カテゴリ未分類 0
全582件 (582件中 1-50件目)
「恋のはじまり」の最終話を観た翌日に高橋一生さんがNHK「ごごナマ」にご出演。「直虎」の映像も映り、直親、政次が揃ったように思えて稀なる作品となった四話のドラマと共に、保存することにしました。どうぞ安らかに。
October 7, 2020
大河での破顔一笑が記憶に残る、これからのご活躍が愉しみだった方。どうぞやすらかに。
July 19, 2020
佳き調べと詞をたくさん記憶に残してくださった方、ご冥福をお祈りいたします。西城秀樹さん・オーラの泉
May 20, 2018
今朝の新聞で拝見しました。どうぞ安らかにおやすみください。
November 29, 2014
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」
March 11, 2014
2時間で10万人の命と東京の6分の1を奪いつくした東京大空襲。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「3月9日の夜半から、沼津で退避命令がでましてね、山の上に登っていったんですよ。真夜中過ぎましたらね、東の空がボーっと赤くなってて。『東京がやられてるぞー』って大人の声が聞こえましてね。子供でしたからもうとにかく、正座して拝んで拝んで拝んで、一生懸命拝みました。それで明け方戻ってきましたら、『本所深川は全滅だってよ。』ってお友達に言われたんですよ。それでも元気な兄達、父も元気でしたし、絶対大丈夫って、祈りながら思ってましたけど、それから四日目。すぐ上の兄(喜三郎さん。当時13歳)が、もうぼろぼろになって現れまして。着てるものから何からぼろぼろで。『ごめん、ごめん・・・。みんな死んじゃったんだ。』って言って現れたの。『父ちゃんも母ちゃんもみんな死んじゃったんだ・・・。かよ子、ごめんね、ごめんね・・・』って泣いて現れましたの。」美「『ごめんね・・・』っていうのが哀れですね・・・。自分のせいみたいに思っているっていうのが・・・。自分ひとりだけが生き残ったっていうね。」海「はい。父は警防団(父 忠吉さんは警防団・班長で消火を指揮)に詰めてましたから、途中で帰ってきたんですよ。そこの学校が焼け落ちちゃったんで、違う学校へ行ったら門が閉まってて。中に入れば助かったんですけど、門が閉まってて入れなかった。それで学校の校舎と塀の間を乗り越えて。炎を避けるために母が弟を胸に抱いて突っ伏して、その上から父が覆いかぶさったんです。三人の兄達は寄り添って。一番上の兄が『日本男児だ。潔く舌を噛んで死のう』って言ったら、父が『喜三郎、あそこに逃げろ!』無我夢中で、気がついたら自分ひとりが学校の中に入ってて、助かっちゃった。自分ひとりが生きてるのが悪いように、私に『ごめん、ごめん』って。一晩、抱き合って泣いて・・・。二人でお世話になるのは悪いからって、ひとりで東京に帰っていっちゃったんですよ。」【高木敏子 ガラスのうさぎ】中学一年生のお兄様が、麦畑の中で手を振りながら去ってゆくのを、「大丈夫かなあ」と心配しながら見送った11歳の海老名さん。国「もちろん、止めたわけですよね。『一緒にいよう』・・・。」海「『一緒にいよう』って言ったんですけど、私の手を取って涙をぽとんぽとん、兄が垂らすの。その涙が熱いんですよ。熱い涙なんて、あのとき以来知りません。」美「お兄様は当ても何もおありにならなかったでしょうにね。だって東京全部、焼け野原ですものね。」海「何もないです。それなのに戻って行っちゃって。闇市だとか、その辺りを歩いていて、兄は行方不明になっちゃいました。」美「もう本当にね、憎らしいわよ。だって日本中、じゅうたん爆撃(じゅうたんを敷き詰めるように目標一帯を集中的に爆撃すること)。じゅうたんをひいたみたいに全部、やっちゃう。」海「じゅうたん爆撃は、下町の密集地ですよ、紙と木でできた。爆弾を周り中に落として、(逃げ道を全部断ってしまってから)そこに焼夷弾(火炎や高熱で殺傷・破壊する爆弾)を落としたんですよ。ガソリンの塊みたいなものですよね。地上何百メートルのところで、炸裂して落ちるんです。だから火の海になって・・・。東京大空襲はたった二時間で、十万人の人が死んだんですよ。もう火の海の中でみんな苦しんで・・・。」美「すごい残酷でしょう?だってね、戦闘要員、つまり兵隊さんとか軍事施設だけだったらわかるわよ。戦う能力のない、非戦闘員の女、老人、子供をやる?(第二次大戦の犠牲者6000万人のうち、その半数は民間人だった)だからある空軍大佐は、軍事施設だけやりましょうって。アメリカにも良心的な人がいるのね。でもその人はぽーんと左遷されてしまって。皆殺しにしろってことになったの。それの私たちは犠牲になったんですよね。」海「そうですよ。」東京大空襲の5ヵ月後、1945年8月には広島に次いで長崎に原子力爆弾が投下され、7万人が犠牲に。当時10歳の美輪さんは、ご自宅でその惨状に出会います。美「私は原爆が落ちたときに長崎にいたんだけど、全然、何の音もしないのよ。『ああいい天気』って、防空頭巾被って、夏休みの宿題の絵を描いて、出来上がりを見ようとちょっと下がった途端に、ピカってなったのよ。『え?こんな雲ひとつない、いい天気に?』マグネシウムをたいたみたいに、雷?って思うか思わないかのうちに、雷を一千万個くらい集めたみたいな轟音がして、瓦が全部、降ってきちゃったの。」【松谷みよ子 ふたりのイーダ】カフェーを経営していた美輪さんのご実家は洒落た洋館で、ガラスをふんだんに使った造り。そのガラスが爆風で全て、一瞬にして砕け、立っていたすぐ後ろの壁や、床に鋭く、直角に突き刺さった。ところが、顔にもどこにも、何一つ傷を負っていない。一緒に逃げたお手伝いさんやお兄さんも、裸足だったにも関わらず、まったく怪我をしていなかったそう。美「帰ってきたときにどうやって逃げたのか。ガラスが全部、針山みたいに刺さってるの。」原爆が投下された長崎では、爆風と熱線で半径1キロメートル以内は全壊。半径2キロメートル以内も80%が倒壊したほどの被害。国「外に出たら・・・」美「もう、地獄ですよ。馬は横倒しになっていて、引きつけを起こしているし。馬車引きのおじさんは飛び上がって叫んで。全身、皮が剥けているのよ。もう地獄。あちこち逃げて・・・。塀の下敷きになっている人が『助けて』って腕をつかむのよ。『キャー』って逃げたら、その人の肉が剥けて、腕にぴたっとくっつくの。もう、すごいわよ、戦争っていうのはね。」終戦後、戦災孤児となった海老名さんはご実家の処理をするために中野のご親戚のもとに引き取られるも、そのお家そのものが、焼け野原に焼けトタンを立てただけの小屋で、親子が肩寄せ合っているようなところ。居たたまれずに、親戚や知り合いのもとを転々とする日々だったそうです。海「東京に戻ってきてからは、生きる戦いでした。どこのお家もそんなに長くいられないで。子守をすれば新制中学に行かせて下さるっていう家があって。そのうちもおじさんが職が無くなったから『あんたの面倒みられない』って言われて。葛篭を背負って、あっちの家、三日、こっちの家、三日って転々として、学校も行かずに。」国「数日で変わっていっちゃうんですか?」海「だいたい、『こんにちは』って言って、いられそうだなと思うと、三日、四日いるの。で、『これが限界だな』ってわかるんですよ、自分で。そうすると『おばさん、さようなら。ありがとう』って言って、次のところに行くの。」美「あの頃はね・・・。親が子を食べさせるのに自分が食べないで、子供達だけ食べさせるって言うでしょう?おにぎりを三つ持ってたら、大金持ちなのよ。(終戦後、食料不足で米は貴重品だった)お金が何の役にも立たないの、品物がないんだから。ご親戚をたらいまわしっておっしゃったけれど、親戚も自分達が子供に食べさせるだけで精一杯。そういう時代だったのよ。だから、『日本人はどうやって生きてきたのかしら?』ってお思いにならない?」海「雑草が生えてきたんですよ、焼け跡に。ふすま粉(小麦をひいて粉にしたとき残る皮の屑)をすいとん(雑炊)のようにするんですけど、固まらないからどろどろ。そこに雑草を入れて食べてました。」美「かぼちゃのヘタとかね、大豆のカスね。」【中沢啓治 はだしのゲン】実家が焼け落ちたあとに、初めて行く気になったのは、『もしかしたらみんな生きているかもしれない』と思ったから。海「どきどきして、三ノ橋っていう橋の上に立ったときに、『これはだめだな・・・』と思ったのは、町が全部消えちゃってなかったんですよ。人もいなくなったし、家も消えちゃったし、『皆消えたなあ・・・。』ってその時思いました。うちの焼け跡の前に立ったとき、初めて大声で泣きました。『とうちゃーん、かあちゃーん』って叫んで焼け跡に入って。3月に空襲があって、そのときはもう12月の終わりで。ザクザクと焼け跡を掘っていったら、最初に弟の昼寝布団が出てきたんですよ。『これ、こうちゃんのだぁ』と思って、抱きしめました。母のお茶碗のかけらや何か、みんなの生きていた証が出てきて、泣いて泣いて。」12月の寒空のもと、雪が降ってきても『もうこのまんまでいいや・・・』とご実家の石段のあった場所に膝を抱えてじっとしていたとき、通りかかったのが黒っぽい姿の男性。海「『助けて』って言おうと思ったけれど、言わないで座っていたら、その人が戻ってきたんですよ。『姉ちゃん、しっかりしなくちゃだめだよ。こんなところでこんなことしてたら死んじゃうじゃないか。頑張ろうよ、頑張ろうよ・・・。』って言ってくれて。顔をみないでじっとしていたら『おあがり、おあがり』って。何の気なしに手を出したら、さつまいもを半分割ったのをくれて。それを夢中で食べましてね。体に本当に伝わって。『ああ、今の人、神様だったかしら?』って、そのとき思いました。」美「まだあの頃は、人情っていうものが残ってましたからね。」国「そんな方がいるんですね。」【海老名香葉子 半分のさつまいも】明日は海老名さんが建立に奔走された上野の慰霊碑にまつわるお話です。***
March 10, 2014
終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録いたします。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」美「でも名残があったでしょう?」江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】 ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、日本人だけでも犠牲者は300万人以上。東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。そうそうって思いながら。」お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」海「はい、小学校五年生でした。」本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。お父さまは竿師として日本一だったそう。東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、また私の手をギュっと持って、『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」国「お父さんは?」海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、強制的に全員、疎開することに。」国「お兄さんはおいくつだったんですか?」海「兄は中学一年でした。」国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、強制的に無事なところへ疎開させられたの。」☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。国「どんなことが書かれていましたか?」海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』って書いてあるんです。」美「やさしいお父さまね。」海「ええ。」【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。火みたいに熱かったんです。それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」海「顔が見えますよ。」美「顔が見えるくらい。」お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。そばに来てから、急にエンジンをかけて。私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。もう、面白がって楽しんでるの。」国「信じられないですね。」美「そうよ。」明日は海老名さんの東京大空襲のお話と長崎に投下された原爆を体験された美輪明宏さんのお話です。***「オーラの泉・日記リンク」
March 9, 2014
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」
August 17, 2013
2時間で10万人の命と東京の6分の1を奪いつくした東京大空襲。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「3月9日の夜半から、沼津で退避命令がでましてね、山の上に登っていったんですよ。真夜中過ぎましたらね、東の空がボーっと赤くなってて。『東京がやられてるぞー』って大人の声が聞こえましてね。子供でしたからもうとにかく、正座して拝んで拝んで拝んで、一生懸命拝みました。それで明け方戻ってきましたら、『本所深川は全滅だってよ。』ってお友達に言われたんですよ。それでも元気な兄達、父も元気でしたし、絶対大丈夫って、祈りながら思ってましたけど、それから四日目。すぐ上の兄(喜三郎さん。当時13歳)が、もうぼろぼろになって現れまして。着てるものから何からぼろぼろで。『ごめん、ごめん・・・。みんな死んじゃったんだ。』って言って現れたの。『父ちゃんも母ちゃんもみんな死んじゃったんだ・・・。かよ子、ごめんね、ごめんね・・・』って泣いて現れましたの。」美「『ごめんね・・・』っていうのが哀れですね・・・。自分のせいみたいに思っているっていうのが・・・。自分ひとりだけが生き残ったっていうね。」海「はい。父は警防団(父 忠吉さんは警防団・班長で消火を指揮)に詰めてましたから、途中で帰ってきたんですよ。そこの学校が焼け落ちちゃったんで、違う学校へ行ったら門が閉まってて。中に入れば助かったんですけど、門が閉まってて入れなかった。それで学校の校舎と塀の間を乗り越えて。炎を避けるために母が弟を胸に抱いて突っ伏して、その上から父が覆いかぶさったんです。三人の兄達は寄り添って。一番上の兄が『日本男児だ。潔く舌を噛んで死のう』って言ったら、父が『喜三郎、あそこに逃げろ!』無我夢中で、気がついたら自分ひとりが学校の中に入ってて、助かっちゃった。自分ひとりが生きてるのが悪いように、私に『ごめん、ごめん』って。一晩、抱き合って泣いて・・・。二人でお世話になるのは悪いからって、ひとりで東京に帰っていっちゃったんですよ。」【高木敏子 ガラスのうさぎ】中学一年生のお兄様が、麦畑の中で手を振りながら去ってゆくのを、「大丈夫かなあ」と心配しながら見送った11歳の海老名さん。国「もちろん、止めたわけですよね。『一緒にいよう』・・・。」海「『一緒にいよう』って言ったんですけど、私の手を取って涙をぽとんぽとん、兄が垂らすの。その涙が熱いんですよ。熱い涙なんて、あのとき以来知りません。」美「お兄様は当ても何もおありにならなかったでしょうにね。だって東京全部、焼け野原ですものね。」海「何もないです。それなのに戻って行っちゃって。闇市だとか、その辺りを歩いていて、兄は行方不明になっちゃいました。」美「もう本当にね、憎らしいわよ。だって日本中、じゅうたん爆撃(じゅうたんを敷き詰めるように目標一帯を集中的に爆撃すること)。じゅうたんをひいたみたいに全部、やっちゃう。」海「じゅうたん爆撃は、下町の密集地ですよ、紙と木でできた。爆弾を周り中に落として、(逃げ道を全部断ってしまってから)そこに焼夷弾(火炎や高熱で殺傷・破壊する爆弾)を落としたんですよ。ガソリンの塊みたいなものですよね。地上何百メートルのところで、炸裂して落ちるんです。だから火の海になって・・・。東京大空襲はたった二時間で、十万人の人が死んだんですよ。もう火の海の中でみんな苦しんで・・・。」美「すごい残酷でしょう?だってね、戦闘要員、つまり兵隊さんとか軍事施設だけだったらわかるわよ。戦う能力のない、非戦闘員の女、老人、子供をやる?(第二次大戦の犠牲者6000万人のうち、その半数は民間人だった)だからある空軍大佐は、軍事施設だけやりましょうって。アメリカにも良心的な人がいるのね。でもその人はぽーんと左遷されてしまって。皆殺しにしろってことになったの。それの私たちは犠牲になったんですよね。」海「そうですよ。」東京大空襲の5ヵ月後、1945年8月には広島に次いで長崎に原子力爆弾が投下され、7万人が犠牲に。当時10歳の美輪さんは、ご自宅でその惨状に出会います。美「私は原爆が落ちたときに長崎にいたんだけど、全然、何の音もしないのよ。『ああいい天気』って、防空頭巾被って、夏休みの宿題の絵を描いて、出来上がりを見ようとちょっと下がった途端に、ピカってなったのよ。『え?こんな雲ひとつない、いい天気に?』マグネシウムをたいたみたいに、雷?って思うか思わないかのうちに、雷を一千万個くらい集めたみたいな轟音がして、瓦が全部、降ってきちゃったの。」【松谷みよ子 ふたりのイーダ】カフェーを経営していた美輪さんのご実家は洒落た洋館で、ガラスをふんだんに使った造り。そのガラスが爆風で全て、一瞬にして砕け、立っていたすぐ後ろの壁や、床に鋭く、直角に突き刺さった。ところが、顔にもどこにも、何一つ傷を負っていない。一緒に逃げたお手伝いさんやお兄さんも、裸足だったにも関わらず、まったく怪我をしていなかったそう。美「帰ってきたときにどうやって逃げたのか。ガラスが全部、針山みたいに刺さってるの。」原爆が投下された長崎では、爆風と熱線で半径1キロメートル以内は全壊。半径2キロメートル以内も80%が倒壊したほどの被害。国「外に出たら・・・」美「もう、地獄ですよ。馬は横倒しになっていて、引きつけを起こしているし。馬車引きのおじさんは飛び上がって叫んで。全身、皮が剥けているのよ。もう地獄。あちこち逃げて・・・。塀の下敷きになっている人が『助けて』って腕をつかむのよ。『キャー』って逃げたら、その人の肉が剥けて、腕にぴたっとくっつくの。もう、すごいわよ、戦争っていうのはね。」終戦後、戦災孤児となった海老名さんはご実家の処理をするために中野のご親戚のもとに引き取られるも、そのお家そのものが、焼け野原に焼けトタンを立てただけの小屋で、親子が肩寄せ合っているようなところ。居たたまれずに、親戚や知り合いのもとを転々とする日々だったそうです。海「東京に戻ってきてからは、生きる戦いでした。どこのお家もそんなに長くいられないで。子守をすれば新制中学に行かせて下さるっていう家があって。そのうちもおじさんが職が無くなったから『あんたの面倒みられない』って言われて。葛篭を背負って、あっちの家、三日、こっちの家、三日って転々として、学校も行かずに。」国「数日で変わっていっちゃうんですか?」海「だいたい、『こんにちは』って言って、いられそうだなと思うと、三日、四日いるの。で、『これが限界だな』ってわかるんですよ、自分で。そうすると『おばさん、さようなら。ありがとう』って言って、次のところに行くの。」美「あの頃はね・・・。親が子を食べさせるのに自分が食べないで、子供達だけ食べさせるって言うでしょう?おにぎりを三つ持ってたら、大金持ちなのよ。(終戦後、食料不足で米は貴重品だった)お金が何の役にも立たないの、品物がないんだから。ご親戚をたらいまわしっておっしゃったけれど、親戚も自分達が子供に食べさせるだけで精一杯。そういう時代だったのよ。だから、『日本人はどうやって生きてきたのかしら?』ってお思いにならない?」海「雑草が生えてきたんですよ、焼け跡に。ふすま粉(小麦をひいて粉にしたとき残る皮の屑)をすいとん(雑炊)のようにするんですけど、固まらないからどろどろ。そこに雑草を入れて食べてました。」美「かぼちゃのヘタとかね、大豆のカスね。」【中沢啓治 はだしのゲン】実家が焼け落ちたあとに、初めて行く気になったのは、『もしかしたらみんな生きているかもしれない』と思ったから。海「どきどきして、三ノ橋っていう橋の上に立ったときに、『これはだめだな・・・』と思ったのは、町が全部消えちゃってなかったんですよ。人もいなくなったし、家も消えちゃったし、『皆消えたなあ・・・。』ってその時思いました。うちの焼け跡の前に立ったとき、初めて大声で泣きました。『とうちゃーん、かあちゃーん』って叫んで焼け跡に入って。3月に空襲があって、そのときはもう12月の終わりで。ザクザクと焼け跡を掘っていったら、最初に弟の昼寝布団が出てきたんですよ。『これ、こうちゃんのだぁ』と思って、抱きしめました。母のお茶碗のかけらや何か、みんなの生きていた証が出てきて、泣いて泣いて。」12月の寒空のもと、雪が降ってきても『もうこのまんまでいいや・・・』とご実家の石段のあった場所に膝を抱えてじっとしていたとき、通りかかったのが黒っぽい姿の男性。海「『助けて』って言おうと思ったけれど、言わないで座っていたら、その人が戻ってきたんですよ。『姉ちゃん、しっかりしなくちゃだめだよ。こんなところでこんなことしてたら死んじゃうじゃないか。頑張ろうよ、頑張ろうよ・・・。』って言ってくれて。顔をみないでじっとしていたら『おあがり、おあがり』って。何の気なしに手を出したら、さつまいもを半分割ったのをくれて。それを夢中で食べましてね。体に本当に伝わって。『ああ、今の人、神様だったかしら?』って、そのとき思いました。」美「まだあの頃は、人情っていうものが残ってましたからね。」国「そんな方がいるんですね。」【海老名香葉子 半分のさつまいも】明日は海老名さんが建立に奔走された上野の慰霊碑にまつわるお話です。***
August 16, 2013
終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録いたします。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」美「でも名残があったでしょう?」江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】 ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、日本人だけでも犠牲者は300万人以上。東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。そうそうって思いながら。」お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」海「はい、小学校五年生でした。」本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。お父さまは竿師として日本一だったそう。東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、また私の手をギュっと持って、『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」国「お父さんは?」海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、強制的に全員、疎開することに。」国「お兄さんはおいくつだったんですか?」海「兄は中学一年でした。」国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、強制的に無事なところへ疎開させられたの。」☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。国「どんなことが書かれていましたか?」海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』って書いてあるんです。」美「やさしいお父さまね。」海「ええ。」【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。火みたいに熱かったんです。それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」海「顔が見えますよ。」美「顔が見えるくらい。」お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。そばに来てから、急にエンジンをかけて。私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。もう、面白がって楽しんでるの。」国「信じられないですね。」美「そうよ。」明日は海老名さんの東京大空襲のお話と長崎に投下された原爆を体験された美輪明宏さんのお話です。***「オーラの泉・日記リンク」
August 15, 2013
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」
March 11, 2013
