藤の屋文具店

藤の屋文具店

アルファ疾走る



            アルファ疾走る

 少し大きめの低音が、家の前で止まった。描きかけのイラストを
そのままに、志津絵はロールカーテンの隙間から外を伺う。鮮やか
な真紅に塗られた彫刻のようなクルマは、そこに駐まっていた。

「きぃん、こぉおーん」

 木の香が残る新築の廊下にチャイムが響く。踊り出したいほど浮
かれているのを悟られぬように表情を作ってドアを開けた。

「おはようございます、おクルマをお届けにまいりました」

 まだ若いセールスが、精一杯のお洒落をして立っている。少し離
れたところに駐まっている黄色いプントの中では、アルバイトらし
い青年がこちらを伺っていた。

「こちらが車検証です。任意保険の証書は後日郵送されますので、
それまではこちらの控えをお手元に置いてください。よろしいです
か。では、おクルマの説明をいたします。ここ、これを引いていた
だくと、ボンネットが開きます、ガソリンはここ、必ずハイオクを
入れて下さい。オイル交換は最初は一ヶ月点検の時に・・・・」

 長々と続く説明を聞きながら、志津絵はシートを合わせ、クラッ
チを踏みこんでシフトをひとつづつ確かめた。左ハンドル右シフト
は、このクルマのためにちょっと稽古してみたので初めてではない
が、なにか、身体がねじれているような不安を覚える。ウィンカー
とワイパーを確かめ、ヘッドライトを確認。いよいよ、ウィンドウ
の上のロックを外し、幌を開けてみた。ボディのわりに小さな幌は
ぱたぱたと畳まれ、5月の陽がシートの上に影をつくる。黒いレザ
ーのシートは、艶を抑えられた柔らかな仕上げで、赤いボディとの
コントラストが美しい。ふとルームミラーに目をやると、顔いっぱ
いで嬉しさを表現している女が、そこにいた。

「では、何かありましたら、いつでも伺いますので」

 黄色いプントが角を曲がって見えなくなると、志津絵は顔をくし
ゃくしゃにして笑った。やったやったぁ。長年待ち望んでいたとい
うほどではないが、最初に見たときからずっと気になっていたクル
マ、うん、好きな男を手に入れたような、そんな気持ちがこみあげ
てきて、うきうきしていた。

 黒いジーンズに底の薄いスニーカー、黒い目の詰まったセーター
に赤いブルゾンを羽織って髪をキャップの中に押しこみ、深呼吸を
ひとつしてからギヤをローに入れた。慎重にクラッチを合わせると、
するするとクルマは進み始める。
 ビジネスに敗れ、レースを席巻した過去の栄光ごと大衆車メーカ
ーに買い取られた、歴史ある名門の技術者たちは、与えられた汎用
エンジンを巧みに利用して、紛れも無いスポーツカーのエンジンに
仕立て上げた。そんな事情などついこの間まで知りもしなかった志
津絵を乗せた真紅のオープンカーは、まだ混雑していない街を駆け
抜ける。
 やがて、山へと続く国道は高速をくぐり、オービスを過ぎたあた
りでトンネルの連続へ、そして道はいよいよ、朝陽に輝く新緑の山
を登りはじめる。

 材木工場を過ぎたあたりで、ミラーに影が映った。ぼってりとし
た低いフォルムに、剥げ剥げになった大きなスポイラー、後ろに高
くそびえるウィング、トヨタのおおきいクーペだわ。ストレートに
出たところで左に寄せて速度を落とす。だが、シルバーのクーペは
車間距離を詰めたまま後ろにつく。見るからにアタマの悪そうな顔
がミラーからはみ出していた。

「やだー」

 この歳になってまでヘンな男につけまわされるのには、ほとほと
うんざりしていた。少し綺麗というだけで、出会うたびにつきまと
う男たち。お世辞を言う男も厭だ。若い頃は嬉しかった誉め言葉も、
歳とともにその空疎さばかりが鼻につく。ほんとうに誉めてほしい
のは、過去の職業や見た目じゃないのに。。。男たちはみな、それ
で喜ぶと信じるのか、私を誉める。ミラーに映るとろんとした顔と
眼が合ったとたん、無性に腹がたって、志津絵はアクセルを蹴飛ば
した。
 真紅のアルファは、ノーズを持ち上げて敢然と駆け出す。4バル
ブの隙間に2本のプラグを抱えたツインカムは、待ち焦がれていた
ように軽々と吹け上がり、バランスシャフトに振動を抑えこまれて
優雅に速度を上げていく。左のタイトコーナー。志津絵の華奢な脚
が鮮やかにスライドすると、逆噴射を掛けたようにボディは路面に
吸いついた。
 ギアを入れ替えアクセルを踏みこむ。エンジニアたちの意地が与
えたアルミ合金のマルチリンクサスは、ボディを小気味良くロール
させ、しなやかな獣のようにコーナーを抜けていく。カーブを過ぎ
るたびに、ミラーに映る影は小さくなり、ハデなスキール音が遠く
で響く。

「楽天家というのはね、現実から目を反らして夢に逃げる人のこと
じゃないんだよ」

 あの男の言葉が、不意に思い出された。

「それはね、どんな困難な状況でも決して諦めず、手元にあるもの
だけを頼りに一筋の可能性を見つめて努力を続けていこうとする、
そんな人たちのことをいうのさ」

 フェラーリですら敬意を表した伝統あるメーカーも、非情なビジ
ネスの世界では勝つことが出来ずに大衆車メーカーの傘下にくだり、
かつてのような贅沢な設計など許されぬ、コストに制約されたその
設計室で、彼らはどんな想いで製図板に向かったのだろうか。

「たかが、人生、百年もたてば、僕らの失敗や恥なんて、誰もおぼ
えちゃいないさ。怖いのは、失敗することじゃない、何もしないま
まゆっくりと死んでいくことさ」

 今まで出会った多くの男たちが、あの男に出会ってからはちっぽ
けに見えてきた。ひとに言える程度の苦労や不幸を吹聴するより、
哀しみを見据えて笑うことの難しさ。あの男がこのメーカーに敬意
を払うのは、たぶん、過去の栄光に対してではないのだろう。

 フロントに横置きされたツインカムは、咆哮とともに7000ま
で駆け上り、誇らしげに掲げた楯をコーナーにかざす。ボンネット
を流れる木漏れ日が、ウィンドシールドをすり抜けて流れ込む。

 夢中で駆ける志津絵の中で、何かが静かに動き始めていた。



                      了



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