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2016年5月21日付けで休職期間満了により退職となりました。二度の海外駐在もあり波乱万丈でしたが、充実した日々だったと思います。24年間、とても恵まれた会社員生活でした。素晴らしい方々と共に仕事をすることができ、幸せだったと思います。会社の方々には、いつも温かい励ましのお言葉やお気遣いを頂きました。本当にありがとうございました。(妻の私は別の会社でしたが、なんて温かい会社なんだろう、といつも感激していました。)会社の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。主人の容体は安定しています。気胸の再発防止のため呼吸器の換気圧を低く設定しているので、SpO2が時々下がるようになり、酸素を使う場面が増えてきました。換気量を増やすためには圧の設定を高くすればよいのですが、その場合は入院が必要とのことでした。入院は絶対嫌だと思うので、なるべく現状で対応できるよう頑張っています。
2016.05.25
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退院してからまもなく1年がたちます。退院後すぐに尿路感染で1か月程入院しましたが、その後は概ね安定した状態が続いています。体調は良いのですが、皮膚トラブルに見舞われています。・胸脇の抜管の痕の皮膚が剥がれ、治るを繰り返しています。現在も両脇が剥けた状態になっています。・背中を中心に吹き出物がひどい状態です。背中が特にひどく、肌着が血だらけに。ニキビの薬を処方され塗っていますが、なかなか良くなりません。不快な思いをさせてしまっています。早く良くなりますように。娘ですが、無事第一希望の中学校に合格することができました。娘を受験させたいと言い出したのは主人でした。娘が5年生になるころにはTLS状態になってしまったので、勉強の進め方、学校の選定等、相談したくてもできない状態で、「これで主人の意向に沿っているのだろうか」と悩みながらの2年間でした。娘が志望した学校は私も一目で気に入り、娘も「絶対にココ!」と譲りませんでしたので、主人も喜んでくれていると思います。主人が危篤状態になった時、真っ先に思ったことは「娘の制服姿を見せてあげたかった」でした。もうすぐその願いが叶います。こんなに嬉しいことはありません。娘には、その学校に通えるのはパパのお蔭なんだよ、と言っています。まだ寒い日が続きますが、我が家に一足早く春が来てくれました。ご心配下さった皆様、ありがとうございました。
2015.02.06
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2月12日、無事に退院することができました。病院の先生からは今後の注意点や、容体について説明を受けました。入院前とは変わってしまっている部分もありますが、入院前と同じように生活して大丈夫とのことでした。移動の疲れや室温の違い(病院は暑い)からか、体温が33度台まで下がってしまいましたが、夜には36度、今朝は36.5度と持ち直し、一安心です。今後のケア体制はかなり厳しい状態ですが、なんとか頑張りたいと思っています。皆様の励ましが心の支えになり、自宅へ戻ることができました。心より感謝申し上げます。ありがとうございました!
2014.02.13
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今日、左肺も空気漏れが無いことを確認でき、管を抜くことができました。傷の消毒、抜糸を終えたら退院できるそうです。2月10日(月)頃に退院できるよう、調整を始めたところです。ご心配をおかけしましたが、無事良い方に向かうことができました。ありがとうございました。無事に退院できたら、「奇跡の男」と呼んであげたいです。
2014.01.23
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右肺の穴が塞がっていることが確認でき、本日管を抜くことができました。医師からは、まだ楽観はできませんが、様子を見て左肺の管も抜ければ、と言われました。呼吸器装着のため自然治癒は難しいと言われていましたが、12月下旬から両肺とも自然に塞がってきていました。なかでも、右肺は癒着療法の過程で大きな穴が開いてしまっていたのに、です。左肺も塞がっていることが確認できれば抜管し、退院できるそうです。一時はつらい宣告を受けていただけに、この回復は奇跡のようです。皆様のご声援、そして何よりも本人の頑張りで一歩前進することができました。本当にありがとうございます。また変化がありましたら、報告させていただきます。
2014.01.09
