学校の環境もカリキュラムも伸び伸びしたところで娘を学ばせたいと思っていたので、BPSの学校の方に魅力を感じたのである。『その2:4歳児クラスから6年生まで』 に続く
2015.12.30
早いもので娘は11歳、9月の新学期からミドルスクールに通い始めた。日本では小学校6年生だが、アメリカではミドルスクール(中学)の6年生である。エライ速度で思春期の扉までの階段をとんとんと駆け上がっている勢い。それに伴い、周囲では娘の外見について不思議におもう人も出てきたようだ。娘の顔は日本人である私の骨格(のっぺりしていて目が離れ気味で頬骨が張っている)に、アフリカ系アメリカ人の夫のはっきりしたパーツが載っているという構成で、私から見ても「ナニ系?」「ナニ人?」とおもうような顔である。肌色は一年中日焼けしているみたいに小麦色だし、髪の毛も色は私に似て漆黒であるがウェーブがかかっている。こういう時、アメリカ人は、WHAT ARE YOU? と尋ねる(AREにアクセント)。もちろん、これは場と状況によってぶしつけ度が左右される質問であるようだが、娘の話しぶりからするとこれはかなり"annoying(ウザイ)"質問らしい。しかも娘には日本の名前を名づけたので、人によってはなかなか覚えてもらえないらしく、挙句の果てに娘は誰にでも覚えられるようなニックネームを自分で考案して、夏のキャンプなど期間限定の場ではそのニックネームを覚えてもらうようにしていた(笑)。これから思春期を迎えて、自分の外見とか、アイデンティティとか、色々と考えることが出て来るのかもしれない。ハーフじゃない親としてはどうしてやればいいのかまだ手探りの状態だけど、その話が出た時は、思いっきり抱きしめて、あなたはパパとママに半分ずつ似ててとっても可愛いんだよ。と言ってやることにしている。どんな外見だとしても、その人は、生みの父親と母親の、二つとない、すばらしい組み合わせの結果なのだから。
2015.09.19
*古今東西を問わず、そして人類が存続する限り決して解決することのないであろうグローバルな問題である、嫁姑問題を日米異文化の視点から(っつーか、ただ単に私の勝手な視点から)ぶった斬ってみるというシリーズを始めてみることにしました。いつかどこかで誰かの役に立てば嬉しい。ただ単におもしれえーと思って読んでくれても嬉しい。*さて、フロリダに移住した義弟がボストンに里帰りしていて我が家に居候中。という事で、義両親が義弟に会いに我が家にやってくることになった。義母の提案で最初はどこかランチに連れて行ってくれるってことだったが、今朝になって、親戚の子(といっても20代)がミシンを使わせて欲しいといってやって来て、それを手伝っているから行けるかどうか分からないと義母が言っている、と、連絡交渉係(笑)の義弟が報告して来た。しかし、いや、そもそも来るって言い出したのは母さんだろ?と義弟が言ったかどうかは分からないが(少なくとも私と夫と義弟の会話の中では言っていて、しかも全員意見一致)、結局午後1時に来ることになる。私はてっきりその後、すぐにランチに行くのかと思って待っていたが、先ほどはおかんのこと批判気味だった息子達も交え、私以外の大人たちは全員話に興じ、全く出かける手配なし。。。私はその間、おなかがすいたという息子にランチを食べさせ、洗濯を済ませ、日用品を買いに行き、私もおなかがすいたのでちょっと食べ物をつまみ、CVSに処方箋薬もピックアップに行って、今日の用事は全て済ませて気分はスッキリ(笑)。結局、テイクアウトをすることになって食事が始まったのは午後4時。。。今夜の夕飯は無しだな。。。と思って、外に出して解凍しておいた鮭と肉を冷蔵庫にしまう。まあ、いつもこんなカンジ?以前は、こういうシチュエーションになると、すぐにランチに行くものだと思ってランチ食べずに待ってると、いつまで経っても食事に行く気配がないので、あれ、いつ行くのかな、って今か今かと待っていて、でも、それをあからさまにするのは失礼だと思って、表向きはニコニコしながら一緒に話に加わっているふりをしているからストレスたまり、そのうちに、パニックになるほどおなかがすいてきて(私は糖尿病なので、食事の時間がずれておなかがすくとそういう状態になってしまう)、しかも、周りの気配を察してそろそろ帰ろうっていう気遣いも全くなくて長居するので、それをずっと待っていると、私の用事がいつまで経っても終わらない。で、私はそのうち心身ともに疲れ果ててしまって、で、周りの人達は、あれ、エリーどうしたの?みたいな風になってしまっていたのよね。
2015.09.07
海外に暮らしていると、ちょっとしたことを知らずにいるがためにエライ不便をこうむっている時がある。夫も日本に住んでいた時、ちょっとしたことを知らなかったために困っていたことがあった。たとえば湿気対策。押入れの中にまず、すのことかを敷いてから布団をしまうとか、除湿機を回すとか、そういうことに気がつかなかったがために、カビをあちこちに生やしていた。逆のことはアメリカにいる私にも言えるわけで。たとえば(ってこの例を出すのはどうかと思うけど)、アメリカで日本風の食パンで作るサンドイッチを作ろうとすると、どうもおいしくない。アメリカの食パンは薄くて正方形でふにゃっとしていてあまりおいしくない(笑)。だから、ツナマヨだの卵だの入れても何だかおいしくない。具をはさんだらはさんだで、お昼までにはさらにふにゃっとしておいしくない。。。それで、日系のパン屋さんで食パンを買うとえらく高くつく。自分の家でパン焼き機を買って焼いている人も多い。ところが最近夫がランチ代節約のために毎日自分でサンドイッチを作って持って行くようになったのだが(私が愛妻弁当を作ってないっていうツッコミはナシね)そのへにゃっとした薄い食パンをトーストしてからサンドイッチを作るのである。いや、そうするとね、カリッとして美味しいんですよ。チーズもいい具合にとけて。夏だけどオフィスの中は冷房がんがんに効いてるから食中毒の心配とかほとんどないし。いやーボストン15年目にして初めて気づいたこの事実。。。
2015.08.18
https://www.bostonglobe.com/metro/2015/07/26/harvard-brief-analyzes-pros-and-cons-advanced-work-classes/EYP7HvknYa044phxzmWfeI/story.htmlBPS(ボストン公立校区)には独自のAWC(Advanced Work Class)というシステムがある。これは、小学校3年生の時点で統一試験を受け、一定の成績を受けた生徒が参加の資格を得るもので、4年生から6年生にわたり、より難しい勉強をさせ、ゆくゆくはその後7年生から始まるxam Schoolと呼ばれる進学校3校(ボストンラテン、ボストンラテンアカデミー、オブライアント)に合格する学力をつけるというのが目的らしいが、このシステムに入ったからといって、この3校に入れる保証はない。この度、BPSの教育委員長が変わることになり、それを機にこのAWCを見直そうという動きがある。上記の記事を読むと、AWCを限られた生徒だけではなく、他の生徒にも広く応用するという方向とのことである。このAWCの実際の内容については次回の記事に譲るとして、今回は、このシステムによって転校をせざるを得ない場合が多いという問題点について指摘してみたい。AWCのクラスはボストン市内の公立校全校にあるわけではない。したがって、3年生までAWCのない学校に通っていた子はAWCを受けられるという資格を得てそれを受け入れた場合、AWCのある学校に転校するしかない。上の娘もその例だった。娘も私達両親もその学校が気に入ったから入れたのだし(実際は抽選で第2希望だったが)、息子もその年度から同じ学校に入学し、これでやっときょうだい2人、同じ小学校に入れて送り迎えが楽になったと喜んでいたところだったのだ。娘は幸い、同じ地区のAWCのある学校に転校することが出来たが、これも基本的に抽選によって決まるので、下手するとスクールバスで1時間近くかけて通う学校になってしまったりする。娘は社交的な性格なので、新しい学校にもすぐ馴れて友達も出来たが、これが、新しい環境になじみにくい子供だったら、勉強面のほかに、そういったことで苦労することにもなってしまうとおもう。また、息子を娘と同じ学校に転校させればいいのに、と何人かに言われたりしたが、それほど簡単なことではない。特に息子の方は新しい環境に馴れるのが難しい子で、毎年度、同じ学校でも初日は学校に行かないと言って泣き喚くくらいなのだ(笑)。それをただ、親の送り迎えが楽だから、という理由だけで振り回すのは忍びなかった。とりあえず1年間は様子を見ようと思っていたのだが、結局、息子は転校させなかった。しかし、そうすると、スクールバスも10分違いぐらいで違う場所、行事も同じようなのが2回ずつ、と色々と面倒が生じた。2年間、何とか切り抜けたが、同じ小学校だったらどんなに楽かと思ったものである。次回はAWCの実際の内容については書いてみようとおもう。
2015.07.29
違う家庭環境で育った二人が結婚すると、生活の色々な面でズレが生じるものである。私は、決まった時間に母の作った食事が出て来る家庭に育った。夕飯だと7時だったし、何かの理由でその時間に家に戻れない時は連絡するのが当たり前だった。そうしないとは母すごく不機嫌になり、怒った。 しかし、夫の育った家庭はどうもそうではなかったらしく、今日も6時に子供達の日帰りのサマーキャンプが終わっているはずなのに、迎えに行った夫共々帰って来ない。現在8時過ぎ。どこで何をしているのか連絡もなし。昔は、テキストでどこにいて何時ごろ帰ってくるのか問い合わせたりしていたのだが、夫はそういうのがどうもピンと来ないらしい。彼曰く、子供達が遊んでいるんだから、何時に帰るか分からないと。私が子供の頃は「夕飯の時間までには家に帰る」のが常識だったので、もうここで行き違いである。いつ帰ってくるのだろうか、夕飯はもう食べたのだろうか、などとやきもきしているうちに私は何も手がつかないまま疲れて不機嫌になってしまい、帰ってきたら帰ってきたで子供たちの世話にバタバタと追われ(もちろん夫も手伝ってくれるが)、結局何も自分のやりたいことさえ出来ず。ただ、それは夫にとっては、せっかく子供達と楽しい時間を過ごしてきたのに、何がそんなに不満なのか、と逆ギレされたりして(笑)、平行線をたどるばかり。で、これが「母親同士の連帯感」で義母に理解してもらえると思ったら、義母は義母で、やはりかなり時間感覚がかなりずれている人なのである(笑)。たとえば、義母に子供たちを預かってもらう時。我が家は車を持っていないので、義母は我が家まで車で来てくれて子供達を連れ出し、連れ戻してくれる。義母が我が家より自分の家で子供達を見るほうが都合がいいという理由もあるが、それはとてもありがたい。ただ、子供達を連れ戻す時間に関してのやりとりが色々と行き違う。例1:私としては、義母はベビーシッターじゃないし、義母のある程度都合のいいようにと思って、帰す時間についてはあまりきっちり指定していなかったのだが、そうすると、義母: I will bring the kids back "some time" in the afternoon.と言う。 この'some time"というのが曲者で、これは午後1時なのか5時なのかがハッキリしない。5時ならそれまでに何か出来るけど、1時なら家で待ってた方がいいし。。。というわけで、時間を指定することにしたら。。。例2:私「5時に子供達を帰してください」義母「それだと交通渋滞に巻き込まれるから3時ぐらいでいいか」私「それでOKです」そして、3時ちょっと前ぐらいに電話がかかってくる義母「家にいる?」私「はい(当たり前だよ、3時に帰すって言ったんだから家にいるに決まってるだろうが)」義母「今、XXが家に来ていて彼女をまず家に送ってから子供達を帰すからそれでもいいか」私「いいですよ(遅くなると渋滞に巻き込まれるから早く帰したいと言ったのはそっちだろうが)」で、結局4時ごろに帰って来たら義母「これからXX(私の娘)に買いに行きたいものがあるからTargetに行って来てもいいか」私「。。。いいですよ。。。」そして、結局私は3時から5時までずっと家で待っていて何もできず。それだったら、最初から5時に帰すことにしてくれればよかったのに。というようなことが何度もあった。また、時間がまちまちになることについての妥協策として、せめて向こうの家を出る前に電話をして欲しいと言ったら、してくれるようにはなったが、義母にとっては習慣でも常識でもないので、その都度言わないといけないということに気がついた。私は最初は一度言ったことを何度も言うのは失礼かと思って言わなかったのだが、そうするとまた子供達を連れ戻してくる時間がまちまちになるので、その都度しつこく言ったら、さすがに覚えて実践してくれるようになったのだが、今度は、たとえば私が「仕事があるから朝の9時までには必ず来てほしい」と言ったときにも、家を出る前に「これから出る」と電話がくる。私としては、そこまで時間をきっちりと指定したんだから、その時間に間に合うのだったらわざわざ出る前に電話してこなくてもいいと思うのだが、もうそれは説明しても分からないと思うので放っておいた。さらに、家族の集まりの時は、3時に集合と言っても3時に来る人はほとんどいなくて、でも、夫は、「他の人が時間きっちりに集まらないからといって、自分達が遅れて行くのはそれは理由にならない」とか、何でそれは時間守るかね?というようなことを言うので、私達家族は3時に行き、でも、皆が集合して会が始まるのはだいたい5時ぐらいで、それから9時ぐらいまで延々とやる。子供達が小さかった頃は、だいたい3時という時間からしてもう一日のエネルギーほぼ使い果たして終了しているところなのに、それから人がたくさん集まるところに行って大興奮状態となり、疲れきっているはずなのに、帰るのやだ、帰るのやだ、と言ってそれを無理やり家に連れて帰り、案の定、なかなか寝ずに次の朝、プリスクールに連れて行くのにひと苦労。子供達がきーきーしてきたら、それなりに帰りやすいように気を遣ってくれたらいいのに、などと思ってみたが、相手にしてみれば、そんな昔の子育てのことなんてすっかり忘れてしまっているのだろうし、早く帰るようにそそのかすのは失礼だと思っているのかもしれない。私はこういう度重なる時間の感覚のズレにすっかり疲れてしまっていた。でも、このズレを何度も経験する中で、学んだことはあったし、この手の「カルチャー」の違いの専門家にも相談した。ここで言うカルチャーというのは、日米の違い、育った家庭の違いなど、広く含むのだが。アメリカ人が皆こういうわけじゃないし。つまり:・「彼ら」にとって、「X時」というのは、「約束」ではなく、あくまで「目安」である。その目安の範囲は、前後30分ではなく、前後2時間ぐらいまでが許容範囲のようである。・「彼ら」にとって、時間をきっちりと指定することはかえってストレスになる。(私と逆)妥協策:・私が用事があってどうしても時間どおりに来て欲しいという時には、その都度、ちゃんとしつこく理由とともに言う。例:私は10時までに仕事に行かなければならない。自宅から仕事場までは1時間かかる。よって、子供達を絶対に9時までに迎えに来てほしい。・用事がない時は、時間を指定しないで相手にある程度任せる。そして、もう一つ学んだ大「彼ら」のような人々は、人を待たせても平気であると同時に「人に待たされても平気」だということである。私の「日本人の常識」としては、人を待たせるということは失礼なわけであるが、結局、「彼ら」は待つことは平気なのである。だから、じゃあ、午後の"some time"に帰りますと言って、出る前に連絡もせず、いきなり帰ってきたら私が出かけていていなかった、としても、そのままずーっと待っているわけである。私は待たせるのが失礼だと思っていたから、午後の時間中、どこにも行かず、家でひたすら待っていたのだが、それはしなくて良かったのである。で、最初の話に戻るが、最近は、この写真のように、冷めたら温めればよい食事を、食べなかったら冷蔵庫にそのまま入れられるようにタッパーにつめてテーブルに並べておく。夫と子供達が帰ってきたのは8時半。図書館に行っていたというが、図書館は6時にしまるはず。その後、何をしていたのか分からないが、まあ、いい。夕飯も食べていなかったので、このタッパーの中から好きなのを選んでもらって、あとは夫に全部冷蔵庫にしまってもらう。私は帰ってくるまでの間、自分の夕食を済ませ、お風呂にもさっさと入り、好きなドラマをネット配信で観て、ワイン満喫。自分が満たされているから、遅く帰って来て夕飯食べてなくても、快く家族達を迎えることができる。そして、家族全員機嫌よく、幸せ。これでいいのだ。
2015.07.28
ボストン美術館(以下MFA)がモネの絵画作品『ラ・ジャポネーズ』の前で同様の着物を着てみるというイベントが抗議を受けて中止になり、その後、内容を変更をして再開したものの、今度は、抗議に抗議をする側も加わって議論が終わってないという件について、自分なりに考えてみた。(関連記事 英語)https://www.bostonglobe.com/arts/2015/07/18/counter-protesters-join-kimono-fray-mfa/ZgVWiT3yIZSlQgxCghAOFM/story.htmlこのモネの絵画は、モネの妻が、着物(打ち掛け?)を身にまとってポーズを取っている姿を描いたもので、その当時のフランスでの日本趣味(ジャポニズム)を反映した作品とされているようである。MFAでは、これと同様の着物を用意し、それを訪問者に身にまとってポーズを取り写真を撮ってもらうことで、『あなたの中にあるモネを感じる』ことを促すというのが趣旨だったらしい。それを、アジア系人権向上団体が、このイベントはアジア系に対する『人種差別』や、アメリカ社会におけるアジア系に対する誤った認識を助長するものとして、このイベントの前にプラカードを立って抗議をした。これに対し、MFA側はイベントを中止し、そして、後日、この着物を展示し、試着は止めて、代わりに、着物自体やその当時のジャポニズムに対して質疑応答を受け付ける、という内容に変更してイベントを再開した。私は最初にこのイベントについて聞いた時、正直、着物を身にまとうだけで、MFAのこのイベントの趣旨である、当時のジャポニズムの理解につながるとは思わなかった。ただ、このイベントは、おそらく、その当時もさほど変わらなかったであろう、日本文化に対する表層的な理解を繰り返すことはあっても、私は特にその中にアジア系に対する「軽視」や「蔑視」を感じなかったので、傍観するにとどまっていた。でも、抗議したアジア系の人権向上団体は、それを感じたのだと思う。このイベントのプレゼンテーションの仕方に、アメリカ社会で見られる、白人のアジア系に対する蔑視や差別を感じて、それを助長するようなイベントのやりかたついて抗議したのではないか。アメリカに長く住んでいれば、程度の差はあれ、「これは私がアジア人だから差別されているのかな?」と感じる対応に出くわすことはある。正式に抗議したこともあるし、笑って受け流したこともあるし、今回みたいに知らぬ存ぜぬを決め込んだこともある。関連記事をいくつか読んでみたが、そこに出てくる "orientalism" や "(cultural) appropriation"という言葉が、この団体の抗議している理由のキーワードになると思う。まず、"orientalism"というのは、訳してみれば「東洋風」という意味だが、これはやはりアジア系に対する蔑視用語になる。花にもOriental Lillyと呼ばれるユリがあるのだが、これは最近はAsian Lillyと呼ばれるようになったぐらいだ。また、appropriationというのは私も最近知った言葉で、強いて訳せば「模倣」という意味であるが、特に、「ある特定の文化の服装や格好などをその文化に対してさして深い理解もせずに模倣する」というニュアンスで用いられることが多い。結局、このモネの絵画の前で、「オリエンタリズム」の代表みたいなキモノを着てポーズを取って写真を撮るというイベントに対し、アジア系に対する蔑視とappropriationを感じるから中止してくれ、ということなのだったと思う。この抗議を受けて、MFA側は「ある一部の人達の気分を害した」としてイベントを中止し、上に書いたように、もっと、当時のジャポニズムや着物そのものについて説明をするといった内容にしてイベントを再開した。