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ここ10日間ほど家の中のフローリングが湿気で歩くと足の裏にへばりつくような嫌な感覚、それだけではない5年ほど被っているパナマ帽、5年も被るとパナマが汗を吸っていて、染込んでしまっている、乾燥している時にはなんともないのだが、これだけ湿気が多いと濡れたように変色していた、それが昨日あたりからフローリングの床も乾き、パナマの帽子も陰干しすると乾きだしてきた、暴れ梅雨もどうやら終焉で、祇園祭の山鉾の巡行に合わせたように梅雨明け、今朝は休みの日に珍しく早起き、午前9時頃の四条堺町の籤改めで祇園祭の見物に出かける、さすがに今日の天気と土曜日という事もあって、午前8時30分頃に阪急西院駅から阪急電車に乗って烏丸まで、ついた電車は満員で、ドアーが開くと数人が車外にはじき出されてくる、通勤の時にはこれだけ満員の電車ならパスするところだが、駅前のコンビニで黒酢にんにくを飲んで気合を入れているだけあって、斜め横を向きながら、グイッと入り込む、右足は床についているが、左足は浮いたママの不自然な姿勢、やがて電車が走り出すと、左足を床に下ろすスペースが出来て、ようやく自然な姿勢。 烏丸駅につくと、ごっそりと電車から吐き出されるように降りる人、人、人、去年は河原町で辻回しを見ている、その時に比べると人出はかなり多く、大丸横のエスカレーターはまだ動いていない、階段を昇っていく、地上へ出ても凄い人出の予想は付く、普段は滅多に歩かない地下を東へ向かい、堺町の出口の階段を登る、地上に出ると紅白の幕が張られている、丁度、籤改めの真後ろ、東へいこうか西へいこうかと迷いながらも西へでる事に、来賓席の横に一般の有料席が設けられており、紅白の幕が切れたところはかなり西の方、信号を渡って四条通の南側の方が良さそうと思いそこへ向かうが、もうそこは5、6重の人垣、もう少し人の少ないところを求めて東へ向かう、ようやく3重くらいの人垣の場所へ、午前8時50分、先頭の長刀鉾が来るまでまだ後、約10分余り、柳の馬場通を綾小路まで下がって、ここへ来ると路上喫煙禁止区域外、暫くタバコ吸えないので、ユックリとタバコを一服、ジャーに入れた冷えたお茶を飲んで、そして四条通へ戻る、カメラを構えてズームを一杯、シャッター優先で500分の1、天気が良いから絞りも充分絞れる、右手カメラを持ち上げる、液晶モニターが360度回転出来る、こういう姿勢でもモニターが見られる、これは精神衛生上良い事だ、手前の人のはげ頭もよけることが出来る、後は携帯電話だけ、携帯電話で写している人を少しよけて、これで準備完了、長刀鉾が大丸の前を通り過ぎてくる、いよいよ、その時に、籤改めの少し東のところへ、報道の腕章をつけた、脚立持参のカメラマンが四条通の端から端まで横一列に並んでカメラを構える、報道の腕章をつければ何でも許されるのか、7月5日の日、長刀鉾の吉符入り、それが済んでから長刀鉾の会所の2階で、お稚児さんが始めて人前での稚児舞の披露、午後3時半から、オレは午後の3時頃からそこの前でスタンバイ、通りがかりの人も、「何があるのですか?」、説明をすると、立ち止まってにわかカメラマン、人がどんどん増えてくる、始まる少し前に報道の腕章をつけて、脚立を持ったカメラマン、オレの前の人は場所を譲る、オレは場所を譲らない、するとオレの前で脚立を立てて、脚立の上に乗ってカメラを2階に向ける、オレのカメラには汗ばんだ彼の背中だけしか写らない。 そこで彼の背中をこんこん、脚立の上からなんだという顔つき、「報道の腕章をつけているから報道関係の人でしょう、という事は一応プロでしょう」、声を出さずに頷く、「最近は素人のカメラマンのマナーも悪いが、報道関係のカメラマンも、良い場所で写すのは当然という思い上がりがないですか、こういう写真は報道というよりも観光写真でしょう、30分以上も前から来て待っている人の前で、挨拶無しに脚立を立てる、それはないでしょう、後ろの車道は開いていますよ」、周りの素人カメラマンも、「そうだ、そうだ、どこの新聞社や」、という事になって、「すみませんでした」、脚立をたたんで、車道へ出てそこでまた脚立を立て直す、そういう事があった後だけに、いくらなんでも横着過ぎる、そう思っていたところ、何時間も前から席取をして、三脚をたてて待ち構えていた人辺りから、「こら報道陣、邪魔やァ、どけェ~」、暫く怒声が飛び交っていた、報道陣がたとえ1時間でも、30分でも前から、良い場所でスタンバイしているのなら、彼らも仕事と大目に見るが、ギリギリにやってきて、人の邪魔になるのも平気で一番良い場所で撮影、これには思いを同じくする人も多いことだと思う。 