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今日は45歳の誕生日です。残念ながら病院のベットの上で迎えることになってしまいました。多少トラブルはありましたが、現在も小康状態が続いています。しかし動いていた右中指は動かなくなってしまいました。やはり、あれは奇跡だったのだと思います。一週間ほど前から、両肺の空気漏れが殆どなくなっています。このまま穴が塞がれば家に帰れるのではないかと期待を持っています。まだまだ時間はかかるかもしれませんが、なにか変化があれば報告させていただきます。(妻)
2013.12.25
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皆様の励ましのコメント、本当にありがとうございます。主人には都度伝えております。3日ほど前から左肺のドレナージからの空気漏れが無くなりました。穴が塞がっているようです。また、強心剤の投与や点滴もなくなりましたので、快方に向かっているのでは・・・と期待を持っているところです。そして本日担当の先生からお話を聞くことができました。「強心剤を入れなくても血圧は安定するようになり、現在は小康状態を保っていると言えるでしょう。肺炎の悪化はありません。薬での癒着療法は効かなかったが、今度は自己血で癒着療法を試してみたい。」とのことでした。癒着療法が効いて穴が塞がれば自宅へ帰ることができるのか聞いたのですが、言葉を濁されました。状態から言って、癒着術が成功しても再発の可能性等を考えて退院は難しいのかなと思いました。病棟では、看護師さん達はちゃんとやるべきことはやってくれているのですが、行き届いているとは言えず、面会に行く度苦しそうな態勢のままになっていてあわてて直したり等、自宅療養とは程遠い環境に置かれていて、可哀相でなりません。何よりも入院を嫌がっていた人なので、毎日辛い思いをし、更にまだ続くのかと思うと・・・一日でも早く退院して、自宅へ帰れることを祈るばかりです。
2013.11.11
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皆様、暖かいコメントをありがとうございます。本人も苦しい中、毎日頑張ってくれています。顔色も良いし、見た目は今までと何も変わっていません。両肺のドレナージさえ抜ければ、家に帰れるのではないかと希望を持っています。先生から意識が無くなってきていると言われましたが、主人の指がわずかに動くのを発見しました!ちゃんと受け答えに反応してくれています。意識がないというのは全くの誤りで、ちゃんと意識もはっきりしています。「(娘の名)、愛している」「(息子の名)、来てほしい」(その日は同伴していませんでした)「(妻の名)、ありがとう」と言葉を拾うこともできました。奇跡のようです。この数年、指が動くなんて全く気づきませんでした。指が動いていたのは3年前です。少なくとも2年間は全く動かなかったはずなのに。急に動くようになったのか、それとも実は動いていて今まで気付かなかったのか・・・指が動いているのを発見したのは娘です。きっと娘に伝えたい一心で必死に動かしたのではないかと思います。とても家族思いで、家族を何よりも大切にしてくれた人です。100%正しいかどうか自信はありませんが、少しでも本人の言葉を拾ってあげたいと思います。
2013.10.28
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9月17日深夜に、右肺に気胸を起こし入院していました。入院当初は、手術してすぐに退院できるという話しでした。しかし数日後に左肺にも穴が開き、肺炎もひどく、敗血症も合併し重篤な状態となりました。その後敗血症はなくなりましたが、気胸の治療にあたり、もう手術はできない、人工呼吸器をつけているので自然治癒は望めない。そのため癒着療法を行うことになりました。気胸を発症した原因は誤嚥性肺炎からとの見解でした。(突然気胸を発症する前まで、普段と様子も変わらず、バイタルも異常ありませんでした。)癒着療法を数度行ったのですが、肺炎が治らないため効果がありませんでした。 今日面会に行ったときに先生に呼ばれ、下記の事を告げられました。「癒着療法は全く効かなかった。退院して自宅へと希望されていたが、無理な状態になった。脳の動きが弱くなって意識レベルが落ちてきている。脈も弱くなっていて、強心剤を使っている。もう、長くないでしょう。」主人は眼球も動かなくなり、TLSの状態です。まさか、意識もなくなってきていたなんで思いもしませんでした。そして、もう長くないと・・・今まで、主人のブログへ勝手き書き込むことを躊躇していましたが、主人を心配して下さっているご友人の皆様方へ現状をお知らせしなければとの思いから、書かせていただきました。
2013.10.24
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5月26日(日)、今年も京成バラ園へお出かけしてきました。とても良いお天気で、芳醇なバラの香りに包まれ、至福のひと時でした。
2013.05.28