私は、この変更された内容の方がこの絵画と関連付けるならふさわしいと思うし、これなら実際に足を運んで説明を聞いてみたいなと思う。着物を羽織ってポーズを取ることによって、確かにそのずっしりとした重みとか、刺繍の精巧さや美しさや絹の光沢などを身近に感じることはできても、それはあくまで着物に興味を持ってもらうきっかけを与えるだけで深い理解につながるとは思わないし、よく観光名所でその風景がベニヤ板に描かれていて顔の部分がくりぬいてあって、そこに顔を突っ込んで写真を撮れる場所があるが、この当初のイベントの趣旨は、それと同じようなレベルに過ぎなかったのではないかと思うのである。しかも、そもそも着物自体や日本文化を理解してもらうこと自体がイベントの趣旨でなかったわけで、その、「自分の中のモネを感じてみましょう」という何ともあいまいな趣旨を提示することにより、そこに「白人のアジア系に対する蔑視が見られる」と取られる可能性もあったことをMFA側が想定しなかったとすれば、MFA側の認識は甘かったということだ。白人が着物を着ること自体が問題なのでもない。白人(あるいは要するにアジア系人種以外の人)が着物を着ることによって、そこにアジア系および文化に対する侮辱や蔑視(あるいは無邪気な無理解)の意味合いを持つことが問題なのであって、結局はコンテクスト(文脈)の問題である。たとえば、うちの黒人の夫が黒人の家族の間で"You, colored people(おい、そこの色のついた奴)!"みたいなことを言ったりするが、これは「身内」の間のジョークになる。でも、これが、別の人種から蔑視の意味で言われたらやっぱりそれは蔑視である。日本でもこのモネの作品が展示された際に同様のイベントがありおおむね好評だったらしいが、それは、着物が日本人にとって自国の文化であり、日本人が自分の文化の一部である着物を着ることに何も問題はないからである。しかも、印象派大好き、モネ大好きな日本人である。その絵画自体やイベントのやり方の中に、日本(というか東洋)に対する蔑視を感じた人は少ないのではないか。また、このイベントに対して、日本の着物について知ってもらうのは良いことだからいいじゃないの、と言って、抗議団体に反論するのも筋違いだと思う。このイベントのそもそもの趣旨は、繰り返すように、着物や日本文化について知ってもらうことではなかったからである。私だったら、ただ着物を羽織ってもらうのではなく、実際に着付けたり、着物のさまざまな種類についてレクチャーするとか、そういう場と機会で貢献したいと思う。そういう意味では、イベント再開後には、着物について説明を加えたりという内容に変更をしたMFA側の措置に感謝したい。そして、最初のイベントの趣旨に対して抗議した団体が、趣旨変更後も抗議し続けている理由に関しても知りたい。結局は、イベント中止前には、日本文化に対する理解やモネの描いた当時のジャポニズムに対する理解を深める機会にもならず、逆にアジア系に対する蔑視とも受け止められかねないMFAのプレゼンテーションの仕方がもたらしてしまっている騒動なのだと思う。
2015.07.19
思い起こせば3年前の独立記念日は、夫が最初の脳痙攣の発作を起こした日だった。夫のただならぬ様子にたたき起こされた私は、何事かと慌てふためいて救急車を呼び、病院のERに入った時はまだ朝の8時を過ぎたばかりだった。その様子から脳溢血など血管系の病気も疑われたため、MRIの検査も受け、何時間も拘束された末、結局異常なしと言うことで解放されたのが夜の7時。町のど真ん中にあった病院の周りは、独立記念日のイベントに行く途中の人達で溢れており、その人の波に逆らうように進みながら、家族4人で疲れ切って家に戻ったのを覚えている。あの日、義母は旅行でフィラデルフィアにいた。ERに着いた後、電話で状況をすぐ知らせたのだが、今思えば、義母はこの、年に一度の集まりに参加していたのだ。だから、義母の2人の姉達もそばにいて、親戚中に夫のことが電話で学級連絡網のように瞬く間に伝わったのだ。その、3年前の電話の向こう側の図が、今回のホテルのパーティー会場で、はじめて鮮明に、私の頭の中に浮かび上がった。同時に、その時の不安な気持ちや、状況を上手く飲み込めなくて混乱していた気持ちも思い出して、私は一人しばらく落ち着かない気持ちになっていた。このパーティーの参加者の多くは70歳を超えていて、もちろん、既に亡くなった卒業生もいる。スピーチの端々に、年に一度、この集まりに参加できることが、どれだけ尊いことか、という思いが感じられた。3年前のあの日、私はもしかしたら夫を失うかもしれないと思った。あの日から、死というものはそれまでよりもっと現実味をもって、私の頭の中に居座るようになった。私達や子供達の世代はまだまだ若いけれど、誰にとっても人生はいつまで続くか分からない。でも、いつまで続くか分からないからこそ、今、こうして大切な人達と一緒に過ごせる幸せをかみしめ、感謝しなければいけないのだ。そんなことに気づく機会を今回与えてくれた義母にも感謝しなければいけないところだが、そこは人間が出来ていないヨメの私、家に帰る時間になって、「来てくれてありがとう」と言ってハグしてくれた義母に、「You’re welcome.」とつい本音がポロリと出てしまった。うわはは。ここで気の利くヨメなら、「いえいえ、こちらこそ楽しい時間を過ごさせてもらってありがとう」ぐらい言うのにね!でも、いつもは傍でニコニコしながら義母を見守っているだけの義父が、今回は珍しく「いやー終わってほんと嬉しいよ」と、そっとボヤいていたぐらいだから、まあ、この勢い止まることを知らない台風体質の義母には、今後も(今後は?)巻き込まれない程度の距離で立ち位置守るのが無難かな、と。
2015.07.06
さて、パーティー当日は昼前にホテルに到着した私達。ロビーやレストランには、関係者と思われるお達者くらぶ世代の男女の小さなグループが既にあちこちに出来て談笑しており、知らない人の集まりはハッキリ言って苦手な私は軽いめまいが(笑)。というわけで、パーティーが始まる7時までは、夫と子供たちにはプールへ行ってもらい、私は人との関わりを一切断ち、部屋のケーブルTVでHGTV(家を買うとかリフォーム関連番組ばっかりやってるチャンネル)漬けになり、夜に備えて鋭気を養う。夫はアフリカ系アメリカ人なので、この集まりも黒人がほとんどだったというのは特に驚かなかった。今でさえ、何だかんだと人種ごとの住み分けが決して珍しくないアメリカである。50年以上前の田舎のその小さな炭鉱町に、黒人が集中して住んでおり、したがってそこにあった高校も黒人ばかり、というのは十分に納得が行くことであった。しかし、パーティーが始まり、主催者の一人によるスピーチの内容を聞いて、私はアメリカの重要な史実をすっかり忘れていたことに気がついたのである。当時は人種隔離法が施行中で、白人と黒人の学校は別々にあったため、このパーティーの参加者達も、そうした学校の一つに通っていたのである。後にウィキペディアで調べたところ、公教育における人種隔離が違憲だという最高裁の判決が下されたのが1955年で、それ以降、廃絶に向かって全米が動き出したということなのだが、その対応は州によってまちまちだったそうで、この義母やそのきょうだいが通ったという高校も、白人の高校と統合されたのは1965年だったらしい。時々こうしてハッとさせられるのだが、この人種差別撤廃の歴史は決して古くない。私の親の世代がまだ人種隔離をさせられていた頃の生き証人であり、私の7歳年上の夫でさえも、この撤廃がされてからの教育を受けた最初の方の世代に当たるのである。こうした背景を身近に感じると、たとえば、2008年に黒人最初のオバマ大統領が就任した時、ボストンにある黒人地区で有名な町の年老いた住民が、テレビのニュースの街頭インタビューに応え、「生きている間にこんな日が訪れるとは思ってもみなかったよ」と、しみじみコメントしていたその姿も、より実感を以って迫って来る。パーティー会場は、真ん中にダンス用のスペースがあり、両端に8人がけの円卓がいくつか並んでいた。入口付近ではカメラマンのいとこ(ここにまた関係者が。。。)記念写真を撮れるようにスタンバイ。参加者は男女半々で総勢100名ぐらいだろうか。黒人の、特に女性達は、頭のてっぺんから足のつま先までものすごくおしゃれな人が多く、しかもド派手な模様の洋服が似合うので、まあ、オバマ夫人を20歳ぐらい年取らせたような人達が50人ぐらい同じ部屋の中にいたといえばイメージしてもらえるだろうか。。。オバマ夫人たった一人だけでも相当なインパクトだと思うのだが、そういう人が50人いたところに、私が純粋な東洋人としてはたった1名で奮闘。。。しようにも迫力の点では全く勝ち目なかったと言おうか。。。まあよい。パーティーは、何名かのスピーチがあった後、着席形式で前菜からデザートが運ばれ、途中で卒業生の一人の息子であるプロの歌手のパフォーマンスがあり、その後はくじ引きとダンスタイム、という流れであった。スピーチの途中では、各年の卒業生が順々に起立して紹介されたのだが、最高齢は今年88歳になるという2人の女性。お互いに手に手を取り、支え合うようにゆっくり歩きながらダンススペースまでたどり着き、記念品を渡され、参加者の拍手喝采を浴びていた。歌手のパフォーマンスは素晴らしかった。特に有名な人ではないと思うのだが、それでもこれだけ歌の実力があるってことは、アメリカの音楽業界の層がいかに厚いということか。この歌手の母親は卒業生の一人で、途中で飛び入り参加してハーモニーでデュエットを披露。その歌声は部屋の外にも鳴り響いて、廊下にいたホテルの従業員も入口からそっと覗きに来て写真を撮っていたほど(笑)。そして、彼の歌への思いを聞いていると、ゴスペルというのは本当に神へ捧げる歌なのだなあ、ということが分かる。今は亡きホイットニー・ヒューストンなどアメリカの大物の歌手の経歴を読むと、その多くが教会の聖歌隊の出身であったりするのだが、そりゃそうだ、毎週のようにコンサートやってるみたいなもんだから、才能があれば上手くなるに決まってる。さて、件のくじ引きコーナーでは、11歳になる娘はこの手のお手伝いが大好きなので、他の親戚の子達と各テーブルを回って張り切ってくじを販売し、7歳の息子もその後、参加者が名前を書いたくじの半券を回収するという大役を任され大満足。その後、息子がすっかり飽きてしまったので、ダンスタイムを前に私は後ろ髪を引かれながら(笑)息子と一緒に部屋に戻ったのだが、その時点で既に10時を回っていた。。。お達者世代、どんだけパワフルなの。。。。最後まで残っていた夫が部屋に戻って来たときは日付も変わっており、今度は別室に移動して何と二次会が行なわれているとのこと。。。すっかり寝入ってしまった息子を交代で時々様子を見に行きながら私達夫婦もしばらく参加したのだが、全員ではないにせよ、かなりの人数が残っていた。トランプに興じているグループもいて、いや、何と言うか、すごいとしか言いようがないというか。。。。そして、バーテンダー役は、義父の前妻との間の双子ボーイ(といっても、もうイイ年だけど)たち。。。まさに家族総出でご奉公。。。パーティーの最中は別のテーブルにいたので挨拶を交わすぐらいだったけれど、我々と同じ世代で、同じぐらいの年齢の子供達を育てている親戚のお嫁さんの方と話す。いや、私も彼女もヘロヘロのボロボロ。この集まりに来るのははじめて?と聞いたら、「ええ、そうよ」と返事したけど、その声の調子がいかにも仕方ないのでしぶしぶ来ましたという感じで思わず笑ってしまった。どこのおばあちゃんも、かわいい孫達を見せびらかしたいってか。「すごいねーみんな元気で。。。」と私が言ったら、そばにいた夫が「いや、だってみんなもう子育て終わってるし」とぽつん、と言った。私達も子育てが終わったらこんなにパワー全開になれるんだろうか。。。(遠い目)そんなお達者世代につられて久しぶりに飲んで夜更かししたツケは翌日の早朝に回ってきた。いつもより睡眠時間が短くても若さと興奮で乗り切ってしまう子供達に起こされ、プール遊びに付き合う羽目に。。。つらい。。。これはもしかして何かの修行なのか。。。というわけで、お年寄りと子供にはさまれた我々中年世代にとってはかなりハードワークな週末であったが、久しぶりのホテル滞在はのんびりできた面もあり、総じて楽しいひと時を過ごすことが出来た。(さらなるつづきは→こちら)
2015.07.06
義母は1942年生まれの73歳。アメリカ南部の小さな炭鉱町の炭鉱夫の家庭に、5人きょうだいの三女として生まれ育った。炭鉱山は石油の普及とともに閉山され、父親(夫の祖父)は職を失い、若かった義母も地元では限られた仕事しかなく、二十歳そこそこで北部のボストンの親戚を頼って移り住んだ。そのようにして、現在はきょうだい全員をはじめ、多くの親戚がボストンに住んでいる。その義母が通ったという炭鉱町の高校のOBOG会が、毎年7月4日の独立記念日の前後に行なわれているということは知っていた。義母と同じような理由で、高校卒業後アメリカ各地に散らばった卒業生たちが、年に一度、持ち回りで計画して集まる。今年はボストン地区の番で、郊外のホテルで、独立記念日をはさんでの4日間にわたり開催された。義母はファミリーだの、このように大勢を集めてまとめるという事をこの上ない喜びとしており、この集まりも(恐らく)大張り切りで計画した。だいたい、毎年、この時期になると、何かの用事で子供達を見て欲しいと頼んでもきっぱり断られるので、今年もこの時期は連絡しないようにしていたのだが、何と、この集まりの一環である、独立記念日当日のディナー兼ダンスパーティーに私達家族4人が招待されたのである。しかも、孫である私の娘をパーティーの最中に行なわれるくじ引きのチケット販売係に使いたいという。招待メールの内容を私が非常に意地悪なヨメ的観点で解釈すると、本当に必要なのはうちの娘だけなのだが、娘だけを駆り出すと、パーティー以外の時にも自分が面倒を見なくてはならないので、それは嫌。だから、私たち家族全員を招待するという作戦に出た、てなところである。ホテル代と孫達のパーティー参加費は負担するが、私達夫婦の参加費については「参加したければ」自分達で払えと。まあ、そういう内容だった。いったいなぜ私が姑の高校の、しかも年寄りばかりの集まりにわざわざ参加しなければならないのだ。。。しかも私と夫のパーティー代は払えと。。。自分の親の学校の同窓会にさえ行った事がないのに。。。と、ただでさえ、義母の、絶えることのない、かなり強引な家族がらみの誘いに対しすでに辟易気味の私は大憤慨である。昔は夫にその都度、愚痴っていたが、間に入って義母に何か言ってくれるどころか、「いや、お袋だって悪気はないんだから」って、そんな分かりきったことを今さら言うかね、と気持ちのやりどころがますます見つからず、最近はすっかり諦めた。代わりに、気の置けない何人かの友達に愚痴って憂さ晴らしさせてもらっているのだが、この一部始終を今回は日本にいる母に電話で話したら、開口一番、「孫が可愛いからみんなに見せびらかしたいんじゃない」と言うので、大笑い。結局、夫と家族会議をした末、まあ、ホテル代出してくれるって言うし、パーティー代をけちって参加しなかったとしても、ホテルのレストランで夕食をとったらどうせ一人そのぐらいしちゃうんじゃない、ということで、義母の招待をありがたく?受けることにしたのである。後に判明したことであるが、娘と一緒にチケット販売係として働く「孫達」とは、全員義母のきょうだいの孫達、つまり関係者だった。さらに、ボストン地区の役員メンバーというのも全て親戚関係者ばかり。。。考えてみれば、小さな炭鉱町に恐らく一つしかなかった高校だから、兄弟全員が同じ学校の卒業生なのは当然なのである。しかも、義母の元伴侶(私の夫はその姓を名乗っている)も同じ高校の卒業生。というわけで、私が会ったことのあるそのきょうだい達も全員集合。。。この集まりの参加者の約3分の1は私の夫側の親戚という、実は一族の集まりだったのかと混乱するばかりであった。。。(つづきはこちら)
2015.07.06
我が家の近くには、ほぼ開店休業状態の競馬場がある。戦前に創業した歴史ある競馬場らしいのだが、現在は馬が訓練のために走っていたり、競技のような事をしていたり、といった程度。そこに2年ほど前、一大カジノ施設を建設するという話が持ち上がった。正確には、ここに将来的にはカジノを建設するという目論見の下、赤字覚悟で、この競馬場をずっと経営していたとのこと。カジノ会場はもちろんのこと、ホテルにショッピングセンターに遊歩道にと、現在は閑散としているこのエリアに、一転して巨大エンターテイメントエリアが登場するという計画である。私はカジノというと、何となく場末のゲームセンターというか、暗くてネガティブなイメージを持っていたのだが、まだ子供が出来る前にコネチカット州にあるMohegan Sun(モヒーガン・サン)というカジノ施設に行って、イメージがすっかり変わった。ここはまるで大人向けのディズニーランドみたいで、純粋なギャンブルの施設以外はショッピングセンターもあり、子供も入場可能。コンサート会場もある。そんな施設を、我が家の庭先に造ろうというのである。当然のことながら、周辺住民は賛成派と反対派に分かれた。かなり大雑把な括りではあるものの、賛成派は昔からの地元住民。反対派は最近流入して来た若いファミリー達。賛成派は何と言っても雇用の増加に期待。ブルーカラーのこの町は、仕事にあぶれている者も少なくない。また、もともと彼らの多くはギャンブル体質のため、カジノ自体に抵抗が少ないと言える。市や政治家達も、周辺地区の再開発への投資を掲げて実現を推進する。近くのダンキンでは、ちょくちょく見かける地元の市議員が、常連の客に「きれいな遊歩道も出来るんだよ」と話しかけているのを目撃(笑)。一方、反対派は犯罪の増加、近くを走るハイウェイの交通混雑、不動産価値の低下などを懸念。私はどちらかというと反対派に属する人達のコミュニティに属していたが、無責任ながら傍観派に回った。当時、諸事情により、家の事を回して行くので精一杯な状況でもあったし、正直、どう行動して良いのかも分からなかったからである。この競馬場の敷地は、R市と我々が住むボストン市のE地区にまたがっている。そのため、このR市とE地区の住民投票により、カジノを受け入れるかどうかを決めることになっていた。この住民投票当日まで、賛成派と反対派の攻防戦が連日のように繰り広げられた。毎週末のように、反対派と賛成派がそれぞれプラカードを掲げて街頭に立ち、庭先に支持する側の看板を立て、それぞれの主張を繰り広げ、その様子は地元紙に取材された。反対派は団体を立ち上げ、活動費の寄付金を募ったり、事務所スペースを借りてホットラインを設置し、各住民世帯に電話をして説得を講じるといった作戦にも出た。アナログな電話線を引けるぐらいだから、寄付金の集め方も情報の流し方もこちらはデジタルで、ウェブサイトやフェイスブック、地元のメーリングリストなどを駆使し、連日のように関連情報が流れて来る。一市民に過ぎない彼らが、いったいどんなノウハウを持ってこのようなことが出来たのかはよく分からないが、その行動力にはいつものことながら驚かされる。でも、自分達で一から地元に幼稚園を設立してしまったような人達でもあるから、別に驚くほどのことでもないのだろうか(幼稚園設立の一部始終はこちら)。ただし、この反対派の中でも、かなり積極的な人達とそうでない人達の温度差はあったようである。たとえば、知り合いのお母さんの一人は電話作戦を手伝ったらしいが、「こういうことやるのってホントは性に合わないんだけど、やらないといけないと思ってやったのよ」と、告白してくれた。このママ友・パパ友グループ、全員が一丸となってやっているように見えて、一人一人に本音を言わせると実はそうでもなかったりするんだな。そして、ついに迎えた住民投票当日。私は正直言って、賛成派が勝つと思っていた。政治家のほとんどが賛成側に回っていたし、代々ここに住み着いている住民の意見の方が優勢だと思っていたからである。ところが、一夜明けての結果を見ると、我々E地区の方は、NO(反対)が過半数を占め、カジノ施設の建設は否決された。パーセントにすると10パーセントほどの差であったが、数にすると確か1000票以上の差だった。これは大きな差である。ちなみにR市の方は60パーセントほどが賛成だった。カジノ建設にはR市、E地区両方の賛成を得ないとダメなので、この案は否決。反対派が大喜びをしたのは言うまでもない。傍観者に徹してしまった私も、この地区全体のイメージダウンや、平和なこの住宅街へのカジノ客の流入が回避されたことに内心ホッとした。その後、R市が別のカジノ事業会社を使い、自身の敷地内だけに施設を建設するプランを作るなどの動きがあったのだが、今年に入ってそれも州の関連委員会の承認を得ることが出来ず、競馬場もその長い歴史を閉じることとなった。この競馬場の近くには普通の住宅地が広がっていて、その反対側には大型スーパーとTarget以外はあまり流行っていないような店が連なる若干寂しげなショッピングモールがある。いずれにしても、再開発して活性化した方が良いとは思うが、何もカジノじゃなくても、子連れの家族も安心して楽しめるような健全なレジャー施設の方がいいんじゃないか、というのが私の意見である。空港も近いけど町の中心にも近いし、観光客の需要も十分見込めると思う。カジノはノー!という周辺住民の意向は十分表明されたはずだから、それを汲んで、建設的な計画が進むのを期待したい。
