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2015年02月27日
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テーマ: 臨戦刀術(92)
カテゴリ: 臨戦刀術


 行蔵の父は甚五左衛門勝壽といい、
「武家ながら侠者の名あり。」と書かれており、
母は「母性氣厳正、教ふるに義方あり。」
また「無鬚〔むしゅ〕の丈夫なり」と記されてあることから、
平山一家の家風も自ら知られるのであるが、
かれの師として、後年かれの武術の中心をそれに置いたといわれる
眞貫流の師範山田茂兵衞は、また聞こえた侠雄快傑で、
同じく御家人として御徒士を勤めていたが、
ある日、神田佐久間町に失火があって燃え拡がった時、
将軍が富士見櫓から遠目鏡でこれを望見しているのを見つけるや、
お堀のはたに二王立ちとなって大音あげ、
「下民の困難を眺めて御身の慰めと致さるるは、桀紂の暴にも劣らず候。」
と罵り、同僚のとめるを聞かず、
もとより覚悟の前だといって大手を振って立ち去り、
後上書してお咎めを蒙ったという人物であった。
 行蔵の祖父梅翁、父甚五左衛門は、ともに剣法にくわしく、
自然行蔵の武藝の師匠を選択するにも意を用い、
右のほか長沼流兵学では齋藤三太夫、大島流槍術では松下清九郎、
渋川流柔術ならびに居合術では渋川伴五郎など、
当時錚々〔そうそう〕たる人物で、
さらに弓馬水泳鉄砲の諸術まで盡〔ことごと〕くこれを修めしめ、
文事もこれに劣らず、昌平黌〔しょうへいこう〕に五年勤学して、
儒学をはじめ和学農工の末に至るまで学びつくしたかれであるから、
時に監視を賦〔ふ〕し和歌を詠〔えい〕じ、真に文武の両道を修め、
かつこれを発揚したのである。
 かく生い立った行蔵であった。


 当時は、久しい間の泰平安逸から風俗も奢侈〔しゃし〕に走り、
士気はさらに振るわず、しかも外艦しばしば北辺を犯すという有様だったので、
行蔵は慨然〔がいぜん〕として世を叱り、
自ら先駆して非常時日本人のかくあるべき生活を示した。
 着物は極寒といえども袷〔あわせ〕一枚、足袋は穿たず、
そのまま板敷の上に寝て木枕に一枚の四布蒲団〔よのぶとん〕をかけるのみ。
夏も蚊帳を吊らず、草をいぶしてこれを追い、食は玄米飯に生味噌と香の物、
茶湯も用いずに冷水ですまし、衣食住は戦陣にある心で、
朝、寅の太鼓(四時)に起きるのは、陣触れの太鼓に眼を覚ます事と心得、
直ちに冷水を浴びて庭に出で、太刀を抜く事三百本、
長さ七尺余の樫棒を揮うこと四百回、風雨寒暑一日としてこれを欠いた事がなく、
かつ一刻も時を違〔たが〕えて起きた事がない。
右の定業終わると共に、巻き藁を射、木馬に乗って槍をしごき、
武藝十八般、ことごとくその武器を執って一通り演錬し、
右終わって机に向かう頃は、冬といえども夜明けて清々しく、
そこで和漢の書を読んで朝食し、辰の刻(八時)仕に出づるといった有様で、
読書するにも、一枚の渋紙を板敷の上に敷くだけで、
それは足指や関節を板に当てて固めるためであった。
 兵原草廬(後に運籌堂)という家塾を開いて兵学儒学を講じた頃には、
江戸士民の間に
「龍門は登るは易く、運籌堂に登るは難し。」
といわれた程苛烈厳格なもので、
第一、内弟子はすべてここに在って薪水の労をとり、
師と同じく行の生活を積まねばならなかったからである。
 当時の規則書を見ると、

 一、始めて謁見に請う者は、予め紹介をもってその姓名を通じ、
  しかして後に相見す。唐突門に踵〔たずね〕る者は之を謝絶す。

 とあるをきっかけに、全文十七ヶ条、その大略を書きくだくとこうである。

 一、堂に上って先生を拝し、寒暑の挨拶が終わってからは、
  ただ粛整を要し、言笑を許さない。
 一、威儀厳猛正座して腹肚に力を入れ、
  両手の肘が外に向かって張る程に手を膝上に置く。
  これまた勇武を養う一端であるからである。
 一、先生に向かって物申す時には、手を膝の両方に置き、恭敬でなくてはならない。
 一、一々講を聴く時、他の旁聴する者、
  己れ了解せぬからといって唐突に質問してはいけない。
 一、学年を積み出師(孔明の上奏文出師の表の事)以上の諸篇に及ぶ者は
  入室の弟子である。その地位に至らぬ者は同席出来ない。
 一、階級差等を凌いで、浸りに講問する者には答えない。
 一、國政の得失、官吏の動静を論ずるは一切禁ずる。
 一、天下の形勢城堡〔けいせい じょうほ〕の利害を議する事も許さない。
 一、不遜倨傲体容を失するものは、席につく事を許さない。

 次に細事の規定として、

 一、病人のほかは頭巾足袋を用いてはならない。
 一、弁当は柳行李をつかい、煎物等の携行を禁ずる。
 一、禁煙。
 一、稽古中雑談をしてはならぬ。
 一、内弟子の会合は稽古場だけに限る。
 一、参詣物見遊山に誘い合ってはいけない。
  但し事情があって聴許したものは別である。
 一、同門中で金銭の貸借をしてはいけない。
  武器書物も同然だが、それは許しを得れば格別、
  どんな手軽な物でも贈与は一切ならぬ。

 以上は大体の意を取ったもので、ここに注目すべきは、
休日及び月謝の規定の全然ない事であるが、
前者は月々火水木金々を意味し、
後者は、庭前の野菜物を抜いて師に献ずるの誠意を諒とするもので、
本朝士風の美の一つの現れである。
 さて、この規定を一読した普通の人間は、
まずそれだけで逃げて近寄らなかったであろうが、
「読書竹刀の声音相和し終日これを聞かざるはなし。」
と書かれてある程に入門者は多く、一時はその数三千にも及んだのは、
時勢に眼覚めている同憂の士の多かったのと、
行蔵が自ら行なって天下に範を示した、その徳にもとづく結果であろう。
諸侯よりの招きもしばしば受けたが、自ら歩を運ばない限り門下たる事を許さなかった。
 時の名宰相松平定信は、微行してこの草庵を訪ね、武術について教えを乞い、
酒をはじめ時々物を与えて激励した。






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Last updated  2015年03月30日 02時35分45秒


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