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いつもコメントをありがとうございます。数か月前から夫は目もほとんど動かなくなり、家族や慣れたヘルパーさんでも意思を読み取ることが難しい状態になりました。コメントのお返事ができず申し訳ありません。皆様からのメッセージは本人に伝えておりますので、今後とも暖かく見守っていただければ幸甚です。12月25日は夫の誕生日です。誕生日祝いを兼ねて、東京スカイツリーへ電車に乗って行ってきました。スカイツリースタッフの対応は素晴らしく、1時間待ちの列を横目にすぐ案内され、上ることができました。その後も何事においても優先させてもらい、快適に過ごすことができました。車いすでのスカイツリー観光、お勧めです。また、電車(営団、都営)の対応も素晴らしかったです。関係者の方々、ヘルパーさんのお蔭で素敵な誕生日を過ごすことができました。ありがとうございました。ちなみに夫は高所恐怖症です。勝手に行先を東京スカイツリーにしてしまったのですが、内心は「やめてくれ~」と思っていたかもしれません・・・(妻代筆)
2012.12.25
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10月6日(土)、ALS協会千葉支部設立25周年の集いに参加してきました。お世話になった皆様方、ありがとうございました。
2012.10.17
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家の前にあるひいらぎの木。息子にちなんで植えた。花言葉は「大器晩成」。
2012.07.14
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父の日はバラ園に行った。娘より、僕の方がバラがきれいで楽しんでしまいました。
2012.06.22
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日曜日は花見に行った。今年初めて家族でお出かけした。嬉しかった。
2012.04.11
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娘よ。塾大変だね。でも君にしてやれることは、もうこれくらいしかない。パパも小さいころ父親を亡くして、授業料免除と奨学金をもらって大学を出た。君にもできるよ。常にハングリーであれ。医者になってパパの病気を治して。
2012.03.02
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夢を見た。僕はパキスタンの綿畑にいた。もう目が動かない。もう閉じ込め状態か。夢はやぶれた。さらばわが人生よ。
2012.01.26
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今日は僕の誕生日だった。何年ぶりかの電車に乗って、会社のある晴海トリトンスクエアに行った。去年は病院のベッドの上だった。やっとここまで帰ってこれた。素敵なプレゼントをありがとう。
2011.12.25
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今日はALS協会千葉支部の交流会に参加した。同病のNさんとお会いできたのが最大の収穫だった。交流会での僕のあいさつ文は以下の通り。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回交流会に来るのは1年半ぶりになります。この間本当にいろんな事がありました。まずインターネットで知り合った同じ病気仲間を3人亡くしました。いずれも気管切開を拒否されての死でした。そして僕は進行がすさまじく早く、悩んだ結果、ちょうど1年前に気管切開をしました。正直とてもつらい1年でした。家族とヘルパーさんたちに支えられ、なんとか再びこの場に戻ってくることができました。今の生きるモチベーションは、幼い子供たちの存在と、亡くなった同志の分まで生きるんだという意志だけと言ってよいです。とはいえ僕の体は閉じ込め状態寸前です。しかし、役所と重度訪問の時間数の交渉など、やらねばならないこともあります。まだくたばってられません。今日は皆さんに元気をもらいに来ました。よろしくお願いします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2011.12.11
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気切から一年がたった。あまりの進行の早さと苦痛と屈辱に、自分の判断に後悔もした。しかし僕はまだただ一度しかない人生を生きている。またメキシコで仕事がしたかった。かつての部下たちは突然消えたボスをどう思っただろう。
2011.12.03
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昨日は家族で秋晴れのアンデルセン公園に行った。僕の閉じないまぶたでは風景はかすんでしか見えないが、子供達のはしゃぐ声はしっかり聞こえた。何よりの楽しみだ。願わくば、もう一度娘とボートに乗りたいよ。