2014.10.23
インプラントの治療に比べれば、親知らずの抜歯とは要するに「歯を抜く」だけなので分かりやすい。特に私の場合、親知らずは4本ともまっすぐに完全に生えていて、かみ合わせも問題がないので、とにかく4本いっぺんに抜くだけである(笑)。まあ、アメリカだったら大学生ぐらいの時に抜いてしまうものらしい。こちらでの日本人の歯科医だったが「こんなの大学生ぐらいに抜いてて当然ですよ」と言われたことがある。その時は正直ムッとしてこれ以降、他の理由もあったにしろ、この歯科医のところには行くのを止めた。言い訳がましいかもしれないが、日本での私の世代は、大人になるまでの半年ごとのクリーニングも、フロスも、矯正も、親知らずの抜歯も、それほど一般的ではなかったと思う。ところが、1年ほど前にこの親知らずのうちの1本に虫歯が見つかり、それならいっそのこと全部抜いてしまえ、ということになった。ただ、インプラントの人工歯を作ってくれたG先生には、この虫歯の1本だけを治療するという選択肢もあると言われたこともあり、とりあえず1本だけ治療して様子を見るかどうか、で実はしばらく迷っていた。何せ4本イコール4倍の治療費になるわけだから、これは大問題である(笑)。でも、何と言うか、いったん高額の治療費を払い始めるとだんだんマヒしてしまって、もうとりあえず払うしかないか、という気になって来る。しかも、私もそう若くはないし、両親も年老いて来ているし、次の親知らずを抜く機会に介護が重なるといった事態も大いにあり得る。特に私の場合は海をまたいでのことになるわけだし、やれることは早めにやっておいた方がいいという気持ちになり、一気に4本抜いてもらうことにした。私の親知らずのように、特に問題がなくて「ただ抜くだけ」なら僕がやってあげるよ、とインプラントの外科手術を担当してくれたB先生が言ってくれていたので、そのままお願いすることに。でも、コンサルテーションの時に私の虫歯を見落として、左側2本だけでいいよと最初言われた。え、虫歯は右側にあるんですけど、と言ったらもう一度、私の口の中を覗きこんで、オー、そうだったか。と。おいおいおいおい。しっかりしてよー。こういう分業化の時って医師同士の連携は上手く行っているはずなんだけど、たまにこういう場合もあるので、患者である自分はしっかりね。先生任せにしてはダメなのよ♪全身麻酔ではなく局所麻酔でオーケーと言われたので、当日は普通に朝食を取り、オフィスへ。それまでにはインプラントの外科手術部分は既に終了していたので、スタッフとも顔見知りになっており、リラックスして臨むことが出来た。麻酔から4本全てを抜歯するまで45分ほどで終わったが、抜歯の時は、ぐいぐいと抜かれている感覚はあったので、やはりちょっと怖かった。恐怖心の強い人は、全身麻酔を選択した方がいいと思う。抜けた歯といえば、自分の子供たちのかわいらしい乳歯しか見ていなかったのでそれを勝手に想像していたのだが、大人の、しかもある程度使い古された歯というのはやたらデカくて全く可愛げがない。記念に持って返る?と言われてノーと即答(笑)。最初から指摘されていた1本のほかにも2本、虫歯になりかかっていたことが分かり、やはり4本とも抜いてしまって正解だった。抜いた跡はしばらく穴がぽっかりと空いていて、それが完全に埋まるまでに結局2ヶ月ぐらいかかったような気がする。食べ物がその穴の中に良く落っこちて不便だったが、まあ、何とかなるものである。とにかく、抜歯後はフロッシングが楽になったし、抜歯前は時々親知らずの周りの歯茎が腫れたりしていたのだが、それも無くなってスッキリ。こんなことならやっぱり学生時代に抜いておくんだった(笑)。
2014.10.15
(仮歯について最後に追記あり)さて、アメリカはクリスマスが終わり、その後は大晦日に花火をぼーんと空に上げ、シャンパン飲んで寝て元旦の一日をダラダラと過ごすと、2日からさっさと通常営業である。私のインプラント治療も新年明けて早々の10日に設定された。インプラントの治療は大まかに4つの工程に分かれる。素人表現で説明すると、(1)問題になっている歯を抜き、(2)抜歯した場所にインプラント体(ボルトのようなもの)を埋め込んで骨にくっつくのを待ち(約4ヶ月間)、(3)アバットメント(人工歯とインプラント体の連結部分)を装着し、(4)人工歯の型を取って作り、装着するという手順である。最近は(1)と(2)の工程を同時にやるのが(少なくともアメリカでは)一般的になっているらしいが、私の場合は、問題になっている歯の周辺が感染を起こしており、それがすっかり収まってからインプラント体を埋め込んだ方が良いという結論になった。特に、私は感染症に弱い糖尿病という持病を持っているため、慎重路線を取ることにした。さて、抜歯当日、普通に朝食を摂って歯科医のオフィスへ赴く。一般の診察室を大きくしたような手術室には複数の歯科助手達が待機しており、局所麻酔の処置などをてきぱきとしてくれた。そこへ歯科医のB先生が登場し、いよいよ抜歯である。私は大人の歯を抜くのだから、さぞかし大掛かりな作業になるのではないかとビビッており、前日までにネットで「インプラント 抜歯 痛み」といったキーワードで検索したりと心の準備をしていたのだが(笑)、これが意外にあっさり終わった。問題の歯をぐるぐると回すような動きを感じたと思うと、糸でそれを固定し、これからガガガガガガと抜くのかと思ったら、それは実は縫合の処置だったらしい(笑)。終わりましたよ、とB先生に言われた時には、「へ?もう終わり?」と聞き返したぐらいであった。ただ、振り返ってみると、インプラント治療の中で一番辛かったのはこの抜歯の後だったように思う。糸で縫合するということは、やはりそれなりの外科手術であり、その後1週間ほど、何となく抜いた跡の歯茎の辺りがジクジクとしており、食べるものも流動食ばかりで4日目ぐらいにはかなりへこんだ。痛み止めは、処方箋薬局でIDを見せないと処方してもらえないような強い薬を処方されたので、それほどひどくはなかったが。。。抜歯した日は軽いラブコメディの映画などを観て、のんびりと過ごした。確か1週間後ぐらいに抜糸に行き、それでだいぶ楽になった。そのぐらいには普通のものもだんだん食べられるようになった。その後、2ヶ月の期間を置いてインプラント体(ボルト)を埋め込んだのが3月。この時は前回の体験もあってそれほど緊張しなかったし、処置後も通常の歯の治療後ぐらいの痛みで翌日にはほぼ通常通りに復帰できた。ただし、この時も強い痛み止めは処方された。B先生はボルトが入った状態を示したレントゲン写真を見せ、「ほら、ボルトはきちんとまっすぐ入っていて、しかも両脇の隙間はきちんと均等になっているだろ」と、自分の仕事に惚れ惚れとした様子で説明してくれた(笑)。さらにその約3ヵ月後の6月、インプラント体が骨にきちんとくっついているかのレントゲン写真をもう一度撮り、合格をもらって、今度は人工歯の型取りと装着である。アメリカの医療業界は分業化が進んでいて、歯医者の世界でも「ボクは歯は作ってあげるけど、外科手術の方は別のところへ行ってね」という場合が珍しくない。一つのオフィスにこのように専門医が集結している場合はまだしも、私の場合のように、全く別のオフィスの場合はちょっと面倒である。自分が加入している保険も、A医師の方は利くけど、B医師の方は利かない、なんてこともある。ただ、技術という面から見れば、インプラント治療ばかりを手がけている医師の方が経験を積んでいて安心だと言えるのではないだろうか。というわけで、G先生のところに戻って人工歯の型取りをしたのが6月末。その後、人工歯が出来上がって装着し、治療が完了したのは実に8月の半ばに入ってであった。途中、一度仕上がってきた人工歯が思ったより色が白かったので、少し色を暗くしてもらうという作業も発生。そのせいで予定よりは少し遅れたのだが、約7ヶ月に及ぶインプラントの治療が無事に終わり、見た目は両隣りの歯と変わりない歯を手に入れた時は、本当に嬉しかった。保険についても、年間限度額である1500ドルのほとんどが予定どおり外科手術のB先生の治療の方で利いて、かなり助かった。<以下、インプラント治療において書き忘れていたことを追記:>4段階の治療のうち、(2)でボルトが骨にくっつくのを待っている間、その箇所は歯が抜けたままの状態になっている。ボルトは、その後の人口歯と連結させるためのアバットメントを装着するのに、頭がわずかに見えているだけである。そのため、仮歯を作ってかぶせておく場合もある。「場合もある」と言ったのは、目立たない場所で本人さえ承知していれば、そのままでも良いからである。最初に見積りを出した歯科医は「作らなければいけない」と言ったが、セカンドオピニオンのG先生は「どっちでもいい」と言った。私がインプラントをした場所は八重歯のすぐ後ろで、それほど目立たない場所だったからである。半年以上、そこには何も無い状態だったが、特に大きな不自由は感じなかった。抜歯と抜糸をしてからしばらくは、そこが真空状態のようになってよく食べ物が吸い込まれたり?していたのだが、それもそのうちなくなった。仮歯を作ってもらうのにも日数と費用がかかる訳だし、これを作ってもらうかどうかについては、医師の見解も取り入れながら、自分で考えて決める必要がある。
2014.10.15
歯医者放浪の旅の最後となったインプラントの外科医とのコンサルテーションにて、私は、「銀歯を外してみないと全貌は分からない」という状況の下では、ブリッジよりインプラントの方が確実だろうという選択の方に気持ちは傾き、その場でインプラントの抜歯の予約をした。その時はすでにクリスマスの1週間前だったが、抜歯は年明けてまもなくである。その翌日、かかりつけ歯科医のところへ行った。ここで、セカンド歯科医からインプラントの方がいいと言われたと告げると、「別にインプラントがダメと言ったわけではなく、どちらでもいいです。そりゃインプラントの医者だったらインプラントを薦めるでしょう」といった言い方をされた。前回の話しぶりからは、銀歯の下に残っている歯の状態が悪くてブリッジが出来ない場合はインプラントになる、ということだと思っていたのだが、私の理解が足りなかったのか?でも、どちらも可能なのなら、前回の時点でブリッジとインプラントと両方の場合の見積もりを出すべきではなかったか? インプラントの場合の新たな見積書を印刷している間、外科手術の部分はやはり別の歯科医が担当すると言う。それは予想していたことであったが、今さらまた新たに予約を取ってその医者に行くのはただの時間の無駄に思えた。これだって、約2ヶ月前の時点で言ってくれていれば、少なくとも比較検討としてこの2ヶ月の間にこの外科担当医のところに行くことも出来たのに。そのほかにも、確かに合点の行く説明部分もあったが、その一方で、治療の順番に関して前回言ったことと矛盾していたり、患者にとって最良の選択はどれかという視点に立って治療を考えてくれているのかが疑問に思えて来てしまったので、この歯科医ではなく、セカンド歯科医チームにお願いしようと決めたのである。私にとっても、セカンド歯科医チームにとっても、まず、銀歯の下に隠れた炎症を起こしている部分が最大の懸念事項であるという点で一致していたので、この抜歯を最優先することにした。(やっと治療が始まるよ)
2014.01.13
さて、複数の歯医者放浪の結果、少なくともどれだけの治療費がかかるかは分かった。我が家はこれまでデンタル保険には加入しておらず(アメリカでは医療保険と歯科保険は別個が一般的)、夫の職場の労働組合の制度を利用していた。これは、とりあえず歯科医に対して全額を支払い、その領収書を組合に提出するとある程度の金額が返って来るという仕組みである。月々の保険料は無し。家族4人分の半年に1度のクリーニング程度であれば自己負担額はそれほどにはならないのだが、今回のように治療金額が大きくなると、これではとても足りない。すると、夫が、今がちょうどデンタル保険の加入更新時期だから加入を検討してみようよ、と言う。何だ、デンタル保険もあったのか。夫の職場から提供されているデンタル保険は2つの会社からそれぞれ1種類の計2種類。大まかに説明すると、(1)A社プラン:加盟している歯医者の数は多いけど、カバーされる金額が少ない。原則として、保険会社と歯医者の間で決められた治療金額の50%をカバーしてくれるが、年間のカバー限度額は1500ドルまで。(2)D社プラン:加盟している歯医者の数は少ないけど、カバーされる金額は多い。ただし、治療の内容によっては1000ドルの限度額が設けられている。また、インプラントはカバーされない。もう、すでにこのあたりでややこしいが、これでも、渡された説明資料の中であちこちに飛んでいる内容を総合してようやく分かったことである。たとえば、治療の総額が5000ドルとして、(1)の場合、あ、じゃあ、50%なら2500ドルカバーしてくれるんだ、でも、この、「保険会社と歯医者の間で決められた治療金額」っていうのは、いったい何なの?単純に、かかる費用の50%じゃないの?で、さらに、読み進めて言ったら、えええええ、ナニ?年間1500ドルまでしかカバーしてくれないんだ?ガーン。。。。というように、この説明資料を読んでいるだけで一喜一憂し、ストレスはMAX。。。夜も寝付けず(笑)。これを、親知らず抜歯、インプラント(あるいはブリッジ)、クラウンのそれぞれの見積もり治療額と月額の保険料などをエクセルシート上に表を作って記入し、比較検討した。その結果、どちらも自己負担額は大して変わらないということが分かった。ただし、(1)のA社プランに関しては、少なくともインプラントの外科医と(気の進まない)親知らずの外科医が加入していることが分かり、しかも、インプラントの外科医が親知らずも抜いてくれると言っていたので、これだけでも年間カバー限度額に達する。さらに、子供たちがかかっている小児歯科医がこちらのプランに加入しているので、子供たちのクリーニングは問題なくカバーされるし、子供たちは今後どんな緊急の治療が必要になるか分からないので、加入していた方が安心。一方の(2)のD社プランの方は、私がこれまで2ヶ月間ほど渡り歩いた中で加盟している歯医者は一人もいなく、D社プランに加盟している(というだけでどんな医者かも全く分からない)歯医者の予約をまた一から取ってコンサルテーションを始めるのは現実的ではなく、また、子供たちが通い慣れている歯医者を変えることにも抵抗があった。現在かかっている歯科医も含めて「保険に加入していない」ことを前提にプロセスを進めていたので、回り道もしてしまったし、正直言って、この手順で良かったとは思わないのだが、でも引き返したところでメリットがあるとも思えない。というわけで、(1)のA社プランに加入することにした。それを決定したのが加入締め切り時期の1週間前。。。まあ、だいたいいつも我が家はこんな感じでギリギリなんだよなあ。。。結果的には間に合うんだけど心臓に悪い。莫大な治療額に始まり、複雑怪奇な保険内容、複数の歯医者を渡り歩く負担と非常に心身ともに消耗させられる2ヶ月間ではあったが、保険の加入申込書を夫の職場に提出した頃には、だいぶ気持ちも落ち着いた。それに前後して、必要な治療の全貌も選択肢もようやく分かり、治療方針を決定する時がやって来た。(まだまだつづくよ)
2014.01.12
家族4人で十分里帰りできそうな治療費の見積もりを示され衝撃を受けた私は、いったいこれが相場なのかどうかを確かめる意味合いもあり、セカンドオピニオンを求めることにした。さしあたって地元の子育てグループのメーリングリストに問い合わせたところ、あるママ友が、自分の友人が歯医者をやっていて、無料でコンサルテーションをしてくれると連絡先を教えてくれた。我が家から地下鉄で十分に通える場所である。サービスも含め何に関してもピンからキリまでを地で行くアメリカのこと、こういう時は知り合いのつてが何よりも頼りになる。ただ、予約を取る電話をかけるまでにはかなりの期間を費やしてしまった。というのも、私には不定期にやっている仕事があり、そちらの日程を決める方を優先してしまったからである。本来なら、自分の体のことを優先すべきだったのだが。。。ただでさえアメリカの医者は診察の曜日が決まっていたり、とにかく予約がなかなかとれない。予約した日を逃すと次に空いているのは半年後、ということもザラである。さらに、私は子供たちが学校に行っている時間しか空いていないので、予約可能な日と時間帯というのはさらに限られる。しかも、受付担当係の人の対応がこれもまたピンからキリで、非常に不愉快な対応をされることもあるだけに、初めての場所に、ちょっと弱気な日などに電話をするのは非常に憚られる(笑)。そんなこんなで全ての条件が整ってママ友に紹介してもらった歯科医にセカンドオピニオンを求められたのは、かかりつけの歯科医のコンサルテーションから1ヶ月も経った後だった。この「セカンド歯科医」は、最初の歯科医のコンサルテーション内容に対し、次のようなコメントをした。(1)あなたの親知らずはかみ合わせもきちんとしているし、これまで特に問題も起こしていないので、虫歯になっている1本だけを治療するという選択肢もアリ。(2)一度治療をしたはずの歯の虫歯が進んでいるのでクラウン治療については、同じ見解。(3)ブリッジを薦められた歯に関しては、レントゲンを見ただけでは、残っている歯がどんな状態かがわからない。そのため、いざ、銀歯を取ってみたら歯をそのまま残せる状態になっていないかもしれない。それなりの治療費をかけてブリッジをしたとしても、あまり長持ちせず、また何らかの治療が必要になるかもしれない。それだったら、残っている歯を思い切って抜いてしまって、長持ちするインプラントにしたらどうか。感染も起こしていることだし、早めに治療を開始した方がよいとおもう。これに対し、私は、このように考えた。(1)親知らずの専門家の意見も聞いて判断しよう。(2)このままいく。(3)確か、かかりつけ歯科医は、銀歯をあけてみたらブリッジではダメでインプラントになるかもしれない、と言っていたような気がするが、ここでは最初からインプラントを薦められた。うーん。どうしよう。でも、私は特に骨を温存することにはこだわっていないし、ここはより確実(完全ではないにせよ)なインプラントの方がいいのではないか?懸案の治療費に関しては、このセカンド歯科医は一般歯科医であるが、それほど安くなる訳でもないことが判明した。半額だったら別だが、治療費が歯科医を決定する材料になりそうにはない。でも、この歯科医はじっくりと時間をかけてインプラント治療の流れを始め、レントゲン写真などを見せながら丁寧に説明してくれて、受付や衛生士の感じもとてもよく、心から「来てよかった」と思えることが出来る診察だった。数日後には、受付係から、知り合いを紹介した場合の割引券とともに、ご連絡をお待ちしていますという内容の手書きの「WELCOME」という郵送のカードも届き、きっと開業医の経営は大変なのだろうが、医師とスタッフが一丸となって前向きに取り組んでいるという姿勢がひしひしと感じられた。さて、ここでも分業は行なわれていて、インプラントの場合、大きく分けて抜歯とインプラント用のネジみたいなものを埋め込む「外科手術」の部分と、人工の歯を作ってはめこむ部分があるのだが、外科手術の部分は別の専門医を紹介するからそこへ行けと言われる。そこで、今度はこの外科医と、それから、かかりつけ医で紹介された親知らず専門医の予約をすることになる。。。アメリカは1年で一番忙しく盛り上がるクリスマス(ホリデー)シーズンに突入しつつあり、学校行事への参加も増え、さらに診察の予約への制約が増えてストレスも増えまくりだったが、何とか空いた時間に予約を押し込み、この2つのコンサルテーションの結果は次のとおり。インプラント外科医の見解は、セカンド歯科医とほぼ同じ。インプラント推奨。普通は抜歯後に即埋め込みをするが、私の場合は根元が感染を起こしており、しかも一般的には傷や感染が治りにくい糖尿病を持っているので、感染が確実に治まったのを見届けてから埋め込みをやった方が良い。感染は血糖値の悪化にもつながるので、早く治療を開始した方がよい。親知らずの方は今のところ大きな問題にはなっていないので、こちらを優先させるべき。この先生も、セカンド歯科医と提携していることもあってか、とても雰囲気が似ていて、アメリカ人らしくちょっとジョークも交えながら、この治療が終われば”You will feel better.”と、それまで莫大な治療費のことも含めてかなり悲観的になっていた私に希望の光を与えてくれた(笑)また、持病の事も考慮に入れてくれたのは大きな信頼につながった。親知らず専門医:虫歯になっている1本だけを治療するということもできるが、奥の奥にある歯なので開く角度が狭く治療しにくい。他の歯もそれぞれ少しずつ問題があるので、4本とも抜いてしまった方が良いと思う。この先生はただ単に真面目な性格だというだけなのかもしれないが、ニコリともせず、手短に終わらせたいという雰囲気がありありで、インプラントも手がけるというので、その説明も他の先生と内容は同じであったので間違ってはいなかったのだが、こう、突っ込んで質問したら嫌がられるのではないかと言う気さえしてしまい、他の先生からすでに説明は受けて疑問点は解決していたのでここで新たに質問もしなかったのだが、感触はあまりよくなかった。ここを最初に訪れていたら、インプラントに関する知識は得られなかったではないかと思う。オフィスもやや雑然としていて、受付3名も、一人はとても感じが良くて説明もきちんとしていたのだが、一人は感じも悪く、と、印象がバラバラだった。また、これまでの医師はその場で治療費を自ら言ってくれたのだが、この医師は受付に聞けという。医師ではなくて事務係が治療費を提示する場合もあるらしいのだが、私には初めてのことだったし、しかもここでは医師と受付の連携が上手く行っていなくて、受付係から急に「予約はいつにしましょうか」と言われ、私は治療費がいくらかも分からないのにどうして予約が出来るのかと気が動転してしまって、かろうじて親知らずを抜く治療費は教えてもらったが(でも、金額の数字だけを羅列した手書き)、インプラントの治療費を聞きそびれてしまい、セカンド歯科医から紹介されたインプラント外科医の治療費との比較が出来なくなってしまった。その後、Eメールで問い合わせたのだが、梨のつぶて。いずれにせよ、ここで治療を受ける気は失せていたので、そのまま放置状態である。とりあえず、得たい情報と見解は揃った。次は、莫大な治療費をどう捻出するかである。。。(つづく)