暑くて、タバコも吸えない、3分の1ほど観終わって、阪急電車に乗るために、西へ向かう、これは極少数派、東へ向かう人が殆んどで、先頭の長刀鉾は河原町通で辻回しを終えて、北へ向かっている時刻、この人たちは人の多い四条通を東へ行き、河原町通を北へ追いかけるつもりだろうか、オレならこの時刻なら迂回して河原町御池に先回りをするだろう、山鉾巡行の見物、時刻も関係無しに、兎に角、四条烏丸へ、そういう観光の人が随分と多かった、ご苦労さん。■「今日の言葉」■ 「 素直に聴く心がないと人は 本当のことを言ってくれない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 17, 2010
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「子供好きか?」、ときかれると、嫌いではないが、どちらかといえば好きなほうではない、若い女性のほうがもっと好きな困ったジジイである、今年の4月から幼稚園に通いだした一番年下の孫、息子のところに男の孫2人、娘のところに男の孫2人、普通に考えるともう孫は終わり、曾孫の誕生となる最低後20年、少なくとも後10年は予定にはあるが、20年は予定にない、だから一番年下の孫がまだ乳臭い頃に、もう乳幼児を抱くのは最後かも知れないと思っていたところ、オレの魂胆を知っていたのかどうかは知らないが、1歳を過ぎた頃から人見知り、2歳を済んでも特にオレだけを人見知り、家へ遊びにきてもオレの顔を見ると固まってしまう、2歳から3歳までの間に、2メートルから1メートルにまで、接近可能範囲を縮めていき、3歳の誕生日が過ぎて漸くオレの顔を見ても泣かなくなった、ところが最近では寝起きで機嫌の悪い時に来ると、「ゆうちゃん、こんにちは」、と声をかけると、「うるさい、だまれ」、と生意気な口を聞くようになってきた、自分の孫でこうである、他所の子供の相手になることなどは絶対にない、そのくせこと若い女性となるとすぐにお近づきになりたがる、困ったものだ。 仕事場のマンション裏出口を出ると鴨川河川敷公園、犬の散歩が多いのだが、丸太町の橋と二条の橋の丁度中間、近くの人はマンションの北側に接する会員制ホテルの南端、ここの通路から鴨川の河川敷公園へ通り抜けができる、散歩コースのショートカットをする人が多い、オレも昔は家の近くでマルをつれていると挨拶をされるのだが、1人の時には挨拶をされ無い事があった、それと同じで1人のときには見たことのある人だなァ、ところが犬を連れての散歩の時には、「こんにちは」、と挨拶する人が何人かいる、そのうちの1人で、ブラウンのトイプードルを飼っている人、オレがマンション周りの掃除をしていると、鴨川河川敷公園での散歩を終えて、会員制ホテルの南側の通路を、トイプードルを脇に抱えて通り抜け、道におろして歩きかけるが、道路に座り込んで動かない、「さあ、早く帰ろう」、と声をかけられても動こうとしない、トイプードルはオレの顔をジッと見ている、すると女性の飼い主が、「お仕事中ですが、犬を飼ってられますか?、犬好きですか?」、「猫はダメですが、犬は好きです、この約40年間ほどで3匹ほど飼っていました、最後のが死んで大分になりますので、匂いは残っていないと思いますが」、「うちのこの子は、犬好きな人を見ると、こうして、私に話をしろといいますの」。 「もう飼われないのですか」、「ペットロスではないのですが、5歳くらいでうちにやってきて、約10年間ほど、自分の居場所と人間の居場所をきっちりとわきまえて生活、夏は犬のためにクーラーを30分おきにオン、オフ、自分の食器以外では飲み食いをせずに、家の中にはトイレをおかずに、朝晩の散歩の時にオシッコとウンコの全てを済まし、最期がやっぱりねェ」、「老衰ですか?」