2時間で10万人の命と東京の6分の1を奪いつくした東京大空襲。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「3月9日の夜半から、沼津で退避命令がでましてね、山の上に登っていったんですよ。真夜中過ぎましたらね、東の空がボーっと赤くなってて。『東京がやられてるぞー』って大人の声が聞こえましてね。子供でしたからもうとにかく、正座して拝んで拝んで拝んで、一生懸命拝みました。それで明け方戻ってきましたら、『本所深川は全滅だってよ。』ってお友達に言われたんですよ。それでも元気な兄達、父も元気でしたし、絶対大丈夫って、祈りながら思ってましたけど、それから四日目。すぐ上の兄(喜三郎さん。当時13歳)が、もうぼろぼろになって現れまして。着てるものから何からぼろぼろで。『ごめん、ごめん・・・。みんな死んじゃったんだ。』って言って現れたの。『父ちゃんも母ちゃんもみんな死んじゃったんだ・・・。かよ子、ごめんね、ごめんね・・・』って泣いて現れましたの。」美「『ごめんね・・・』っていうのが哀れですね・・・。自分のせいみたいに思っているっていうのが・・・。自分ひとりだけが生き残ったっていうね。」海「はい。父は警防団(父 忠吉さんは警防団・班長で消火を指揮)に詰めてましたから、途中で帰ってきたんですよ。そこの学校が焼け落ちちゃったんで、違う学校へ行ったら門が閉まってて。中に入れば助かったんですけど、門が閉まってて入れなかった。それで学校の校舎と塀の間を乗り越えて。炎を避けるために母が弟を胸に抱いて突っ伏して、その上から父が覆いかぶさったんです。三人の兄達は寄り添って。一番上の兄が『日本男児だ。潔く舌を噛んで死のう』って言ったら、父が『喜三郎、あそこに逃げろ!』無我夢中で、気がついたら自分ひとりが学校の中に入ってて、助かっちゃった。自分ひとりが生きてるのが悪いように、私に『ごめん、ごめん』って。一晩、抱き合って泣いて・・・。二人でお世話になるのは悪いからって、ひとりで東京に帰っていっちゃったんですよ。」【高木敏子 ガラスのうさぎ】中学一年生のお兄様が、麦畑の中で手を振りながら去ってゆくのを、「大丈夫かなあ」と心配しながら見送った11歳の海老名さん。国「もちろん、止めたわけですよね。『一緒にいよう』・・・。」海「『一緒にいよう』って言ったんですけど、私の手を取って涙をぽとんぽとん、兄が垂らすの。その涙が熱いんですよ。熱い涙なんて、あのとき以来知りません。」美「お兄様は当ても何もおありにならなかったでしょうにね。だって東京全部、焼け野原ですものね。」海「何もないです。それなのに戻って行っちゃって。闇市だとか、その辺りを歩いていて、兄は行方不明になっちゃいました。」美「もう本当にね、憎らしいわよ。だって日本中、じゅうたん爆撃(じゅうたんを敷き詰めるように目標一帯を集中的に爆撃すること)。じゅうたんをひいたみたいに全部、やっちゃう。」海「じゅうたん爆撃は、下町の密集地ですよ、紙と木でできた。爆弾を周り中に落として、(逃げ道を全部断ってしまってから)そこに焼夷弾(火炎や高熱で殺傷・破壊する爆弾)を落としたんですよ。ガソリンの塊みたいなものですよね。地上何百メートルのところで、炸裂して落ちるんです。だから火の海になって・・・。東京大空襲はたった二時間で、十万人の人が死んだんですよ。もう火の海の中でみんな苦しんで・・・。」美「すごい残酷でしょう?だってね、戦闘要員、つまり兵隊さんとか軍事施設だけだったらわかるわよ。戦う能力のない、非戦闘員の女、老人、子供をやる?(第二次大戦の犠牲者6000万人のうち、その半数は民間人だった)だからある空軍大佐は、軍事施設だけやりましょうって。アメリカにも良心的な人がいるのね。でもその人はぽーんと左遷されてしまって。皆殺しにしろってことになったの。それの私たちは犠牲になったんですよね。」海「そうですよ。」東京大空襲の5ヵ月後、1945年8月には広島に次いで長崎に原子力爆弾が投下され、7万人が犠牲に。当時10歳の美輪さんは、ご自宅でその惨状に出会います。美「私は原爆が落ちたときに長崎にいたんだけど、全然、何の音もしないのよ。『ああいい天気』って、防空頭巾被って、夏休みの宿題の絵を描いて、出来上がりを見ようとちょっと下がった途端に、ピカってなったのよ。『え?こんな雲ひとつない、いい天気に?』マグネシウムをたいたみたいに、雷?って思うか思わないかのうちに、雷を一千万個くらい集めたみたいな轟音がして、瓦が全部、降ってきちゃったの。」【松谷みよ子 ふたりのイーダ】カフェーを経営していた美輪さんのご実家は洒落た洋館で、ガラスをふんだんに使った造り。そのガラスが爆風で全て、一瞬にして砕け、立っていたすぐ後ろの壁や、床に鋭く、直角に突き刺さった。ところが、顔にもどこにも、何一つ傷を負っていない。一緒に逃げたお手伝いさんやお兄さんも、裸足だったにも関わらず、まったく怪我をしていなかったそう。美「帰ってきたときにどうやって逃げたのか。ガラスが全部、針山みたいに刺さってるの。」原爆が投下された長崎では、爆風と熱線で半径1キロメートル以内は全壊。半径2キロメートル以内も80%が倒壊したほどの被害。国「外に出たら・・・」美「もう、地獄ですよ。馬は横倒しになっていて、引きつけを起こしているし。馬車引きのおじさんは飛び上がって叫んで。全身、皮が剥けているのよ。もう地獄。あちこち逃げて・・・。塀の下敷きになっている人が『助けて』って腕をつかむのよ。『キャー』って逃げたら、その人の肉が剥けて、腕にぴたっとくっつくの。もう、すごいわよ、戦争っていうのはね。」終戦後、戦災孤児となった海老名さんはご実家の処理をするために中野のご親戚のもとに引き取られるも、そのお家そのものが、焼け野原に焼けトタンを立てただけの小屋で、親子が肩寄せ合っているようなところ。居たたまれずに、親戚や知り合いのもとを転々とする日々だったそうです。海「東京に戻ってきてからは、生きる戦いでした。どこのお家もそんなに長くいられないで。子守をすれば新制中学に行かせて下さるっていう家があって。そのうちもおじさんが職が無くなったから『あんたの面倒みられない』って言われて。葛篭を背負って、あっちの家、三日、こっちの家、三日って転々として、学校も行かずに。」国「数日で変わっていっちゃうんですか?」海「だいたい、『こんにちは』って言って、いられそうだなと思うと、三日、四日いるの。で、『これが限界だな』ってわかるんですよ、自分で。そうすると『おばさん、さようなら。ありがとう』って言って、次のところに行くの。」美「あの頃はね・・・。親が子を食べさせるのに自分が食べないで、子供達だけ食べさせるって言うでしょう?おにぎりを三つ持ってたら、大金持ちなのよ。(終戦後、食料不足で米は貴重品だった)お金が何の役にも立たないの、品物がないんだから。ご親戚をたらいまわしっておっしゃったけれど、親戚も自分達が子供に食べさせるだけで精一杯。そういう時代だったのよ。だから、『日本人はどうやって生きてきたのかしら?』ってお思いにならない?」海「雑草が生えてきたんですよ、焼け跡に。ふすま粉(小麦をひいて粉にしたとき残る皮の屑)をすいとん(雑炊)のようにするんですけど、固まらないからどろどろ。そこに雑草を入れて食べてました。」美「かぼちゃのヘタとかね、大豆のカスね。」【中沢啓治 はだしのゲン】実家が焼け落ちたあとに、初めて行く気になったのは、『もしかしたらみんな生きているかもしれない』と思ったから。海「どきどきして、三ノ橋っていう橋の上に立ったときに、『これはだめだな・・・』と思ったのは、町が全部消えちゃってなかったんですよ。人もいなくなったし、家も消えちゃったし、『皆消えたなあ・・・。』ってその時思いました。うちの焼け跡の前に立ったとき、初めて大声で泣きました。『とうちゃーん、かあちゃーん』って叫んで焼け跡に入って。3月に空襲があって、そのときはもう12月の終わりで。ザクザクと焼け跡を掘っていったら、最初に弟の昼寝布団が出てきたんですよ。『これ、こうちゃんのだぁ』と思って、抱きしめました。母のお茶碗のかけらや何か、みんなの生きていた証が出てきて、泣いて泣いて。」12月の寒空のもと、雪が降ってきても『もうこのまんまでいいや・・・』とご実家の石段のあった場所に膝を抱えてじっとしていたとき、通りかかったのが黒っぽい姿の男性。海「『助けて』って言おうと思ったけれど、言わないで座っていたら、その人が戻ってきたんですよ。『姉ちゃん、しっかりしなくちゃだめだよ。こんなところでこんなことしてたら死んじゃうじゃないか。頑張ろうよ、頑張ろうよ・・・。』って言ってくれて。顔をみないでじっとしていたら『おあがり、おあがり』って。何の気なしに手を出したら、さつまいもを半分割ったのをくれて。それを夢中で食べましてね。体に本当に伝わって。『ああ、今の人、神様だったかしら?』って、そのとき思いました。」美「まだあの頃は、人情っていうものが残ってましたからね。」国「そんな方がいるんですね。」【海老名香葉子 半分のさつまいも】明日は海老名さんが建立に奔走された上野の慰霊碑にまつわるお話です。***
March 10, 2013
終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録いたします。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」美「でも名残があったでしょう?」江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】 ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、日本人だけでも犠牲者は300万人以上。東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。そうそうって思いながら。」お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」海「はい、小学校五年生でした。」本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。お父さまは竿師として日本一だったそう。東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、また私の手をギュっと持って、『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」国「お父さんは?」海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、強制的に全員、疎開することに。」国「お兄さんはおいくつだったんですか?」海「兄は中学一年でした。」国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、強制的に無事なところへ疎開させられたの。」☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。国「どんなことが書かれていましたか?」海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』って書いてあるんです。」美「やさしいお父さまね。」海「ええ。」【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。火みたいに熱かったんです。それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」海「顔が見えますよ。」美「顔が見えるくらい。」お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。そばに来てから、急にエンジンをかけて。私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。もう、面白がって楽しんでるの。」国「信じられないですね。」美「そうよ。」明日は海老名さんの東京大空襲のお話と長崎に投下された原爆を体験された美輪明宏さんのお話です。***「オーラの泉・日記リンク」
March 9, 2013
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」
March 11, 2012
2時間で10万人の命と東京の6分の1を奪いつくした東京大空襲。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「3月9日の夜半から、沼津で退避命令がでましてね、山の上に登っていったんですよ。真夜中過ぎましたらね、東の空がボーっと赤くなってて。『東京がやられてるぞー』って大人の声が聞こえましてね。子供でしたからもうとにかく、正座して拝んで拝んで拝んで、一生懸命拝みました。それで明け方戻ってきましたら、『本所深川は全滅だってよ。』ってお友達に言われたんですよ。それでも元気な兄達、父も元気でしたし、絶対大丈夫って、祈りながら思ってましたけど、それから四日目。すぐ上の兄(喜三郎さん。当時13歳)が、もうぼろぼろになって現れまして。着てるものから何からぼろぼろで。『ごめん、ごめん・・・。みんな死んじゃったんだ。』って言って現れたの。『父ちゃんも母ちゃんもみんな死んじゃったんだ・・・。かよ子、ごめんね、ごめんね・・・』って泣いて現れましたの。」美「『ごめんね・・・』っていうのが哀れですね・・・。自分のせいみたいに思っているっていうのが・・・。自分ひとりだけが生き残ったっていうね。」海「はい。父は警防団(父 忠吉さんは警防団・班長で消火を指揮)に詰めてましたから、途中で帰ってきたんですよ。そこの学校が焼け落ちちゃったんで、違う学校へ行ったら門が閉まってて。中に入れば助かったんですけど、門が閉まってて入れなかった。それで学校の校舎と塀の間を乗り越えて。炎を避けるために母が弟を胸に抱いて突っ伏して、その上から父が覆いかぶさったんです。三人の兄達は寄り添って。一番上の兄が『日本男児だ。潔く舌を噛んで死のう』って言ったら、父が『喜三郎、あそこに逃げろ!』無我夢中で、気がついたら自分ひとりが学校の中に入ってて、助かっちゃった。自分ひとりが生きてるのが悪いように、私に『ごめん、ごめん』って。一晩、抱き合って泣いて・・・。二人でお世話になるのは悪いからって、ひとりで東京に帰っていっちゃったんですよ。」【高木敏子 ガラスのうさぎ】中学一年生のお兄様が、麦畑の中で手を振りながら去ってゆくのを、「大丈夫かなあ」と心配しながら見送った11歳の海老名さん。国「もちろん、止めたわけですよね。『一緒にいよう』・・・。」海「『一緒にいよう』って言ったんですけど、私の手を取って涙をぽとんぽとん、兄が垂らすの。その涙が熱いんですよ。熱い涙なんて、あのとき以来知りません。」美「お兄様は当ても何もおありにならなかったでしょうにね。だって東京全部、焼け野原ですものね。」海「何もないです。それなのに戻って行っちゃって。闇市だとか、その辺りを歩いていて、兄は行方不明になっちゃいました。」美「もう本当にね、憎らしいわよ。だって日本中、じゅうたん爆撃(じゅうたんを敷き詰めるように目標一帯を集中的に爆撃すること)。じゅうたんをひいたみたいに全部、やっちゃう。」海「じゅうたん爆撃は、下町の密集地ですよ、紙と木でできた。爆弾を周り中に落として、(逃げ道を全部断ってしまってから)そこに焼夷弾(火炎や高熱で殺傷・破壊する爆弾)を落としたんですよ。ガソリンの塊みたいなものですよね。地上何百メートルのところで、炸裂して落ちるんです。だから火の海になって・・・。東京大空襲はたった二時間で、十万人の人が死んだんですよ。もう火の海の中でみんな苦しんで・・・。」美「すごい残酷でしょう?だってね、戦闘要員、つまり兵隊さんとか軍事施設だけだったらわかるわよ。戦う能力のない、非戦闘員の女、老人、子供をやる?(第二次大戦の犠牲者6000万人のうち、その半数は民間人だった)だからある空軍大佐は、軍事施設だけやりましょうって。アメリカにも良心的な人がいるのね。でもその人はぽーんと左遷されてしまって。皆殺しにしろってことになったの。それの私たちは犠牲になったんですよね。」海「そうですよ。」東京大空襲の5ヵ月後、1945年8月には広島に次いで長崎に原子力爆弾が投下され、7万人が犠牲に。当時10歳の美輪さんは、ご自宅でその惨状に出会います。美「私は原爆が落ちたときに長崎にいたんだけど、全然、何の音もしないのよ。『ああいい天気』って、防空頭巾被って、夏休みの宿題の絵を描いて、出来上がりを見ようとちょっと下がった途端に、ピカってなったのよ。『え?こんな雲ひとつない、いい天気に?』マグネシウムをたいたみたいに、雷?って思うか思わないかのうちに、雷を一千万個くらい集めたみたいな轟音がして、瓦が全部、降ってきちゃったの。」【松谷みよ子 ふたりのイーダ】カフェーを経営していた美輪さんのご実家は洒落た洋館で、ガラスをふんだんに使った造り。そのガラスが爆風で全て、一瞬にして砕け、立っていたすぐ後ろの壁や、床に鋭く、直角に突き刺さった。ところが、顔にもどこにも、何一つ傷を負っていない。一緒に逃げたお手伝いさんやお兄さんも、裸足だったにも関わらず、まったく怪我をしていなかったそう。美「帰ってきたときにどうやって逃げたのか。ガラスが全部、針山みたいに刺さってるの。」原爆が投下された長崎では、爆風と熱線で半径1キロメートル以内は全壊。半径2キロメートル以内も80%が倒壊したほどの被害。国「外に出たら・・・」美「もう、地獄ですよ。馬は横倒しになっていて、引きつけを起こしているし。馬車引きのおじさんは飛び上がって叫んで。全身、皮が剥けているのよ。もう地獄。あちこち逃げて・・・。塀の下敷きになっている人が『助けて』って腕をつかむのよ。『キャー』って逃げたら、その人の肉が剥けて、腕にぴたっとくっつくの。もう、すごいわよ、戦争っていうのはね。」終戦後、戦災孤児となった海老名さんはご実家の処理をするために中野のご親戚のもとに引き取られるも、そのお家そのものが、焼け野原に焼けトタンを立てただけの小屋で、親子が肩寄せ合っているようなところ。居たたまれずに、親戚や知り合いのもとを転々とする日々だったそうです。海「東京に戻ってきてからは、生きる戦いでした。どこのお家もそんなに長くいられないで。子守をすれば新制中学に行かせて下さるっていう家があって。そのうちもおじさんが職が無くなったから『あんたの面倒みられない』って言われて。葛篭を背負って、あっちの家、三日、こっちの家、三日って転々として、学校も行かずに。」国「数日で変わっていっちゃうんですか?」海「だいたい、『こんにちは』って言って、いられそうだなと思うと、三日、四日いるの。で、『これが限界だな』ってわかるんですよ、自分で。そうすると『おばさん、さようなら。ありがとう』って言って、次のところに行くの。」美「あの頃はね・・・。親が子を食べさせるのに自分が食べないで、子供達だけ食べさせるって言うでしょう?おにぎりを三つ持ってたら、大金持ちなのよ。(終戦後、食料不足で米は貴重品だった)お金が何の役にも立たないの、品物がないんだから。ご親戚をたらいまわしっておっしゃったけれど、親戚も自分達が子供に食べさせるだけで精一杯。そういう時代だったのよ。だから、『日本人はどうやって生きてきたのかしら?』ってお思いにならない?」海「雑草が生えてきたんですよ、焼け跡に。ふすま粉(小麦をひいて粉にしたとき残る皮の屑)をすいとん(雑炊)のようにするんですけど、固まらないからどろどろ。そこに雑草を入れて食べてました。」美「かぼちゃのヘタとかね、大豆のカスね。」【中沢啓治 はだしのゲン】実家が焼け落ちたあとに、初めて行く気になったのは、『もしかしたらみんな生きているかもしれない』と思ったから。海「どきどきして、三ノ橋っていう橋の上に立ったときに、『これはだめだな・・・』と思ったのは、町が全部消えちゃってなかったんですよ。人もいなくなったし、家も消えちゃったし、『皆消えたなあ・・・。』ってその時思いました。うちの焼け跡の前に立ったとき、初めて大声で泣きました。『とうちゃーん、かあちゃーん』って叫んで焼け跡に入って。3月に空襲があって、そのときはもう12月の終わりで。ザクザクと焼け跡を掘っていったら、最初に弟の昼寝布団が出てきたんですよ。『これ、こうちゃんのだぁ』と思って、抱きしめました。母のお茶碗のかけらや何か、みんなの生きていた証が出てきて、泣いて泣いて。」12月の寒空のもと、雪が降ってきても『もうこのまんまでいいや・・・』とご実家の石段のあった場所に膝を抱えてじっとしていたとき、通りかかったのが黒っぽい姿の男性。海「『助けて』って言おうと思ったけれど、言わないで座っていたら、その人が戻ってきたんですよ。『姉ちゃん、しっかりしなくちゃだめだよ。こんなところでこんなことしてたら死んじゃうじゃないか。頑張ろうよ、頑張ろうよ・・・。』って言ってくれて。顔をみないでじっとしていたら『おあがり、おあがり』って。何の気なしに手を出したら、さつまいもを半分割ったのをくれて。それを夢中で食べましてね。体に本当に伝わって。『ああ、今の人、神様だったかしら?』って、そのとき思いました。」美「まだあの頃は、人情っていうものが残ってましたからね。」国「そんな方がいるんですね。」【海老名香葉子 半分のさつまいも】明日は海老名さんが建立に奔走された上野の慰霊碑にまつわるお話です。***
March 10, 2012
終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録いたします。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」美「でも名残があったでしょう?」江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】 ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、日本人だけでも犠牲者は300万人以上。東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。そうそうって思いながら。」お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」海「はい、小学校五年生でした。」本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。お父さまは竿師として日本一だったそう。東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、また私の手をギュっと持って、『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」国「お父さんは?」海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、強制的に全員、疎開することに。」国「お兄さんはおいくつだったんですか?」海「兄は中学一年でした。」国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、強制的に無事なところへ疎開させられたの。」☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。国「どんなことが書かれていましたか?」海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』って書いてあるんです。」美「やさしいお父さまね。」海「ええ。」【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。火みたいに熱かったんです。それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」海「顔が見えますよ。」美「顔が見えるくらい。」お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。そばに来てから、急にエンジンをかけて。私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。もう、面白がって楽しんでるの。」国「信じられないですね。」美「そうよ。」明日は海老名さんの東京大空襲のお話と長崎に投下された原爆を体験された美輪明宏さんのお話です。***「オーラの泉・日記リンク」
March 9, 2012
ホンネ日和という番組にお二方が出演されるそうです。日時 10月9日(日)夜11:30~CBC製作/TBS系全国28局ネット2年ぶりの共演だそうで「本当の幸せを掴むための教え」についてもお話いただけるようです。ご興味のある方は、是非どうぞ。「ホンネ日和 HP」「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台鑑賞の日記」
October 5, 2011
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」
March 11, 2011
2時間で10万人の命と東京の6分の1を奪いつくした東京大空襲。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「3月9日の夜半から、沼津で退避命令がでましてね、山の上に登っていったんですよ。真夜中過ぎましたらね、東の空がボーっと赤くなってて。『東京がやられてるぞー』って大人の声が聞こえましてね。子供でしたからもうとにかく、正座して拝んで拝んで拝んで、一生懸命拝みました。それで明け方戻ってきましたら、『本所深川は全滅だってよ。』ってお友達に言われたんですよ。それでも元気な兄達、父も元気でしたし、絶対大丈夫って、祈りながら思ってましたけど、それから四日目。すぐ上の兄(喜三郎さん。当時13歳)が、もうぼろぼろになって現れまして。着てるものから何からぼろぼろで。『ごめん、ごめん・・・。みんな死んじゃったんだ。』って言って現れたの。『父ちゃんも母ちゃんもみんな死んじゃったんだ・・・。かよ子、ごめんね、ごめんね・・・』って泣いて現れましたの。」美「『ごめんね・・・』っていうのが哀れですね・・・。自分のせいみたいに思っているっていうのが・・・。自分ひとりだけが生き残ったっていうね。」海「はい。父は警防団(父 忠吉さんは警防団・班長で消火を指揮)に詰めてましたから、途中で帰ってきたんですよ。そこの学校が焼け落ちちゃったんで、違う学校へ行ったら門が閉まってて。中に入れば助かったんですけど、門が閉まってて入れなかった。それで学校の校舎と塀の間を乗り越えて。炎を避けるために母が弟を胸に抱いて突っ伏して、その上から父が覆いかぶさったんです。三人の兄達は寄り添って。一番上の兄が『日本男児だ。潔く舌を噛んで死のう』って言ったら、父が『喜三郎、あそこに逃げろ!』無我夢中で、気がついたら自分ひとりが学校の中に入ってて、助かっちゃった。自分ひとりが生きてるのが悪いように、私に『ごめん、ごめん』って。一晩、抱き合って泣いて・・・。二人でお世話になるのは悪いからって、ひとりで東京に帰っていっちゃったんですよ。」【高木敏子 ガラスのうさぎ】中学一年生のお兄様が、麦畑の中で手を振りながら去ってゆくのを、「大丈夫かなあ」と心配しながら見送った11歳の海老名さん。国「もちろん、止めたわけですよね。『一緒にいよう』・・・。」海「『一緒にいよう』って言ったんですけど、私の手を取って涙をぽとんぽとん、兄が垂らすの。その涙が熱いんですよ。熱い涙なんて、あのとき以来知りません。」美「お兄様は当ても何もおありにならなかったでしょうにね。だって東京全部、焼け野原ですものね。」海「何もないです。それなのに戻って行っちゃって。闇市だとか、その辺りを歩いていて、兄は行方不明になっちゃいました。」美「もう本当にね、憎らしいわよ。だって日本中、じゅうたん爆撃(じゅうたんを敷き詰めるように目標一帯を集中的に爆撃すること)。じゅうたんをひいたみたいに全部、やっちゃう。」海「じゅうたん爆撃は、下町の密集地ですよ、紙と木でできた。爆弾を周り中に落として、(逃げ道を全部断ってしまってから)そこに焼夷弾(火炎や高熱で殺傷・破壊する爆弾)を落としたんですよ。ガソリンの塊みたいなものですよね。地上何百メートルのところで、炸裂して落ちるんです。だから火の海になって・・・。東京大空襲はたった二時間で、十万人の人が死んだんですよ。もう火の海の中でみんな苦しんで・・・。」美「すごい残酷でしょう?だってね、戦闘要員、つまり兵隊さんとか軍事施設だけだったらわかるわよ。戦う能力のない、非戦闘員の女、老人、子供をやる?(第二次大戦の犠牲者6000万人のうち、その半数は民間人だった)だからある空軍大佐は、軍事施設だけやりましょうって。アメリカにも良心的な人がいるのね。でもその人はぽーんと左遷されてしまって。皆殺しにしろってことになったの。それの私たちは犠牲になったんですよね。」海「そうですよ。」東京大空襲の5ヵ月後、1945年8月には広島に次いで長崎に原子力爆弾が投下され、7万人が犠牲に。当時10歳の美輪さんは、ご自宅でその惨状に出会います。美「私は原爆が落ちたときに長崎にいたんだけど、全然、何の音もしないのよ。『ああいい天気』って、防空頭巾被って、夏休みの宿題の絵を描いて、出来上がりを見ようとちょっと下がった途端に、ピカってなったのよ。『え?こんな雲ひとつない、いい天気に?』マグネシウムをたいたみたいに、雷?って思うか思わないかのうちに、雷を一千万個くらい集めたみたいな轟音がして、瓦が全部、降ってきちゃったの。」【松谷みよ子 ふたりのイーダ】カフェーを経営していた美輪さんのご実家は洒落た洋館で、ガラスをふんだんに使った造り。そのガラスが爆風で全て、一瞬にして砕け、立っていたすぐ後ろの壁や、床に鋭く、直角に突き刺さった。ところが、顔にもどこにも、何一つ傷を負っていない。一緒に逃げたお手伝いさんやお兄さんも、裸足だったにも関わらず、まったく怪我をしていなかったそう。美「帰ってきたときにどうやって逃げたのか。ガラスが全部、針山みたいに刺さってるの。」原爆が投下された長崎では、爆風と熱線で半径1キロメートル以内は全壊。半径2キロメートル以内も80%が倒壊したほどの被害。国「外に出たら・・・」美「もう、地獄ですよ。馬は横倒しになっていて、引きつけを起こしているし。馬車引きのおじさんは飛び上がって叫んで。全身、皮が剥けているのよ。もう地獄。あちこち逃げて・・・。塀の下敷きになっている人が『助けて』って腕をつかむのよ。『キャー』って逃げたら、その人の肉が剥けて、腕にぴたっとくっつくの。もう、すごいわよ、戦争っていうのはね。」終戦後、戦災孤児となった海老名さんはご実家の処理をするために中野のご親戚のもとに引き取られるも、そのお家そのものが、焼け野原に焼けトタンを立てただけの小屋で、親子が肩寄せ合っているようなところ。居たたまれずに、親戚や知り合いのもとを転々とする日々だったそうです。海「東京に戻ってきてからは、生きる戦いでした。どこのお家もそんなに長くいられないで。子守をすれば新制中学に行かせて下さるっていう家があって。そのうちもおじさんが職が無くなったから『あんたの面倒みられない』って言われて。葛篭を背負って、あっちの家、三日、こっちの家、三日って転々として、学校も行かずに。」国「数日で変わっていっちゃうんですか?」海「だいたい、『こんにちは』って言って、いられそうだなと思うと、三日、四日いるの。で、『これが限界だな』ってわかるんですよ、自分で。そうすると『おばさん、さようなら。ありがとう』って言って、次のところに行くの。」美「あの頃はね・・・。親が子を食べさせるのに自分が食べないで、子供達だけ食べさせるって言うでしょう?おにぎりを三つ持ってたら、大金持ちなのよ。(終戦後、食料不足で米は貴重品だった)お金が何の役にも立たないの、品物がないんだから。ご親戚をたらいまわしっておっしゃったけれど、親戚も自分達が子供に食べさせるだけで精一杯。そういう時代だったのよ。だから、『日本人はどうやって生きてきたのかしら?』ってお思いにならない?」海「雑草が生えてきたんですよ、焼け跡に。ふすま粉(小麦をひいて粉にしたとき残る皮の屑)をすいとん(雑炊)のようにするんですけど、固まらないからどろどろ。そこに雑草を入れて食べてました。」美「かぼちゃのヘタとかね、大豆のカスね。」【中沢啓治 はだしのゲン】実家が焼け落ちたあとに、初めて行く気になったのは、『もしかしたらみんな生きているかもしれない』と思ったから。海「どきどきして、三ノ橋っていう橋の上に立ったときに、『これはだめだな・・・』と思ったのは、町が全部消えちゃってなかったんですよ。人もいなくなったし、家も消えちゃったし、『皆消えたなあ・・・。』ってその時思いました。うちの焼け跡の前に立ったとき、初めて大声で泣きました。『とうちゃーん、かあちゃーん』って叫んで焼け跡に入って。3月に空襲があって、そのときはもう12月の終わりで。ザクザクと焼け跡を掘っていったら、最初に弟の昼寝布団が出てきたんですよ。『これ、こうちゃんのだぁ』と思って、抱きしめました。母のお茶碗のかけらや何か、みんなの生きていた証が出てきて、泣いて泣いて。」12月の寒空のもと、雪が降ってきても『もうこのまんまでいいや・・・』とご実家の石段のあった場所に膝を抱えてじっとしていたとき、通りかかったのが黒っぽい姿の男性。海「『助けて』って言おうと思ったけれど、言わないで座っていたら、その人が戻ってきたんですよ。『姉ちゃん、しっかりしなくちゃだめだよ。こんなところでこんなことしてたら死んじゃうじゃないか。頑張ろうよ、頑張ろうよ・・・。』って言ってくれて。顔をみないでじっとしていたら『おあがり、おあがり』って。何の気なしに手を出したら、さつまいもを半分割ったのをくれて。それを夢中で食べましてね。体に本当に伝わって。『ああ、今の人、神様だったかしら?』って、そのとき思いました。」美「まだあの頃は、人情っていうものが残ってましたからね。」国「そんな方がいるんですね。」【海老名香葉子 半分のさつまいも】明日は海老名さんが建立に奔走された上野の慰霊碑にまつわるお話です。***