2014.01.11
アメリカに来て早いもので13年が過ぎ、これまで病院関係ではいろいろな科にお世話になったものの、歯医者の方は半年ごとのクリーニングとちょっとした虫歯の治療ぐらいで済んでいた。それが今回、インプラントを始めとする大掛かりな治療を始めることになり、アメリカの歯医者事情を知ることとなった。日本でも難しい治療といえばクラウンぐらいで、最近の事情も分からないが、今回の私のこちらでの経験が誰かの役に立つかもしれないし、自分の覚書としての目的も兼ねて、記録に残しておくことにした。さて、半年ごとのクリーニングについては、しばらくはペルー出身の歯科医にお世話になっていて、丁寧で痛くない治療や虫歯治療へのすばやい対応など、とても気に入っていたのだが、何せオフィスが我が家からは遠く、子供が2人になってからは通うのを諦めてしまい、ここ最近は、電車で家から通いやすいところを。。。という条件で選択した歯科医のところへ通っていた。昨年9月の定期クリーニングの際に、あちこち問題が出てきているので、全体のレントゲンを取ってのコンサルテーションを薦められた。その結果、以下の3つの大きな問題を指摘された。(1)親知らずのうち1本が虫歯になっている。これを治療代を払って治療するなら、いっそのこと4本とも抜いてしまったらどうか。(2)一度治療をしたはずの歯の虫歯が進んでいるのでクラウン治療が必要(3)10年以上前、日本でクラウン治療した歯が実は根っこまできちんと治療されておらず、根っこの部分が感染を起こしている。ブリッジを薦める。(3)のブリッジは、ハロウィーンの際にドラキュラに仮装する際のドラキュラの歯(笑)のように、虫歯を削るなどして欠けた歯とその隣の歯に人口の歯をかぶせて留めるというものである。この歯は左上側のちょうど口角に近いところで、まだ日本にいる時に、当時住んでいた町の歯医者で治療してもらったのだが、事前に十分な説明も無く(まあ、インフォームドコンセントが浸透していなかった当時、しかも大都会でもない町医者ではそれが当たり前だったのかもしれないが)、にっこりと微笑むのではなくガハハと笑う私はそこが銀歯になってしまったことにかなりショックを受けた。でも、それはそういうものだと思って抗議もしなかったし、まあ、もう結婚しちゃったから見栄えもそんなに気にしなくてもいいし(笑)などと自分を慰めてそのままにしていたのである。そんなわけで、今回、この銀歯とお別れできるのであればこれ幸いと思ったのであるが、出された見積もりの金額を見て愕然とした。これなら家族4人でJALの直行便で里帰りしても十分お釣りが来るではないか!その様子に気づいたのか、先生に「この金額は専門家の金額ですから。よく考えて1ヵ月半後にまた来てください」と言われた。私はこの時初めてこの先生がProsthodontist(補綴専門歯科医)であることを知った。この英語も日本語も今回初めて意味を知ったが、これは『失ってしまった歯や歯の形を人工の歯で修復する』という治療を専門に行なう歯科医のことだそうである。どうりでクリーニングの時は歯医者自身ではなく歯科衛生士がやるわけだ(そうじゃないと、とんでもない金額を請求されることになってしまうんだろう)。さらに、この先生は、親知らずの抜歯はしないので、別の専門の先生を紹介するからそこでやってもらうようにと言う。このようにアメリカ(少なくともボストン)の歯科業界は、専門性が分かれているということも初めて知った。医科業界の方はそうだと言う事は経験で知っていたけれど、歯医者の世界もそうだったのか。こうして、その後およそ1ヶ月以上にわたる歯医者のコンサルテーションと見積もりを渡り歩く旅が始まったのである。。。 (つづく)
2014.01.11
爆発が起きた当時、私は別の地域へ、夫と子供たちは現場近くのお店に向かってそれぞれ電車に乗ったり外を歩いているところでした。先に事件のことを知った夫が私のケータイの留守電に、事件があった、我々は無事、これから帰るという連絡があり、大丈夫だということは分かりましたが、詳しい状況までは分からなかったし、家に戻って再会できるまで心配でした。でも、おかげさまで、無事でした。私が住んでいる地域のママ友は、このボストンマラソンに出場していました。彼女は完走も出来たし、爆発によるケガはなかったようです。 でも、彼女は、ボストンの都会の家庭的に恵まれない子供たちを大学に行かせようという団体の募金を集めるチームの一員として、走っていました。その仲間が2人、ケガをしたようです。 アメリカ人は、こうやって、レースをしたり、歩いたりというイベントに参加する時に、自分の記録のためだけでなく、こうやって、チャリティ団体のチームに属して、自分が設定した目標額の募金を集め、その団体に貢献するということをよくやります。 彼女も、ずいぶん前からFBなどで寄付を呼びかけ、オンライン、オフラインで、5000ドルの目標額を達成しました。企業や大きな病院の呼びかけだったら、一人1000ドル以上といった大口の寄付額を集めることも出来ますが、彼女の場合は個人ですから、彼女はフルタイムで仕事もしながら、数百人の友達や知り合いにコツコツと声をかけ、募金を集めたのです。 レースの前日は彼女がゼッケンを手に入れて満面の微笑みで立っている写真がタイムラインに流れてきました。 そうやって、彼女のように、たくさんの人が、マラソン自体の練習だけでなく、誰かのために何らかの目的をもって前々から準備をして、このレースに臨んだのです。 そういう、尊い志を、こういった形で踏みにじるのは、本当に卑怯で許せないことです。
2013.04.17
2型糖尿病と診断されてから今年でちょうど30年になる。去年までは、30周年記念パーティーと称して、盛大にパーッと騒ごうかなどと気楽に考えていたのだが、いざその年を迎えてみると、これからの残り約60年(100歳まで生きるとして 笑)という年月の長さが現実として重くのしかかって来て、とてもお祭り気分ではなくなってしまった。この30年間、自分でも良く頑張ったと思えるのは妊娠中だけで、あとは常に前向きに頑張って来られたわけではない。これで合併症が出なかったのは、神様が大目に見てくださったから他にならない(神様のことは信じていないけど)。これからの60年間もこんな調子だったらいつか必ず神様に見放されるから(神様のことは信じていないけど)、この辺で心を入れ替えて真摯に取り組まなければらなければならない。という、自戒の意味も込めて、ここで一つの区切りとして、私が考える『糖尿病と仲良くするための3つのコツ』を記しておきたいとおもう。あくまで『私が考える』コツであるので、これが正しいというわけでもなく、医療的側面からも必ずしも奨励すべきものではないかもしれないので、その点はご理解いただければ幸いである。1.デキない自分を認める。コツを「3つ」と書いたが、1つだけ書けと言われたら絶対にこれを選ぶ。世間は東西を問わず、ダイエットするにはどうすればいいかという情報が常に溢れている。これは、それだけ人が食べる物を制限することが難しいことの表れだ。食欲は人間の3大欲求の一つである。食べるなというのは寝るなということに等しい。しかも、人間は高等な脳を持つ動物に育ってしまったゆえに、おなかが空いていなくても食べてしまうこともある。また、糖尿病の食事療法は(合併症などがない限り)「何を食べてもいいけど、量はきちんと守りましょうね」というものである。これほど中途半端な指示があっていいものだろうか。そういうことを、この病気になったら一生続けなければいけないのである。そんな難しいことを、自分はやろうとしている。そんな自分ってすごい!まずそうやって自分のことをブラボーと褒めよう。ただ、長い人生、ちゃんとできない時もある。病気が分かってから、どうやって食べていいかを体得するまでにもかなり時間がかかる。そういう、完璧でない自分を認めよう。そこから何ができるか、少しずつ考えて実践していけば良い。2.自分の『合格ライン』を知る。血糖値の管理は、毎日ガチガチに頑張れば、糖尿病でない人と同じにすることは出来るかもしれない。でも、私は、100点満点中75点が合格ラインでいいのなら、75点を目指せばいいとおもう。ある一定期間だけ(たとえば妊娠中とか)頑張ることは出来るが、人間、それほどずっと頑張れるものではない。頑張りすぎると反動が来て、かえって管理がめちゃくちゃになるってこともある(経験済み)。大事なのは、自分の『合格ライン』はどこなのかを把握することだ。糖尿病の管理をして行くうえで、食の付き合いがあったり、外食が続いたり、今日は気分がむしゃくしゃしてパーッと飲みたい!と思ったり、という、いわゆる『例外』の日というのはつきものである。そうじゃなくても、思ったより血糖値が高い時もある。それをどこまでやっても大丈夫か、というのをカラダで覚える。そういう例外の日を進んでやっても良いと言っているわけではないのだが、この合格ラインを知っていると、血糖値が高くなった時に『このぐらいなら大丈夫』と余計な心配をしなくて済む。血糖値に一喜一憂しないということは、精神衛生上非常に大事なことであるから。3.ライフスタイルにあった管理方法を選択する外食がどうしても多くなって血糖値の管理が難しいというライフスタイルなら、それを含めた管理方法を選択する。外食をしない時に合わせた管理方法を選択してもそれは意味がない。あるいは幼い子供が2人毎日家にいて、世話にかかりっきりで食事の時間もまちまちで、バランスの取れた食事を作ることも難しく。。。というライフスタイルだったら、子供がいなかった頃の優雅で規則的な生活に合わせた管理方法を継続しても意味がない。特に、20代から40代ぐらいにかけてはライフスタイルがコロコロと変わり、それに伴うストレスも多くなる。『理想の生活』にあわせた管理方法ではなく、『現実の生活』にあわせた管理方法をその都度選択する。
2013.02.22
夏休みになると、必ず「読書感想文」の宿題が出た。夏休み中に課題図書を読んで感想を書く、という宿題である。読書はどちらかというと好きなほうだったが、この感想文を書くという宿題は嫌いだった。恐らく、あれが大好きで嬉々としてやっていた人は少ないんじゃないかとおもう。どちらかというと「嫌な宿題」の代名詞として語られていることの方が多い気がする。で、なぜ嫌だったかを思い返してみると、恐らく、どうやって書いていいのかはわからないのに原稿用紙を指定枚数分書かなければいけないのがこの上なく苦痛だったからではないかとおもう。一方で、今、現地校の小学校3年生に通う娘のルナは毎週のようにブックリポートと呼ばれる読書感想文を書かなければならない。日本の学校の夏休みのように長々と書かなくてもいいのだが、娘にはそれほど苦痛ではないようだ。どうしてなのかと思って、一体どうやって書くのか聞いてみた。すると、ルナは、「この本はどんな内容か」「この本のどこが好きか」「なぜ好きなのか」を書けばいいのだと、あっさりと言った。(しかも、これを実際に聞いたのは昨年度の2年生の時である)そうか。そうだよ。読書感想文とは、そうやって書けば良かったんだよ!でも、私は学校で、そんな風に、感想文の具体的な構成については教えてもらったことはないような気がする。主人公の気持ちになって考えてみましょう、とか、そういうことは言われたような気がするが、それをどういう構成の中に収めれば良いかについては言及されなかったとおもう。皆さんはどうだろうか。そして、今の子供たちはどうなのだろうか。
2013.02.16
私の通う糖尿病の専門クリニックでは、定期的に外部の関連企業に対して糖尿病に対しての理解を深めるセミナーを開いており、そこに時々患者代表として体験談を話して欲しいと呼ばれることがある。これまでは、アジア人と糖尿病といった観点で依頼されることがほとんどだったのだが、今回は「妊娠以前に糖尿病を発症していた人に、妊娠前、妊娠中、妊娠後の生活がどう変わったかについて話して欲しい」と言われ、二つ返事で引き受けることにした。当日は、- 1型(インスリンが枯渇していて、生命を維持するためにインスリン注射が必須)のお母さん、- 2型(インスリンは分泌されているが、量が足りないか、上手く利用できない。食事と運動だけで管理できる場合もあるし、それが無理だと経口薬やインスリン注射で管理。一般に、成人病、生活習慣病と言われているのはこのタイプ)のお母さん(=私)、そして- 妊娠糖尿病(妊娠時だけ2型糖尿病の状態になる。多くは出産後に正常に戻るが、そのまま糖尿病に移行する人や、何年か経って発症する人も)のお母さんの計3名がパネリストとして参加し、20名ほどの研修者に対し、まず自分の病歴や妊娠前、妊娠中、出産後にそれぞれどんな風に生活スタイルを変えたかについて話をし、その後、質疑応答が行なわれた。どんなタイプにしろ、妊娠中は血糖値をできるだけ正常な状態に保つことが目標となり、その目標値も普段よりは厳しい。私はこのたとえを良く使うのだが、普段100点満点中75点で合格点のところを、限りなく100点に近づけるようなものだ。普段75点しか取れない人が、100点を目指そうとするのだから、これは結構キビシイ。しかも、それを1年近く続けるわけだ。これを怠ると、巨大児や心臓疾患などの問題を引き起こす可能性が高くなる。問題を抱えて子供が生まれて来る可能性は誰にでもあるわけだが、自分の不摂生のせいでそれを引き起こすのだけは避けたい。でも、それが自分の頑張りにかかっていると考えると、それはそれでかなりしんどい。3名のお母さん達は、それぞれ病態も妊娠・出産までのストーリーも異なっていて、大まかに言えば、1型・2型を問わず妊娠する前に発症していると、食事や薬物療法などはある程度の変化はあるにせよ既に生活の一部になっているため、妊娠糖尿病の人に比べて劇的な生活の変化を迫られることはない分、ある意味ラクなのかな、と思った。その一方で、妊娠糖尿病の場合は食事や運動だけで管理できることが多いので、管理自体は楽なのかもしれないが。ただ、ある研修者から「妊娠中、血糖値の管理を良好に保つための一番のモチベーションは何だったのか」と聞かれた時に、まるで事前に口裏を合わせたかのように、誰もが「とにかく自分の体の中に別の誰かが存在していて、その存在に対して自分が全責任を負うという、そのプレッシャー」と言ったのは、もう見事としか言いようがなかった。そして、私は今の今まで、他の誰ともこの気持ちを共有したことはなかったことにも気がついた。特にそれをずっと求めていたわけではなかったが、初めて出会い、病態もそれぞれの経過もこれだけ異なる人達が、この点だけはピタリと同じ共通の認識を持っていたのは正直、非常に驚いた。まるで、映画を観ていて、突然どんでん返しの展開を見せられた時の高揚した気分を味わったかのようだった。もちろん、何の持病もない妊婦さんだって、お腹に子供がいると分かれば体に良い物を食べたり、健康な生活に心がけたりするだろう。だが、糖尿病を持っている場合は、失礼を承知で言わせてもらえば、「そんな生っちょろい」ものではない。自分の不摂生で血糖値が必要以上に上がった場合、子供が砂糖漬けになって何らかの問題を引き起こしてしまうのではないか、という恐怖と1年間近く闘うわけだ。まあ、2人目の時は、少なくとも私の場合は、それほど神経質にならなくても何とかなるということが分かって、しかも上の子の世話に追われて良くも悪くも完璧には出来ないことがかえって救いになったりもしたのだが、じゃあ、もう1度やりたいかと言われると、私はもう2度とやりたくないし、やれない。そして、多かれ少なかれ、妊娠生活=血糖値に一喜一憂する生活になりがちなこと、それが、周囲の祝福ムードや「妊娠中はお腹すいちゃってついつい食べ過ぎちゃうよねー」といったような別に何の悪気もないコメントとのギャップに傷ついたり悩んだりすることについても皆が同意した。(私はそれで、1人目の妊娠初期に精神的に不安定になって、ソーシャルワーカーのカウンセリングを数回受ける必要があった)さらに、生まれて来た子供達は、何らかの糖尿病になる因子を持って生まれて来たはずで、将来発症する可能性も高く、それについては心配もするが、やはり、その子供達がお腹の中にいて、自分の行動が直接直ちに影響するそのプレッシャーに比べたら、それはもう気分的にはずいぶん楽だという意見にも納得できたし、また、これに関しては私はそれほどの覚悟があって毎日を過ごしているわけではないのだが、少なくとも子供が大きくなるまでは、自分が健康でいなければならない、という気持ちが現在のモチベーションになっているとの意見にも頷けるものがあった。セミナーが終わってからは、お母さん同士で子供の写真を見せ合いっこし、その後はあっさりと別れたが(違うセミナーでいつも一緒になる人とはその後朝食を一緒に食べたりするのだが、あの人は元気で過ごしているかな)、研修者の人達のためにというよりは、むしろ自分のためになったような充実した1時間だった。この種のセミナーに患者として参加して話すと、1時間という短い時間の間に、自分の人生のもはや3分の2を占めることについて、しかも普段はなるべく触れられたくない部分までさらけ出すことになるので、一気に身ぐるみ剥がされたような気分になってどっと疲れる(しかもこれがいつも朝8時開始とか早いんだな)。でも、今日はセミナーの後に、新しい仕事の面接を終えた姪っ子と合流してたわいのないおしゃべりをし、わりと早く日常のペースに戻ることが出来たし、私はこれだけの思いをしても、こうして興味を持ってくれる人達に自分の体験を話すことは意義があると思っている。自分のマイナス面が、他人にとってはプラスになることは、こうして確かにこの世に存在するのだ。
