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2008年07月21日
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カテゴリ: 剣の巻
noto-dono



 教経は今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、
 鍬型打つたる甲の緒をしめ、いかものづくりの大太刀をはき、
 廿四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、
 さしつめひきつめさんざんに射給えば、者ども多く手負ひ射殺さる。
 矢種皆つきれば、黒漆の大太刀、白柄の大長刀、
 左右に持って、さんざんに薙いで廻り給ふ。

 新中納言知盛卿、能登殿のもとへ使者を立てて、
 「いたう罪な作り給ひそ。さりとてはよき敵かは」と宣へば、
 能登殿、「さては、大将に組めごさんなれ」とて、
 打物莖短に取り、艫舳にさんさん薙いで廻り給ふ。
 されども、判官を見知り給はねば、物の具のよき武者をば、
 判官かと目をかけて飛んでかかる。

 判官も、内々表に立つやうにはし給へけれども、
 とかく違ひて、能登殿には組まれず。
 されども、いかがしたりけん、判官の舟に乗りあたり、
 「あはや」と目をかけて飛んでかかる。
 判官、叶はじとや思はれけん、長刀をば弓手の脇にかい挟み、
 御方の船の、二丈ばかり退きたりけるに、ゆらりと飛び乗り給ひぬ。

 能登殿、早業や劣られたりけん、續いても飛び給はず。
 能登殿、今はかうと思はれけん、太刀長刀をも海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。
 鎧の袖、草摺をもかなぐり捨て、胴ばかり着て大童になり、
 大手を広げて、船の屋形に立ち出で、大音聲を上げて、
 「源氏の方に我と思はん者あらば、寄つて、教経に組んで生捕りせよ。
 鎌倉へ下り、兵衛佐に物一言云はんと思ふなり。寄れや寄れ」
 と宣へども、寄る者一人もなかりけり。


 ここに、土佐國の住人、安藝の郷を知行しける安藝の大領實康が子に、
 安藝太郎實光とて、凡そ二三十人が力現れたる大力の剛の者、
 我にちつとも劣らぬ郎等一人具したりけり。
 弟の次郎も、普通には勝れたる兵なり。
 彼等三人寄り合ひて、
 「たとひ能登殿、心に剛おはすとも、何程の事かあるべき。
 長(たけ)十丈の鬼なりとも、我等三人がつかみ附いたらんに、などか従へざるべき」
 とて、小舟に乗り、能登殿の船におし並べて乗り移り、太刀の鋒を調えて、
 一面に打つてかかる。

 能登殿、これを見給ひて、先ず眞前に進んだる安藝太郎が郎等に裾を合はせて、
 海へどうど蹴入れ給ふ。
 續いてかかる安藝太郎をば、弓手の脇にかいはさみ、
 弟の次郎をば、馬手の脇に取って挟み、一締しめて、
 「いざうれ、おのれ等、死出の山の供せよ」
 とて、生年廿六にて、海へつつとぞ入り給ふ。

(佐藤謙三校注 角川文庫『平家物語』下巻 P.204、205)



『平家物語』も第十一巻後半に入ると、
今まで活躍してきた武将達の多くが亡くなり、物悲しい雰囲気が漂ってきます。
能登殿教経は平氏武将の中でも人気のある人物で、
「能登殿最期」の段はさすがに
「ああ、ついに能登殿も死んじゃったか~」と感慨深い。
左翼史観の歴史家たちは『吾妻鏡』等と照らし合わせて、
「教経は一の谷で戦死しているのだから『平家』の記述は誤りだ」と指摘しますが、
自分は『平家物語』を編纂した人々や、
『平家』に描かれた武将たちを己の鑑としていた後世の武士と同じように、
壇ノ浦で散りゆく能登殿の死に様を悼(いた)もうと思います。









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Last updated  2008年07月22日 22時55分07秒


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