March 10, 2011
終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録いたします。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」美「でも名残があったでしょう?」江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】 ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、日本人だけでも犠牲者は300万人以上。東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。そうそうって思いながら。」お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」海「はい、小学校五年生でした。」本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。お父さまは竿師として日本一だったそう。東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、また私の手をギュっと持って、『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」国「お父さんは?」海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、強制的に全員、疎開することに。」国「お兄さんはおいくつだったんですか?」海「兄は中学一年でした。」国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、強制的に無事なところへ疎開させられたの。」☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。国「どんなことが書かれていましたか?」海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』って書いてあるんです。」美「やさしいお父さまね。」海「ええ。」【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。火みたいに熱かったんです。それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」海「顔が見えますよ。」美「顔が見えるくらい。」お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。そばに来てから、急にエンジンをかけて。私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。もう、面白がって楽しんでるの。」国「信じられないですね。」美「そうよ。」明日は海老名さんの東京大空襲のお話と長崎に投下された原爆を体験された美輪明宏さんのお話です。***「オーラの泉・日記リンク」
March 9, 2011
オーラの泉に逸見太郎さん・愛さんが出演された回をご覧になる方々がいらっしゃるのでしょうか、一昨日からアクセスを沢山頂いております。ありがとうございます。春恵さんの訃報に際しての報道で、がんに対しての多くの貢献をされてきたことを知り、感謝しながら、改めて日記を読み返しています。私の夫は胃がんで父親を亡くしていますけれども、当時は本人に病名を告げることなど、とてもできない状況だったそう。違和感を感じながらも、病院に行くのが遅れてしまったのだそうで早期発見の大切さよりも、がんと判明することそのものに対する恐れの方が大きかったようです。今回、日記を読み返してみて、逸見さんが告白をされたのが夫の父が亡くなった後であることに思い至って。もし、逸見さんの勇気ある姿を見ることができていたら、闘病生活はもっと違った形になっていたかもしれません。近頃は、がんを抱えながら日々を過ごしていらっしゃる方と接する機会も増えてきましたけれど、確かに、あの逸見政孝さんの衝撃的なTVでの告白や、その後の春恵さんの精力的な活動は、逸見さん以前、逸見さん以後とも言えるほど、告知や早期発見に関するハードルを下げることに大きく貢献したのではないかと思います。春恵さんは闘病を続けながらも、同じ病を抱える方々の旅行のお世話をされるなど、最後まで人生を愉しむことを伝えられていたとのこと。強く明るく美しく。お2人の放たれた大きな光はいつまでも輝き続けることでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。「オーラの泉 逸見太郎さん&愛さん 家族の役割」
October 27, 2010
最後の舞台では、太一くんが中央に、向かって左側に江原さん、右側に美輪さんが座っていらっしゃいます。国「さあ、ということでですね、えー『オーラの泉』もですね…今夜で最終回を迎えました…本当にもう、美輪さん、そして江原さん、大変お世話になりました。どうもありがとうございました」江「こちらこそ、ありがとうございました」美「こちらこそ、お役に立ちませんで…」国「やっぱり運命を感じることが僕、たくさんありまして…やっぱりこの…4年半…えーこれ、収録日の話なので、ちょっとオンエアでは使い辛いと思うんですけれども…今日、僕、生まれた日なんですよ。僕、誕生日なんですよ、今日。何かこう…自分にとっても35歳の…スタートでもあるのかな?と。あの…美輪・江原学校を1回卒業し、そして新たなステップで何かを始めるのかな?って…もう不思議でしょうがないんですよね、誕生日に最後だっていう…」美「おめでとうございます。知らないでごめんなさい☆」江「私たちは、どっちかっていうと命日の方に興味があるから☆」国「そうですね☆生まれたことよりもね☆」美「どうもおめでとうございます☆」国「最後に、メッセージを…まず、江原さんの方から」江「はい…やっぱり4年半…ね?やらせていただいて…一番やっぱりね、嬉しいのは…私、たくさん…美輪さんにもたくさん来るはずですけれども…あの…多くの人がね『自殺を思い留まった』とかね『人生を凄く助けられた』っていう人がね、いっぱいいるんですよ」美「全国から…」江「全国から」美「手紙やね、色んなものが…『六年間、引き篭もりだったのが治った』とかね、『リストラにあって自殺しようと思ってたお父さんが立直ってくれた』とかね、色んなお手紙が…『ええ?こんなに実生活にお役に立ってるんだな』と思ったら、本当に嬉しいですよね」国「そうですよね…ということで、『オーラの泉』を応援して下さった皆様、本当にありがとうございました」江原さんは手を合わせて、美輪さんは美しく笑ってお辞儀を。スタッフの方々から喝采が起こるなか、太一くんと江原さんは拍手、美輪さんは万歳をしてから、お三方が立ち上がり、世にもたぐいまれな番組は終了しました。 ***ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。以下、2009年9月19日の最終回の日の日記を一部、再録させていただきます。オーラの泉 最終回 美輪明宏さん、国分太一さん、江原啓之さんご出演の「オーラの泉」が本日、最終回を迎えます。放送開始の頃は、当地では観ることができず、番組を詳しくお伝え下さるサイトさんで、敬愛する麗人のお姿を想像しながら内容を読ませていただいていました。扉を開いてくださったこと、いまも本当に感謝しております。念願かなってレギュラー放送が開始された後は、一度も欠かさず拝見、録画もして何度も観ることができました。日記にも少しずつ感想などをアップし始め、だんだんと詳しく内容を書き込むようになりました。毎回、ゲストの方々が、ご自分のことを開示して下さって人生についてさまざまに照らし合わせて学べることは非常にありがたいことでした。それまで、お名前しか存じ上げなかったような方々にもお話を聴くとファンになったり親しみを覚えたりして、出演される番組や舞台などを拝見する機会も増えました。また、コメント、メッセージ、アクセスを頂戴しましたこと、心から感謝します。国内外の方々からお言葉をいただく機会に恵まれたことでたくさんの方々が心から番組を切望していらっしゃるということが分かりました。遠く離れることで故郷の美しさに改めて感じ入る経験はどなたもしていらっしゃると思いますけれども、番組の中で出演者の方々が、噛んで含めるように繰り返し繰り返しお話くださった智慧に満ちた言葉の数々は、それらを育んだ地の素晴らしさをも伝えて余りあるもので多くの方々の心をなぐさめ励まし明るく照らし続けるのではないかと思います。美の宝庫とも言うべき稀代の番組が終了してしまうのは大変に残念なことですけれども、ひとつの救いはすでに放送が月一度のスペシャルとなっていたこと。レコーダーの予約欄にも、通常、最終回を迎える番組の最後に表示される「終」の文字がありませんでしたので、スペシャル放送などでまたお目にかかる機会を作っていただければと期待しております。***これまでも終戦記念日やいじめの問題が大きくとり上げられるようになったときにオーラの泉の日記を再録させていただくことがありました。これからも折に触れて智慧の言葉にヒントをいただく機会があると思います。今後もどうぞよろしくお願いいたします。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 11, 2009
タイトル防衛を重ねてきた内藤選手ですが、前回、出演されたときとは変わって、今回はほとんど言葉が出ない状態に。江「あのね、ちょっとあの…疲れちゃっているのね…あの…色んな思い、プレッシャーとかも、もちろん現実、あるでしょうけれども…何か本当に、そのボクシングをやる、やらない以外の悩みの方が増えちゃってね…だから本末転倒みたいなね…お仕事、それが本当なのか、何か別のことの方に時間がかかり過ぎて、そっちの方があれなのかね、分からなくなっちゃう…」内「(前かがみになり、小さな声でようやく)…すごいね…うん、今、いっぱいある…そう…」美「それが有り過ぎるの、いま。ね?」江「で、実は…」Y「(内藤選手に)はっきり言った方がいいですよ…」東「言っといた方がいいですよ」内「本当…そう…」江「これね、良くないのはね、実はね…今日、内藤さん、いらっしゃってね…結構、ここでは笑いのようになってるけれども…内藤さん、元々そんなにお話する方じゃないけれども、ちょっと口が重たくなっているでしょう?それはどうしてかって言うとね…もう今、押し潰されそうになっちゃってるんですよ、その思いに…だから今ね、楽しめないの。悲しみの方が強くなっちゃって…本当はここまで成功したらば、もっと自分でやりたいことも出来るはずなのに…窮屈になっちゃってる」国「正直、そこまで今、追い込まれてる状況ですか?」内「あの…あまりね、悪いように、悪いようにっていうか…悪いように考えないようにしているんだけれど…あのね…言い出すといっぱいあるね…色んな悩みがあるね…あと、ボクシング以外での悩みがね…『ふざけんな!』っていうこともね…やっぱりありますよ」美「内藤さんのね、一番の悩みの根元はね、優し過ぎること。優しいから…普通だったら『何だ、テメエ!それがどうしたんだ!』とバッと言ったりとかね『ふざけんじゃないよ!』って色々パッと…それが言えないのよ。(喉元を指して)ここまで出ていても」東「どうしたら良いですか?こうストレス発散というか…ガス抜きというか…」江「だから、今日来てるんですよ…それで、メッセージ1個だけ…言っときましょう…あの…今ね、今日、ここに来られたのも、導かれて来てて…で、『ボクシングだけを考える』ボクシングだけを、もういっぺんね、ボクシングに対する愛情とか感謝とかが、物凄く大きいじゃないですか」内「ええ」江「毎日のように『ボクシング、ありがとう』って思ってますでしょう?」内「ええ」江「だからその気持ちだけ残して…で、これから必要な試合、ね?戦って…ね?それで『自分でボクシングのことだけ考えて、散るときに散ればいい。それをもってやればいい。後の余分なことは考えなくていい』」美「それと、だから…色んなグジャグジャ余計なね…必要でない人間関係がいっぱい出来ちゃったから、それをね全部、スパスパ切っちゃうの…それで一番、良い存在にあるのは、お母さん…」江「(スタッフさんの方に小声で)動いて良いですか?(立ち上がって内藤選手のそばへ)」美「お母さんに何かお聞きになったり…」江「あ、どうぞ、お話続けて下さい…(内藤選手の背中に手を当てて)」美「…で、そうするとね、お母さんが一番短くて的確な言葉をズバッと言ってくれますよ」国「へえ…ちなみにその…江原さんから出ているメッセージというのは、どなたからのメッセージ…」江「守護霊さん…(内藤選手の背中に手を当てたまま)こんな…ごめんなさい、言葉が悪いんだけど…こんなオーラの人じゃなかった。前回いらしたときに…それでね…ごめんなさい、こういうこと言って…(内藤さんの背中を叩きながら)あのね…生霊だらけ…」国「え?!」江「だから押し潰されそうな状況になっちゃってるの…それでいて…(ポンポン音を立てて首筋に近い背中を叩き、さすって、また叩き)大きく1回、息を吸って…フーッって(内藤選手、言われるまま呼吸して)もう1回、大きく息吸って…思いっ切り、フーッって(息を吐き切った内藤選手の背中を、再びポンポンと叩き)」美「全部、吐き切るの!」江「もう1回…(内藤選手、大きく伸び上がって息を吸い、思い切り吐いて前かがみに)フーッ…そう、肺活量…(内藤選手の背中を強くさすりながら、体を起こして)」美「ちょうどね…あの…空気をいっぱいにスーッと…体中に全部、吸うんです。鼻から口からいっぱい、肺からお腹から全部いっぱいにギューッと吸っておいて…で、吐き出すときに…相手をノックアウトするときの、あの気合でフーッと吐くんです。そう…だから、そういう悲しげな顔をして、眉の根にシワを寄せて吐いちゃ駄目。逆にやられる」江「そう…はい、大丈夫です(いったん太一くんに近づいてから、ご自分の席に)」内「どうも、すみません…」東「これ、自分でも毎日やったら良いんですか?我々でも、息をフーッと…」美「そうそう。『何かおかしいな』っていう時にはね、他の人の念が来てる時は…自分に理由がないのに、急に悲しくなったり憂鬱になったりね、する場合があるの。そういう時に『これは何者の成せる業だ?私がこうなるわけがない』そういうときに『正体を現せ!』ってことでね…(大声で)『ええい!ここはお前の来るところではない!去れ!』ってやるのよ。パーッと散るのね。見破られるから…(内藤選手を指して)血の気が出て来た☆」江「本当に顔色が違う☆」国「大分、楽になりました?」内「精神的に全然違うよね…」国「『精神的に全然違うよね』☆」勝「すぐ喋れるようになったものね☆聞いてすぐ☆」内「僕…さっき始まってから…『俺、ひと言も喋ってない』ってずっと思ってたんだよね…(他のゲストの方を指して)ここだけで喋ってんだもん☆俺一人だけ…」東「いや、違います。何回も話を訊いたけど…」勝「訊いても喋らないから…」国「そんなこと…そんなこと言われるとは思わなかったです…僕も☆」勝「『国分くん、ひどいなあ』と思ってたわけですよ、『俺には振らないで…』☆」江「そういう誤解を思うほど、被害妄想になるほど、外界との関わりが出来なくなっていたんですよ」東「あー、思ってる意識が違うんだ」江「違うんです」内「だから…TVを観てる感覚だったんですよ。(腕を組んで)こうやって…」東「何回もみんな振ってましたよ☆」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 10, 2009
いじめなどの深刻な問題や、怒りの感情に対しても、貴重な示唆を与えていただきました。堀ちえみさんの回美「大奥とか、江戸時代の昔からいじめはあったけれど、それを最小限に留めていたのは『恥』を教えていたの。『いじめる人間というのは、人間の中でも最下等の卑劣で、卑しくて、みっともなくて、恥知らずなんだよ。お前さんは恥知らずの人間になっていいのか』いかにみっともないことかということ。いま使われなくなった言葉は『恥を知れ』『あなたは恥を知らないの?』親がそれを教えたのだけれど、いまはそれを教えないのよ。だから恥知らずばかりになってしまうの。」江「美輪さんがいつもおっしゃるように、いじめという言葉をなくした方がいいですよね。」美「いじめというのは犯罪なんですよ。『あの学校でいじめが行われた』と言ったらまるで、『子供のいじめくらいいいじゃない』と軽く考える。それを止める。やっていることは恐喝、脅迫、傷害、殺人なんですよ。『あの学校で犯罪が行われた。恐喝だから、暴行傷害だから警察に行く』犯罪であって、いじめという言葉を使わないこと。」 「堀ちえみさん・子供は社会の鏡」YOUさんの回Y「でもいいんですか…たまにやっぱり…何かあの…汚なーい心になって…人間関係でカチンカチン来ちゃう…」美「あのね…ここまでいい人になろうとしてね…『今日はいい人だったな』…ところが『馬鹿野郎、テメエ!』『何言ってやがんだ、この野郎!くたばりやがれ!』って…『あ、しまった…』って思って、次に悪魔になるわけよ」Y「本当にそうなんです」美「悪魔になって『ああ、これじゃいけない…』と思って、また反省するじゃない?それがね一度(腕を上げて指先で高いところを示して)ここまで上るのよ。上ったら、ストーン!と落ちるの。で、また上ってストーン…(指先を上下させて)こういうグラフになるのね」Y「いや、本当にそうなんです…」美「だけど、考えてみたらね…落ちても一番最初のところ、地面のどん底までは落ちていないのよ。落ちてても紙一枚、上のところへ残っているの。で、それでね、チリも積もれば山となるでね、それを繰り返してるうちにね、だんだん落ちてるところがね、落ちなくなってくるの…2センチ、3センチ、4センチ…って…それが上がってゆくということなの」国「へえ…でも、やっぱり怒っちゃったってありますよね?」美「怒っていいのよ。怒って悪魔になっていいの。で、それで『あ、しまったな…』って反省すればいいの。反省した時に『落ちてるな』と思ったらね、最初のところまで落ちてないのよ。(指で数センチの高さを作って)ここいら辺までね、成長してるの。それの積み重ね、それが修行なのよ。初めから(高いところを示して)こんなに上がる人って、誰もいないの」Y「ああ…ありがたい…」国「自分では何かそういうことを考えていても言われなければ分からない、気づかないことを、今、美輪さんに僕、何か言われた気がします」美「そうですか」Y「…本当に分かっているのかしら?☆」***再びスタジオに戻り、YOUさんがアップになりました。国「どうですか、もう…」東「良い言葉」Y「良い言葉でしょう?」国「そうですね…『紙切れ一枚でも成長はしてる』っていうのは、本当にきましたね、あれは」Y「それを信じて…」丸「この番組が一時代を画したというのはね、やっぱりスピリチュアルという言葉をね、かなり定着されたと思うんですよ。スピリチュアルなものっていうのはね、やっぱり『自分らしい生き方を出来るためのノウハウ』だと思うんですよ、これはね、そういうことで、そのスピリチュアルというのは、おまじないでも何でも無いんですよ!」国「はいはい」丸「(大きな声で演説口調になって)僕が説明しますとね☆(お二方の拍手に応えて立ち上がって)おまじないでも何でも無いんですよ!やっぱりね、スピリチュアルなものは、人間の中、心の中にあって、それをね、自分の一番、自分らしい生き方をする手立てをね、示唆してくれる番組だったんですよ」国「なるほど」東「それ、みんな分かってますから☆(丸山さんを座らせて)」勝「自民党の偉い方にも伝えてください☆」丸「本当だよ!」国「内藤さん、どうですか?今のVTRを観て…こう…美輪さんの気になった言葉とかってありますか?」内「……」内藤選手は、やはり言葉が出ないまま。***二年前、チャンピオンになったときに内藤選手はゲストとして出演されました。内藤大助さんの回内藤さんは世界チャンピオンのタイトルを獲る試合の前に足に怪我をされていたそうですが、驚異的に回復なさったようです。江「あの…もう一人、ご兄弟がいたはずなんですよ…」内「そう…そう…流産しちゃった…」江「で、そのご兄弟さんが助けてくれた」内「いやあ…」江「そのことを忘れないでいてあげて。奥さんとかの励ましもあるんだけれどもそれだけじゃなくて、亡くなったご兄弟が陰ながら、一生懸命応援していて『自分の分も、頑張って生きてくれ』というのもある。そのご兄弟がどうして、足を助けてくれるかというと、お母さんがいつも『頼むよ』という願いがあるから」国「弟さんになるんですか?」内「僕のね、兄になるんじゃないかな・・・」美「流産なさったのね」内「母親から聞いています、それは。『本当は三人兄弟だった』って・・・そうですか・・・」美「ありがたいですね」内「お礼は何て言えばいいんですか?」江「そのことを理解して、『その分、頑張る』って誓うのが一番の・・・」内「そうします」江「そうすれば、いつも美輪さんが言われるように『ようやく日の目が当たった』『自分が一生懸命やったことを理解してくれた』と喜んでくれる」美「声に出してもよろしいですからね、一人でいらっしゃるときでも奥さんと一緒にいらっしゃるときでもね、生きてる人に話すようにして『いつもどうもありがとうね。心配かけてすみません。おかげさまでね、どうもありがとう』とおっしゃっていれば、それでよろしいの。特別に何かなさる必要はないの」内「本当にひどかった、筋肉断裂、肉離れ。試合の、二か月くらい前かなあ・・・言えなかったですよ、それは」美「誰にもおっしゃれなかったの?」内「全く。松葉杖ですもん」江「でも、回復が早かったでしょう?」内「早かった、早かった!お医者さんに聞いてもらえばわかるんですけど出来るような状態じゃなかったです。すごーい!☆」美「これが『すごーい!』人よ☆」内「感謝しなきゃだめですね。周りのおかげですわ・・・」美「そうやって感謝しておあげになると『ああ、そうか。じゃあ、またやりましょう』ということで、また、守って下さるの」内藤大助さん・いじめの克服続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 9, 2009
美輪明宏さんが本にも書かれている名言が、番組にもたくさん登場しました。眞鍋かをりさんの回江「ただ、世の中はいま、想像力がない人が多いですよね」国「事件が起きるのもそうなんでしょうか?」江「やはり『こうしたら、人はどう思うのか?』『辛い思いをするんじゃないか?』とか、その想像ができなくて、自分のごり押しでしょう?一番典型的な例はストーカーですよね。ストーカーというのは、自分よがりでしょう?相手がそうしたら、どういう様な不快感を感じるのかということを、想像できないわけですよ。自分だけ、個だけで生きていて、『僕は好きだ、好きだ』と言っても、それは好きなのではない。自分が好きなだけであって」美「本当にそう。『ありのままの私を受け入れて欲しい』『ありのままの私』お前がなんぼのもんじゃっていうのよ!☆畑の大根だって、引き抜いて泥を落として皮をむいて千切りにするなりしてお皿に盛って『はい、召し上がれ』って努力して、それで食べられるんでしょう?畑から抜いたままの泥だらけの大根を、『さあ喰え喰え』って。それと同じじゃない?」江「私このお話、大好きなんです☆」国「わかりやすいですよね、口の中がじゃりじゃりしますもんね☆」江「『そのままの私を愛して』って・・・」美「犯罪ですよ☆」「眞鍋かをりさん・想像力と理性」東野幸治さんの回美「それはね、いいことなのよ。昔『獅子の座布団』ってエッセイを書いたんだけど、昔はね、お父さんの座布団、お母さんの、子供のって、決まってたのよ。お父さんがいないときにも子供たちに『ここはお父さんの座布団だから座っちゃいけませんよ』って言われたでしょ。そうするとね、お父さんが出張して、何日、何ヶ月、家を留守しても父親の威厳がその家に、厳としてあるのよ。今は椅子生活になったから、秩序がないから父親軽視になって権威もなくなっちゃったのよ。だからあなたの家は正解なの。お父さんの椅子があるということは。ただ、そこは奥さんが『そこはお父さんの椅子だから、物を置いちゃだめよ』とか『誰も座っちゃいけませんよ』とか言うべきなのよ。そこは奥さんのひとつの勉強よね」東「わかりました。ここ、絶対、オンエアしてください☆」「東野幸治さん・家族の肖像」片岡鶴太郎さんの回国「僕…あの…この番組をやるようになってから、意識して植物を家に増やすようにしたんですよ。ただ…」江「枯らせますねー☆」国「そうなんですよ。正直、言っていいですか?可愛いと思えないんですよ、まだ植物が」江「あのね、視点をひとつ変えたらいいと思うんです。あのね、この事実を知ると見方、変わりますよ。国分さんにね、命を分けてくれているんです、エネルギーをね。疲れているから。植物や動物は、ものすごく献身的なんですよ。命を分けてくれるから、枯れていってしまう。そういう形で愛することで、枯れているんです。それを知ると、お水をあげるのでも『ありがとう』とか、『もっと輝いてね』と自分がもっと微笑めばその分、花も微笑んでくれる。動物もそう。愛するだけ愛してくれる」美「あのね、花というのは優しいのよ。人間は意地悪で、妬み、嫉み、僻みマイナスの方の雑念、憎念が半分あるけれども、花は悪い方の雑念、憎念がないんですよ。『なぐさめてあげましょう、私でよければどうぞ』みんな献身的で、与えっぱなしなの。だから花は美しいの。心がそのまま出ているのが花の形なの。命が無いと思っているけれども、花は生命体なのよ。犬や猫や人間と同じように、生命体なの」国「切ない…」美「そう、切ないのよ。だから可愛がってあげなさいということ。私もお花にいろいろしゃべりかけて世話をしていると、いつも何処からか花が寄ってくるの。花は噂をして、評判のいいところに行くのよ。お金でも、物でもそうなの。『あそこに行くと、優しくて丁寧でちゃんとしてくれる』『じゃあ、行きましょう』ってみんな寄ってくるのよ」国「じゃあ僕は、いま植物からの評判は良くないですね…」鶴「『あそこへ行くと短命で終わるからね』という噂があるからね☆」国「いまのお話を聞いただけで、気持ちが変わりました」「片岡鶴太郎さん・32歳の転機」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 8, 2009
