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2012年03月21日
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カテゴリ: 實戦刀譚


前回

  大八が秀國、元興とわかると、次から次へと面白い事実が判明してきた。
 この鍛冶は、だた銘鑑に名をとどむるというだけで、
 おそらく一般の刀剣書などには、その名前さえ出ていない事と思う。
 しかし、会津郷土史的に見た元興、実用刀匠としての立場から見た元興は、
 それぞれ特殊な一面をもっている。
  かの水心子が、最後に相州伝を完全に会得する事のできた裏面には、
 この元興が、人の知らぬ苦しい役割を演じたのであって、
 水心子自身からすれば、忘れる事のできぬ第一の弟子であった事と思われる。
  最初から固有の伝に拠らなかった水心子は、まず苦心して備前伝を探り、
 次に相州伝に手を染めるに及んで、この伝の“秘密の扉”は固くけして
 彼の前に本当の姿を見せなかった。
  彼が、相州伝の正統であるはずの、正宗第十六代山村綱廣に対して
 弟子の体をとっても、それは本当の秘伝を持たぬ綱廣の凡技にただ失望しただけで、
 何ものをも得られなかった。
 なぜなれば、本当の秘伝は他に分散していたからであって、
 当時の継承者の一人は、遠く薩南にいた奥大和守元平であり、
 島津侯はかれに俸米五百石を給して容易に放さなかった。
  寛政の初年、その頃水心子正秀は江戸濱町に住んでいて、
 滔々(とうとう)として美術作刀に堕落してゆく造刀界に呼びかけ、
 実用武用論の立場から大声呼号していた。
 この刀匠界の風雲児の周囲には、
 水心子から事ごとにやり込められている蒲田魚妙だとか
 幇間(ほうかん/たいこ)化した首斬り浅右衛門や本阿弥某々とかが、
 水心子が堂々の論陣を張って、憂国の武人の間に
 隠然たる実用復古刀の根を下ろして行く事を快からず思い、
 経済的に根拠をもつ“美術的刀剣市場”の勢力を背景に、
 水心子を伸ばすまいと、あらゆる権謀術策をめぐらしていたのであった。
  水心子の東北人らしい純真生一本さは、鍛刀の業に比して、
 理想論に突入する事の方が一足早かったために、
 これらの反対者にこっぴどく足もとをすくわれた。
 例えば、水心子の試みに打った相州伝の刀を某侯の邸から探し出してきて、
 小塚つ原で浅右衛門に試させ、わざと叩き折らせたり、刃をこぼしたりして、
 「水心子の武用刀とはこんな物でござい。」と宣伝させた。
 甚だしいのは、一見水心子の作と思われる物の銘を削って他の上作に偽装し、
 彼は生活に困って偽作をすると宣伝したりしてまで彼を苦しめんと謀った事は、
 水心子の自記にもそれと現されている。
 こうした反対者の中にいて、水心子は日夜ただ工夫研究の精進に没頭していた。

