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テーマ: 實戦刀譚(65)
カテゴリ: 實戦刀譚

偽刀談義


 本物以上の場合


 刀を鍛造する事は、ちょうど子供を産むようなもので、
造りあげたが最後、出来がよくっても悪くっても、どうにもならない。
つまり意識的に名刀は生まれて来ない。
いかなる名匠といえどもその都度必ずしも良刀が出来る筈のものではなく、
一面また自ら不良と思っていたものが、
仕上げてみると案外働きのある刀であったり、
無名の刀匠が、時に神品を造って、
我とわが腕を疑ったりする事があるものとみえる。
 かの虎徹のごとく生涯わずかに数百振りしか鍛刀しなかった者でさえも、
出来不出来の懸隔〔けんかく〕が甚だしいといわれているが、
こうした名匠の凡作は、
ただ本物というだけで命脈をつないでいるに過ぎない。
無名作者の刀でも、時に非常な魅力を発揮する事がある。
 永禄年間の古刀末期、安藝国佐伯住藤原貞安なんという刀匠は、
銘鑑にもあまり見受けないものだが、この二尺六寸の刀をめぐって、
幕末薩長土三藩の名士が懸命に争奪をした話がある。
薩州浪人梶原鐵之助事左近尤嘉右衛門が、
脱藩して大和の十津川にかくれていた。
ちょうどそこへ土州藩の故田中光顕伯が行き合わせて別懇となった。
この薩州浪人の佩刀が件〔くだん〕の貞安で、
一目見るなり田中伯は飛びつきたいほど欲しくなってしまった。
何ともいいようのない魅力をもった神品に見えたからだ。
田中伯は毎日のように命がけで懇望〔こんもう〕した結果、
ようやく思いが叶って自分のさしていた
備前横山祐春の一刀(嘉永年間)と交換できたので、
再び取り返されないうちにと、まだ用もあったのに匆々と十津川を去った。
 ところが今度は同じ手で長州の高杉晋作に取られてしまったが、
しかしそれが奇縁となって三人はかたく結ばれたのだというが、
高杉は他に所有の名ある刀を顧みる事なく、
この刀だけは一刻も身辺からはなさず死ぬる時まで持っていたという事だ。
これは名に憧れて巧妙な偽物をつかませられるより、
銘鑑洩れのこうした神品を探した方が余程ましであり、
またそうした方面は、あまり開拓されていない事の挿話でもある。
 虎徹に偽物の多いのは周知の事だが、
彼は五十歳まで越前の福井に住み、もっぱら甲冑を製作していたもので、
かの兜切りの一件から、切られる兜の製作を断念して、
切る刀の工匠たらんと遥々〔はるばる〕江戸へ出たといわれているが、
越前在住の頃は、甲冑の注文が次第に少なくなり、
やむを得ず鍔、轡〔くつわ〕、鐙〔あぶみ〕等の
武具雑鍛冶のかたわら刀剣を鍛えたものである。
その頃同じく越前福井に、辻助右衛門という矢の根鍛冶がいた。
同様の理由で矢の根から刀剣へ移行し、
和泉守藤原兼重と名乗って押しも押されぬ刀匠となった。
ほどなく伊勢津の城主藤堂和泉守侯に望まれ、
寛永年中出府してその刀匠となり、主君の和泉守を憚〔はばか〕って
上総介と改めたのであるが、
そうした方面の游泳術に下手な虎徹は、依然とした雑鍛冶でいた。
虎徹は兼重の職場で鍛刀を習い、かつその下を働いたらしい形跡がある。
この兼重の刀は、初期虎徹の作刀と寸分の相違がなくて、その上業物であり、
万治四年の作刀一尺八寸九分の脇差しには、
片手打三つ銅落のためし銘が入っている程で、
むしろ虎徹の作刀より上出来とされていた。
 虎徹は、兼重より十年遅れて出府し、
落ちついたところは本所割下水であった。
この割下水というのは、今の震災記念堂前電車通り一帯の呼称で、
両国橋を渡って左へ行った川べりと、
記念堂裏とには藤堂和泉守の下屋敷があって、
当時兼重は、この下屋敷内に鍛刀場を設けていたのだから、
虎徹が遥々たずねて来て落ちつくのは、自然そうあるべき事である。
 江戸へ出てからの虎徹は、すぐに刀匠として名を成したのではなく、
依然として雑鍛冶に甘んじ、傍ら刀を打っていた事は『徳川實記』に、
 ……石見守筑前を刺せし刀は神田轡鍛冶長會根興里入道虎徹が作る所なり。
とあるに見ても知られる通りで、これで見ると、
江戸雑鍛冶の集合していた、神田鍛冶町にも住んでいたものと見える。
 とにかく、虎徹と兼重とが相当に関係の深かった旁証はたくさんあって、
ある期間の虎徹は、当時隆々たる兼重の名を借りて刀を売ることによって、
苦しい生活をつづけていたものと見られる節々もある。
 この兼重の刀はほとんど見られない。
 それは大部分が虎徹偽銘の台となってしまっているからであり、
中には本物の虎徹でありながら、最初から兼重の銘になっていたものが、
再び虎徹に直されているものも若干はある事と思われる。
 兼重の子助久郎兼常もまた父に劣らぬ良工であったが、
この刀などもほとんどなく、それが為に銘鑑にさへ落とされているが、
これがまた相当に虎徹に化けているらしい。
 明治時代の鑑刀大家今村長賀翁が、
偽作の達人 かぢ平 の偽銘虎徹で一杯喰わされた事は有名な話であり、
またそれによって、長賀翁の眼識を疑うがごとく記述したものもあるが、
兼重父子の作刀に、かぢ平が一生一代の偽銘の腕を揮ったとすれば、
だまされない方の眼がどうかしている。
あるいはそれが、虎徹が兼重の下を働いていた頃の兼重銘を磨って、
かぢ平が銘を切った“本物の虎徹”であったかもしれない。
 こうした関係でか虎徹の偽物は相当いいものがあるから、
一概に偽物として葬る前に、その台となっているものに
一応の検索を加えるのも徒労ではあるまい。






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Last updated  2013年01月29日 02時50分32秒


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