国や文化によって、目に見える形も変わってくることがあるようです。的場浩司さん的「寝ようと思って…僕は目を最初、閉じてたんですけど『こっちは大じょうぶだ』『こっちを押さえた』とかっていう声が聞こえてきて『なんだろう』と思って目をあけたら…何か(肩や腕を触って)こういうところにたくさん『小さなおじさん』が乗って体を押さえてるんです」国「『こっちは大丈夫だ』『押さえた』というのは小さいおじさんたちが的場さんを押さえて『大丈夫だ!』ということですか?的「何かガリバーみたいな状態になっていて。『え?なんだろう?』って思ってたら、押さえていた人と目が合って、その人たちがいっせいに逃げ出して…僕は思わず追いかけちゃったんですよ」国「追いかけた?小さいおじさんを☆」的「ユニットバスの下の隙間があるじゃないですか?あそこにみんな入っていったので、開けたんですけど、いなくなっちゃって」美「どれくらいの大きさでした?」的「(親指と人差し指で)これくらいだと思います」大きさは数センチ、白い綿帽子のような服装とのこと。坊主頭に近い髪型のときにも、髪に白や赤の細い糸が結びつけてあることがあるそうで、結髪さん(時代劇などでカツラを担当する方)にも「私でも結べませんよ」と言われたそうです。「的場浩司さん・夫の鑑」釈由美子さん釈「人が見えないものが見えたり…妖精…」国「妖精…」釈「妖精っていうんですかね?小さい人のことを」江「『妖精っていうんですかね?小さい人のことを』って…一般の観ている方は結構、分からないと思います☆」釈「今まで妖精っていうイメージは、ティンカーベルみたいな羽が生えてキラキラキラ…だと思ったんですけど…」国「違うんですか?」釈「普通に…普通に、ただおっさんが小さい…」国「おっさん?小さなおっさんが…」釈「そうなんですよ。ジャージを着ていたりとか…」国「ジャージ!?ジャージ着てるんですか!小さなおっさん…」釈「大仏の格好をしたおじさんもいるんですよ」国「大仏?」釈「排水口のところにいたんです。シャワーを浴びてて泣いてたら(印を結んで)こういう格好をして『ドンマイ、ドンマイ』って☆」国「ドントマインドって言ったわけですか?」釈「『励まされた、癒されたー』と思って☆」国「それを見て、癒されるわけですか?『頑張ろう』って思えるんですか」釈「『頑張ろう』って思うんですけど、シャワーでこう…水を流しちゃったんですよね、排水口に…」国「『あー…』みたいな感じですか☆それは助けて上げましょうよ☆」釈「(手を合わせて)『申し訳ない』ってやったんですけど☆」「釈由美子さん・劣等感の種類」***再びスタジオです。東「不思議…」国「みんな見てるんですよ、小さいおじさんを。どうですか、この中で小さいおじさんを見たことある方?」Y「小さいおじさん…ない」東「見たい、見たいですよ」江「あのね、これを言うとまた、おかしく思われるけれども…国によって妖精の姿は違うんですよ」東「国?」江「国によって」国「僕らが想像するのって、羽が付いてて」勝「小っちゃくてね」国「小っちゃくて、飛んでるイメージがあるじゃないですか」東「歌とか歌ってるみたいな感じですよね」勝「笛を吹いてね☆」江「もともとね、ああいうのは自然霊と言って、この世に姿を持ったことのない霊で、もともと姿は無いんですよ。無いから、見る者に一番合った文化とか、その国のね…可視化させるって言うんだけれど…」美「形として見せるっていうこと」江「…見せるものなので、だから大仏になってみたり、後は…その、ジャージを着たおじさんにもなってみたり、作れるんですよ、いくらでも」美「その人に一番、分かりやすい、方法、手段っていうのを選ぶだけの話なの」江「…東野さんが絶対、疑ってますよ☆」東「…いやいや…そういうことがあるのかな?」丸「そこはね、非常によく分かる説明、凄いと思う」江「…あの…時々、首が痛くなる時ないです?」東「何か…あります、はい」江「ありますでしょ?そういうとき『ちゃんと頭下げろ』って意味なのね」Y「あ、そうなんですか☆」勝「(頭をつかむ仕草で)こうやられてるんだ、頭を☆」東「…ほんまですか?頭を下げ…いや…(首を回し肩を触って)この辺にようね…凝るというか重いというか…」江「思い出せば、何かその時に意地になってたり何かしてる時ですよ」国「良いアドバイスだ、これは☆」東「意地っ張り…皆が右向いてたら、絶対、左向きたくなるタイプ…」国「良いアドバイスだー」東「『頭を下げなさい』と…」Y「本当だ…首が痛いと…」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 7, 2009
自覚のないまま九死に一生を得ていた方々もいらっしゃいました。佐々木蔵之介さん佐「(寝ている時に)『うわあ!』って自分の上にね、何かが乗っているような気がするんですよね」美「どんな?」佐「お菊人形のような…明らかに乗っているんですよ。その人形がですよ…こう(両手を使って歩く仕草で)…スタスタと宙を歩いてゆくんですけど、スタスタ…途中で止まって…『あ、止まった…』と思って…そうしたらそれが…こう(手を返しながら)」国「怖えぇ…」美「振り返って☆」佐「こう…振り返って…」江「でも…よくね、ご無事で…言ってらっしゃいますよね」佐「何かそんな危ないことがあったんですか?」江「っていうか、割りに、あの…佐々木さん、引き寄せるタイプなんでね…そういう風になったとき、お家のそば、踏み切りありましたでしょう?」佐「踏み切り…はい、もう線路がすぐそば、窓の隣に…」江「で、そこの踏み切りで自殺があったと思うんですよ」佐「線路の脇のところ…」美「事件が起きたところなのよ」江「そうなんですね、いくつも。それをまた、みんな背負ってくるんですよ」佐「…」「佐々木蔵之介さん・土は土に」哀川翔さん国「あの、不思議な体験の中でも二度、心臓が…」哀「心肺停止っていうのがあるんですよね」美「あ、心肺停止」国「一回目はいつ頃ですか?」哀「一回目は家で…そのまま、スポンといっちゃったんですよ」国「いくつの頃ですか?」哀「30…30ちょい」美「急に?」哀「急に。二回目はガンガン飲んでる時ですね、一週間後」国「一週間後にも、もう一回止まったんですか?」哀「それは完全に止まっちゃって…」美「心臓が?」哀「心臓が。で、救急車が着ちゃったり、調べたんだけど全然、動かなくて…それで電気のアレでガーン!とやってもらって…それで戻ったみたいな…」国「ええ?」美「それでまた、飲んでいらしたの?」哀「ええ、またそれで…はい…いや、それで病院に行って全部、調べてもらったら何ともなくて…全部、やったんですよ」美「精密検査?」哀「精密検査。何ともない」江「戒めでしょうね」哀「え?」江「戒め」哀「戒め?」江「うん…だから、そういう大きなのをやらないと、やはり大事にしないから。自暴自棄になっちゃうしね。だからそういったことがあって…だからね、それは裏を読めば、要するに『長生きさせるため』ですよね。でなかったら、さっき『戒め』って言いましたでしょう?戒めされるってことは、ほら、早く死んでいい人だったら、そんな必要ないわけだし…」哀「いや本当にね…そこは怖かったですね。だからそこをクリアしたというか…『多分俺、そこで死んだんだな』と思ったんですよね、1回。『多分普通だったら、これで死んでんだろう』と思って…ただ生かされてるから…『いや、これはちょっとな…』と思いましたねー」美「暴れてめちゃくちゃなさっている様だけれどね、哀川さん、ずいぶん色んな方を助けてお上げになっているから」江「その通りなんですよね」国「助けている?」江「そのまんまの言葉、お父さんからあるんですよ」美「あ、そうなの?」江「『人を助けた分の命を貰っている』」美「そうなの」江「『それで延びているんだよ』と」美「そういうことなの」哀「命が?」江「寿命が。要するに人を助けますでしょう?そうするとその人の人生を助けるでしょう、で、寿命を延ばすわけでしょう、その人の」美「徳を積むとね、それだけ使うお金がね、銀行に預金が出来ているってこと」「哀川翔さん・父の思い出」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 6, 2009
ゲストの方々が体験された不思議な出来事が起こった意味や解決法もお伝えいただきました。飯島直子さん飯「…ベッドが揺れるというか…こう…寝ていてベッドの周りでトランポリンしてるみたいに、ボーン、ボーンっていう感じで、毎晩…」国「ええ!?」美「ポルターガイスト(霊により引き起こされる心霊現象。家具が動いたりラップ音が聞こえたりする)よね」飯「ええ?そうなんですか?」国「映画、映画で観たことがある…あのポルターガイストと同じ感じなんですか?」江「ああいうのは大げさですけどね」美「霊にもね、淫魔っていうのがいるの。淫らな魔」国「淫らな魔?!」江「色情霊とも言いますね」飯「ええ?」美「そういう時にはね、怒鳴り飛ばしてやればいいのよ」江「そうなの、そうなの。それ、必要なの」美「(いきなり男声で)馬鹿野郎!テメエ!って言えばいいの」国「(心臓のあたりを押さえて)…ちょっと本当にびっくりしました、今…本当に今…☆」美「ね?」国「なるほど…そういうような感じで…」飯島さんのところに現れたのは、戦地で亡くなった兵隊さんたちもいたようです。飯「…帰れないんだったら何かをしてあげなきゃいけないんじゃないかと思って…ホテルの部屋で…裸踊りとか…をしたら…」国「誰がですか?」飯「私が」国「一人で?」飯「…したらね、歓ぶんじゃないかと思って…」国「…なるほど…」美「宇宙人だわ☆宇宙人☆」飯「…と思ったんですよ☆」堂本光一さん国「スピリチュアルという世界に興味はありますか?」光「興味がないわけではないんですけど・・・ただ・・・僕自身の性格としては何というんでしょう・・・自分で何とかしたいんですよ」国「自分で解決したいってことですか?」光「そうですね。そういう部分があるんですよね。あとは先ほどの質問でもあったんですけど、理科大好きなので」国「びっくりですよ、理科が大好きなんて。不思議な世界というのも自分の中でちゃんと答えが出ないと信じられない部分もあると・・・」光「そうですね・・・半信半疑と言うか・・・『う~ん?う~ん?』って唸っちゃう部分が」国「それはね、すごくわかる。僕も最初の頃は、やっぱり信じられなかったからね☆同じですよ、やっぱり自分の中で・・・」光「…本当にそういった経験というのは、結構多々あるんですよ。一番怖かったのが熱海に撮影に行ったときに、歯を磨いていて、鏡を見たらなんか人が見えたんですよ。アメフトのナンバーみたいな水色っぽいTシャツを着た人が見えて『あれ?何かの間違いだろう』と思っていたら、また見えたんですよね。『何だろう?』そこでも信じないんですよ。『まあ、何かの間違いだろう』」国「確実に見えているんでしょう?☆」光「見えていましたけど☆それでも『まあ、何かの間違いだろう。気持ち悪いから早く寝よう』コンタクトを取って『寝よう、寝よう』ってそのまま寝室に行って。ホテルって電気のボタンがいっぱいあるじゃないですか。消そうと思って、触ろうと思ったら、全部の電気が、バン!って消えたんです。『うわぁ!』と思って『もうこの部屋はいられねえ』と思ってセミスイートみたいな部屋だったので、もう一つの部屋のソファで寝たんですけど・・・」国「・・・それ、もっと前で信じていたらそんなに怖い思いをしなかったかもしれないんだよね?」美「だって信じるも信じないも、堂本さんはどこに逃げても逃げようがないのよ。堂本さん自身が、すごい電気体だから。100ワット、200ワットじゃなくて。カメラが動かなくなったりとか、そういうことがいっぱいあるでしょう?」光「ものすごくあります。あの・・・これ、しょっちゅうなんですけれど・・・」国「いろいろあるじゃない☆」「堂本光一さん・パワーの個性」小雪さん江「今の時代とは違いますけれども、霊能力をお使いになっていて。今で言うヒーリング、だから看護の仕事に行こうとしたのも、そういうことがあるのかなと思うんですけれども、人を癒す、病気を治したりという時代があった。そういう能力を買われて、お城にほぼ軟禁状態でずっと居させられて特定の人だけのために、働かされるのがとっても嫌だというのがあって。ご自身はもっと貧しい人から何から『本当に弱っている人を少しでも癒して差し上げたい』という思いがすごく強かったにも関わらず、その能力を買われて幽閉されてしまったのがヨーロッパなんだけれども、不思議だなと思うのはフランスなんですよ。だからパリコレに行かれたのも不思議なものだなと、返り咲きじゃないけれども」国「いま、軟禁状態というお話をしたときに『あ、・・・』というようなことを言われていましたけれども、それは何となくわかるんですか?」小「姉がそういう体質で、姉からよく言われていたんですね。『もとの生まれはヨーロッパで、お城の中にいて閉じ込められていたからこういうものが怖いはず』とか、小さい頃から姉に言われ続けていて『お姉ちゃんて、何言ってるんだろう?』と思いながら、ずっときましたし。ただ、姉がそういう力を持っているということは、日常的な人だったので。今でもときどき私が『この人と連絡とっていないな』と言うと『明後日に電話が来るよ』ということを言うようなお姉ちゃんなのでこういうような世界ですとか、江原さんがおっしゃったこととかも『あ、やっぱりな・・・』と思えるようなところがありますね」美「じゃあ、お姉さんと同じことをこちらに言われたのね、こちらのお兄さんに☆」「小雪さん・役目の導き」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 5, 2009
ご本人ではなく、ご家族へのメッセージを受け取るために招かれた方もいらっしゃいました。ベッキーさん江「…南の島のような…そこにいたことがある…要するに、そういう前世というかね…人生だったことがあってね…だから凄くね、南の島とかがお好きなんですよ。けれどね、一つだけ、ちょっと悲しい出来事があったの。ね?…実は、その時の…あの…ご兄妹…が海で亡くなられてるんです…そのご兄妹は、今のベッキーさんの妹さん…」べ「(顔を手で押さえて)…」江「…再び一緒なの…この二人の魂のね、繋がり、絆っていうのは凄く深くてね…でね、どういう訳か、いつも二人なんですよ」べ「(涙をふいて)…」江「…でね、ベッキーさんの妹さんてね、前世もそうなんだけど、あなたのために生きるの。で、あなたをとっても心配し、いつも献身的な気持ちの強い人だと思うんですよ。だから『何でもお姉さんの悪いもの、私が全部、受けてあげる』っていうようなね、そういうところがある」べ「もう、おっしゃる通りです…今日も実は連れて来てるんですけど…」江「実はね、ベッキーさんの守護霊さんがおっしゃるんだけど、今、彼女が転機なんですって」べ「妹?」江「うん。ベッキーさんじゃなくって。ベッキーさん、今日あなた、妹さんのために来てるの」べ「でも、お話いただいたときに、まず『あ、妹を連れていかなきゃ』って思ったんですよ。あの…絶対に私、仕事場には妹を呼ばないんです。絶対に呼ばないし、むしろ来ないでもらいたいんですけど…もう真っ先に『あ、じゃあジェシカ連れていこう』みたいな感じでした…」スタジオで観ていらしたベッキーさんの妹・ジェシカさんが舞台に呼ばれました。美「いらっしゃい、いらっしゃい☆」江「…でも妹さん、鞄が気にならない、最近?」ジェシカさん「はい、鞄いっぱい…いっぱい買ってます☆」江「でしょう?あのね、鞄が気になるのは、要するに『さあ旅立ち』ってことなの。何か知らないけど、鞄を見たりしてたでしょう?」ジ「大っきい鞄、いつも下げて…☆」べ「そうだよ!しかも大っきめですよ☆」江「そう。だから『人生的な旅立ち』っていう…」美「『いい日、旅立ち』なのよ☆」べ「妹が出るべくして…☆妹がゲストの方が良かった…☆」国「凄く、ここに来た意味があったんですよ」べ「ありがとうございました。すみません…妹の分…」「ベッキーさん・感謝と想念の贈物」***VTRからスタジオに戻り、お三方と、ゲスト席の前列に勝俣州和さん、丸山和也さん、YOUさん、後列には東野幸治さん、内藤大助さんが並んでいます。国「はい、というわけで名場面スペシャル後半戦…今回もですね、懐かしい皆さんにお集まりいただきました」勝「『あの人は今…』みたいじゃないですか!☆」国「あれから結構…時間経ってる方もいらっしゃいますよね?丸山さんなんか…結構、前に出てますよね?こんな大変な時期に今、来てていいんですか?」丸「いえいえ…逆に大変だから、ここに呼ばれたっていう気がしますよ。それでね、僕ね…まあ確かに『何もすることが無くなったら政治の世界にでも行って…』冗談半分で言ったんですよ」国「あれ、冗談で言ったんですか?」丸「いやいや、半分ね…そういう、ちょっと酔狂な気持ちで言ったんですけどね…やっぱりね…全く自分に向こうが向くまいが、そういう世界でね、少し今までやったことをね、自分流に活かしてみようかなっていう気はあったんですよ。それがまあ『何も仕事が無くなったら、その世界、政治の世界にでも行きますかね』という言葉になって出たんだと思うんですけどね…」東「あの、反論いいですか?国政出るときに…『何も無くなったら』って言いますけど『行列(のできる法律相談所)』を一緒にやってるんですよ…どんだけスタッフが困ったか☆」勝「勝手に行ったから?」東「勝手に行ったから、オンエアで出せるのは黒塗りなんですよ」国「黒塗りなんですか!」東「公職選挙法に違反するから…」国「なるほど!」丸「それは大変ですよ。いきなり僕に承諾無く、顔が黒塗りになってる」東「違う、違う☆周りに承諾無く、立候補するからですよ」国「YOUさんはもう…最多です。最多出演です」Y「そうなんです。大好物です!☆」国「今回で5回目です」Y「私もう…番組が始まる前から、御本を読ませていただいたり、大好きだったので…当たり前というか、無くちゃいけないことになってるので、私の中で…で、これに関しては…ちょっともう…分からなくなってます、何か☆」国「これ、TVの収録ですけど…☆」勝「仕事なのか何なのか…☆」Y「これは仕事じゃないです☆大好物の場所☆」勝「本番中の内緒話は怖かったですねえ…」国「あれはどうなんですか?」勝「あれは本当に…」国「最終回だから話しましょうよ☆」勝「誰にも、近くの人間にも言ってなかったことで…本当にその後、事が動いたんですよ」国「動いてるわけですか」勝「事が動いて解決したんです」国「解決したんですか!」勝「事の動き方もちょっと…びっくりするような動き方で…」東「でもやっぱり、前列は信者の皆さんで…」Y「(前列に座る勝俣さんと丸山さんとご自分を指して)ここ信者だもん☆」東「信者の皆さんでしょう?」勝「子供たちですからね☆」国「でもちょっと…東野さん、ゲストで来てた時って半信半疑でした?」東「…あのね…正直…『果たして、ほんまもんなのかな?』っていう気持ちはありましたけれども…あの…正直、やっぱり偉いもので…大物2人に睨まれると、やっぱり性根がカエルやから…☆(カエルが仰向けになった仕草で)『ゲロゲロ…ゲロゲロ…』って完全に信用しました☆」Y「ちゃんと…オーラチルドレンになってください☆」国「内藤選手、どうですか?お2人と会ってから、何か変わりました?」内「(お顔の色が悪く落ち着かない様子で、長い沈黙)……」国「…しゃべれよ!☆」Y「(後方の内藤選手を指して)チャンピオン、チャンピオン…☆」東「(後列に一緒に並んだ内藤選手の肩に手を置いて)チャンピオン…☆」国「チャンピオンでも、ちょっと言っとかないと☆」皆さんがフォローされる中でも相変わらず、お声のでないまま。内藤選手が言葉の出なくなってしまった理由と、その解決法などは、後ほど詳しく伝えられました。続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 4, 2009
進退を決めるような転機に訪れ、人生が大きく発展した方もいらっしゃいました。和田アキ子さん和「この間です…まあ正確に言えば…昨日なんですけど…うちの(事務所の)代表と会って『歌を歌いたくない』って言ったんですよ。『もう辛い』と。こんなに好きな歌をね、こんなに苦しんで歌っているというのは誰も分からない。で、今日、マネージャーが『アッコさん、歌い続けてください。ずっとアッコさんの歌で勇気づけられる人がいるんですから』…そうは言っても、『ああ、本番が終わってから。後で話そうよ』って言ったとこなの、実を言うと」国「今の話を聞いて、逆にどう…ちょっと変わったりするんですか?」和「いやだから…そんなに…一ヶ月悩んでたことをね…一瞬にしてですよ、まあ一瞬にしてというか、ほんの何分かで…『歌わなきゃいけないな、和田アキ子』っていう…自分の中で」美「あのね…あの…もうあなたの年齢になったら、自分のために歌うのよ。それが人々のためになるのよ…(涙ぐんで)わかる?」和「わかります…」美「…自分のために歌うの。ね?」和「はい」美「そうすれば…人々もそれを、ちゃんと『自分のためだ』っていう風に受け取ってくれるんですよ」和「…そうですね…」美「そうなの」江「…よかった…」和「本当…そう思います…いや、ありがとうございました、本当に…やばい、ちょっと泣きそうなんで、まずいですよ、これは☆」美「でも、よかった☆」皆さま、拍手されました。昨年9月、和田さんはニューヨークのアポロシアターで日本人初のワンマンライブを開催され、歌手としてさらに飛躍されたそうです。東国原英夫さん43歳で早稲田大学第二文学部に合格、47歳で政治経済学部に再入学し以前から興味のあった政治を学び、昨年、宮崎県知事に当選。不思議な体験は、出馬を決意する直前とのこと。東「政治を勉強していて、地方自治をやるか、国政をやるか。『とにかく宮崎の衰退をなんとかせんといかん、どげんかせんといかん』宮崎だけじゃなくて、地方の疲弊ですね、それを思っていたんです。迷っていた時に、宮崎に帰って。実を言うと、宮崎で生まれて育ちながら、高千穂に一回も行ったことがなかったんです。あそこは県北の熊本寄りで、僕は都城という鹿児島に近い南の方なんです。行ってなかったんですけれど、何か惹かれたんですよ。何故か高千穂なんです。『宮崎、地方自治をやるんだったら、高千穂を見なきゃ。高千穂にご挨拶しなきゃ』という考えに何かなったんですよ。ふらーっと行って、午後3時か4時位だったんですが、高千穂は林間地帯、山の中ですから山の天気は変わりやすい。高校からの親友と二人で行って高千穂には天安河原(あめのやすがわら 神々が集まって相談したと神話で伝えられる場所)というのがあって、橋を渡って…(江原さんと美輪さんが笑われたので)おかしいですか?」美「いいえ、いろいろ…後で話します☆」東「…橋を渡って、小さい橋ですよ、小川が流れていて。澄んだ何か神秘的な川なんですよ山の中の。それを渡って、岸壁のところをずーっと周ってゆくと洞窟みたいなものがあってお堂があったりする。そこを曲がって見えたときに、ぞっとするような風景なんですよ。絶壁の洞窟の中に、賽の河原のように石ころが積まれていて何か匂い、お香のような匂いがしてきたんですよ。気味が悪いから『もう帰ろうか。中に入らずに、もう帰ろうよ』と言って、振り返った時に『帰って来なさい。あなたがやりなさい』何かそんな様な声が聞こえたんですよ。振り返っても何もない。黒いもやがかかってきて『逃げろ!』と。足早に上まで行ったんです。『俺さっき、帰って来いって言われたような気がする。多分俺は、自分の中で国政に行くか地方自治に行くか迷っていたし、でも7、8割は宮崎に帰るんだということを決めていたから、その心の表れだよなあ。そうだと思うんだけど…』そうしたら親友も『俺も聞こえたんだけど』」美「彼に聞こえるわけはないんですよね。あなたの心の声だから。もしそうだとしたらですよ」東「ですよね」美「でも、彼に聞こえたんですよね」東「でも、僕らは空耳だろうと。親友だから…」美「同じ言葉に聞こえていたんですか?」東「同じ言葉で、はい」国「男の人の声なんですか?」東「あの、男でも女でもない。ぅわーん…とかいう声なんですよ」美「性を超えてるの」東「どうもですね、美輪先生みたいな声だったんです。なにかこんな様な声ですよ」美「性を超えているはずなの」国「高千穂の話をする度に、お二人が笑っていたんですよ。スピリチュアルチェックをしていたときも、高千穂と言った時に、くすくすっと笑っていたので、絶対何かあるわけですよね☆」高千穂には天岩戸(あまのいわと)をご神体とする「天岩戸神社」も。天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟・素戔鳴尊 ( すさのおのみこと )の乱暴を嘆いて天岩戸に隠れ、世界が闇に包まれたとき神々が集まって相談した場所と言われるのが天安河原(あめのやすがわら)だそう。国「高千穂で聞いた声というのは、誰が言っていたんですか?」江「神の声ですね」美「そう、天の声。それは間違いないんですよ。あの…東さんの全ての始まりはみんな高千穂から来ているんですよ。原因はすべて。それで笑っていたの☆」江「宮崎は神話のふるさとではあるけれども、知事はね、本当に神話の神というかそういうエナジー、導きがものすごく強い人で。実はね、少し遡りますが東さんが知事選にお出になられて、私は『ああ、さもありなん』と思ったんですね。政治の世界に行かれて、ゆくゆくは国政に行かれるんじゃないかなと思ったときがあって。何故かと言うと、私はもともと神職、神主だったんですよ。神主のときに奉職していた神社があって、そこのすぐお近くにお住まいで何度もお見かけはしてるんです、奥さまと。そこのお宮は、総理はじめ、大臣を何人も出しているところなんです。佐藤総理から、竹下総理…そのすぐお近くに。『ああ、国のために働くので、この土地に下宿に来られたな』今にして思えば、高千穂から預けられたかのように」江「美輪さんが最初におっしゃったように、役目。自分に、自分にじゃなくて、役目だから」美「そう。だから宮崎だけじゃなくて、日本全体のために高千穂からの指令があってやっていらっしゃるんだから大変なの」「東国原英夫さん・地方自治の雄」丸山和也さん丸「私、美輪さんがですね…好きだったんですよ。別に異性としてとか、そういう意味じゃないんですよ…そのね、♪父ちゃんのためならエーンヤコーラ♪ 」美「ヨイトマケの唄(作詞・作曲 美輪明宏)・・・工事現場の日雇い(ヨイトマケ)で働く母への思いを力強く歌い上げた曲」」、はいはい☆」丸「あーそうそう…あれをですね…私もう、何回も何回も、カセットテープで聞きましてですね…」美「ありがとうございます☆」丸「これはね、歌じゃないと思ったんですよ。『生きてる姿そのものだ』と思ってですね…それがやっぱりね…ジーンときましたね…『こんな唄を歌える人がいるんだな』と思って。あの…私が総理大臣ならね、迷わず、文部科学大臣に指名しますよ、間違いなく。日本の国はずっとレベルが高くなりますよ。でも、そういうポジションが一番嫌いな人なんですよ…じゃないかと私は思ってるんです☆」美「そうですよ。昔よくその話があったんですけどね。『ちょっと選挙に出て、あなたはご婦人方やなんかに人気があるから』って言われて。『私が落ちぶれたらなりましょう』って言ったんですよ」丸「似てますね。僕はそういう話があったわけじゃないんですけど、ちょっと冗談交じりに『この世で何にもすることがなくなったら、政治家にでもなろうかな。』と思ったりして。失礼なんですけど、そう思ったことがありますよ」「丸山和也さん・司法と座禅」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 3, 2009
完結編後半のゲストは、勝俣州和さん、丸山和也さん、YOUさん、内藤大助さん、そして前半に引き続き東野幸治さん。オーラの泉に出演された方々には人生の決断を迫られたときに届けられるメッセージが伝えられ、その後、変化が起こった方もいらしたようです。***勝俣州和さんの回では、TVでは発表できない悩みを指摘されました。江「この番組では、明日のために自分を磨いてという話が多いんですがそれは時と場合によってであって、勝俣さんはご自身の足元をしっかり固めてあまりいろいろと考えすぎない、旧態堅持というか、仕事は仕事としてしっかり守ってゆくということがとても大事みたいですよ。その部分の気持ちが揺らいでいるという部分と今後もぐらついてゆくだろうということを示唆されるんですよ・・・」江原さん、はっきりとおっしゃることをためらっているようで、やや長い沈黙が続きます。美「いいのよ、おっしゃって」美輪さんの言葉に促されて江原さんが立ち上がり、耳元でメッセージを伝えられると勝俣さんはびっくりされたご様子です。勝「すごいですね・・・」美「さすがなのよ☆」江「焦ることなく、冷静に、足元を固めてね。まだお子さんは小さいしいいお父さんをしていらっしゃるし、きちんとこれからもそれを守ってね」国「どんなことだかわからないんですけど、相当そのことで悩んでいたんですか?」勝「そこにあるのはわかっていたんですけど、あまりみないようにしていたのを見事に。だから誰にも相談していなくて、自分の中に隠していたことをグーッと取り出されましたね☆それをどうするんですかと」美「鷲づかみにされたのね☆」勝「怖いですね☆僕は誰にも相談できないことだったので、いま、非常に楽になりましたね」「勝俣州和さん・男気の学び」中井貴一さん中「あの…ずっと運動部で来まして…あの…俳優という仕事は自分の選択項目の中に無かったんですね」国「ええ?そうなんですか?」中「普通に大学に行きましたし…だって赤面症だわ、人前で何かやるのは嫌いだわ、俳優なんて考えたことも無かったですもん」お父さまの佐田啓二さんは37歳で亡くなられましたが、日本を代表する二枚目で有名だった俳優さん。番組で憑依体質だと指摘された中井さんは、お父さまの17回忌の日にスカウトされたのだそうです。中「お断りしようと思って席に着いて、『えー…申し訳ございません、やめます』って言おうとした次の瞬間に『やります』っていう言葉が出たんですよね」国「出たんですか!」中「自分の人生が2秒くらいで変わったんですよ☆」国「ええー?!」中「本当に」国「誰がその時…じゃあ入ったんですかね?」江「お父さまです」国「お父さまがが入った?江「そうなんです」中「…そうしたら、家には祖母がいて…あの、デビューが決まったときに僕を呼んだんです。『何?』って言ったら、『よかったね、俳優の道を選んで。あんたね…昔、あんたが生まれたときに…』来る人来る人が『可愛い赤ちゃんね』と言わなかったと。パッと顔を見ると『あ…』って息を呑んだっていう位に『あ、お元気そうですね』という言葉しか言えない赤ちゃんだったそうで、4000(g)あったんで、生まれてきたとき…ぷくぷくで…その時にうちの親父が『お祖母ちゃん、この子、俺の跡取りになるよ。』って、親父が祖母に言ったんだって…『だから、きっとあんたが俳優の道を選んだことは喜んでいるよ』って、祖母に僕は言われたんですよね。それで多分…それを受けた時に親父が(手の平で押す仕草で)『ちょっとやってみろ、これ』って言われたんじゃないかな?って、僕はそのときに思ったんですよね」「中井貴一さん・聖なる怪物」木村多江さん木「…お断りしようと思って…『どう言ったらいいだろう?でもお断りしなきゃ』って、口をついた途端に逆…承諾してしまって…」国「『やります』と」木「その瞬間に『ああ、父にしてやられた!』と思ったことが…あります」国「あれ?!中井貴一さんのときも同じような状況がありましたね?」美「そうそう☆断ろうと思ったら、OKしたって中井さんもおっしゃっていたわね」国「それは…どうだったんですか?やっぱり仕事を…引き受けて良かった仕事だったんですか、やっぱり?」木「それは…仕事じゃなくて…今の主人にお付き合いするときに…」国「断ろうと思っていたんですか?」木「あの…ちょっともう恋愛はしばらく出来ないと思って思って…『疲れた』と思って…☆」美「面白いでしょ?☆(花束を差し出す仕草で)『お願いします!』って薔薇を捧げられたらさ、『ごめんなさい』って言おうと思ってたら『はい』って言って取っちゃったわけ☆」木「そうです☆それで相手は喜んでて…私は『あー喜んでる…どうしよう…』と思って☆『あー返事しちゃった…』と思って☆」国「凄い!」木「でも『父が認めた人なんだ』って思って…」江「そんなこと言ったって、お父さまの方は…ごめんなさい☆『そんなお前みたいなのを貰ってもらったんだから、そんなことを言っちゃいけない。もっと感謝しなきゃいけない』☆」国「お父さん、そう言っているんですか☆」木「…そう…だと思います☆」「木村多江さん・振り子の原理」「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 2, 2009
