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ss一覧 短編01 短編02 短編03 短編04 短編05 《D》については短編の02と03を参照。番外としてはこちらから 登場人物一覧はこちらから―――――注意! これは《中編》です。《前編》含むあらすじは短編05からどうぞ。――――― 10月10日――午後16時。 楢本ヒカルは"聖地"の入口に佇んで、その向こうに広がる景色を眺めていた。 ……ああっ、そんなっ……信じられない。こんなこと……信じられない。 広大な芝生の中央では、何十人もの人々が倒れて地に伏せている。男も女も年齢も関係ない。泣き叫ぶ子供もいれば、ピクリとも動かない老婆もいる。そのさらに中心には、鉄の棒を持ち、黒いスーツを着た集団がいた。 ヒカルが駆け寄ろうとする直前に、それを察知したかのように――隣に立つ男が彼女の腕を掴んだ。腕から背、背から脳へ、冷たい戦慄が走り抜けた。「……忠告はする。ヤメておけ」 確か――鮫島とか呼ばれていた男は、振り向いた女の目を見て力を強めた。「あそこに行けば、お前は死ぬ。お前の周りも死ぬ……諦めろ」「そんな……それじゃあ……誰も……」 ヒカルは既に泣いていた。温かい涙がとめどなく流れ落ち、頬や首筋を伝って肌を濡らし、激しい吐き気が胸を襲った。 見られたくはなかった。鮫島にも、川澄にも、宮間とかいう女にも、京子様に対してもさえ――見られたくはなかった。見られたくはなかったのに、涙が止まらなくなっていた。「……別にいいんじゃないスか? 死ぬワケじゃあないんでしょ?」 まるで私に"生贄"になれと言わんばかりの口調で川澄が言う。この男の考えていることだけは本当にわからないことばかりだ。「お前は黙っていろ……川澄。……アンタも、変な気は起こさないほうがいい。"アレ"は……危険だ」 鮫島が繰り返した。「でもっ……でもっ……」 恐怖に震えながらヒカルは身をよじり、男の腕を振り払おうとした。田中にロープで縛られた痕がヒリヒリと痛んだ。「あーあっ、早く助けに行かないとー……宇津木さんが死んじゃうなあーっ」 わざとらしく発せられた川澄の声に、ヒカルの心臓が激しく高鳴った。 宇津木さんっ! いてもたってもいられなかった。ヒカルは制止する鮫島の腕を振りほどいた。一瞬だけ息が止まり、一瞬だけ躊躇する。だが、次の瞬間にはもう、呼吸を再開させ、肺に思いっきり空気を吸うと同時に――走り出した。「ああっ……今、行くわ……宇津木さん、宇津木さぁん……父さん」 どんな理由や理屈があったとしても……ずっと傍にいてくれた。ずっと助けてくれていた。ヒカルが走る理由は、それだけで十分だった。そう思うと、また涙が滲んだ。「……ッ、知らねえぞ」 背後から鮫島の声が聞こえ、直後に川澄が笑った。「さあ、みんなで見に行きましょうか……この物語の決着を……」――――― 澤光太郎の記憶の中の母はいつも疲れたような顔をしていた。そう。目を閉じると今も、疲れて溜め息をつく母の姿が浮かんでくる。「母ちゃん、疲れているの?」 ずっとずっと昔――澤は母にそう聞いたことがあった。すると母は、「あのね……うち、父ちゃんも母ちゃんもね……」と言ってしばらく何かを考えていた後で、「……騙されて、お金を取られて、貧乏して、悲しいの……イヤだね、貧乏って……アハハ……」と言って、疲れたような笑みを浮かべた。 その瞬間からだ。 その瞬間から、澤は幼心に決めたことができた。 ……人生とは、バレなければ何をしてもいい。強盗でも、放火でも、殺人さえも、世間に発覚しなければ何をしてもいい、と思った。 だが、許せないこともある。 それは――……「……ようやく来やがったか、クソったれ野郎が……」 弱者を嘲り、自分が強者と勘違いする者―― 弱者をいたぶり、ほくそ笑む者―― 弱者を騙し、カネを得る者―― それだけは、絶対にっ、許せなかった。――――― 手の甲で頬に伝わる涙を拭い、足をフラつかせながらヒカルは駆けた。そして、宇津木のそばに――顔じゅうに青アザができ、口からおびただしい量の血を吐き、逆方向に骨が曲がった手足や指を大の字に広げた格好で地面に倒れた宇津木のそばに歩み寄った。「……ヒカル、様」 "聖女"を見上げ、宇津木が呻いた。「"様"はもういらないっ! いらないんだよっ! だからっ!」 膝を崩しながらヒカルは叫んだ。「死なないでっ! 父さんっ!」 涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、ヒカルは叫び続けた。「何で言ってくれなかったのっ? 何で私なんかのためにっ! どうしてっ?」「……お前の母さんとの約束なんだ……楢本家は代々、"そういうもの"らしい……だから、済まなかった……」 囁くように言って宇津木は目を閉じた。そして、ヒカルは宇津木の首に腕を伸ばし、しっかりと抱き締めた。「俺様を無視するなンざ、エエ度胸しとるなあ? クソ女……」 中年の男の野太い声がし、辺りを見回すと、そこには大勢の人々がいた。時間は夕暮れ、景色はオレンジ色に染まり、人々の顔には影が差し、誰が誰かはわからなかった。 ヒカルは影の差す人々の顔をのぞき込んだ。そこには――同じような黒いスーツを着て、彼女と宇津木を取り囲むように立ち並び――怒りと軽蔑の眼差しを向ける男女の顔が無数にあるように見えた。 怖い。 信じ難い恐怖に、ヒカルの体は硬直した。 人と人との間に見える向こうに、倒れて動かない別の人々が見えた。芝生の上に倒れて いるのは大人だけではなく、老人や子供もいる。