2012.10.18
私はヒューマログという超速攻型(速く効いて、速く効果が薄れる)のインスリン製剤を注射して血糖値を管理しているが、この前、半年ごとの糖尿病の定期健診に行った時、主治医がビクトーザという新薬を薦めてくれた。ここ5年ぐらいの実績があるという。こちらも注射式で、見た目も打ち方もヒューマログのペン型注射器とほぼ同じ。インスリンの場合は、食事に合わせて1日3回打つが、これは決まった時間に1回打てば、24時間作用が持続するとのこと。別にインスリンの生活で困っていた訳ではないのだが、せっかく薦めてもらったので、試してみることにした。ちなみに私の一日の血糖値の目標値はこんな感じ(単位:mg/dl)。(1)朝食前 75(基準値は110未満)(2)朝食後2時間 140以下(3)昼食前 110以下(4)昼食後2時間 140以下(5)夕食前 110以下(6)夕食後2時間 140以下私の場合、前日の(6)から(1)は自力で勝手に戻り、(1)は全くの正常値なので、この値だけを見ると私は糖尿病だとは分からない。でも、後の(2)から(6)の目標値を達成するには、食事の量、インスリンの量、運動量で調節するしかない。インスリンを打たずに食べていると、(2), (4),(6)の食後2時間の血糖値は300近くになる。糖尿病ではない人は、2時間後の血糖値が140を超えることはまずないし、食事前も110以下に戻っているはず。インスリンの量は、食事前に、これから食べるものに含まれる炭水化物の量に応じて計算して決めて打つ。だいたい、毎回の食事の炭水化物量が一定になるようにはしているが、どんな食べ物に、どれだけ炭水化物が含まれているかについては、基本的なものについては覚えるか、食品表示ラベルを頼りに判断する。自分で作った時は計算しやすいが、外食や、人に作ってもらったものについては全て経験による目分量。たとえば朝食。8枚切りパン(アメリカだとよくある正方形の小さめの食パン2枚)にスクランブルエッグにハムにサラダ、みたいな献立だと、私は食前にヒューマログを2単位打てば、2時間後の血糖値(2)は140以下に収まる。この後、1時間ぐらいしてちょっとお腹がすいたらクラッカーでもつまんで、その後1時間ぐらいして(3)昼食前に100以下になっていれば万々歳。その後は昼食も夕食も、朝食と同じようにして、食べる炭水化物の量に応じてインスリンの量を計算して打つ。要するに、1日3回打つ。おやつにケーキとか炭水化物(砂糖・粉)の多いものを食べる時は、さらにその前に打つこともある。で、いちおう食事の15分前に打たなければならない。いちおう、と書いたのは、そんな、普段の生活ではぎちぎちと時間通りには行かないからである。それから、上記の(1)から(6)の目標値を達成しているかどうかについては、血糖値測定器で確認するしかない。自分の感覚は、極端な低血糖の場合を除いて、あまり当てにならない。私は血糖値測定は1日6回ではなく、多くて4回ぐらいであるが、血糖値を測定して、インスリン注射をして、15分待って、食べる、というのをやるのは至難の業。特に、子供達がお腹をすかしているところにわーっと食事を作って、さあ、食べましょう、という状況の中で、こんなことをしようと思ったらストレスたまってかえって血糖値が上がりそうだ(笑)。だから、そういう意味では、1日1回決まった時間に注射を打てば終わり、というビクトーザは画期的だった。この1日1回というのを忘れやすいのが欠点であるが(インスリンの場合は、「食事の前」というのがきっかけになるので忘れにくい)、朝起きた時とか、夜寝る前と決めて、アラーム時計をセットしておけば忘れることもない。しかも、家にいる時間帯に注射時間を決めておけば、注射セットを持ち歩く必要がない。これも荷物が減って便利。あとは、急いでいてとにかくパッと食べたい時にすぐに食べられるのも便利。また、ビクトーザは基本的に血糖値が高くなった時だけに作用するらしく、インスリン注射の最大の副作用である低血糖の心配がほとんどない。低血糖は、主に、食事の量に対してインスリンの量を間違って過剰に打ってしまった場合に起こる。私は、外食した時に、炭水化物の量を過大に見積もってしまった時や、食事前の血糖値が、それまでにダラダラ食べしまったとかで100以上になってしまっていた場合、いつもより多めにインスリンを打つことで次回の食後の血糖値を調節できるのだが、その見積もりを誤ってしまった場合に起こる。落ち着いて計算すればまず間違いはないが、何か他のことに気をとられていたり、忙しい時など、診察直前で検査の値を良くしようというプレッシャーを感じている時(笑)などは、つい見積もりを誤って低血糖を起こしてしまう。だから、低血糖から解放されるというのもすごく画期的。以上まとめると、一日に1回、食事時間とは関係のない時間でも注射可能なので注射一式を持ち運ぶ必要がなく、食事前にいちいち注射する必要もなく(家ならいいけど、外出先だと注射を打つ場所を選ぶ。私はいつもレストランのテーブルの下でこそこそやっているが 笑、テーブルのないところ、たとえば日本語学校の運動会で屋外で皆でゴザを敷いて座っているという場合なんかだと、やっぱり人前で服をめくって注射をするのは気が引けるのでわざわざトイレに行ったりすることになる。で、トイレの前が長蛇の列だったりすると。。。)、さらに、低血糖の心配もない。要するにQOL(生活の質)は大幅に向上する。糖尿病を持つ人にとって、このQOLというのは非常に大切だ。一度なってしまったら基本的には完治しないので、治療も一生続く。一時的な病気なら、ある一定の期間、少々日常生活が制限されたとしても集中的に治療するということも出来るが、糖尿病の場合は、日常の生活を続けながらの投薬や注射となるので、その日常生活が脅かされるほどの不便さを伴う治療方法では困るわけだ。だからこそ、主治医はこの薬への切替を薦めてくれて、それまでは特に不便を感じていなかった私も、実際に使ってみたらそのQOLへの効果を思いのほか実感できて、この薬を使用する方向に大いに気持ちが傾いた。こう、今まで使ってた普通のケータイでも別に良かったんだけど、iPhone試しに使ってみたらもう便利で今さら元に戻れない、ってそんな感じ(iPhone持ったことないから分からないけど)?ところが、この薬を継続するには大きな壁があった。吐き気と食欲減退という副作用だ。私が食欲をなくしたらこの世は終わりと豪語してもいいぐらいの食欲旺盛なこの私が、本当に食べられなくなった。多分、普段の半分ぐらいの量だったと思う。朝はそれでもお腹がすくが、残りの食事はとにかく必死で食べる、という感じだった。それで週2回のズンバは欠かさず行っていたので、この薬を試している20日間足らずの間に6ポンド(約2.7キロ)痩せた。これも画期的!と言っている場合ではない。私は、もともと2人目の妊娠中に太ったものが完全には戻り切れていないまま現在に至るので(何年経ってるんだよ!)、今回その分が減っているだけなのだが、夏の間に食事の量に気をつけてズンバに週2回行って、2ヶ月かかって3ポンド痩せたそのペースから比べたら、ちょっと早過ぎる。しかも、今の体重でもBMI値は正常範囲内なので、主治医からはこれ以上痩せなくても良いと言われている。私の昔を知っている人(というよりは、主に親)から太った太ったと言われるのが煩わしいので、もう少し減らしてもいいかな、と勝手に思っているだけである。だいたい、昔の私は薬物に頼らず食事の量を極端に減らして血糖値を管理していたので、痩せすぎだったし、お腹がすいてすいて惨めだった。で、空腹感から解放されたのは快適だったけど、あまりに長時間食べなくても平気だったのはちょっと怖かった。よく、痩せたくて違法薬物に手を出す人がいるという話を聞いたことがあるが、その気持ちが初めて分かったような気がした。主治医はしばらくすればこの副作用は消えると説明していたが、私の場合は、この薬を試している間、ついに消えることはなかった。その間、私の加入している保険会社がこの薬には保険を適用しないとの判断を下した。理由は要するに他の安価で実績のある経口薬を先に使えと。私はこれは数年前に試して効果がなかったので、これを不服として申し立てする機会も与えられたのだが、仮にそれが通ってこの薬に保険が適用されたとしても、この副作用が消えないままなら使いたくないし、その他にも、これまでごく一部のネズミには出ているが人間には出ていないという少々気になる副作用もあったこと、昼食前の血糖値が戻りにくいこと(これは薬物を使わない時の私の問題点。インスリン製剤を使っていると、ほぼ戻るし、戻っていない場合は、その時点でインスリンの量を調整して打てば、その後の血糖値を目標値に収めることができる)もあり、やはり実績もあり、血糖値管理の小回りも利き、(少なくとも私にとっては)重大な副作用のないインスリン製剤の注射に戻ることにした。インスリン製剤に戻った途端、胃のつかえが嘘のように消え、いつもの空腹感が戻ってきた。そして、食べずに痩せた分は、食べることで順調に戻りつつある(笑)。いやー、薬は本当に怖い。また、食べて運動して痩せるという、地道だけど確実なダイエットのやり直しだ。まあ、ちょっと残念、というか、ちょっと夢を見させてもらったというか。でも、この30年間で糖尿病をとりまく環境は薬もQOLも含めて飛躍的な向上を見せている。私が今後100歳まで生きるとして(笑)、その間に、また何か便利で副作用の少ない治療方法は出てくるだろう。それまで、また、適当に息抜きしつつ、ぼちぼち頑張って行こうと思う。
2012.10.03
早いもので、渡米してから今年の11月で12年になる。そうすると、こちらにいらしたばかりの日本人の方からは「日本とアメリカとどっちが良いか」という質問を良く受けることがある。これは結構難しい。日本の方が良いこともあるし、アメリカの方が良いこともある。だから、どっちが良いとは一概に言えない、というところが優等生的な答えではあるが、私は自分のアイデンティティーとの絡みがあって、さらに複雑化している、というのが正直なところである。今、思い返してみると、小学校4年生で3年間のおふらんす生活を終えて日本から帰国して、2000年にこの地ボストンに来るまでの約22年間は、私にとっては、少々大げさに言えば、日本社会に受け入れられてもらおうと最善の努力はして、かなりイイ線までは言ったものの、結局は完全には受け入れられなかった22年間だったのだなあ、ということである。じゃあ、「アメリカの方が居心地がいいんですか」と聞かれると、そういうわけでもない。このボストンでの生活で気に入っている側面はいろいろあるし、逆に、もう、どうしても我慢がならなくて「ああ、日本に帰りたいな」と思わされることもある。ただ、ひとつ言えるのは、ここでは、受け入れられようと努力するストレスから解放されている、ということである。どうせガイジンなんだから受け入れられようなんて思わなくていいや、と自分が開き直れるから気楽なのである。でも、私が本当に自分らしくいられて、受け入れられていると感じるのは、実はあまり場所とは関係がない。それは、たとえば、同じ境遇と言うことで年を経るごとに絆が深まっている日本語学校の親達であったり、フェイスブックを通じて昔と変わらずバカ話をしてもマジメな話をしても盛り上がれる高校や大学時代の友達であったり、合宿みたいな環境で苦楽を共にした元職場の仲間であったり、少しずつコミュニケーションを怠らずに努力して来たことが実って心を開いてくれた地元のママ友・パパ友であったり。それぞれ、暮らしている場所も、知り合ったきっかけも、今置かれている環境もいろいろなのだが、何かしら心のつながりを感じることができて、学び合い、支え合い、助け合えることが出来る人達との「場」が、私にはある。そして、それが、私にとっては、一番身近な自分の夫や子供達も含めて、どこに暮らすかということより、大切で必要なことなのである。
2012.09.30
息子が先月まで1年間通っていたプリスクールのイベントに行って来た。またまたファンドレイジング(資金集め)が目的で、今回は”Touch-A-Truck”というもの。これは「トラックをタッチする」という文字通り、消防車など大型自動車を始め、警察のオートバイやパトカー、あるいはトラクターなどが駐車場のような大きなスペースに一同勢ぞろいして、自由に触ったり乗ったりできる。まあ、消防署に学校見学などで行ったりすると、消防士さんが説明してくれて消防車に試乗させてもらったり出来るわけだが、このイベントでは、こちらが出向くのではなく、あちらから出向いてもらうわけだ。しかもいろんな機関から一度に集まるので、参加者は興味のあるものを少しずつお試しできる。私も息子がまだこのプリスクールに通っている時に、この「出向いてもらう」ための交渉プロセスに関わったのだが、ほんと、私、こういう営業関係は苦手。。。だってさー、消防署とか警察に電話して、消防車とかパトカーとか持って来てくださいって頼むのなんてそんなもう恐れ多くて誰がそんなこと出来ますかいな。。。我が家は夫側の親戚を頼ってストリート・スウィーパー(要するに、道路の清掃車ね)をゲットする当番になったのだが、なかなか担当者までたどり着かず、義母が自分ちのピックアップトラックを持って来てくれると言ってくれて、それでお茶を濁すことに。。。後は、消防署員の親戚を頼って、とりあえずどこに電話すればいいかを聞くとか。。。何か、いかにも、自分はいちおう貢献してますと言わんばかりに。。。後から分かったことではあるが、このTouch-A-Truckイベントと言うのは、ファンドレイジングの中でも一般的なものらしく(日本で言うと「幼稚園のバザー」と同じようなレベル?)、警察や消防署などお堅い機関とはいえ依頼される側も馴れているみたいだ。でもやだよ、私は。しかし、このイベントを仕切ったお母さんの有能さと、関わった他の親達の交渉力と人脈と営業力が功を奏し、当日は工場跡みたいな建物(今はアートスペースになっている)の駐車場スペースに乗り物が勢ぞろい!私のイチオシは航空会社勤務のお母さんがコネで調達して来たケータリング用の大型トラック。荷台が飛行機の高さまで到達するようにエキスパンダーで上下するようになっていて、それも実演してくれたらエライ高さですごい迫力。それから、ボストン市の消防車も来てくれたが、その他にもMassPort(マサチューセッツ州港湾局?)の消防署の小型トラックも来てくれて、その消防士さんは非常に知識が豊富でとても勉強になった。試着コーナーのヘルメットと防護服はとてつもなく重く、これにさらにタンクを持つなんて考えられない。尊敬。。。この人は空港勤務らしいが、病気やけが人など、結構出動回数は多いらしい。ヘルメットは皮製で、アメリカ独立宣言に関わったフランクリンがそのデザインに一部関わっていたとか、制服についているホルンを象ったロゴは、階級によってどんどん数が増えていく、つまり、ホルンが多ければ多いほどエライ人だと言う意味らしく、しかも、このホルンは、その昔、火事が起こると付近の住民にそれを知らせるために消防士が使ったとか。なかなか本からの知識では得られないことを教えてもらい、非常に勉強になった。いやーほんとタメになるわぁー。息子はほぼ1ヶ月ぶりにお友達と会えてとても嬉しかったらしく、一緒に乗り物に乗り込んだり、会場を駆け回って遊んでいた。娘はいつの間にかフェイスペインティングの仕事を買って出て、真剣な面持ちで小さな子供達にフェイスペインティングを施していた。餌食となったお子さんならびにその保護者の方々、心よりお詫びを申し上げます。。。(でもそんな娘の姿を遠目に見て「やっぱり!」とげらげら笑っていた私と夫。。。)毎度のことながら、こういうイベントに対するアメリカ人の組織力、統率力は尊敬に値する。特に、全員が協力・参加しやすいように仕事を分担する方法など、本当に上手い。ただ、それでも全員が全員同じレベルとエネルギーで以って貢献するわけではなく、必ず当然、ほとんどやらない人もいるのだが、そういう人達はこう、自然淘汰されて行くというか、もう、リーダーシップを取る人のパワーに蹴落とされていくというか(笑)私はもうこのプリスクールには関わっていないこともあって、最後の片付けとか、地味に手伝わせてもらいましたが、いやー、今回もアメリカの底力を見せてもらいましたわ。
2012.09.30
アメリカではファンドレイジング、いわゆる「資金集め」が盛んである。その最たるものは、大統領選の資金集めなのだろうが、そこまでの規模に至らなくても、ご近所界隈のレベルで、あちこちで行われている。ただ単に募金箱にお金を集めるのではなく、何かしらのイベントと抱き合わせになっている場合が多いのが特徴で、よくあるのは、「○○ウォーク (WALK)」と呼ばれる、皆で集まってある場所から場所まで歩くというイベントである。たとえば、ダウン症の男の子を持つ親戚は毎年、こちらに参加している。http://www.buddywalk.org/このウェブサイト上に参加者が各自ページを持つことができ、自分の募金の目標額を提示する。そして、ページのリンクを貼ったEメールのメッセージを、めぼしい人に対し、メッセージとともに一斉に送信する。そうすると、このメッセージを読んで募金をしたいと思った人は、このリンクからページにアクセスしてオンラインで募金が出来るという仕組みになっている。この規模のイベントでは、だいたい同じような仕組みが出来ている。そこまで行かない個人単位の場合は、もう少しアナログな仕組みで実施される。たとえば、先日、アレックスが通うプリスクールで行われた、「プリスクールにエアコンを設置しようキャンペーン」。このプリスクールは、去年の9月半ば過ぎに地元の親達で場所を借りて一から作ってオープンしたので、エアコンがまだなくて、これから本格的な夏を迎える前にぜひ設置しようとのことで始まったキャンペーンである。寄付最終日までに、園児の各家庭が目標額以上を達成し、最終日にパーティーをやって最終金額を発表するというイベント付き。目標額は1家庭150ドル。これを25ドルずつ6名募れば目標額達成!という目安も示されている。このことから、募金の相場は25ドルなのかな、と思う。まあ、もっとお金持ちの地域なら違うのかもしれないが。オンラインで募金できる仕組みはなかったので、私は、こういう時は人数が多くて助かる、という夫側の親戚を頼り、Facebookでつながっている親戚(約30名!)に趣旨を書いて一斉送信。こういう時も、Facebookはまことに都合が良い。しばらく反応がなかったのだが、そのうちの一人が、私だけにだけでなく誤まって全員宛に返信したのがきっかけになって、私も、僕も、となって、瞬く間に150ドルを達成。オンラインで募金できなければ、だいたいが小切手で送ってくるのだが、催促しないと忘れてしまったり、小切手の宛先が間違っていたりと、いろいろ面倒なことが生じるのは困るが、それでも何とか間に合った。募金期限の最終日、園児の一人の自宅の庭を開放して行われたパーティーには、多くの家庭が各自飲み物を持ち寄り、1時間、子供たちが音楽に合わせて踊りまくり、盛り上がったところで募金額を高らかにアナウンス。何と、3500ドルほどが集まった。これで、エアコン本体と工事費が賄える予定である。これが終わった、やれやれと思ったら、今度はルナの小学校の5キロマラソンである。とある日曜日の午前中に、地元の公園が会場となって行われた。目的は、学校の課外活動資金集めである。マラソンランナーは25ドルの参加費を払い、それがそのまま募金額となる(実際はTシャツ代、水やスナックなどの経費が引かれるのだろうが)。これにも専用のウェブサイトが用意され、申し込み、参加費納入ともにオンラインでの手続きが可能。もちろん、参加せずに寄付だけすることもできる。本マラソンの前に、子供たちだけのミニマラソンがあった。担当の先生に引導され、子供たちもTシャツにゼッケンをつけて公園の周りを元気に一周。アレックスは参加費を払っていなかったのでTシャツもゼッケンももらえずに非常に機嫌が悪くなっていたのだが、とりあえずTシャツだけはもらうことが出来て、私が紙切れで即席ゼッケンも作り(4歳の「4」をつけて、本人、大満足)、一緒に参加。最初は他の子供たちに圧倒されて泣き出してしまったが、パパに抱っこしてもらって走り、最後は自力で走ってフィニッシュした。いよいよ大人向けの本マラソンになると、いったいどこからやって来たのだろう?と思われるような、いかにもマラソン選手です!という体つきの人たちが集まって来て、恐らく学校と地元関係者だけだろうと思っていた私達はビックリ。75名あまりが参加したこのマラソン、1位は17分台でゴール。参加した夫は27分台で31位。年齢グループでは1位(そもそも、男性で夫の年齢層で参加したのは1名のみなので、何分でゴールしても1位なのだが 笑)。週に2回、職場までの道のりを地道に走っているとは言え、決して若くはないので、大健闘と言えよう。これをきっかけに目に入って来るようになったのだが、5キロマラソンというのはファンドレイジングのイベントとしては良く使われているものらしい。公式記録も測ってくれるし、日ごろランニングをしている人にとっては励みにもなるし、他のランナーとの交流というプラス面もあるのだろう。結構、「地元の5K荒らし」なんて呼ばれている人がいるのかもしれない(笑)。ルナはゴールした人たちのゼッケン番号を担当係の人に大声で知らせるという役を勝手に仰せつかり(いかにもやりそうなこった 笑)、表彰式では1位となったパパに嬉しそうにメダルを渡し、マラソンの後に行われたヨガのクラスに参加して先生に褒められ、楽しそうに過ごしていた。(受付会場となった公園は、ボストンのビル群が見渡せる美しい場所。子供たちはマラソン参加と引き換えにもらったTシャツを着ている。背中には地元スポンサー各社のロゴが)私もズンバのクラスに参加し、アレックスも付設の公園で遊び、広い芝生の周りを駆け巡り、いつものとおり、限界まで遊んでいた(笑)アレックスの幼稚園のような私立の学校ならともかく、公立の小学校が、こうしていちいちイベントをやって、遠足などの課外活動や施設の修繕のための資金を集めなければならない現状は憂うべきことだろう。アメリカはもっと学校の公教育のために資金を使うべきだとは思う。でも、そうした現状の改善を指をくわえて待っているだけでは何も始まらない。そして、どうせ行動するのなら、楽しいことをやる。そして、無理のない範囲で時間とお金を提供する。興味がなければ、スルーすれば良い。そういった、各自のスタンスは気持ちよいほど明確だ。確かに、スタンスを明確にしておかないと、要するに、自分の境界線みたいなものはきっちり守らないと、他人のためにはなっても、極端な話、自分の生活を脅かされることになりかねない。今日は、地元の別の公立の小学校で、入口で5ドル払えば、各家庭が持ち寄ったお国自慢の料理を食べることができるというイベントが行われる。募金額は、やはり、遠足や図画工作の授業のプログラムの支援に使われるとのこと。ちょうど用事がある時間帯なので参加することは出来ないが、このイベントの告知をFacebookにアップしてくれたお父さんは、この前のルナの小学校のマラソンイベントにも参加してくれたし、とりあえず入口で寄付だけでもして来ようかな、と思う。あくまで、無理のない範囲で。
