歴史一般 0
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新年、あけましておめでとうございます。昨年は、このブログも、さっぱり更新が進まないまま、特に仕事が大変だったというわけでもないのに、さぼりぐせがついたということか、数えてみると、年間7回しか更新していませんでした。今年は、もう少しブログに力を入れて、少なくとも、月に一回くらいは更新したいと思っております。他に、今年の抱負は・・・?それもいくつかあるのですが、それはまた、あとで書くとして、今年は、元旦に、住吉大社へ初詣に行ってきたので、まずは、そのお話から・・・。大阪の初詣の代表格といえば、なんといっても住吉大社。そういわれているだけあって、とにかくすごい人でした。反橋を渡るにも、通行を整理する人がいて、足元を注意して渡って下さい。決して押さないで下さい。とばかりに、連呼されていました。それでも、何とか橋を渡り切り、本殿までたどりつきました。住吉大社というのは、全国に2300社あるとされる住吉神社の総本社。江戸時代以前、その地域で最も格が高いとされた神社は、「一の宮」と呼ばれていましたが、ここは、摂津国の一の宮であります。この神社の祭神はといえば、底筒男命(そこつつのおのみこと)中筒男命(なかつつのおのみこと)表筒男命(うわつつのおのみこと)この三神は総称して、住吉三神と呼ばれています。これに、三韓征伐の話で名高い神功皇后が祭神に加わります。住吉三神というのは、日本神話に登場する神で、古事記・日本書紀によると、イザナギの禊祓いの儀式により、生まれてきたということになっています。イザナギは、黄泉国(死の世界)に旅立ったイザナミを引き戻そうとしますが、それが果たせず、地上に戻ってから、黄泉国の汚れを洗い清める禊を行います。そのとき、瀬の深いところで洗うと底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で洗うと表筒男命が、それぞれ生まれてきたのだとされています。イザナギの禊祓いの儀式というのは、この時に多く神々が生まれてくるという話になっていて、色々興味深いのですが、この儀式の一番最後に生まれてくることになるのが、アマテラスとスサノオ。いわば、住吉三神というのは、アマテラス・スサノオのお兄さんにあたると言えなくもありません。この神社の創建譚については、神功皇后の三韓征伐の話と関連があります。「三韓を征討せよ」との神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ向けて出航。このとき、住吉三神が現れて、神功皇后の身辺を守りつつ、時には突風に身を変え、神功皇后の船団を後押したといいます。帰国後、この住吉三神からのお告げがあり、神功皇后がこの地に創建したのが住吉大社であったとされているのです。 神功皇后の三韓征伐については、前にこのブログで書いたことがあります。 神功皇后三韓征伐についての過去の掲載記事 よければ、参照下さい。「住吉大社で、ここ見といたほうがいいよ、とかあったら教えて」ここに来る前、友人に聞くと、いくつか見どころを教えてくれました。住吉鳥居、手水舎、舞台、おみくじ、石灯籠などこれを探してみるのですが、人ごみであまり動けないのと、雪も降ってきて、寒いから帰ろ、と家族が急ぐので、結局、3つくらいしか見つけられませんでした。残念。本殿で参拝を済ませたあとは、お守りを買って、住吉大社をあとにしました。住吉大社は活気があって、なかなか良い神社ですね。また、通常の日に一人で来て、ゆっくりと歩き回わってみたいなと思いました。思えば昨年は、色々な意味で人とのつながりが深まった一年でもありました。このブログを通じて出会った人たちにも、何かとお世話になりましたし、また、それ以外の部分においても・・・。そうした人との出会いというのは、今年も大切にしていきたいなと思っています。そして、何より健康に留意し、平凡でもいいから、災禍なく穏やかに過ごせる一年であることを願っています。皆さまにとっても、この一年が良い年でありますように。本年もよろしく、お願い申し上げます。
2015年01月03日
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「弟子たちよ。私の終わりはすでに近い。しかし、いたずらに悲しんではならない。」死を前にした釈迦が、最後に弟子たちに説いたのは、「怠ることなく、修業に励むように」ということだったのだと言います。***釈迦が亡くなったのは、旧暦の2月15日であったとされ、3月のこの時期、日本各地の寺院では、釈迦を偲ぶ法要・涅槃会が行われています。涅槃会にあわせて、釈迦臨終の時の様子を描いた涅槃図が特別公開されている寺院も多いですが、先日は、そのひとつである京都の真如堂へと行ってきました。一般には、真如堂と呼ばれていますが、正式な寺名は、真正極楽寺といいます。平安中期の創建という千年の歴史を持った古刹で、法然や親鸞も、ここで修行を行ったといい、民衆からの信仰を、ずっと集めてきた寺院だったのだといいます。涅槃図が公開されているのが、この本堂。さっそく、堂内へと入っていきます。大きな涅槃図ですね。思ったよりもカラフルです。タテが6m、ヨコ4mあるのだそうで、江戸時代中期に描かれたものなのだそうです。釈迦臨終の時というのは、沙羅双樹の林の中に身を横たえ、ここで、最後の説話を弟子たちに語りかけたのだといいます。この涅槃図では、菩薩や弟子たちが釈迦の死を惜しみ、花を供えているところが描かれています。さらに、釈迦の死を聞きつけて、象・馬・麒麟など多くの動物たちが駆けつけています。この涅槃図には、120種類の動物が描かれいるということですが、数ある涅槃図の中でも、最も多く動物が描かれているのだそうです。厳かな雰囲気の中、こうした動物たちの姿が描かれているということは、釈迦の与えた徳の高さを示しているようにも思えます。そして、涅槃図と、もうひとつ、この涅槃会で楽しみにしていたのが、涅槃会の参詣者全員に配られる、仏前菓子の「はなくそあられ」。「はなくそ」というのが、とても変わったネーミングではありますが、漢字では「花供曽」と書きます。仏さまに花を供える「花供御」が、その由来なのだということで、とても、有難いお菓子なんですね。本尊に供えていた鏡餅を小さく刻み、それに黒砂糖をからめたもの。これを、食べると無病息災で過ごせるといわれています。これが、また、食べ出したら止まらないほどで、とても味わい深いおいしさでありました。涅槃という悟りの境地とはどんなものなのか・・・。私には想像もつかないことですが、せめて、はなくそあられをほうばりながら、釈迦の生涯に思いをはせていました。
2013年03月24日
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♪コンコンチキチン コンチキチン京の町が、一年のうちでも最高に盛り上がる夏の祭典、祇園祭。今年の祇園祭は、宵山がちょうど海の日の連休にあたっていたので、7/15の宵々山の日、祇園祭に行ってきました。祇園囃子が響く中、様々な山鉾が通りに立ち並んでいて、多くの屋台も店を連ねています。宵々山とは言っても、もの凄い人出です。祇園祭というのは、実際には一ケ月の間続けられているという、長い期間のお祭り。各鉾町で山鉾の収蔵庫が開けられる「吉符入り」という神事(7/1)に始まって、八坂神社の疫神社で行われる茅の輪くぐり(7/31)まで、その間、様々な神事が行われます。でも、その中でのクライマックスは、やはり、宵山(7/16)と山鉾巡行(7/17)ですね。日本三大祭りといいますが、今回行ってみて、そのスケールの大きさと、歴史の深さと、文化としての質の高さにも、改めて感銘を受けました。まさに日本を代表するお祭りなのだと思います。今回、烏丸御池を出発点にして、各鉾町をめぐりました。室町三条から新町通を通って南へ向かい、四条烏丸から四条通りを河原町方面へと向かって歩いていきます。宵山の期間、それぞれの鉾町では、山鉾に搭載する、ご神体や数々の装飾品などが展示されます。それらを見ていきながら、また、それぞれの鉾町で用意されているグッズを購入するというのも、宵山の楽しみの一つです。山鉾に由来するお守りや、縁起物、厄除けのちまき等・・・。見て歩くだけでも、楽しいものです。さて、祇園祭の発祥というのは、平安時代の初め頃のこと。京の都を始めとして、全国に疫病が流行したことが、そのきっかけでありました。