学生らしき制服を着た若い少年や、妊婦 らしきお腹の大きな女性もいた。 ヒカルは神の名を叫ぼうとした。"神はいない"と信じかけていたはずなのに、"神も神託も嘘っぱち"だと思いかけていたのにも関わらず、ヒカルは神の名を叫ぼうとした。 ……フィラーハ様。 だが、まるで金縛りにでもあったように、口はおろか、体もまったく動かせなかった。 ……助けてください、フィラーハ様。私を……どうか……私たちをお救いください。 ヒカルは祈った。祈り続けた。 次の瞬間、ヒカルの周囲から、豪雨のような罵声が浴びせられた。 「下劣な詐欺師女っ、死ねっ!」「イカれた犯罪集団めっ、消えろっ!」 全身を戦慄が走り抜ける。 恐怖に目を見開いて両手を握り、天を仰いだ。 「死ねっ!」 黒いスーツを着た大勢の人々が自分をなじり、けなし、罵声を浴びせ続ける。「死ねっ!」 スーツを着た人々はジリジリと歩みを進め、少しずつヒカルを包囲していく。「死ねっ!」 ヒカルは恐怖に凍りつきながら、目を閉じた宇津木を抱き締め続けた。 「……助けて……フィラーハ様……誰でもいい……誰でもいい、から……」 ヒカルがすべてを諦め、絶望し、腕に抱く宇津木と同じように目を閉じようとした――その瞬間、その時――風が止み、夕凪が訪れた。 空気の振動が止まり、溢れていたヒカルへの罵声が止まる。 "聖地"に静寂が訪れたその瞬間――再び罵声を続けようとしていた男女の壁の隙間から、ひとりの男が姿を見せた。 「……うんざりだっ!」 ヒカルの目の前に立った男が叫んだ瞬間、全身に痺れるような電気が流れた。「もう、たくさんだっ!」 ああっ……本当に? 本当にっ? ヒカルはまた涙を流した。「こんなことをして何になるっ?」 助けに来てくれた……私を……こんなどうでもいい女のために、こんなどうしようもない人間のために……。「俺たちはっ、何も変わらねえじゃねえかっ!」 それは……投げやりで、乱暴で、とても……とても力強い声だった……。 そうだ。間違いはなかった。フィラーハ様の名を道具のように使い、世間を欺き、大勢の人々を操り、騙し、結果としてカネを搾取していたような私を――この、この岩渕誠という男は助けに来てくれた。助けに来てくれたのだ。 助かる? いや、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ……。 助けに来てくれたこと。彼が来て、私の前に立ってくれたこと……。それだけが大切なことなのだ。 そう。ヒカルは"神託"の最後の言葉を思い出した。最後に切り抜いて胸にしまった"神託"の最後のページの文章を思い浮かべた。自分で書いた、自分の運命を思い返した。『もしこれが夢でなく現実となるならば、私は母の死を受け入れ、"神託"を捨てる』 ありえる話ではなかった。私を助けてくれる者など、生涯現れるはずがなかった。何もない、何の"力"もない私を助けてくれる者などいるはずがないのだから……でも。「ヒカルさん……無事か? 宇津木は……ヤバいな、意識がないのか?」 呼吸を荒げて岩渕が言い、ヒカルはまた涙を浮かべ、強く唇を噛んだ。「ムシのいい話だけど……助けて……助けて、岩渕さん、岩渕さあん……私と、父さんを……助けて……お願い……」 呻きながらヒカルは言った。それから、服の袖で涙と鼻水を拭った……。 夕凪は止み、また小さな風が吹きはじめ……岩渕もまた――小さな笑みを浮かべた。――――― 腕を組んで仁王立ちする澤社長を、岩渕はじっと見つめた。夕日の加減か、澤の顔は鬼のようにも見えた。「……茶番は終わりか? 小僧……」 組んでいた腕を解いて澤は、倒れた宇津木とそれにすがりつくヒカルではなく、岩渕を睨みつけた。……どうやら、俺を助けに来てくれた、というワケではなさそうだ。「社長……もうヤめてくれないか?」 岩渕は目に力を込め、澤の目と視線を合わせた。「こんなことは間違っている……こんな……暴力で何かを解決するなんて……バカげている」 そうだ。間違っているのだ。その気になれば、平和的に解決することなど容易にできるのだ。方法などいくらでもあったのに……。「……岩渕、俺様はなぁ、これまでお前にいくらのゼニを使ったのか、わからないのか?」 岩渕のほうに一歩踏み出し、澤が言った。その言葉は、まったく自分の予想していたものとは違っていたので、岩渕は思わず顔を歪めた。「……わからないのか? 本当に? お前はここまでバカなのか?」 何人もの人を殴り血の付いた特殊警棒を片手に握り締めたまま、まるで九官鳥のように澤が繰り返した。「わからないか? 本当に? 本当にわからないのか?」「……仕事への報酬、だとは思っています」 込み上げる恐怖を堪えながら、岩渕は言った。「感謝はしています……ですが、やはり、あなたは間違っている……」「……間違っている? だと? なあ、単純計算で5000万だ……5000万だぞ? ……それだけの価値と報酬をお前に与えた……お前は、そンな俺様の"情け"と"恩"をアダで返すのか?」 澤がまた一歩踏み出し、60センチほど岩渕に近づく。周囲に並ぶ《D》の社員たちの顔が緊張に強ばむ。「……何と言われても、何度でも言います……アンタは間違っているっ!」 凄まじい恐怖を堪えて、岩渕は言う。間違ってなどいない……間違っているものか……。「社長、引いてください。そして、《F》のための治療と慈悲を……頼みます」 澤がまた一歩踏み出し、さらに60センチほど岩渕に近づく。そんな澤の顔を岩渕は、まじまじと見つめた。 ……鬼、か。 岩渕にとって、今の澤は正真正銘の"鬼"に見えた。 この雰囲気――まるで悪霊が憑りついたような、怒りと憎しみに支配された者が宿す姿。