2012.06.08
驚くことに、ルナが裁判所をテーマとした小学生対象のポスターコンテストに入選した。「驚くことに」と書いたのは、たとえ親の贔屓目を抜きにするどころか倍にして足したとしても、入選するような代物とは思えなかったからである(笑)。まあ、あえて言えば、構図的にはユニークだったからなのかもしれない。他の生徒の作品は裁判所の全体図を描いているものが多かったが、ルナのは、画用紙のおよそ4分の3を占めるスペースに、でかでかと「Justice (and) Law」と書いてあり、その下に、この前、学校にお話をしに来てくれたという地区裁判所の裁判長が「あなたは無罪です」と笑顔で言っている、というものである。まあ、この大胆な構図は大胆なルナの性格がそのまま反映されたみたいなもので、そこが審査員に訴えるものがあったのだろうか?普段は褒めるアメリカ人の典型みたいな夫も、なぜこの絵が入選したのかと問うと、「うーん」と返事に詰まっていたので、やっぱり良く分からないんだろう。でも、まあ良い。その表彰式が行われると言うので、家族全員で出席することにした。場所は2駅先にある地元の裁判所。建物はオンボロで、こう、どの国の役所にも共通の「どんより感」が漂う。しかも、この道ひとすじ勤続ン十年みたいなオバちゃん事務官がビシリとその場を仕切っているのもこれまたお役所なり。通されたのは、実際に裁判が行われる法廷である。まるで映画やドラマのセットみたい、と私は一人興奮する。いやあ、映画やドラマはこの本物を元にセットを作っているのよね、と当たり前のことを今さらながら思う。天井はステンドグラスの吹き抜けになっていて、これはなかなか素敵。本棚の中には、手にしたらハラリと崩れ落ちてしまいそうに古くて分厚い本がずらりと並んでいる。そのうち、裁判長が入場し、全員起立!の号令がかかる。続いて「忠誠の誓い」を全員が述べることになった。アメリカ合衆国旗の前で右手を胸に当て、誓いを述べる、あれである。全員が誓いを唱える中、私は部外者なので、再び、きゃーかっこいー映画みたーい、と心の中で叫び、これじゃ単なるミーハー。式次第に従い、裁判長とその隣に座っている下院議員のスピーチが始まる。いつも思うのだけど、こういう時の、こういうアメリカの人達のスピーチって本当に上手い。その理由を考えてみたのだが、きっと、小難しいことは言わず、聞き手と同じ目線に立って話をするからだと思う。日本でも、たとえば、話が上手な校長先生っているけど、それはきっと、子供たちと同じ目線で、子供たちも分かるような話を子供たちに分かるような話し方で話すからだと思うのだが、それと同じだ。この前ルナの学校にお話しに来たという裁判長のスピーチは、子供たちの悪い行ないと言うのは何かと注目されがちだけれど、こうして、良い行ないに対しても注目すべきだ、みたいなことだった。整った白髪の下院議員は、地元出身とのことで、しかも、我が家の近くに実家があったらしい。この辺では良く見かける、トリプルデッカーと呼ばれる3階建ての縦に細長いアパートに、これまたこの辺では良く見かける、一番下に自分の家族、その上におばさん家族、またその上も親戚家族が住む、といった環境で育ったのだとか。おばあちゃんはイタリアからの移民で英語はまともに話せなかったけれど、教育は大事だといつも話していたそうで、一族の中で大学に進学したのも自分が初めてだったとのこと。子供の教育のためにアメリカに移住し、自分はいわゆる3K労働で身を粉にして働き、子供はその親の期待を一心に受けて育つ。。。といった筋書きは、現代のアメリカでも健在だ。この下院議員だって、そういう意味では生きた歴史の証人みたいなもので、そういう人が目の前にいる子供たちに向かって、「いいかい、君たちは世の中を変えることができるんだ」なんて言うと、やっぱり説得力があるわけだ。この表彰式には裁判所の関係者や議員などが出席すると書いてあったので、やはりそれなりの格好をして行った方がいいのか迷ったのだが、少なくともルナぐらいはきちんとした格好をさせようと、数ヶ月前に義母の誕生日パーティーのために私の母が作ってくれた黒地に白い水玉のワンピースを着せた。案の定、夫は何も考えていなかったようで、「制服のままでいいんじゃないの」なんて言ってたが、真に受けずにホントに良かったぜ。いや、普通の服を着ている子供も、もちろんいた。中高生の中にはスーツ姿でバッチリ決めている子もいたが、よっぽど公式の行事でない限り、服装がバラつくのがアメリカの面白いところ。例えば、この地区はヒスパニック系移民が多いのだが、彼らは、晴れの日の服装となると、社交ダンスラテン部門という感じの、明るい色の、ちょっとピラピラ系の服を着たりする。で、また、これが褐色の肌とメリハリのあるボディーに映えてすごく似合うんだな。ルナと同じ小学校から表彰された女の子も、色は黒だったけれど、やっぱりヒラヒラ系のレースっぽい服を着ていて、頭には大きな黒い造花のついたカチューシャをつけて、それはそれは可愛らしかった。表彰では、ひとりひとり順番に名前を呼ばれ、前に進み、表彰状を渡され、写真を撮られ、また席に戻って来る。名前を呼ぶのはほぼ同じ人だったが、表彰状を渡す人は、それぞれ違って、裁判所関係者だったり、警察官だったり、地元の名士だったり。プレゼンターがいるなんて、何だか簡易版アカデミー賞授賞式みたいだ。ルナの学校からは3名が入賞したので、夜遅くにも関わらず、校長先生と渉外部門担当の先生もわざわざ参加してくださった。ありがたいことだ。表彰はポスターだけでなく、中高生対象としてはスピーチや模擬裁判などの部門もあり、スピーチに関しては受賞者2名がそれぞれスピーチを披露してくれた。見知らぬ人ばかり大勢の前でスピーチをしたにも関わらず、堂々としていて立派だった。先ほどの下院議員の後に続くような家族構成の参加者が目立った。この地域では大多数を占めるヒスパニック系だけでなく、イスラム教の女性がかぶるスカーフを巻いた女性もいたし、スピーチを終えたアフリカ系アメリカ人と思われる高校生が席に戻る姿を目で追っていたら、隣にいたのはどうも白人の養母らしかった(学校の先生だったのかも知れないが)。見た目はいろいろだけれど、子供の晴れ姿を笑顔でカメラに納めたりする様子はどの親も一緒で、そして、表彰する側も、誰一人、分け隔てなく、その努力を讃える。都会とは言え、ここはボストンの中でも存在感の薄い、小さな町である。そんな町でさえ、これが当たり前だということ自体、実は当たり前ではないんじゃないだろか。式の後は、下の部屋に移動して、簡単な会食タイム。トマトソースとチーズ以外何の具も入っていない、冷え冷えに冷え切ったピザに飲み物だけという、これもいかにもアメリカ。ここで、式が終わる時間を見計らって配達された熱々のピザを。。。なんて期待してはいけない(笑)アレックスは一日幼稚園で遊んで疲れ切った後のお出かけで、でろんでろんになっていたが、何とか最後までもってくれた。写真撮影も含めて2時間ほどかかった式で家族全員疲れたが、ルナの個性あふれる?ポスターのおかげで、またアメリカの片鱗を垣間見るような経験をさせてもらった。ルナも、アレックスも、これからどのようにこのアメリカ社会に組み込まれて行くのか、興味は尽きない。
2012.05.03
先日、少し気になる記事を見かけた。糖尿病でダウン渡辺徹 カルボナーラなどパスタ3皿一気食い俳優の渡辺徹が、持病の糖尿病と過労を理由に舞台を降板を決定。妻の榊原郁恵が家庭菜園を持つほどの徹底ぶりで食事の管理をしたにもかかわらず、渡辺徹は地方の仕事を増やして管理の目の届かないところで食べ放題、という生活が続いていた、という記事。私はこれに対して自分のFacebookにて、「気持ちはよぉく分かるけど、これは良くないよ。妻の献身が息苦しいなら、ダウンしない程度に「息抜き」しながら自分で管理しなさい」という辛口のコメントを書いたのだが、少し経って思い直して、以下のコメントをつ加えた。「でも、糖尿病って状態が悪いと、こういう風に歯止めが利かなくなっちゃうんだよね。私も20年ぐらい前はそういう感じだったから、分かる。分かるだけに何とか頑張ってほしいよ。」その当時大学生だった私は、初めて親元を離れて一人暮らしをしながら学生生活を送っていた。後で糖尿病に関する講義を聴いて分かったことなのだが、糖尿病の状態が悪い場合は、いつまで経っても満腹感を感じることができず、食べ続けてしまうのだと言う。まさに、私がそのような状態だった。アパートの近くにコンビニがあり、真夜中にさえ出かけて甘い物を買って食べるありさまだった。1時間経つと、やはり何かが食べたくなり、小鳥がさえずる明け方になってようやく眠気が襲ってきて眠れるような、そんな状態だった。糖尿病にはHbA1cという管理の指標となる値があって、基準値は4.3~5.8%だが、その頃の私は何と2ケタ台で、長い夏休みや春休みは必ず入院する羽目になっていた。これは教育入院とも呼ばれるもので、新しく糖尿病と診断された人や、私のように再犯を繰り返す(笑)人が規則正しい食事をし、運動をして、糖尿病に関する講義を聴いて知識を深めるというのが目的。2週間を1クールとしており、そこに集まる患者さんたちの間では、退院することを「娑婆に出る」と半ば自嘲的に言っていたが、本当にそんな心境だった。私のような年齢の患者は本当に少なく、いたとしても、あまり共通の認識を持てるような相手でもなく、ほとんどが中高年以上の人達だった。その病院には小さな喫煙所があった。本当は喫煙も良くないのだが、最初からあれもこれも禁止してしまうとかえって良くないとの配慮から設けられたものだった。私は一度もタバコを吸ったことはないが、そこに集まる人達の世間話などが楽しくて、自由時間には良く出入りしていた。私は大部屋にいたが、そこは出産、育児などが一段落した中年以降の女性ばかりで、何かと「あんまり無理しちゃダメだよ」とねぎらってくれてはいたのだが、私にとっては、この喫煙室に出入りする、働き盛りの男性の患者さん達の方が心境的には似ていたのだと思う。責任のある仕事と養うべき家庭を持ち、おちおち病気もしていられないという危機感みたいなものを間近に見て、私の場合は、人生はこれからなのだ、あんまり無理をしちゃダメだとのんびりなどしていられないという危機感をそこに重ねることになったのだろう。それが、入院→退院→暴飲暴食→入院というループから脱出し、立ち直るきっかけになったのだと思う。ただ、これはあくまで私にとってのきっかけであって、他の人にとっては、その人なりのきっかけがあるに違いない。それに、一度悪循環に陥ると、そこから抜け出すのは思いのほか難しい。それを、自己管理が悪いとその人のせいだけにするのは非常に冷たい仕打ちだと思う。だから、もし、身近にそういう人がいたら、その人を責めるのではなく、どうしたらその悪循環から抜け出せるのか、一緒に考えてあげて欲しいと思う。
2012.04.26
4月22日、日本航空の成田-ボストン直行便が就航した。ボーイング最新型787機による運行である。当日、ボストンの天気はあいにくの小雨で、そうでなければ、友達を大勢誘って近くのビーチから対岸の滑走路に着陸するJAL機を皆で見届けようと思っていたのだが、家族4人での見学となった。定刻より早めに着いてビーチでスタンバっていると、霧の中から約5分おきに次々と飛行機が現れ、着陸する。夫がウェブサイトで確認したところでは、定刻より30分遅れとのことだったので気長に待っていたのだが、その遅れた時間きっかりに姿を現したのがアメリカン航空機だった。あれ、そういえば、アメリカン航空とのコードシェアだよね。コードシェアってことは、アメリカン航空機で来るってことだったの?いや、あれだけJAL便、JAL便って宣伝しておいて、そんなハズないよ。あともう少し待ってみようよ。といった夫とのやりとりの後、また、霧の中からライトが見えてきた。あれかな?あれかな?とうとう、白くて、思っていたよりも、ずんぐりとした大きな機体が現れた。おなじみの赤い鶴丸マーク。もちろん、ジャンボほどではないが、それまで着陸した数々の飛行機よりもかなり大きい。あ、あれだよ!来たよ!来た!来た!JALが来た!言うがままに連れて来られて、あまり趣旨の分かっていなかったであろう子供たちも、親2人の喜びようにつられて大はしゃぎ。着いた、着いた。無事に着いた。その時の気持ちを大げさに表現すれば、無人島で遭難してしまって、自分の国の救援機がやって来たような気分だった。多分それは、30年以上前に暮らしたパリでの記憶と重なっているのだと思う。その頃の世界は、ファックスも電子メールもインターネットもなく、通信手段はせいぜい国際電話ぐらいで、それも料金は高いわ接続は悪いわで、自分の話した声が相手側に反響するのが聞こえるほどだった。だから、日本の親戚と電話で話すのはお正月ぐらいだった。外国は遠かった。日本は遠かった。そんなわけで、日本の飛行機というのは、その外国と祖国をつないでくれる、数少ない、大事な象徴だった。それが、私の中では、あの赤い鶴丸マークとつながっているのである。あの飛行機に乗れば、日本に連れて行ってもらえるという安心感、とでも言うのだろうか。着陸の時は良い写真が撮れなかったこともあり、よし、離陸の時は何とかカメラに納めるぞ、と意気込んで、今度はボストンから成田に帰る姿も見届けようと思い、またビーチに行くと、何やら大きなブルーのテントを発見。試しに中を除いてみると、アメリカ人が何人か座っていた。三脚付きのビデオカメラも持ち込んで、なんだかすごい本格的。飛行機を見に来たのか、と聞いてみたら、その通りで、日本航空機を見に来たのだと。着陸の時はボストンの反対側の港から見届けたのだとか。まだ20代そこそこと思われる、なかなかハンサムですらりとした短髪の若い男性で、日本に縁があるのか、それとも、飛行機が好きなのかと聞いたら、飛行機、しかもボーイング機が大好きなのだと言う。その両親と、お姉さんとそのご主人と、家族総出で(家族をもろとも巻き込んで?)この日のためにやって来たらしい。このボーイングおたく君のマニアックぶりと言ったらすごい。霧の中からボーイング機が姿を現しただけで、あ、あれは777だ、737だとか型を全て言い当てる。うちのアレックスがろくに文字も読めないのに、トーマスシリーズの列車を全部見分けられるのよりすごい。しかも、このおたく君、おそらく管制塔の交信状況が聞ける無線機まで持っている。JAL機は出発が1時間ほど遅れることが分かって、その間にピザを買いに行った家族に「今、離陸許可が出たから、早く戻って来ないと間に合わないよ」なんて、ほんとに心配そうだ。ちなみに、飛行機のことは”He”と言っていた。飛行機は、SheじゃなくてHeなのか。まあ、船は大きくてゆったりしていて、いかにもSheって感じだけど、すいすいふらふら飛んでっちゃうのは、やっぱりHeなのかな?JAL機は滑走路の一番端の方までゆっくりと移動し、すーっと速度を上げ、いつの間にかふわりと飛んで、瞬く間に霧の中へと消えて行った。ピザ屋から戻ってきて何とか間に合った家族達も、その優雅で美しい姿に物も言わず、しばし見とれていた。直行便の料金は確かに高くて、すんなりと買えるわけでもないし(笑)、これから先、日本にちょくちょく里帰りできるというわけでもないのだが、利用するしないにかかわらず、その選択肢があるという事実は、それがなかったことに比べたらもう格段の違いである。あの、ビーチの対岸に停まっている鶴丸マークの飛行機に乗れば日本に帰れるのだという安心感。これで、少なくとも気分的に日本は近くなった。
2012.04.22
ボストン市とその周辺の公立校は、今週の月曜日の祝日にくっつけて、1週間、春休みである。その火曜日の朝、いきなりルナの担任の先生から電話がかかって来たので、いったい何事かと思ったら、隣のケンブリッジ市で金曜日からサイエンス・フェスティバルが始まるので、ルナを連れて行ったらどうか、とのありがたいアドバイスだった。ルナは2年生になってから、突如サイエンス系への興味を示し、先月は学校で初の試みとして行われたサイエンス・クラブでもいろいろな実験を嬉々としてやり、この春休み中も自分で選んだ課題で大興奮で実験中。私は典型的な文系人間で(と分類してしまうのは、ホント、いけないコトですが)、これまでの人生、理科も算数も極力避けて通ってきたので、この子に理系の才能があるのかどうかは全くもって分からないのだが、アメリカ式の、得意なところはどんどん伸ばせ伸ばせ教育のレールにどうも乗っけてもらったようだ。このサイエンス・フェスティバルは、主に小学生から中学生向けのイベントで、科学系の企業や大学のラボなどがブースを設営し、いろいろな実験をさせてくれると言うもの。ルナは、電池式のモーターをくっつけたプラスチックのコップ型ロボットを作ったり、私には何やらさっぱり分からない薬品を混ぜてスライムみたいなのを作ったり、次から次へとあれこれ試すことほぼ5時間。。。それに付き合ってげっそり疲れたのは、トシのせいではありませんよね。。。(笑)会場となったケンブリッジ市は、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)があるアカデミックな町なのだが、いやまあ、その多様性と言ったら口あんぐり。若者も多いし、かと思うと、ヒッピーみたいなジイさんが自転車乗ってたり、肌の色も髪の質も服装も体型も、ひとよんで「人間万博」みたいな多種多様さである。イベントに来てる方もそんな感じなら、ブースを出している方もそんな感じ。明らかに英語に訛りがあって、きっとどこかの国から留学や研究に来ているんだろうな、というような人もいたし、学生のノリでそのまま仕事をしているみたいな、ちょっとビル・ゲイツ風の集団もいたし。もう、ここまで多種多様になってしまうと、とりあえず、コミュニケーションの手段として英語は機能しているけど、あとは、その人がナニジンとか、ナニ系とか、何歳だとか、男だとか女だとか、そうやって分類すること自体、もう意味はなくなっていて、結局、一番大事なのは、その人の興味の対象であり、コミュニケーションの内容も、興味の対象に関するやりとりに集中すればそれで良いのだ、ということに気づかされる。まあ、そうやってルナを客観的に見てみれば、アジアとアフリカとネイティブ・アメリカンの遺伝子がミックスされた結果、ちょっとハワイアンみたいな風貌でこの世に存在しているわけで、そのルナが、あれこれ実験をしたりお話を聞いたりしながら、疑問に思ったことは質問をし、それに対してブースの担当者の人も、ルナに対して「何歳?」とか「どこから来たの?」なんてこたあ特に聞かずに、あくまで質問に対する回答にのみ集中してちゃんと受け答えをしてくれて、こりゃ考えてみれば、ものすごい効率的である。こういう効率的なやりとりが、ひとつひとつ重なって発展して、人類は新しい発明をし、進歩して行くのではないかとさえ思った、まあ、そんな科学オンチの母の一日であった。