この時、これを牛頭天王(八坂神社の祭神)の祟りであると考えた八坂神社の神官が、当時の国の数になぞらえて66の鉾を建て、さらに、神泉苑まで神輿を担いでいって、そこで疫病退散の祈願をしたというのが、祇園祭の起源であるとされています。最初は、疫病が流行った時にだけ行われるという神事でありましたが、やがて、それが、毎年行われる祭礼となっていきました。今のような山鉾の形に整えられていったのは、だいたい室町時代の頃。その後、応仁の乱により、祇園祭は中断しますが、この時、これを再興させたのが、当時、財力を蓄え始めていた、京都の町衆でありました。それ以降、祇園祭は京都の町衆によって運営・持続されていき、それが、現在の鉾町へと受け継がれています。 立ち並ぶ山鉾、その飾り付けが、本当に絢爛豪華です。 それぞれの山鉾は、日本や中国の歴史・逸話がモチーフとなっていて、山鉾の内部には、それに因んだ人形などがご神体として祭られています。そして、山鉾の外観を彩っているのが、前後左右に懸けられているタペストリー。これは、意外とヨーロッパ伝来のものが多く、特に鶏鉾と鯉山のタペストリーは、江戸初期、ローマ法王から贈られたというベルギー製のもので、国の重要文化財にも指定されているのだそうです。豪華でかつ緻密な装飾。他にも重要文化財に指定されているものが少なくなく、祇園祭の山鉾が、動く美術館とも呼ばれている所以です。 もう一つ、祇園祭り宵山における見どころというのが、鉾町の名家が各家に伝わる美術品を公開している「屏風祭」。家の格子を外して秘蔵している美術品、調度品などを飾り、祭り見物に来た人々に、通りから鑑賞してもらえるようにしているもので、飾られるものに屏風が多いことから「屏風祭」というように呼ばれています。町衆の流れを汲む京の名家が、鉾町の伝統を守り、文化を大事にしていきたいとの思いで、毎年続けられているもので、祇園祭宵山に合わせ、この期間にだけ公開されている見逃せない催しのひとつです。山鉾が動く美術館と言われているのに対して、この「屏風祭」は静の美術館とも言われています。 ところで、山鉾の巡行が行われるのは7/17。現在、巡行は7/17の1日だけでありますが、昔は、これを2日間に分けて行われていたのだそうです。元々は、7/17が先祭りで、7/24が後祭り。山鉾により、先祭りで巡行する鉾と、後祭りの日に巡行する鉾が決められていて、先祭りと後祭りでは、巡行するコースも違っていたのだそうです。それが、7/17に統合されることになったのは、意外と最近で、昭和41年のこと。その名残は、先祭りの鉾の後に、後祭りの鉾が続く巡行順という形で、今も継承されています。祇園祭を代表する山鉾「長刀鉾」です。稚児さんが乗り込み、常に巡行の先頭を行くということでも知られている鉾ですね。山鉾巡行の巡行順というのは、くじ引きで決められるということになっているのですが、しかし、くじ引きによらず、毎回巡行順が決められている山鉾というのも8基あります。それが"くじとらず"と呼ばれているもので「長刀鉾」は、その代表でもあります。「長刀鉾」に登りました。長刀鉾の装飾品が色々と展示されている2階の部屋から、鉾の内部に入っていけるようになっています。この「長刀鉾」もそうなのですが、ほとんどの鉾が、宵山の期間、売店でグッズを買えば、鉾に上がらせてもらうことが出来るのです。祇園囃子を奏でている様子も、間近かで見ることができました。この鉦を叩いているのは、小学生くらいの子どもたち。これも、ちょっと意外ではありました。***祭りの雰囲気に酔いしれた一日。祇園祭の山鉾というのは、全部で33基あるのですが、それぞれに、何百年という歴史といわれを持っていて、しかも、それを町の人たちが大切に守り続けてきているというのは、凄いことです。文化財としても貴重なものが数多くあり、祇園祭というのは、本当に奥が深く、色々な魅力にあふれた祭典であるということを、つくづく感じた、そんな一日でありました。
2012年07月16日
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これから、夏の暑いさかりを迎える季節。この時期になると、毎年、日本各地の神社では「夏越の祓」(なごしのはらい)という神事が行われます。この「夏越の祓」というのは、1月から6月までの半年間の穢れを祓い、残りの半年を無事に送れますようにと神に祈る神事で、これが、日本最古の宗教行事であるとも云われています。元々は、宮中の年中行事として行われていたものでありましたが、それが次第に広がっていき、今では全国の多くの神社で行われています。この「夏越の祓」の方法には、2種類あるとされていて、一つが、人形に穢れを移して、それを川などに流す方法、もうひとつが、竹の輪にカヤを巻きつけた「茅の輪」と呼ばれる大きな輪をくぐる方法です。それぞれ、神社によって、色々なやり方をされているようですが、でも、やはり「茅の輪くぐり」の方が一般的で、なじみがありますね。6月30日、家の近くにある住吉神社でも、この「夏越の祓」が行われていたので、行ってみました。本来は、地元の氏子代表だけが参加して行われる祓いの神事。でも、「良かったら入りませんか」と声をかけて頂き玉串奉納やお神酒拝受などにも、参加をさせて頂きました。そして、いよいよ「茅の輪くぐり」。8の字を描くようにして、輪の中をくぐっていきます。せっかくですから、半年間の色々なことを思い浮かべながら、願いを込めて、輪の中をくぐってきました。「夏越の祓」にちなんで食べるとされているのが「水無月」という和菓子です。三角形に切った、葛やういろの上に小豆をのせたもので、この三角形の形は氷室の氷を表していて、小豆は悪魔払いを表しているのだといいます。でも、この日に、これを食べるという習慣は、関西で主に行われているもののようですね。暑い夏を乗り越えて、残り半年間の無事を祈願する。ちょうど、半分の区切りということでもありますし、古くから日本人が続けてきている、この伝統行事は、大切にしていきたいものだと思っています。
2012年06月30日
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新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。 今年の正月は、珍しく旅先で年越しをしました。たまには、こういうのも良いかなと思い、この年末年始は、家族で岡山に出かけて、少し趣向を変えてみた次第です・・・。鷲羽山から望む、瀬戸内海と瀬戸大橋。雄大なその景色は、まさに絶景でした。宇喜多直家・秀家父子が築いた名城・岡山城(烏城)。その天主の周辺を、しばし散策しました。そして、初詣は吉備津神社へ。吉備国の一宮ということで、元旦の吉備津神社は、多くの初詣客で、賑わいをみせていました。ここの本殿・拝殿は、入母屋造りの屋根が前後に並んでいるという珍しい様式のもので、「吉備津造り」とも呼ばれ、全国で唯一この神社だけ、この形がとられているのだといいます。室町初期の社殿が、そのまま残っているということで国宝指定。「桃太郎」のモデルになったともいわれている吉備津彦命が、その祭神であります。吉備のくにで、清々しい年明けを迎えられたように思います。この一年が、穏やかな良い年となりますように!!年頭にあたり、そんなことも、お願いしてきました。このブログとも、また今年一年、よろしくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます。
2012年01月02日