そして――あの目……不安げで、悲しげで……孤独に泣いてしまいそうな人間の目。様々な情念が複雑に交わったような……そんな姿と目をして……どうしてこんなことに? 次の瞬間、"鬼"は岩渕に襲いかかった。「――たわけがっ!」 血まみれの警棒を捨て、一足で岩渕の懐へと移動し、そのままスーツの襟を掴まれる。凄まじい力で首を引き寄せ、澤は岩渕の顔面に拳を叩き込み殴り倒した。「があっ!」 奥歯が一撃で破壊され、瞬く間に口内で血が溢れ――眩暈がするほどの強烈な鉄の匂いを嗅ぎながらも……岩渕の意識は失うことを許さなかった。「岩渕よ……お前、本当――変わっちまったなぁ。原因は、やはりアレか?」 澤が拳に付着した血をスーツの裾で拭いながら言った。「……あの姫は、やはり俺様にとっては疫病神……甘く見てたがや……追い出すか? 岩渕……」 "鬼"――。 岩渕は怯んだ。決闘での勝ち目があるとは思えなかった。 けれど……岩渕の中にある何かは怯まなかった。「……それ以上のことは言うな。例えアンタでも……それだけは許さない……」「はあっ? 調子に乗ンなやっ! クソガキッがっ!」 澤が絶叫し、岩渕は立ち上がって拳を固めた。――――― ようやく辿り着いた"聖地"の中心で、彼と澤社長が殴り合っている光景が見えた。 私はすぐにでもふたりの間に割って入り、この戦いを終わらせようとした。意味がわからなかった……ううん、そもそも意味なんてものがあるとは思えなかったから。 でも……できなかった。 急いでふたりの前まで駆けようとした私の肩を、川澄奈央人が掴んだのだ。「……行かないほうがいいですよ? ……いや、行くな」「なぜですかっ?」「おそらく――今の社長にとって姫様は……潜在的な"敵"ですからね」 私は川澄の目を見つめた。普段とは違う、とても冷静で、とても真剣で、とても自然で……それでいて優しげで、まるで岩渕さんのような目――私は川澄の隣に子犬のようにうずくまった。 澤社長の拳が岩渕さんの顔や胸やお腹に叩き込まれる。その度に彼は立ち上がり、低い呻き声と共に澤社長へと殴りかかる。「岩渕さん……」 目を閉じ、彼のために祈る。祈り続ける。「……まるで親子ゲンカね」 後から来た宮間有希が言う。何を言っているのか理解できなかった。「宮間さんは……知っていたんですか? こうなることを……」「うーん……」 腕を組んでふたりの戦いを見守りながら宮間が言う。「状況を見なさい。周りの《D》の社員たちはただ呆けているワケじゃあないわ。きっとこうなることを"誰か"に示唆された可能性があるわね。たぶん……熊谷部長だと思うケド」 そうだ。澤社長と岩渕さんが殴り合っているのにも関わらず、周りの《D》の人たちは静観を貫いている……でも……でも……どうして? どうして止めてくれないの?「……《F》が《D》を利用したように、澤のダンナもまた――この騒動で"変わりたい"と思ってんじゃあないのか? 言葉には出さねえが……」 煙草の煙を空に向けて吐きながら鮫島恭平が言う。「不器用なんだよダンナは、だから、周りが察しなきゃならねえ……《F》の連中が許せねえっ、てのも本音だがな」「……じゃあ、私はどうすればいいの? どうすれば、ふたりを止められるの?」「さぁね」「そのうち終わるんじゃない?」「死にはしねえよ」 無力感が襲い、京子の顔はみるみる紅潮し……やがて、涙が出てきた。涙は次から次へと溢れ出て、芝生の上にポタポタと滴り落ちた。「……今度は泣いても終わりませんよ?」 私の涙を見て川澄は笑った。そっと私の顔をのぞき込み、私の顔を見てさらに笑った。それが悔しくて……憎らしくて……強い怒りさえ込み上げ――私は怒鳴った。「あなたたちはっ! そこに立っている《D》もっ! 武器を捨ててっ、《F》の人々を介抱しなさいっ! 《F》の全員が無事でなければ、私はあなたたちを許さないっ!」 怒鳴った。 怒鳴り続けた。 伏見宮京子は、声を枯らして怒鳴り続けた……。――――― 岩渕誠と澤光太郎の戦い――。 それは壮絶な戦いだった。「――こいつらはクズだっ! 社会に巣食う虫ケラだっ! 気でも狂いやがったンかっ? クソガキィッ!」「だとしてもっ、狂っているのはアンタも同じだっ!」 澤は岩渕の顔面へ拳を放ち、岩渕は澤の拳を頭頂部で受け止めた。拳を痛めて一歩引いた澤の顔面に、岩渕はそのまま頭突きを食らわせた。「――チィッ! しゃらくせえンじゃっ、ボケェ!」 獣のような咆哮を吐き、澤はなおも岩渕に突進する。「あの女が原因かっ? あの女と出会ったからっ、お前は俺に逆らうのかっ?」「黙れっ! 京子は関係ないっ!」 澤が岩渕の下腹部めがけて前蹴りを見舞い、岩渕は悶絶しながらも澤の脚を掴んで芝生へと放り投げた。「出会わなけりゃあ良かったンだっ、あの女の出現で、お前はお前じゃあなくなったっ!」「俺は俺だっ! ただアンタの間違いを正そうとする、ただの人間だっ!」 岩渕の拳が澤の顔面にめり込み、今度は澤の奥歯を破壊した。澤は折れた奥歯を出血と共に岩渕の目へと吐き、怯んだ岩渕の脇腹へ蹴りを入れた。「ぐぅぅ……」 血ヘドを吐いて芝生の上を転げ回っても……未だ岩渕の意識は明瞭のままだ。……イライラする。野郎……さっさと諦めやがれってンだ。「俺様の命令だけに従ってりゃあ良かったンだ……それだけで、お前には何もかも与えてやれたのにっ……」「うるせえ……だったら俺はもう……何もいらないっ!」 へし折れた肋骨に片手を当てながら、岩渕はなおも拳を澤の顔めがけて飛ばした。澤は向かってきた拳を掌で受け止め、内臓が破裂するほどの力を込めて腹を殴った。 そう。膂力の差は歴然だった。歴然であるハズなのに……。 