今朝、8時半、携帯に見知らぬ番号から連絡があり、長いこと呼び出ししていたので、かけなおしました。
そしたら・・・S君の訃報が飛び込んできました。
知らせてくれたのはR君。
S君もR君も高校生の時の友達。
R君は、6日にS君から年賀状が届いていて、「年賀状ありとう~」と連絡をするために携帯にかけたら、妹さんが出て訃報を知ったんだって。
その足で、私に連絡をくれたR君。
訃報を聞いても、混乱混乱でよくわからない。
どういうこと
S君はディズニーランドが大好きな子で、年間パスポートももっていて、いつも年賀状はランド内のポストから投函してくれていました。
5日もランドに行き、みんなにいつも通り年賀状を出して、そして6日の夕方に亡くなりました。
夕方になって、なかなか起きてこないS君の様子を見にお母さんが部屋に入ったときにはもう亡くなっていたとのことです。
なんで亡くなったかは知りません。
でも・・・しんどかったと思うし、いろいろ悩んでいたとも思う。
S君と出会ったのは、高校1年生の夏でした。
高校1年の私は、毎日毎日生きるのがしんどくって、本当に闇の底でした。
どうやって80歳まで生きるんかな。しんどいな。。
って思ってました。
鬱のどんぞこ、でした。
学校に1時間半以上かけて、たどりついても、トイレにこもり、そしてそのまま家に戻っちゃう、なんてこともしょっちゅうでした。
とにかく、学校に行けなかったし、行きたくなかったし、毎日をどう生きたらいいのかわからなかった。
まだ子どもだった私は、自分がどうにかなっちゃうのが怖くて、手首にばってん印をつけて、「死ぬことだけはタブー」と思うようにしてました。
そんなとき、高校の先生が、夏休みに北京で研修があるから参加しないか、と誘ってくれました。
両親は私のこんな状態を見ているので反対でしたが、先生の「何かのきっかけになるかも」という言葉に参加を許してくれました。
横浜のいろんな高校から3名ずつ募って、北京師範大学の学生さんと現地で交流するというものでした。
その夏、私は北京で出会った仲間に救われました。
私は一番年下ということもあって、みんなから可愛がってもらい、同じ部屋だったMちゃんやAちゃんに、今の自分をさらけ出して、ブワーって泣いたこともありました。
北京から帰ってきた私は、母にカウンセリングを受ける、と言いました。
それまで、かたくなにカウンセリングを受けに行くことを拒否していたのですが、ようやく変わりたい、ここから抜け出したい、と思えたんだと思います。
それから高校卒業までの3年間、カウンセリングを1,2週間に一度受け続けました。
北京で出会った仲間とは、たまに会い、遊び、近況を報告しあい、そしてまた別れ・・・の繰り返しでした。
べったり一緒にいたわけじゃないんだけど、不思議と今までつながってきた私たち。
S君は2つ上のお兄ちゃん的存在で、ディズニーによく連れて行ってもらいました。
恋の話もいっぱいしたし、人生の話もいっぱいした。
みんな高校も違ったし、進路も違った。
今は、生きる場所も、生き方も違う。
たぶん、S君は正直、私といるのはしんどい時期もあったと思う。
最後にあったのは2004年。
S君はまだ逃げている最中だった。
私と話すと、向き合わなくっちゃいけなくなるから、しんどかったと思う。
私はただ聞いてあげる、なんてことはできなくって、考えようとしないS君がはがゆかった。
今日の夜、S君の訃報をMちゃんに連絡した。Mちゃんとも5,6年ぶり。
MちゃんとS君の話をしながら泣いた。
そしてMちゃんからS君の近況を聞いた。
しんどそうでした。 まだ闇の中にいる感じでした。
類は友をよぶ、ってあるように、高校の時の私の周りには、同じような子が集まってきました。
みんな同じような性質をもっていました。
その時は
そうじゃなくっても、社会人になってから、しんどくなっちゃう子もいました。
そういう子たちだから、お互いに求めあって、くっついていたのかもしれません。
Mちゃんもまだしんどそうでした。
高校を卒業した私は、関西の大学に行きました。
母から離れるためにです。
自分を変えるためにです。
3年間カウンセリングを受け、私は親と離れて暮らすほうがいいと感じました。