2011.11.24
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目の動きが悪くなってきた。心残りは君たちのこと。本当に無念だ。でもパパはどうなっても君たちを見守っている。ママを助けて強く生きろ。負けるな。くじけるな。頑張れよ。愛している。そして、ありがとう。
2011.11.05
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今日は稲毛海浜公園へ行った。何年振りだろう。娘と二人で行ったプール。犬と遊んだ広場や浜辺。何もかもが懐かしかった。幸せだった過去を取り戻せるなら僕は何を惜しむだろう。
2011.10.23
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長い間更新していなかったにもかかわらず、あたたかいコメント本当にありがとうございました。あまりの進行の早さに流されてしまいそうですが、今は受け止めるしかないことは分かっているつもりです。いつまで続くかわからないブログですが、これからも宜しくお願いします。
2011.09.20
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妻の代筆で書いている。とうとう眼球しか動かせなくなり、パソコンの操作ができなくなっている。今は眼球でEOGスイッチを動かしナースコールを鳴らし、文字盤を目で指して意思を伝えるのみ。しかし最近目の動きも怪しくなり始めた。次は筋電センサーのマクトスを試すつもりだ。はっきり言って精神的にも辛い状況。良い方法あれば教えてください。 こんな毎日でも日々の散歩は唯一の楽しみだ。暑い中支援してくれる人たちに心から感謝したい。
2011.09.16
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妻が犬を買ってきた。まだ前の犬のことをひきずってる僕は正直複雑な心境だが、今の妻には癒しが必要なのだろう。何もできない僕は命名権をもらった。とっておきの名前をきみにあげよう。ようこそ我が家へ!
2011.06.25
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父の日の小さな喜び。本当に心から愛している。こんなボロボロのパパでごめん。
2011.06.20
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先月くらいからまぶたが閉まりにくくなった。きちんとまばたきできないから目がかすんでパソコンの文字も読めなくなってきて困り果ててる。目薬ももって数分。どうも睡眠中も目が開いてしまってるそうだ。魚かよ・・・?
2011.06.14
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今日は妻が京成バラ園に連れてってくれた。 香りはわからないがまさに匂い立つが如き色彩。きれいだった。
2011.06.05
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Oさん、今日はこども達を遊びに連れて行ってくれてありがとう。どこにも連れて行ってやれず、我慢してくれてるから、貴殿のご配慮何よりも僕にとってうれしい。もう文字入力が辛くなってしまい言い尽くせぬがご容赦を。
2011.05.28
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今年から小学校の運動会が五月開催となった。快晴の土曜日。短時間だけだが三年生になった娘の雄姿を見に出かけた。また例によって去年と同じ超目立つ正面の朝礼台の真横に据えられたのだが、日差しが強かったので議員さんたちが居並ぶ来賓用テントにわざわざ席を作ってもらったのである。三年生のダンスが始まり、娘が飛び跳ねるのを見ていた。自分の病気の進行を考えるとこれが最後かな、と思うと不覚にも泣けてきた。僕がまともに参加できたのは娘が幼稚園の年長のときが最後だったか。一緒に手をつないで走った親子リレーは本当に楽しかった。もし何かを取り戻せるとしたら、仕事とかではなく、間違いなくあの瞬間だろう。この空を失くしてでも。かけがえのない時間をくれたお前には心から感謝しているんだ。本当に。
2011.05.21
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今日は耳鼻科に通院。二週間前に鼓膜を切開し水を抜いた。凄まじい音だった。その経過観察。また水がたまるようだと鼓膜にチューブを入れるそうで、考えるだけでおぞましい。これ以上体から管をはやすのは勘弁だ。とりあえず今日は無罪放免でまた再来週となる。めんどくさ。ALS的生活は合併症との闘いでもある。今日テレビで、iPS細胞で拒否反応、と報じられていた。一進一退だ。はるか先でも、わずかでも希望があるならというのも呼吸器をつけた理由の一つだ。頑張って欲しい。