澤は感じていた。 岩渕の、この、不屈の精神力はどこから来るものなのだろうか?「バカがっ! 知らねえだろうなっ! お前はっ、俺様のっ、何も知らねえっ、何もわかっちゃあいねえっ! 俺様の夢がっ、お前にわかるかっ?」 激痛に身をよじって倒れ込み、苦悶する岩渕の頭上で澤が叫んだ。「――いずれ、俺はお前と丸山佳奈を結婚させて、《D》を退く……その後、俺は築いた財産を土産に故郷へと凱旋し――そしてっ、いつかっ、俺の両親をハメたクズ共とっ、俺の親を裏切って見殺したゴミ共とその家族をっ……俺の故郷から永遠に追放するっ! それが、俺の人生の目的だったっ! それをっ、てめえとあの女が邪魔をしたっ!」 …………っ! それは――その場にいる《D》の誰も知らない、誰も聞いたことのない、誰にも話したことのない"澤の願い"だった。「……出会わなけりゃ良かったンだ……俺たちは……"あのまま"で良かったンだ……そうすれば……佳奈に……アイツに《D》をくれてやれたのにっ!」「……それ以上は……言っては、ならない……"禁句"だぜ? 社長……」 ――立ち上がる。 岩渕は、それでも立ち上がった。 肋骨が何本も折れ、内臓をすべて吐いてしまいたいほどの苦痛を堪え、真っ赤に腫れた両足を震わせながら……それでも立ち上がった。そして、再び澤へと殴りかかった。もちろん、澤は先程までと同じように、膂力の差を見せつけるように避け、何の苦もなく岩渕の顔面を殴って地に叩き伏せた。 それでも――……岩渕は諦めなかった。 切れた頭部から鮮血を滴らせ、歯の折れた口内から泡のような血を吐きながらも、岩渕はまた立ち上がった。「……それで? 今はアンタの過去の話じゃあない……ただ、アンタのその考えは間違っていると言いたいだけだ……」「さっさと倒れやがれっ! 小僧っ!」 岩渕は激昂する澤に投げ飛ばされるたびに立ち上がり、低いうなり声を上げて澤に飛びかかっていった。そして、そのたびに痛々しいほど激しく殴られ、蹴られ、激しくぶちのめされた。 それでも――岩渕は立ち上がった……。 「しつこいぞっ! クソガキィッ!」 ……俺は……俺は……、間違ってなどいない……そのハズだ………。 そのハズなのにっ! まさか……いや……。 その、まさか、だった。澤は、かつて自分が死ぬほど嫌悪していた存在に"堕ちてしまっていた"ことに、ようやく気づきはじめた。 嘘だ。 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ……そんなハズがねえ。 俺は……いつのまにか、"俺自身が最も憎むべき人間"に……なって、いたのか? なら……負けるのは、俺? "負けるべき悪は"、俺か? 目の前の男は、再び拳を固め――澤へ殴りかかった……。――――― 僕は、その様子を、近くでじっと見つめていた。 既視感だね。川澄奈央人は思った。 つまり……このままヤり合えば……敗北するは澤社長。 どうします? まぁ……僕としてはそのほうが都合が良いのだけど……。 気になることは、ある。 あの見た目からは想像し難いが、澤社長はワリと冷静な性格だ。それがどうして、こんな無茶な襲撃を? しかも突然に? 何か……あるのか? それとも……まさか……いや……僕も"カン"が鈍ったかな……。 川澄奈央人は考えていた"カン"をすぐに頭の中から打ち消した。認めたくはない現象、認めたくはない言葉――……。説明が不可能な事象――……。「……『オカルト』は嫌いじゃあないんだけどね……」 次第に顔から余裕の消えつつある澤を見つめ、川澄は小さく呟いた。「"あの女"って、私のこと?」 背後で女の声が僕に聞いたが、面倒なので無視をする。――――― あっ。 それは本当に一瞬のことで、何が起きたのか、澤自身にもわからなかった。その瞬間、澤の顔が奇妙に歪み、膝から下の感覚が消失した。 意識ははっきりとしているのに、澤は膝から崩れ落ちた。 そう。岩渕の拳が澤のアゴを捉えたのだ。肉体的ダメージは軽微なものの、三半規管に何らかの障害が起きたのは明白だった。 ……いつか、鮫島が言ってやがったな……岩渕は『神様に愛されている』……か。 その"神"が伏見宮京子に関係しているのかは知らねえが……ツイてやがるな、岩渕。『天は自ら助くる者を助く』……か。さしずめ、こいつの根性に運が味方した、こいつの考えに神が理解を示した……て、ところか……畜生。 ……ここまでか。 ここまで、なのか?「……アンタは間違っている……俺の話を、聞いて、くれ……社長……」 岩渕は激しく息を喘がせ、満身創痍になりながらも――未だ澤を説得しようと言葉を紡いだ。その後で、思い出したかのように手の甲で唇の血を拭った。 ……俺の味方は? ……いないのか? 周りの《D》の社員たちは皆――《F》のヤツらの介抱に走り、抱き起したり、謝ったり、救急車に連絡したりしていた。武器を携えている者は皆無だった。 ああ、そうか。 何となく、わかってはいた。 こうなることは、わかっていた。 連れて来た20名の社員たちはすべて営業部と総務部の人間だ。しかし、その内訳には偏りもあった。そう。彼らの所属は営業部と総務――だが……それだけではなかった。「……岡崎派、か」 そうだ。彼らは、澤自身が岡崎の児童養護施設から引き取って雇用した者たち、つまり、岩渕と比較的親しい関係性を持つ後輩や同期。普段から岩渕に対して好意的な意見や意思を持つ者たち――。 ――結局、総務の熊谷にしてやられたのだ。……あの野郎。 しかたがない。これも……運命か。「……脚がフラフラだ。ほら、岩渕、もう一発、俺を殴れ……それで、俺は倒れる」 澤は震える両足で立ち上がると、掌をクイッと揺らし、岩渕の拳を待った。