甘えてしまうし、甘えることで、落ちていく自分を抑えられない、そう感じていました。
そして、いろんなつながりをきりました。
違う自分になりたかったからかもしれません。
大学4年間、私は関西で、思いっきり楽しく、明るく、過ごそうとしました。
高校の時の自分と比べると、まるで違う人になったような気分でした。
でも、突然、襲ってくる、鬱の波に時々襲われて、落ちていく自分にとても嫌悪感を感じ、エネルギッシュにアクティブに動くことで、そういう自分を ふりはらおうとしていました。
でも、そううまくはいかない。
就職を期に、また鬱の深い闇へ・・・
げっそり痩せました。
眠れなくもなりました。
Drが言いました。「今まで、よくがんばってきたと思うよ。ここらで薬の力を借りて、負の循環をたちきろうよ」と。
ようやく、「ダメな自分」を受け入れ始めた。そんな感じです。
うけいれて許容して、その自分で生きる。
今までは、スパルタに鍛えていけば強くなれる!そうおもってた。
でも、その考え方が違うんだということにきづいた。
そして、
26で薬をやめるまで、実に10年も、鬱の大なり小なりの波の中を私はいたんだと思う。
長いよなぁ。
今は、安定しています。でも物事を深く、深く、考えることが苦手になったし、集中するのも苦手になりました。
で・・・話は戻り・・・・
今日、Mちゃんと話して、S君の訃報を聞いて、思った。
みんな 同じ場所に居続けているなぁと。
私は、転々としている。
関西に行き、岡山に行き、そしてまた関西にもどり。
就職を関西に決めたのも、横浜に戻れない自分がいたから。
あそこは、いや。
鬱の自分がいるようでいや。 高校がある、同じ高校を出たということでつながっていくことがある、それがいや。
そうやって、環境を変え、いろんなものを切って、切って、そういう生き方をしてきたんだな、と。
でも、MちゃんもS君も同じところにいる。
場所もそうだけど、心もまだ、揺れている。
何がいいかはわからないけど、同じ場所に居続けるMちゃんを見て、
私に足りないところだな、と思った。
S君の訃報を通して、
またみんなで再開して、S君に会いに行こう、という話が出ている。
それを聞いたとき、即座に拒否の感情が出た私。
みんなにあいたくないんじゃない、あの頃の自分を感じるのが嫌なんだと思う。
でも、でも、ね、そろそろ向き合うとき。16歳の自分もまた自分であり、横浜におきっぱなしの私を迎えに行く時期なんだな、と。
今日は仕事場で、ツーーーと涙が出ました。
あまりにも空が澄んでいてきれいで、雲の切れ間から光が無数に差し込んでいて、本当にきれいでした。
S君に救われたこと、ありがとう、と伝えたいのになぁと思って涙がでました。
そんな中、職場で午後のおやつがでました。
それが、それが偶然にも熊本名物のサツマイモとアンコの入ったおまんじゅうでした。
同僚がわざわざ取り寄せたらしく、私にホカホカの状態でくれました。
そのおまんじゅうは、おばあちゃんを思い出す味です。
熊本はおばあちゃんが眠る土地。口に広がる懐かしい味に、おばあちゃんを思い出し、熊本の土と匂いを感じ、心が安定しました。
すごい、偶然、(必然!?)でした。
ありがとう。
そして、家につきポストをみると、S君からの年賀状が届いていました。
しっかりした字で私の名前が書いてありました。
葬儀は密葬。
ご家族が少しおちつかれたら、みんなで会いにいきたいです。
S君、年賀状、ありがとうね。今年は、みんなで私に会いに旅行に行こう!計画を実はたてていてくれたと聞きました。
ここ5年ほど連絡も年賀状くらいだったのに、かわらず気にしていてくれてありがとう。
やっぱりお兄ちゃんだね。
ここ2,3年のS君は変わっちゃってたんだよ、てMちゃんに聞いたけど、
でも、きっとあってたらそんなことは感じなかったと思うよ。
いつだってS君は私の前ではいつもお兄ちゃんで、弱いところを見せるのを嫌ってたもんね。
きっと私の前ではそんなところ見せなかったんだろうなぁ。
それもあってここ数年は会えてなかったのかもね。ごめんね。私、優しくなかったもんね。
もうちょっとしたら、みんなで会いに行くからね。お疲れさま。
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