ディエゴ・アルマンド・マラドーナ

マラドーナ
NAME      ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
BIRTHDAY    1960/10/30
FROM      アルゼンチン(ブエノスアイレス州ラヌス)
身長/体重   166cm/67kg
ポジション   MF/FW
ニックネーム  神の申し子
きき足     レフティー(左きき)
ブエノスアイレス市郊外で8人兄弟の5番目(長男)として生まれる。(父 ディエゴ、母 ダルマ)

解説    
  マラドーナは自分がサッカーを始めるキッカケとなった今や伝説の選手としてしられる(彼の所属したイタリア、ナポリの背番号10は永久欠番になっている。) 忘れられない選手だ・・1976年、サッカー界100年の歴史上でもっとも輝くひとりの少年がプロ選手としての人生を歩み始めました。少年は誰よりもサッカーが上手く、ときとして魔法使いの末裔、神の子とまで言われたほどです。見る者を感動させる少年のサッカーには、サッカーの魅力と楽しみが詰め込まれていました。3歳で初めて触ったボール・・
ここから伝説は始まった・・・8歳ではアルヘンティーノスジュニオールス幼年部チーム。「ロス・セボジータス」に入団。100戦無敗記録を樹立。
9歳ではリフティングでビルの階段で1階から5階までのぼったという・・
16歳では・アルゼンチン代表の親善試合、対ハンガリー戦に途中出場。(これは代表の史上最年少記録である)
18歳ではU-19(主将)と掛け持ちで、アルゼンチン代表に選ばれる、
 日本で開催された第2回ワールドユース選手権で優勝。大会MVPに選ばれ、南米最優秀選手賞も獲得。
19歳では・アルゼンチンリーグ得点王。南米最優秀選手賞を2年連続受賞。
20歳でボカジュニオールスにレンタル移籍。‘81ー‘82シーズン40試合で28得点。アルゼンチンリーグ得点王。
21歳W杯スペイン大会に出場。負けられないブラジル戦で、味方にファールをしたブラジル人バチスタの腹を蹴り退場。試合も1-3で敗れ予選敗退
1000万ドルでFCバルセロナ(スペイン)に移籍。ウイルス性肝炎にかかる・・
22歳では3ヶ月の闘病生活の末見事復帰しかし同年にアスレチックビルバオのDFゴイコエチェアの激しいチャージで左足くるぶし靭帯損傷。
23歳 負傷から106日後に復帰 1200万ドルでナポリ(イタリア)へ移籍。
24歳でセリエAデビューを果たした。
25歳でサッカーをかじった事のある人なら誰もが耳にしたであろう、60m
五人抜きゴールが誕生した。スーパー・ドリブルからの神業的なゴールで、すべてを払拭した。センターライン付近でボールを持ったマラドーナが、挑みかかるイングランドのディフェンスを、スルリ、スルリとかわして
ドリブルで突き進む。約60メートルのドリブルで、かわした相手は5人。最後はGkまで抜き去って生まれたゴールは伝説となった。大会準決勝イングランド戦で、後に語られる”60m5人抜きゴール”、”神の手”のシーンが生まれる。まさに伝説だ!
そしてW杯メキシコ大会、決勝で西ドイツを破り優勝。
26歳ナポリを創設61年目のリーグ初優勝に導く。
27歳で得点王になる。
28歳でクラウディアと結婚。ダルマとジャニーナの2人の娘が生まれる。
29歳セリエA通算69得点で外国人選手の得点記録を更新。
W杯イタリア大会決勝で西ドイツに0―1で敗れ準優勝・・
その1年後コカイン使用によって、15ヶ月に渡ってサッカー界から追放された。
代表に入っては消えるのくり返しで、94年のアメリカワールドカップのナイジェリア戦のあとの薬物検査で妖精反応陽性反応
が出て、大会から追放され2度と戻ってくることはなかった・・・
しかし私はマラドーナはやはり神様と思う・・166cmという外国選手の中では極めて小さかったマラドーナ・・しかしマラドーナのプレーはそんなモノは全く感じさせられない攻撃的なサッカーで相手チームの組織プレーも全く通用しなかった・・そんな彼のプレーを見れば忽ちマラドーナのとりこになり永遠に胸に刻まれるだろう・・たとえ私が年老いたとしても
生涯「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」を忘れる事はないだろう・・






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