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2011年10月19日
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カテゴリ: 實戦刀譚

日本刀の切れ味

  日本刀は実際よく切れる。
 今度の事変に従軍して、今更のごとくに驚いた事である。
 みんなよく切れたが、鑑定家のいうような名刀はほとんど持って行っていない。
 自分が軍刀修理並びに研究の為、北支寺内部隊に所属し、
 本年(昭和十三年)の二月から十月まで、常に第一線部隊に派遣され、
 そこで見た二千振に近い日本刀の中、
 七割までは明治以前二三流刀工作の新刀新々刀であり、
 現代刀は約一割、俗にいう昭和刀という粗製品もちょいちょい見た。

  一体刀の切れ味なるものは、その刀固有の性能のみではないらしい。
 刀と人との相性、つまり、刀から見ればその人を得、
 人から見ればその刀を得た場合に、本当の切れ味が出る。
 もちろん腕にもよる事であるが、
 こうした時にその刀に対する信念もいよいよ強くなり、
 腕に似せぬ働きも演ぜられるのであろう。
  近藤勇が持っていた刀は、偽銘の虎徹であったという。偽でもよく切れて、
 あの不思議な業をさせたのは、刀人如神通微妙であったからであろう。
 桑田部隊に出張した時、(三月末)
 ある軍曹が虎徹をもっているから見てくれとの事であった。
 無銘の新刀に、虎徹の銘を切りつけた偽銘である事は一見してわかったが、
 士気を沮喪させるのも無益の事と、「いい刀です。」と云っておいた。
 五月初旬、徐州東北行の関門蘭陵鎮付近の長城で、
 桑田部隊は数倍の強敵と激戦を交えた。
  その時、軍曹は件(くだん)の虎徹をふるって敵と渡り合い、
 数人を斬り倒したが敵弾に頭部をうたれて野戦病院に送られた。
 偶然な再会で、その戦友に案内されて見舞ったが、軍曹の意識は不明であった。
 見ると、その枕元には、見覚えのある虎徹が立ててあった。
 彼は重傷で後退する際にも、これだけは手から離さなかったと聞いて、
 自分は泣いた。あの時、偽銘だと云わなくて本当によかったと思った。


  三月下旬、清寧の西方嘉祥で、某部隊が激戦した。
 敵兵の狙撃を受けて部隊長は倒れた。
 副官佐野少尉は憤怒と共に物蔭にいるその狙撃兵の集団の中へ斬り込んだ。
 矢庭に三人斬り伏せ、四人目に及ばんとした時、
 刀の柄木が中央から折れて長蛇を逸し、その上右手に負傷した。
 無念のその血刀を、少尉が修理に持って来た。
 当番兵がついて来て、「アッという間に三人を斬りましたが、
 一刀ずつでいずれも致命傷であったのは神業としか思えませんでした。」と語った。
  刀は研ぎ減りのした細身の、古刀としては反の少ない方で、
 修理班の加古伍長(軍曹)が、腐った血の悪臭のするその刀の刃こぼれを研ぎながら、
 「地鉄の調子から見ると切れる条件には合いません」と云っていた。
 折れた柄も新たに造ってやった。少尉は四月に入ってから中尉に進級して、
 台見荘の白兵戦で切りまくり、名誉の負傷で護送された事を、
 やはり○○○の病院で聞いた。


