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テーマ: 實戦刀譚(65)
カテゴリ: 實戦刀譚

“戦時眼”で見た正宗


 正宗作者は本阿彌


 さて、右の名物牒の正宗四十二振り、脇差し四振り、短刀二十一振りで、
この中刀脇差しは長いのを短くした磨り上げ物だから、
無銘が大部分だというのならば、それはひとますそれで置いて、
短刀二十一振りは、元来生中心〔うぶなかご〕である筈なのに、
二、三を除くほかはこれも,無銘であるのは不思議な話で、
他の名刀と釣り合い上どうも合点がいかない。
 故今村長賀氏は、やはりこうした点に目をつけ、
名物牒の現物について、極めて率直な意見を残しているが、
それはあまり知られてはいない。
 「段々と眼を注いで熟視すると、其の生中心の短刀の、
 銘の有るべき所は、兎角鑢目〔やすりめ〕正しからず、
 或〔あるい〕は内減り、たしかに銘を消した様に見ゆるものもあり、
 又は、中心の形に手を入れたものさへ見える様だ。
 これ等は中心の刀棟及び平の方を入念によくすかして見れば、
 判然と了解されるので、斯ういふ類は○○中にも随分ある事だらうが、
 さて是に因って深く考えると、前々より、
 かかる刀の能くもまあ無難に通用して来た、
 と云ふ事はまことに奇妙なる次第で、
 如何に元龜天正以降の英雄豪傑が、
 武骨一遍只斬れさへすればそれでいいと思つて、
 一向に其の他を頓着しなかったにせよ、
 さても思へば不思議な事である。云云。」
と述べている事で、しかし考えてみれば、本阿彌一家は、
他に何ら競争的な対等な家がなく、
足利幕府初期から引きつづき豊臣氏徳川氏の刀剣究め所となり、
その刀剣政略の御手先となって地盤を張り、
幕府要路に利用されたり利用したりしてきて、
よしやいささかは失態があっても、
刀剣を鰹節代わりとする賄賂の仲介役として、
公私の主を悉知していた強みも手伝い、
官の威力でおさえつけて貰えたのであるから、
通らぬ所も通して来たのである事は、名物牒を一瞥しただけでもよくわかる。
 そうした行跡は、いろいろな他の記録にも残されている。
例えば、徳川幕府の直参従五位下大炊頭林笠翁の著
『仙臺間語』(明和、未刊書、宮内省図書館寮蔵本)に
次のごとき事が録されている。
 四門四郎兵衛という侍の蔵刀高田長守二尺五寸のものを摺り上げて
本阿彌が三條吉則の折紙をつけた事。
浅井武右衛門という侍の備前祐定刀の銘をすりつぶし、
それに本阿彌が相州正宗の折紙をつけ
金五十枚(三百七十五両)の値を定めその値段で他へ売りつけた事。
 大垣侯(今の戸田伯爵)の家士某が
大阪から束刀十振り一束のものを捨て値で買ってきて、
その中の一振りがちょっとよさそうに見えたから本阿彌に見せると、
相州正宗値百枚(七百両)の折紙をつけた。
あとで大垣侯事情を打ち明けて本阿彌をからかうと、
本阿彌は平気な顔をして、多分肥前忠吉(新刀)でせうが、
自分の眼では正宗と思ったからそうしたんですと、事もなげにいった。
 かように、本阿彌一類で、何でもかんでも
正宗にしてしまった事はひとつの伝統的性癖と見えて、
本阿彌家の逸足として有名だった光悦にさえ、
そうした話が伝えられている。
『橘窓自語』に、ある時、近衛三藐院信尹公が
一振りの刀を示して極むべきよしを仰せられた。
光悦いささか抜いて即座に「正宗です」と申し上げたところが、
この頃打たせた新刀であるものを、
正宗と極めたはそそっかしい見誤りだとて御気色わるかったとある。
 将軍秀忠が、本阿彌光徳を呼んで、
野田繁慶の一刀を見せたところが、これは正宗だと言上した。
秀忠は意外の面持ちで、
「これは新刀であるぞ、其方にも似合はぬ。」
と不興げにいうと、再び見直しながら、
「幾度拝見しても正宗の外にこの作はござりませぬ。」と言い張った。
秀忠はこの心臓に根負けして、「そうか。」と黙ったが、
後に繁慶を呼び、
「其方の刀を本阿彌は正宗だといい張ったが正宗に似せたのかどうか。」
とたずねると、繁慶は喜ぶかと思いのほか、
「さてさて心外千萬、
 手前の作刀が正宗と見られたのは無念千萬にござりまする。」
といった話もある。
 本阿彌家は、正宗一類を鑑定する上の秘伝として、
三教、四傳、十妙、十三錵〔にえ〕というひとつの鉄則が世伝されていた。
正宗を見る急所々々だそうであって、
この原則の若干條にあてはまるものは正宗なり、貞宗なりだというが、
それらは正宗刀のもつ固有の性能ではなくて、
本阿彌一族が、正宗をつくり出す上の、
すなわち諸々の名刀上作のうちから、
これはと思うものを探し出しては手を加え姿をかえて、
正宗に仕上げる上の約束だと言うものがある。
その三十からの箇條がどのようなものであるかは知らない。
この秘伝は、本阿彌本家の当主にのみ伝えられるもので、
俗説によれば、本阿彌家のある室の
壁張りとか襖張りとかに張り込んでおき、
代替わりごとに、張り替えと称して、
それを暗記してはまた張り込んだともいわれている。
 寛政の名宰相白河楽翁公が、武用日本刀を鼓吹して、
彼の手柄山甲斐守正繁という刀匠を抜擢した頃、
刀剣界粛清の目的から、本阿彌に命じて秘伝書を残らず提出させ、
その内の若干を複写して、官の書庫に蔵したともいわれている。
ことによると、『打物並目利秘傳書』というものがそれであろうとの事で、
その中に『相模國鎌倉之掟』三十ヶ条があり、
仔細に読んでみると、自分の考えでは、
それがどうやら三教四傳十妙十三錵らしい。
この書籍(写本)は帝国図書館にも
重要貴重書として所蔵されているそうである。
筆者の得た全文をそのまま左に掲げる。