世界で起こった不思議な現象を紹介する「オーラな出来事」というコーナーもありました。最終回ではその未公開映像も。スタジオにはお三方と、木村多江さん、井上正大さんがいらっしゃいましたので、2009年の3月に放送された「新しい命の誕生」についてのスペシャル企画のときのものかと思われます。「オーラの泉・誕生日の意味」 ***監視カメラが捉えた「天使の光」アメリカのNBCトゥディという番組で伝えられたのは、ある親子に起きた奇跡の瞬間。アナウンス「アメリカ人の4分の3は天使を信じているそうですが、疑っている人も、これを観れば信じるかもしれません」コリーン・バートンさんの娘・チェルシーさんは、肺炎にかかって入院、重体で命は助からないだろうと告知された時、不思議な現象が起きたのだそうです。コリーンさん「監視モニターに、天使が現れたんです…天使が娘を…天国に連れて行こうとやってきたのだと思いました」病院の監視モニターには、背中に大きな翼のある人のような光が映っていましたが、それからチェルシーさんは急激に回復。コ「これは奇跡です。天使が娘を助けてくれたのです」***監視カメラが捉えた「さまよう魂」イギリス北部の町・ヨーク市で200年の歴史を持つ「ライトホースマンホテル」で、監視カメラに映った奇妙な映像。「(モニターを指して)何か…不思議なものが階段を上がっていったんです」モニターに映し出されたのは、右側に廊下、左側に階段の続く室内で、右の廊下から現れた光のようなものが、階段を一段、一段上がってゆく映像。光のようなものが初めて現れたのは夜明け前で、その数分後、今度は床から現れて室内をさまようように動くといった現象が1時間ほどの間に32回も出現したのだそうです。オーナーのスティーブンさん「以前いた従業員から聞いたんですが、物音がして地下の倉庫に行ってみると少女の幽霊がいたというんです。そこは昔、遺体安置所でした。それも何か関係あるのでしょうか」***国「今、全て聞いた後ですけど…なんか僕、少女のような気がするんですよ…」木「…お?…☆」国「あの動き方とかって、何か好奇心を持って色んなものを見たいっていう動きをしてるような気がするんですよね」木「うーん…」国「全て、話を聞いた後ですけれども☆」江「国分さんには申し訳ないんだけれど、私、ちょっと意見が違うくってね…あの…少女じゃなく見えるんですよ…」国「あー…なるほどね…そうとも言いますね…☆」美「(笑って太一くんを指さして)☆」江「それでね…全然違う2体が見えるんですよね…」国「ええ!?違うんですか!」江「うん…で、ひとつは男性で…で、もう1体ね…犬…」国「あ、犬なんですか?」江「でいて、猟犬みたいなの…それが後を追いかけて、タタタターッと上ってゆくのが見えるの」国「…いや…元気な女の子だと僕は思ったんですけども…☆…全然…違いましたね…」美「ドタ勘だったのね☆」 ご覧いただきありがとうございました。続いて完結編の後半をアップする予定です。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
October 1, 2009
家族について考えさせてくれる機会もたくさんいただきました。松田聖子さん江「でもお父様、良かったですね、こんなに今や…あの…私にはですよ見えることを言うと、穏やかな顔になられて…最期はちょっと苦しかったんですよ」松「ええ…」江「お水がたっぷり飲みたかったの。『苦しかった』って言っていて。呼吸が苦しいのと、水をすごくたっぷり飲みたかったんだけど全然、気道がねあれだったから…もう最期はね『意識がない』ってみんな言ってるんだけど、本人としては『もう早く逝かして欲しい』と思ってたって。だからわかってたんですね。『こんなに苦しいんだったら、早く逝かして欲しい』っていう方の気持ちの方が強かったんですって。だから『最期の望みって何だったんですか?』と言ったらね『お水をゴクゴクと飲むこと』っていうことを言っていて。だから『水も飲めなかったんですね』『いやもう、気道が。呼吸困難だったんで』っていうことで。だけども『水をちゃんと供えてくれたりしてくれたから、自分は大丈夫だ』って」松「ああ…そうですか…」江「『飲み物を常に供えてくれたから、もう大丈夫だ』『だからその気持ちは晴れました』『苦しみからも解放されました』っていう風に」国「実際、どうだったんですか」松「本当に最期は、肺にがんが転移してたので、すごくやっぱり呼吸ができなくて本当に苦しかったと思います」江「でしょうね。だってね『もう早く逝かしてくれ』っていうくらい苦しいってことは相当苦しいですよね」松「ええ、だと思います。本当に苦しかったんだと思います…」江「『楽になりたい』っていう。でも、それにしてもずいぶんと早いと思いますよこれだけ穏やかな状況になられたのは」松「そうですか…ああ…良かったです…じゃあ…」江「だから、思い残すことなく生きれたんでしょうね。生き抜けたんでしょうね」美「これからはもう、お父様に関してはね、何にも心配したり、不安だったり後悔したりとか、そういうマイナーなことでお父様を思う必要はさらさらないということですよね。今日を限りに。元気でいらした頃と同じようにしていま幸せで、安心して生活していらっしゃるわけだから」松「ああ、そうですか…良かったです…じゃあ…ああ、そうですか…」「松田聖子さん・デビュー秘話」フジコ・ヘミングさんリストの「愛の夢」の演奏で始まったフジコ・ヘミングさんの回。リストとショパンを弾くために生まれてきたと世界中で絶賛されるピアニスト。フジコさんは、いつも自分の人生を思い返しながらピアノを弾かれるとか。イングリット・フジコ・ヘミングさん・・・ベルリンでスウェーデン人の画家である父と日本人のピアニストである母との間に生まれる。6歳で両親が離婚、小3でラジオでの生演奏をする天才少女、東京芸大を卒業、ドイツに留学。世界デビュー目前で聴覚を失い、長く失意の底に。1999年、東京芸大でのコンサートが大絶賛され、ついに本格的デビューを飾る。5歳でお母さまの指導のもと始めたピアノの道はとても厳しく、毎日2時間の練習を2度3度繰り返すというもの。お母さまはフジコさんを決して褒めず、ののしることもあったそうですが、これもすべて、娘を一流にするため。貧しくとも最高の教育を受けさせてくれたとのこと。国「フジコさんにとって、やはりお母さんは大きな存在でしたか?」フ「一番好きなのは、母だと思いますね。16、7の時なんて大嫌いで『死んじまえ』なんて思いましたよ、本当に。やはりあまりわけのわからないことで怒鳴ったり、傷をつけられると、やっぱり私は『死んでしまえ』と思った時代があったけどね、そういう時代があるじゃない、若い人の」美「反抗期ね」フ「そう、反抗期」国「全然褒められることはなかったんですか?」フ「全然。私の容姿からなにから『お前はやっぱりだめだ』『弟の方はきれいだけどお前はだめだ』『よその子はやっぱり綺麗だ』とかね。劣等感の塊になっちゃうようなね、ことしか言わなかったんですよ。」国「ピアノを弾くときはお母さんの時計を必ずつけてするとか」フ「これね。うちの母が買ってくれた時計。今、天国でちゃんと見てるだろうから」江「いやいや、天国どころじゃなくて、さっきからピアノの横にいましたよ。ピアノを弾いているときにみんなに自慢してたんです。『この子はピアノを弾くために生まれてきた子だから』と言ってね。それでいて『見てください、見てください』って言っていたんです。フジコさんがこちらに入ってきてね、あの…その時計のこととか何とかって言うと、『馬鹿』って言うんですよ。ごめんなさい、フジコさんだけに言う。周りの人には『聴いてくださいこの子を』って。」美「自慢するのね。」国「フジコさんに対して、いまもそういう言葉を使ったりするんですか?」美「それは愛情の言葉をね、ご存じないのよ、このお母さんは。だからそれが愛情表現のひとつだと思ってるわけ」国「今はどうなんですか。褒めたりすることはあるんですか、フジコさんのことを」江「ピアノの横でね、腕組みして立って、ずーっと見ててね、にこにこ笑ってた」フ「うれしいです。」国「面白いですね、その関係というのは」フジコさん、本当に可愛らしいお顔で微笑まれました。「フジコ・ヘミングさん・ジャポニズムの系譜」上戸彩さん江「ひとつ面白いのは、あなたが頂いたり、あなたが買うものだけじゃなくてね、何かちょっと良いものとか、お着物でも何でも、あれば全部、お母さんのところに持ってゆくんでしょ」上「もうその通りですね。ご飯を食べていても『あ、お母さんに食べさせたい』とか、思う」江「上戸さんの場合はね、いつもお一人じゃないんですよ、感覚が。常にね、お母さんと一緒なの。だから『お母さんの迷惑にならないように』もそうだし、『お母さんを悲しませるようなことだけはしたくない』というのがあってね…」上「(涙を浮かべて)…」江「今日、実はね、上戸さんというよりもね、お母さんに対してメッセージを伝えてきてる人がいてね、一緒にね…それはお母さんの方のお祖父さんなんですよ、お母さん側のお祖父ちゃんね…お母さんに対してなんだけど、とってもね、深々と手を合わせて頭を下げて感謝をしてるの。で、何故かというと『お母さんにばっかり、本当に苦労をかけた』って言うんですよ。本当に小さいときから、もう家族のために働いて…っていうところでね、世話して、面倒をみてっていうのが強くて…本当にご苦労、ご苦労…だからそういった意味で、上戸さんの幸いは、お母さんの苦労を見てきてる」上「(大粒の涙)うん…」江「うん…だからお母さん自身がどれだけ大変だったかとか、そういうのを見て、懸命にやっているところを見ているから、上戸さんがそれだけ、お母さんのことを思えるんですよね」上「(肯いて)…」美「それでね、あなたたち親子はね、手を取り合って凄く苦労してきたわけだけれど…精神的に物凄く苦労してきた…だけどね、これからはご褒美が来るから。正負の法則なのよ、それが。ね?うんと苦しんだ人はね、それと同じ量の喜びが来るの。お母さんは色んな意味で苦労した方だから、それだけの分のご褒美がこれから来ますよ」上「嬉しいですね」美「そう…もう大丈夫。ここまで来れば」上「ありがとうございます」***国「この番組はですね、たくさんの綺麗なゲストの方の…涙を見ていて…何か垢が落ちたというか、肩の荷が下りて、それが涙に変わっているのかなっていうのを、何度も見た気がするんですけれども」内「何でしょうね…何かやっぱり、人に言えない不安なこととか、自分の中にしまってたことを、ふと何か言ってもらうと…何かそれだけでこう…ちょっと湧き起こってきちゃって…『ああ、大丈夫なんだ…分かってくれる人がいて良かった』っていうのを、何かどこかで思える…」及「あの、自分が言われているときじゃない方が、言葉が素直に入ってきますね。どうしても自分の中の隠したい部分もあったり、暴かれたくない部分もある分だけ、冷静でいられないと思うんですよ。今のVTRを観てて、あの…お二人の言葉が…スッスッと入ってきて…うん…」石「まあでも、あの…本当にお二人は…まあ色んな人たちにとって…マスターというかね、師なんだなあという風に改めて思いましたね」美「とんでもございません☆」石「いえいえ、凄く心に…」美「石田さんの場合はね、ご自分自身がネイチャーというか、スピリチュアルというか、自然派っていうかね…靴下を脱いでいらっしゃるのも象徴なのよね…いや、だから、自然派なんですよね、生き方の色んなことも…本当に古代の自然な野山の中で…自然に生きてる…そういう生き方っていうものを現代で生きようとしてるから誤解されちゃうんですよね」ゲストの方全員「ふーん…☆」東「不思議だらけの番組ですよね☆」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 30, 2009
番組の進行を務めてきた太一くんも、またひとつ大きな転機があるようです。国「…ちょっとまた僕、不思議な夢を見たんですけど、まあこれは思い癖なのかなあと思うんですけど…今ちょっとスポーツのお仕事をすることが多くて…実際にプロ野球の取材に行っている夢を見るんですけれども、夢を見ている最中に、あるチームの監督がタイムかけて…1アウト1・2塁だったんですけれども…『タイム!代打、国分!』って言うんです。『僕は取材しに行ってるんで、絶対無理だ。プロの打席に立つことなんて、ファンも怒るし、絶対出来ないですよ』って監督に言ったんですけど『いや、大丈夫だ。バッターボックスに立て』…立ったんですよ。ドキドキしながらバットを構えて振ったら、3ランホームラン打ったんですよ」内「うわあ、凄い!」国「で、監督に『ほら、言ったじゃん!』って言われたんですよ。これはどんな夢ですか?」江「人生の大ホームランを打つというメッセージじゃないですか?」国「おお!☆」は「え?ということは、あれ?ラブラブ?」東「全然、ラブじゃないと思いますよ」美「いや、だって考えてご覧なさい。それはそっくり、この番組が始まる時のあなたでしょう?」国「……ちょっともう1回、ゆっくりお願いします…☆」美「それは、自分が回せるか自信がないし、自分は一番駄目な人間で、こうで、ああで…ってね、そう言ってたじゃない」国「はい、言いました」美「ね?それで今、あなたは皆さんを抜いて、各局全部制覇して、レギュラーを持つような司会者になったじゃない」国「…はぁ…」美「それですよ」国「……ちょっと僕も、後半頑張るんで、誰か喋ってください…☆1回、落ち着かないと駄目ですよ、これ…」東「いま頑張りなさいよ☆」江「まあ最終回ですからね、私も言い逃げで逃げられるんで…ラブもあると思いますよ☆」国「ラブも?!」江「もちろん色んな意味で、これから…」は「えー?私も聞きたーい!あの…昨日、大っきな蛇に、半分飲み込まれてゆく夢を見たんです☆」東「もう死ぬんですよ☆」は「やだ!凄く大っきな蛇に、ギュッギュッって…多分(体の)この半分?…ハーフ☆持ってゆかれたんですけど☆」東「どういう意味があるか…」は「はい。それで今日、このお仕事で、お会い出来たので…何かあるのかな?と思っちゃった…」江「あのね、持ち逃げとか、そういうのに注意ですよ。泥棒入るとか…」は「ええ!!?」江「そういったこと、注意」は「本当ですか…」東「お店もやってるでしょ、何軒も」国「ちょっといい話、出て来ると思ったんでしょ、蛇が出たから☆」は「いやもう、その流れだから、いい話だと思って…ええ?」美「はるなちゃんのあれはね…男の夢じゃないのよ、それはね。だから江原さんがおっしゃったようにね…」は「女の子の夢?☆」美「いやいや…その、飲み込まれるようにしてるじゃない?だからあなたは、お商売が飲み屋さんとか、お酒の方や何かやってるから、売り上げを上げなきゃいけないから…お相手もしなきゃいけない、乾杯で飲まないとお付き合いも悪いから、なかなか断りにくいんだけれども…『飲まれないようにしなさい』ってこと」東「用心してください」は「はい…もうつい最近、いっぱい…飲んじゃいました…」美「それがね、お商売も大事、大事だけれど、そこのところね、『体を張ってやるのは、ほどほどになさい』ってことなのよ」は「はい…」江「ゲストに来られたとき、あれだけ言われたじゃないですか、メッセージで…」は「はい、すみません…☆」***半年前、はるなさんが出演されたときの様子江「で、小ちゃい時から、あなたが女の子だったというのは、お祖母ちゃんは分かっているんだから」は「ええー!」江「分かっている、分かっていますよ。そんな当たり前のことなの。『この子は女の子なんだな』っていう風に思っているの。そういうあなたが『何があっても、この夢の世界で生きてゆきたい。これをやれたら死んでもいい』っていつもあなたはお祈りしてるの。そうでしょ?それでいて『自分は芸能世界の中で本当に夢を皆さんに分けて、自分も夢を表現してそれさえ出来れば本望で死んでもいい』って、そこまで言うからお祖母ちゃんは『じゃあ、もうちょっと辛抱なさい』って。『もうちょっと大丈夫?我慢できる?本当にこの試練を乗り越えられる?』とことん貧乏までやって、でも何とか自分で食べる道を…そう、芸能だけじゃない、自分自身で地道に食べてゆけるようにお店も考え…ね?『じゃあいざ、これで準備できたな、もうこの子の精神力は大丈夫だな』要するに『芸能の中に入っても自分自身を見失ったり、傲慢な気持ちになったりしないで済むな』っていうところに来て、パッと道を変えてくれたはずなの、大どんでん返しがあったはずなの」は「はい…」江「でしょ?で、それからあなたはパーッと光が当たって今があるはずなんですよ」は「すごい…」江「お祖母ちゃんはね『ここまで来てあなたは、ここから先、全く見えなくなっちゃってる』でね、守りに入っちゃってね『あの時のひたむきな気持ちから何となく計算、計画で…店じまいまで考え始めてる』」は「私がですか?」江「うん。色々な…『どういう風に終わってゆくか』そういうことまでね」は「え?店じまいって自分の?」江「要するに、自分の人生の店じまいねは「…はい…」江「あなたの中で今、お金の計算とか、そういったことが凄くあってだから守りに入ってるってこと。あのね、同じことをしていてもねお金を考えて仕事をするのと、いい仕事をしてお金が付いてくるのは違うでしょう?」美「(拍手されて)」は「はい…はー…」江「で、あなたはここしばらくはね、ずっといい仕事をしたかったはずなの」は「はい」江「表現したかった。それがね、幸せになっちゃたら…」は「分かりました、言わないでー!もう言わないで下さい☆」「はるな愛さん・いじめの心理」***国「収録はいつでしたっけ、これ…」は「私もう…さっき言われたこと…全くそうですね、また忘れてましたね…」東「ソロバン勘定ばっかりしてるの?」は「…してます!☆」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 29, 2009
現在の心境や病気の前兆、魂の歴史などを表す夢は、様々な方が見ていらっしゃるようです。菅野美穂さん菅「…ええっと…自分がこう…迷子になっているのは分かっているんですけど何処にいるかが分かっていないんです。ただ焦ってて『どうしよう、どうしよう』と思っていて…『何か約束があったような気がするから早く行かなきゃいけない』って思ってるんですけどその約束も思い出せないんですよ」国「ほう…これはやっぱり、何かある…?」江「あのね、それはあの…前世にちょっと関わる…」国「前世?」江「…部分があってね…菅野さん、あの…目のこと、気になったりするとき、ありますか?」菅「…はい、凄く目が悪いです。今も治療してます」江「あ、そうですか…それで、あの…目のね、あの…不自由な人だったというのが見えましてね…」国「へえ…あ、そうですか!」江「うん。それでね、そういう不安さっていうのが、魂の思い出としてね、引いてしまうことがあったんです…でもそこで言えるのはね、あの…今、この理由が分かったことで、あのね、目のことをね、必要以上に心配することはないですよ」菅「どうもありがとうございます」美「ただ、さっきからね…その…菅野さんのね、前世の目の不自由だった方がね、江原さんにね、『よく言って下さった』って感謝してて、後ろでとっても喜んで下さってるのよ☆『やっと出られた』って」菅「ええ?」江「感動するでしょ?」菅「感動しました」江「それは菅野さんじゃないの。その霊が思っているから…だから凄くこみ上げてくるでしょう?」菅「…」美「そう、だから涙が出てくるの」菅「はい…(目を押さえて)」国「いやあ菅野さん、本当に今日は…」菅「…ええっと、この番組で泣くと思わなかったですけど☆」国「これは凄いですよ☆」菅野さんの回では、太一くんも夢を披露されました。国「ちょっと僕…昨日、一昨日くらいに夢を見たんですけど、僕の夢も聞いてもらっていいですか?カエルが大発生したんですよ☆物凄い量のカエルを、どうやら大発生させてるのは、僕が全部育ててるらしいんですよ。これはどういう心境に今、僕がなってるっていうのは…」江「簡単です。また部屋を散らかしましたね☆」菅「当たってますか☆」国「当たってますね☆…気をつけます、本当に…」美「あのね…もうひとつの意味はね、カエルは病気を表すの、夢で」国「そうなんですか?」美「うん。だから、あんまりそういう風に散らかしっぱなしで不衛生なところにいると、そのままいくと病気になるのよ。特にね、ガマガエルみたいなのは、大病の前兆なの」国「…たしか…キレーイなカエルだったんで、まだ…大丈夫だと思うんですけど…」菅「良かったですね☆」国「良かった…」東野幸治さん東「ぴょぴょぴょぴょぴょーんと跳ねて『わあ!』ってなったら、無数のちっちゃいカエルが飛び出すんですよ」国「カエルですか?」東「カエル」国「間違いなくカエルですね?」東「間違いなくカエルで…それで『ギャー!』となって夢から目を覚ますんです。それを二日連続、この間見たんですよ」国「…これ、言います。僕から言います。これは大病の前兆でございます☆」東「(手を振って)大病じゃないです☆」国「これ本当にそうなんですよね?」江「(うなずいて)…」東「ええ!?…大病の前兆?」江「(うなずいて)…」東「…あ、そう…☆…え、何でですか?」江「何でも口にするからいけないんです。あの、割と気をつけないでパッパと食べちゃうし…」東「そうです…」江「別に食事とは関係ないんだけど、靴は脱ぎっぱなし…(玄関から家に)パパパーッと入って来るわ…『もう、ちゃんと揃えなさい!』とか、奥さん、大変だと思う」東「…」国「どうですか?」東「…あ、当たってるよ!」「東野幸治さん・家族の肖像」及川光博さん及「…あのね、青白い蛍光灯が、こう…ぼーっとね、並んでいる…高層団地…その階段を上がってゆくハイヒールの女…そして、とあるドアの前で鍵を取り出し…そのマンションの一室を開ける…するとそこには、もう酒池肉林の☆…秘密クラブみたいな…」国「あ、団地の中に秘密クラブがあって…」及「そう、あって…その中心に…獅子舞が、こう…踊っているわけですよ」国「へえ…」美「じゃあ乱交パーティみたいなもの?」及「乱交パーティみたいなものですね」国「乱交パーティ…」江「…その獅子舞、あるじゃないですか。その獅子舞自体が及川さん自身だっていうこと」国「ええ!?」及「僕自身が獅子舞?」江「ええ。そして獅子舞っていうのは…魔を祓うこと」及「魔を祓う…ああ…」江「一瞬、その…見るとね、乱交パーティっていうとね、非常にちょっとね、ドロドロした…」及「いかがわしい…」江「…世界っていう感じだけど『その中にある神聖なもの。そういうあなたでいなさい』というメッセージ」美「つまり、蓮の花なのよ」国「蓮の花?」美「蓮の花の周りは、全部ドロドロじゃない。泥の中に蓮っていうのは、真っ白な、汚れないで白さを保ちながら咲き誇ってるのよ」国「はー…なるほどね…」***国「覚えていますか、これは?」及「はい。本当にね、あの…迷いが生じたり、不安になったり悲しくなったりする度に、この話をね、思い出しますよ」国「ああ、本当ですか」及「うん…あ!(ポンと手を叩いて)それから、あの夢を見なくなったですね」国「あれを?江「…自覚したからもう…メッセージをね」美「もう必要ない」国「(東野さんを見ながら)確かに僕らも…カエル、見ます?」東「見ないです、見ないです」国「見ないですよね?」東「見ないです。それで後、大病っていうのも、あれからジムとかに通いだして、何だかんだトレーニングするようになって、病気の方も、体の方も調子よくて…夢も見ないです、カエルの夢も」江「真面目な話…(東野さんを見ながら)ただ一点だけね、前はそう見えなかったんだけども…ちょっと時々…ちゃんと健康診断、受けていますか?」東「いや、最近…」江「ちゃんとね、定期的に受けて…」東「前までは定期的に受けてたんですけど、ちょっとこの1、2年ぐらいは…『行かな、行かな…』と思いながら行ってない…」江「あー、年齢的に駄目ですよ、それは。もう行かないと、きちんと」美「そうそう」石「あの…(東野さんを指して)何歳くらいまで生きられるんですか?(笑いが起きて)☆」東「…いや、全然、笑うところちゃいますよ」江「いえ、大丈夫です」東「それは大丈夫ですか?」江「うん、大丈夫です」東「それは病院に行った方が…もう年齢も年齢やし…行った方がいいと…」江「でしょうね…」東「…」国「ちょっとテンション上げてゆきましょうよ☆」内「病院に行けば…病院に行って…」東「(皆さんに心配そうに見られながら)…2ブロック目、頑張るんで…ちょっと黙ってます…☆」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 28, 2009
毎晩みている夢に様々なメッセージが込められていることも番組が伝えてくれたことでした。広末涼子さん広「何か、すごく一生懸命走っているんですね。そうしたら後ろから岩が追いかけてきて…」国「ああ、インディジョーンズですね☆」広「そうですね☆」国「そういう時に限って足が遅いんですよね、自分の足が☆そんな感じじゃないですか?」広「…そう…なんですかね…」国「ちょっと…違いそうですね…」広「あ、何かそういう時に限って…わき道がないんですね」国「ああ、逃げ道がない」広「はい…」江「まあ…ちょっとそれはね…どっちかっていうと、ちょっと精神的な面から来てる…『思い癖』ね、の方から来てる部分が強くて…だから自分のペースを乱されるっていうのが凄くお嫌いなのでね…」広「そうかもしれないですね…」美「それが…あの、つまり強制されるっていうのが『岩』という形になってるのね?」江「はい」国「岩になっている…」江「実にね、自分の中での正義があるんですよ。だからそれを、ただ…割にお強いところもあってね…それを示したりもするんだけども『別に理解を受けなくてもいい』っていうところもあるんですよ」広「え……そうだと思います」美「『広末王国』を自分で持っているのよね☆」国「実はもう持っている…」美「そうなの」江「王国を」国「王国を☆頭の中では」広「はい☆」「広末涼子さん・心の王国」南明奈さん南「はい、あの…小学生の時に亡くなったお祖父ちゃんのお話なんですけど、何か…夢に出てくるんですよ、しょちゅう。あの…それもしかも、毎回、同じなんですよ、内容が。同じところで始まり、同じところで終わる夢なんです」国「へえ…どんな夢なんですか、それは」南「何かあの…実際にお祖父ちゃんが住んでいたお家なんですけどお祖父ちゃんのお部屋で…もう亡くなっているんですけど、お部屋で寝ているんですよ。横になってあおむけで寝てて、でも私は見れないんですよ、やっぱり何となく…」国「もう亡くなってるってわかってるわけですか」南「そう。で、窓が開いていて、こう…首だけ見えるんですよ」国「顔の部分だけが見えると」南「そう。それで何か見れなくて、こう…横を歩いて、何となくフッとお祖父ちゃんを見たら亡くなってて寝てるのに、クッってこっちを見るんですよ、私の方を。で、私は『わあ怖い』って思って…毎回そこで目が覚めるんですよ」江「あのね…ええっと…夢って言ってもね、一つの意味だけじゃないと思うんですよね…でね、二つあってね、あの…ちょっと苦手だったということをおっしゃるでしょう?でも、実はその割にはあなたがね、どこかでそのお祖父さんに対して何かもう少し優しくしてあげれば良かったなとか、もう少し会いに行くとかねそういうことをしてあげたら良かったって、あなた、そういう悔やみが本当はあるんじゃない?」南「(涙ぐまれて)…ありますね、それ」江「でしょ?で、その優しいあなたの悔やみっていうのが夢に反映されて…これ『思いぐせ』っていうんだけど、自分の思いがね、そのまま夢として『悪かったな…』っていう半分、苦手だっておっしゃりながらも、あなたは優しいから『本当はいけなかった。もっとしてあげればよかった』っていう悔やみがねそこに現れている、それが一つ。これが『思いぐせの夢』ね。あともう一つはね、実はね『メッセージの夢』もちょっとあるのね。このお祖父ちゃん、どうして苦手だったかっていうとあんまり自分を出さない人だったからなの。要するに普通もっとしゃべったりね人間味があればいいんだけど、何考えてるか分からないお祖父さんだったでしょう?」南「そうですね」江「それが『怖い』っていうか。で、割と頑固だったりっていうのもあるし…なんだけれども、でもね、やっぱり孫は孫で可愛いのね。そこでね…メッセージがあってねどういうメッセージかというと、まあまだお若いけれども、子供の頃は割りにお転婆だったでしょう?」南「はい」江「ね?だからちょこちょことした怪我をしてみたり、男の子みたいな…ちょっとねそういうところがあったと思うんだけれども、そういうことへの心配、注意っていうのがあって…で、いま国分さんがフッと気がついているんだけれどもお祖父さん、来てるのね…動いたでしょう?」国「(南さんの後ろ側を指して)…今、びっくりしたんですけれど…そうなんですか?」江「そう…もう、オーラの泉、三年近くやってて、ようやく国分さんも気がついて☆」国「いや、だってそれが動く…うご…動きましたもん、今!」江「あの…☆言葉が動揺してますよ☆」美「一本だけ、ずーっと揺れっぱなしなのよ、あれが☆」国「ライトの…何て言うんですかね、あれ…」美「シャンデリアの…(南さんの後ろ側にあるセットは、藤棚が長く枝垂れているような花で彩られた床近くまで何本も垂れ下がる淡いピンクのライト)」国「シャンデリアの、そうですね、一番下の方のやつが…」美「で、他は何にも揺れてないのよ、同じシャンデリアでも」江「…ただね、今日ここへ来て忘れて欲しくないのは、あの…あなたの気持ちはちゃんとお祖父さんに伝わっているから、悔やむことはないし…ね?で、あの…ちょっとこう…嫌っちゃったり何かしちゃったことも、全く気にしてないから。だから今日ここに来たのもお祖父さんが『何にも気にしてないよっていうことを伝えたい』っていうところもあるの」南「本当ですか?」江「良かったねえ」南「はい…(ハンカチで顔を押さえて)鼻水止まんない…☆」美「可愛らしい☆」「南明奈さん・夢の種類」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 27, 2009