「……俺はアンタを止める……だから……だからっ!」 真っすぐに飛ぶ岩渕の拳を見つめ、澤は敗北する覚悟を決めた。 その――つもりだった。 敗北して"やる"、そのつもりだった。 岩渕の拳を頬で受け、 顔が歪み、 痛みが走り、 重心が背後へ向き、 倒れ、 そして、 敗北を喫する、 その――つもりだった。 そのつもりだった、その瞬間―― その時―― 感触があった。 小さい、 とても小さい、 子供のような手。 小さくて、可愛らしい、女の手。 ああ……ああ……そうか。そうなのか? 瞳の奥から涙が込み上げ、澤は奥歯を噛み締めた。 そうだ。これは――…… かつて、深く愛していた女の手。 かつて、失ったはずの女の手が―― 澤の背を支えていた。 決して澤が倒れぬよう、女の手は、力いっぱいに澤の背を押してくれている。 堪えていた涙が、溢れた。 とめどなく、ただ、とめどなく、涙が流れ、頬の血を洗い流していく……。 ああ……。 そうだ。 味方は、いた。いてくれた。 こんなヤツに、こんな……身勝手な男の……。 今も、ずっと、そばにいた。いてくれた。 俺の味方でいてくれた……。 愛されていた。 生きている時も、死んだ後でさえも、 俺を愛してくれていた。 この世界で、 こんなクソみたいな世界で…… こいつは、この女だけは―― 俺の味方でいてくれた……。 自分の体から何か消え去るような感覚に、澤は驚いた。それまで心に纏っていた悪意や憎しみや怒りが、まるで水に流れて溶けて消えるような感覚……。 ……そうか。これが――鮫島の言う、"転成"ってヤツか……。 大きく息をひとつ吸い、ネクタイを緩めてシャツのボタンをひとつ外す。 変質した澤の雰囲気に困惑したのか、岩渕の目がパチパチと瞬いた。「岩渕?」「……はい」「どうやら、俺様もお前と同格に至ったらしい。……お前とは違う"何か"に愛されて、な」「……?」「わからンか? まぁいい……何にせよ、次の一合で決着だ。お前の"神"と俺様の"女"――どちらが正しいのか? 確かめてみるか? まあ、どちらも正しいのかもしれないが……ぼちぼち、終わろうか……」 背後に目をやる。 黒いスーツを着た少女が、澤の背を抱き締めて微笑んだ……。 そして――……。―――――『聖女のFと、姫君のD!』 k3(後編 最終回)へ続きます。 また少し休憩……。sees大好きさんたちの新曲アラカルト。Guianoさん……ヨルシカ氏……みかんせい様……みんな大好き……。 次回の"後""最終話"更新は……2020/04/25~26の未明です。イケます。たぶん💦 こちらは今話がオモロければ…ぽちっと、気軽に、頼みますっ!!……できれば感想も……。 人気ブログランキング
2020.04.23
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ss一覧 短編01 短編02 短編03 短編04 短編05 《D》については短編の02と03を参照。番外としてはこちらから 登場人物一覧はこちらから 10月10日――午後14時。《F》の人々はただ呆然と、ただ緩慢に、その音を聞いていた。 人々は互いに目を合わせ、何事かと確認し合い、外に出て、敷地に入り、わけもわからず集合し、また目を合わせ、ヒソヒソと囁き合い――天空に浮かび、轟音を響かせる鉄の箱を凝視していた。 ヘリコプター。それが10人前後の人間を運べる大型のヘリコプターだということは誰もが理解していた。が、それを口に出す者はいなかった。いや、口に出すことができなかった。なぜなら――そこから"何"が出て来るのか、それが知りたかった。 混乱する人々を無視するかのように、ヘリは芝生の上に降り立った。 高速回転するローターの真下にある出入口のハッチが開こうとする。「誰だあ?」 あっけらかんとした老人のひとりが呟く。危機感はないように思えた。 やがて――ヘリの中から、黒いスーツを着た男女の集団が躍り出る……1人、2人、3人、4人、5人、6人……そして……。 この時、彼らは――今まで予期すらしていなかった危機感が、まるで風船のように膨れあがり――代わりに、これまで当然の権利かのように手にしていた"安心と平和"の風船は、まるで針を刺した風船のように破裂して消えた。そんな感覚だった。 恐ろしい。 怖い。 そう思った人々が一歩、また一歩と後ずさりした時――7人目にして、最後に"聖地"へと降り立った男が、周囲を見まわして言う。「……落後者どもの楽園、負け犬の聖地……はっ! ヘドが出るわ」 空にはまだ2機ものヘリが浮かび、"聖地"への着陸を待っている……。 大型のヘリ3機が黒いスーツの集団総勢20名を降ろし、帰路のため再び離陸した直後、リーダーらしき中年の男は立ち並ぶ《F》の人々を睨みつけ、舌を打った。「ジジイにババアにメスにガキが大半か……気色悪ぃな……」「……すみません、あなた方は……どちら様、ですか?」 込み上げる不安と恐怖が人々を惑わす中、ひとりの老人が男に尋ねた。他の人々はその様子をじっと見つめ、事態の解決と安心を求めて祈った。もちろん、"聖女"にだ。 中年の男は、歩み寄って話しかける老人に気づいて視線を向けた。そして――いつから用意していたのかわからない、金属の棒を地面に向けて振った。キンと乾いた音が耳の奥に響く。鉄の棒――特殊警棒だ。《F》の女のひとりが小さな悲鳴を上げる。女は手を繋いでいた子供を守るかのように抱き寄せた。「――っ! それは何だっ? バカなことをするなっ!」 両手を上げ、老人は叫ぶように言った。痰が喉に絡み、声がかすれた。 