 景氣無 人望 定而無物不足事鹽敷ク進疾ク遊タル心付可成。
 彫物者中ニ切而恰合能揃而鹽敷ク不尤立者也。
 為國之掟刃茂勢合見付茂十分也。
 大小共ニ頼幅ヲ捨ツ重ヲ反者鳥居之笠木之事。
 降風大路三棟若者嶮サ不當目古作程中之筋太キ物也丸棟茂有事。
 三首之内鋒目ニ平成見付有之事。
 青淵渦巻肌立目傳。
 歸鹽舗ク而能湘ル。帽子前下。冠帽子。玉帽子。色雲之帽子。
 千鳥之傳。瓔珞之傳。秋之萩之露。地燒。
 洲飛、錵ニ當目教。錵筋。錵捨。飛環。湯走。半月。浦之濤。
 老薄。嶋刃。洲濱刃。名之不付刃。小大中之亂。荻之亂。以上。

 ちょっと難解な節々もあるが、二、三発明されるところがないではない。
こうした事について説明する事は、
あまり専門的になってゆくのでそれは省略して、
さていかなる刀が正宗に化けているかという事を
調べたり聞いたりして見るに、
まず、京信國一派、長谷部一派、大和の千手院、武州下原島田一派、
備後三原、同法華一乗、辰房、大和包氏包永、陸奥の寶壽、美濃為繼、
等は、あるいはそのままで、あるいは磨ぎ減らし薄くし、
みな正宗一類に化け変わっているので、
それらの数がまことに少なくなっている代わりに、
本阿彌一家をして“正宗三千”と豪語せしめていたのである。
 眞正眞銘の正宗が一振りもないという事は残念である。
作のいかんを問わず、本物がたった一振りあれば、
それを基本にして偽物変物を整理する事ができるからだ。
 正宗時代の他の刀には、ずいぶん長いのがあって、
三尺内外のがそのまま所々に保存されている。
ところが、正宗には、そうしたものがなく、みな大磨り上げとなっている。
いったいこの大磨り上げという工作が くせもの で、
長い刀を短くする為に中心をつめる。
それだから、新しい鑢目が出て、古い錆色がなくなってしまう。
偽造変造者群の常套手段が、みなこの工作の手を用いたものである事は、
正宗の刀脇差しが、
ほとんど例外なくこの大磨り上げの手を利用してある事である。
 正宗偽造の上手に、國廣、國路の両名があった事はすでに述べた。
野田繁慶も、巧みに偽作したといわれ、
大村加卜に至っては、はなはだ有名なもので、
自記にすらそれを匂わせてある。
八王子在下原鍛冶中には、古刀新刀両時代にかけて、
正宗をはじめ相州傳偽作の名手が多く、
水心子の復古刀唱導は、一面では模作に名を籍〔か〕りた、
大がかりな古刀偽作だったとも悪口しているものがあり、
一代の巨匠直胤さえも、気が向けばボツリボツリやっていたというから、
新刀新々刀期の巨匠の手でされた偽作などは、
ちょっと見分けがつくまいといわれている。
幕末、江戸湯島の偽作専門の大家 かぢ平 も勿論作ったろうし、
明治になってからも、岡山の鬼才で地獄目地獄耳天才、
腕達者の逸見義隆の偽作などは、六百年の鉄色をそのまま出し、
明治正宗の異称があったといわれる。






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Last updated  2013年01月16日 01時10分20秒


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