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日本全国から高校生が京都に集い、都大路を駆け抜ける。年末恒例となっている「全国高校駅伝」は、毎年楽しみにして見ています。今年の大会は、女子が豊川高校、男子が世羅高校の優勝で、私、個人的には、西脇工の復活優勝を期待していたのですが、力及ばず、4位ということで残念でした。能力の高い選手が一人いるから、ということではなくて、選手全体の総合力と、たすきをつないでいくチームワークこそが、駅伝の持ち味だと思うのですが、優勝したチームには、やはり、それが備わっていたということなのでしょう。ところで、駅伝というのは、元々日本で生まれたスポーツであり、国際的にも”ekiden”という言い方で、認知されているスポーツであるとのこと。その起源になったといわれているのが、「東京遷都50周年」の記念イベントとして企画された駅伝大会で、それは、江戸時代、東海道五十三次で行われていた伝馬制からヒントを得て、この時、考え出されたものであったのだといいます。そして、これを読売新聞社が主催し、「東海道五十三次駅伝競走」と銘打って行われたのが、駅伝競技の始まりとなったのでありました。この日本で初めての駅伝大会が行われたのは、大正6年(1997年)4月のこと。東西対抗という形がとられ、関東と関西の2チームが、京都の三条大橋をスタートして、東京上野・不忍池のゴールを目指します。行程の距離は514キロで、全23区間。これを3日間かけて、昼夜を問わず走り続けるという内容だったといいますから、相当に過酷なレースだったのだろうと思われます。しかも、当時、街灯なども完備されていない頃のことですから、夜間に走ると言っても、手にカンデラを持った人々が、選手を囲んで、走路を照らして走ったといい、また、橋のかかっていない川を渡るときには、渡し船を使ったのだともいわれています。そして、その結果はというと、関東チームの圧倒的勝利。1時間20分以上の差をつけてゴールしたのだそうです。毎年、正月に行われている「箱根駅伝」も古い伝統を持った駅伝大会ですが、こちらは、この「東海道五十三次駅伝競走」の3年後に始まっているとのこと。「箱根駅伝」を実施するにあたっても、このレースが大成功を収めたことが、その開催を決定する大きな要因であったとも言われていて、いわば、この大会が「箱根駅伝」の原型になったということができます。京都・三条大橋のたもとに建つ「駅伝発祥の地」の石碑。日本初の駅伝大会のスタート地点であった、ということを記念して建てられたものです。上野の不忍池にも、これと同じ形の石碑が建てられているのだそうです。駅伝発祥の地であった京都は、今も、駅伝がさかんなところです。テレビで中継はされていないものの「全国車いす駅伝」「大文字駅伝」など毎年、多くの大会が京都で行われているようです。たすきを手に、都大路を駆け抜ける選手たち。彼らの姿には、どことなく、日本初の駅伝大会の時の面影が偲ばれるようにさえ思えます。***ところで、当ブログの日記の更新も、年内は、これで最後とさせて頂きたいと思います。一年間、この拙いブログにお付き合いを頂きまして、どうも有難うございました。振り返れば、今年は、3月の大震災という大きな試練が日本を襲った厳しい一年でありました。来る2012年こそ、素晴らしい一年になりますようにと、願ってやみません。
2011年12月25日
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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。みなさんは、新しい年を、どのように迎えられているでしょうか。せっかくの正月ですから、めいっぱい華やいだ正月を、、と、いきたいところではありますが、しかし、近頃は、正月といっても特に晴れ着を着ることも少なくなってきましたし、元旦から開いている店も多かったりと、正月らしい華やいだ雰囲気も年々なくなってきていますね。毎年、元旦には、少しだけ遠出をして、初詣に行っていたのですが、それも、今年の元旦は、家族それぞれに用事があって、地元の神社へ初詣に行ったくらいでありました。しかし、本来の正月というものを考えてみると、「年神」という神様を各家々に迎え、その年の五穀豊穣を祈願するという、古くからの民間信仰が、その元々の由来であります。農耕民にとっては、その年が豊作になって欲しいということが切なる願いであり、そのための大きな行事の一つが、「年神」を祀る行事=正月であったわけです。現代に残る正月の色々な飾り物も、本来は「年神」を家に迎えるためのもの。門松は「年神」が降臨するための依代であり、鏡餅は「年神」への供え物でありました。また、正月には、両端が細いお箸を使いますが、この箸は「 柳箸 」と呼ばれ、一方の端は人が使い、そのもう一方は「年神」が使うものとされていました。これも、「年神」とともに食事をすることにより、その加護を受けることができると考えられていたのですね。今年の正月は、家に来て頂いているであろう「年神」と過ごす。まあ、そういうと聞こえが良いですが、その実態は、ただの寝正月になっています。(笑)こんな拙いブログではありますが、今年も、よろしくお付き合い願えればと存じます。この一年が、皆様にとりましても、素晴らしい年でありますように!!
2011年01月01日
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迎春準備をするにあたっての食材購入ということでは、地域それぞれに、「台所」と呼ばれるような、市場がありますが、中でも「京の台所」と呼ばれているのが、錦市場です。その歴史は、やはり古く、平安京ができた頃から、自然発生的に、市が立っていたのだそうです。私が行った時期は、大晦日までに、まだ、一週間以上あったので、それほど、ものすごい人出というほどではなかったですが、それでも、通りを埋める多くの人で賑わっていました。お正月ならではの食材を買い求めたいと、普段は、スーパーで買い物をしていても、この時期だけは市場で買い揃えたい、と考える方もおられるのでしょうね。大晦日が近づくにつれ、さらに活況になってくるのだと思います。京都というところは、盆地であることからどちらかというと、山菜など蔬菜類を使った料理や淡水の産物を使った料理が中心。そこへ、若狭から届く「一塩もの」と呼ばれる魚介類や干物などを取り合わせた料理が、京料理の本質であったといえます。そうした中で、水に恵まれているという条件を生かして、「すぐき」や「千枚漬」などの漬け物が発達してきました。錦市場には、京野菜の専門店もあります。「九条ねぎ」や「聖護院かぶ」などは、一般的にも有名ですが、この店には、「鹿ケ谷かぼちゃ」や「堀川ごぼう」など、珍しい京野菜も色々と並べられていました。新鮮な、地元ならではの特産品が豊富に並ぶというのが、やはり、市場の魅力なのでしょうね。 と、ここまで、あまり柄にもない話を書いてきて・・このところ、私の日記には、京都に関連する記事が多いと、お気づきの方も多いかもしれませんが、それは、今月、京都検定(2級)を受検したということがあり、京都について、色々な勉強をしていたためであります。京都検定というのは、京都の歴史、文化、祭り、芸能、生活、など、京都に関する事柄全般が出題対象になっていて、京料理や京野菜、京菓子などの問題も出てきます。京都通であることを認定する試験といったものでありますが、その合格者に与えられる特典が魅力で受けたようなものです。合格できたかどうかは別としても、こうした勉強をしている時は、とても楽しく、結構、夢中になってやっておりました。この一年を振り返った時、仕事の上では、厳しいことも多く、とても忙しくもあり、辛い一年ではありましたが、その反面、楽しいことも色々とありました。京都検定に挑戦できたということも、一つの達成感になっています。来年は、どんな年になるのでしょう。皆様にとっても、良い年になればいいですね。また来年も、当ブログと宜しくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます。
2010年12月26日
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今年も押し迫ってきましたね。京都における、年末の風物詩といえば、その一つが、四条南座の顔見世興行です。東西の歌舞伎の名優たちが一同に揃って、その演目を競う、まさに、歌舞伎のオールスター。今年は、市川海老蔵が事件を起こして降板したことでも、大きく取り上げられましたね。南座の正面に掲げられているのが、独特の筆太の文字で役者の名前が書かれた看板。この看板のことを”まねき”といいますが、この”まねき”が南座に掲げられる風景は、まさに、京の町の師走の風情を感じさせてくれます。歌舞伎というのは、そもそも、京都がその発祥の地。南座の横には、「阿国歌舞伎発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。歌舞伎の創始者であると云われているのが、出雲の阿国です。阿国は、安土桃山時代に、出雲大社の巫女というふれこみで、忽然と京の町に現われ、斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」により、一世を風靡しました。当時、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸した行動に走る者たちのことを「かぶき者」と言いましたが、阿国が男装し、茶屋遊びに通う「かぶき者」を演じた芝居が、京都で大変な人気を集め、やがて、それが江戸へと広まっていったのでした。四条大橋の河畔に建てられている「出雲の阿国像」です。阿国一座が評判になると、やがて、これを真似た芝居が他にも盛んに演じられるようになり、遊女が演じる「遊女歌舞伎」や、少年の役者が演じる「若衆歌舞伎」が生まれてきます。しかし、江戸時代には、風紀を乱すとの理由から、これらの歌舞伎が幕府によって禁止され、そうしたことから、今度は、成人男子だけで演じる「野郎歌舞伎」へと変遷していきました。そうして、この「野郎歌舞伎」が、現代につながる歌舞伎のスタイルへとなっていったわけです。江戸時代には、京都にも、今の南座の周辺に7つの芝居小屋があったそうです。歌舞伎は、庶民にとっても年に一度の楽しみ、といえるくらいに、ちょっと贅沢な娯楽として、人気を集めていました。また、当時の、役者と芝居小屋との関係は、1年間の出演契約という形になっていて、その期間が、旧暦で11月から翌年の10月までであったのだそうです。つまり、役者の顔ぶれが、毎年11月に新しく変わることになり、そこで、その新しくなった役者の顔ぶれを”まねき”として正面に掲げ、役者たちが、観客に挨拶の口上を述べるというのが、本来の顔見世興行であったのです。現在の顔見世興行は、この頃の形式を踏襲しているわけですね。そうは言っても、私も、実際に、歌舞伎を見に行ったことがありません。これまで、あまり意識をすることがなかったものの、歌舞伎というのは、外国から見れば、興味津々の日本文化であるのだろうと思いますし、日本が、世界に誇れる伝統芸能の一つであるのだと思います。顔見世の”まねき”を見て、年末風情を味わうだけではなく、一度、本物の歌舞伎を見てみたいものだと、最近、思っています。
2010年12月18日
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今年も残すところ、あとわずか・・・私の家では、毎年、大晦日の日の夜は、家族で紅白を見て、そのあと、ゆく年くる年で除夜の鐘を聞きながら、年越しをするのが恒例となっています。澄んだ鐘の音が、深夜の静けさの中しみわたるように鳴り響くこの瞬間が私は好きで、いかにも日本らしく、これを聞いて、年が変わるんだなあと、改めて感慨にふけったりしています。鐘の音を聞きながら、静かに年を越すという風習は、どうやら日本だけのもののようで、欧米などでは、人々が集まって、音楽を奏で、花火を打ち上げて新年を迎えるというスタイルが一般的です。また、中国圏では旧暦の正月が中心なので、新暦の大晦日には、これといった行事もなく、普通の日と変わらないのだとか。本来、仏教では、煩悩を取り除き、解脱の境地に達するために、日々修行が重ねられているものが、除夜の鐘に限っては、厳しい修行を積んでいない一般庶民にも煩悩を祓う力があると信じられるようになり、それが、除夜の鐘の儀式となって現在まで続いているもののようです。煩悩や悩みとのたたかいこそが、人生なのかも知れませんね。振り返れば、この一年。仕事の方では、世間並みに不況の影響を大きく受け、とても、つらい一年でありました。しかし、その反面、歴史を通じたつながりから、色々な人たちとの出会いがあり、充実した一年であったともいえます。皆さんは、今年、どんな一年だったでしょうか。ゆく年に嫌なことは忘れ、くる年が良い年でありますよう願いをこめて。また、来年も、当ブログとよろしくお付き合い頂きますよう、お願い申し上げます。
2009年12月29日
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前回のこよみの話の続きのようなものでもありますが、明治の改暦、旧暦から新暦へ移行の時の裏話を少し。明治維新以降、明治政府は、欧米の文化や制度を取り入れることに懸命で、なんとか、日本が近代国家として認められるようになろうと、必死になっていました。暦の改定も、欧米の文化を相次いで取り入れていく施策の一環として、採用されたもので、何より、欧米諸国と様々なやりとりをする中で日時が違うというのは、何かと不都合があったためでありました。改暦が実施されたのは、明治6年(1873年)からで、太陽暦である「グレゴリオ暦」に変更されることになりました。しかし、実際に、明治政府が行った、この旧暦から新暦への移行については、意外なほどに、乱暴で、強引なやり方であったようです。明治5年 11月9日明治政府は、突然、改暦の詔書を発布。「来る12月3日をもって、明治6年1月1日とし太陽暦を実施する」との発表を行いました。この年の11月は、小の月だったので29日までで、発表から実施までの期間は22日しかなく、しかも、明治5年の12月は、2日で打ち切られてしまうということになります。日本国中、まったく寝耳に水の急な話で、それでもなお、明治政府は、強引に太陽暦に変えてしまおうとしたのです。何故にこうまでして、明治政府が改暦を急いだのか。その本当の理由は、当時の明治政府の極端な財政難にあったようです。時の明治政府の中心人物は、というと大隈重信。ちょうど、岩倉使節団として大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など政府首脳が長期出張中で、残された留守政府が政務を取り仕切っていた頃でした。大隈が改暦を強引に断行した理由とは、官員の給与支払い圧縮を狙ったものだったのです。つまり、明治5年の12月は、2日しかないので給与の支払い無し。又、翌年も、旧暦のままでいくと閏月がおかれる予定になっていたので、新暦になれば、一ヶ月少なくて済む。都合、2ヶ月分の給与支払いを減額したいというのが、改暦を急いだ理由だったのです。ただ、このために、日本全国は慌てふためき、てんやわんやの大騒ぎとなりました。事前の告知や啓蒙活動なども何もなく、いきなりの改暦であったのです。ところが、この時、啓蒙の役割を買って出たのが福沢諭吉でありました。福沢は、「改暦弁」という太陽暦をわかりやすく解説した小冊子を一晩で書き上げたといい、この冊子が刊行されるや、これが、飛ぶように売れて大ベストセラーになったそうです。もっとも、さすがに明治政府も、この混乱ぶりを見て、当面、政府編纂の官暦には、新暦と旧暦を併記するという形にしたそうですが・・・。日本人は順応性が高いとは、よきにつけ悪しきにつけ、良く言われることですが、明治維新の時の対応力の高さというのは、日本人ならではのものではないかと思いますね。
2009年11月20日
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来年のカレンダーが店先に並べられているのを見ると、今年も、いよいよ終わりに近づいてきたな、という感じがしてきます。我々が、普段、何気なく見ているカレンダーですが、昔の人は、今とは違う暦(こよみ)を見ていました。江戸時代以前の暦は、旧暦と呼ばれているものですね。日本では、6世紀頃、百済から中国の暦法が伝わったといわれていて、その後も、長い間、中国の暦法を基準として暦が編纂されていたようです。江戸時代になってからは、日本式の暦法が確立されてきて、数々の暦が作られるようになりました。そこで今回は、そうした暦の成り立ちについて、少し触れてみたいと思います。暦のなかった頃。太古の人々は、どのようにして、年月や季節を把握していたかというと、自然から、それを判断していました。例えば、花の開花時期。こぶしや桜の花が咲いたことを農作業の目印にしていたり、又、つばめ等、ある時期に決まって姿を見せる鳥や獣を季節の目安にしていたようです。他には、残雪の残り具合。あの山の雪が馬の形になったら種を蒔く、といった経験からくる生活の智恵ですね。これらは「自然暦」と呼ばれているものです。しかし、これらは、あくまでも、その地域限定のものであって、どこでも通用するというわけにはいきません。そこで考えられたのが、月を基準にした暦でありました。これなら、広い範囲の人が共有できる時の概念となり得ます。古代、中国では、月を観察することで、月というものは、新月~満月~晦日と周期を持って満ち欠けが繰り返されるということが、知られるようになり、これを元にして暦法が考え出されていきました。「太陰暦」と呼ばれるものです。しかし、やがて、そのうちに、これだけでは季節と暦がずれていく、ということがわかってきて、不便であるということになってきました。「太陰暦」において季節と暦のずれが発生するのは、季節は地球が太陽の周りを回ることにより変化していくのに対して、月の満ち欠けを中心に暦を作ると、地球が太陽の周りを回る周期と一致しないためです。地球は太陽の周りを、約365日で一周しますが、月の満ち欠けの周期は、一周期を1ヶ月、12ヶ月で一年とした場合、その一年は365日より短いので、年を追うごとにそのずれが広がっていってしまいます。昔の人は、そこまではわからなかったでしょうが、暦の日と季節がずれていくことには、気付いていました。そして、「太陰暦」に季節感を加味して工夫・改良が進められていき、「太陰太陽暦」と呼ばれるものが考案されました。日本で、一般に旧暦と呼ばれているのは、この「太陰太陽暦」のことになります。しかし、この旧暦は、現在の暦から考えると、複雑で、わかりにくいものでありました。その一つが、閏(うるう)月。どうしても、月と実際の季節がずれてくるため、2年9ヶ月に一回ほどの割合で、閏月が設定されていました。それともう一つが、大の月と小の月。今の暦のように、何月が何日あるかは一定ではありませんでした。これは、月の満ち欠けの周期というのが、正確に言えば、これも一定ではなく、季節により長さが違うので、それに合わせるためでありました。従って、来年は閏月があるのか、大の月・小の月がどうなるのか、人々は、毎年暦を買わないと、それが分からなかったのです。今の暦(太陽暦)が、4年に1回うるうの日を加えるだけで、誤差が解消できることから考えると、旧暦は、煩雑であり、合理性に欠けたものであったと云えますね。そして、それが、明治維新後(明治6年)現在のような太陽暦に改定されて、現在に至ります。このように少々煩雑な旧暦ではありますが、古来から、日本人が使ってきたものであり、古くから、日本文化の素地にあったものであると言うことが出来ます。江戸時代以前の文芸や書物は、当然、この旧暦が使われていましたし、今でも、古くからの祭礼行事は、多くが旧暦で行われています。お月見や節句などの年中行事もそうですね。そうした意味では、旧暦を意識し、旧暦に親しむことは、当時の日本人の生活感に直接触れることが出来る、絶好のアプローチなのではないかと思います。ちなみに、今日11月14日は、旧暦(天保暦)では9月28日。たまには、旧暦の暦を見て、昔人(むかしびと)に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。
2009年11月14日
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いよいよ、スキーシーズン到来。独身の頃は、年に3~4回程度はスキーに出かけていたのですが、結婚してからは、とんとご無沙汰。一昨年、何年かぶりに、スキーをしたのですが、何とか滑れはしたものの、膝は痛いし、太ももがパンパンになるなど、日頃の運動不足を思い知らされた次第。でも、この時期になると不思議なものでまた、スキーに行きたくなってきます。ところで、日本で初めてスキーが行われたのは明治時代でありましたが、それを導入したのが、長岡外史という人でした。長岡外史は、陸軍士官学校・陸軍大学をともに第一期生として卒業したというエリート軍人。日清戦争では、大島旅団の参謀として、平壌攻撃作戦に参加し、日露戦争では、山県有朋のもとで大本営に所属しました。参謀本部次長として、東京から203高地の砲撃作戦を指揮し、その後は、各地の師団長を歴任しました。また、退役後には、飛行倶楽部の理事長を務めるなど、日本の飛行機普及に携わったことでも知られています。日清戦争で大島旅団の参謀を勤めていた時、二宮忠八が飛行機製作の提案をしてきたのを却下したことがあり、後年、そのことを忠八に謝罪したという逸話も残っています。そうした、長岡外史の事跡のもう一つの側面が、日本で初めてのスキー導入でありました。明治43年(1910年)長岡外史は、越後高田第13師団に師団長として就任しました。当時、この師団には、軍事研究将校として、オーストリアからテオドル・フォン・レルヒ少佐が赴任してきており、レルヒがオーストリアのスキーの達人であったことから、長岡は、レルヒを教官として、スキーの研究を始めることを思い立ちます。長岡は、青年士官を集めてスキー班を作り10人の陸軍将校たちに、レルヒのもとスキーの講習を受けさせました。1カ月間に渡るレルヒの指導の結果、彼らはスキー術を完璧にマスターしたといいます。 さらに、長岡はスキーを軍事行動としてだけでなく、国民体育の発展のため、一般にも普及させようと考えました。長岡は、レルヒに一般へのスキーの指導も要請し、これを快く受けたレルヒは、軍人だけでなく民間人にもスキーを教えました。この受講生たちが、日本各地に散らばっていき、やがて、日本にスキーが急速に広まっていくこととなったのです。レルヒがスキー場として選んだのが越後高田の金谷山。この山頂には、現在も、「大日本スキー発祥の地」の記念碑が建てられていて、毎年2月には、「レルヒ祭り」と称した催しが行われているとのこと。長岡外史とレルヒ少佐。まさに、この2人の取り組みが、日本にスキーが普及していく礎となったのです。
2009年01月09日
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「泣く子はいねが・・・」と、鬼のようないでたちで、各家をまわる「なまはげ」。東北、秋田地方に伝わる、有名な大晦日の行事です。子供たちは、身をひそませて、恐ろしい「なまはげ」が立ち去るのを待っていますが、見つけ出されたら、どこかへ連れていかれてしまう・・・。「なまはげ」とは、生身をはぐということが語源であると言われていて、火ダコができるまで囲炉裏にあたって、怠けている子を戒めることから、そう呼ばれたもの。秋田のものが有名ですが、秋田ばかりでなく、東北の日本海側から北陸にかけて、同じような風習が広く行われていて、地域により呼び名も違うようです。民俗学の研究によると「なまはげ」とは、普段、遠いところに住んでいて、新年の時期にだけ訪れてくる来訪神であるとのこと。あんな恐ろしい姿をしてはいますが、本来「なまはげ」とは、新年を迎えるにあたって、火ダコのような穢れを取り除いてくれる、有難い神さまなのですね。新しい年を迎えるにあたり、心機一転という気持ちは、きっと、昔も今も変わらないのでしょう。皆さんにとって、この一年は、どんな年でしたか。また、来たる年はどんな年になるのでしょう。どうか、良い年になればいいですね。このブログも、今年は今日が最終です。当ブログにアクセス頂いた方、コメントを寄せて頂いた方、今年一年、有難うございました。来年も、また、よろしくお願い申し上げます。
2008年12月28日
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今年は、9月14日が十五夜。中秋の名月です。秋の夜長に満月をめでる、月見の風習。空気が澄んだこの時期には、月の光も鮮やかで、月見がずっと、この時期に行われてきたことも頷けます。秋の月見は、「中秋の名月」「十五夜」等と呼ばれていますが、これは、旧暦の8月15日の夜に月見の宴が行われてきたことに由来します。旧暦の8月は、今で言えば、だいたい9月頃。旧暦では、7月、8月、9月が秋にあたるので、現代の太陽暦の、月と季節の関係から言えば、旧暦の方が、一ヶ月早く季節がめぐってくるような感じです。「中秋」という言葉も、秋のちょうど真ん中にあたる日という意味で、これも、旧暦の8月15日を指しているんですね。こうした、秋に月見をするという日本の風習は、・中国伝来の観月行事が、貴族の間で広まっていったもの。・日本古来の満月信仰から、収穫を祈る農耕儀礼として定着したもの。この2つの流れがあり、両者が融合して、今日に至っているものであるようです。貴族の間では、9世紀末から10世紀初頭にかけて、中秋の名月にかかわる行事が中国より伝来し、平安時代以降、宮中や貴族社会で観月の宴が盛んに催されていたようです。風流を尊ぶ季節の象徴として行われてきた行事だったんですね。それが、江戸時代頃には、都市部を中心に「月見」が一般庶民へと広まっていきました。一方、農村では、古くから満月を拝する信仰がありました。満月は豊饒のシンボルであり、月光には神霊が宿っているとも信じられていました。それが、やがて、収穫物を月に供えて収穫を祈る風習につながっていきました。十五夜の月が冴えると、麦が豊作になるという伝承があり、ススキや芋を供えて、収穫を祈願する行事になっていったのです。現在、月見において、月見団子を供えるのも、芋を供えた風習の名残であると言われています。農村では、月をめでることよりも、収穫を祈願する農耕儀礼として行われてきたんですね。月見とは、こうした、日本古来の月を祭る信仰と外来の行事が習合することで、日本的な風習として行われてきたものであったのです。9月15日の関西地区の予報は、曇りから晴れ。晴れた夜空で、月見が出来たらいいですね。
2008年09月13日
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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。みなさんは、新しい年を、どのように迎えられたでしょうか。正月の縁起物といえば、七福神が一般的ですが、年初一回目の話題は、七福神の由来について。七福神とは、ご存知恵比寿・大黒天・弁才天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人の七神。この絵を枕の下に入れて寝ると、良い初夢が見られる等、おめでたい存在として、広く親しまれている神々です。この、七福神信仰が広まったのは室町時代の頃といわれ、この頃から、珊瑚・金銀などが積み込まれた宝船に、七福神が乗った絵を、正月2日の夜に枕の下に入れて寝ると、良い初夢を見ることができると信じられるようになりました。しかし、この七福神。実は、その出身地はバラバラで、インド・中国・日本の神々が寄せ集められたものでありました。神仏習合という、とても日本的な成り立ちによって生み出された、神々の集合体であると言う事ができます。<恵比寿(日本)>七福神の中では、唯一の日本出身の神。烏帽子をかぶって、釣竿を担ぎ、鯛を脇に抱えた姿で親しまれています。漁師の間では、大漁をもたらす神。商人にとっては、商売繁盛の神。農村では、豊作をもたらす田の神であり、また、台所でのかまどの神として、広く信仰を集めています。<大黒天(インド)>日本神話に登場する大国主命と同一視されたこともあって、民衆から高い人気を得ています。頭巾をかぶり、福袋を背負い、手に小槌を持って、俵の上に座っています。恵比寿と同じく、商売繁盛の神田の神、かまどの神として信仰されました。<弁才天(インド)>七福神の中の紅一点で、琵琶を手にもっています。音楽・学芸の神。又、弁財天の字が当てられて、蓄財の神としても親しまれています。<毘沙門天(インド)>戦いの神様。もとはヒンズー教の神であったのが、仏教に取り入れられて多聞天と呼ばれました。上杉謙信が篤く信仰していたことでも知られています。<布袋(中国)>実在したといわれている中国の高僧です。大きなお腹と、手に持った布袋が特徴的。招福の神様として信仰を集めています。<福禄寿(中国)>頭が長く、体が短い、アンバランスな体型が特徴。福禄寿(幸福と富と長寿)を授ける神。<寿老人(中国)>杖に巻物をつけ、鹿を連れています。長寿をもたらすと言われている神様です。まあ、宗教として考えると、なんとも多国籍。日本人は、宗教におおらかなのか、柔軟性に優れているというべきか。しかし、この事は、日本が他国に宗教を押し付けられたことがない、平和な、恵まれた歴史を持つ国であるという事を示しているのかも知れません。今年も、平和で穏やかな一年でありますように。
2008年01月01日
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「お正月」 作詞 東くめ 作曲 滝廉太郎 もういくつねると お正月 お正月には たこあげて こまをまわして あそびましょ 早くこいこい お正月 もういくつねると お正月 お正月には まりついて 追いばねついて あそびましょ 早くこいこい お正月 今年も残すところ、あとわずか。押し迫ってきましたねぇ。私も子どもの頃には、それこそ、この歌のように、指折り数るようにして、お正月がくるのを楽しみにしていました。華やかな雰囲気、晴れがましい気分、日常とは違うぜいたく、まさに、早くこいこい、とばかりに、お正月を待ち望んでいたものでした。しかし、大人になったからなのか、時代の変化なのか、お正月といっても、今では、特に楽しみにする事もなくなっています。最近では、この「お正月」の歌詞のように、たこあげや、はねつきをして遊ぶ子どもの姿も、あまり見かける事もありません。お正月で何が一番楽しみか、と、うちの子に聞いて見たところ、「お年玉がもらえること」と現金な答えが返ってきました。子どもたちにとっての、お正月も変わってきているのでしょう。私の父が子どもの頃のお正月は、といえば、普段は食べられない、お頭付きの魚が食べられることが楽しみだったとか。貧しい中でも、ささやかなぜいたく、それがお正月だったのでしょう。それからすると、今はまるで、毎日がお正月みたいなもの。お正月の有難みがなくなってきているわけです。ところで、この童謡「お正月」は、明治34年(1901年)に『幼稚園唱歌』の中の一曲として発表された歌でした。作詞が童謡作詞家の東くめで、作曲は滝廉太郎。この歌が、滝廉太郎の作曲とは、少し意外な感じがしますが、そもそも、この歌が作られるに至るいきさつは、東くめの夫の発案によるものでありました。くめの夫は、東基吉と言い、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)に務める教育学者。くめは、幼児教育の改革を提唱していた夫の基吉から、"子どもにわかるやさしい歌、子どもが喜んで歌う歌”を作るように薦められ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)の後輩であった滝廉太郎に相談しました。廉太郎もくめから聞いたこの話に賛同し、東・滝のコンビで何曲かの童謡が作られることとなりました。その中の一曲が「お正月」だったのです。『幼稚園唱歌』には「お正月」の他にも、「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」など、今なお歌われている童謡が収録されています。そして、これらは、日本で初めて作られた、口語体の童謡作品でもありました。「お正月」の歌詞は、まさに、東くめが、子どもたちの遊んでいるさまを、ほほえましく見ていた、そんな、ある日の正月風景だったのでしょう。今年も、あとわずか・・・この一年、当ブログにアクセスして下さった方、コメントを書き込んで下さった方、有難うございました。思えば、今年は、ブログを通じて色々な方と出会う事もできました。それは、去年、このブログを始めた時には、想像もしていなかった展開でもありました。でも、おかげで、非常に充実した一年を送る事ができたと思っております。今年出会って下さった方々には、感謝しております。来年も、また、皆様方からパワーを頂いて、地道に、このブログを続けていきたいと思っております。来年も宜しくお願い申し上げます。それでは、みなさん、良い年をお迎えください。
2007年12月29日
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もうすぐ、クリスマス・・・。街の至るところで、クリスマスツリーが飾られ、店には、BGMにクリスマスソングが流れています。一年のうちで、最もきらびやかな雰囲気に包まれるクリスマス。今や、すっかり日本の年中行事ですね。ところで、「クリスマス」という言葉は、俳句の季語にもなっていますが、これを季語として、初めて俳句に取り入れたのは、正岡子規であったといわれています。 クリスマスの 小き会堂の あはれなる正岡子規(1867年~1902年)は、明治の俳人・歌人。優れた俳句・和歌を数多く残し、中でも、写実を重んじた子規の俳句は、新たな詩情を開拓したとものとして評価されています。その一方、子規は古歌の収集・分類・評価を徹底的に行い、俳句・和歌の改革を訴えました。子規の本質は、歌人というよりも、俳句・和歌の研究者であったといえるのかも知れません。彼の残した作品は、そうした研究が基盤となって生み出されたものでもありました。結核を患い、34才でその短い生涯を終えた正岡子規。限られた時間の中で、病と闘いながらも、振りしぼるようにして、続けられた研究・著作活動でありました。しかし、病床にありながらも、子規は自分の運命を受け入れ、自己を客観視する目を持ち続けました。正岡子規という人は、好奇心が旺盛だったようで、ハイカラで新しいもの好きでもありました。そうした事もあって、当時定着し始めたクリスマスを祝うという習慣を、いち早く俳句に取り入れたのかも知れません。 八人の 子供むつまじ クリスマス子だくさんの家の、にぎやかなクリスマスの風景が目に浮かんでくるような句です。しかし、子規自身が実際にどのようなクリスマスを過ごしていたかについて、記録は残されていないようです。子規の家庭は、年老いた母と妹との、東京での3人暮らしでありました。そんな子規ではありましたが、クリスマスに対して、一家団欒の楽しさを感じ取っていたのではないでしょうか。今年の、クリスマスイブはちょうど休日。私のうちは、例年通り、ケーキを焼いて、シャンパンを用意しての家族パーティーです。皆さんは、誰とどんなクリスマスを予定されているでしょうか。