番組の名物のひとつがゲストの方のご自宅での様子を江原さんが観てしまうという「家宅侵入」でした☆内田恭子さん江「…ただね、もう少し、会話してもいいんじゃない?」内「彼とですか?時間がないんですよね…向こうが遅くって…」江「その割にね、寝ることは寝るんですよ☆だったら少し待って、今日は話をしようかな、と思っても『おやすみなさい!もう先に寝ます!』☆」内「もう本当に、寝るのが大好きなんですよね☆」国「ストレス解消法が寝ることって言ってましたものね☆」内「本当に寝るのが大好きです☆」国「ちょっと待っていられない感じなんですか?」内「もう、眠くてどうしようもなくなっちゃって☆寝ちゃうんですけれど…寝過ぎですかね…?☆」国「でも、安心してるってことですよね?」江「健康のためには、睡眠は大事なことで…だけど内田さん、寝過ぎ…かな☆だって、寝疲れして、また寝てるのが見える…」内「はい☆…もう見ないで下さい☆本当に寝すぎて、頭が痛くなって、また寝る…☆」「内田恭子さん・結婚の動機」梅沢富美男さん 江「実はね、梅沢さんの前世とかっていくつかあるんですですけどね…大陸の方…だからアメリカとか、あっちに行ったような人で…いわゆるカウボーイハット馬に乗って、ブーツを履いて、という人がいらっしゃってね」梅「僕、カウボーイになりたかったんですよ。うちに来てくださいよ」幼いときから刺繍の入った鞍やウェスタン帽などを揃えているのだそう。梅「悔しいな、こんなことマスコミに言うの嫌だな☆TVで言うの嫌だな」国「部屋で何をやっているんですか?」梅「カウボーイになっているんです☆ジョン・ウェイン(1907-1979)が大好きで。姿見を見て、自分の中でカウボーイになったつもりで。1時間はしてますね☆部屋に鍵はかけますけど。ジョーバくん、あれの一番高いやつを買って、あれに鞍をのせて。僕は馬が好きで馬主にもなったんですけど、馬は家に持って来られませんから。ちゃんとカウボーイハットを被って、銃、ウィンチェスターも下げて・・・」国「鍵をかけて、1時間ジョーバくんにまたがって、カウボーイをやって…☆」梅「バーボンも置いてあるんです☆」国「すごいカミングアウトしましたね☆」梅「何でわかるんですかね・・・」美「前世の記憶をそのままやっているわけですよね」「梅沢富美男さん・信仰の力」実は一番最初に「家宅侵入」されたのは、太一くんなのだそうです☆当時の様子江「国分さん、余談ですけど…凄い寝相で寝てますね☆凄く寝相が悪くて、だから…あの…背中とかね、腰、何となく張ったりするんですよ☆寝相が…」国「悪いっすか?☆僕ね、今日、病院に行ったんですよ。右肩が上がらなくて病院に行ったんですけど…」江「寝相☆」国「寝相ですか!」東山紀之さんの回のお話国「本当に部屋がめちゃめちゃ綺麗なんですよ」東「いや、綺麗なのって、合理的な感じがするんですよ。洗濯物もちゃんとたたんでちゃんと入れてあげれば、傷まないし、量は入るし、ちゃんとなるんですよ。だから太一とかを見てると、僕は不思議でしょうがない☆この空間にもっといっぱい入るのに…やっぱり綺麗なところには、綺麗なオーラが出るので…」国「すみません、本当に…☆」「東山紀之さん・ソウルメイト」***国「いやー☆こういう風なことが続くとやっぱり…」及「相当こう…プライバシーが…暴露されている番組でもありますよね☆」国「そうですね、それこそ内田さんだって、さっき…」内「そうなんですよね」国「『寝過ぎ』☆」内「『寝過ぎ』って言われて☆…でもあれから…『彼ともっとお話をしなさい』というので夜はやっぱり、私が次の日に早かったりすると先に寝てしまうので、朝は絶対、ご飯を出来るだけ、なるべく一緒に食べるようにして、そこで喋るようにしてますね」国「ほう…寝てることは寝てるんですか、たくさん?」内「ごめんなさい☆寝てることは寝てますね☆」国「さあそして石田さんですよ!オンエアされたのが、2009年の5月30日なので…」東「その頃はもう、付き合ってたってことでしょ?」石「そうですね。まだもちろん誰にも言っていなくて…」は「もう相手も見えてたんですか、その時は?」江「…お父さんの方が見えました☆」石「…俺にビーンボール投げてるような?☆」江「何て言うのかな…変な言い方だけれど、あんまり一緒にいない方が上手くいく二人ってありますよね?」石「(目を見開いてビクッとして)…ん?…」国「凄いリアクションとりましたね、今」江「長く一緒に居だすと、石田さんの場合、駄目なんですよ、いつも」石「いつも…☆」東「コメント、コメントお願いします☆」石「いや…でも、本当に…まあ遠距離だったわけで、もちろんその…距離が良かったのかもわからないですけれども…」国「シーズンが始まったら、ほとんど会うことって…難しいですよね?」石「そうですね、意外と、ずーっと周ってますからね、はい」美「『亭主元気で留守がいい』と同じでね『女房元気で留守がいい』。お互いがそうだったら、美味しい部分だけで付き合っていられるのよ。現実の嫌な部分を見そうになったら、パッとお互いに離れちゃって、会わないでいられる」東「その時だけ」江「そう、その真反対が東野さんですよねえ☆」東「…」国「今、油断してましたね☆」東「ええ☆僕のところは別れた女房はね、一緒に住んでますけどもう本当に毎週、毎週、泥仕合ですよ☆相手の欠点を言い合うという☆」江「で、時々、車が故障するでしょう?」東「します、します、します!」江「ね?それは『心をストップしろよ』っていうことなんですよ☆言葉とか☆」東「…ほんまです…あ、そうなんですか!…よく(車が)『ブスン、ブスン…』ってなるんですよ」江「そういったときに思い返して下さい。必ず泥仕合をやっているとき。口が過ぎるとき」東「…そうですよね…」国「『そうですよね』になっちゃった☆」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 26, 2009
ゲストの方々が驚くほど「隠し事のできない番組」でもありました。中村俊輔さん江「下世話なこと聞いてもいいですか?家を買おうとしてます?」中「あの・・・ダメですか?」江「いいの。いいんだけど・・・言っていいですか?あの・・・いいですよ。だけどお金のことをすごく気にするから。意外と地味な方でこれだけのスター、選手なんだからもっとボンといってもいいんだけれど、それで『散財しちゃった』とかビクビクして『身の程に合わない』とか。それをまたバネに頑張ればいいのであって」国「もう買ったということですよね。ちょっと聞きたいんですけど買ったことにビクビクしたんですか。『大丈夫かな?こんなに買って・・・』」中「こんなに買ってというか・・・何だろうな・・・」美「『こんなに贅沢して、あとでぶり返しが、マイナスの分が来るんじゃないか』『分に過ぎたんじゃないだろうか』とか、とにかくグジグジ残っていたのね☆」中「グジグジ、そうです、残っていました☆」「中村俊輔さん・勝利への方程式」香里奈さん 美「このお嬢さんは、もうプライドの塊りみたいな方だから。ものすごくプライドが高いから、プライドが傷つけられるのが何よりも恐ろしいし自分も嫌いだし許せないし。そこからいろんなことが発していらっしゃるのね」江「自分の中にある天使と悪魔をすごく感じると、嫌になったりするでしょう?『私ってすごく残虐なところがあるのかな?いけない、いけない、そんなんじゃない。いつも優しい気持ちで』と思っても、時々『どうしてそんな気持ちが出てくるんだろう?』って、日々葛藤してるんですよね」香「はい・・・」香里奈さん、どんどん小さい声になってゆかれます。江「美輪さんがおっしゃったプライドとかもそうですし実は自分でも気づかない魂のいろいろな思い出が出てくるんです」美「今もう、出かかってるの」香「怖いよー…☆」「香里奈さん・不変の在り処松岡修造さん松「僕自身が東京ディズニーランドが大好きなんですよ、ディズニーシーを含め。ですから今年になって9回行ってるんですね」国「え?もう今日、9回も行ってるわけですか?」松「9回、行ってます」国「子供より愉しんでる感じですか?」松「自分が愉しまないと。多分、子供も愉しくないだろうなと」江「でも、松岡さんが愉しみすぎですよね。先へ先へ歩いて行っちゃってる…☆」松岡さん、きょとんとしてから驚いて、助けを求めるように太一くんに顔を向けられました。皆様大爆笑です。松「僕としては、とにかくスケジュールがあるわけですよ、東京ディズニーランドとシーの。時間帯でショーを見せてあげたいという。だったら、終わったらすぐ動いて行かなくちゃいけないんです。だけど妻が、ついてくるのが時たま遅いんですね。子供三人いるんですけど、どうしても遅れが出るんですよ」松岡さんはままならないことを学ぶために、導きがあって結婚したそうですが、すべてをご自分の思うとおりにしたいという行動にどうしても出てしまわれるよう。江「…家の中のね、置き方ひとつ、物の置き方ひとつもね、『違うって』ってやられたり、冷蔵庫の中まで支配されたり、食べ方作り方まで支配されたり…」松「人の気持ち分かれよ!…子供を愛しているとか、妻が大好きとは言いながら…(太一くんに近づいて)全部、自分中心なんだよね、僕は☆」国「自分でも分かっているんですよね☆」松岡修造さん・結婚の目的千原ジュニアさん何度も危機に陥っても生還されたのは、守って下さる存在のおかげのようです。美「ちょっとつかぬことを伺いたいんだけれども…神社が、どうも見えるんだけれど…この神社は何だろう…思い当たることありません?」千「…僕、昨日…凄いですね、これ…☆」美「なに?☆」千「後輩なんかとご飯を食べていたんですよ。『帰ろう』と言って…家の近所に神社があるんですよ。引っ越した時にお参りに行ったんですけど何か知らないですけど、それぶりに…半年とかもっとですかね…昨日、行ったんですよ」国「何か知らないけど…ですか?」千「何か知らないですけれど」美「ちゃんと手を合わせて、拝んでいらっしゃるのよ」千「はい、昨日。ほんまに昨日ですよ。昨日というか、朝方なので、数時間前ですね」美「でも、ちゃんと届いていますよ☆」千「えー?!」美「ちゃんとした神社でね、石段を上がっていくところなのよ。石段を上がって行くところで、ちょっと小広いところでね、ちょっと地味な雰囲気だけれど大きい広い所で、ちゃんと拍手打って、拝んでいらっしゃるの」国「何で行ったんですかね?」千「わかんないです☆」千原ジュニアさんが行かれたのは代々木八幡宮。画面には美輪さんがおっしゃる通りの雰囲気の境内が広がっていました。「千原ジュニアさん・14歳の転機」市川海老蔵さん海「…例えば市川團十郎家って…辞めてもいい覚悟があるんですよね。全部捨ててもいいって、子供の時から思い続けている。それはあるある…って」江「それがある意味で、すごく危険なところでもあってね…」海「そうなんですよ、危ないんですよ☆それを抑えられない自分が…」美「…あなた自身がいなくなると、他の脇役の人たちや他の役者さんたちも相手役の人たちも、皆さんお困りになる。ね?それで歌舞伎全体が困るようになる。例えば劇場の人たちもとにかく数え切れない大勢の人たちが、たった一人の不始末で皆が困るんですよ。だから、それを勉強するために、自分で選んだんだから、覚悟をお決めなさい☆」海「覚悟ねえ…☆」美「今、何歳におなりなの?」海「今、30歳です」美「あ、じゃあ無理もないわ。まだ子供ですもの、そりゃしょうがないわよ」海「いや、でもね…そう言われちゃうと、ちょっと悔しいですね☆」国「フラフラしてますね☆フラフラ…」「市川海老蔵さん・宿命と運命」石田純一さん交際中であることが報道される一ヶ月前に出演された石田さんは以前から美輪さんにある忠告を受けていたようです。石「一番良く覚えているのは『あなた、純一くんは結婚しちゃ駄目よ』と」国「ほう!」美「余計なことを言って☆」石「『結婚は現実なの。あなたはロマンに生きなさい。恋愛はロマンでしょう?』『結婚式って何のためにあるか知ってる?それは「私たちは今日から現実に生きるんです、ロマンを捨てて」そういう宣言をする悲しい式なのよ。だからあなたは結婚しちゃ駄目、もう』と言われました☆でも…もう一回したいんですけど…」美「石田さんの場合は愛とロマンがね、生きがいだから…それが無くなった時や枯渇した時が、一番カサカサになるし渇いちゃいますでしょう?」石「あー…なるほど…」美「ご飯を食べて生きている人もいればね、お金儲けだけがね、生きがいっていう人がいたりね家族が生きがいの人もいるでしょう…でも、あの…石田さんの場合は愛とロマンが食料だから…だからそれが無くなると飢え死にするのよ☆」石「…わかります…☆」江「だって絶対なさいますもん☆何を言っても…」石「…決着をつける…」江「…するようにしますもん」美「そう」国「決着?」石「そうですね…いや決着は自分自身でつけないと…」国「それ…決着っていうのは、もう相手が決まってるっていうことですか?」石「いや…相手…まあおぼろげにですよ」「石田純一さん・モテる秘訣」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 25, 2009
9月19日に放送された完結編。2005年の春にスペシャル番組として始まった様子が映り美輪さん、太一くんお二人が舞台中央に立っておられます。当時の様子国「今日はですね…この日をどれだけ僕は楽しみにしていたか…」美「そうよ…私の恐ろしさを知らないな☆」国「あの…いきなりなんですけれども…美輪さんって今、おいくつなんですか?」美「あたくし?…たしか500か600にはなってるはずよ☆…じゃあ、ヴァージンロードを…(太一くんの腕を取って)」国「はい、じゃあ行きましょうか!(腕を取り合ってゲストの方々のそばへ歩いてゆく途中で美輪さんが階段につまづかれました☆)スペシャル放送開始当時は、江原さんは後から登場されたようです。国「(着席して)スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんです、どうぞ!」江「はじめまして…」国「…オーラっていうものが人にはあるって言うじゃないですか。江「はい」国「で、僕はオーラっていうものも見えないし、全く分からないんですけどオーラっていうのは何なんですか?」江「…(太一くんの分析を始められて)割に頑固。あの…要するに消化できないんですよ、自分自身で。不平不満があったら絶対、テコでも…あの…『うん』とは肯かない。『納得いかないことは絶対、嫌だ』『若いのに年寄りみたいだね』と言われたりするくらい、頑固なんですね」国「はー…」美「ぴったり☆」国「合ってるかもしれない…☆」江「ね?」深夜のレギュラー番組がスタート、第1回目のゲストは「毛皮のマリー」で美輪さんと共演されている及川光博さん。当時の様子美「『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』で…ね?『当たって砕けろ』ってやってるうちに…」江「…ですから肉体のオーラの部分でね、ちょうど喉のところのね、そこのところに色がくすみが出ているんですよ。どういうことかというと、飲み込めていないんです」及「…頭では分かっていても…来てよかったな、今日ちょっと…いきなり締めの感想みたいだけど☆」中井貴一さん、飯島直子さん、和田アキ子さん、東山紀之さん、菅野美穂さんなど、次々とゲストの方々が映ります。「中井貴一さん・聖なる怪物」「東山紀之さん・美と癒し」EXILEのATSUSHIさんA「TVをつけると、いっつもオーラの泉をやっているんですよ。僕はTVをそんなに観ないので…いっつもオーラの泉をやってて『あ、いつか出るんだろうな』と思っていたんですよね、そのとき」国「あ、いつか出るなと…」A「はい」「ATSUSHIさん・シンクロニシティ」檀れいさん国「美輪さんとは…はじめましてですか?」壇「はじめましてです…先ほど楽屋でご挨拶した時に…涙が出てきちゃったんですけど…」国「その…美輪さんを見てですか?」壇「(涙をおさえながら肯いて)…」国「ほう…その涙は何なんですかね…」壇「……すみません、番組始まって、早いですよね?☆」国「大丈夫です!何も気にしないでください☆」「壇れいさん・チャンスのつかみ方」沢村一樹さん 沢「彼が言うには僕は『心を閉ざしている部分がある』と。『それを開けてもらうには、オーラの泉が一番いい!』って言っていて☆…次の日、朝一で電話があったんですよ」国「朝一?☆」沢「番組から『どうですか?』っていう…」国「これはもう、必然ですね☆」「沢村一樹さん・想像の力」「人生の転機に招かれる」という伝説を生んだ番組はゴールデンタイムへ。延べ200人以上のゲストの方々が訪れたオーラの泉の最終回は「愛と感動の名場面スペシャル」。ゲスト席には東野幸治さん、はるな愛さん、石田純一さん、内田恭子さん、及川光博さんがいらっしゃいます。国「本当にたくさんのゲストの方に…この番組、出てもらいましたよね」美「ええ☆大スターだらけでね☆」国「ええ…4年半ですけれども、まあVTRを見ても、美輪さん、全然変らないですね!」美「そうお?」国「何か逆に怖いっす☆4年半、全く変らないというのは」美「いや、早く老けた人間が勝ちなのよ」国「そうですか?」美「ずーっと老けないまんまだから」国「それに比べてお隣にいる江原さんは…何か大きくなったり小さくなったり☆結構、激しい人生を送ってるんじゃないかっていう…この4年半☆」美「小さくなったときは『誰?この人?』っていうくらい、いい男でしょ?…それが今はねえ…☆」江「(うなだれて)…」東「まん丸☆…ドラえもんですよ☆夢を叶えてくれるドラえもんなんですよ」石「アンパンマンでもいいですよね☆」 国「みんな言いますね☆…でも、ぶっちゃけ言いますと、こんな番組になるとは僕、思ってなかったんですよ。美輪さんと二人で、牛丼屋さんにご飯を食べに行くとか…そういうようなロケがあるとか、そういう話だったんですよ。もっとバラエティに富んだ感じだったんですけど…気づけばこういうスピリチュアルなね…」東「正直、だから国分くん…我々ね、最初から観てますけど…信用してなかったでしょ?☆」国「…若干、さっきのVTRの中でも…☆」は「1回目のね☆」東「何か『なに言ってはるんやろう?』っていう…」国「これが驚くことがあったんですけれども…まあ始まって数回のとき…三人だけでエレベーターに乗ったときがあったんですよ、スタッフさんも誰も乗らずに…そのときに二人から『あんた、まだ信じてないでしょ?』☆…あまりに密室過ぎちゃって『すいませんでした!』って謝りましたけどね☆…この記念すべき第1回目のゲストが、及川さん…よく、オファー…あの、断らなかったですね?☆正直…」及「いや…(美輪さんの方を指されて)断れないじゃないですか、だって☆」国「正直、どうでしたか?」及「はい、ドキドキでした」国「何か不思議なこととかもありましたか?」及「不思議なことといえば…あの…この番組ではないんですけれども、以前、美輪さんと舞台で共演させていただいたとき…」美「初舞台だったんですね」及「はい、8年ほど前ですけど、その時に…あの…美輪さんから『ミッチーちゃん、あなたはいずれ探偵物か刑事物のヒットシリーズに抜擢されて…』っていう予言めいたことを言われた…」国「え!」美「『映画かドラマに出るようになるわよ』って言ったの」及「そうですね…」国「あれ、今回のドラマっていうのは…」及「はい。『相棒』が決定しましたので…」国「うわあ!」及「…というか、スムースな番宣ですね☆」東「おめでとうございます!」国「すごい!」美「あの…水谷豊さんとタッグを組む方?」及「そうです。新しい相棒に抜擢されまして…本当にね、そういったことがありましたよね」美「うん…」続きます。「オーラの泉の日記」「美輪明宏さんの舞台の日記」
September 24, 2009
美輪明宏さん、国分太一さん、江原啓之さんご出演の「オーラの泉」が本日、最終回を迎えます。放送開始の頃は、当地では観ることができず、番組を詳しくお伝え下さるサイトさんで、敬愛する麗人のお姿を想像しながら内容を読ませていただいていました。扉を開いてくださったこと、いまも本当に感謝しております。念願かなってレギュラー放送が開始された後は、一度も欠かさず拝見、録画もして何度も観ることができました。日記にも少しずつ感想などをアップし始め、だんだんと詳しく内容を書き込むようになりました。毎回、ゲストの方々が、ご自分のことを開示して下さって人生についてさまざまに照らし合わせて学べることは非常にありがたいことでした。それまで、お名前しか存じ上げなかったような方々にもお話を聴くとファンになったり親しみを覚えたりして、出演される番組や舞台などを拝見する機会も増えました。また、コメント、メッセージ、アクセスを頂戴しましたこと、心から感謝します。国内外の方々からお言葉をいただく機会に恵まれたことでたくさんの方々が心から番組を切望していらっしゃるということが分かりました。遠く離れることで故郷の美しさに改めて感じ入る経験はどなたもしていらっしゃると思いますけれども、番組の中で出演者の方々が、噛んで含めるように繰り返し繰り返しお話くださった智慧に満ちた言葉の数々は、それらを育んだ地の素晴らしさをも伝えて余りあるもので多くの方々の心をなぐさめ励まし明るく照らし続けるのではないかと思います。美の宝庫とも言うべき稀代の番組が終了してしまうのは大変に残念なことですけれども、ひとつの救いはすでに放送が月一度のスペシャルとなっていたこと。レコーダーの予約欄にも、通常、最終回を迎える番組の最後に表示される「終」の文字がありませんでしたので、スペシャル放送などでまたお目にかかる機会を作っていただければと期待しております。(さきほど、新聞の番組欄を見ましたら「オーラの泉・完結編」となっていました。希望が持てそうですね☆)最終回、もとい「完結編」は、4年半で200人以上のゲストの方々を迎えたオーラの泉の名場面を振り返るそうです。五感にもうったえるような素晴らしい体験ができる貴重な機会、可能でしたら、ぜひぜひ今夜7時からの放送をご覧下さいね。「オーラの泉の日記」
September 18, 2009
ロザンナさんと、二児の母になった娘・万梨音さんに贈られるメッセージとは。国「何か、お父さまが亡くなられてから不思議な体験も増えたという…」万「そうなんですよ…うちの息子がいるんですけど、今年三歳になるんですけどもっと赤ちゃんの時に…あの…写真を見て『ヒデじいじ』という存在は知っているんですけど全く誰もいないところに向かって『ヒデじいじ…☆』とか言って笑って手を振っていたんですよ☆『あ、もうこれは間違いなくいるな』と思って☆」国「ただ…『じいじ』は良くないですよね☆」江「じいじはね☆」国「じいじは言っちゃいけないんですよ☆」美「だってあなた、『ばあば』って呼ばれて嬉しい?」ロ「呼ばせないもん☆」美「でしょ☆…あだ名の方がいい」万「…あ、でも…(ロザンナさんに)ほら…『パパ』って言ってたじゃん…」ロ「そう」万「写真を見て、『パパ』って言ったんですよ、息子が。『パパじゃないよ、ヒデじいじだよ』って…それはやっぱり、うちの父が『パパだよ』って言ったんですかね?」国「これはやっぱり…?」江「(うなずきながら)…来ちゃった…」ロ「あら☆来たの?あらー嬉しい…☆」江「…だけどね……ロザンナさんとね、やっぱり話をたくさんしたいのね…(話を聴くように)うん…うん…(美輪さんに)伝えたいことが堰を切ってる感じなんですよね…」美「思いが一杯たまってるんでしょ?」江「そう…生きてたときよりも…以上に…凄く家族に対する関心が強いんですよね…例えば…あの…ご主人ってね、ヒデさんって見てると、あの…凄くクールな感じの人に見えるじゃないですか。だけどね、彼は本当はクールな人ではない」ロ「うん…」江「凄く感情の豊かな人で…」ロ「そうですよ…」江「何故かというと、彼自身が元々、前世がイタリア人ですからね」ロ「(驚いて手を叩いて)…」万「ええー…」江「そうなんですよ。で、この二人、夫婦で追いかけっこして生まれてるから…だからあの…もちろん、ご主人は日本にいた時期もあるの、前にね。で、その時、ロザンナさん、日本にいたの。だから、あの…昔から日本に対してあんまり違和感がないの。それでいて、イタリアに生まれたときも、今度はイタリアに行ってるのね」ロ「え…また一緒になれる可能性…」江「それでまた来てる」ロ「やった☆」江「そうなの…彼の人生ってイタリアでね…あの…パードレをやってたんですよね」万「え?」美「パードレ」ロ「神父さま?あら…」江「うん、だから結ばれてないんですよ」万「へえ…☆」ロ「そうなの…いや何かね…あの…彼…まあお母さんは宗教、仏教だったんですけど『僕は宗教は要らない』って言って『もう自分の腹の中にあるから』ってよく言ってましたけど…で、私が『どうしようかな』って思ったんだけど、ロザリオを持っていって上げたんですね…『これもついでに持って行ってよ』と言って…そうしたら、もうずーっと枕の下に。『これがあると落ち着くんだよ』って言ってくれたことがあるんですよね…」江「でしょ?だから、ある意味でこう…1…2…3度目の正直みたいなね、そういう出会いなんですよ」美「だから会った途端に、日本に来て会った途端に…好きとか嫌いとか、愛してるとかじゃなくて『あ、惚れた』というんじゃなくて『あ、この人、私のだんなになる人だ』だから、その前の生活の延長だったからよ」ロ「わー鳥肌立つ…☆」江「あのね、物凄く…今日ね、どうして今日、このゲストになってるかっていうと…やっぱりね、万梨音さんのこと物凄く心配してるの」万「はい…☆」江「『この子の将来は…この子の将来は…』って言っててね…『お祝いをして上げたいんだ』『自分は万梨音ちゃんのパパだから一生懸命それを祝福して上げて、それでこの子の、万梨音ちゃんの行く末をね、パパはずっと見ているんだよ』早くに離れちゃってるでしょう、やっぱり小さい頃だから。だからなおのこと、娘に対する思いとかが強くて…だってまだ小っちゃいうちなんだし…」万「(涙ぐんで)そうですね…」江「だからそれが大人となって孫を持ち…『自分は何とか守ってあげたいんだ』と。『だからそういった意味では、万梨音ちゃんにね、理解して欲しいのは…どんなに離れているように感じてもね、いつも見てるんだよ』と。ね?『それを伝えたい、いつも居たい』色んな何かがあったとき、万梨音ちゃんが泣いてるとき、悲しいとき、そこで一生懸命言いたいんだけど、その思いが情念になってね……『とにかく皆が笑って朗らかに生きていられれば良いんだ』って言っててね…『だから泣きたいときは泣けばいい。でも笑うこと』」万「はい…」江「ね?それをやっぱりね…残念ながら話す時間があまりなかったからねえ…」万「そうですね…」国「さっき、『来た』って言ったじゃないですか」江「今も居ますよ…(左手で左肩を示して)私の方に居る☆私のところにいる…」美「(ロザンナさんと万梨音さんの方を指して)いつも向こうの方に居るのにね☆」江「こっちにいるの」ロ「私が見たいのかな☆」江「それもあるし、一杯言わせたいの。『会いたい、話したい…』もうとにかく、ロザンナさんだけじゃないですよ、万梨音さんに対してもそうだし…もうね…あのね、色んな家族が…やっぱり『オーラの泉』を通して観たり、色んな他の番組でも観てるけれど…ここの家族は、ある意味、熱い☆あの…何か皆、素っ気ない風に見えて、妙に気持ちは一つ」万「はい☆」ロ「…(空を指して)何処にいるの?」江「(再び左肩を指して)…」ロ「(江原さんの左後方を指して)…まだ君に惚れてるから…☆」国「…可愛い…☆」ロ「向こうには彼女は出来てないですか?」江「ないです」ロ「ああ良かった…」万「それ一番、実は気になってたんだよね☆」江「(左肩を指して)『何言ってるんだよ、もう枯れてるよ』って☆」ロ「ええー?」江「『そういう気持ちはね。家族のためだけだよ』って」ロ「(喋る手つきで)これが上手だから☆」江「…でも言ってますよ。『愛してる』って言ってますよ」ロ「あら☆」江「それは万梨音ちゃんに対しても言ってますよ」万「はい☆」江「『愛してるよ、いつまでも』って」ロ「『同じく』☆」国「じゃあ今日は帰って…何か…」ロ「美味しいワイン開けよう☆」国「…お話してみてください」ロ「はい」万「はい」【天国から家族へ届くメッセージ 出門英さん】☆ 誉めてあげたい 祝ってあげたい あふれる思いでいつも見守っています。読んでいただいてありがとうございました。次回の9月19日(土)の放送は最終回、4年半で200人以上のゲストの方々を迎えたオーラの泉の名場面を振り返るそうです。「オーラの泉の日記」