、「心臓が悪くなって、肺水腫で、肺に水がたまりだしてきて、呼吸が苦しくなって、病院の酸素室に入ると楽になるのだが、利尿剤を打って、すぐにオシッコが大量に出て、そのままの酸素室で朝まで一人ぼっち、朝になると元気を回復、しかしそれの半日の間だけ、次第に息苦しくなり出す、しかし二度と酸素室に入院する事はなかった、毎日朝から晩まで背中と胸と喉をさするだけ、入院するか、このまま家にいるほうがいいか、頼むからこの返事だけをしてくれと思いながら、右手の手のひらに毛の感触、背骨、肋骨、喉、その感触が今でも残っていて、また飼おうという気持ちになれないです」、「それだけ可愛がられて、幸せだったのですね」、「両方がね」、飼い主さんがトイプードルに向かって、「さあ、もういいでしょう」、水入れに水を入れてもらい、美味しそうにペロペロと水を飲み、立ち上がって、ぜんまい人形のような歩き方でかえっていった、「しまった、名前を聞くのを忘れていた」、勿論、トイプードルの。■「今日の言葉」■ 「 自分の立場を見極めることで 今何をなすべきかはっきり見える 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 16, 2010
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祇園祭は女人禁制の祭りである、しかし、江戸時代の祇園祭の山鉾巡行の古い絵巻物などによると巡行する鉾の上えに女性の姿が見られれる、現在では長刀鉾のお稚児さん、13日の日のお位いもらいの後、17日の巡行がすんで、お位を返すまで、食事を始め、身の回りの世話全てを男性が行い、長刀鉾以外には女性も鉾の上に登る事は出来るが、17日の巡行の当日は鉾に乗ることも、曳き手として参加する事は出来ない、女性や子供が曳き手として参加できるのは曳き初めの時である、各山鉾町における女性は粽つくりなど、様々な仕事はあるが、表立った事は一切せずに、完全な裏方に徹するわけである。 祇園祭は町衆が営々と受け継いできた祭りで、基本的に資金と人出はその各山鉾町で分担、時代の移り変わりと共にその町内に住む人が減少、鉾の巡行となると囃し方の人が約30名ほど乗り込む、この人数が足りなくなって、やむなく子供の頃からその町内で育った女性が17日の巡行の日に鉾に囃し方として乗り込む、髪の毛は短く、化粧もせずに、アクセサリーもつけず、遠目からは女性分からないようにして乗り込む、狭い鉾の上に約30人ほど、物凄い暑さ、一旦鉾に乗り込むと約7時間ほどの間は鉾の上、問題はトイレ、男性はバケツで済ませるようだが、女性はそういうわけにも行かず、女性が鉾に乗り込むのはそれ相応の覚悟のようなものが居る、「最近あの鉾に女性が乗っている」、「町内の人が少ないから、しょうがない」、と言う事ですんでいたが、以前この事が問題になった事がある、平安遷都1、200年の記念行事が行われていた頃、この行事の中心的な人物、発言力のある若手財界人、「幾つかの鉾に17日の巡行の日に、女性が囃し方として鉾の上に乗って巡行している鉾がある」、と発言、これを受けて各山鉾町が、巡行の日に女性の囃し方が鉾に乗ることの是非が問われる事となった。 また平成女鉾が作られて、17日の巡行の日にこの鉾の参加云々で紛糾した事があった、この時に出された結論が、建前は巡行の日に女性を鉾に乗せないという事になっているが、住人の少ない鉾町ではそういうわけにもいかず、ここで結論を出す事は、鉾町の分裂を招きかねない、現状の女性が囃し方として乗り込む時には、華美にならずに、節度を持って乗り込むことには黙認し、後の世に、100年ほど後に、もし、その時にもこの事が問題視されるようなら、その時の人達の判断にゆだねようではないか、実に京都らしいか結論が出された、そしてこの問題を提起した、リーダー格の人が財界を去ることとなった、するとこの問題も下火となった、直ぐに滅論を出そうとしない京都独特のやり方、オレは好きではないのだが、この時の結論、「今すぐに結論を出さんと、100年後の人に判断してもろうたらよろしいですやん」、それがほんまモンやったら、確実に京都ではいつの間にか認められて変わる、1.000年余り続けられてきた祇園祭、その伝統に裏打ちされた山鉾連合会の自信のようなものがうかがわれる。■「今日の言葉」■ 「 国があってこそ個人の生活 である国の恩恵に感謝しよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 15, 2010