2011.05.14
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僕のブログに時々元気なコメントをくれてた同病のNavyblueさんが四月に亡くなられたことを知った。呼吸器はつけないことをかねてから明言されていた。そのブログで、死ぬことは恐くない、とも。僕より三つも若く、子供さんもまだ小さい。30代や40そこそこの人間にとって死とはまだ非現実的で、簡単に受容できるものではない。実際僕などは呼吸困難で死ぬのが恐くて、そして未練が多すぎて呼吸器をつけた。死生観は人それぞれとはいえ、それを公言し貫かれた強さに心から敬服してしまう。しかし同世代の人間として、そこに語られることのなかった多くの事柄を思うと、どうしようもなく切なくなるのである。
2011.05.12
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今日は訪問散髪の日。近所の美容院から来てもらい、ベッドの上でカットしてもらう。寝たきりの身だから、どんな髪形でもよいといえばよいのだが、それを言ってしまうと妻に犬用バリカンで丸坊主にされてしまうので、しばらくはこだわり続けよう。最近額が広くなってきたし。
2011.05.09
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今日友人から電話があったようだ。最近ブログの更新が無いのを心配してのことだ。とにかく進行が速くて、残った顔の部位でも動かせる箇所が少なくなり、入力が億劫になってきてるのは確か。精神の平衡も崩してしまうことも不覚にもある。くよくよしてもしょうがないので、今日は県民の森公園へ車で出かけた。ところがこの公園、園内舗装路なし。骨格筋のない体には振動がかなりきつい。ヘルパーさんにも苦労をかけた。でもお蔭で森林浴させてもらった。妻と子供たちが遊んでるのを見てると、つい楽しかった昔を思い出してしまう。だめだなぁ、発想が後ろ向きで。いろいろあるが、強くありたいと思う。
2011.05.08
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家内が撮りためた写真を見せてくれた。気切後、顔がやせたなぁ、と思う。顔の筋肉の萎縮のせいもあるのだろう。これじゃ、始め人間ギャートルズのしゃれこうべだ。丸顔だったのに寂しい限りだ。今日は少し離れた公園まで散歩した。久しぶりだ。ここには有名な福島県の三春にある滝桜から採った苗木を植樹してある。今日見た苗木は小さいながらも花をつけていた。何百年のDNA。それを眺める呼吸器をつけた僕。少し感慨に浸りつつ。
2011.04.15
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今日はアンデルセン公園へ花見に出かけた。ちょうど満開である。すごい人出。去年は東京の仮住まいに住んでいて、同病の皆さんに声をかけていただき参加したお花見であった。まだまだ病状もヒヨっ子だった。そして一年。また満開の桜の下をくぐることができた。しかし、症状は多くの先輩を追い越し、重要な決断の冬も通り過ぎた。出かけるときは当たり前のように傍にいたマスコットもいなくなった。仕事も実質さよならした。桜の花は無常の花か。娘は縄跳びで二重跳びが40回以上跳べるようになったと跳ね回り、下の坊主はつまずいて転んで泣き喚いてるが今月からもう年長さんだ。成長も速い。僕もそろそろ車椅子の替え時かな。新しい意思伝達方法も検討しないと。きびしいけどしっかり変わっていく現実を見つめないと。今回花見をサポートしてくれた妻、ヘルパーさん、PTさんに感謝。来年は何処で誰とどんなふうに無常の花をながむべし。 願はくば桜の下にて春死なむ その如月の望月のころ ~西行法師~
2011.04.10
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今朝方、みんな寝静まってるとき、おでこのセンサーがずれた。最後にわずかに動いたので数回ナースコールを鳴らせた。しかしカーテンのむこうで熟睡中の妻を目覚めさせるにいたらず、やがてセンサーは動かせなくなった。かなりヤバイ。閉じ込め状態。幸いあと1時間チョイで妻が起床して経管を始めてくれる時間だ。それまで乗り切れば。でも痰が詰まればアウトだ。もう心臓バッコンバッコン、汗だらだら。結局痰はつまらず妻に救われた。いつもは妻がうんざりするくらい入念にセッティングしてもらうので退院以来こういう事態は発生していなかったのだが、顔の動きも悪いせいかもなぁ。ピンタッチセンサーなのだがこんなのに依存せざるを得ないのは心細い限り。入院中も二度ほど経験したが、まだ顔が動いたので通りかかった看護師が何度目かに僕の形相に運よく気付いてくれた。でも今の顔じゃそうは行かない。手足が少しでも動けばよいのだが四肢麻痺だとリスクはぐっと高まる。なんかええ方法はないものか?