2012.04.21
ボストンには週に一度、3時間だけの日本語補習校がある。日本の文科省の補助も受けていて、日本から校長先生と教頭先生が派遣される。幼稚園から高校まで生徒数700名の、大きな規模の学校である。周りはガイジンばっかの環境で暮らしていて、初めてこの学校に足を踏み入れると、そのあまりの日本らしさに面食らう。頭がクラクラするほどだ(笑)。でも、やっぱり、アメリカだなあと思うこともあって、それは、誰もが、玄関の扉を必ず次の人のために開けたまま待っていることだ。こちらで暮らしている日本人が里帰りした時に感じることとして口をそろえて言うのは、日本の食べ物のおいしさ、サービスのきめ細かさといったポジティブな面とともに、ネガティブな面として、公共の場所で、自分の前にいる人が扉を開けて待っていてくれないこと。自分の前で扉がバターンと閉まると「ああ、日本に帰ってきたな」と思うわけだ(笑)去年の夏に里帰りした時に、デパートの玄関のところで友人と待ち合わせをしていたのだが、友人が到着するのを待っている間、玄関の行き来を観察していた。そしたら、一緒に行動している友達同士は扉を開けて待つのに、赤の他人には待っていない、という様子がハッキリ見られて興味深かった。中には、一人で行動していて大きなかばんを持っているので扉を開けるのに四苦八苦している人もいたので、暇に任せて扉を開けてあげたら、ものすごく「意外だ」という表情で感謝された。こういう時、アメリカ人は感謝はするが、これほど意外だという顔はしない。日本語学校に来ている人達は、クラクラするような日本的なものを保持しつつ、この、アメリカでは至極当たり前のマナーも自然に実践している。私はこのようにして、自分の国の良い部分も持ちつつ、外国の良い点も取り入れるという姿勢が、日本のグローバル化への大きな鍵だと思っている。そして、日本人は、そのような両立ができると思うのである。
2012.03.21
日本からボストンにいらして、まだ間もない方に聞かれたことがある。「いつごろから海外を目指されていたのですか?」帰国子女であることや、それがきっと主な理由で海外に暮らすことはあまり抵抗がない、というようなことを既に話していたから、そういう質問になったのだろうが、これは大きな誤解であり、私としては、海外を目指したことは一度もない。私には海外の扉はすでに開かれていたのである。開かれていたどころか、無理やり扉の向こうに連れて行かれちゃったわけである。少なくとも最初は。海外だけでなく、国内の都市にもいくつか住んだわけだし、その過程でいろいろ考えたことを共有できる人が周りにいないことを嘆かわしく思ったりもするのだが、考えてみれば、そんな人が周りにうじゃうじゃいることを期待する方が間違っているのである。私からすれば、ずっと同じ町で生まれ育って、まだその町に実家があって、自分の子供を、自分が子供の時に通った幼稚園や小学校に通わせる、なんて言うのは、たまらなくうらやましく、来世はぜひそのような人生を送ってみたいのだが(笑)、そういう人たちにしてみれば、私のように、あちこちを転々として、いろんな体験ができることがうらやましいのかもしれない。自分のアイデンティティの問題をはじめ、かなり自分にとって核となるような問題を共有できるのは、同じような経験をした、遠く離れた各地に点在する友達だけだったりする。でも、それでも良いのかな、と思う。私としては、どこに住むかとか、どこに属すかということより、どこにいても、そういった人達と何かしらつながっていて、分かり合えるのだという確信を時々持てれば、それで良いのかな、と思う。
2012.03.20
バイリンガル環境で子育てをしていて、英語から日本語に訳すのに困った言葉が2つある。share とpleaseである。Please という言葉は誠に便利で、日本語だと「~してください」に当たるが、日本語の場合、この「~」の部分を「開けてください」とか「とってください」などと状況に応じていちいち当てはめないといけないところを、Please の場合は、極端な話、これを一言言うだけで丁寧な言葉として通用する。もちろん、Open it please など動詞を加えた方が文としては完成度が高いのだが、まだそこまで言語能力が達していない年齢の子供でも比較的早い段階で通用度の高い表現を身につけることができる。日本語でも「お願い(します)」とか「やって(ください)」と言わせることもできるだろうが、Pleaseほどの汎用性はないように思う。Shareは、主におもちゃの貸し借りの場面でアメリカ人(英語話者)の親が良く使う。日本語話者の親が「おもちゃを貸してあげなさい」の代わりに英語話者の親は「おもちゃをシェアしなさい」と言うわけである。私はこのシェアという表現は非常にアメリカ人な発想だと常々思って来た。Shareに「共有」と「分配」という意味があるのは辞書で調べて(笑)知っていたが、私の頭の中での英語の「シェア」は複数の人間が輪になって、その間にシェアされるものが存在しているというイメージである。要するに、「円」である。 日本人は、他人の世話になることを「迷惑をかける」と考えがちで、だから、他人の世話になった時は非常にありがたいと思い、後日、菓子折りの一つでも持ってお礼の挨拶に出向くわけである(笑)。一方、アメリカ人は、もちろん他人の世話になったことに関して感謝はするが、迷惑をかけたとは思っていないと思う。むしろ、ギブアンドテイクというか、長い人生、その時々で世話になったり世話をしたりお互い様、という感覚が、相手との親しさの度合いとはあまり関係なく存在しているように思う。だから、非常に気軽に他人にものを頼むし、頼まれた方も対応できれば対応するし、対応できなければ非常に気軽に断る。それはキリスト教的な考えから来るものなのか、それとも、血縁や地縁のつながりが希薄な移民国家という成り立ちから来る互助的精神なのか、それは良く分からないのだが。いずれにしても、そういう精神がシェアという言葉によく表れていると思う。もう少し具体的な話をすると、私が最初に「うひゃー、こんな時にシェアを使うのか」とビックリしたのは、恐らくテレビのドキュメンタリー番組かドラマのワンシーンだったと思うのだが、アルコール中毒者の支援団体主催のミーティングで、アルコール中毒者が輪になって座り(まさに輪である)、一人一人が自分の体験を語るという場面で、その体験を語り終わるとリーダーが”Thanks for sharing your story.”というものだった。そうか。これはシェア(共有)なのか。 私にとって、この場合は、「(本当は言いにくいことをわざわざ)話してくれてありがとう」という感覚なのだがな。(だから、以前、こちらでの暮らしの長い日本人のお友達に、自分の病気をきっかけに考えたことを意を決して話した時に、日本語で「シェアしてくれてありがとう」と言われた時は非常に肩すかしを食らった気持ちになった。たとえ「してくれて」と言われても、「シェア」には違和感を持ったのである 笑)この「~してもらう」「~してくれる」という表現はとても日本的で、これは日本人が築く人間関係を非常によく表していると思う。すなわち、「 上から下へ」か「下から上へ」「左から右へ」「右から左へ」という矢印方向である。もちろん、日本にも輪になって鍋を囲んで一緒につっつくという習慣があり、これは英語に非常に近いシェアであろう。しかし、 日本語には、鍋を囲んで皆で分け合って食べるのと(分配)、おもちゃや情報を共有するのとを、それぞれ個別に表現するわけで、それを総括的に表現する「シェア」といった言葉がない訳である。そして、それらを区別しているということは、きっとそれなりの、社会的、言語的理由があるはずだと私はにらんでいて、そして、それは先に触れたように、「~してもらう」「~してあげる」という表現の底にある日本人が築く人間関係に起因しているのではないかと思うのである。 ところがこの「シェア」という言葉、日本語のネット上でたびたび見かけるようになり、もしかしたら日本語として定着しつつあるのかな?と思うようになった。そこで、フェイスブックでこれを問いかけてみたところ、主に日本在住の知人達から良く聞く言葉だという回答が複数寄せられた。たとえば皆で食べるものを「シェア」したり、カーシェア、ハウスシェアという言葉も聞かれるようになったとのこと。そんな折、ちょうど良いタイミングで「シェア」ネタが届いたので、ここで皆さんと「シェア」(笑)してみたい。アレックスの幼稚園では現在、アルファベットをお勉強中で、手洗いの待ち時間などにセサミストリートのアルファベットの動画をiPadで流して子供達に見せているので、私が先生に「クイーンラティーファ(アメリカのラップ歌手)の『オー』の動画があるからリンクを送りますよ」と言って、パティラベル(歌手)のABCソングと共に後でリンクをメールで送ったところ、Thanks so much for sharing! I look forward to sharing them with the kids!という返事が先生から来た。さて、皆さんは、これをどう日本語に訳すだろうか?「シェアをありがとうございます!子供達とシェアするのが楽しみです!」この訳を読んで違和感がなければ、シェアは日本語の中に浸透しつつある新しい考えであると言えるだろう。しかし、ニホンジン感覚的には次の訳の方がしっくり来るのではないかと思うのである。「ご紹介いただきありがとうございます!子供達に見せるのが楽しみです!」要するに、先生は、私が(あえて言うなら、知っている者という少し上の立場から知らざる者という下の立場の)先生に対して情報を流したことに対する感謝の意を「紹介」「いただき」という表現に反映し、そして、その情報を今度は(教えるという上の立場から教わるという下の立場である)子供達に流すわけである。日本人の人間関係はこのように、その状況によって微妙に上下関係が成り立ち、それが言葉の表現として出て来る。日本で「シェア」という言葉が浸透しつつあるという傾向が、「ひとさまに迷惑をかけない」と思うあまり、誰にも助けを請うことができずに孤立してしまう傾向から、「お互いさまだから助け合おうよ」という考え方に移行しつつあることの表れであれば、それは好ましいことである。また、本当に気心知れた仲間同士だとか集いだとか、あるいはフェイスブックの拡散希望的性格を持った記事や写真の共有など、いわゆる閉じた円の集団の中で便宜的にシェアという表現を使うのは良いと思う。また、今後のグローバル化に伴い、既成の日本の概念では表現しきれないものに対してシェアを使うのも良いだろう。ただ、先ほど例に挙げた、アルコール中毒の体験を思い切ってした相手や、あくまで好意による情報提供といった相手の「労」をねぎらう形で「話してくれてありがとう」「教えてくれてありがとう」という、「具体的な動詞」と「してくれる」「してもらう」の表現で表すこと、そこに微妙な上下関係が発生するとしても、それは必ずしも上がエラくて下がへーこらするわけではなく、あくまで「してもらった」側がへりくだって感謝するという気持ち、これは複数の言語環境の中で暮らしている私にとっては、日本語独特の美しい表現に映るのであって、これも全て「シェア」に置き換えてしまうとしたら、それは非常にもったいないなと思うし、極端な話、日本人であることを放棄してしまうような気さえするのである。考えすぎ?
2012.03.10
小学校2年生のルナが宿題を持ち帰ってきた。チャールズ・ドリューという、輸血技術の向上に貢献したアフリカ系アメリカ人の医者の話だ。1902年生まれで、45歳で自動車事故で亡くなっている。その事故に遭った際、白人向けの病院では手当てを断られ、黒人向けの病院に到着した時には亡くなっていたとのこと。これを読んで、ルナがかなり憤慨した様子で、「何でセグレゲーションなんてものがあったのかしら」と言ったのだが、弱冠8歳の口から突然その言葉が出てきたのには心底ビックリした。私が初めて英語の”segregation”という言葉を知ったのは大学の講義でのことである。これは、ある個人や集団が社会的目的のために隔離させられるといった意味で、ここではアメリカの人種隔離政策を意味していた。普段は私に対してああしなさい、こうしなさいとはほとんど言わなかった母が、当時「教職だけは取っておきなさい」と言ったので、よっぽど取っておいた方が良いのかなと思い、言われるがままに教職課程も取ったのであるが、その一環の教育学概論のような授業だったと思う。アメリカ人の教育学専門の教授による日米教育比較といったアプローチで、なかなか興味深かったのを覚えている。さて、ルナの宿題に戻るが、私がこの記事を書くにあたってネットで調べたところ、このドリュー医師が本当に肌の色を理由に治療を断られたかどうかは定かではないようだ。ただ、それが真実だったとしても不思議ではない時代だったというのは確かなのだろう。だから、この部分の真偽そのものより、この時代のアメリカには、黒人に対する差別がまだ公然と行なわれていたことに注目すべきなのかと思う。「もし私が昔に生まれていたら、私とイザベラはお友達になれないってことよね」と、ルナは続けて言った。イザベラとは、ルナの白人のクラスメートである。私が感心したのは、ルナがルナの年齢なりに、この問題について理解していることだった。そして、自分がマイノリティーであるという事実を認識しているということにも。ルナが自分の肌の色を自覚し始めたのは、恐らく6歳を過ぎてからだったと思う。当時の担任の先生が、毎月子供に自画像を書かせるというプロジェクトをしてくれていたのだが、新学期当初は、幼い子特有の、丸い大きな顔のあごの部分から直接足が2本生えている絵だったのが、ようやく胴体がつき、次はお花や木など女の子らしい背景が加わり、名前も書くようになり、そして、肌の色を茶色に塗るようになったのである。それとほぼ同時に、「何でクラスの子達は皆、色が白いのに私は黒いのか。不公平だ」などと言い始めた。ただ、そこには「白が良いイメージで黒は悪いイメージ」というニュアンスは感じられず、ただ単に、皆と一緒ではないのが不満、といった程度のように感じられたので、私は「だってパパとママの肌の色が半分ずつじゃないの」と言って軽く受け流すことにした。その後もとりたてて自分は日本人だとかアメリカ人だとか、特に自分のアイデンティティーについて考えている風でもなかったのだが、いきなり2段階ぐらいスキップしてマイノリティーと来たか。ああ、ついにルナもアメリカ社会の現実の扉の前に立ってしまったのだなあ。ドリュー医師の死から半世紀強で黒人の大統領は誕生したし、この面で世の中はずい分変わり、良い方向に向かっているとは思う。しかし、これからルナは、「イザベラとお友達になれる時代に生まれてよかったね。めでたしめでたし」と手放しでは喜べない思いをたくさん味わされることだろう。でも、イザベラとお友達になれなかったら、それは、絶対におかしいことなんだ。そのことだけは忘れちゃいけないよ、ルナ。
2012.02.08
映画「ザ・タウン」は1年ほど前に公開されて以来、ずっと観たいと思っていた映画だった。ボストンが舞台になる映画はニューヨークやロサンゼルスなどに比べるとずっと少ないが、この映画の監督で指揮を執ったベン・アフレックはボストン出身で、前作の監督デビュー作「ゴーン・ベイビー・ゴーン」で舞台となったボストンの別の地区の描き方があまりにリアルで上手かったので、今回も期待していたのである。今回は、ボストンの北東部にあるチャールズタウンという地区が舞台になっている。ここは全米でも銀行強盗の発生率の高い町だそうで、その町に銀行強盗の一家の中で生まれ育ったベン・アフレック扮する主人公のダグが、まるで家業を受け継ぐかのように強盗一味のリーダーとなり、完全犯罪とも言える銀行・現金輸送車の襲撃を繰り返すのだが、その中で、ある事件をきっかけに、そんな自分の境遇に疑問を持ち始め、新しい人生を模索し始めるのだが。。。という、お話。腐れ縁とも言える幼馴染の仲間との葛藤や、恋愛、父子の確執などなど、話の題材としては特に目新しいところはなく、ダグを追うFBI側のかなりのお間抜け感もちょっと気になったし、巷が絶賛するほどの出来ではなかったと思うが、私はストーリーそのものより登場人物やディテールの描き方に興味があるので、そういう意味では大いに満足できた。映画の中でもチャールズタウンを手前にした、ボストンの町全体を俯瞰するシーンが何度か出てくるのだが、それからも分かるように、チャールズタウンは、ボストンの中心から橋を隔ててちょっと隔離されたところにある。それだからこそ犯罪の温床となったのだと思うが、実際のところ、私の持っている印象では、一部の地域を除けば、それほど危ないところではない。こんな形で全世界に「危ないところ」というイメージを持たれたらちょっと気の毒に感じるほどである。ボストンにはもっと危ないところもあって、前作の舞台となったところの方がずっとずっと危ないと思う。特に、チャールズタウンのメインストリートのあたりは、おしゃれなカフェやレストランが立ち並び、子供がいないか子供がまだ小さい若い家族が移り住み始めたところでもある。ただ、一方で、昔からの、コテコテのアイルランド系やイタリア系が代々住んでいる町でもあり、それが、この町の、地理的な条件とあいまって、保守的でよそ者をなかなか受け入れない土地柄を形成しているのだろう。私はここにある知り合いの花屋に時々手伝いに行っているのでこの町にはなじみがあって、映画の中で自分の知っている通りや場所の名前が出てくるのがとても嬉しかった。この映画の中で、この強盗一味の元締めが花屋のオーナー(今は亡きピート・ポスルスウェイトが怪演)なのだが、ここで出てきたアレンジメントを、この知り合いの花屋が作ったそうだ。その話を聞いたときは、具体的にどんなアレンジメントかは聞かなかったのだが、「実際には日をおいて撮影があったのだが、シーンとしてはつながっているので、同じアレンジメントを2度作った」みたいなことを言っていて、恐らくこれだろうな、というアレンジメントがシーンの中に出てきた時は、これも嬉しかった。そのほかにも、警察や救急車、MBTA(公共交通機関)の制服や乗り物、すべて馴染みのあるもので、一人で勝手に盛り上がる。町の描き方に関しては、前作の方が上手かったと思う。前作の時は、その町の、しかも特定の地区の荒んだ感じがあまりにリアルで、そこに多くの夫側の親戚を持つ私としては観た後にどよよーんとするほどだったのだが。ただ、これはむしろ、チャールズタウンの町そのものが、前作の町と比較すると描き甲斐がなかったせいだろう。でも、ボーナス特典によると、この映画では、実際そこに住んでいる住民をオーディションによってキャストとして起用したとのことで、その脇役陣が、もうまさに「あー、こういう人いるよね」みたいなボストンの下町の雰囲気を匂うほど醸し出していた。ベン・アフレックは、ボストニアンとしてはハンサムすぎるというか(笑)、風貌にしてもボストン訛りにしても、それほどリアルに感じられないのだが、この現役「ザ・タウン」市民たちは、その体格と言い、声と言い、その訛りと言い、当然ながら正真正銘のホンモノ。しかし、オーディションで選ばれたとはいえ、素人でこれだけ大物の俳優陣に混じってぜんぜんヒケをとらないって、すごいよなあ。映画はチャールズタウンだけでなく、観光地としても有名で、ハーバードやMITのあるボストンの郊外ケンブリッジをはじめ、イタリア人街のノース・エンド、そしてレッド・ソックスの本拠地フェンウェイ球場も舞台となり、ボストンの魅力を余すところなく見せてくれる。それだけでも観る価値はあると思う。
