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テーマ: 實戦刀譚(65)
カテゴリ: 實戦刀譚

“戦時眼”で見た正宗


 武勲に乏しい刀歴


 正宗の刀が、鎌倉北條氏中期に出現したものでありながら、
その後建武中興諸戦争の記録にも戦国時代の戦記にも、
その戦場武功記や物斬り話の出ておらぬのは不思議な事である。
そんな事から考え合わせて、
正宗は、鉄と水と技術を求めて生涯の大半を全国遊歴に送り、
その作刀は当時極めて少数であり、その時々の変名で銘を打ち、
正宗と称したのは晩年の事であり、かつその作刀銘は
ほとんど指を屈するほどではなかったろうかと思われる。
 中には、正宗はいわゆる刀の神様で、その品格は尋常のものでなかったから、
誰も尊んで陣中に用いなかったといっているものがある。
陣中に用いない刀とは随分受け取りがたい話である。
 ずっと下がって、徳川上期元文四年に、
湯浅常山によって書かれた『常山紀談』にただひとつ現れている。

 本庄越前守繁長は越後の勇將なり。(中略)
 本庄最上義光と出羽の千安が表にて軍〔いくさ〕しける時、
 最上の軍敗北せしに、
 義光の士大将東漸寺右馬頭口惜き事に思ひ取て返し
 首一つ提げて越後の兵に紛れ、繁長を目にかけて、
 只今敵の大將を討取て候、實検に入れ奉らんと言て
 馬の鐙〔あぶみ〕を合わせ寄せて、正宗の刀を以て胄を打つ。
 明珍〔みょうちん〕の胄なりしかば、筋四つ切削りたり。
 繁長右馬頭を切て落し、首に添て景勝に出したり。
 刀をば本庄に返し與〔あた〕へられしが、
 後故有て東照宮の御刀となり、本庄正宗といへるは此刀なり。

 これが正記録に現れた唯一の武功録だが、
ただ胄の筋を切り削ったというだけだから心細い。
本阿彌の『名物牒』には、この記録を作為として、
『東善寺右馬重長の兜もろ共切りつけたるも
重長浅手を負ひ乍ら屈せず右馬介を殺してこれを奪ふ。』
としてあるが、さすがに兜を切り割ったとはしていない。
 後故有て東照宮の御刀となったその“故あって”については、
『常山紀談拾遺』に、

 ……後秀吉公御代に伏見御譜請に付本條重長
 (本庄繁長の事。当時は当て字を平気で書いたものと思える)
 在京し勝手つまりかの刀を賣る。
 本阿彌とり次家康公に召上げられ、本條正宗と云ふ。
 後は紀伊大納言殿へ進ぜられけるなり。

と記され、これで判明するのであるが、
某書には、この時の事情を古書から探し出したとて、
「大阪で本阿彌光徳と刀工出羽大掾國路の斡旋により一千両で買った。
磨上無銘であるが、右両人が鐵舟に與へ、
鐵舟はこれを皇室に奉献したものだといふ」とある。
 この外に『鍋通し正宗』『龍手切正宗』の二傳説があるが、
前者は徳川時代になってからのつくり話と見えて、
慶長年間、片桐市正の記した『太閤様以後進上之御腰物帳』には単に、

 一、鍋とをしの御脇指此箱え入、但太閤様以後。

としてあるのみで、他の刀には皆〔みな〕刀銘を記してあるのに、
この刀だけにはそれが書いてない。
序だが、このお腰物帳の内容も随分露骨なもので、例えば、

 慶長十七年十二月廿一日松平長門守に被下
 一、正宗御脇指
   但左文字の由、本阿彌申上
        青木右衛門佐上

などと平気で記してある。
後この松平侯は、左文字とは知らずに、
正宗とのみ信じて大切に持ち扱っていた事であろう。
 今事変に従軍中、自分の見た正宗の事は、
先著『戦ふ日本刀』中に書いたから、ここには省略するが、
安政二年の本阿彌家の折紙にあるもの一振りで、
同じく折紙つき廣正、金象眼銘の國泰などの相州物古刀と共に、
いずれも柔軟に過ぎて くなくな に曲がったという事実に接した。
刃こぼれもさる事ながら、刀はひどく曲がったが最後、
闘いを中止するよりはほかに方法はないものである。






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Last updated  2012年11月30日 09時30分52秒


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