2011.04.04
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昨日は呼吸器科の受診日、久しぶりの外出。また肺に内視鏡を突っ込まれたが、両側ともきれいな肺とのこと。レントゲンの映像も十二月の入院中と比べて良くなってると。入院中はカフアシストをしてもらえてなかったから、その効果かもしれない。毎日施術してくれる妻に感謝だ。今日は犬の骸を荼毘に付す日。家族は最後までついていくが、僕は家で見送りだ。野辺の送り・・・・・か。今日最高によい天気。旅立ちには絶好の日和だな。いっておいで。
2011.04.02
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三月最後の日の夜8時30分、我が家の愛犬が静かに世を去った。今月初め12歳の誕生日を迎えたばかりだった。数日前から嘔吐を繰り返し、やがて何も食べなくなり、検査入院先から、腹膜炎を起こしており時間の問題との連絡を受け急いで帰宅させたが虫の息だった。ベッドまで連れてきてもらい僕の萎えた手をその体に重ねた。おかえり。でももう昔のように抱きしめてやれない。そしてそれから一時間もたたないうちに息を引き取った。家族全員に看取られ、撫でられて。紛れも無い大切な家族の一員だ。そして君との思い出は我が家の歴史そのものだ。98年に妻と結婚しすぐにパキスタンへ赴任。治安が悪いためあまり外出できず手持ち無沙汰な妻のために現地ブリーダーから買い求めた。99年5月5日のことだ。今でも会った時のことを憶えている。あの上目遣いでよたよたと近づいてきた。僕を買ってくれとせがむように。確か日本円で二万円くらいで言い値で即決した。買った直後は吐いたり、お尻から寄生虫が出てきたりと大変だったがやがて病気一つしない健康犬になった。名前は僕が幼いころ飼ってた犬の名をそのまま拝借した。2001年に帰国。ところが社宅はペット不可で住むところを探すのに苦労した。当時はまだペット可の物件は少なくようやっと江戸川のほとりの小さなアパートに滑り込んだ。しかし、外出もままならなかったパキスタンと違い、広々とした河川敷を君と走るのはどれだけ爽快だったか。やがてそこで長女が生まれ、新しい家族を君は戸惑いながら迎えたね。どんなにいじられてもじっと耐えてくれたね。そして数年して家を買った。思い切って一戸建てにしたのは犬を気兼ねなく飼いたかったというのも理由の一つだ。そして長男が生まれ我が家の形が整った。本当にこのころは幸せだった。2007年にメキシコへ赴任。翌年家族も到着。もちろん君も一緒。生涯で三カ国住んだ犬も珍しかろう。街には街路樹のある道や公園がたくさんあってよく一緒に散歩したね。ハカランダの花がきれいだった。雨季には突然スコールに遭って二人で木の下で雨宿りしたよね。ママが傘を持って迎えに来てくれるのを待ちながら。そして2009年5月メキシコで豚インフル発生。社命により家族は一時帰国。結局一ヶ月にわたって現地で二人きりで暮らすことになったね。僕は毎日気になって昼休みは家に帰り一人留守番してる君を見に行った。仕事は定時で切り上げて待ち焦がれる君の元へ帰宅し、まだ陽が高いうちに急いで散歩に行ったものだ。その後再びみんなで暮らせるようになったが、まもなく僕はALSを発症し家族は楽しかった暮らしを中断し帰国した。君も一ヶ月を超える検疫を耐え抜き無事合流してくれた。成田の検疫所へ家族みんなで迎えに行った日のことを今も憶えている。やっと家族全員そろったんだ。僕はまだ杖をついて歩いていたころだ。そしてその後変化していく僕をどんな思いで見ていたのだろう。まるで気管切開をし、呼吸器をつけるのを見届けるかのように去っていった。一人で僕らの元にやってきて、一人で去っていった。数え切れないたくさんの思い出を残して。どうか僕ら家族の平坦ならざる道行きを見守って欲しい。今日から四月。抜けるような青空と陽光。まるで陽気で優しかった君の魂のようだ。外に出るときはいつも君と並んで歩いているよ。あの頃のように。本当にありがとう。またな。
2011.04.01