September 1, 2009
「ヒデとロザンナ」として歌手活動をされていた出門英さんとロザンナさんは1975年に結婚、画面には「愛の奇跡」を歌うお二人の映像が流れます。ところが1990年6月17日、出門さんは47歳で逝去、当時40歳だったロザンナさんはまだ8歳だった長女・万梨音さんをはじめ三人のお子さんを一人で育てることに。当時の万梨音さんの言葉・「どんなお父さんだった?」という質問に対して「おもしろい☆…あのね、パパは鼻ペチャでね、『鼻が似てる』って皆によく言われる…」***国「ロザンナさん、18歳の頃の映像が出ましたけれども…大人っぽいですねえ」ロザンナさん「イタリア人ですから☆ませてるのよ☆」国「ませてましたか、その当時?」ロ「そうそう…結構ね、18でもう…イタリアだと大人なんですね、もう」国「あ、そうですか。まだまだ日本だと18歳っていうと、まだね…もうガキみたいな感じですけれども」ロ「だって17で一人で日本に来てるんだから…一人でおじさんのバンドと来たんですけれども」国「それは何か、嫌じゃなかったですか?日本っていう国に来るっていうのは」ロ「…いや…これが不思議なんですけど、やっぱり呼ばれているんだと思うんです、私は」国「日本に呼ばれた?」ロ「小さい頃からね、スケッチ何かすると、あの…五重塔と…何か着物を着ている女の子の絵をよく描いていました」国「子供の頃から?」ロ「見たことないのに」国「ええ?!『オーラの泉』じゃないですか、もう☆…前から出たかったみたいな話を聞いたんですが…」ロ「物凄い、お会いしたかったの、お二方に」国「そうですか…始めましてになるんですか?」ロ「いえ…美輪さんには大変お世話になって…」美「何十年ぶりくらい…さっきお会いしたの…」ロ「何百年ぶり☆」美「何百年…本当にね…あの…もういいわね☆…あの…何かヒデさんのことを、とても好きで好きで…」ロ「もう好きで好きで☆」美「好きで好きで、たまんなくて…」国「え?デビュー…デビューして…」美「すぐ」ロ「すぐ。『あ、この人絶対、私のだんなさんになる人』っていうね、ひらめきがあったんですよ」美「それがね…もうモロに…もう丸出しだったのよ☆」国「へえ…☆丸出し?☆」美「うん☆」ロ「これがイタリア人よ☆オープンだから☆」美「そう、丸出しで…それで私はね…『大人っぽい』ってあなたは言ったけど『うわあ…子供だな…可愛いな』と思ってたの。ヒデさんがね…あの人、めちゃくちゃモテたのよ」国「もう…格好いいですもんね☆」ロ「(うなずいて)…」美「スタジオにいる女の人もね…ヒデさんの方は何の関心も無いんだけど…あの…その二人の人が喋りかけて、素っ気無く喋ってたんだけど…そうしたら彼女の目ったらね☆(横目で睨んで)こんな…☆」国「嫉妬の目に☆」ロ「違う☆あの…今だから言いますけど、当時はね、日本語あまり喋れてないから物凄い敏感に見たり聞いたりしないと、何を言ってるのか分からないから…だから凄かったですよ」国「でもそれは、日本語も分からないし、『私のヒデを…』みたいな☆」ロ「『私のヒデを触るんじゃない!』☆」国「そんな気持ちもあったわけですよね☆」ロ「はい☆」国「江原さんとは、どうですか?」ロ「いや、初めて…」江「万梨音さんとはね…あの…JJモデルをなさってたときに対談してるんです」国「あ、そうなんですか?」美「じゃあ、JJモデルやってらしたの?☆」江「そうなんです☆」国「ええ?☆専属ですか?☆」江「ええ、当時☆…そんなに笑わなくても☆」万梨音さん「お世話になりました☆」江「もう8年も経つんですねえ…」万「もうそれくらいになりますね…」国「じゃあ何かこう…お話は…対談という形ですか?」万「はい、お話させていただきました」ロ「で、話を聞いて、物凄くお会いしたいなと思ったけど、なかなか…」江「僕ね、今でも忘れないの…その時も…あの…お父さまのことをね、お話してね…お家のね、椅子のところで…あの籐の椅子か何かだったのかな…『そこにいつもずっと居るよ』っていう話をしたのを覚えてる」万「はい」江「その映像がずーっとあって…うん…」国「それは覚えていますか?」万「覚えています。で、『そんな椅子あったかな?』と思いつつ、ママに帰りに電話した時に『…あるじゃない…』って言われて、二人でサーッと寒くなって…☆」ロ「キッチンに小っちゃいね…あの、籐じゃないんだけど丸い椅子…料理の間にちょっと座る椅子が…『そこにずっと居る』っておっしゃって…」江「そうなの。『居るよ。ずっと見てるよ、家族のことを』って…」ロ「怖いわあ…☆」江「そこの場面だけを凄く覚えている」万「そうでしたか…あの…私、お父さんと闘病中に手紙のやり取りをしてたんですね…(封筒から手紙を取り出して)これは最後に、一番最後に交わした…」ロ「運動会にね…絶対…どんな仕事があっても絶対、運動会の時、空けてたんですよ」国「へえ…スケジュールを空けて…」ロ「で、初めてだったんですよ、入院してて運動会に出られないっていうのが」万「そうなんです」国「そこでの手紙のやり取りがあるわけですか」万「はい…(手紙を開いて)あの…最後の方だったので字が全然…グチャグチャなんですけど…『うんどうかい いけなくてざんねん 目を大きく明けて よーくまえを見て 走ればぜったいに ころばないからね。こっちから おうえんしてる…』っていう風に…書いてくれたんですけど…」美「『こっちから おうえんしてる』っていうのが、なぞなぞになるわね☆」万「はい。もう今も、そう言ってくれているっていう風に…」美「『こっちから』が『あの世から』という意味でもあるのよね」万「はい、そうですね…」国「これはもう、最後に交換した手紙なんですか?」万「はい、そうですね」続きます。「オーラの泉の日記」
August 31, 2009
ご家族を思いやるお父さまから伝えられるメッセージとは。江「…さっきのことも一応、お父さんの名誉のために代弁しておきますけれどね、その…『靴を捨てるな』とか何とか…物欲があるわけじゃないの、別にお父さん…そうじゃなくて『まさか俺を忘れようとしてるわけじゃないだろうな?』って言いたいわけ☆」国「なるほど。可愛い☆」江「それと後、その…あみるさんがね、その番組で会うっていう前日にね、出てくるのも『何で江原さんに相談しなきゃいけないのか?それは、俺だろ!』と☆『自分だろ、訊く相手は』ね?だから『自分をさておいて何もね、江原に訊くことはないだろ』と☆それ位、寂しがりなの。それとね『オーラの泉』に出たことも意味があってね…要するに、この回っていうのはご家族に対するメッセージでもあるけれども、みんなに…自分のファンの人たちとかに『自分はこうやって元気にいるよ』っていうことを知らせたい」国「うーん…なるほど!」江「最高でしょ?電波使うの☆」亜「テレビでね☆『オーラの泉』で☆本当にそう思います☆」江「ね☆」国「ファンの皆さまにも『元気ですよ』ってことを…」江「言いたいんですよ。それと後…寂しいの☆(手を振って)『忘れないでねー』っていう…気持ちもある。でも…そこからもう一歩、一段、お父さん変わったのね。で、何で気がつかないのかな?って思うの。現実的にも色々起きているのに…だから生まれ変わり…そう簡単に生まれ変わらないんですよ。そうじゃなくて、方便でお父さん、言っているわけ。だって皆、それぞれ家庭を持ったでしょう?『親離れ子離れしなくっちゃ』って意思なの。お父さんも『自分でこれだけ寂しがりやだけれども、そこでいつまでも子供たちを余り過干渉になっちゃいけない。子供たちも伴侶がいるのに、お父さん、お父さんって言わせたら、家庭が上手くいかなくなっちゃう。だから、俺じゃない。伴侶だろ?』っていうことをそれぞれに言って…だから『まだそんな早いよ』って言っても、そんなことはない。お母さんのところには行ってるから☆だってお店に居るのが見えるんだもん」あ「お店☆」江「うん」亜「そういう気はしてました」国「お店って何ですか?」あ「あの…奈良で母が…カフェとライブが出来るスペース…町家を改装して…で、そこでよく姉弟でライブをやったりとかもするんですけど…凄く…そこでライブをすると…あの…コーラスとして参加してきたりとか…」亜「そうですね☆」美「そうでしょ?」あ「音として出てきたりだとか…」国「全然…霊感あるじゃないですか☆」あ「ええ?☆」国「コーラスとして参加するわけですか、お父さん」あ「そうです、聞こえるんですけど…」国「へえ…」あ「それは家族だから聞こえるんだと…」江「特定霊能だから霊感がないと思ってるんじゃない?だからお父さんとか、限りある人だけ。いつもそうっていうわけじゃないから、霊感とは思っていないの」あ「そうですね」国「あ、でも、そこには顔を出しているっていうのは分かるわけですか?そのお店に…」亜「聞こえますね、本当に…(耳を指して)ここからとかじゃなくて、全体的にこう…入って来る…」江「それはだって、家族一番の絆じゃない?音楽」亜「そうですね…」江「みんなそれぞれ…あの…お父さんにとってはやっぱり、お母さんっていうよりも自分のお嫁さんでもあるわけだし…だからそういった意味では『この人を最後まで守らなければいけない』っていう気持ちが物凄く強いのね。『今、自分自身が、この世に思う未練というものが一つあるとすればやっぱりお母さんのことだけ』って。『やっぱり自分の奥さんがこの世を去るまでは自分の責任だな』と。『迎えに行くところまでは、やっぱり自分の責任だなという風に思ってる』と。『自分自身のやりたいこと、何でも全部やらせてくれたし、だから迷惑も一杯かけたし、今になって強く思うのは子供たちっていうのはやっぱり大事、けれどやっぱり奥さん』『自分がやっぱり、自分達同士で選んだ相手同士なんだし、責任がそこにはある。そのことを、それぞれの家庭でもしっかりと、そのことを理解して欲しい』と。お父さんとお母さんのことをね」美「素敵ね、夫婦は…」江「だからお父さんらしい考え方だと思うんですよ。うん…ただね…不思議なことを1個だけ言うんだけどね…元々やっぱり、生前からそういうタイプだったかな…分かんないけど…間違ってもやっぱり『おじいちゃん』っていう呼ばれ方はしたくないらしいの☆」あ「『グランパ』って呼んで欲しいって言ってました☆」江「ね?それがだからね、最近やっぱりね、そのお孫さんとかね…」あ「今、うちの子たちは『英五じい』って呼んでるんですけど☆」江「『じい』はいらないみたい☆」美「いや、それはね、私のような年代になるとね、よくお分かりになると思う、その時になって…というのはね『おじいさん、おばあさん』でね、一応、世間体があるから相槌は打たないといけないから打ってはいるんだけど、お腹の中は煮えくり返ってる場合があるんですよ☆よくそういう話を…何処へ行っても聞くの」亜「あ、確かに。うちの母は孫から『マッキー』って呼ばれているんですよ。でも父は『英五じい』☆」美「それは絶対止めた方がいい」あ「もう止めだ…☆」国「そうですよね…江原さんを使って、この時間で…『頼むから、じいって言うのは止めてくれ』っていうのは…相当なんですよね、それは」亜「同じ世代の方々は多分、『そうだ、そうだ!』って思ってるかもしれない☆」国「そう思ってるわけですよね」江「確かにこういう場じゃなかったら…『おじいちゃんとは言わないでくれ』とは…誰も伝えられないもんね☆」あ「そうですね☆」国「そうですよね☆」【天国から家族へ届くメッセージ 河島英五さん】☆ 今も元気です。そして孫たちに おじいちゃんと呼ばせるな。読んでいただいてありがとうございました。出門英さんのご家族のお話は、後日アップする予定です。「オーラの泉の日記」
August 29, 2009
河島英五さんは最期を迎えられても、家族と音楽を愛してやまない方のようです。国「また…このライブ後に入院されるんですよね?」あ「ライブが終わった…次の日に…また吐血して…で、すぐ病院に連れて行こうと思ったんですけど、もう本人が『絶対嫌だ。家にいたい』ってうちの母としばらく二人で寝室で寝てたんですけど、いよいよ良くないっていうので連れて行ったんですね。じゃあもう…お医者さんには『もうこんな状態で来ても手遅れだ』って言われて…で、そのとき妹だけは…」亜「私は東京でライブがあって…急いで駆けつけたんです…もう新幹線乗ってる間は…『ああもう本当に目も覚まさへんねや、もうしゃべられへんねや』と思ってもう真っ白になってたのに、病院に着いたら『ああ…亜奈睦来たんか…』って言って☆」国「ええ?」亜「もう絶対に、本当に戻らないと言われて、意識が」国「意識が戻らないと言われていたのに…」亜「戻ってて…『ああ来たんか…』って言って…ちょっと頬っぺた触ってくれたり…」あ「冗談言ったり☆…『1回、三途の川、見てきたわ』とか冗談みたいに言ったりね☆」国「本当ですか☆」あ「後は…妹に『歌を歌って欲しい』って言って…妹に色んな歌をリクエストして…」国「『これ歌ってくれ、あれ歌ってくれ』と?」亜「こっちは涙が出るから、ほとんど歌えないんですけどね☆」あ「『歌、聴いてる間は楽やから、歌ってくれ』って言って、ずーっと横で…歌うと本当に何か…」亜「『ええ歌できたで』『こういう風な曲作ってみたらええんちゃう?』とか、最期までアドバイスくれてましたね」美「でも…お話を伺ってつくづく思うのは…生きているときに本当に居心地の良い人で優しくて温かくてね、誰にでも好かれて…とにかく家庭の中で素晴らしい人っていうのは…あの…罪作りよね☆その方がいなくなったらね…プラスの分だけマイナスも同じくらい深くなるわけでしょう?」あ「大打撃やったな☆」亜「大っきい大っきい穴が空いてしまった感じはありました☆」美「だからその大きい穴の悲しみと同じくらい、それに比例して生きていらした時はそれだけ素晴らしかったってことですよね、毎日が」あ「そうですねえ…」国「最期は全員…お父さんの最期を看ることが出来たってことですか?」翔「はい」亜「はい」国「それもやっぱりあれですかね…待ってたんですかね…亜奈睦さんのことも…」江「でもね、これ人によってね、『ちゃんと待っててくれた』とかあるけれども、そうじゃない、間に合わなかったって人も、世の中いっぱいいると思う。でもね、それってやっぱりね、その人の考え方、気質ってものが凄く現れたりします。『その場を見せないようにしたい』って思ってる人もいるんですよね」亜「猫ちゃんのように」江「うん、そう。で、やっぱりあの…『追いすがられても辛いし』とかいう人はスッとね…『ちょっと離れた隙に亡くなっちゃって…あの時…』って悔やむ人、いっぱいいるんですよ。そういう…ね?無念に思っている方もいっぱい観ていらっしゃるかもしれないけれどもそうじゃなくて、『それは、またもう一つの愛があるんだよ』って、そういう風に…」亜「色んな愛の形が…」江「ね?『知らないうちにバイバイしておこう』っていう…何かそういう愛もある…うん」国「で、その…亡くなられてからは英五さんが夢によく出てくるという話を聞いたんですけれども」あ「そうですねえ…」国「どんな夢なんですか?」あ「…あの…結構、身近なことで…『母が父が大事にしていた靴を捨てようとしてる』って夢で…『止めに行ってくれ!』とか言って…行ったら、あの…母が…ゴミ袋、満タンに靴が入ってて『これのこと?』って言われたりだとか☆…何かお告げっていうよりも、本当に些細な使いっぱしりみたいな感じで…☆」国「すごーい!」あ「…言われるので☆『それぐらい、自分で言ってよ!』って言ったこともあるんですよ☆」国「夢の中で☆」あ「はい☆『お母さんに直接言ってよ、それぐらい!』って言うと『お母さんのところに行くと怒られそうやから出てゆきにくい…』って言う…☆」国「会話してますね、夢の中で完璧に」あ「そうなんですよ…だから一度、江原さんに…初めてお会いする前の日も『江原さんに訊かんでも、俺に訊けよ!』って☆」江「『どういうこと?』☆」美「面白い☆」国「凄い☆…なのに、江原さんに1回、挨拶に行っているんですよね?お父さんは『よろしくお願いします』と☆」あ「だからあの…『じゃあ今から挨拶行ってくるから』」国「あ、それも聞いてるんですか!」あ「はい、聞いてます☆」国「凄いですね」あ「はい…で、急に…去年の冬くらいに…私の夢に出てきて『俺、生まれ変わろうと思うから…もう夢にはあんまり出ない』みたいなことを言いに来たんですよ。で、私、止めたんですよ。まだお母さんも…」亜「『まだ早いわ!』って言ってました☆」あ「『まだ早いって!』」亜「『まだ上で守っといてよ』みたいな☆」あ「お母さんもまだ生きてるし、孫もまだ小っちゃいし、『あかんて!』って言ったのに最後だったんです…そうしたら、あの…翔馬…去年、結婚したんですけど…翔馬の奥さんが次の月ぐらいに妊娠して『この子になるのかな?』と思ったら春になって妹が妊娠して『こっち?』と思ったら☆…で、先々月くらいに私が妊娠したんですよ☆」江「『こっち?』って☆」国「すごい!」あ「誰になるのか…全然、違う人になろうとしてるのか…そこも訊きたいの…」国「聞きたい!」続きます。「オーラの泉の日記」
August 28, 2009
「野風増」、「時代おくれ」、「酒と泪と男と女」などの歌で知られる河島英五さんは2001年4月、肝臓疾患のため48歳で逝去。画面には、河島さんが歌う様子が映ります。河島さんの長女・あみるさんはタレントとして関西で活動、次女・亜奈睦(あなむ)さんは歌手としてデビュー、長男・翔馬さんも音楽活動を始められ、三人ともお子さんがいらしゃるそう。亡きお父さまから三人へ贈られるメッセージとは。国「さあ、ようこそお越し下さいました…いきなり、僕の話をするのも何なんですけど、実は僕、先ほどの『野風増~お前が二十歳になったら~(作詞 伊奈二朗 作曲 山本寛之)』…あれをもう、子供の頃からずーっと聞かされてたんですよ。で、子供の頃は意味が分からない。後から聞いたら、母親が『あんたが二十歳になったら、お酒飲もうってお父さん、言ってるんだよ』ってことを教えてくれて…だから僕にとっても思い出の曲なんですよね… 皆さんは美輪さんとは始めましてになるんですか?」美「ええ…始めまして☆」あみるさん「始めまして…あの…私たち、二人とも(亜奈睦さんを指して)…目覚ましの声が美輪さんの声なんです☆」国「何です、それ?」亜奈睦さん「美輪さんの携帯サイトにあったのを…☆」あ「はい☆二人とも、目覚ましの声をダウンロードしていて…で、朝、美輪さんの声で『おはようございまぁす』っていう…☆」国「何なんですか!携帯でやってるんですか?」美「(照れて手で覆っていたお顔を出して)…そう、携帯サイト…私の携帯サイトに…ダウンロードできるようになっているの☆」国「ええ!!」あ「そうなんです」亜「着ボイスでは『もしもぉし…』」国「着ボイス!!!」亜「『…美輪明宏でぇす』っていう…」国「そんなことやってたんですか!」美「そう…今もやっております☆」国「今もやってますか…美輪さんが久しぶりに照れてる姿を見れて☆…江原さんとはどうですか、始めましてですか?」江「いやもう…ご縁があるんですよ」あ「節目、節目でお会いできることがあって…父が亡くなって三年後くらいに…あの、関西の番組で…父のことを見ていただいたことがあって…前日に父が…わざわざ江原さんのところ、ホテルにご挨拶に行ったらしくって…」国「ええ?『よろしくお願いします』と?」江「私は…あの…生前のお父さんは存じ上げないんですけれども亡くなってからのお父さまはよく存知上げている…☆」国「それは…☆なかなかいないタイプですね、それは☆」江「今から言っちゃうと、ちょっとあれかもしれませんけれど…物凄い寂しがりで…で、物凄い甘えんぼさんでね…で、家族がいないと駄目な人なの☆」国「あ、そうですか…」江「イメージ崩れちゃうかも…☆可愛らしーい…」亜「お茶目ですね☆」国「あ、そうですか」亜「ウサギみたいな感じ…☆」国「お父さんのイメージですか?」亜「『寂しくて死んじゃう…』みたいな☆」美「可愛くてね、弱くて甘えん坊でっていうところもあるけれど、あの…その反面、素晴らしい男っぽい…物凄い素晴らしい声でしょう?」国「はい」美「あんな声の人、最近の歌い手はいませんよ」国「そんな元気だったお父さんですけれども、どんな状況で入院という形になったんですか?」あ「あの…冬は野外のライブが割りと続いたみたいなんですよ…で、最初は『風邪をひいた』って言ってて、でもやっぱりライブが続くものだから風邪薬を飲みながらやってたんですけれども…やっぱりそこで無理してしまったみたいで…最初は胃を痛めて吐血した形だったんですけれども…『あそこの町の○○さんから呼ばれたから行かないと』っていうのは…」美「義理堅いわねえ…」あ「あ、凄くそんな感じですね…だからもう、1回退院して、もう入院して…」国「その退院っていうのは先生が『もう退院していい』…」あ「いやいや…もう先生は最初、大反対だったんですけど…その先生を説得して…」国「『歌を歌いに行きたい』と…いうことで…」亜「『しょうがないか…』みたいな感じ…」あ「うん…で、またライブに出ると…調子よくなんねんな☆」国「あ、そうなんですか」翔馬さん「そうなんですよね。で、やっぱり僕達が見てても…その…『まあ今は入院してるけれど、もうすぐ復活して、また全国を旅するんじゃないかな?』っていう風に…もう100%信じてたんですよね」亜「そうですよね…」翔「だから亡くなったのが…『ええ?』っていう…不思議な感じ…」病をおして活動を続けておられた河島さんが亡くなる二日前に行ったライブの貴重な音源が流れます。「ええっと…あの…もしかしたら新聞や何かでご覧になって皆さんご存知なんでしょうか…約二月、入院してたんですよ…今、病み上がりです…それで…歌もたくさん作りました…あの…何か…迷いなく作れたね…何か例えばね、普段めったに会わない…二十年…二十年前一緒に音楽をやってたような奴とかがね、訪ねて来てくれたりとかね…もう凄い懐かしくてね…(ギターの音が入り歌い始めて)♪今日は本当に笑った 腹の底から笑った 夕べはあんなに塞いでいたのに 君に会えて良かった♪…『旧友再会(作詞・作曲 河島英五)』っていう曲なんですけどね…(拍手)」国「…という音源が残ってたわけですよね…」美「素敵ねえ…」国「久しぶりに聞いたんじゃないですか?」あ「私…ほとんど、これは聞けなくって、自分では」亜「姉はその会場に居てたんです」あ「…居て…後ろで演奏してたんですけど…やっぱりあの…しゃべってる声はもう弱々し過ぎて…やっぱり悲しいんですけど…歌い出すとあんな風になるんですよ…しっかり優しい声がポーって出る…」江「私は弱々しく感じなかった…天国の声になってる…」あ「えー…」江「ね?神々しさがある…(美輪さんと顔を見合わせて)ありますよね…」美「(うなずいて)…」江「弱くなっているんじゃないですよ。全ての力が抜けてるの…何かこう…いい意味での」あ「あ、いい意味で抜けて…」江「いい意味で。肉体を超えてるの。魂の声になってるわけ」あ「あー…ちょっとそれを聞くと…何かちょっとほっとするものがあります」江「『神々しいな』と思いました」続きます。「オーラの泉の日記」
August 27, 2009
生真面目な印象に反して太郎さんは、とても楽しくユニークな方のようです。江「太郎さんに相談する場合はね、必ず、事前予告しておいた方がいいんですよ。予約」愛「あ、予約」江「あのね、疲れている時は駄目なの。本当に集中力のある時とね、全く無い時との差が凄く激しいですよね?」太「はい☆ごもっともです☆」江「疲れがすぐ出ちゃうの、表に、表面に。だから、そうでない時は凄くちゃんと集中して物凄く良い答えを出してくれるんですよ」愛「はい…あの…『ほー…』って言う時があるんですよ…」美「いや…お留守なんですよ」江「そう、お留守なの」愛「私は…」太「そう、お留守なんですよ☆」愛「『何か悩み事があるのかな?』って思ったりするんですけど…」江「昔の武士を思い出してみてください。ね?(体を傾けて)崩せないでしょ?どんな時でも。正座をしてて、刀を(脇に置く仕草で)こうあっても…(正面を向いて動かず)お留守になってて☆」美「実はお留守なの☆」国「なるほど」太「お留守って優しくていいですね☆」美「じゃあ自分でおっしゃればいいのよ☆」国「あー覚えちゃいましたね☆変な言葉。『お留守だからしょうがないじゃないかよ!』って言うかもしれないですよ☆」美「でも、今の会話みたいに…『ごもっとも』とかね、昔の言葉ですよ、これも。で、それがユーモアになるわけですよ。だから逸見さんて物凄くかたくて、あれだったけど私なんかが話す時も本当に冗談言ったりね、面白くてユーモアだった。そういう面もね、実は持っていらしたけど、家の中ではお出しにならないだけの話で…だから、それを家の中でも、仕事場でも、それを太郎さんも愛さんもこれからその部分をパブリックにもお使いになればいいのよ。今こうして、もう出したんですから。ね?」太「非常にやっぱり、こう…言葉を非常に大切にしていかなくてはいけない…」美「いや言葉じゃなくて、そのおかしなキャラクターを☆」太「ああ、おかしいキャラクター…僕、おかしいんですね?」美「うん、あなた、充分おかしくていらっしゃる☆」太「充分、付いちゃいますか☆はい」国「今の会話中も、ちょっとお留守状態じゃなかったですか、大丈夫ですか?」太「いやいや、大丈夫です☆いま、そういう…『ごもっとも』という言葉をですね…世の中に浸透していった方がいいわよ、という話…」江「その柔軟なところは太郎さんの素ですよ。本当はこういう方。面白いユニークな…今のね、ご活躍とかね、お二方ともそうだけれど、お父さまの導きだって分かっていらっしゃるかなあと思って…実はご自身たちの努力も、もちろんあるけれども、色んな方たちの、それこそ恩情もあるけれど、でもお父さんの導きだってこと。だから家族のこと、そんなに言葉がね、少なかったかもしれないけれどあのね、語らずして導いているんですよ、常に。絶対、逸れないようにしてるの」愛「あの…アメリカの方に行って…行って一年目くらいで松坂選手の番記者といいますか、レポーターをやらせていただくことになるんですね。その時の、一番最初のレポートする日が父の誕生日だったんですよ…『これは絶対に何かある』って…『これは父がいる』って、凄く実感しまして…」美「お父さまのお膳立てだったのね☆」江「いまも…実はお二方の真ん中に立って、こう…二人を肩で(手を置く仕草で)こうしてね…いるんですよ。まるでね、記念写真みたいに、何か家族のね…でね…とても涙を流しているのね、お父さんがね…泣きながら話して…だからある意味では優しくて脆いところもある方だと思うんですよ…それで言ってきたのはね…『自分が亡くなって今日まで色々なことを見てきた。嬉しいことも悔しいことも。だから人というものは、どういう人が本当にありがたい人か、そうでない人か、そういう人の裏表とか、そういうものはこの家族が皆が見たんです』っておっしゃるの。『でも、ある時に発想を切り替えました。これが自分が残した財産だと思うようにしました。ある意味で吸いも甘いも知ることが自分が残せた財産だろう』って。そして今まさに…ある種の卒業…要するに自立…自分の足で生きてゆくっていうか、そういうようになれた。『だから、もうここでお父さんの影響じゃないよ。これから先は良いことも悪いこともお父さんの恩恵でもなんでもないと思っていい。もうこれからは君たちの人生だ』と。っていうことをね、語るの。滔々と…」太「(後ろを振り向きながら)…ですか?☆…はい…」江「で、話は戻るんですけど、愛さんがね『そういう時期を迎える。そういう時に、しっかりと父親役を頼むぞ』ということを、お父さまがおっしゃっているんです。『だから、ちゃんと送ってやらないと駄目だ』と」美「お嫁さんに行くの?」江「そうです」美「嬉しいわね☆」愛「でもいざとなると、何かこう…『いいんじゃない?』って普通にお留守の状態で言われそうな気がするんですけど…」江「だから今、釘刺されたの、お父さんから」国「凄いですね」江「お父さんに言われたことは、太郎さんは絶対守る人だから」美「それと…ね?もうひとつ言えることは…『お兄さんとかお母さんに何故頼るの?』っていうことですよ。自分の恋愛とか、自分の家庭を持つのは、自分の問題ですもの。自分の決定(けつじょう)が足りないんですよ。男の人と恋愛するとしても、ね?惚れようが足りないの」愛「(うなづいて)…」江「お兄さん、大好きなんです☆」美「うん」太「ブラコンっていうやつですか?」江「そうです」太「ブラザーコンプレックスですよね?」江「本当にお兄さん、大好きでしょう?」愛「…誤解の無い程度に好きですね☆」太「…それ…言うとまた、おかしくなるんじゃないの?☆」愛「あ、そうか☆そうか…」美「いやだから、そこはね、もうとにかく子供じゃないんだから…(笑う江原さんと顔を見合わせて)ね? いつまでもね、女学生のつもりでいらっしゃるでしょう?とんでもないですよね、女学生なんて…」江「やっぱり武家の娘さんだから☆」太「本当に言ってやってくださいよ、はい…」江「そうおっしゃいますけどね、本当に嫁に行くときね、私、予言しておきますよ…太郎さん、泣きますからね☆」太「あら…☆」愛「見たくないですね~☆」江「そう言って、お互い泣きますよ☆」美「あらら☆」国「太郎さん、こんなキャラだったんですね…☆」太「どうなんですかねー…☆」美「ですからそれを、意識して十二分に…意識しながらプロフェッショナルでそれを仕事に活かしなさいってことだから…硬いばっかりのこっちだったらね、硬い仕事のこっちの方だけで、もう狭いんですよ。『だけど、こっちがあるけれど、こっちもあるさ、あっちもあるさ』そういう風に全部、守備範囲を広げてゆけば。それを作るんじゃなくて先天的に…そういう風にお気楽でいらっしゃるんだから…」太「お気楽ですか☆」美「そうそう…☆それを、活かせばいいだけの話ですもの」国「相当、この番組では活かされてますよ☆」太「これはありがたい話ですよね、非常にありがたい話です」美「そう…だから今日は、始から終わりまで真面目なつもりでね、おやりになろうとしたけれども…そうはいかないのね☆」国「全然、前半の雰囲気と違いますからね☆」太「違いますかね☆」国「そのスーツが可哀想ですもん、何か☆」【天国から家族へ届くメッセージ 逸見政孝さん】☆ これから先はお父さんの影響ではない。良くも悪くも君たちの人生。読んでいただいてありがとうございました。続いて河島英五さんのご家族のお話をアップする予定です。「オーラの泉の日記」