  水心子が侍の出であるごとく、角大八もまた会津藩士の家に生まれた者で、
 彼の父親角五郎左衛門は、お台所頭であったが、
 急病で死んだ直後に継承者の長男が元服の年齢に達していなかったので、
 藩規によって一時封禄に離れた。
 その五郎左衛門の三男として生まれた彼は、刀匠たらんと志し、
 つとに水心子正秀の門に入り、水汲み庭掃除から出発して、
 三十九歳の年まで水心子門下生として、
 師匠と共に実用武用刀主義の闘いを続けてきたのである。
  水心子が相州伝の奥秘を得んとする欲求は実に切実なものであって、
 ついに弟子の角大八をしてその伝を得るためのひとつの犠牲者たらしめん
 とまで計画した。
  それは、会津侯が水心子の武用刀論者の共鳴者である事。
 同侯が家臣である大八の将来に望みを嘱(しょく)している事。
 大八が江戸家老田中銕之丞の庇護を受けつつある事。
 この三つからして、大八をして間接に会津侯から話の序に
 薩州侯に掛け合って貰い、そのお声がかりで、大八を元平の弟子たらしめ、
 そして秘伝を得させようという魂胆であった。
  ある日水心子は大八を人なき所に呼んでこの決心と計画とを明かした上、
 「其許(そのもと)が元平から相州傳を得た曉(あかつき)には、
 改めて自分は其許の弟子にして貰ふであらう。」
 とまで悲愴な心中を洩らした。
  大八とても、どうかして師匠に名を成さしめ、
 魚妙や浅右衛門に一泡吹かしてやりたいという気持ちでいっぱいであったから、
 一切を承諾して、決行する事となった。
 そこで順序として、水心子から田中藩老に対して、
 「自分弟子角秀國事永年手もとに於て鍛刀の術を教導致して参ったが、
 此の上自分の手にて仕込むべき手段とては無い。
 ただ彼の薩州元平の下で技術を磨き得るならば、
 蓋(けだ)し日本一二の刀匠として其の名を千載に残すに至るであろう。
 依(より)て此段御推薦申上る。」
 という懇切な書状を出した。
 田中藩老はもとより異議なく、委細は本人次第と、
 早速大八を藩邸に呼んで本人の決心を聞いてみると、
 願ってもない事だというので、直ちに君公に申上る。
 然らば、予から直々に島津侯へ申入れるであろうという事になり、
 島津侯は殿中で気軽く引き受けてしまった。これは後の事であるが、
 大八が島津家江戸家老の書面を持って遙々薩摩へ行きつくと、
 元平は門下の体はとっても、そう秘伝は他国の者に
 やすやすと教えてやるわけには行かぬというので、
 わざわざ飛脚を飛ばして、江戸藩邸に伺いを立てると、
 家老から折り返しの書状に
 「殿様は殿中に於て、会津侯に対し、
 必ず秘伝を授けて下さると引き受けて了ったそうだから、そのように心得ろ。」
 という事であったから、一時は元平甚だ憂鬱であったという。

  水心子には おもと という一人の娘があった。
 彼が指示した相州伝十六代の綱廣の子、十七代綱廣はその当時
 水心子の居候をしていた。彼は娘を綱廣にめあわせんとしたが、
 彼女はそれを拒んで自ら意中の一人を守っていた。
 それは即ち角大八であった。
  寛政四年某日、角大八がいよいよ江戸を立ちいでて薩州へ旅立つというので、
 水心子は、首尾よく業を積んで帰ったら、 おもと を其許の妻にと言い出したが、
 大八は「まことに忝(かたじ)けないが人の身の明日の事はわかり兼ねるから」
 という理由ではっきり返事をしないで旅立ったのである。

  大八は薩州元平の許で技を磨く事一年の後、
 元平の名の一字を貰って元興と改名し、一子相伝の秘書を手に入れるために、
 元平の娘と結婚し、その子となって秘伝を授かり、
 相携えて先師水心子の家に帰ってきた。
  大八帰京の報に喜んだ水心子は、見知らぬ旅姿の婦人をつれた大八の姿を見て、
 かついぶかりかつ驚いた。
  第八は旅装も解かずに事の顛末をつぶさに水心子に物語り、
 一個の油紙包みを手渡し、
 「これは永年の御薫陶に報ゆる大八が赤心に厶(ござり)まする。」
 といって、次いで別れを告げ、水心子がその包みを解く手も遅しと、
 我を忘れて読み入るその間に、奥州会津へと妻の手をとって旅立った。
 かくして相州伝の秘伝は、水心子正秀の手に入り、
 復古武用の大願はここに成就したが、
 その夜娘の おもと は我と我が命を絶って相果てた。
  自殺に用いた刀は、大八の鍛えた短刀ともいわれている。
 ある書物には、娘の名をお光と書いてある。







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Last updated  2012年04月27日 02時36分30秒


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