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右耳が聞こえにくいときがある。特定の角度、例えば左に体位交換したときなどにしばらく聞こえにくくなるのだ。主治医に相談すると呼吸器患者にはよくあるそうだ。耳と咽頭は耳咽頭管なる管でつながってるらしいのだが、普段は閉じてるこの管が呼吸器で陽圧がかかるとこれが開いて雑菌が侵入、炎症を起こすらしい。滲出性中耳炎とか何とか言うらしい。とりあえず滴下式の抗生剤を処方されたが耳鼻科に行ったほうがよいようだ。めんどくさ。まつ毛といい、耳といい、デリケートなところをチマチマといじめてくれるワイ。
2011.03.27
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顔に塗りたくった石膏が固まってくる感じ、といったらわかるだろうか。僕の顔の麻痺の進行だ。気切後、急速に進行しだした。唇、頬、まぶたに痙攣が見られる。全体的な硬直感。あごは固まりつつあるもまだ何とか動くが、唇が開けなくなった。よだれが多くなり、持続吸引はしているが唾液が硬いと詰まって口からたれる。まぶたは動かせるが素早い開閉がしにくくなり、矢継ぎ早に質問されると目の返事がついていかない。それと毎日抜けたまつげが目に入るようになり痛い。眉は何とか動くのでおでこに貼ったピンタッチセンサーでまだパソコンを操作できる。以前役所でエレベーターに乗ったとき中にあった鏡を見て愕然とした。全く表情の無い機械のような顔。これが俺か!?ホント、男前が台無しやで・・・。
2011.03.26
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去年の今頃は最悪だった。呼吸機能がものすごい勢いで下落。きっと来年の今頃はこの世にいないかも、なんて考えてた。ほとんどの日は終日ベッドの上で暮らす。精神衛生上辛い。もっと外に出たいがまだ体制が十分でないので無理言うと家族の負担になるので気が引けてしまう。昨日は天気がよくてまさに小春日和だったので無理言ってつれてってもらった。散歩道に小さな人工の小川があって、そこに産み付けられた蛙の卵を見つけた。また新しい季節を迎えられたことにささやかな喜びを感じた。
2011.03.21
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わが市は停電に入ったようだがうちは幸いにも何事も無い。どうも今のところ除外地区のようだ。変更もあるから油断は禁物だが。ヘルパーさんも今夜から復活、助かる。妻が24時間僕から離れられないから気の毒で困っていた。やっと僕も一息だ。例の仙台の患者さんも危機を脱したようだ。しかし五日間連続のアンビューってすごい。きっと家族だけでなくいろんな方々がかかわられたのだろう。自分のような寝たきり患者でも平素からの人の絆を作ることの重要性を実感する。新聞を見てたらNZで被災された干場さんの小さな死亡記事を見つけた。救急専門のフライングナースだったから今こそ余人をもってかえがたい人材であったはず。言葉も無い。合掌。経済界では円高で最高値更新。こんなときに円が強くなるとは、投機筋の動きはよーわからん。産業界もしばらく時間かかるね・・・・。
2011.03.17
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関西の親戚2家族から単一電池が届いた。これで持続吸引は動かせる。呼吸器は予備バッテリ使えば連続九時間は回せるはず。吸引機はバッテリ切れたら外出用の携帯吸引器使用。エアマットは給排気のホースを折り曲げて紐で縛る。ベッドは事前に適度な傾斜。意思伝達は伝の心パソコンのバッテリ切れたら、外出用おでこブザーと文字盤で対応。全体のサポートとして自動車の電源。それでもやばけりゃ老人ホームへ搬送。自家発電機が無いのが寂しいが今あっても燃料がなぁ。あとの頼みはアンビュリレー。さてどうなるやら。今のところの誤算は市中からガソリンが無くなってヘルパーさんが通って来れなくなったことだ。かなりつらい。。。。。
2011.03.16
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全く他人事ではない。同病の方が停電による危機に瀕しておられる(千葉っ子ママさんのブログより転記)。今日訪問リハに来たPTさんによれば停電のために亡くなった人工呼吸器患者さんがもう何人か出たそうだ。被災した知人によれば避難所にBiPAPをつけた方も来られてたそうだ。阪神大震災のときは48時間連続でアンビュを押し続けALS患者を救った医療従事者がいたそうだ。うちも昨日家族でアンビュバッグの予行演習をした。文字通り猫の手も欲しいから八歳の娘にもやらせた。何かできないかという思いだけでもシェアできたらと思いここに載せた。
