FINLANDIA

FINLANDIA

PR

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Archives

2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月
2025年07月
2025年06月
2025年05月
2025年04月
2025年03月
2025年02月
2011年11月30日
XML
カテゴリ: 實戦刀譚

刀の真諦(しんたい)

  「軍人武道家に刀を看る者が少ない。」とはよくいわれる事である。
 そういう人達に聞いて貰いたい事がひとつある。
 それは武道の大家某先生の直話である。
 「手の内で知る刀全体の感触霊感に引かれて、思わず会心の抜きつけをしたり、
 またズンと斬り放したりする時の“刀人一如”の境地は、
 所謂鑑刀家といわれる人達によくわかるかどうか。
 こうした場合を考えてみるに、刀は作者と使用者間にのみ冥々のうちに
 気合がつながるもので、鑑刀家というようなものの介入の出来ぬ妙諦がある。
 悟りぬいた武術者のいう“切れる刀”というのは、
 鑑刀家のいう外見だけで見定めた刃味だけでは決してない。
 武術者は刀全体で切るのだ。名刀必ずしも物切れではない。」
  ある時、自分は都下一流の研ぎ師と、 ねた刃 の事について話し合った事があった。
 研ぎ師は、白状するといって、
 「私は刀に関する大抵の事は知っているが、
 ねた刃については、サーッと刃先を荒らすという事以外には知っておらぬから、
 後学のため話してもらいたい。」と熱心に希望したので、
 自分が桑名藩伝兵法山本流で習った事を残らず話してやった事がある。
  短刀は主として突くに利あるが故に突き刃にかける。
 脇差は切るに利あるが故に切り刃にかける。
 長刀は多くの場合打ち切るに利があるから打ち刃にかける。
 打ち刃はまた勘介刃あるいは鑚刃(たがねば)とも称し、
 堅物や骨ぐるみの切断にはこれでなくてはならぬ。
  通常、突き刃は、半紙一帖を二つに折り、小口を断って、
 その切り口で刃を表面から強くなでこすり、
 切り刃は、村雲という砥石で刃先を二三厘ほど刃面にしたがってつけ、
 打ち刃は、同じ砥石で、最初切り刃にかけ、
 次に刃先一厘幅ほどを八、九十度の角度につける。
  切り刃は、さらに、新身(あらみ)だと、水でよく洗い、
 ?鼠(もぐらもち)の皮を木に貼ったものでかけ、
中身 は柳の木のよく枯れたものを用い、
 研磨二、三年後のものは村雲砥を用いる。
 刀を打ち刃にかけるのは戦陣用で、平常の斬撃には用いない。
 この村雲砥は、薄紫色で紫の筋があり、至って細かな砥で、
 代用としては、常見寺(じょうけんじ)砥を用い、
 いずれも拇指頭くらいの矢筈形に拵えて用うるもので、
 厳密にいえば、ねたばをかける又は合わせるといわずして、
 寝た刃を起こすといい、新身を上起、中身を中起、研ぎ置きを噛起というので、
 寝た刃、または宿刃と書く。
  水心子の『刀劍辨疑(とうけんべんぎ)』には、刀は使用の目的により、
 突剣(三角形の短刀、よろいどうし)切剣(重ね薄く平造り)打剣(鎬造)の
 三通りの作り方がある事を記しているが、双方一致しているところが面白い。
 『懐寶劍尺』には、ためしは ねた刃 の秘事あり、云々、と記している。
 けだし、この秘事というのは首斬り浅右衛門代々の米櫃(こめびつ)であるから、
 『古今鍛冶備考』にもほんのちょっとしか説明しておらぬ。
 いわく「根太刃を細くして帯すべし。先ず常見寺砥に刃をよく居(す)ゑ
 夫(それ)より名倉砥にかけ、其の上を合せ砥を篤と研ぎ、云々。」
 その他伝の異なるにつれて、砥石の種類もかわるが、こうした伝統も
 広く伝わっていないのは、日本刀復興の今日としては残念な事のひとつである。
  また鑑刀家の中のある者は、
 「蛤刃(はまぐりば)では物が切れない」とよくいっている。
  昔の刀は多く蛤刃であって、刀身を平面に研ぐのは明治以降の事である。
 現在大名華族の秘蔵する“昔研ぎ”のままの保存刀を見るに、
 長刀はほとんど皆蛤刃である。
 蛤刃であった事は、容易に刃こぼれせぬ事と、もうひとつ重要な点は、
 平に研いだ刀では、斬り込んだ場合肉が吸いついて切りにくい点であって、
 そうした事は、今度の実戦に臨んで切実に感じた事であった。
  四月四日臺兒荘へ戦車時の突撃、中島大尉が軍刀を揮って地雷誘発の電線を截り、
 奮戦して壮烈な戦死を遂げたのであるが、
 その刀が部厚な蛤刃の新刀祐定であったため、
 わずかに微細な刃こぼれを見たのみであったなど、
 机上の鑑刀眼だけではちょっと判断のつかぬ事である。
  もっとも刀剣家の中には、こうした点をよく調べている人々もあるであろう。
  要するに、美術刀の美術的鑑刀眼だけをもって、
 武用一切の批評をせんとする事は、武用眼で美術刀を見るより、
 刀の本来性から考えてみて無謀な事であろう。
  古い写本で『百草屋老人語』というものを見た。
 この中に、本阿弥家で無銘の刀に誰彼と中心に象眼銘または朱銘を入れ、
 あるいは無銘そのままでも折り紙を出すのは一向の拠りどころもなき
 無益の所業である。
 刀をつくりたる人と常に交りてその作の刀を目に見なれてすら、
 出来口の違いたるに至っては目利(めき)きの違う事もある。
 まして、日本国内上古より今に至るまで幾千万という刀鍛冶の作を、
 誰かたしかに見定むべきや。
 本阿弥が家にて、これは正宗が掟に似たりよって正宗と極める、
 これは貞宗の押形に似かようによって貞宗と定まる、
 というような事でほんの当て推量である。
 その証拠には、これまで志津の極めのついた刀などを
 高位の人か富豪かが手に入れて折り紙をかくし、
 本阿弥の目利きにやれば、謝礼の多きにつれて正宗にも貞宗にもきまる。
 無銘は無銘でもその刀さえよければ、誰作と極めずとよいのであるのに、
 作名がなければ刀が役にたたぬように心得ているのは笑うべき事である。
  という意味の事があった。一見平凡ではあるが、
 外見鑑刀のあてにならぬ事を叙(じょ)し得たものとして面白い。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012年04月26日 22時38分25秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: