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最近、毎年この時期になると、荒れる成人式の様子をテレビなどで見かけるようになってしまっている気がする。すべての新成人がそうではないとは思いつつ、どこか成人することを何か履き違えているように見えるその光景にはいつも唖然とさせられる。今年もそんな光景がテレビから流されてくるのだろうか・・・。成人式を迎えるとき、彼らはどう思っているのだろうか。「大人になった」ということついて、なにか思うことはあるのだろうか。そしてその実感についてはどうなのだろうか。私はといえば、どちらかといえば「大人になった」というより「大人になってしまった」というような感覚の方がが強い。別にずっと子供のままでいたかったとか思っているわけじゃないし、そういうニュアンスで「なってしまった」などと思っているわけじゃない。心が大人になりきる前に、年齢だけ大人になってしまった…という、そんな感覚だ。「大人になりそこなった」とでも言った方が近いのかもしれないが。そのせいだろうか、成人の日の当日になっても、新成人として慣れないスーツで式の会場に向かっても、会場でお話を拝聴しいても、いまいちピンときてなかったように思える。おそらく高校卒業ぐらいの時とさほど変わらない意識で、まだまだ大人気ない私がそこに座っていたのだろう。ただ、年齢的に十分大人の人でも、子供っぽい、大人気ない所を持つ人はいると思う。実際、いままでいろいろな「大人」の人に接しているけれど、自身のことを棚上げして、「大人気ない」などと感じてしまったことも結構ある。反対に、私よりもずいぶん若い人で「しっかりしているな」などと思ったこともある。「いいかげんだな」と感じることもそれなりにあったけど。最も、いつも「大人」かどうかで周りの人を見ているわけじゃないし、私自身の人の見方が少々穿っているのかもしれない。あるいは「若い人のなら未熟でもしかたないが、年長者にはせめて年相応には成熟していてほしい」とかいう意識があって、年長者に対しての目が厳しいのかもしれない。そもそも、私はどんなことを指して「大人になる」と考えているのか。きちんと働いて、人に迷惑をかけず、自立して生活できる人…といったあたりだろうか。検索したときにみつけた項目には「自分の行動に責任を持つ」とありました。それもあるかな。ただ、いろいろ考えてみると、そこに一種の理想像みたいなものをはめ込んでいるようにも思える。私はまだ、それには程遠いと感じている。これではまだ大人になれてないと感じるのも無理はないだろう。あと、こういう考え方だと、「年齢」という部分はさほど重視していないということになりそうだ。なら、どんなときに「大人気ない」、「子供っぽい」と感じるか。それは、自分本位しか思えない行動そのものや、それによって周囲を振り回している時…だと私は思う。荒れる成人式の様子に見られるものなんかは、まさにその手の行動のように思える。大人の仲間入りをした彼らの最初の行動から感じるものが「大人気ない」というのは、ある種の滑稽さがあるのかもしれないが、笑える類のものでもない様に私には思える。同時に、そこに未だに大人になりきれていない自分自身のいたらなさ、大人気なさが投影されているようにも感じられるため、上から目線で突き放して偉そうなことを言う気にもなれもなれなくて、なんとなく気分が沈んでしまったりする。もう年齢的には十分すぎるほどに大人側なのだが、新成人の側に自分自身を見てしまうようでは、やっぱり、私にはまだまだ、大人なりきれていないということなのだろうか・・。多分そうなんだろうな・・・。
Jan 13, 2008
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分からないのは僕が人の価値観を認められないから【黄昏時の街の日記さま】おそらく、誤読だと思うのだけど、対象の面白さを理解でないことを価値観の否認のように感じてしまった部分があり、そこに違和感を抱いた。果たしてそうなのだろうか・・・と。例え、その対象の面白さが理解できなくても、その対象を面白いと感じる人がいるということは理解できるのではないだろうか。個人的には好みや相性の問題だと思うので、少なくても、「Aはつまらない」がそのまま「Aを面白がる人の気が知れない」にはならないだろうし、価値を認められなくても、それが価値観を否定することにはならないと思う。ただ、私自身、その対象の価値を否定された時に“その対象に価値があると感じること自体まで”否定されたように感じてしまうことが時々あるので、頭で理解しているかどうかはともかく、感情面では、理解できていないのかもしれない。それに、私は一度「つまらない」と認定してしまうと、その後、誰かに薦められても、積極的に手を出そうとしたり、面白さを理解しようとしたりすることがほとんど無いので、実は認めているフリをしているだけなのかもしれないと、思わなくもないのだけど。
Nov 6, 2007
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私の場合は,人と比べちゃうとダメなんだ。 【光集いし木蔭さま】私もそうだな。評価に対しては、私は「最終的に評価を下すのは読んだ人たちだから」とよく書いたりしていると思うけど、そこには自己評価をすることから逃げているっていう部分もあるような気がする。自分で自分の記事を評価しだすとどうしても卑屈になってしまうってわかっているからなのかもしれない。特に比較をしだしてしまうともうダメ、どうしようもない。「自分にはできない」、「こんなにすごい人たちがいるのなら、あえて、自分が書く必要は無いんじゃないのか」と何度思ったことか。ただ、結局は「自分がどうするのか、どうしたいのか」がポイントだと思うから、他の人がすごいとかいうのは、関係ないような気もする。自分にとって、なんらかの価値が見出せれば、それでいいいのではないかとも思うし。まあ、とはいっても、そこまで冷静に自分と他人を切り離せるわけでもないし、どうしてもモチベーションが上がらない時や、不安になるときはあるので、時々、そういう時の自分のための記事を書いていたりすることがあったりする。正直どの程度うまくいっているのかどうかは微妙なのだけど、それでもすこしでも自分の支えになればいいかな・・・と、思いつつ。
Oct 20, 2007
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承認の問題承認関連の話題を続けます 共に【あなたの正義は誰を殺しますかさま】 自分も承認不足というか、承認そのものを欲求しているという部分はあると思う。少なくても、私は自身だけでは自分の全てを承認しきることはできていない。 とはいっても、別に常に渇望しているわけでもではないのだけども、何かの拍子に、強い承認欲求が浮き上がってくることがある。特に落ち込んだりして精神的に余裕が無いときなどはその傾向がより顕著になる。おそらく、私自身の奥底に半ば強迫観念に近い承認に対する欲求があるのだろう。普段は「あえて考えない」ということで見ない振りをしているにすぎないのだと思う。理由や根拠がなくても、無条件に自身を承認できればいいと思う。だが、自分にはそれができない。このあたり、自信においても同じ状況が続いているな。自信を持つために、自分を肯定する根拠が必要なのと同様に、承認に足りうる根拠というのが、必要と感じている部分が私にはあるようだ。いや、友人関係など、形としての承認が得られなくても、根拠がなくても、無条件に自分がその人たちからの承認を信じられる集団、場所は持っている。ただ、貪欲なのか、それだけでは不十分と感じている部分があるようだ。もしかしたら自分が所属している全ての集団において、承認されることをもとめているのかもしれない。ただ、承認に足りうる根拠を他者からの承認から得るる場合、結局は自身の基準を切り抜ける必要が出てくるように思う。求めている他者が承認したとしても、その承認そのものを受け取った自身が承認にたりうる根拠と認めなければ、結局は承認欲求を満たすことができないのではないのだろうか・・・。
Oct 13, 2007
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「ゲーマーの後悔」は終わらない【WIRED VISION NEWSさま】これ、良くあるな・・・。もっとも、私の場合、その対象はゲームよりも、ネット、それも特にyoutubeなどの動画サイトに対してかだったりするのだが。ただ、いざ思いきって一日ネット断ちをしてみても、その分が、ゲームなり、テレビなり、マンガなりに流れるだけのことが多い気がするので、あまり状況は変わってないんじゃないだろうか。結局、一日の最後にその手の「後悔」をしていることもあるし。どうも、私は余暇や趣味の時間にまである種の効率とか、副次的な目的、成果などを求めている部分があるようでそれが、この手の「後悔」を生む一因になってしまっているように思う。あるいは、ただの貧乏性か。あとはやっぱり、そのことに費やされる時間の長さが問題なのかな。それでも別に必ずしも惰性でやっているわけでもないのに、無駄に感じることがあるってことは、それだけその趣味を軽く見てしまっているってことなのかもしれない。あるいは、ゲームなどのオタク趣味全般に感じてしまう、妙な後ろめたさがそう思わせるのかもしれない。別に趣味や遊びに高尚や低俗もなくて、そのことは自分でもよくわかっているはずなのにね。
Oct 3, 2007
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いつもと言うわけでもないのだが、褒められたときにみょうにむずがゆくなるような違和感をおぼえて、素直に喜べないことがある。自分が普段、何気なくこなしていることだとそう感じるのかな。と思っていたのだが、苦戦を強いられたときでも感じることはあるようなので、作業をこなす時の苦労の度合いは関連しないみたいだ。となると、やっぱり受け取る私の方の気の持ちようの問題なのか・・・。場合によっては「馬鹿にされているんじゃないのか?」などと、特に根拠も無くネガティブに受け取ったりすることもあるし。かといって、別に、褒められること自体が苦手とかそういうことはないと思う。承認願望はむしろ強い方ではないかとさえ感じているから、「認めてもらいたい」とか「褒めてもらいたい」っていう思いもとうぜんあるはずなんだけど、いざ褒められると、なんかしっくりこなくて、違和感をそこに感じてしまう。なんというか、「自分はそこまでのことをしていない」って思ってしまうんですよね。もしかしたら、それが違和感の正体なのかもしれないな。となると、まず最初に自分自身で、その何かにたいして、「俺は(賞賛に値するような)すごい事をした」って思えないとだめなのかもしれない。でもそう思えることってなかなか無かったりするし、自分が「頑張っている」とか、思い込んでいることに限って、あまり賞賛などを受けることがないように思える。まあ、「頑張っている」っていってもあくまで主観だし、見る側の人にとってそれがどう映るかとか、それが評価とか賞賛に結びつくかっていうのとはまた違うってのもあると思うけど・・・。
Sep 17, 2007
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職場にいる嫌いな奴に対する感情が、また「どちらでもない」の方に変わってきている。嫌いなやつとはいっても、1から10まで嫌いってわけでもなくて、それどころか趣味とかでは話があうところもある。だから、状況しだいでは楽しく会話できてしまうことさえあって、おそらくそのせいでこういった感情の揺らぎがおきているのだろう。なので、もしかしたら、出会いかたや関わり方が違っていたら、あるいは、もっと親しい仲になれたのだろうか・・・などとと妄想したこともある。しかし、その人には嫌いになるのに十分過ぎる、ものすごく癪に障ってムカついてどうしようもない部分があるので、やっぱり、どう転んでもどこかで「嫌い」になっていくのかもしれない。なまじそういう人と友人のような関係になってしまうと、縁を切るのも一苦労だろうし、なんかこじらしてしまいそうでもあるので、そうならなくて良かったのかもしれない。しかし、その人に出会うまで、私は一度きまった「好き」とか「嫌い」といった感情が、時や状況で変化することはまずなかったと思う。「嫌い」な奴は頭のてっぺんから足の先まで嫌いだと認識していたような気がするから、それが変化するなんて、思ってもいなかっただろう。まして、嫌いな奴とでも、状況しだいでは、楽しく会話できることがあるなんて、とてもじゃないが信じられたものではなかっただろうな・・・。そういう意味ではその人との出会いは貴重ともいえる。こんな形でそれを知る機会を得たくはなかったけど・・・。ただ、いまだに「好き」と「嫌い」が逆転するということに関しては、にわかに信じがたい部分があるんだけど。私の場合、こういうことは実際に自分の身に起こってみないと、完全には信じられないのかもしれないな。
Sep 1, 2007
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"中途半端"という私【見知らぬ世界に想いを馳せさま】(情報元:闇鍋ブックマークさま)いろいろなことに興味を持ちはするけれど、結局、どれも中途半端で、ごく浅い所にとどまったままだよな…とうのは私は、最近よく思うようになった。昔はどちらかといえば一つのことに結構のめりこむタイプだったはずなのだけど、どこでこんな風に変わってしまったか…。正直不思議でならなかったのだが、考えていくうちに、一つの答えが出てきた。実は単純に興味が分散されたから、その分集中力もぶんさんされてしまっただけなんじゃないだろうか…と。考えてみると、昔は一つのことに集中する分、ほかの事にはあまり興味をもてなかったような気がする。特にゲームにはまってた頃はそれが顕著だった様な気がする。暇さえあれば一日中ゲームばっかりしてたんじゃないかな。まあ、自分のお小遣いでゲームソフトを一本買ってしまうと、もう後は何も買えなくなるから、その分できることが狭められてたっていうのもあるのかもしれないけど。でも、そのうちほかの事にも興味が沸いてきてゲーム以外のことをする時間も出てきたからそれですこしずつ分散されていったってのが一つあると思う。実際今は、マンガやライトノベルよんで、ネットで動画見て、記事読んで、ブログも書いて……と、両手いっぱいに自分のやりたいことを抱え込んでいるような状態だし、おまけに、ゲームにはまっていた当時より自由な時間は格段と減ってるし、無理も利かなくなってきているからね(本当はこっちの方も重要な要因なのかもしれないけど)。やっぱり一つのことに集中するのなら、その分ほかの事を捨てなければいけないのかな。すくなくても両手いっぱいに抱え込んだものを一時的にでも手放せないかぎりは、何か一つのことにはまりこむってことはないだろうな。と同時に、そこまでしてやりたい一つのことってのがないっていうのもあるとは思う。
Aug 21, 2007
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相手の価値観を尊重するということ。【オオカミの遠吠え通信さま】 どうも人間というのは「相手の意見を尊重する」と言いながらも、結局は「自分の考えを押しつける」傾向が強い気がします。私、どちらかいえばそんな感じだな。(価値観を意見などを)否定されるのは自分だけじゃなくて、相手の人も嫌なはずなのに、いざ互いの価値観がずれたりする場面に出会うと、その価値観を認めることがあまりできていないように感じる。自分が価値観を認めることができるのって、もともと自分のなかである程度認めていたものか、あとから自分で納得したものぐらいで、その他にはかなり不寛容になってしまっている気がする。そして、その範囲は意外と狭いんじゃないだろうか。さらに、最初に否定されてしまうと、その相手に自分の意見を認めさせようとして、ぶつかりあってしまうことが多いように思える。しかも、その時は自分の意見を認めさせることばかり考えていて、相手の意見を認めるという部分は抜け落ちてしまっている様な…。別に自分の意見に共感してくれなくてもいい。と、そう思っているはずなのに、どこか相手にそうもとめてしまっているような、もっというと、自分の意見の方が正しいみたいな、まるで勝ち負けを決めるかのような状態になってしまっているような気がする。ヒートアップしてしまっているからというのもあると思うんだけど、それでも、やっぱりその時相手の価値観は否定されているんじゃないかと思うし、もっというと、自分の価値観を認めもらいたいあまりに自分の価値観で相手の価値観を押しつぶそうとしてしまっているんじゃないだろうか…と。でもそれで、強引に相手を折れさせたとしても、結局それって自分の価値観を押し付けただけなんだよな…。何も相手が自分の意見を否定しているからといって、自分も相手の意見を否定したり、最初に認めさせるというところから入らなくていいとは思うだけど、いざその場面になると半ば反射的にぶつかり合う方にいってしまうことが多い気がする。それだけ、自分の意見や価値観を否定されたくないという思いが強いということなのだろうか…。
Aug 14, 2007
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昔のことは覚えていないのは自分を守るため【鼻が赤くなりにくいティッシュですさま】私には、あえて思い出さないようにしている事がある。正直に言うと、思い出すのがちょっと怖いのだ。思い出したら、また、あの時と同じような精神状態になるのではなってしまうのではないだろうか、と。もうかなり前になるので、十分色あせているはずだろうから、おそらく大丈夫だとは思うのだけど…。多分、一番怖いのは、思い出すことではなくて、あのときの状態に戻ってしまうことなのだろうな。本当にあの時はどん底だったと思うから。思い出したくもなかったのに、何かの拍子に思い出してしまい、無気力になる…。それがなくなっただけでも、ずいぶんましにはなったのだ。それぐらい記憶がかすれたということなのだろう。それでも、まだ、あえて思い出そうという気にはなれなかったりする。かといって、忘れてしまいたいというわけではないし、ずっと心のすみに追いやったままにしておきたいというわけでもない。できれば、その時の思い出もしっかり受け止めなければ…と考えていたりはするのだけど。いつか、そのことも誰かに笑って話せるぐらいなった時がきたら、もう一度、あのときの私と向き合ってみようとは思っている。だから、その日が来るまではこのままにしておこう。いまだにこんな調子ではいつになるのかわからないけれど。
Aug 10, 2007
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無力だ【田口ランディ公式ブログさま】私もこういうことがある度に、似たような感覚にはなっているとは思うのだけど、最近は無力感よりも先にまず、「まだどこかでその人にたいして期待していたのかな…」と感じることが多くなった。なんか、ぶつかり合う人っていつも決まっているような気がしてならない。きっと相性との問題でがかち合ってしまうんだろうな。だからなのか、ぶつかり合うポイントも違うように見えていつも一緒なのではないのかな…と考えるようになってきた。私は結構対人関係ではあきらめの早い部分があるように思っていたのだけど、どうやら根っこの部分では思ったほど割り切れていないらしく、うすうすわかってはいても衝突を回避できないことが結構ある。徒労に終わるのもある程度はわかっているから、そうなるたびに「やっぱり…」とは思うんだけど、わかっていても相手を自分の思うとおりに少しでもしようとしてしまうのは、やっぱりどこかで、少しぐらいは思うとおりにしてくれるのではないかという期待があるのではないのかな…と。後は、結局解決法となるのが大抵自分が折れることになってしまうことが多いので、少しでもこっちが折れると際限なく寄りかかってきてしまう奴が相手だと、どこかで譲れない一線を設けて抵抗はしてみるのかな。思い通りにされたくないと思うのはと相手だけじゃなくてこっちだって同じだし、だからこそ、すこしでも自分が納得できる条件を飲ませるために、あえて衝突することを選ぶんでいるのかもしれない。
Aug 1, 2007
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ブログや記事の「質」とか価値とかに関する記事を時々見かけることがあるのだけど、読むたびに「なんとなくいいことはわかる気がするけどそうはいってもなぁ…」と今ひとつなっとくいかない気持ちにさせられる。サイトの価値を決めるのはそこに来た全ての人たちだから自分が考えてもしかたないという思いが強いからかもしれない。そもそも、全ての人にとっても邪魔にならない、読む価値があるサイトというのがあるのだろうか…。私自身はそのことに懐疑的なのだけど、そのことを考えるまでも無く私のブログはおそらく誰かの邪魔にはなっているだろう。検索か何かで訪れた人のうち、何人ががっかりして去っていっただろうか…。そう、考えてだすとすごく申し訳ない気持ちにはなる。なったからといって去っていた人たちになにもすることはできないのだけど。だた、仮にブログの存在価値の有無を決めるとしてもそれは、そのブログが社会的に公益性が高いとか、低いとか、誰かにとって役に立つとかたたないとか、もっというと面白いとかつまらないかどうかとも、そう関係ないのではないのかな…と思う。私はブログの存在価値は、必要としてくれる人がいればそれでいいと思う。それも多くの人でなくたっていい。例え偶然見に来た何人に邪魔だと思われていても、嫌われていたとしても、共感してくれる人、面白いと感じた人、更新を楽しみにしてくれる人、なによりそこの場所を必要とくれる人が、たった一人でもいれば、その場所は十分価値があるんだと思う。それで、いいんじゃないだろうか。
Jul 28, 2007
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傷つかなくなることについて【日々の記録さま】私ももう、結構いい年だったりするのだけど、傷つきやすさについては全くと言って良いほど変わっていない気がする。長いこと過敏ともいえる状態が続いているので、ずっとそのままなんじゃないかと思っていた。年齢が上がると性格が丸くなるという話は聞いたことがあるけど、私もそうなっていくのだろうか…。年齢を重ねていくことによって傷つきにくくなるのなら、自分が傷つきやすいということを気にしたり、悩んだりする必要はないのかもしれない。時間が解決してくれるのであれば、あとは時が過ぎるのを待てばいいだけなのだろうし。ただ、傷つきにくくなると言うことは、痛みに鈍感になるということでもあると思う。自分の痛みに鈍感になる一方で、他人に対する痛みにまで鈍感になって、今以上により厚かましく振まうようになってしまうのは避けたいものだ。
Jul 25, 2007
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更新の停止したブログに惹かれるのは、廃墟に惹かれるのに似ている。【ネコプロトコルさま】私の場合、もともと記事を読んでもすぐに書き手の方にまで関心を持つということはまず無いから、ふと訪れてみたブログが、もうかなりまえからに更新を停止していたとしても、そうでなかったとしても、あまり印象は変わらないのではないのかな…と思う。だだ、私がそのブログがまだ活発だったころを知っていれば話は別だろう。かつて多くの人たちでにぎわっていたであろうその場所が、いまは静かにそこにたたずんでいる。きっとあのころとはちがった顔を私に見せてくれるのだろう。もう、長いこと更新されていない。多分もう更新されることはないだろう。そうわかっていながらも、なんども通ってしまうブログがある。いつきてみても、変わることのないその場所。私がそこに感じるものも、おそらくはそう変わらないだろう。ただそのことに安心することより、ちょっとがっかりしてしまうことがよくあるような気がしている。もしかしたら、私はかつてそこの向こう側にいた、管理人の影を追い求めてやってきているのかもしれない。記事しか見ていなかったはずの私が、更新の停止してた今になってみて「あの人は今頃どうしているだろう。元気でやっているのだろうか」などとその向こう側にたいしてまで思いをはせるのは、なんだかとっても変な気もするのだけど。あるいは、期待しているのだろうか。止まってしまったはずのものが、もう一度動き出すのではないだろうかと。そうなのかもしれない。私が訪れたぐらいで何かが起きるとも思えない。でも、声をかけてみたら?、あるいは、何かの記事に反応を返してみたら?、いやそれでも変わらないだろう。でももしかしたら、私の知らないところでこっそり息を吹き返しているのかもしれない。私がそれに気づいていないだけかもしれない。もう一度くれば、そのことに気づくかもしれない。そう思うとものすごくひきつけられるのだ。多分、それは私の勝手な妄想にすぎず、例え、そのブログが本当に息を吹き返していたとしても、結局、声もかけられずにいつも去っていくような私のせいではないだろうとも思うけど。
Jul 20, 2007
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心の中にぽっかりと穴が開いてしまったようで、ここ数日間、何を読んでいても、何も形にできない…そんな状態がつづいていました。ことばにすらなりきらないもやのようなものが浮かんではまた消え、かけらをつかみかけてはまた見失う……そんなことのの繰り返し。モチベーションが今ひとつ低めで、ちょっと無気力気味だったのも影響していたのかもしれない…。今までも、何度か定期的に書けなくなったことはあったようにも思うけど、今回のはちょっと長かった。ようやく、気力だけでもなんとか持ち上げては見たけれど、不安は残る。もう、ずっとこのままなんじゃないだろうか。あるいは、すぐにまた状態が戻ってしまうんじゃないだろうか…。なんとか不安をすみにおしやって、もう一度、何度も来たその場所へ一歩踏み出す。ようやく、つかみとった、わずかなかけらを胸に。
Jul 20, 2007
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「吐き出す」ことより「伝える」こと。【オオカミの遠吠え通信さま】私は、思ったこと、感じたことのどれぐらいを文章化できているのだろう。1/10?、1/20?いや、もっと小さいような気がする。もやもやっとした感覚のみで、何に一つ言葉にできずに消え去っていったもの、断片的な言葉は出てきても到底形にはならずに終わったもの、珍しく、「書けそう」などとと思って書き出してみたものの、結局途中でしぼんでそこで止まってしまったもの、そうやって捨ててしまったものがいったいどれくらいあるのだろう…。そのたびに、劣等感と自己否定をまたひとつ、積み上げてしまっているような気がしてならない。とりあえず、ひとまずは書きかけのまま寝かせておいて、再度日の目をくるときを待とうともするのだけど、そのまま冬眠状態になってしまうようなことも結構多いような気がする。そのせいか、最近は、一度は捨てたものの、どうしても気になって捨てきれず、ろくに寝かしもしていないままごみ箱をあさっては拾い出して、書き直す…なんてことも増えてきた。ようは悪あがきである。もしかしたら、あえて未練を断ち切って、その時が来るまでいつまででも寝かせておいた方がもっと伝わりやすい形になったのかもしれない。かといって、一度無理にでも吐き出してしまった以上、再度寝かしなおすなんてことはできないのだけど、どうしても未練を断ち切れないのなら、あえてあきらめ悪くあがいてみるのもそう悪くもないいんじゃないかな…と思っている。日ごろ、何かを伝えたいと強く思うことがあまりないような私だから、そう感じるのかもしれないけれど。
Jul 13, 2007
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コメント欄って、どのくらい見てます?【紅髪の小部屋さま】私は、全てがそうっていうわけでもないのだけど、自分が読んでいて興味をそそられた記事ならたいていコメント欄まで読むほうだな。読み手になっている時はどちらかというと「コメント欄を含めて一つの記事」とみることが多いみたい。とはいっても、記事自体が前のエントリのコメント欄に対するお返事とかだったり複数の記事にわたる続き物だったりした場合、自分の目当ての記事しか読まないことも多い。なかなか、前後する記事まで食指が動かなかったりしている。さすがに私がやっているような記事への反応とか、言及の場合は言及元も読むことが多いけど、その記事が複数の記事に言及していたり、複数のブログの中でやり取りがいろいろある中での一つの言及だったりすると、その全てを読まずに終わることあったりする。「ブログは記事単位で独立している」っていうの意識があるのが影響しているのかどうかはわからないけれど、『ことの経緯を把握するのがめんどくさい』っていうのはたしかにあるだろうな…。そこまで興味をもてないことも多いし。それとは別に、あえてコメント欄を「後で読む」にする場合がある。それは、私がその記事についてなんらかの反応を試みようとするとき。どうも何か書こうとしているときにその記事に対するコメント欄まで先に見てしまうと、自分が書こうとしている考えや思いとかがぶれてしまったり、薄まってしまったりして、結果として書けなくなってしまうことが多いようなので、自分の考えが一度一つの形としてアウトプットされるまではあえて読まないようにしていたりする。まあ、一度コメント欄を含めて一通り読み終わってかなり時間が経ってみて初めて、その記事をきっかけとした何かが生まれてくる…ってことも実はかなり多いんですけど。
Jul 9, 2007
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つたわるということ。【星の旅 さま】私は、どうもコミュニケーションについてはかなり問題点があるようで、発信者側としても受信者側としても十分といった対応がとれていないように思える。きちんと伝えているつもりでも、相手にはうまく伝わっていない場合もめずらしくない。多分、「言う」ということに重点がおかれてしまい、きちんと相手に伝わるように言葉を選ぶこと、形作ることが不十分なのだろうひどいときはそればかりか、伝えたいことをうまく形にすら、できていないこともよくあったりする。自分の伝達が不十分だったり、大幅に省略されていたりしても汲み取ってくれる、受信力というか、補完力の高い人にはいつも助けられているのだけど、そのことに甘えてしまって、いつも相手の補完力に頼ってしまうようではいけないのだろうな…と思う。ついついそれでも大丈夫となると、そこまでで十分と考えてしまい、たまにずれて伝わらなかったときには相手を内心で責めてしまっているような気がするのだけど、こっちが十分に伝えたいことを形にするのを怠っているのだから、それでもしかたないわけで、相手を責めるのは筋違いだろうと思う。ましてや、本当に伝えたいことを言葉の外にをおいておいて、それで、本心を察してくれっていうのはこっち勝手な願いにすぎないんじゃないだろうか。受信側としては、思い違いや、勘違いも多かったりするが、それ以上に、裏読みというかやや、過剰に、ネガティブに受け取ってしまうことが多いように思えてならない。しばし、言われてもいないことや、おそらく言った本人は意図していなかったネガティブな解釈をを勝手に受け取って、勝手に傷ついていたりしてしまっている。まあ、状況によっては相手の言い方のほうにも問題がある場合もあるのだろうけど、それにいつも期待するのではなく、自分としても過剰に裏読みをしすぎることのないよう解釈を補正していかなければならないのだろうと思う。おそらくは、こういう過剰な裏読みが、発信者側のことばをむやみに制限することにも繋がってしまうのだろうし…。
Jul 6, 2007
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「顔」を使い分ける意味。【オオカミの遠吠え通信 さま】「裏表のない人格」に憧れたことは過去にあったような気もする。いまもそうなりたいかどうかはともかくとして、ありのまま、自分のすべてを誰かに見せるなんて事は、もはや今の自分にはできなくなってしまったなぁ…と思った。私の中には、明らかに誰にも見せたくない、自分の中だけにしまっておきたいと思う、恥ずかしい、醜いと思える部分がある。それを知ってしまった以上、「ありのままの自分を知ってほしい」となどという願いはかなわなくなったし、そう思うこともなくなった。今も誰かに対して「自分のことを理解してほしい」と思うことはあるけど、自分の全てを受け止めろとか受け入れろという意図でそれを思ってはいないとはずだ。そんなもの、私自身だって受け入れられていない(そうならなくては…とは思うけど)。かといって、「(自分にとって)都合のいい部分だけを都合の良いように理解してほしい」ということでもないと思う。そうであってほしくはない。ときどきはそんなことを持ち出してもやもやしているうちに、自分の理解を訴えるとき、願うとき、「結局、どう思われたいのか?、どこまで理解されたいのか?」というところまで来た時点で、いつもそこで立ち止まってしまうようになった。今もまだ、その答えは出ていない。現実のどこかでも、あるいは今この場所でも、私は「見せる部分」を自分なりには制限している。器用に演技や演出をこなせるというほどでもないから、裏が透けて見えることもあるかもしれないけれど、別に嘘をついているとか、騙しているという感覚も意図も、そこには無い。ある部分を「見せない」ということは、確かにその方が「自分にとって都合がいい」というようなこともあるけれど、自分なりに考えた上で、あえて「見せない」という選択を選んでいることもあったりする。隠したはずのものを見抜かれてしまったり、うっかり余計なことを言って自爆したことがないかといえば、当然あるのだけれど…。ありのままの自分を見せていない、そういうことでは私も十分「裏表のある人格」ということだろう。そのことに、後ろめたさみたいなものを感じてしまうこともなくはないけれど、しかたがないと思っている。ただ、一方では懇意させてもらっている人を、一方では悪くいって貶める…などというようなことはしたくないと思っている。友人だからといって全く嫌なところがない、ということもないだろうけれど、私自身についてもそうだし、それは、お互い様。どうしてもというのなら、相手に直接いってみるか、ずっと胸に秘めておくか、しておきたいと思う。そういう部分では「裏表のない人」でありたいと思う。その部分で裏をつくってまで、その人との懇意を装いつづけたくはない。
Jul 3, 2007
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面白がろうと無理して面白がってる気がする 【Hopeless Homelessさま】最近、自分の知りえる範囲で話題になっている何らかの作品に触れてみた時に「面白いっていえば面白いんだけど、何か物足りないんだよな…」と、感じることはよくある。多分、自分が心変わりしたのか、相性が今ひとつ会わない作品が多くなったのだろうとは思っている。 「面白い」と感じることが義務になっていて、がんばって自分の中の「面白がる」スイッチをオンにして、「面白いモード」で鑑賞しないとしんどい作品が多い。がんばらずに「面白い」と感じられる作品も、もちろん、ちらほらとはあるんだけど。比率でいうと大変少ない。疲れているのか、年なのか。この抑圧はどこから来てるのだ。がんばって面白がるのと、がんばるのをやめて、無理に面白がらないのと、どっちがいいのかなあ。私としては、たとえ、がんばってでも、「面白い」と思えるのなら、まだいいんじゃないのかな…と思う。私は、「面白がろう」とすることはすらできなかった(しようとさえしなかった)こともあって、昔に比べて妙に醒めてしまったようだ。興味がわいても食指がのびなかったり、触れてはみても、夢中になる前に終わってしまうことがほとんどになった。なんか、どんどん無感動に近づいているような気がしてならない。そればかりか、すごく浅い部分で満足するように変わってきてしまっているんじゃないか…とさえ、感じるようになった。そういう状態よりはいいんじゃないかな…と。一つの感覚を長い間忘れていると、そのうち鈍くなってしまうんじゃないかと思う。そうなれば、よけい面白く感じられなくなるわけで、それが悪循環になってしまう気がする。今の私はそれに近いのかもしれない。今あるものを「面白がる」ことさえできないなら、みつけるしかないんだろうな。幸い、今は手軽にいろいろな作品をつまみ食いできるぐらいにはなっているのだから、時間の許す限り自分の興味が沸いた作品を試食しまくって、夢中になれるものを見つけていくのがいいんじゃないだろうか。あとは、最後の一押しとしての行動力か…。それが一番問題かもしれない。
Jul 1, 2007
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幸せじゃなくても良い【ヘボメガネ一進一退 さま】自分の今の現状を顧みると、いろいろと不安や不満の種はつきないし、その状況が容易には改善しがたいと感じているということもあって、「自分が幸せだ」という感覚はとてもじゃないけれど持てなかったりする。じゃあ、不幸なのか…といわれると、とりあえず、日々の暮らしは(将来はともかく)今のところ何とかなっているし、今日明日のうちに自分がどうこうなるということはないわけで、とりたてて「不幸」っていうほどでもないんじゃないのかな…とも思う。とはいっても、幸せと感じるか、不幸だと感じるかっていうのは、その時の精神状態で短期的ころころ変わっていく部分もありそうだから、今こう思えるのは、自分の精神状態が比較的落ち着いていて、でも幸せを実感できるほどでもないからっていうだけなのかもしれない。それこそ、凹んでいるときや精神的に参っているときは多分、「自分が世界で一番不幸だ」ってぐらい思っていそうだし。ただ、すごくいいことがあって浮かれあがっているときでも、幸せっていう実感を持てていないように思う。なんとなくだけど、不幸は比較的容易に実感できるのだけど、幸福はなかなか実感できないような気がしている。それは私がネガティブ思考の持ち主だから、良いことを良いことと感じることなくスルーしてしまいがちなのかもしれないけど、それ以上に「幸せだ」と感じるに足りるレベルが高すぎるということなのだろう。そこがまず一番の問題なのかもしれない。でも、自分の中で「幸福感」がある程度満たされてしまうと、そこで満足しきってしまいそうな気もして、自分の今の現状をからすると、それもまたどうなのかな…と思ってしまう。そこがまた難しいところ。別に、不幸であることを肯定的に捉えているというわけでもないだろうし、まして不幸でありたいと思っているわけでもなく、幸せになりたいという気持ちは間違いなくあるんだけど、現状のまま気持ちだけ、変化させるっていうのはなんか違うような気がするんだよな…。追記:関連幸せのこと【東大生が教える日本の実態さま】(情報元:はてなブックマーク - REVのブックマークさま) しあわせでもふこうでもないじょうたい【星の旅さま】
Jun 29, 2007
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ブログとつながり【castleダイアリー さま】私は今のところ、ブログを書いてるのはここだけなのだけど、使い始めのころは「一人ぼっちでここに立っている」みたいな感覚を持っていた気がする。ここ最近は、孤立感みたいなものはかなり薄れてきているとは思うけど。多分、目に見える何かがなくても自分も繋がっているんじゃないかな…と、思えるようになってきたからじゃないかな。とはいっても、感覚としてはすごく漠然としていて、うまく言葉にできないばかりか、どちらかというと錯覚や思い込みに近いレベルではあるんだけど。ただ、使い始めた当時は、一人という感覚はあっても、それがさほど苦になっていなかったような気がする。それは、私が当時から自分から繋がりを求めようという意識が薄かったっていうのもあると思うけど、それ以上に書きたいことや、書くことそのものの方に意識が向いていたからだろうと思う。まあ、私がもともと、一人でいるのが基本で、一人の時間が長くてもあまり気にならないっていうのとか、ここが誰かの記事に反応していくのをメインにしているっていうのもあるんだろうな。だからって全く寂しくなかったってわけでもなかったとも思うけど。あと、ネットを見るようになってから強く実感するようになったんだけど、誰かが楽しそうに会話したり、騒いだりしているとかしている様子を、一歩下がって遠くから眺めているというのが、私は結構好きだっていうのがあるのかもしれない。見ていて羨ましいとか、参加したいいう気持ちがないというわけではないんだけど、どちらかというと、そうやって話を聞いていたり、雰囲気を感じるだけで満足してしまうということが多い。むしろ自分がその輪の中に入るとなると、何を言ったり、したりしていいのかわからなくてとまどうことも多く、妙に居心地の悪さを感じてしまい、楽しさを実感できない場合も結構あったりするし…。そうはいっても実際の現場では、なかなかちょうどいい場所で参加せずに眺めているというポジションにい続けることが難しいような気がする。でも、ネットだと、ふつうにブログを見て回ったりしているだけでそれが容易にできたりするからそこで満足してしまって、自分のブログの周囲に目に見える繋がりのようなものを感じられなくても、さほど気にならないっていうのがあるんだと思う。
Jun 26, 2007
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自分の日常的な体験をブログに書くのが怖い【草日記さま】体験談そのものについては、私もここではあまり書いていない気がする。私の場合、書くのが怖いというよりも、書きたくなるような体験ネタがあまりないというのと、書いたとしても淡々とした調子になってしまうため臨場感0で、ほとんど状況が伝わらなそうなので書かないということだったりする。とはいっても、書いている記事のほとんどが自分語りなので、話の流れの中で自分の体験や経験やそれに基づくものが出てくることは多いとは思う。どの道、ここではなるべく感情的な部分はカットしておきたいと思っていることもあって、ネタにするとしても、そのことについて十分醒めきって、気持ちの整理がついてからということにしている。まだ生々しかったり、特に気分が落ち着いていない時は、あまり書かないようにしているつもり。個人的に、書くということ自体が今感じている気持ちや想いを増幅させる効果があるんじゃないかと思っている。過去に落ち込んだときにその時のことを日記に書いて、帰って精神状態が悪化したこともあるし、むかついている時の文章では書いていてスッキリすることより、余計むかついてきたことのほうが多いと思う。こういうときの文は勢いはあることは多いのだけど、その割りに内容はあまりなく強い感情が投影されているだけのことが多い気がする。かなり主観的で感情が主体なのでおそらく、事実とは違ってしまっていることも多いのではないだろうか。そのときの感情だけで勝手に「こうだ」と決め付けてしまっているものも十分あると考えられる。まあ、そのときは間違いなくそう思ったのだろうから、本人の気持ちの上ではまるっきり嘘でもないと思うけど。あまりに悶々としていて、どうしても一旦起こしておかないと落ち着かないときは書くこともあるだろうけれど、少なくてもそれは、誰かに見せるために書くというものではないなぁ…というのが私の認識。後でネタにする際の下地にぐらいはなるかもしれないけど。
Jun 24, 2007
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なんとなく勢いで借りて、作ったこのブログですが、気がつけば丸二年が経過、そして今日からは三年目に突入です。自分のものぐさな性格と、今まではじめた日記が、いずれもせいぜい3ヶ月ぐらいしか続かなかったのを考えると、個人的には快挙だなという思いもあったりします。とはいっても、毎日書いているわけでもないし、最初のころはともかく、今は日記らしいことを書くことはほぼないので、比較の対象にはならないかもしれません。最初のころは、ネタ云々以前に「何を書いたらいいか?」でまず悩んで、とりあえず日記っぽいところから始めたようにな気がします。ネット上に公開されているということを知っていっても、身内以外に実に来る人なんてまず、いないんじゃないかな…などと思っていたの時期でもあります。それからだいたい3ヶ月後ぐらいで、今やっている反応系をメインで、と言う形に固まってきました。反応系をメインにしたのは簡単な理由で、書いていくうちに、どううやら私は「自分から何か書くよりも、誰かの記事に反応するほうが書きやすいらしい」ということに気づいたからだったりします。いわば、続けていくためにスタイルを変更したのですが、そのころはこれほど長く続くとは思っていなかったように感じます。自分が書いたことが反応されるということについても、認識があまりなかったような気がします。なにせ読まれていると言う感覚も薄かったので。程なくなくしてその認識には変化がおとずれるのですが、そのままだったら、多分ここまで続いていなかっただろうな…というのが、正直な感想です。やっぱり見てくれている人たちがいたから、ここまでこれたのだろうな…と。ただ、初期のころからは、書いている内容や方向性だけでなく、心境や自分の周りの状況などもかなり違ってきているみたいなので、今後もそのままいけるかどうかということに一抹の不安もなくはないのですが、来年の今頃も相変わらずといった調子であればいいなぁと、思っていたりしています。
Jun 20, 2007
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私は、どちらかと言えば周囲の人からは、「ぼーっとしている」と、見られがちだろうと思う。普段から思考や意識があちらこちらに向かいがちだったり、何もないところでつまづきかけたり、床に小銭をぶちまけたりなどいうような失敗談に事欠かないというところから、そう思われるのだろう。と書くとタイトルと矛盾するようだが、これはそういうことではなかったりする。ちょっと付け加えると、意識的に「ぼーっとできない」、自分の意思で、「何も考えず、なにもしない」、ということをすることができないということだったりする(なんか、かえってわかりにくくなった気もしなくもない)。昔から、考えてもしかたのないこと、一度自分で決めたはずのことを、なんどもさいどほじくり返してまた考えてだしてしまうという癖があるせいか、ふと油断すると、そういったことを考えてしまっていることがよくある。いくらほじくりかえしても、引きずっても悶々とするばかりでいいことはないので、何とかいったん考えるのをやめようとするのだけど、なかなかそれができない。「ぼーっとする」って、いざやろうと思うと、なんかとても難しく感じる。仕方ないので、大抵は、別のことをして気を紛らわすことが多い。テレビを流しておいたり、マンガなどを読み返したり、ちょっとしたゲームをしてみたりなど、大抵、ほとんど考えることなく、意識をそっちに向けられそうなものを選ぶ。重症だと、それでも考え出してしまったりするのだけど、大抵はそれで何とかなる。でも、トイレとかお風呂の最中だとそういうこともできないので、そのときからまたうじうじ考え出してしまうってことも多い。なぜか、こういうとき「ほかの事を考えて、気分を紛らわす」というのはあまりうまくいかない。気がつくと、状態が戻っていたりする。妄想とかでもだめ。こういうときは考えると言うより、被害妄想のようなものに向かってしまうことも多いからかもしれない。優柔不断とか、自分の考えに自信がないとかいうのも関係するのかもしれないけど、それ以前に、単に気持ちや思考を切り替えるのが下手なだけなのだろうな。思考とか、感情とかを自分の都合でオン/オフできたら、結構楽かもしれない…などと、妄想じみたことを思ってしまった、今日この頃。
Jun 18, 2007
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ごめんなさいとありがとうが言えればいいと思う。【メモさま】大事なことだな、と思う。大事なことではあるんだけど、言いはぐってしまいがちなことばだな…とも。どちらもタイミングが重要で、その時を逃すとますますいい辛くなってしまう気がするから、余計そう感じるのだろうか。あるいは、過去に言えなくて結局そのまま機会を逃してしまったことが何度もあるからか…。もっと私の場合、それ以前にまず、そういう気持ちを持つっていうところから始めなければならないのかもしれないな。もともと思考が内向きだからとかいうのもあるのかもしれないが、「自分がしてあげたこと」とか、「自分がされたこと」とか、頭の中をいつも自分のことでいっぱいいっぱいにしてしまっていることが多くて、「自分にしてもらったこと」や「自分がしてしまったこと」にはなかなか意識が向かっていかない気がする。それに、こういうことって日々の生活に流される中でも意外と抜け落ちてしまいがちなんじゃないだろうか…。私なんか、事がすんだあとになって気づくことも結構あるし(そして、そのときには言うタイミングはすでに過ぎてしまっている)。あと、気づいてはいても、余計なプライドとか、照れくささとかが枷になって言い出せなかったり、あるいは、言うべきタイミングをつかみ損ねていることって、私は結構あるんだよな…。周囲にいるコミュニケーションが得意(そうと感じるよう)な人たちが、この手のことばをさらっと、タイミングを逃さず言っているのを見ては、「やっぱ違うよな…」などと、思うことも。かといって、癖づけてしてしまうもまた問題なんだろうな。言葉そのものが軽くなってしまうだろうし、なにより気持ちも薄れてしまいそう…。まあ、こうやって変に気負ってうことが、また、かえって余計に言いづらくしてしまう部分もあるんだろうとも思うんだけど。
Jun 15, 2007
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愛と友情のブログスフィア罵倒ダメ☆ゼッタイ×ナンデスッテ・マップ0.2【うどんこ天気 さま】私は基本的な感覚としては左上なのかな。でも、時々ネタかマジかの判別のしにくい罵倒のやりあいなどからトゲトゲしさのようなものを過剰に感じ取ってしまい、不快感が催されることもよくあるので心情的には右上に近いのかもしれない。とはいっても、「潔癖」というわけでもないつもりで、基本的に当人同士、コミュニティ同士で容認されている分には、別にかまわないんじゃないかな…と思っている。それに罵倒とまではいかなくても、ちょっとした軽口の叩きあいや、からかい、いじりなどなら、ネット上ではともかく、オフの場では、時々私もやられたり、やりかえしたりしていたりはするので。罵倒云々にかぎらず、特定の集団や組織などにある程度長く関わっていたりすると、その集団の中で、他の人に対するちょっとしたわがままやちょっと困った行為を行っても、何故かとくにおとがめもなく容認されてしまうポジションにいる人というのが結構出てくるように思える。私は、そういう人に振り回される側であることが多いと感じるせいか、その人の一見傍若無人とさえ思えてしまう行為がなんとなく容認されれていることに、強い不快感を覚えることが多いような気がしている。ただ、私自身、所属する集団に対してはかなりの迷惑をかけているにちがいないはずで、自分が気づいていないだけで、私だって本来なら許されざる部分を容認してもらっているのかもしれない。罵倒しあえる関係での許せる罵倒の許容範囲の見極めが難しいな、というのはよく感じているところ。それ以外だと、周りから、なにかとからかわれたり、いじられたりするようなポジションの人がいる集団でのいじられる側の許せる許容範囲も同様なような気がする。私が鈍いからなのかどうかはしらないが、こういった関係の見極めに対しては、その集団などから少しはなれたところに自分がいたりすると、うまく判断ができていないことがよくあって、絡まれたりした場合、ネタにマジレスをしてしまっていることも多い。ただ、場合によっては当人同士ですら、明確な許容範囲が互いに違っている場合があっても不思議ではないとは思う。許容範囲内だと思っていたやりとりが、実はただ単に我慢してくれているがゆえに表面化していないだけでおもいっきり地雷原に踏み込んでいて、何かをきっかけに鬱積したものがあふれてしまい、トラブルになってしまう…なんてこともあるのかもしれない。どちらにしたって、通常のコミュニケーションにたいしてすら、うまくいっていないと感じてしまう私などが手を出せる領域ではないなぁと、勝手に思っていたりはしているんだけど。
Jun 13, 2007
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他人のスタンス批判って【 [ngmn]さま】 スタンスって?【novtan別館さま】私は、ネット上でも何らかのスタンスのようなものを持っていて、それに添うような形でやっていっていたりするのだけど、「スタンス」というのは、強制されたり、したりするものではないように感じている。仮に「お前のそういうスタンスは、まずいから変えろ」とかいわれても、おそらく、私はそれだけではスタンスを変えたりはしないだろう。また、逆に「私はここではこういうスタンスだから…」と、スタンスを言い訳にしたり、あるいは相手にそれに沿うようなことを求めるようなものでもないような気がしている。私にとって、スタンスとは「自分だけに課すルール」に近いようなものだと思っているので、強制力は、持つとしたらスタンスを決めたその人自身だけに働くのではないだろうか…と考えている。ただ、そのスタンスは、例え自分に大して都合がいいものであってもそうでなかったとしても、あくまで自分が勝手にやっているだけのものなので、それに対して、批判されたり、場合によっては修正を求められたりすることは十分ありえるだろうし、そのこと自体は仕方ないろうな…と思っている。修正を求められたときに、それに従うのか、あえてつっぱねるのか、それとも、妥協点を模索していくのかは、その批判しだいといったところになるのだろう。「変えろ」ってちょっといわれたぐらいで、すぐにコロッと変えてしまうのもなぁ…とぐらいは思うけど、かといって何が何でも貫いていく…というわけでもないだろうし。
Jun 10, 2007
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慈愛と自愛のバランス【世界は称賛に値するさま】「何をするにしても、「自分のため」という部分を切り離せない」という類のことを少し前に書いた。「誰かのため」などと思っていても、その想いの底に自分の下心が透けて見えてきてしまうとも…。不純な動機だ、と感じる。どうやら、私にとって「無償で誰かのために何かをする」ということは難しいことのようだ。動機が不純であると、行為や想いそのものまで不純に思えてしまう。「誰かのため」だなんて、下心を隠すためのごまかしにしか思えなくなってしまう。では、その行為は嘘なのだろうか。その時、「誰かのために何かをしたい」と思ったのは、嘘なのだろうか。そうではないと思う。たとえ、それが下心から発生したものであったとしても、その気持ちそのものは嘘ではないと思う。また、それが明らかな見返りを期待しての行動であったとしても、その行為自体は否定されるものでもないとは思う。私が「無償で何かをしようとする」ことはなかなかない。「自分のため」を切り離せない。で、あればこそ、「自分以外の誰かのために…」と思えたことを大切にしたいと思う。たとえそれが、錯覚でしかないとしても…。あと、見返りを期待すること自体は、さほど問題ではないと思う。もっと問題なのは、自分の期待したとおりの見返りが得られなかったときにそのことに執着してしまうことだろう。まして「あなたのためを思ってやったのにっ」と、そこで相手にぶつけてしまったら、せっかくの行為も台無しになってしまうような気がする。でも、見返りを期待はしても、そのこと自体に執着することがなければ、そこまで一度止まることはできると思う。どこまで言っても自分の下心を切り離せないのなら、まずはそこから始めてみるのがいいのかもしれない。参考・関連:いまはたぶん、おれのため、と、あなたのため、を、うまく組み合わせて、優しげな行為、を、具現化させることができている【世界は称賛に値するさま】
Jun 6, 2007
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「書くまでもないなと思っている事でも、とりあえず書いてみる」という事【ekkenさま】 最近何か思うところがあっても、「まあ、書くまでないか…」と思って書かずにそのまま飲み込んだり、一応、メモ帳などに要点を書き散らしするだけしてみて、そのまま没にすることが、前より少し増えてきたような気はしている。「書けない」とかいう以前に、書かない状態になってきているな…とは思う。かといって、最近自分が書いてる記事が、自分にとっての「すごいこと」とか、「あらたな気づき」ばかりかというとそうでもなくて、公開してから「やっぱ書かなくてもよかったかも」と思うことも結構あったりしている。おそらくは内容いかんにかかわらず、「何か書けそう」と思った時点でとりあえずは書いていみるの方がいいのだろうけど、なかなか書く意欲をそこまで持ち上げていけなくなってきているように感じている。ブログを書いて間もないころのログを見返してみると、ちょとした雑感とか、書くまでなさそうと思えるものも結構出てきたりする。ああ、昔はまだ、できていたんだな。なんで、昔書けてたことが今、書けなくなってきているだろうと、考えてみる…。多分それは単純に「知らなかった」からだろうと。自分の書こうとしていることが、「既に誰かによって書かれている」こと、「特別どころか、いくらでも代替可能」なこと、それどころか「下手すると過去に自分が書いている」こと、などがほとんどだという意識が生まれてしまったことが、書く事に対する意欲の減退を助長しているんじゃないだろうか。「既に書かれていても、当たり前でも、あえて書こう」とまで思って書いていたようにはさすがに思えない。あと、書きあがるものを見ても、完全に自分だけのメモっぽいものばかりになってきたと感じているのも一因かもしれない。自分のためだけに何かを書くのだったら、公開しなくてもいいんじゃないかな…って思うことはよくあるので。
Jun 3, 2007
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オタク疲れを感じませんか?【Something Orangeさま】(情報元:REVの日記 @はてなさま)数多くのメディアに簡単に触れられるようになり、実際に触れる機会も増えたからなのかどうかはわからないのだけど、昔に比べて、一つ一つの作品に対する、熱意のようなものがかなり薄くなったような感じがしてならない。何かに「はまる」という事自体、ほとんどなくなってしまったんじゃないだろうか。それどころか、ちょっと、自分のアンテナに引っかかって興味がわいたとしても、そこで少しそのメディアに触れて、そこで終わってしまう、なんてことも多くなってきた。アニメなんかで言えば、YOUTUBEか何かで、いくつか動画を見てそこで終わってしまうような感覚か。すぐにそのメディアを消費しようという段階までいくことはあまりない。「機会があったら見てみようかな」とぐらいは思うのだけど、自分の中で保留にしているうちに流れてしまい、大抵は、あとでその機会が来たときに「あれ、なにか見たいと思っていたものがあった気がするけど、なんだったっけ?」と、首をかしげることになる。なんとか消費する段階までたどり着いたとしても、消費し終えるまでの時間がかなり短くなったような気がしている。大抵、一度一通り、見たり、読んだりなどした時点で終わってしまうことがほとんどで、再度見直したりすることはかなり稀になってきた。とにかく、長い間ずっと同じメディアに興味を持ち続けるのが困難になってきた。ちょっと間をおくと、醒めてしまっているなんていうこともよくある。ゲームなんかで長時間のプレイを前提とするゲームを遊ばなく(遊べなく?)なったのも、これが原因なのかもしれない。こんな私でも、昔は一つ一つのメディアにかなり長い間、はまっていられたように思うのだけど、それは自分の手の届く範囲に消費できるメディアがあまり存在しなかったからなのだろうか…。興味のあるもの、面白そうなものが、両手で抱えきれないほどあるというの現状は、おそらく嬉しいことには違いないのだろうけど、自分が夢中になる前に、興味が醒めてしまうものが多い、というのはなんとも寂しい。最近、ちょっとした興味がきっかけで、対象のメディアを一気に買い揃えたり、それどころか関連する商品にまで手を伸ばしだしたり…というのを見たりするたびに、その情熱を羨ましく思うとともに、「私にはもう、そこまでの行動力はなさそうだな…」と感じてしまったりしている。
May 31, 2007
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ヘイ君に何をあげよー【イチニクス遊覧日記さま】理由のわからないことで泣きそうになるということは、年々少しずつ増えているような気がしている。しかも、音楽がそのきっかけとなっていることが不思議と多いように思えてならない。聞いていて、不意に目が潤んできていると「あ、やばい」と感じる。大抵こらえても、少しは泣いてしまうようだ。一度漏れそうになったものは、完全には止められないようだ。頬をつたう涙を拭きながら、「泣かされた…」とか思うこともある。特定の音楽には私の涙腺を刺激するものがあるのかもしれない。ただ、普段は何気なく聞けている音楽が、なぜか今日はダメで、不覚にも泣いてしまったなんてこともあるので、自分の感知しきれていない範囲で精神的な変化が起こっていて、その音楽をトリガーにして、涙という形で表に出てきただけなのかもしれない。 自分では押せないスイッチのようなものを、パソコンから流れるそのピアノの音が押したことがうれしくて、その曲を作った人にお礼をいいたくなる。理由のわからない涙は、私にとって少しの混乱をもたらす。この涙はなんだろう。何のサインだろう…と。なんでもないはずなのになんで泣きたくなっているのだろうか…と。音楽で泣くことなんてないと思っているのか、原因はいつも、自分の中から探そうとしている。ただ、仮にその曲が原因だとわかったとしても、私はとてもじゃないが、感謝の気持ちなんてわいてこないと思う。沸いてくるのは、むしろ逆。「なんて事をしてくれたんだ。泣きたくなんかなかったのに」などと思ってしまうに違いない。おそらく私は、泣くことにかなりの抵抗があるのだと思う。「泣かされた」なんて思ったりするのがいい証拠だ。最も、私は、怒ることに対しても否定的だし、自分が笑顔になっていることを指摘されると憮然となったりしがちなので、感情を表に出すこと自体にあまりいいイメージを持っていないんじゃないだろうか。ここでも、自分の感情面とはなるべく切り離しておこうとか思っている部分があるし、知らず知らずのうちに自分の感情に対して抑圧しているのかもしれない。感情にたいする否定的なイメージを払拭し、素直に泣くことができるようになれば、相手に対する感謝の念もうまれてくるのかな。そうなのかもしれない。ちょっと今の自分からは考えられないんだけどね。だって、今の私にとっては、理由や、きっかけが何であれ、泣く、泣かされるというのは、不覚にしか思えないから。
May 28, 2007
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思ったこと、考えてたことが全てで書き残せたら便利だろうな…と、時々思う。自分が物忘れが激しいほうだからなのかもしれない。私にとって、思うことはかなり軽いようだ。油断するとすぐに流れて何処かにいってしまう。繋ぎとめておきたければ、それだけ強く、刻みこむようにしておく必要がある。思った時点で、すぐにメモにでも残せば違うのかもしれないが、そうしようとしたとたん霧散してしまうこともよくある。また、仮に書き残せたとしても、思いを書き残そうとする時点で既に何かが削ぎ落とされてしまうのか、それはすでに自分が最初に思っていたのと、すでに変わってしまっていることも多い。なかなか、思ったことをそのまま残すというわけにはいかないようだ。こうやって書いていくと、思ったことが流れてしまうということは悪いことように思えるのだが、じつはそうでもないのかもしれない。私が、普段思っていることの中には、けっして表に出したくはないものとか、改めて目にしたくないようなものも結構含まれているように思う。思うことは軽い、ふとしたことですぐに流れてしまう。でも書く事は違う。起こそうとする時点で確実に重さがつく。それだけで確実に少し、心にも刻みこまれる。まして後で読み返しても通じるぐらいの形にして残すのなら、なおさらだろうと思う。少なくても忘れるのには確実に時間がかかるんじゃないだろうか。軽いから、すぐに流れてしまうから、そうわかっているからこそ、どんなことも思っていられるのかもしれない。くだらなくて恥ずかしい妄想も、激情のままに誰かを傷つけ、憎むことも。しばらくすれば流してしまえるから…。思うことが書く事ぐらい重くて、深く刻み込まれてしまうのなら、うかつにいろいろ思ったりできなんじゃないだろうか。流れて忘れてしまったものは、もともと、そうなった方が良かったか、その程度のものだったんだろう、多分。とりあえず、今日のところは、そう言い聞かす。またどこかで思い出すだろう…。きっと。
May 24, 2007
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「鈍感」よりも「過敏」な方がいい。 【オオカミの遠吠え通信さま】私は、どちらかと言えば「敏感」な方に入ると思う。とはいはいっても、私の場合、全ての言葉に対して「裏」を読めるというわけでもなく、自分に向けられているのかどうか怪しい「悪意」や、自分にとって痛みとなりうる言葉にばかり過剰なまでに裏読みしてしまっていたりする。逆に、「言葉こそ乱暴だが、本心ではそうではない」などとという場合は、相手との付き合いの長さなどに関わらず、額面どおり受け止めてしまいがちだ。冗談めかしたからかい言葉なんかもそうで、よく私は相手が本気かジョークかを見極められないまま、「ネタにマジレス」をしていることがある。おそらく、ストレートではなくて遠まわしに要望や本音とかを伝えられたとしても、それを察することなく、そのまま流してしまうんじゃないだろうか。また、私は、自分が傷つけられることにこそ敏感だが、そのわりに、自分の言葉が誰かを傷つけるということに関しては、どうも敏感とは言いがたいようだ。そのため自分の心無い言葉で誰かを不用意に傷つけてしまったりすることも多く、その度に、自分が発した言葉の威力に対していかに配慮がたりなかったかを思い知らされる。結局私は、自分への痛みに敏感なだけで、言葉の「裏」を読み取れるわけではないのだろうと思う。どうせ、敏感であるのなら、自分への痛みに対してだけでなく、他の要素に対しても敏感になれないと、その敏感さを生かせないように思えてならない。自分に対するネガティブ要素に対してのみ過剰に裏読みするというのでは、「鈍感」な人とそう変わらないのではないだろうか…。
May 22, 2007
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じぶんのため、たにんのため… 【星の旅さま】私は、多分、自分の幸せを優先してしまうだろうな。どうも、まずは自分のために、あるいは自分が幸せになる、というのが根底にあるみたいで。だから、自分の取り分を他人にあげるっていうはあまりなさそうな気がする。なら、余った分であれば、おすそ分け可能なのかな…と、考えても見るんだけど、そもそも、「余る」という状況になるということがなかなかないように思える。それだけ私が欲張りってことなのか、本当に足りていないだけなのかはよくわからないけれど。仮に、自分の取り分を誰かに上げる状況というのができたとしても、私は相手に何らかの見返りを求めてしまうんじゃないだろうか。例えそれが「感謝のひとこと」であっても、返ってくるものがなければ、その分相手に対する不満のようなものが生まれてしまいそうに思えてならない。なんというか、どんな行動であっても、私は「自分のため…」という部分から、離れられないような気がしている。例えば、ちょっと手を伸ばせば届きそうな位置に自分の好きな食べ物1つだけがあるとして、私は既に自分以外に誰かがそれに手を伸ばしていれば、その人を差し置いてまで取ろうとはしないだろう。けど、それは「相手のためを思って…」とかいうより、「そうすることでその人に嫌われたくない」とか、「自分ががめつい人だと思われたくない」とかいう気持ちが先にあってのように思える。別の話を出せば、私は、嫌いな相手に対して「不幸になれ」よりも、「どこか遠くで幸せになってくれ」と思うことが多かったりするけど、これだって、「他人の不幸を願う自分が嫌」とか、「嫌いな奴が幸せになっているのを見て不快になりたくない」とかいうのがありそうだし、それ以前にそうなることで、「嫌いな奴から離れられる」という、私が一番望んでいそうなことが透けてみえてきそうだ。自分の見方が問題なのか、単に私が利己的な人間だからなのかはわからないけれど、自分のどんな行動にも自分にとっての都合のいい理由というのがあるように思えてならなかったりする。「自分のため」いう部分から離れて誰かに何かできたり、そこまで行かなくても誰かの幸せを祈れたりできたらいいな…と思うこともあるのだけど、利害的なものを考えた途端、その気持ちも霧散してしまいそうで…。関連:ちゃんと幸せを願えなくてごめんなさい 【世界は称賛に値するさま】
May 20, 2007
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文章に書き手は現れるのか 【Blog向上委員会 さま】私、見事なまでに「コメントの少ないブログの特徴」が当てはまってる(笑)。さすがに全部ではないけれど。コメントがつくことが少なくて寂しいとは思うけど、一方で最近ではそれが当たり前になっているので、無反応を想定した上で記事を書いていることが多い。それが悪循環のもとにもなっているんだろうけど。とはいえ、一方で自分自身でそういう道を選んだのかな…とも思っている。決して、積極的にそう望んだわけではないにしても。私は、読み手に対し、「いつも初対面のつもりで」とか、「常に少し距離を置いて接するようにする」とか何度か書いた覚えがあるが、自分でそう決めてしまった時点で、ブログをつかって積極的にコミュニケーションを取っていくことをほぼ放棄してしまった部分があると思う。それでも、文章などでコミュニケーションを主体にしていれば、かなり違ったのかもしれないけれど、私の文章はお世辞にもコミュニケーションを主体としているとは言えなかったりする訳で…。あと、自己完結ぎみで、独り言っぽい文章じたいに、どこか「そっとしておいて」という空気が内包されてしまっているんじゃないだろうか。だから、実は「ここで私なんかが声をかけたりなんかしたら、かえってここの雰囲気を壊してしまうんじゃないか」と、気をつかってくれて、声をかけないで見守るようにしてくれているだけなのかもしれない。そのことが、もし、コミュニケーションを取りたいのにうまくいかず、空回りしている結果だとしたら、ものすごく寂しいし、切ないとは思うけど、私自身、元々の気質もあって、あまり自分から積極的にコミュニケーションを取るタイプではないし、ブログの記事そのものも、自分向けに書いている部分もあるので、方向が内向きである以上、交流が減ってしまうのはある程度は仕方ないのかな…と。まあ、それでもコメント欄とかで盛り上がっているところをみたりすると、寂しいって思うこともあるんだけど。
May 16, 2007
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諦めたらそこでコミュニケーション終了ですよ 【べにぢょのらぶこーるさま】 自分が意図した通りに相手に気持ちが伝わらなかった場合、誤解されている部分をちょっと訂正するか、注釈的な説明を付け加えれば済む話なのに、「あぁダメだ、じゃあもういいや」と、理解されることを早々に諦めてしまうのです。そういうところは、私にもありそうな気がするな。必ずしもそうするってわけでもないんだけど、話していて「なんか、これ以上言っても、ダメそうだな」って感じてしまうと、もうアウト。「ん~、まぁ、そんな感じ…」などとお茶を濁してしまう。何度か特定の人と、そういうやりとりが続けば、その人に対して「言うだけ、無駄な人」というレッテルを貼ってしまう。人間関係じゃなくても、趣味や嗜好なんかの話題とかでもそう。周囲の何人かで、ダメだったら、もうその趣味・嗜好は、自分だけのものになる。「どうせ、言ってもわかってくれないし…」というつぶやきと共に、全て飲み込んで諦めてしまう。ただ、この「どうせ~」が、ときどき厄介なことになったりする。どうやら、この言葉とともに飲み込んだものの中に、かなり後のほうまで残っていたりするものがあるようで、そういったものは普段は意識していなくても、何かの拍子にひょっこり顔を出したりすることがある。急速に膨れ上がったりすることもある。あいつが「言うだけ無駄」なのは、散々わかっているはずなのに、いつもなら「もう、いい」で終わるはずなのに、なぜか今日はそこで終わらない。どうしても、わかってほしくて堪らない。で、ついには抑えきれず、なんとかしてこっちの意図をわからせようとしだしたりする。ものすごい勢いで。趣味なんかでも、相手の反応をみて「脈あり」とか感じてしまったら、そこから暴走してしまう可能性がある。それこそ聞いている相手が引いてしまいそうなぐらい。諦めているつもりでも、全然諦めてなんかいなかったんだな…と、その時になって始めて気づいたりする。自分では、いつも「どうせ~」と思った時点で全て諦めて終わりにしているつもりでも、なかには「わかってくれない」というオブラートにくるんで、「わかってほしい」って思いを無理に飲み込んでいることがあるのだと思う。ひょっとしたら、いつもそうなのかもしれないけれど。
May 13, 2007
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強弱と満足のバランス 【世界は称賛に値するさま】「強くなりたい」、「もっと強ければ…」などと思うことは多いような気がする。日々の暮らしの中で、自分の弱さに対面させられる機会が多いと感じているせいかもしれない。「自分は弱い」という自覚があるのだと思う。強い人に対する憧れもあるのだろう。と、同時に、自分の弱さや弱いこと事態を、恥ずべき事と何処かで捕らえている部分があると思う。ただ、強さを渇望するわりに、自分がなりたい強い人とは…となると、それは完璧超人のようなイメージにすごく近いように思えて、一向に現実味が感じられない。そもそも私は、強い人と強がっている人の区別がついていないような気がする。どちらも、表面に弱さが見えていないから、ないものと決め付けているのではなかろうか。いや、それ以前に自分が憧れる「強い人」というのが、本当にいるのかどうかすら、疑わしい。強く見える人、強く見せれる人を、勝手に「あの人は強い」と、思い込んで決め付けているだけなのかもしれないのだし。それは置いとくとしても、私の場合、弱いとか強いとかいう以前に自分で自分をすり減らして、耐性を落としてしまっているような部分があるようなので、先にそっちを減らしていく方がいいと思っている。少しずつ、考え方、感じ方をずらしたり、修正したりするようにしてはいるつもりだ。長年しみついた気質でもあるので、なかなか思うようにはいかないのだけど。あと、自分が憧れているような強さとはまた違うのかもしれないけれど、自分の弱さを認められるというのも、一つの強さなんだろうと思う。私は自分の弱い所と対面させられる機会が多いわりに、そこからは目をそらし、都合のいいところだけをて見るようにしている気がしている。どれだけ覆い隠して見ないふりしてても、結局は自分の弱い部分がそのまま残っている以上、むしろそのこと自体が弱みにもなりかねないわけで…。弱さを克服しきれないのなら、いっそ受け入れて認めていくというのも一つのやりかたなのだろうと思う。
May 11, 2007
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とっても嫌な状況は感謝の状況【なりたい自分の育て方さま】私は、嫌な状況にあったとき、つい感情面が先にたってしまい、下手をすると脊髄反射で反応してしまうこともあったりしている。もっとうまく対処できるように、気にせず受け流せるようにとは思っているのだけど、なかなか現実はうまくいかず、湧き出した不快感を抑え付けるあたりで精一杯だったりしている。短気なせいなのか、こういう嫌な状況に出くわすことは多いような気がする。思い返してみても、人間関係でトラブルを起こした例は数え切れないほど。ただ、そういう状況になって初めてわかることというのも、結構あるように思える。正直、コミュニケーションに苦手意識もあるので、あまり人間関係でトラブルを起こしたくはないと思っているのだけど、仮に今まで全くトラブルを起こすことなく万事スムーズにいっていたら、おそらく未だに気づけなかったことがたくさんあるのだろうな…と思う。例えば、・そもそも、自分がされて嫌なこと、傷つくことはどんなことか。自分は相手に対して、そういったことをしていないのか。・相手が悪意を持って自分に嫌な行動、言動をしてきたように見えるが、そう決め付けているだけではいのだろうか。仮に悪意があるにしても、そうさせてしまう原因が自分になかったか。…などは、自分が一度、されてみなければ、気づけなかったのではないだろうか。もしかしたら、考えることすらなかったかもしれない。他にも、別に単に嫌な状況とかではなくても、誰かと接していて、気づけたこと、考えられるようになったことというのは結構多いんじゃないだろか。誰かに嫌なことをされたりすると、つい、「なぜこんなことが…」とか「なんで自分ばっかり…」など思い出し、しまいには状況や考えがネガティブな方向に向かいがち。だけど、事が終わって一度冷静になってからでもいいから、嫌なことをされたりするのも自分が成長するための糧になりえる、新たな何かに気づけるきっかけをもらえると考えられれば、少しは前向きに受け止められるようになるのかもしれないな。
May 8, 2007
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ふしぎなこと。【星の旅 さま】自分のやっかいな癖の一つに「肯定されるよりも、否定されるほうがしっくりくる」というものがある。他人から、自分がした何かに対して「すごい」などといわれても、もっとすごい誰かのことなどを思い浮かべたりして、内心で「こんなのたいしたことない」などと、否定している時が結構ある。それだけならまだしも、酷いときは逆にバカにされているようにさえ、感じてしまったり…。本当にその人は、私のしたことをすごいと感じているだけなのかもしれないのに、なかなか素直に受け取れない。かといって誰かから、否定されても傷ついたりしないかと言えばそんなことはなくて、むしろずっしりと傷つくのだけど、傷つきながらも、心のどこかで「やっぱり…」などと思ってしまっていることも多い。幼少の頃から否定されることが多かったせいもあって、褒められることになれていないということもあるのだろうけど、それとは別に、常日頃から何かあるごとに自分を否定してしまっている部分があるのだと思う。そのことが、消極性や諦め、無気力などを生じさせる原因の一つにもなっているのかもしれない。 むしろ逆に、貴方はダメだと言われるほうこそ、束縛になると思うのです。「全く何もできないのよ」、「いいや自分はできるんだ! ちゃんと見てくれよ! ちゃんと評価してくれよ!」 というのがたまっていくように思うのです。 この場合、自分で、”自分は本当はできるんだ”という逃げ道を作り出してしまいます。人間、自分で作ったものというのは、他人が作ったものよりも手放しづらいです。一度でも、”その道を正しい”と選んだ結果ですから。こういうの部分は私にもあるのだろうけれど、それ以前に私の場合、「できない」という否定そのものを言い訳として、時には逃げ道としてしまっている部分が、まずあると考えられる。誰かの否定に反発心を感じることがあるのは、「できない自分」を何処かで認めたくないという部分があるからこそだろうから、そこで出てきた「そんなはずはない、本当はできるはず」を逃げ道や言い訳ではなく、別の方向に向けられればいいように思える。ついつい、否定の評価を否定する、させることとかに向かってしまいがちなのだが…。ただ、まず、誰かに否定される前に、どこかから否定材料を見つけては落ち込んだり、劣等感を感じたりしてしまう癖を何とかする方が先だろうな。自縄自縛の一種のような状態におちいっているから、最初になんとかしなくちゃならないのはそこだろう。もちろん、自分を縛ってしまっている鎖は他にもあるだろうし、それだけで自信が持てるとは思わないけど……。
May 5, 2007
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冷却期間。【オオカミの遠吠え通信さま】私の場合、一度、友人と呼べるぐらい親しい関係になった人に対して、ある日突然に、何かと癪に触ったり、顔を見るだけで不快になったりするようなことは今のところはなかったりする。ただ、それは私がここ何年も、友人たちとそう頻繁に顔をあわせることが少なくなっているからなのかもしれない。大抵一ヶ月に一度会えればいい方だったりするから。ふと考えてみると、いがみあったり衝突する機会が多い人物ほど、以外にお互いに顔を合わせる機会が多いような気もしている。近くにいればいるほど、顔を合わす機会が多ければ多いほど、相手の不快に感じるところばかりが目に付いてしまうようになるのかもしれない。となると、現在友人として、親しくしてもらっている人たちも、一緒にいる機会や時間がもっと多くなれば、ひょっとしたら、その人への感情が変わって。疎ましく思う時が来てしまうのだろうか…。あるいは、逆に私のほうが、友人に疎まれる時が来ることだって十分考えられるな。相性とか好き嫌いという部分も含めて、その人とうまくやっていくための距離間というものがそれぞれにあるような気がする。好きな人ほど、もっと一緒にいたい感じ、嫌いと感じる人ほど、なるべく顔をあわせたくないと感じてしまうのは、その距離感をどこかで意識しているのかもしれない。そのことを置いても、互いに近づきすぎていれば、不快な部分に目がいく分、かえって見えなくなってしまう部分というのが出てくるのだろうな。一緒にいるうちは気づかなかったけど、離れてみて初めて気づいたことっていうのは、結構多いように思えるし。
May 1, 2007
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今回のは触発ではあっても、言及でもないし(そういうこともよくあるけど)、文章としてもあまりまとまってないな…。後、全体的に自戒だな。情けは人の為ならず【奥様、鼻毛が出ておりますことよさま】ムカムカきてるときにはなかなか気づけなかったりするのだけど、誰かに対して感じるそのいらつきは、その感情を向けられている対象より、向けている私の方にこそ、その発生源があることが多々あるよな…と思う。コンプレックスが主因のやつなんかはまさにそうだろうし。「なんで自分ばかりが…」と思い出すと、誰かが自分に対して悪意を向けていると考えがちな部分があるし、そうでなくても、つい周囲の誰かを悪者にしてしまいがちだったりするのだけど、例え積極的、意図的ではなかったにしても、相手に不快に思われる言動が、自分の中になかったかどうか、考えてみるのもいいとは思う。良し悪しとは別に(原因がある=問題だ、悪い。ではないことを踏まえたうえで)。 私は自己正当化しないといけない場面では、自分のスタンスではなく、相手のスタンスに立ってもなお、自分が正しいと主張できる根拠を用意するようにしています。それがないと言う事は、自分だけの正義に元づく正当性しかない訳で、それを理解してもらうのは相当骨が折れる作業です。 「自分が正しい、悪くない」という気持ちが強いと見落としてしまいがちなのだけど、自分がそう思っているように相手だって、自分の正当性を信じてそういった主張なり、行動なりをしている場合も珍しくないと思う。というか、自発的、自覚的に「悪意」を持って何かを言う、するっていうこと自体、実は少ないんじゃないだろうか、とも思っている。悪意を持って何かをする、働きかけることと、悪意に取る、取られることとは全く別だし、なにも自分の中にだけ「悪意」の発生源があるというわけでもないと思う。というか、全てが、自分の被害妄想だったら、それはそれでまだ楽だよな…。どう考えても理不尽というか、割に合わない仕打ちを受けることもあるとは思う。それでも、いがみ合いになって、互いに消耗するとしても、ぶつかり合えるのなら、まだいいのかもしれない。正当化を主張したくても、主張できない(直接的な相手が特定できないとか、相手との間に上下関係などが発生しているとか)場合もあるわけで、一方通行にひたすらぶつけられるだけだったりすると、こちらとしても、対抗しづらい。その度にその組織や集団から抜けるっていうわけにもいかないだろうし。別に特定の行為や言動に、イラっとくること自体を否定する気もないし、あまりしたくもないのだけど、そのイラつきは別として、自分に向けられた行為や、言動、求められているものなどにどう向き合っていくか、対処するかを考える必要はあると思う。感情優先ではなくて。
Apr 28, 2007
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自分と向き合うということ【Say::So?さま】読んでいて、なぜか、昔の自分の姿を見たかのように感じられた。おそらくは錯覚だろうけど。かつて、私は、ただひすら自分と向き合っていた時期があった。自分の頭によぎった言葉を何度も、何度も、繰り返し、自分にぶつけていた時があった。その言葉は、私を追い詰め、走らせた。しかし最後には、心の奥底に潜む不安に飲み込まれ、動けなくなるばかりか、無気力に陥ってしまった。私は、考えすぎたのだろうか。それとも、考えがたりなかったのだろうか。自分と真正面から向き合いすぎたのだろうか。それとも、向き合った気になっていただけだったのだろうか。未だによくはわかってはいない。どちらも正しいようにさえ思える。だた、それ以前に、結局私は考えるのをやめて生きつづけることはできなかった。向き合うのをやめることも。考えてもどうしようもないとわかっていても、考えれば、考えるほど、動けなくなりそうに思えても、考えてしまう。このままではらちがあかないからと、一度は動くために考えることを切り上げても、また後でそのことを蒸し返して考え出すのが私のサガのようだ。なら、とことん向き合っていくしかないのかもしれない。 他人は自己を通してしか見つめられないし、自己は他人を通してじゃないと評価されない。だから自己を飽きるほどそれこそ病気になるんじゃないかと思うほど見つめることは同時に他人を見つめることにもなる。世界を眺めることになる。いつだって今、自分が発した言葉はどこかの誰かに影響を受けて心の底から生まれてくるんだから、とじこもっててもいいからとにかく考えることをやめちゃだめだ。ある程度、納得はできる。そうだろうと思うところもある。でも、閉じこもってしまうのはあまりいただけないような気がする。一人の時間を持つのはいい。でもずっと一人だと、どうしても思考は狭まってしまうように思える。視点も一つに固定されがちになる思う。自分が、他人を見ているように、他人も自分を見ている。他人は、自分が見ていない、気づいていない新たな視点に気づかせてくれる存在にもなりえると思う。「自分を見つめることは、他人をみつめることに繋がる」のかもしれないけど、逆に他人を見る、触れ合うことから、自分を見る、触れ合うことに繋げる事もできるんじゃないだろうか。自分と向き合うにしても、いつも同じように向き合っていたら、見える部分はおのずと限られてしまうんじゃないだろうか。視点を変えたり、距離をとってみたりして始めて見えてくるものもあると思う。関連: 考えない事が私には合っているようだ【歓楽叶わぬ納骨堂庭園さま】
Apr 24, 2007
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「好きな人ができない」人のための「恋愛スコープ」の使用法【活字中毒R。さま】 僕は合コンには、付き合いで何度かしか行ったことがないのですけど、そんな席で男の友人から必ず聞かれる「お前、どのコがいちばん好き?」という問いがものすごく苦手でした。自分に自信がない僕としては、「いや……僕みたいなカッコもセンスも悪い男が、ここにいる女の子をあれこれ品定めするなんて、失礼なんじゃないか……」と。私もこの手の質問は苦手だな。おそらく聞かれたりしたら何か適当なことを言って、なんとか明言を避けようとすると思う。私は、自分が女性の選別をして、さらにそれを口にだすっていうこと自体に、ある種のいやらしさ(卑屈さでもいい)みたいなものを感じているような気がする。それともう一つ。自分の好みに対してのイメージが実はそれほどはっきりしていないのかもしれないな…と。恋愛の話からはずれるのだけど、先日友人と焼肉を食いに行った際、私が肉の注文をすることになったのだが、その時何を頼んでいいのか全く解らなくて、しばらく固まってしまった。「好きなものを頼めばいい」と友人は言ってくれるのだけど…。優柔不断も手伝って一向に決まらない。そこではじめて、自分がどんな肉が好きなのかさえ、よくわかっていなかったことに気づいた。他にも、何処かに外食をする際に「なに食べたい?」と聞かれると、大抵は「なんでもいい」と言っていたりするくせに、いざその食事の時になってみると、いろいろと文句なりや不満なりが出てきてしまっていたりすることがある。「なんでもいい」といいつつも、なぜ後で文句が出てくるのか。本当に「なんでもいい」のなら文句が出てくるとは思えない。おそらく、私は嫌いなものについてはよく知っているわりに、好きなものにたいしては、自分が思っているほどはよく知らないのではないのだろうか…。そして、実は恋愛に対しても、そうなのではなかろうか、と。「どんなコが好き?」となどと聞かれれば、それこそ身の程知らずなまでの好みをやたらと並べたてることもできるから、一見きちんとした好みがあるようにも思える。でも、その並べ立てた好みの子と恋愛するとして、具体的に何がしたいのかというイメージがあまり浮かばない。なんか、いまひとつピンとこない。まあ、自分が女性と二人きりでいる状態のイメージの時点で、もうピンとこなかったりもするのですけど。そのこともあって、私は自分が並べ立てている好みに対し、一方ではどこか疑いの目を向けている部分があったりする。それは実は自分に都合のいい、あるいは一部の欲求のみが先行してるだけなんじゃないだろうか…とか。そう思い込もうとしているんじゃないのか、とか。なんというか、ある程度、時間かけたり、経験を積んで、自分の「好み」を突き詰めていかないと、そのものに対する自分の具体的な好みとかってわかってこないような気がしている。私が恋愛に対してはとことん経験不足で、今現在もあまり積極的になれないから、、余計にそんな気がしているのかもしれないのだけど。
Apr 22, 2007
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書き続ける事で、読者を維持できるのか【他人の不幸は蜜の味さま】最近はそうでもないのだけど、以前、更新期間がいつもより少しでも開いたりすると、すごく焦っていた時期があった。うまいことネタができたこともあったのだけど、そうそう都合よくネタがあるともかぎらず、そう苦し紛れで更新してしまったこともあったな。そこまで酷くなくても、書いていてもどうも今ひとつ勢いがつかない、まとまらない、自分の中でもかなり消化不良的な記事を書いてしまっていることは結構ある。こういう時の記事というのは後から読み返してもなんとなく分かったりするので、多分読んでいる人にも、その時のこっちの状況が記事から透けて見えているんじゃないのかな…と思っている。かといって、もともとものぐさな私が書きたくなるまで放置しておいたら、更新期間なんてどんどん開いていくだろうし、まして(例え錯覚でも)それなりの自信作ができるまで待っていたら、みんな私の事なんて忘れてしまうんじゃないかと、不安になる。新しい記事を読まれるたびに、あるいはアクセスされるたびに、ある部分では読者に試されている部分があるように思える。「なんだ、まだ更新してないのか」「なんか今日のネタはいまいちだったな」そんなささやきが聞こえてくるように感じることもある。焦っていたり、消化不良だったりで、自己評価がいまいち気味の更新が続いたときは、「今度こそ見限られるんじゃ…」という思いが浮かんでくる。毎日とまではいかなくてもそれなりに高い頻度で更新を続けて、そこそこ質のいいものを提供できているという自負があれば、おそらくそんな思いもないのだろうけど、私にとってはそれはあくまで理想でしかなく、現実としては、頻度にも記事にもムラが出てきてしまっている。自信作なんてそうそう書けるものでもない。あくまで趣味だし、基本は自分のためではあるのだけど、欲もあるから、アクセスもないよりはあったほうがいいと思うし、なんとか、読者になってもらえた人たちに 忘れ去られたくもないし、見限られたくもないと思っている。最近は、新たに誰かに興味を持ってもらうことよりも、既に自分の方を見てくれている人たちをどれだけ引きとめて置けるかの方が関心が強くなってきているような気がする。
Apr 20, 2007
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読むのと書くの、どっちが好きですか?【tanabeebanatの日記 さま】(情報元:明日は明日の風が吹くさま)うーん、どっちなんだろうな。一概に「どっちが好き」と決められないように思える。読むのが好きだから、ネットであちこち読んで回っているんだと思う。と、同時に書くのが好きだからこそ、ブログを続けてきているんだろうとも思う。というか、どちらかの気持ちがなかったら、私は感想系のブログなんてやっていないんじゃないのかな…て、思う。読むことだけが好きなのなら、ブログを始めることなく、はてブだけで満足していただろうし、書きたいって気持ちがもっと強いのなら、感想系とかにこだわらず、もっと、いろいろな形で出力を増やしていく方向に回っていくように思える。ただ、下に引用する、この感覚はわかるような気がする。 感想系のブログとかをやっている人には私と同じようなことを感じている人がいるはず。本(漫画やテレビ視聴、他のサイトも含む)を読んでいる時間より感想を書いている時間の方が長いのではないかと。本を読むのが目的ではなく、感想を書くことが目的になってしまっているのではないかと。そして、結局本を読まなくなり、そうすると当然感想も書けなくなりフェードアウトすることになるのでしょうか私の場合、「書きたい」という気持ちが湧き上がってきている時ほど、読まなくなるし、読めなくなる。仮に読むとしても、それは自分の書きたいことを文章化するための手引きや参考としてなので、いつもとはまた感覚が違うように思える。逆に読む時間が長くなればなるほどに、書けなくなってしまうように思える。書きたい気持ちを優先させるなら、むしろ一旦そこで読むことをやめて、自分の書きたいことをまとめる作業にに入らなければならくなる。そういうこともあって、私の場合、その時々で読みたい気持ちと書きたい気持ちの強さが変わっていくように思える。ただ、それでも私は「読む」方が好きなのだろうと思う。少なくても、ここ最近はそういう気持ちになっているような気がする。ここ最近、ネットにさける時間が結構減ってきているという部分もあるとは思うけど。読むためにつかっている時間と書くために使っている時間なら間違いなく、読んでいる時間のほうが多い。これはずっと変わらない。読んでいて、なにかもやっとした何かが浮かんでくることは結構あるんだけど、そこから、書きたいという気持ちにはなかなか繋がっていかなかったりする。感想らしい感想が思い浮かばないことも多い。まあ、これは私がすぐに考えがまとまらないからっていうこともあると思うけど。でも、あまりそのことで気に病まなくなってきた。何というか、書く事が好きだったら、もっと「書けない」ことに対して気にする気持ちが大きくなりそうに思える。私も「書きたい」っていう気持ちが大きい時には、そういう気持ちの空回りもその分強く感じていたから。とはいっても、ブログを書くようになってから、ネット以外で読む(漫画や本、アニメ、映画とか)に触れる時間はむしろ激減しているし、ブログをこのスタイルにしてから、どこか「書くために読む」という「手段の目的化」のような倒錯現象を感じているもあったりはするんだけど。
Apr 17, 2007
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非コミュとは固定した属性ではないのかもしれない【光と風と明晰夢さま】内向的な性格やコミュニケーションにおける苦手意識などもあって、普段はなかなか自分から積極的に会話をしかけられないけれど、そんな私でも普段の消極性が嘘のように饒舌になっている時はあるんだよな。自分が会話したくなる話題を振られるとか、話をしやすいと感じる相手とか、私が饒舌になれるきっかけというのが、いくつかあるんだろうと思う。非コミュを自称しながら、ネット上ではコミュニケーション達者なように見える人っていうのは、ネット上において、自分が話しやすい空間を得ている人なんだろうな、と思う。ただ、私の場合は、ネットでも現実でもそんなに変わってないように思える。一回の記事の分量や、ブログを書いている期間などから、一見饒舌に見えないこともないのだけど、私の記事は会話というよりひとりごとだとおもっているので、コミュニケーションをしているという意識はあまりない。それに、自分のサイト以外でコメントしたり、トラックバックを送ったりすることもしない殆どしない(というかできない)ということからも、社交的とは言いがたい。結局、現実においてばかりでなく、ネットでも私は引っ込み思案であることに変わりはないんだな。 非コミュと称する人のコミュニカティブな側面のみを見れば、この人のどこが非コミュなのかという問いが出てくるのも当然のことであると思う。しかしその振る舞いは、現実において圧倒的な重みを持っている学校なり職場なりでの非コミュ性の裏返しであるという可能性は常に考えておきたい。また現実に一見コミュ強者であるように見える人達も、別の場面では非コミュたり得る可能性も忘れたくない。普段コミュニケーションのをとっていない、取れていない分、自分がコミュニケーションできる場所ではその反動でやや過剰なぐらい饒舌になるっていうことはあると思う。私が饒舌になっている時が大抵そうだったりするし。あと、社交性が高い人でも、話にくい相手、状況はあるんだな…というのは、自分の周囲の人を見て、最近すこしはわかってきたつもり。一見社交的に見える人からといって、、コミュニケーションに対する苦手意識が全くないとも限らないんだろうと思う。コミュニケーションが達者な人に対して私がよくイメージしているような、相手や状況にあまり左右されないオールマイティなコミュニケーション達者さんは、実はあまりいないのかもしれない。
Apr 13, 2007
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いい人をやめる【メモさま】嫌いというか、接していると、どうもどこか嫌な感情が喚起される人というのは、ほんと、どこにいってもいるもんだな…と感じている。私自身が人見知りしたり、嫌なところに過敏なせいもあるのかもしれない。その度に場所を転々と変えていくわけにもいかないのだから、ある程度はそういう人とも付き合っていくしかないんだろうとは思っている。。『(嫌いな)相手に、期待しない、何も望まない』という部分には共感できるのだけど、その相手が毎日のように顔を合わせ、仕事や生活に身近に、密接にかかわってくる場合だとなかなかそうもいかないみたいで、いつのまにかいろいろな部分で要望のようなものが出てきてしまっていたりする。相手に期待しないでいられるための距離感を得るためには、物理的にも一定の距離を置く必要があるのかもしれない。ことに私の場合は。私の短気が問題なのか、相性の問題なのか、ちょっとした言い合いみたいになることはよくあって、そのときに勢いも手伝ってその要望をぶつけてしまったこともある。逆に、相手からいろいろ頼まれごとなり、要望なりをうけることもよくある。別にぶつけてしまった要求に相手が応えてくれると思っているわけでもないし、正直、そんなに期待しているわけでもないつもり。実際スルーされて、向こうの言い分だけ通されることもよくある。かといって、相手の言い分だけを全部飲むのも癪だから、それは応えられる範囲だけに留めたり、拒絶してみたりしている。それでも、何度か応えてくれたこともあったから、決して意図したわけではないのだけど、結果的にぶつかりあいながら着地点を模索しているような感じになっていってる部分はあるのかもしれない。それに、嫌いな相手ではあるんだけど、四六時中嫌いな思いを抱いているわけでも全てが嫌に思っているわけでもなかったりする。気持ちは振り子のように揺れ動いていて、時々凄く嫌いにもなれば、とくにそういった感情を抱かない時もある。嫌いなところというのも、何というか部分的なようで、凄く嫌いな部分がある一方で、自分も見習いたいとさえ感じる部分もある。ちょっとしたぶつかり合ってしまうことこそ多いのだけど、そこで相手の関係が悪化して、深刻な対立を生むことは今までの時点ではなかったりする。思ったことは、少しぐらい角が立つことでも結構ぶつけてきたりするからなのかもしれないが、トラブルに対して禍根を残すようなことはなく、覚えていても陰湿な方向に向かうもないみたいなので、実はそういった部分では、むしろ相手に助けられていたりもするのかもしれない。
Apr 10, 2007
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アクセス煩悩からの解脱【『斬(ざん)』 さま】ネットとの距離間の見直しと、アクセス数の呪縛からの開放は、かなり前からの課題だったりするんだけど、いまだにどちらも達成されてはいないんだよね。さすがに初期の頃のようにずっとネットにべったりということはなくなってきたのだけど、そのかわりオンとオフの差が激しくなってきていたりしている。アクセスに関してはどうなんだろう。少しずつ、気にしない、振り回されない方向には向かっているようにも思うのだけど、それでも更新した日とか、急に増減した時の自らの状態を顧みると、全然変っていないんじゃないのか…とも思える。気にしてないつもりでも結構気にしてるんだな…とブログの管理画面を見るたびに思うし、やっぱりもうちょっとアクセスほしいな、などと欲をかいてしまうこともある。それと、どうも私の場合、両方とも自身のブログに対するモチベーションとかなり関連があるようだ。モチベーションが落ちているときは自然とネットから離れ気味になるし、アクセス数が落ちていてもさほど気にはならない。でも、それだと更新にも影響が出てしまうばかりか、「閉鎖=開放」ということになってしまいそうのが困りどころ。熱くなりすぎず、かといって醒めすぎず、自らの身の程を知って、その上できちんと日々のモチベーションを維持していく…というのが理想といえば理想なのだけど、もともとものぐさで結構、精神的な浮き沈みが激しいほうということもあって、なかなかうまくいかない。アクセスのことでよく思うのは、自分ってこんなに承認要求とか喝采願望が強かったのかな…と。そもそも、アクセスが欲しくてブログ始めたわけでもないのだし、それこそ初期の頃の日々のアクセス数なんて……。初めて一日のアクセスが100を超えた時のことを思うと、一度初心に帰る必要があるのかな、と思う。あのころはそれでもモチベーションを維持できていたのだろうし。
Apr 8, 2007
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気づくこと【ちびとチョコ日記さま】毎日が繰り返しに感じるとか、そういう部分があるって言うのは、今の自分が「閉じた世界」にいるっていうこともあると思う。多分、自分の周りにはさまざまな世界があるはずで、自分がそれに気づけていない、気づいても見逃しているんだろうと思う。関心がわかないとか、面倒とか、勇気がないなどといった理由で。自分の身の回りにある一定の部分にしか目を向けず、自分で線を引いてその中だけで過ごしてしまっている、そういう部分が今の私にはあると思う。実際、私はネット上でも「自分の世界」の境界線から、外に踏み出したり、踏み込んだりすることはほとんどなくて、どちらかといえばむしろその内部に閉じこもりがちだ。幸いにも、ネットには自分から中に踏み込むような行動に起こさないままでも、外側からさまざまな世界を見て回れる側面もあるから、そこで満足してしまっている部分もあったのだろう。基本的にインドア派ってコトもあると思うけど、一人でも全く気にならない。むしろ一人の方が落ち着くことさえある。そういう側面から、自分から扉を開けて外の世界へ踏み出していく必要性をあまり感じられなかったのかもしれない。一方で、それがいろいろな場面で「踏み込めない自分」を納得させたり、ごまかしたりするための方便として使われた部分も大きいのだろうな。そうやって、閉じこもりがちな私の世界に、あえて踏み込んでくる人もいる。自分の中に踏み込まれてるということは決していいことばかりではなくて、わずらわしさを感じたり、嫌な思いをしたこともあるのだけど、そうやって、踏み込んでもらえたからこそ、得られたもの、気づけたものもあるとは思う。そう思うと、もうちょっと自分から踏み出してみるのもいいかな…とも思えたりする。実際(回数は)少ないけど、自分から踏み出して得たものも無くはないのだし。ただ、思うだけで実際はなかなかその一歩が踏み出せず、そのためか、相手が気を使って先に踏み込んでくれることの方が多かったりするんだけどね。
Apr 5, 2007
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