男は特殊警棒の先端を老人の額めがけて指し示し、「聖女と宇津木を出せ」と静かに、そして平然と言い放った。ツヤのある黒い上下のスーツ。50代半ばだろうか。男はどこにでもいそうな中年の男だった。 だが、男は……怒りと憎しみに支配された凶悪な風貌を隠そうともしていなかった。両目が赤く血走り、頬が細かく痙攣を続け、口の奥からはギリギリと歯を噛み締める音がした。「俺様は今、機嫌が悪い……ナメたことヌかすヤツは、殺す」「待ってくれ。話を聞いてくれ。まず……アンタたちは、《D》、だよな?」 自分の額をとらえた特殊警棒を見つめ、喘ぐように老人は言った。彼ら《D》が何をしにこの地へ来たか、何が目的で武器を手に取って構えているのか、老人は瞬時に理解した。理解した次の瞬間――今度は恐怖に胃がヒクヒクと痙攣し、吐き気が喉まで込み上げる。「だったら、なンや? ジジイ、楢本ヒカルはどこや?」 抑揚のない声で男が聞き返した。「ヒカル様は……今、ここにはいない。もうすぐ帰って来られる、予定だ。だが……頼む。わたしはどうなってもいい。彼女には、何もしないでくれ……」「……?」 男は首を傾げた。「理解できンな。その女は単なるイカれ詐欺師やろ? なぜ庇う?」「……違う。救われたからだ。彼女は、"聖女"なんだ」 突然現れた中年男の怒りに満ちた顔と、その手に握られた特殊警棒とを交互に見つめて老人は言った。「あの方は……ワシと、ワシらの生きる希望なんだ……だから、あの子が無事に生きてくれるのなら、ワシの命なんてどうなってもいい。……ワシはもう、充分に生きた」 老人の言葉を聞いた時、ほんの一瞬、中年の男の顔が泣き出しそうに歪んだ。――少なくとも老人だけ――いや、周りの《F》の人々にはそう見えた。 男は何かを考えるかのように顔を伏せた。警棒を持たないほうの手をだらりと下げ、まるで"誰かの手"を握るかのような動きをした。《F》の人々は男をじっと見つめ、彼の答えを待った。不安と緊張のためか、口を挟む者は皆無だった。 ――やがて男は顔を上げ、《F》の人々を真っすぐに見つめた。「却下だ。お前らを徹底的に潰さないと――俺……"俺たち"の気が済まない」 どこまでも低く、重い口調だった。「宇津木の成金はいるンやろ? そいつから血祭りにしてやるわ……」「……アンタらは……ああ……そんな……ヤメッ………」 老人は言葉に詰まった。いや、詰まったのではなかった。詰まされたのだ。 男は素早い動きで姿勢を整え、老人の脇腹に警棒を叩き込んだ。これまで経験したことのない激痛が脳に届き、一瞬で意識が遠のく。口の中いっぱいに胃液が込み上げ、悶絶しながら芝生に倒れ込む老人の体に……男は、容赦なく蹴りを入れ続けた。「――ぎゃああっ!」 あまりの痛みに老人は呻いた。《F》で暮らすうちに忘れかけていた"痛み"と"現実"を、老人は思い知った。激痛に意識を失いかけながら……ドバドバと血ヘドを吐きながら……ここは"聖地"ではなく、"ただの田舎"であることを思い出した。「中島、南、有吉は配電盤を探して潰せ。通信用のアンテナ、ネット回線も見つけしだい破壊しろ。清水、坂口、長谷川はここらの出入口の封鎖、車両類の確保を優先――残りの半数は岩渕とツカサを探し、残りの半数と高瀬は、俺様の背後を守りつつ――」 老人の腹を蹴り上げながら男は叫んだ。「《F》を一匹残らず、ここにっ、集めろっ!」 いくつもの悲鳴が上がった。周囲の《F》の人々が一斉に後ずさった。誰も彼もが逃げようと脚を動かしかけたその時――男がまた叫ぶ。「お前らっ! 仲間なンじゃあねえのかっ! お前らがあの"聖女"を大事に思うのならっ!全員っ、かかって来いっ! 俺様と戦えっ!」 戦え――。 男の声は、ついさっきまでの様子からは考えられないほどはっきりと、《F》の人々の心に響いた。 守る――。 "聖地"を守る――。 "聖女"を守る――。 そう。《F》は覚悟を決めた。老人も女も子供も関係なかった。 ある者は石やコンクリートの破片を拾い、ある者は園芸用の小さなスコップを拾い、ある者は野球のバットを拾い、ある者は拳を握り締めた。「うおおおおおっ!」 狂乱じみた叫びが次々に上がり、広がり、そして21名の《D》を包囲した。「そう……それでいいンだ」 動かなくなった老人から視線を外し、《D》の男は呟いた。 ―――――「澤社長は……《F》の家で何をするつもりなんですか?」 伏見宮京子は茶臼山の景色から目を逸らし、ただ黙々とフィアットを運転する宮間有希の顔を見つめて聞いた。「……殲滅、ね」 京子にはその意味がわからなかった。「老若男女問わず……二度と《D》の前に現れることがないように……」 中途半端な妥協は遺恨を残し、近い将来――必ず《D》に災いをもたらす。そんな意味のことなのだろう。信じられない……。 動揺する京子に宮間は、「このまま引き返す?」と聞いた。「心配はいりません。……私と、ヒカルさんが、澤社長を説得します」 フィアットの後部座席に座る楢本ヒカルが、両手を固く握り合わせて顔を伏せているのが見える。「ヒカルさん、岩渕さんとツカサ君は無事なんですよね?」 岩渕とツカサさえ無事ならば、最低限――示談の交渉はできると京子は考えていた。澤にとっても岩渕は大事な部下のはずだった。「……無理ね」 ハンドルを切る宮間がぶっきらぼうに答えた。「カネで解決できる段階じゃあないってこと。社長は、ああ見えて……とても純粋な人だから。説得できるとしたら……」「できるとしたら……?」「家族だけ」 宮間は断言した。「家族って……それじゃいったい、どうすればいいんですか?」 澤社長に"家族"はいるのだろうか? 結婚しているとか、子供がいるとか、両親は健在だとか、そんな話は聞いたことがない。……もしいたとしても、ここまで連れて来るまでに膨大な時間がかかることは明白だった。「……説得は不可能、ということでしょうか?」「わからないわ……もし、可能性があるとしたら……」 宮間はまた断言した。「"岡崎派"、だけね」 宮間の言葉に京子は困惑げに頷いた。――――― 鮫島恭平と川澄奈央人が乗車するハイエースは、ビニール紐で手足を縛った田中を載せて"聖地"への山道を走っていた。「そういえば、例のあのコ、丸山佳奈ちゃんも"岡崎派"、でしたっけ?」 唐突な川澄の問いに、鮫島は困ったように口を開いた。「……ああ、社長の一番のお気に入りだった。……入社試験も、歴代トップの成績だったらしいしな。……ん? てことは、お前よりも上だったってことか?」 鮫島の問いかけに、川澄は「興味深いですけどね」と言った。「でも、死んでしまったのなら、しかたありません」「同じ"岡崎派"として――岩渕さんなら、この状況、どうするつもりなんでしょうかねえ……できれば、僕の思う通りに行動してくれると助かるんですけど」 川澄が言った。「鮫島さん、もし――ツカサ君がケガひとつないような状態であるならば、宇津木さんに対する攻撃は慎んでいただけますか?」 真意の不明な頼みに鮫島は戸惑って顔をしかめた。だが、わからないでもない。鮫島は思い出そうとした。あの"聖女"の願いをすべて叶えようと奔走し、己のすべてをひとりの女に捧げた宇津木という男の話を。――そういうヤツは、嫌いではなかった。「正直、萎えたわ。あの"聖女"の態度から察するに、その宇津木って男は、やっぱりアレ、なのか? 隠してた、本当の関係、みたいなヤツか?」 しどろもどろになって鮫島は答えた。 川澄の話を聞いて驚く楢本ヒカルの表情を思い出しながら、鮫島は彼らに隠された関係性と境遇の不幸を考えた。ある意味で、自分と宇津木は似ていると思った。 ――だが、川澄の価値観はまた"別のところ"にあるようだった。「別にそんなものはどうでもいいんですよ」 朗らかに、薄ら笑いながら川澄は言った。「宇津木さんには確認したいことがあるんですよ。……どうしてもね」――――― ……もしもし、聞こえるか? 今、本館のトイレにいる。……ああ、《D》のヤツらが来た。あいつら、棒を振り回して《F》のバカ共を片っ端から殴り倒して……いいからっ、早くカネを用意して持って来いっ! ここももうすぐ見つかるし、あのクズ共じゃあ時間稼ぎにもならない……クソッ! 最悪だ。……警察? バカ言うなっ、法に介入されたらこれまでの私の努力が泡になって消えるだけだっ! ……いいか? 《F》も私の会社も、社会の毒を食らって成長しただけの存在だ。それを一瞬で失うわけには……。おいっ、いいから早くカネを持って来いっ! ……クソッ、クソッ、クソッ! ……何ぃ? 今ぁ?《D》の熊谷が来て? 大人数で? 社の玄関に? 畜生っ! 畜生っ! ……いいから、とにかくカネの用意はしろ……最悪、熊谷にもカネを掴ませて見逃してもらえっ! はあ?ヒカルを? ふざけるなっ! それだけは絶対にしないっ……ヒカルは、私のすべてだっ、……あの子を渡すくらいなら、死んだほうがマシだっ! 約束したんだ……約束したんだっ……あの子の母親と、あの子のために生きると……だから……頼む。ああ、ヒカル、《F》のゴミ共なんかどうでもいい……私は、お前さえ"幸せ"なら……どうなってもいい……だから……生きて、生きて、生きてくれさえすればいいだけなのに……畜生っ。ああっ……誰か来た……トイレに誰か入って来た。ああっ……やめてくれっ、やめろっ! やめろっ! 電話の向こうから、木製のドアがガンガンと叩かれるような音がした。床に落ちたらしい携帯電話から、『やめろっ!』『入って来るなっ!』という男の悲鳴が聞こえた。ドアが蹴破られるような音がした。『やめろっ!』『許してくれっ!』『やめろーっ!』 何かを引きずるような音が響き、男の声が途切れた。そして……電話が切れた。――――― 最悪だ――。 芝生に倒れた女の顔は、べっとりと血にまみれていた。額が縦にぱっくりと割れ、唇が膨れはじめ、充血した目で瞬きをしたいた。それは、ほんの数分前、自分に襲いかかって来た女と同じ人間だとは思えなかった。いや、思いたくもなかった。「……許してくれ」《D》営業部社員の三谷信也は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。心臓が痛いくらいに高鳴り、腕がガクガクと震えるのがわかった。「……お前らが悪いんだ……お前らが悪いんだ……ウチの社長をバカにして、詐欺でカネを儲けて、《D》を陥れて……岩渕先輩まで……」 呻くように三谷は呻いた。 次の瞬間、視界の隅から中学校らしき制服を着た少年が、鉄パイプらしき棒を振りかざして三谷に襲い掛かろうとしているのが見えた。どこをどう見ても、子供。子供だ。「来るな……頼む……来ないでくれ……」 少年を凝視したまま、三谷は呻いた。そして、緩慢な動きで三谷を攻撃しようとしたその少年の頭部めがけて――警棒を降り落とした。そして無我夢中でその少年を押し倒し、動かなくなるまで殴り続けた。「……最悪だ。最悪だ。これは……"戦い"なんかじゃあない……一方的な蹂躙だ……」 畜生、それもこれも全部、あの楢本とかいう女が悪いんだ。芝生にツバを吐き、乱闘を続ける《D》と《F》を見つめたまま彼は思った。 澤に連れて来られた《D》は皆、三谷と同じか似た感情で動いていた。 そのことを――彼も同僚も知らなかった。 もちろん――澤自身も……。