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2012年06月27日
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カテゴリ: 實戦刀譚

物斬り四題



  首斬り役人の始まりは、慶長年間の中川左平太という武芸者で、
 寛永年間には山野加右衛門、寛文前後には山野勘十郎、
 その勘十郎の門弟山田淺右衛門貞武(又、朝右衛門とも書く)が、
 元文年間に首斬り役人となり、明治十四年七月、斬首刑が廃止となるまで、
 この家が八代もつづいたのであるが、
 その間、不慮の横死者も出さず、血脈も絶えずに一門繁栄したのは、
 “仏典の忠実な執行者だ”という信念に徹していたからだという。
 七代目浅右衛門は、明治三人に志士雲井龍雄を斬った頃を最後として隠居し、
 和水と號して行ないすました。
 武芸にも秀でており、殊に山岡鉄舟とも交わりがあって、
 ある時鉄舟の乞うがままに、在職中の述懐を洩らした。

  ……わしは、明治三年十二月二十八日、千住塚つ原で、
 彼の雲井龍雄等を斬ったのを最後にそれまで傑士志士を幾人も手掛けたが、
 信心が出来ているというか、その場に臨んで、不憫とも気の毒とも、
 何とも考えた事がなく、家の職務と心得て、いずれも一刀ですっぱりやってきた。
 誰彼と名指す事は一切止めにして、
 末期の膽力(たんりき)眞に人を驚かしたという者はほどんどなく、
 首の座に直ると、誰でも生色のない一個の同じ型の人間になってしまう。
 だから、一度として振りかざす刀の手に鈍りを見たという事もなかったわけで、
 その末期の秘密は、検視の上役と、かくいうわしと、縄取りの小役人、
 屍体を引く非人の外にはしられておらぬので、みんな誰も彼も、
 悉(ことごと)く立派な最後だったように書き残されている。
  ……しかし、わしの首斬り役人としての生涯に、
 不可思議な事が二度だけあった。
 それは、義賊鼠小僧次郎吉と、
 吉原の花魁(おいらん)花鳥(花島と書いたものもある)の
 二人を斬った時の事である。
 天保三年の夏も終わり、涼風のたちはじめた頃で、
 わしもまだ若かったが、当時三十八歳の次郎吉が、
 牢役人の慈悲で顔を剃って薄化粧をし、髪をきれいにあげ、
 渋い着物で、特に目かくしを断わって首の座に座るなり、従容として、
 「じゃひとつお願い申しやしょう」と、すっと自ら首を延べたっきり、
 あとは小ゆるぎひとつせず、じっとして動かない。
 瞬間、これは鼠小僧じゃない、人形だ。
 そうした不思議な考えがチラッと浮かんでは消え浮かんでは消え、
 瞑目一番、四度刀を振り上げ直し四度目に、
 掛け声の勢いと共に満身の力をこめて斬って落とした。
 その時は、眞に冷や汗で全身がぐっしょりとなったほどであった。
  ……遊女花鳥を斬ったのは、それから十年後の天保十三年の事で、
 花鳥は吉原某大樓のお職であったが、枕探しや謀殺の連累で、
 当然死刑になる身が、ご親類筋にえらい人があって島流しとなった。
 花鳥の凄腕は、島役人を丸めるくらい、鼻紙一枚よりたわいない事で、
 共に島を抜け出し、江戸に帰って、松島町に隠れているうち、
 もうよい時分と、芝居見物に出て捕まった。
 本人の切なる望みは、花魁の盛装で、このわしに斬られたいというので、
 女人の打ち首は数も少なく、いろいろ寛大な恩典もあったため、
 これぐらいは許される事となったから、それは大変な前評判となり、
 平常は、規則上立ち合うべき筈になっているのに、
 一向姿を見せた事のない特別関係の諸役人たちも、処刑当日に揃って顔を出し、
 おえらい人達までが微行で来て、簾のすき身をするおいう騒ぎであった。
  その時わしは、さるお旗本から、
 仔細あって特に女人お試しの御用命でお預かりの、二代目尻掛則長、
 細めの一刀一尺七、八寸というやつを抜いて、片手斬りに構えた。
 女人の斬罪にはこの片手斬りにするのがひとつの定法で、
 その死屍には、士人のそれと同様、決して胴試しに用いない事が
 ひとつの掟となっていた。
  この時、花鳥はふりかえって、ニッコと微笑を含み、
 「もうし、あなた様があの名高い首斬り淺右衛門様で厶(ござ)りますか。」
 という意味を、廓(くるわ)言葉でいう。
 「そうだ。」と一言答えると、
 「そんならわたしの望みは皆叶って、こんな嬉しい事はござりませぬ」
 といって、これも自ら首をさし延べた。
 やっぱり四度振りあげ直して、漸(ようや)くの思いで首を落としたが、
 わしは、生涯五百人あまりの首を斬った中、
 自在に斬れなかったのは、たったこの二度だけで、
 その時の心持ちは、今でもひとつの わだかまり となって残っている。
  と語ったのである。
 これを聞き終わった鉄舟は、はたと膝を打ち、
 「そこだ。多くの傑士志士は、この世に残した国事聖業に多少とも
 未練が残っていたからの事。
 然るに、この二人は、仕たい三昧をなし盡(つく)して
 平常から首の座に直る覚悟がちゃんと出来ていたから、
 何もかも一切が“空”であったのだ。
 まだ充分悟りきれぬ其の許の“有慾の刀”では、
 これだけはよう斬れなかった筈じゃ。」といって、嘆声さえ洩らした。
 淺右衛門も、この説を聴聞して、久しい間の心の中の わだかまり が、
 豁然(かつぜん)として四散したといっている。

  剣聖宮本武蔵が、その著『五輪書』の中の『空の巻』に、
 “物事に形なき所”といい、“迷いの雲の晴れたる所是れ實の空と知るべき也”
 と述べ、兵法至極の道を“萬理一空”と説いてあるのも即ちここのところで、
 彼が、寛永十七年に細川忠利に謁(えつ)した時、
 家臣の中で御身の目がねに叶った者はないかとの問いに対し、
 都甲太平兵衛という輕輩出身者を推薦した。
 忠利は不審に思って、直ちにその者を呼び出し、
 武芸者としての平常の覚悟をたずねたところが、
 「人は据え物であり、斬られる者であるという事に気がついて以来、
 ただ平気で斬られるという事をいろいろと心掛け、
 それが成就しただけの事であります。」と答えた。
 果たして武蔵推薦の目がねに違わず、
 後、細川五十四萬石の安危にかかわる二大事件を、
 この都甲が“斬られる位置”に立って解決し、あっぱれ細川の名臣として謳われた。
 これぞ武蔵の奥秘、空の巻を如実に顕現したものであって、
 山岡鉄舟の膝を打ったのは、この“萬理一空の所”を
 やっぱり如実に発見したからであったのだ。

  (つづく)






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Last updated  2012年07月26日 21時45分21秒


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