2011.03.15
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東京電力が明日以降、地域ごとの輪番停電を検討しているようだ。三時間程度らしい。呼吸器のバッテリーの範囲内だけど緊張する。最悪の場合は自家発電を持ってる近くの老人ホームに行く手はずになってる。ついにきたかという感じだ。各メディアとも震災報道一色の中、わが千葉テレビは落語をやっていた。画一的である必要はないよ。
2011.03.12
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今日は懸案であった市役所訪問。支援費の時間数増の交渉である。今後の家族の生活と自らの療養生活の質の向上がかかった重要な交渉である。必勝を期すためにケアマネと一緒に入念に事前の研究を行い全てペーパーにまとめてもらった。またケアマネさんからお願いして向こうも上の役職の方に出てきてもらった。あとは誠心誠意訴えるのみ。結果は四月の審査会の結果次第とのこと。さてどうなることやら。今回は何よりも久しぶりの外出だった。三時間半の最長不倒、まだまだ伸ばせるな、天気も良くて気持ちよかった。ところが帰宅後しばらくして大地震に襲われた。揺れが激しい、そしてやたら長い。何だこれは。言うまでも無く全身麻痺で呼吸器をつけた僕はスーパー災害弱者だ。揺れに任せて手も足も出なかった。幸い停電は免れ事なきを得た。同病の皆さんも大丈夫だろうか?その後激しい余震におびえてたら、なんと訪問入浴が時間通りに登場。さすが律儀な日本人。揺れる湯船の中で気持ち悪かったよー。ちょっとしたジャグジーとはいかないね。
2011.03.11
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告知を受けたとき医師の説明は呼吸器装着に対して明らかにネガティブだった。「機械に生かされる体になる」「介護力がかなり必要となる」「会社の経営者とかホーキングみたいに頭の中に宇宙がある人は別だが」「呼吸器事故で亡くなる患者も少なくない」「呼吸器をつける人はわずか三割、海外ではほとんど無し」「入院を受けてくれる病院はわずか、希望するなら今から動かないと」「治療法無い、少なくとも向こう十年でどうにかなる話ではない」ひどい話ばかりだが全て事実だ。医師は大学時代の友人。気の毒な患者をたくさん診てきたのだろう、いいにくい話をよくしてくれたと思う。その時の考えは、呼吸器はつけないだろう、だった。最大の関心はまだ幼い子供たち。でも平均で3~5年は呼吸器なしでも生きられるという。それだけあれば子供たちの心にも何かを残せるだろうと思った。ところがそれは大誤算だった。かなり速い進行。気管切開を宣告されたのは発症からわずか九ヶ月、それからBiPAPで半年粘って力尽きた。何もできなかった。金のためぎりぎりまで働くだけで精一杯、何の心の準備もできてなかった。不謹慎だけど進行の遅い患者さんが本当にうらやましかった。たった一度きりの人生がこれか、という思い。そして父親のいない家庭で育った自分へのこだわりもあったし死への恐怖もあった。結局、呼吸器をつけることで方向転換した。あまり深く考えたとはいえないし誰かからつけて欲しいと言われたわけでもない。最後は医師から危険、と通告され気切したがやろうと思えばもう少し粘れたと思う。しかし気切前の介護量はすさまじい。妻はほとんど寝れなかっただろう。これは何の意味も無いと思い決意した。そして今、ほとんど終日をベッドの上で過ごす。思いのほか、周囲から行動に足かせをはめられる。反発しようが他人の助けなしには1センチたりとも動けないからしょうがない。無理すると妻に迷惑もかけるし、在宅してもらえるだけでも恵まれてる。気切しても活動的な人もいる。こういう状況を乗り越えてすごいと思う。いつかは僕も、とひそかに思う退院後2ヶ月である。あまりに取り留めないけど少しでも楽しいことをブログに残したいと思う。
2011.03.09
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よく撮れたのでもう一枚!!
2011.03.06
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