――――― 高瀬瑠美はその一部始終をじっと見つめ、無言で、ただ立ち尽くし、考え、思い、貸し与えられた特殊警棒を強く握り直した。 警察に連行される犯人のように体を引きずられ、悲鳴を上げ、助けを懇願する初老の男を見た。この男が……宇津木? 思っていたよりは"マトモ"そうにも見える。瑠美は思った。澤社長の眼下で土下座させられ、芝生に顔面を擦りつけられているこの男――宇津木聖一は今にも泣きそうなほどに顔を歪め、陸に上がった魚のように苦しげな呼吸を繰り返していた。「…………っ」 無言のまま仁王立ちする澤社長に対し、宇津木は「……暴力はやめてくれ」と懇願し、額を地面に擦り続けた。何度も、何度も。息を飲みながら、瑠美はそれを眺めている。 ふと辺りを見回す。すでに《F》の大半の人間が《D》に倒され、死んだようになって芝生に転んでいた。……非戦闘員であろう彼らに、ここまでやる必要があるのだろうか? 理解不能だ。 いや、そもそも社長以外に理解できているの? 「やってらんないわ――……」 フーッと長い息を吐いた。"仕事"を終えて一段落する同僚たちと目を合わせると、深い共感めいた感情に包まれたからだ。「そりゃあ、そうよね」 これは《D》の仕事ではない……少なくとも……そう、例えば――もし仮に、あの人がこの場所にいたのなら……澤社長を全力で止めてくれるのだろう……岩渕さん……。 大きくひとつ深呼吸をしてから、瑠美はカラカラになった口を必死で開いた。そして、努めて冷静さを装いながら一歩進み、「……社長、岩渕マネージャーの件ですが」と、目の前で宇津木の髪を強引に掴む社長へ声をかけた。「あぁっ? なンや? 高瀬」 社長が鬼のような形相で振り向く。「ねえ、宇津木さん……岩渕……さんは、どこにいますか?」 震える声で言い、瑠美は宇津木の目を見た。 やがて……男は震える手で自身の胸をまさぐり、小さな鍵を社長の前に差し出した。同時に、「岩渕様とツカサ様は屋敷の地下の倉庫にいる。だから――」と喋りかけた男の腕を――鍵を手渡そうとした宇津木の腕に――社長は警棒を降り落とした。「あああああーっ!」 骨が折れたであろう、絶叫する宇津木の悲鳴を無視するかのように、社長がまた振り向いた。「高瀬、岩渕とツカサを迎えに行ってやれ」 鼻で笑ったような社長の声が、瑠美の耳にはっきりと届いた。 最悪だ。最悪の仕事だ。もしこれが熊谷部長の"頼み"でないのなら、アタシは今日中に荷物をまとめて《D》を辞めているところだ。 早く来いよ……クソ兄貴が……。――――― 鍵を解き、倉庫の扉を開いた黒いスーツ姿の高瀬瑠美の顔を見て、岩渕誠は思わず息を飲んだ。「……お待たせ……岩渕さん、ツカサ君……待たせて、ゴメンね」 消え入りそうな声で言った瑠美の顔は、まるで悪夢を見続けた子供のように、憔悴し、恐怖と不安にひきつっていた。だが岩渕は、そんな彼女の顔を一瞥すると同時に、ツカサの手を取り、倉庫の中から飛び出した。「ありがとう……瑠美……状況は?」「……社長を止めて」 早足で地下からの階段を昇る岩渕の背に、瑠美の声が微かに届く。川澄との連絡が途絶えて1時間強、瑠美が鍵を持って現れたこと――……状況は最悪、なのだろう。「宇津木さんは――どうなっている?」「……殺されるかも」 力ない瑠美の声が背に届く。彼女の声を聞くのは数日ぶりだが、こんなにも疲労感を滲ませた声を聞くのは初めてだった。「……《F》の連中は?」 そう言って岩渕は、瑠美と並んで屋敷の玄関の前で立ち止まった。「……芝生の中央に集められて、半強制的に《D》の20人と戦わされて……もうほとんどが死に体ね……妊婦さんや、子供も含めて、ね……」 無理に平静を装った口調で瑠美が言う。「営業と総務の連中か……"自主的"に、じゃあないよな?」「臨時ボーナス100万だって……正直、誰も社長には逆らえない雰囲気だった」「キミは? なぜ社長について来た?」「……熊谷部長に耳打ちされたの……"行け"って。それで――『できることなら、社長より先に、岩渕君か川澄君に接触しろ』って……」「……?」 熊谷部長は聡明な人だ。意味のない言動はしない……つまりは、そういうことなのかもしれない……。「『この襲撃は《D》全員の総意ではない』ってトコロか……」「ついさっき兄さんから『もう着いた』ってメッセージが来たけど……ねえ、岩渕さん、これからどうするの?」「……ツカサを頼む……鮫島さんの姿が見えるまでは。俺は……社長を止める」「……できるの? "アレ"は鬼よ? まるで……何かに憑りつかれているみたい」「なら――そいつから社長を解放してやればいい」 ツカサの手を瑠美に手渡し、岩渕は館の玄関の扉を開こうとした。……この先に待つは"鬼"……さしずめ、狂気に憑りつかれた強欲社長か……クソったれが。 岩渕はスーツの裾に付いたホコリを払い、ネクタイを締め直した。ドアの取っ手に手を置き――思う。またスーツがボロボロになりそうだ……そうだな、今度は京子と一緒に、『テーラーチクサ』へ遊びに行くか……。 ドアを開けたその瞬間―― 岩渕の目に――あの、"神託"で見た光景が広がった……。―――――『聖女のFと、姫君のD!』 k2(中編)へ続きます。――――― 少し休憩……。 最近ハマっているZOC(大森靖子氏プロデュースの異色アイドルグループ) ……戦慄かなのちゃん……エエで。 次回の"中""更新は……2020/04/23!の未明です。すぐです。はい。 こちらは今話がオモロければ…ぽちっと、気軽に、頼みますっ!!……できれば感想も……。人気ブログランキング
2020.04.22
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