  こうした例を挙げたからとて誤解されては困る。
 自分は、悪い刀でも皆このように切れると云って、
 よい刀を不要とする為の引例では決してない。
 刀は持つ人の信念次第でもある事の例証と見てもらいたい。よい刀はやはりよい。
 磯谷部隊の某将校は、身幅の狭い重ねの厚い蛤刃の新刀祐定で、
 鉄条網を切断する事数次、粟粒大の刃こぼれ六つのほかに何の故障もなかった。
  刀身は容易に折れないものである。刀の折れるという事は、
 武運に尽きたという事であろう。二千近い数の中に一振も折れはなかった。
 加古伍長の扱ったものの中に、大切先が五分折れたものがあった。
 これなどは折れたというよりも、刃こぼれの程度である。
 それと反対に、柄折れはかなり多く、全く予想外の事であった。
  どうも“日本刀”という一般の観念は、刀身だけを指していっているように思える。
 刀身さえ吟味すればそれでよいのか。刀の切れ味は刀の柄からも出るのだ。
 本当の業物としての刀の機能は、柄と刀身と鞘の総括されたもののなす業で、
 『葉がくれ』の中には、切り死にした武士の刀のどこの部分よりも
 柄の破損していた事実を挙げて、後の人々の鑑戒としている。
 自分等の判の修理の統計から見て、柄の故障は折れたのをまぜて実に六割、
 刀身の湾曲刃こぼれ錆落としが三割、その他一割という数字を示した。
  戦闘中柄折れのため不覚をとった例の一つは前にも記したが、それがため
 最期を遂げた者もあった。軽々に見過して来た外装の不備から、
 思い設けぬ不覚をとった人々の霊は、行く所へも行かれなかった事だろう。
  刀身に金がかかり過ぎたからといって、外装を値切って粗雑にする人は、
 やがて第一線で泣く人である。
 昔の武士が吟味した外装を、そのまま皮革に包んでいった刀が案外強くて、
 新制式刀に故障が多かった事実をしっかり考えてもらいたい。
  よい日本刀とは、柄と刀身と鞘とが平均に念入りに造られたものの謂(い)で、
 各部の製作に甲乙があってはならない事を、くれぐれも忘れてはならない。


  ?州(えんしゅう)に川口隊という移動修理班がいた。
 ここの鍛工場で、必要にせまって刀を造った。
 材料は廃物になった自動車のスプリングで、鍛えずに赤めて焼きを入れ、
 ある程度に焼きを戻したもので、白研ぎに仕上げ、実用権堅固に外装した。
 あちこちで聞きつたえた人たちがほしがって寄って来た。
 その刀がなかなかよく切れ、樹木や、本物の試斬りには、常に満点であったので、
 誰云うとなく?州刀の名が高くなった。
 どこかの工兵隊の人たちが、支那鍛冶の工場で、支那鋼で造ってみたが、
 切れ味や刃性が遠く及ばず、材料は自動車の古スプリングに限ると云って
 漁りつくして刀にした。間もなくこれが全支の日本軍に流行した。
  自分等はしばらくこの隊に同居した後、清寧に移動した。
 ある日、件の?州刀を手に入れて来た下士官が、持って来てみせた。
 身幅一寸二分程、重ね三分五厘、二尺二寸位の大だんびらで、
 刀の釣り合いもよく、すでに敵を切って血を見ていると云っていた。
 加古伍長と福田上等兵と自分とで、
 市民学校の植込みにあったヒバの直径一寸内外なのを三十本程伐りまくったが、
 心持ち刀身が曲がったのみで何ともなかった。


  こうした事実は、色々な事を考えさせた。
  すっと古い頃の古刀は、後世のごとく鋼材を組合せずに一枚鍛えで、
 それでいて強靭であった。
 名刀と云われている数々の刀の鍛法中には、あるいはこうした物質の慣熟性を
 不知不識の間に応用して霊剣を得たものもあったではあるまいか。
 更に、酷寒零下二十度以下だと折れると云われる種類の鋼も、
 特殊な方法で酷寒地において鍛錬したらどんなものであろう。
  こうした日本刀の秘密の扉も、“無機物も生き物同様に慣熟性をもつ”と云った、
 ヘッケルのような畑違いのドイツの科学が開いてくれるのではあるまいか。
 そうしたところに日独文化協定の意義もあてはめてみて微笑せざるを得なかった。







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Last updated  2012年04月26日 22時02分21秒


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