August 26, 2009
逸見さんの死後、ご家族には厳しい現実が待っていたようです。愛「どういう風にとらえるべきかっていうのは、ちょっと分からなかったんですけれども…借金を残した豪邸が…残っちゃったわけですよ…」美「物凄い額でしたでしょう?」愛「はい…」美「10…何億…」愛「12億です」美「12億…ね?」国「残った借金が…ってことですか?」愛「はい、あの…」美「家を建てる…」国「お家の…売ろうとはしなかったんですか?」太「まあ我々も、本当に学生終わったばっかりじゃないですか。その額はもう…桁外れの額じゃないですか…ですから母親には言ったんですよ。『今までのように、楽しく生活してゆく上で、売った方がいいんじゃないの?』っていう話は何度もしたんですけど『勝手なことを言うんだったら、出て行きなさい』『私はこの家を守る』」国「それは『お父さんが残したもの』っていうことでですか?」愛「やっぱり…全部の家具ですとか、壁ひとつとっても、父と二人で決めて…全部に思い入れがあるんですね。で、やっぱりその…もちろん現実的に考えた時に『売らないと今後の生活は本当に苦しくなる』って本人も思っていましたので…一度は売る決心をするんです…なんですけど『じゃあ、家を是非見せてください』って案内した時にその人たちにとっては、何の思い入れもないわけですよ。その…母にとって父と選んだもの一つ一つが…その姿を見て『こんな人たちに売ってたまるものか!』って思っちゃったらしいんです☆」国「それ…言ってないですよね、相手には☆」愛「言ってないです、言ってないです☆…『こんな人たちに売ってたまるものか!』って思って、すぐに電話したらしいんですね。あの…」国「不動産屋さんに?」愛「不動産屋さんに。『大変申し訳ないんですけれども、気持ちが変わりました』と」美「『売りません』☆」愛「『売りません』☆」国「お父さんの亡くなる前のお母さんって、これまでうわっと…『やるぞ!』っていう位の性格だったんですか?」太「どうなんだろうなあ…」愛「いや…違いますよ…あの、やっぱり後ろに二、三歩下がって…何も言わず…『やれ』と言われたことを全てやるっていう完璧な…要するに父にとって完璧な主婦だったので…」美「昔の…つまり戦前のね、日本の家庭がそのまんま残ってたっていう感じね」太「戦…前ですか☆」美「戦前」愛「戦前ですね☆」国「こんなことを言ったら失礼かもしれないですけど…太郎さんと愛さんっていう名前も…ちょっとこう…☆」太「まあねえ、何かねえ☆」江「いやそれとね、後ね…それ、お母さんだけのせいでもなくてね、実は今もおっしゃっているんだけれど、あの…お父さんも、どこかで凄く古風でね…建てた家は西洋住宅かもしれないけれども『城』っていう意識が強いんですよ。『城を持って何ぼ』男のね、その…力を現すっていうか…」美「城主」江「城主…本当に逸見さんのお宅をみているとね…昔の…主を失った武家の奥方とそのお子さん…そんな感じに見えません?」美「うん、だからそれは前世がそうだからでしょ?前世がそうだからそれがそのまま出てるのよ」江「そう。純和風な前世の方たちなんですよ、みんな。だからお父さんもお侍だしお母さんも守り刀を差して…」愛「だから結婚できないんですか、私?」国「ん?☆」愛「だから武家っていう…☆私も要するに、そういうお侍の魂を持ってしまったりとかしてるので…」江「そうそう…だから、世が世ならば、早く結婚していたと思うの。昔は、自分で選ばない」愛「あ…」江「そうでしょ?だから…」美「いや…自分で選んだら『はしたない』って言われちゃうんですもの。そう、自由恋愛とかね、好きな人と一緒になる…『あの家、ええ?恋愛結婚ですってよ。親の顔が見たいわね』ってそういう時代だったんですもの、昔は」江「だから『素敵な人だ』とか『良い人だ』とか、今までもあったけれど、どこかで『本当にいいのかしら?』とかね『最後の印を誰か押してくれないかしら?』みたいな…でしょ?その決め手がなくて、いつも『駄目だ』っていう風になって…何か自分で潰してゆくんですよ。だから『守り』っていうことには強いご家庭なので☆」太「うん…」愛「攻めることを知らない☆」江「お家を売るという時に人が見に来たとかいっても多分、お母さまとしてはその時も長刀を持ったような気持ちだったと思うんですよね☆よそ者が入ってきて…」美「だから江戸城明け渡しですよ☆」国「剣先で電話番号押したんでしょうね☆不動産屋に」美「鉢巻して☆」愛「だからたまに…もしかしたら父が結婚させないように…☆」江「逆、逆。違うの。お父さんは、だって今ね『もうじきだね』って言うんですよ。だからね、あ、そういう時期で合っているんだと。ただね…お父さんが言っているから…まあ言っちゃいますよ、何でも…あのね、どこかお兄さんがね、やっぱりお父さんが亡くなったっていうこともあるんだけど『父代わり』になっているところがあるんですよ、常に。何か肝心なときには、お兄さんに聞くでしょう?いつでも」愛「聞きます」江「だから、その時にね『真剣に聞いてあげて欲しい』」太・愛「(同時に笑って)☆」江「ごめんなさい、お父さんが言ってるから言うんだけど、太郎さんはね、凄く気分にムラがあってね…あのね、本当に優しい時はしっかり聞いてくれるんだけれど疲れているときは物凄くいい加減なことを言うんですよね…」愛「そうですね☆本当に☆」江「で、後になって『いや、俺、言ってない』みたいな…」愛「そうです、そうです!まさにそうです☆」江「凄く自分にとっては重要なことを言ったはずなのに『そんな軽い扱いをしてたんだ』って…多いでしょう?お父さん、見てるの」愛「そうなんです…」国「初めてお会いしましたけど、そういうタイプだなって何となく分かりました☆」太「分かりました?☆…真剣な顔してるだけで、あまり聞いてない☆」続きます。「オーラの泉の日記」
August 25, 2009
8月15日に放送されたお盆スペシャル。お三方がステージ中央に立っておられます。国「さあ、今日はですね、8月15日ということで…終戦記念日です。皆さんにはですね、毎年、戦争の貴重なお話を伺っているんですけれども…」美「はい、よろしくお願いします…☆」国「…はい、ということでですね、今日はですね、またまた凄いゲストが来ちゃいました…『北の国から』の脚本家、倉本聰先生が…トーク番組に出るってこと…なかなか無いことですよね?」美「ええ」江「これは必然ですね…必然」国「また色々あるんですよね?」江「ドラマがありました」国「今日、来るまでには…本当に色んなハードルを乗り越えて…」江「本当に」(倉本さんがお越しになった様子は、先週、アップさせていただいています。)国「そしてですね、今日は、まあお盆でもあります…僕なんかもう、お盆というイメージがどんどん無くなってってるんですよね…『ナスときゅうりの日』っていうイメージがね…☆強くなってきちゃってるんですけれども…」美「それは関東の方だけね」国「あ、そうなんですか!」美「うん」 江「気持ちですよね。あの…お葬式のときだって、何か皆さん、棺おけにお金を入れたりね…何か…向こうでは要らないのに☆だけど、そういう形、気持ちだけってやるじゃないですか…」美「慰霊ですよ。お慰めするっていう意味だから。だから形式的にね、『ナスときゅうり』…『こうやって、こうやって、こういうものを必ず出さなきゃいけない』っていうことは無くてそれは気持ちで…自分たちの経済的なね、範囲で故人の好きだったものとかそういったものを…お水一杯でもいいから…気持ちを差し上げること。物じゃない。だから物という形にして『これだけの気持ちを持っておりますよ』っていう代理なんですね」今回は天国からのメッセージが、逸見政孝さん、河島英五さん、出門英さんのご家族に伝えられます。国「…物凄い回になりそうです。本当に愉しみです☆」最初にお越しになったのは、1993年12月25日に48歳という働き盛りで亡くなられた故・逸見政孝さんのお子さん・太郎さんと愛さん。逸見さんの会見の模様「私が今、侵されている病気の名前…病名はガンです」当時21歳だった太郎さんは、今年1月から司会者としてお父さまと同じ道を歩み始め当時18歳だった愛さんもレポーターや司会など、タレントとして活動中。画面には太郎さんが「5時に夢中」という番組で挨拶される様子も映りました。生前、多くを語らなかったという逸見さんから伝えられるメッセージとは。国「…ということで…まあ『オーラの泉』ですけれども…お二人は初めましてになるんですか?」太郎さん「はい、初めましてですね」美「お父さまとはね、私、仕事で…ご一緒させていただいていたんですけれどね…さっき楽屋で、お見かけしたときに『え?!』と思ったの。輪郭とね…(口の周りに触れて)ここいらが…もう同じなの、みんな…」太「本人的には『父親より格好いい』と思っているんですけれども☆」国「いや…お父さんより…眼力は強いですね☆」太「あーそうですか☆」国「さきほどの…(VTR)『これからやりますんで、よろしくお願いします!』って言ったときの、あの目は…物凄くうったえる目でしたよね、あれは…」太「そうですね、初めていただいたレギュラー番組でですね、毎日、生放送なんですよ、夕方の5時から…ですからもう…今までの芸能生活の中でですね、気合入ってましたね☆」国「…の目でしたよね、あれは☆」太「何かもう、凄い目になってましたね、今☆改めて見ましたけれど…はい☆」国「…病院でのお父さんって、どんな様子だったんですか?」太「…会話はほとんど無い状態ですか…『あ、来たんだ』っていう感じで目と目を合わせたら…それでまあ1個終わるんですよね…」国「『痛い』と…そういう様な言葉は…」太「一切、無かったですね、はい…あまりにも…何を考えているのか…痛いのか痒いのか何なんだかよく分からないんですよね」愛さん「本当にしゃべらないんです。だから、どう感じているのか、何がしてあげられるのかっていうのが、何も無いんですよ、私たちに」国「どんな言葉を交わしたかっていうのは覚えていますか?」太「…最後も結局、何もこう…コミュニケーションって、いわゆるこっちが何かを言って何かを返してくれたっていう印象が無いんですよね」国「そうなんですか…」太「はい。まあ亡くなる一日前なんですけど…まあ意識が朦朧としてる中…いきなりスクッと起き上がった瞬間があったんですよ。『お!』と思うじゃないですか。そうしたら、何をしだすのかと思ったら、当時、自分がやっていた番組の司会のオープニングシーンを、いきなりし出したんですよ」国「ええ?」太「いきなり手を叩き出してですね(パチパチと拍手)…今度、何かを言うのかな?と思ったら当時、携わっていた制作の方のお名前をですね…(愛さんとご自分を指して)我々の名前じゃないですよ、仕事を一緒にしてる人たちの名前を何名か呼び上げたんですよね。これは本当に驚きました」1988年10月から放送が始まった「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」の映像が映ります。「えー…日本テレビの電波に初めて私の顔と声が流れます。『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』司会、それは私です、いっつみぃ、よろしくお願いいたします」「平成教育委員会」「いつみても波乱万丈」の司会など、フジテレビを退職後、フリー司会者としても大活躍された逸見さんは、いつも番組のことが頭から離れなかったようです。江「だから…その…すごくコミュニケーションを求める人もいれば…そうでない、むしろそれを望まない人もいるってことなんですよ。どっちがいいとかじゃなくって、語って理解し合いたい人と言わずして思いをお互い通じ合わせたいっていう…古風なね、昔ながらの…そういう人もいるってことでね…それがその…寂しいとか思いはあるかもしれませんけれども…もうちょっとこう…『言って欲しい』とかね、あるかもしれないけれど、でも本人のそれは…望みでもあるわけですよね…あの、私…ご存知ですか…私、10年くらい前に…あの…ある番組でね、あの…お母さまに、お父さまのメッセージを伝えたことがあるんです」愛「え?」太「あ、本当ですか?」江「知りませんでした?」太「はい」江「で、その時に、実はこのひと言だけ言ったんですよ。『太郎のことが心配だ…って言ってます』って伝えたんですよ。そうしたらば、その時に、お母さまが『実は昨日』…だか『今日』だか忘れましたけど『ちょっと色々言い争いをして、家を出て行けと言いました』って…『息子に』…そんな時があったんじゃないかと…」太「ありました、ありました」江「で、その時に『ご主人は、母は母でいて欲しい、と。自分はいなくなったけれども男になる必要はない』『要するに、今、自分が支えなくちゃいけないって自負しているからかもしれないけれども、あまりにもゆるみが無い。もう少し受け入れてあげることとか、時間を待ってあげることとかそういうことも必要だ』と。『だから、僕がいなくなったとしても、母でいてあげて欲しい、子供たちには』っていうね、メッセージを伝えたの。全然、聞いてませんでした?」太「はい、そのお話は…そうですね…」美「お母さまがご自分でおっしゃらなかったのよ、それ☆」国「言い合ったことは覚えているんですか、お母さんと?」太「覚えてますよ…結構大きな…討論がありまして…」美「討論ですか☆」太「はい…ま、ガールフレンド絡みの…お話だったんですけれども☆」江「『出て行けって言ったばかりです』って言って、あの…皆さん、その場でも『へえ…』っていうことになって…でも、その時にお父さんがそういうことだけを言ったんですよ。『太郎のことが心配だ…』」太「うーん…」美「だから『父親である必要はない』って…」江「『母でいて欲しい』」太「うん…」続きます。「オーラの泉の日記」
August 24, 2009
倉本さんの歩みには、お父さまが大きな影響を与えていらっしゃるようです。倉「あの…何ていうんですかね…便利とか豊かになっちゃうと…僕、豊かっていう言葉を辞書で引いたんですね。そうしたら『リッチ』っていう言葉が『豊か』っていうだけの意味なのかと思って引いたら、『リッチ(富裕)にして幸せなこと』って辞書にはちゃんと載ってるんですよ。で、『幸せ』が日本の場合、欠落しちゃって、『リッチ』だけが何か優先しちゃってるっていう気がするんですね。で…例えば家の中に電化製品が増えたり、部屋がバラバラになっちゃったりすると、家族が分かれますよね?そうすると、僕らの時代…僕は5人兄弟なんだけど、弟とか妹とか兄貴とかの寝息っていうのを知ってるわけですよね。だから寝言も知ってますよね。だから親父やお袋の寝言とか、親父の匂いなんてのは、凄く今でも…もう50年前に死んでるんだけど、今だもって僕、覚えてますよ」江「それは覚えてるだけですか☆」倉「え?」江「覚えてるだけですか?」倉「何で?」江「時々、ふとお父さんの匂い、しませんか?」倉「…しますね」江「お父さん、ずっとそばにいますからね☆」倉「あ、そうですか」美「そう☆」国「匂いで知らせてるってことですか?」江「いやだからね…お父さんと常に一緒にいるんですよ」倉「うちの親父は僕が高校…二年で死んだのかな…あの…凄く強い親父だったんですよ…背は小っちゃかったんだけど、柔道をやってて…表で年中、殴り合いの喧嘩をしてる…そういう趣味の親父だったんです」国「趣味☆」倉「趣味の親父なんですよ…だけど僕を自然の中に連れて行ってくれたのは親父だし、それから文学に目覚めさせてくれたのも親父なんですね。5歳くらいから僕、宮沢賢治…毎週、1本ずつ読まされてましたから…『分からなくていい』って言うんですよ。『リズムを覚えろ』って。『韻がある』その…宮沢賢治の文章に…『韻だけ身に付けろ』って言われて…毎日、朗読させられましたね」美「じゃあもう、硬軟両方の方だったのね」倉「ええ、そうですね」 江「まさにお父さまの思いの、その先を行っているのが、今の先生じゃないですか」倉「いや、先じゃなくて連続性なんですよね、きっとね」江「ね?」倉「うん…でもね、まさしく僕…いま、さっき言われたことを考えているんだけど…匂いってしてるんですよ…」江「でしょ☆いるからなんですよ」倉「ええ…そう言われると…」江「すみません、失礼なことを申し上げて…その…色んな喧嘩があった…北海道に行った…その喧嘩も、お父さんらしい喧嘩だったと思うんです」倉「ああ、そうですね…そう思います」江「だからまさにお父さんが乗り移ったような喧嘩だったと思う…で、覚えてないのは、お父さん自身がかなり乗っ取って動いていってるから覚えてない☆」国「記憶が無いところはお父さんが乗っ取ってるわけですか、先生を?」江「お父さんになってる、本当にそうです☆」倉「航空運賃、払ったのになあ☆」国「そうですよねえ☆」江「そう…ただ先生、1個だけメッセージがあるから、これだけは許してください…」倉「はい」江「お父さまからです…だから先生、終わりを考えないで下さい」倉「終わりを☆」江「終わりを。ね?先生の中でね、やっぱりどうしても…まあ色々とお体のこともあったりとか、色々とあったからかもしれませんがね…」倉「いや…1本、作品を書くとね…『これが最後だ』って思うんですよ、書いてるその時は…まあまた書き終わったら…別に断筆宣言をしたわけでもないし…あの…また書きたくなったら書くんじゃないですかね…」江「まあ終わりを考えず…まだ奏でていってください」倉「はい☆」江「そちらの方が、お父さまからのメッセージ。『まだ使われるようです』」倉「まだ使われますか☆」昨年のドラマ「風のガーデン」が発表された後「テレビドラマの脚本を書くのはこれが最後」と倉本さんが語ったというニュースが伝えられたそう。中嶋朋子さんのお話「いや…まだまだ色んなものを教わってないので…まだまだ教えてもらわないと☆もったいぶらないで下さい☆っていうのはありますかね…」中井貴一さんのお話「僕は倉本先生に『どんどん脚本を書いてください』ってお願いしてるんですよ。その…『書くのを止めないで下さい、筆を止めるのを』って…その…お客さんがパチっとチャンネルをつけたら、観れるドラマに倉本聰のドラマあるって…『ゆっくりとした時間が流れてゆくものの中に、皆が投影できるようなものを…書き続けてもらいたいな』っていう気持ちが凄く強いですね…」倉「今とっても…あれですね…小学生時代の同窓生と、飲み屋で久しぶりに会ったみたいな感じです☆」国「そんな感覚ですか☆」倉「ええ…酒が欲しいですね☆」国「今日はいいお酒が飲めそうですか☆」倉「はい、これから飲みます☆」(予告テロップとエンディング曲が流れる中)国「一番、いい観客席でお話を聞けたようでした。機会がありましたら、また是非遊びに来てください」倉「はい、ありがとうございます」国「どうもありがとうございました」美「ありがとうございました」【スピリチュアル・メッセージ】☆ 便利の功罪…恥を知る…愛の蓄え…世の中に大切なことを伝える使命があります。終わりを考えないで下さい。【オーラの言葉】☆ 戦前の日本の母親は炊事も洗濯も掃除も ぜんぶ手仕事。何人も子供を産み育て それが当たり前。読んでいただいてありがとうございました。お盆スペシャルの模様は後日アップする予定です。次回の放送は9月19日(土)、「4年半を振り返る名場面集」だそうです。「オーラの泉の日記」
August 20, 2009
北海道に移住したときにも、不思議な経緯があるようです。国「先生、先ほども言いましたけれども、富良野に行ったのも『よく分からない…』みたいなことを…」倉「そうですね、本当に『気がついたらいた』っていう感じですね…北海道に行って、札幌に2、3年いて…その間に北海道中…どこかで永住しようという気を起こして北海道中、見て廻ったんですよ」美「何故、北海道なんですか?」倉「…これがよく分からないですね。NHKと喧嘩したわけですよ、NHKでつるし上げを食って…あの…NHKの西口を出たところまでは覚えているんですよ。それで気がついたら…千歳空港にいたっていう感じですね☆」国「え!?」倉「もうだから飛んでますね、間が」国「それは間で言うと、一日くらいですか?それとも、その日ですか?」倉「いやいや、その日、何時間ですよ」国「えっ?その日に行っちゃってるんですか、もう…」倉「うん、その日に行ってます」国「ええ?…何故、北海道だったんですかね…」美「その…だからトラブったのも、北海道へやる原因だったんだと思うのね」倉「僕もそういう風に思ってます。だから今は、NHKに感謝してます☆『あそこでトラブりがなかったら、後の自分は何だったんだろう?』って。『あのまま東京にいて、やっていたらどうなっていたんだろう?』ってことを考えると、ゾッとしますよね」江「でも先生、その答えは…その前の『ニングル』の作品の中で答えが出てますよね」倉「そうかもしれませんねえ」江「『ニングル』っていう作品(倉本聰 作・演出の舞台 森の妖精『ニングル』が森林を伐採する人間に警告を発する)がありまして…やっぱりあの…森を守るというのと、自然の中には、やっぱり魂が宿っているんですね。それは専門的に自然霊ってよく言うんですけれど、魂…だからやっぱり倉本先生を必要としている神さまがいてね☆」美「そこが面白そう☆」国「必要としている…神さまがいるんですか?」江「うん…後ほど申し上げますが☆」国「なるほど…」倉本さんは2005年に「富良野自然塾」を設立。閉鎖されたゴルフ場に苗を植えて森に戻す活動を始められたのだそうです。国「東京に住んでるときと、北海道に住むようになってからで、自然の大切さっていう気持ちって変わってるんですか?」倉「物凄く変わりました」国「じゃあ、東京にいるときは、そんなことは考えていなかったんですか?」倉「うん…自然は好きでしたけどね、何かこう…漠然と文学的にっていうか、趣味的に好きでしたよね。というのは、やっぱり住んで…今、森の中に住んでますけれども、全然違って見えますね」国「全然違うというのは…」倉「僕、よくカナダの…原住民に非常に親しいのがいるんですけれども、彼らの所で暮らしていると…とっても不思議な気持ちになるんですね。あの…ほとんど無人島で太古の森なんですよ…最初の日はね、僕、実は怖くて眠れなかったんですよ」国「怖いっていうのは…」倉「何かね…圧倒されちゃって…で…一緒に行った人はカナダの女性で、凄く霊感の強い人だったので『聰、夕べ眠れたか?』って言うから『いや僕、怖くて眠れなかった』って言ったら『そうだろう。私のテントの周りは(数十センチの高さを示して)このぐらいの原住民の子がずーっと一晩中歩いてた』って言うんですよ。全く無人島よ?」国「ええ、ええ」倉「そういう意味で、霊的に怖かったんですよ。ところがね、翌日からね、もうスッと憑き物が落ちたようにね、何か…物凄く深く眠れるようになっちゃった」国「怖さも無くなって?」倉「怖さが無くなって。多分ね…あの、受け入れ…一晩テストされたんだと思う。で、二晩目にね、受け入れられたんだっていう気がするの」国「これはどうですか?」江「いやもう、その通りですよね☆何かもう…先生、物凄くスピリチュアルだからね☆もう先に出てしまっているので…あの、先に一つ申し上げると、原住民の話が出たときに…それは元々、先生でもいらっしゃったから、過去に。ネイティブアメリカン…」美「…でいらした前世がおありなの」江「そういう時もあったんですよ」倉「あったでしょうねえ…僕、あんなにね、何かね…あの…故郷っていう感じ…」国「ああ…で、懐かしさみたいなものも感じるんですか?」倉「うん…何とも…」江「だから色んな頼みを受けるんですよ」美「そして最初の質問のときに、倉本先生がね『怖いものはお化け』っておっしゃったでしょう?それは畏れ(おそれ)ですよ。神に対する畏敬の念、畏れ、尊敬の念…だから畏れを知らなくなったのが、野放図で図々しい人間になるんですよ」倉「いや…その通りだと思う…僕、戦前と戦後の日本人の一番の違いってね、あの…戦前はね『自分に恥じないか』とか、それからその…『何かに見られていて、神さまに見られてる』…誰でもいいんですけれども、それは『良心に見られている、良心が見ている』でもいいんだけれども、それに恥じないかっていうことが行動の基準だったのね。ところが、そういう倫理観みたいなものが戦後、修身教育と関係があるのかもしれないけれど、無くなっちゃったでしょう?その代わり、法律っていうもので規制されるようになって、法律の目を潜ればいいっていうので…だからその…自動車のスピードだって『ネズミ捕りやってるよ』って警報装置みたいなのがあって、あれでもって法律を逃れるわけでしょう?だけどその、良心というか、そういう神さまの目っていうのは…あの…『ネズミ捕り防止器』っていうのは無いわけですからね。あの…☆そういうところがね、僕、凄く変わっちゃったなっていう気がしますね、今の子供なんかを見てて」国「単純にどうなんでしょう、そういう言葉が減っていった分、子供たちも『どういう意味?』って訊かなくなったのもありますよね?」倉「もう親の世代が既に変わっちゃってますから…だからいま僕、自然塾でもこの前…4、5、60代の女性の前で…自然塾でお話したの。あの…『子供のために死ねる人は、ちょっと手を挙げてみてください』と言ったの。60数人いたんですよ…手を挙げたのは6人でした」美「ええ!?」倉「びっくりしましたよ」美「一割?」倉「ええ。『子供のためなら死ねる』っていう人があまりにも少なかったっていうことの理由は、要するに愛の蓄え量がね、最近、少ないんじゃないか…つまり栄養が愛を蓄える方へ行かないで何か別の遊びとか、色んな目新しいことにどんどん行っちゃって、愛を蓄える方に行ってないような気が僕はしますね」美「おっしゃる通りですよね…私は原爆の時にね、原爆の後にね、死体が…長崎ですけれど…転がっていてね…大抵、親子のはね、上にこう(覆いかぶさる仕草で)…負ぶさって腹の下に子供を抱え込んで、自分は焼け焦げて死んでも子供だけは助けようとして…みんなこうなって(子供を抱きこむ仕草で)いるんですよ…で、あれが結局、無償の愛でね…」倉「そうですねえ…」美「だから私は、全国ずーっと、歌にしろエッセイにしろ芝居にしろ、それだけをテーマにやって歩いているんですけれどね」江「あの…自分の命を分けて子供は育ってて、分けた自分の分身だから命を引き換えに出来るんですよね。今はセパレートで、自分の命は全く横着してて、で、育っているから死ぬ気になれないんではないかと…ヨイトマケのお母さんも…だって命を分けていますもんね」美「そうよ。だから私ね、全国ね、辻説法して廻っている時にね…『何ゴタゴタ寝言いってやがんだ、洗濯が大変だ、家事が大変だ…寝言いってんじゃないよ』って私、言ってるんですよね。昔はね、10人産んだら勲章をやるといってね、弾除けの兵隊を産ませるために一家で8人、9人、10人育てて…しかもね、ご飯を炊くのだって薪から焚いてね、釜戸のそばを離れないで…それで全部、手でやって…その間に洗濯も手洗いで寒空の冬の凍るような手でね、家族の分、全部手洗いで、もちろん洗濯板でやって…さあ掃除となったらね、今度はみんな拭き掃除でね、はたきでやって、掃いて…みんな手仕事で…それで子供の教育もして勉強もみて…『ええ?どうやって時間をやり繰りして、千手観音じゃあるまいし…』ところがね、あの頃の記憶を辿るとね、事も無げに当たり前のように皆さん、やっていらっしゃったのね…」倉「そうですよね」美「お母さん方…」江「だから先生がおっしゃる…『便利』っていう言葉が諸悪の根元のように思うんですよ」美「それなの。便利になると本当に先生がおっしゃるように、怠け者になる。で、怠け者が怠けてるくせにね、『それも大変だ』って言うの。『それ以上に大変だ』って…そういうことを言うんですよ」続きます。「オーラの泉の日記」
August 19, 2009
全582件 (582件中 1-50件目)