2007年12月22日
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秋もすっかり深まってきました。いよいよ、紅葉のシーズン。関西地方は、まだ見ごろというところまでいってませんが、でも、徐々に色づいてきているようです。この時期、一度は紅葉狩りに出掛けたい、と思いながらも、最近、数年は行っていません。今年は、どうかな・・・。もう少し、色づいたら行ってみたいな。ところで、紅葉というと、今では、赤く染まったもみじや楓が一般的ですが、遠く、古代では、違っていたようです。奈良時代の頃は、野山が色付く情景を「黄葉」と書いて「もみち」と清音で呼ばれていたとか。どちらかというと、イチョウやブナなどの落葉樹、黄色く色づく木の方が、むしろ、注目されていて、そうしたことから、「黄葉」と表現されていたようです。『万葉集』でも、「紅葉」という表現はほとんど登場することがなく、「黄葉」が主流になっていました。例えば、こんな歌。 秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも 柿本人麻呂 故郷の 初黄葉を 手折り持ち 今日ぞ我が来し 見ぬ人のため 詠み人知らずこのように、奈良時代の前後、「黄葉」が一般的であったのは、黄色を高貴な色として尊重していた、中国の影響であったともいわれています。それが、「黄葉」から「紅葉」へと変わっていったのは平安時代の中頃であったようです。国風文化が栄え、屋敷には庭が造られるようになり、そうした中で、赤く色づく楓などの木が、庭に植えられるようになりました。そうしたなかで、黄色く色づく木々より、赤く色づく木の方が注目されるようになり、やがて、晩秋の木々が色づくさまが「紅葉」と記され、「もみじ」と呼ばれるようになっていきました。晩秋、青い葉が紅く色づいていくさまが、脚光を浴びるようになっていったのです。「紅葉」を愛でるというのは、やはり、日本で生まれた文化なんですね。和歌でも『古今和歌集』になると、「紅葉」という表現が数多く登場するようになります。 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき 猿丸大夫 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに 菅家(菅原道真)このように、紅葉のことを、錦にたとえているのは、絶妙の表現だと思います。こんな歌もあります。 嵐吹く 三室の山の 紅葉葉は竜田の川の 錦なりけり 能因法師 『後拾遺集』紅葉が山々を彩るさまは、まさに、絢爛で、秋、自然が織りなす日本の絶景であるといえるでしょう。今年、みなさんは、どんな、秋を満喫されているでしょうか。
2007年11月10日
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旧暦の七月を「文月」といいますが、その由来は、詩歌を記した短冊や書物を夜空の星に奉じるという風習が、旧暦七月に行われていて、そこから「文月」と呼ばれるようになったそうです。七夕飾りの原型といえるでしょう。我が家でも、毎年、七夕には、各自が願い事を短冊に書き七夕飾りの笹に結びつけています。でも、私は願い事が多すぎるためか、いつも短冊を書くのが遅く、七夕が終わってからやっと書いていることも、しばしば。これでは、いくら願い事を書いても、聞いてもらえないのかも知れませんね・・・。ところで、七夕とは。五節気の一つで、中国から伝わった風習が、日本古来の祖霊を祀る民間信仰と融合したもののようです。古来、中国では、女性が針の穴に美しい色の糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈るという風習がありました。さらに、この日に書物を虫干しにする風習もあったようです。一方、日本で行われていた民間信仰は、豊作を祖霊に祈り、その時に、笹を精霊が宿る依代として用いていました。それらが、融合して、奈良時代には節気の行事として、宮中で行われるようになったという事のようです。そこへ、七月七日の一日だけ会うことが許されたという、織姫・彦星の伝説が重なり、七夕祭りの風習が出来上がっていきました。古代からこの日は、祈りを捧げる特別な日として親しまれてきたのでしょう。あくせくして、毎日を過ごしておられる、みなさんも、七夕の夜くらいは、ゆっくりと夜空をながめて、星に願いを託してみては、いかがでしょうか。
2007年07月06日
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。みなさん、新しい年を、どのように迎えられたでしょうか。正月の楽しみかたには、色々ありますが、「百人一首かるた」も正月の楽しみの一つだと思います。それぞれが、自分の好きな歌・得意の札を持っていたりして、その得意な札を、相手に取られた時の悔しいこと・・。秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔私の得意の札です。しかし、何故この歌が得意の札になったのか・・それは、よくわかりません。私も、学生時代には、百首すべてを諳んじていたんですが、年月は色々なものを忘れさせてくれます。今はとても、すぐに下の句が出てこなくなりました。百人一首は、ご存知のとおり、鎌倉時代初期の歌人・藤原定家が撰んだ歌集です。代々の勅撰和歌集から1歌人1首、計100首を撰んだもの。京都・小倉山に定家の山荘があったため、小倉百人一首と呼ばれています。南北朝から室町時代にかけては、和歌を学ぶ人の入門書として、よく利用されていたといいます。江戸時代には、ポルトガルから伝わっていたカルタと結びつき、やがて「百人一首かるた」として庶民の間にまで広まっていきました。今や、かるたとして、定着している百人一首ですが、藤原定家がこの百首を撰んだ経緯・選択基準については、残された資料が少ないため、その成立については謎に包まれている部分が多いようです。1番の天智天皇から100番の順徳院までの並び順。基本的には、時代順に並べられていますが、この順番も、各歌人の人間関係や逸話にまで細かく心を配って、撰歌・配列されているといいます。100首の歌の内容としては、恋の歌が最も多く、約半数を占め、中でも、忍ぶ恋が定家の好みであった事が伺われます。百人一首が編まれた時代背景は、源平合戦が行われ、貴族から武士に政権が移っていく、激動の時代でありました。おそらく定家は、平安文化の終末を惜しみながらも、その輝きを後世に伝えておこうとしたのではないでしょうか。百人一首には、歴史上の有名人が数多く登場し、その歌や歌人にまつわるエピソードも、多く残されています。百人一首は面白いものだと思います。
2007年01月01日
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今年も押し迫ってきました。残すところあと数日で、平成18年も暮れようとしています。年末の慌しさの中で、大掃除を終えて、正月の飾りつけをする、このひと時が何故か私は好きです。門松や鏡餅(小家族用のミニサイズですが)を並べ、花瓶に新年用の花を活けたりとか・・いよいよ、新年を迎えるという改まった気分が湧いてきて、かすかに、楽しみにひたったりしています。そもそも、正月というのは、「年神」の来臨を乞い、その年の五穀豊穣を祈願するという、古代から続けられてきた民間信仰でありました。家々では、毎年年末になると、「年神」を迎える準備をして新年の到来を待ちました。現代に残る正月の色々な飾り物は、元々は「年神」を迎えるためのものだったのです。門松は「年神」が降臨するための依代であり、鏡餅は「年神」への供え物でありました。しめ飾りは、聖俗を分けるしめ縄で、豊作を願いそれに橙や海老等を飾りつけたものです。農耕民にとっては、その年が豊作になって欲しいというのが、死活問題であり、切なる願いでありました。それが「年神」を祀る行事となっていったのが、正月であるという事ができます。私も、五穀豊穣ではないですが、家内安全や商売繁盛を願いつつ、新年を迎えたいと思います。今年一年、当ブログにアクセスして頂いた方々、一年間、ありがとうございました。相変らず、マイペースなブログ掲載を続けておりますが、来年もよろしくお願い致します。
2006年12月29日
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明日はクリスマスイブ。ということで、クリスマスのお話を少し。日本で、いつ頃からクリスマスが行われたかと言うと、記録には残っていませんが、おそらく、フランシスコ・ザビエルが来日した時にクリスマスを祝ったものと思われます。ザビエルが日本にやってきたのは1549年( 天文18年)。およそ、450年前のことです。日本でクリスマスが祝われた最も古い記録は、1552年(天文21年)に、山口で祝われたクリスマスのようです。ザビエルのあとを受け、山口で布教活動をしていたイエズス宣教師トルレスが、日本人信徒を招いて「クリスマス・ミサ」を催したという記録が残っています。当時の山口の大名、大内義隆はキリスト教の布教を公認しており、寺院の敷地内に教会が建設されていました。その教会で、数回に渡りミサが開かれ、訓話や合唱、食事の振舞いなどを行い、教会に入れないほどの信者で賑わったといいます。その後も、イエズス会の熱心な布教活動があり、キリスト教信者は増え続け、各地にキリスト教が広まっていきました。この頃は、クリスマスという呼び方ではなくて、ラテン語のナタル(誕生)という言葉から「ナタラのまつり」と呼ばれていました。又、クリスマスは、お祭り騒ぎをするのではなく、キリストの生誕を静粛に祝って、クリスマスの礼拝を行う日でした。戦国時代には、キリシタン大名同士の合戦において「クリスマス休戦」が行われたという記録もあります。 1568年(永禄16年)堺付近で、三好三人衆と松永久秀の軍勢が合戦を行っていました。その最中、イエズス会の司祭、ルイス・フロイスが、両陣営にクリスマスの休戦を呼びかけ、クリスマスの夜、彼ら約70人が、同じ1つの場所に集まってミサをささげたといいます。フロイスの記述によれば、武士たちは、「自分たちがどれほど仲が良く、互いに愛し合っているかを異教徒たちに示そう」と言い、敵同士にもかかわらず、家から料理を持ち寄ってもてなし合ったそうです。又、この時、クリスマスの装飾などを見に来た群集があまりに多く、扉が壊れそうだった、とも記しています。しかし、その後、秀吉の伴天連追放令、徳川のキリシタン弾圧、鎖国と徹底したキリスト教抑圧政策が続き、根づきかけた日本のキリスト教信仰は、跡形もないほどに消え失せました。明治維新でキリスト教信仰が解禁され、明治・大正・昭和にかけて、クリスマスは一般化し、今は、年中行事のひとつになっています。今の日本のクリスマスには、室町・戦国の頃のキリスト教信仰の伝統は残されていません。キリスト教信者でもないのに、なぜクリスマス、ということもありますが、外国の文化を簡単に取り込み、すぐに吸収してしまうのは日本人の特性です。クリスマスの飾りつけをして楽しみ、プレゼントを交換する、本来のクリスマスとは、少し違うかもしれませんが、今や、現代日本文化の一つとして、融けこんでいるのだと思います。
2006年12月23日
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春爛漫、桜前線も北上し花見の季節になりました。花吹雪の下で酒肴を広げて桜の花をめでる。四季それぞれの趣きをを味わえる日本、日本人に生まれて良かったと思える一時です。華やかに咲いてすぐに散る桜、日本人は桜の好きな国民だと言われています。 平安時代には、貴族達が酒や肴を携えて花を愛で歌を詠みました。しかしその花とは桜ではなく梅や桃でした。現在のようなスタイルで花見が行われたのは、豊臣秀吉の催した「醍醐の花見」が始まりだといわれています。 「醍醐の花見」を行うにあたって秀吉は近隣諸国から桜700本を移植したと伝えられ、醍醐の山々を舞台に盛大な宴が開かれました。秀吉が北政所や淀殿、その子・秀頼を引き連れて開いたその宴では、女房衆が秀吉の何番目の側室かと言うことで言い争いがあり「醍醐の花見の盃争い」として庶民の噂にもなったほどでした。秀吉はその5ヶ月後に他界。これが最後の花見となり、そのことで余計に花見が一般に広がったのかもしれません。秀吉から日本人の桜好きが始まったといえるでしょう。 しかし「醍醐の花見」の頃の桜は枝垂桜など山桜が中心でした。現在、桜の花として一般的になっているソメイヨシノはこの当時にはありませんでした。ソメイヨシノは江戸末期に登場した新参の桜です。江戸の植木職人がエドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせて作った雑種といわれています。その後、染井村(現在の東京都豊島区)の植木商が接ぎ木で増やして販売し全国に浸透していきました。 ソメイヨシノが日本全国の広い範囲に広まったのは、日露戦争の勝利を受けた祝賀行事に始まります。日露戦後、戦勝記念としてソメイヨシノが日本各地で植樹されました。その後も天皇の即位、皇太子誕生といった歴史の節目のたびに各地でソメイヨシノが植えられています。今では桜・花見といえばほとんどがソメイヨシノ、開花予想の対象の木でもある代表的な桜になっています。 一年のうちで今しか見れない桜の花ですから、ぜひ今年も花見に出かけましょう。
2006年03月26日
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WBCに感激した後は、センバツ そしていよいよプロ野球開幕と野球大好き人間の私にとってはうれしい季節の到来です。そこで今日の話題は日本野球草創史。 日本の野球の歴史は、明治11年(1871)に東京の開成学校(現在の東大)の米国人教師H・ウイルソンが生徒に指導したのが始めだそうです。その後、学生を中心にベースボールは徐々に人気のスポーツとなっていきます。 まず、明治時代の野球人として代表的な人として正岡子規があげられます。子規は短歌・俳句の革新を唱え、多くの作品を残した歌人でありますが、野球に熱中した最初の日本人の一人でもあります。ポジションはキャッチャーをしていたとか。 「打ち揚ぐる ボールは高く 雲に入りて又落ち来る人の 手の中に」 「若人の すなる遊びは さはにあれど ベースボールに如く者はあらじ」など、子規はベースボールにまつわる多くの歌を詠んでいます。 子規は俳号をいくつかもっており、そのひとつに子規の幼名、升(のぼる)をもじった「野球(のボール)」という俳号があります。(ちなみに、子規とはホトトギスの別名で、結核で血を吐いている自分を揶揄してつけたもの)「野球(のボール)」の俳号から野球の名付け親は子規であるという説もありますが、ベースボールを野球と訳したのは子規ではありません。しかし、「直球」「打者」「走者」「飛球」といった数々の野球用語の日本語訳は子規が行ったものと云われています。 一方、「野球」という日本語訳を最初に行ったのは第一高等中学校(これも現在は東大)の学生中馬庚(ちゅうまんかなえ)という人のようです。この人はテニス=「庭球」の日本語訳をしたとも云い、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明したとか。日本初の野球研究書「野球」を著作、日本野球界の歴史的文献と言われているそうです。(正岡子規にも「Base-ball」という随筆がありました)中馬は明治草創時代の学生野球の育ての親として評価され、昭和45年野球殿堂入り。正岡子規も平成14年に殿堂入りしています。 現在の野球隆盛は彼ら先人が素地を築いたもの、100年前の野球少年に感謝!
2006年03月24日
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