2012.01.30
私にとって、自分の病気とは、「初対面の人には普通は言わないような、家庭の事情」みたいな位置づけにある。同病の人が皆そういうわけではないと思うのだが、少なくとも私にとってはそうだ。たとえば、初対面の人には、普通、「いや、実はダンナに浮気されて離婚訴訟中なんです」というようなことは言わないと思う。そのこと自体は、誰にだって起こりえることで、何も恥ずべきことではない。でも、やっぱり初対面の人に、さらっと言うことではないと思うし、大勢の人の集まりでわいわいがやがや賑やかに楽しくやっているところに話すことでもないと思う。そういう場で、いきなり「で、訴訟どうなってんの」とは聞かれたくないし、どちらかといえば、気心知れた何人かの友達と、じっくり話せるような集まりで、頃合を見計らって、しかも、できればこちらから話を切り出すまでは知らぬ振りしておいてほしいな、という類いのものである。これは、ひとつには、現在も進行中の問題(病気は大きく進行はしていないが)だということがあると思う。すでに治ってしまった病気なら、過去のこととしてもっと距離を置いて話せるのかもしれないが。それに、病気のことを告白するとなると、ある程度これまでの経過を話すことになるのだが、この約30年の間にはいろいろなことがあり、話しているうちにその当時の気持ちが蘇って来て、冷静に話し続けていられる自信がない。また、人に会っている時は十中八九、飲食を伴っている時であり、楽しい食のひとときに、食事の管理(制限)に直結する自分の病気のことを話すのは、その楽しさに水をさすようなもので非常に気が引ける。さらには、糖尿病だと言うことによって、周りの反応が一様でなく、それに個々に対応するのが正直「気疲れする」ということもある。大学生になったばかりの数年間は、初めて親の庇護から離れて自分の病気と初めて一人で向き合う形になり、周囲に自分の病気を分かってもらいたいと言う気負いと周囲の反応とのあまりのギャップに打ちひしがれる日々だった。でも、考えてみればそれは当然だ。10代後半から20代前半なんて、病気なんかとは一番無縁の時期、一番無理が利く時期なのだから。40代になった今こそ、親や義理の親が糖尿病になったとか、自分が糖尿病になったとか、そんなことで「えー、甘いもん食べ過ぎたんじゃないのー」みたいな無神経な反応はめっきり減ったが、それでも、では本当に私が何を食べるべきなのかを簡単に説明するのは難しいし、理解してもらうのも難しい。インスリン注射を打つようになってからは食べる量によってインスリンの量を増減できるようになったので食の付き合いのストレスは大幅に減ったが、でも、相手が気を遣って用意してくれたものが、実はほとんど食べられなかった、ということになったりすると、相手が気を遣ってくれたばかりに申し訳なく、それなら知らないでいてくれた方がいいかな、と思ったりするのである。あーめんどくさ。そんなわけで、私はずっと、よっぽどのことがない限り、自分の病気のことを言わないで過ごしていた。それがどうしてカミングアウトする気になったか。大きなきっかけは、ルナを妊娠したことだった。糖尿病患者は妊娠中、いつもより厳しい血糖値のコントロールをしなければならない。これはあくまで感覚による数字だが、普段が75%程度の管理レベルで良いとすると、限りなく100%に、つまり、糖尿病でない人と同じぐらいに近づけなければならない。これはかなりつらい。夏の部活の強化合宿を、10ヶ月間ほどずっと毎日続けるようなものである。初めての妊娠、初めての厳しい血糖値管理、つわりの時期は、食べ物の量に合わせてインスリン注射を打ったはいいが、結局気持ち悪くて全部食べられず、つじつまを合わせるために糖分のあるジュースを慌てて飲んだりと、まさに毎日が血糖値の上下に支配されているような気分だった。つわりの時期が終わって、皆に妊娠が分かったら分かったで、周囲の祝福ムードとのギャップが次第に苦痛になって来た。要するに自分に余裕がなかったのである。「妊娠中は食欲が出てたくさん食べたくなっちゃうよねー」と言う、何の悪気もない言葉にもついていけず、逆に非常に傷ついたりした。そこで、いっそのこと、「自分は病気を持ちながらの妊娠で、本当に大変なんです」ということを世間一般に公表してしまった方が気持ち的に楽になれるのではないかと思ったのである。容疑者が次第に追い詰められ、「隠しとおせなくなって」自供に至ったみたいな感じである(ほんとか)。結果的には、自分が相手に実際に会った時に告白するというステップが、ブログの記事をあらかじめ読んでもらうことによって省略されたことが大きな前進だった。それでも先ほど話したように、心の痛みを多少伴うものでもあって、達観したというわけではまったくないのだが、黙ってそのままにしているより、話せることは話した方が、少しでも理解につながると思って、話したい気持ちや状況になった時は話すようにしている。
2012.01.26
義母が今月めでたく70歳の誕生日を迎えた。日本で言えば古希である。その古希祝いを、なんと、義母が自らセルフプロデュースによる誕生日パーティーという、神田うのもビックリの大作戦に出た。半年も前から招待客全員に対する告知も含め、我が夫を始めとするブレーンを集めて数回のミーティングを開くなど、並ならぬ力の入れようである。アメリカ人というのは、 テーマを決めて、そのテーマに沿った仮装をして集まるというパーティーが何かと好きなのだが、今回の義母のお題は、自身の青春時代だったと思われる「1950年代(フィフィティーズ)」のファッション。。。。などと言われても、日本人の私には、さっぱりイメージがわかず。気の進まないまま(笑)インターネットでググってみると、こんな参考写真に行き当たりました。。。。。。わ、わたし、プードルは嫌なんですけど。。。案の定、義母は早々とどこからか大量のプードルのアップリケ(そんなものを大量に売っているという事実も衝撃)を調達して来ており、「もしよかったら、あなたも使って」と言われたが、丁重にお断りしました。いや、いくら嫁でも、プードルは嫌です。別に新たに購入しなくても、家にあるもので良いと言われたので、私は黒いフレアーのワンピースに白と黒の水玉のスカーフを首に巻いて、ということで対抗作戦。プードルは嫌ですから。その他のモチーフとしては、ジーンズの裾の部分をくるくると巻き上げるというもの、水玉模様など。娘にもプードルは断じて嫌だったので、日本の洋裁好きの母に頼んで、白黒水玉の全円くるくるスカートのワンピースを作ってもらった。これで、かーちゃん、鼻高々。(夫と息子は、ジーパン巻き上げタイプで即決定)まあ、義母は家族親戚一族郎党をもろごと巻き込むということにかけては右に出る者がいないのだが、今回もその例に漏れず、単なる趣味の範囲ではあるが、グラフィックデザインが好きな我が夫に招待カード作りの白羽の矢が立った。招待状のデザインも、昔のビニール盤の黒いレコードをメインにするという、こだわりぶり。そして、いそいそとデザイン制作にかかる夫。。。そして、そのしわ寄せが降りかかる私。。。なぜって、うちの夫は、一つのことに取りかかるとほかのことを全て放棄してしまうタイプ(これは全世界の男性に共通かもしれませんが)。その招待状作りにかけるパソコンでの数時間の間に、いろいろやるべきことはありませんか。。。その他にも、最初に考えていた会場が急に閉鎖になってしまって、あわてて他の場所を探して決めたり(その経過報告が逐次、夫のケータイの方に入っていたようですよっ)、まあ、いろいろな細かいことがあって、そして、そろそろ一週間前という時に。夫が重大発言。「お母さんが『時間どおりに来れたらいいのに』と言った」だと。その日は午前中、日本語学校がある日で、最後まで出席させるとなるとパーティー会場には1時間ほど遅れる計算になる。でも、日本語学校に午前中子供たちを行かせていることは前々から分かっていることではないか。それなら、開始時間を遅らせれば良かったじゃないか。というのは、日本人嫁の私の言い分である。しかも、夫が学校を休ませようかとまで言うので、私は怒り心頭に達してしまった。ぷんぷん。だいたい、誕生日パーティーというのは後半が盛り上がるのであって、最初の1時間ほどを逃すぐらい、大したことではないだろーが。だいたい、このファミリーが開始時間に間に合うように来た試しなどないではないか。でも、他の皆が来ないから遅れて行ってもいいというのは理由にならないと、あまりにもっともなことを夫は、ぼそりと言って、ますます私の神経をさかなでる(笑)。まあ、結局、結婚生活も13年が過ぎて少しは学んだ結果の歩み寄り策で、子供たちは最後の3時間目だけを早退させて会場に赴くことにした。ぷんぷん。ところが。当日、暖冬のこの冬初めてと言ってもいいくらいの、かなりの雪が降った。。。。。。これじゃ、早めに出たって早めに出たことが分からないほど遅れてしまうじゃないの。。。それではあまりに悔しすぎる。。。(笑)でも、雪に馴れているボストンは、高速道路もすぐに除雪車が雪をどけてくれるので、意外にスムーズに走って、会場には10分程度の遅れで到着。義母が「雪のわりには早かったじゃないの」と言ったので、私はそこですかさず「学校早退させたんです」と言った。しかし、返ってきた答えは、ただの一言:「あら、そうなの」私はここで、うなだれながら、 戦いの矢をおさめた。この人に私がどれだけ日本語学校に子供たちを行かせることが大事なのか、1週間を逃してしまうとどれだけブランクが開いて大変なのかを力説したところで、決して分かってもらえないわけで。もうええわ。義母は先ほどのリンクにあったようなプードルのフレアースカートスタイルで、その二人の姉も同じような格好をしていた。古希を過ぎた三姉妹がこの格好というのは、一種独特の雰囲気があった(それ以外に表現のしようが。。。)。招待客達も、フィフティーズ度はそれぞれで、ちょっとしたアクセント程度の人もいれば、もうこれ以上は無い!というぐらいバッチリ決めている人もいた。黒人のお洒落な人って、もう、半端なくお洒落なのよね。もともと、頭も小さくて縦長で形も良くて、足もすらりと長いから、お洒落な人は何でも着こなしてしまう。うらやましい。。。会場は踊るスペースと結婚披露宴のような円卓が並んだ食事用のスペースとに分かれており、当たり前のように、DJがいました。。。しかも、DJもお達者世代。。。こういうのを見ると、DJ文化って歴史があるんだなあ、日本は、まだまだだなあ(笑)と思うわけですわ。大雪にも関わらず、何事もなかったかのように(=年寄りは足下が悪いから来るのは遠慮するとかいうのは基本的には無く、「神様が雪道の道中を守ってくださったおかげで」とかナントカ言って)招待客は続々と集まり、会場はにぎやかさを増して来た。ファミリー中心に、お友達も含めて100人はいたんじゃないか。ファミリーだけでも、それだけ集まるってところがすごいですが。いつものとおり、全員での神様に感謝の祈りに始まり、ビュッフェスタイルのブランチを食べ(アメリカにしては結構美味しかった)、少し皆のお腹も落ち着いて来たところに、ダンスタイムが始まった。最初の曲は、けっこう有名な”Cha Cha Slide”. これを老若男女入り乱れて踊ります。アメリカには「ラインダンス」と呼ばれる、 横一列を前後に複数列作って踊るというダンスがある。ウィキペディアにも若干説明が載っている。 ここでは「日本の“パラパラ”を腕ではなく足のステップを中心に行なうダンス」と説明しているが、要は日本の盆踊りのようなものと考えればいいと思う。盆踊りは円になって一方向に進んで行くが、ラインダンスは、振りを繰り返しながら90度ずつ方向を変えて行く。短い振りを曲が終わるまでずっとひたすら繰り返すという点も盆踊りに似ている。 (参考動画)この動画、もしかしたらうちのファミリーなんじゃないか?と思うぐらい、人種、男女、年齢、体型(笑)ともに構成が似通っている。ここで誤解されないように言っておくが、黒人だからといって必ずしも全員が踊り好きで踊るわけではない。我がファミリーの場合も、必ず3つのカテゴリに分かれる。1.必ず踊りに参加2.気が向けば参加3.決して参加しない私がどれに該当するかは言うまでもないと思うが、この動画にもあるように、踊りが上手で必ず誰か先頭を切る人がいる。盆踊りでも、同じ浴衣を来た数人のおばさんが率先して踊って、それを見ながら手足の動きを覚えたりするものだが、まさにあれである。我がファミリーでは、ヴィヴィアンおばちゃんという人がその役に当たる。それにしても、この動画の人たち、素人レベルで、このリズム感、すごいっすよねー。しかも、若い人はともかく、年配層が上手いところが、すごいっす。(しかし、この動画を観ながら思ったのだが、こういう集団にただ一人、アジア人として入っている私の図って、客観的に観たら相当違和感ありますよね。。。日本人らしくないと言われても文句言えないっすよね。。。)で、私はその後、パーティーが終わるまで、ほぼ上記の1.の集団に当たる常連組とずっと踊って過ごしたので、案外楽しかった。よかった。私に踊りがあって。私に踊りがなかったら、私は、時間感覚のズレを始め、このファミリーと何の接点もなく、今頃は荷物をまとめて国へ帰っていたかもしれない。うそ。パーティーは、12時から6時までの長丁場である。お達者世代、体力あるなあ。。。誕生日ケーキもフィフティーズがテーマで、このレトロなレコードがポイントです。アメリカ人、こういう、テーマ感あふれる工作ケーキが好きです。いちごのショートケーキとか、そういうのはあまり見かけません。。。相変わらず、口がひんまがるほど甘かったですが。。。招待客が三々五々と帰って行き、がらんとし始めた会場で、夫のいとことおしゃべり。プードル嫌だよね、やっぱり。と同調してくれた彼女は、恐らくこれ一度きりで身につけないと思われる赤いカーディガンや赤白の水玉のヘアスカーフ、赤いイヤリングなどをどうしようかと、ぼやいていた。Craig’s List (オンラインの売ります買いますコーナー)に出したら、結構需要あるんじゃないかと思いますけど。私の家族の古希祝いだったら、本当にこじんまりと何人かの身内だけで、どこかのレストランの個室を借りて、せいぜい2時間ぐらいで食事を終えて、という感じだろうなあ、と漠然と頭の中で考えたりした。でも、プードルスカートにポニーテールの古希を過ぎた3姉妹がこの先こうやって楽しく揃って何かをするということだってずっと続くわけじゃないし、とにかく義母の思い通りにファミリーや友人達が集まって、楽しいひとときを過ごせたということは、やはり幸せなことなのだろう。義父はそんな義母にいつもの優しく温かい眼差しを向け、少し離れたところに佇んで、穏やかな微笑みを浮かべながらパーティーの始終を見守っていた。義父は、本当に、世の夫の鑑だ。
2012.01.24
2型の糖尿病と診断されてからもうすぐ30年になる。自分の中ではかなり消化したつもりでいるが、時々弱気になって愚痴りたくもなる。それで、ツイッターでも時々ぼやいていたりしたのだが、140字の中では伝えきれないことも多く、少し誤解して取られたりすることも何度かあったので、やはり、こうしてブログの記事としてきちんとまとめて行こうかなという気になった。ある一人の糖尿病患者の心の動きでしかなく、これが全糖尿病患者を代表するわけではないが、少しでも、この、誰もが知っている、でも、誰もよく知らない病気を持つ人生とはどんなものなのかを共有してもらえたら嬉しい。先日、半年ごとの糖尿病検診に行った。そこでは必ずHbA1c(ヘモグロビン・エーワンシー)という値を測定し、過去数ヶ月間の管理の良し悪しを見る。これが、毎回プレッシャー(笑)。いや、日ごろからちゃんと理想的な食事をしていれば良いのだが、だいたい1ヶ月、2ヶ月前から「あ、夏に水着姿になるまでに痩せないといけないのに、やばい!」に似た焦りをすることになる。このHbA1cの値を目標値にするには、食前血糖値:90-130mg/l2時間後血糖値:160mg/l 以下にしないといけなくて、この血糖値にするには毎回の食事のカーボ(炭水化物)量を守らないといけない。まあ、こうやって数行で書いてみると簡単だが、実際はそれほど簡単ではない。だいたい、糖尿病でない人は血糖値がいつも一定に保たれていて、食事を摂って一時的に血糖値が上がっても、ある値以上になることはなく、しかも、すぐにその量に見合ったインスリンが分泌されて、元の状態に戻る。糖尿病の人の場合、その機能が全くなくなってしまう(1型)かうまく機能しない(2型)。私はインスリン分泌の少ない2型だと判断しているが、これは言ってみれば、仕事のトロい社員のようなものである。デキる社員というのは、いつ、どんな量の仕事を渡されても、ちゃちゃちゃと処理できる。しかし、トロい社員はそれができない。ちゃちゃちゃと処理できずに、どどどと仕事がたまっていき、オーバーフローとなる。でも、その社員を戦力として使い続けなければならない場合、どうするか。一つは、「決められた量の仕事」を、「決められた時間」に与える、ということである。それでも対応できなければ、仕方がないので「他の戦力」を投入する。この場合の「仕事」を「食事」に、「他の戦力」を「経口薬やインスリン注射といった薬」に置き換えたのが、糖尿病に対する基本的な治療法である。ただ、実際の毎日の生活において、決められた時間に決められた量の食事をするということは、それほど簡単ではない。たとえば私の場合、遊びに夢中になると寝食を忘れてしまう子供が2人いる(笑)。息子をチルドレンズミュージアムや水族館などに連れて行くと、息子は昼食を摂るのも忘れて遊び呆ける。たいがい、こういった施設は決まった場所以外飲食は禁止なので、周りの人にこそこそ隠れて食べるとなると、食べられるものも限られて来る。息子をようやく説き伏せて食堂に行く頃には私はお腹がすいてヘロヘロである。あるいは、入館する前にある程度の間食を取っておくなどの対処をあらかじめしておかなければならない。でも、それも、どこかにきちんとすわってインスリン注射を打って。。。というのはなかなか難しい。あるいは、こんなこともあった。アメリカなら感謝祭からクリスマスに向けてのホリデーシーズン、日本なら忘年会からお正月までの年末年始が、食事療法を乱す大きな原因となる。外食や他人との食事で、自分の食事量を守るのはかなりのハードルである。私の場合は、年末にチャイナタウンで、とある会の飲茶ランチのお誘いがあった。飲茶というのは、「いつ」「何が」出て来るか分からないという点で、トロい社員には大敵の部類に入る食事である(笑)。しかも飲茶は餃子、シューマイなどカーボ量の多い食べ物が多く、それほど多くの量は食べられない。本来なら断るところなのだが、その日、私は冬休み中の子供2人を抱えており、午後2時に息子の友達の家に遊びに行く予定になっていた。それで、「食事の管理が難しくても、朝起きたその瞬間からケンカをし続ける子供達の面倒を家で見るよりはマシ」という、「どっちがマシか」という消極的な理由で、参加することにした(幹事さん、ゴメンナサイ)。もちろん、行けば知っている人達とおしゃべりができて楽しく、子供達も他の子供達と仲良く遊んで、しかも、私には「水着を着る日ならぬ検診の日」が頭の片隅にあってブレーキが利き、食べすぎもなく、皆が他己紹介で盛り上がっている間にささっとインスリンを打ち、その夜の血糖値は目標値内におさまっていたのだが、こうやっていつも上手く行くわけでもない。血糖値管理がうまく行かなきゃ行かないで、自己嫌悪と戦う羽目になる。そうやって、自分としては「水着を着る日までに理想の体型・体重に近づきたくて」も、人生においては、いろいろと誘惑や、それを阻む要素が容赦なく降りかかってくるわけなのである。翻訳の仕事の〆切と花のレッスン日が同じ日に重なり、最後の追い込みとレッスンの準備でかなりピリピリしているところに、子供達はちっとも言うことを聞かず、夫が雷を落とす。そういう状況の中でも、「よし、それじゃ、今日は勘弁してやるか」とでも言って、糖尿病は待ってくれない。あるいは糖尿病だからと言って、聞き分けの良い、育てやすい子供を神様が授けてくれるわけでもない(笑)。糖尿病になっても人生は続いて行く。それが、糖尿病を持つ身として、一番しんどいことだと、私は思っている。
2012.01.19
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