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今日は休み、仕事のシフト上、今日の休みは昼間、鉾建ても終わり、曳き初めも終わり、祇園祭の写真を撮りに出かける予定だったが、昨日も時間によって土砂降りの雨、夜中からは断続的に激しい雨、根が横着なものだから雨降りの日にカメラを持ち出すと、後の手入れが大変なために天気の悪い日には、よほどの事がない限り写真を撮りに出かけることはない、という事で祇園祭に出かけるのは中止、テレビのニュースで九州、中国地方の豪雨による河川の増水、そして京都の鴨川の風景も、鴨川の河川敷、西岸、鴨川の流れ、遊歩道、その西の端に小さな人工的な川、丸太町の橋から100メートルほど下流から始まっていて、この川の始まるあたりの草むらに、地域の人たちの努力で蛍が戻ってきて、夏の始まりの頃に、蛍を見ることができる禊川、二条大橋から五条大橋の間に鴨川の西岸に隣接する、飲食店、約100軒ほどが、この川にせり出して、現在では、5月1日から9月30日まで鴨川納涼床が出されている、鴨川が増水して、遊歩道が水没、鴨川と禊川が一つの川のようになっていた。 オレが今勤めているマンション、鴨川の西岸、丸太町橋より70メートルほど下流に立つ、建築の時に大文字山に近く、高さ制限によって、当初は6階建ての予定であったが、1階部分を掘り下げることによって7階建の建物を建てる事が可能という事で、7階建のマンションとして完成、裏出口を出ると直ぐに鴨川河川敷公園、住むロケーションとしては申し分ないのだが、住人さんから鴨川は大丈夫かと聞かれることがある、無責任に大丈夫ですと言えば良いところなのだが、大丈夫ですとは言った事がない、この川の源流がそう遠くない場所で、直ぐに市街地を流れる川であること、それと古く平安時代以前に優れた土木技術を持っていた帰化人の秦氏によって、鴨川と高野川の流れを強引に変えて、出町で合流させた川であること、後白河法皇をして、思いのままにならぬもの鴨の流れと賽の目と比叡の山法師、と嘆かせた鴨の流れである、度重なる大雨で氾濫して、何度もその流れを大きく変えて、現在の鴨川流れに落ち着き、大掛かりな河川の改修工事が行われて、京都の地は災害の少ない地であり、よほどの大雨が降らない限り、そのよほどの大雨が降らないからという条件付で大丈夫なのである、ストレートに大丈夫ですといわない、実に嫌な管理人でもある。 鴨川の納涼床、京都の蒸し暑い夏を少しでも涼しく過ごそうと言う庶民の知恵である、江戸時代に現在のような床でなく、河原の浅瀬に床几をおいて、足を川の水につけて涼をとりながら飲食するという形であり、鴨川の両岸にこのように床几を出す店が増え、一方で鴨川の護岸工事も行われ、鴨川の浅瀬が無くなり、流れも早くなり、夏場に河原に床几を出す事が出来なくなり、禊川も作られて、西岸に隣接する飲食店がこの禊川に納涼床が出されるようになった、この床に関しては建築の基準が無く、豪華な床や店の増築部分のような常設の床などが作られ、景観上の問題などが起きていた、ただ昭和9年の室戸台風のとき、そして翌年の昭和10年の大雨の際には、この鴨川の納涼床が増水のために全て流され、固定式の常設の床の店は店本体にまで大きな被害を受ける事になり、床開きの前に納涼床を作り、床終いの後に床を撤去する、簡易型の納涼床となった、この鴨川の納涼床は夜間の営業が主で、食中毒の防止のために、5月、9月のみ昼間の営業が認められている、またけばけばしい色や、中国風やフランス風などの、京都の鴨川の景観にそぐわないような納涼床は禁止されている。 まだ6月1日が床開きだった頃に、同業のクレープ屋がこの日の午後3時頃に毎年電話がかかってきた、「今日は何の日や?」、わざととぼけて、「さあ、なんの日や、知らん」、「それでも京都人かいな、今日は床開きやないか、6時頃に、『いの一番で』、で」、二条の橋の直ぐ下流の、鴨川の納涼床の、「いの一番」、の床で待ち合わせ、ただ納涼床といっても、貴船あたりだと8月の真夏でも温度が随分と違い、初めにビールを飲んだ後、肌寒さで熱燗にしようかという事になるが、街中の鴨川である、自動車の廃棄ガス、クーラーの室外機の温風、余り涼しくない、その上に河原での花火の煙、「突き出しと、刺身くらいは床で、その後は部屋に入る、冷房をガンガンきかしといて」、という事になる、この同業の彼、20年ほど前に東京へ出て行き新事業、半年あまりでその事業に行きつまり、電話がかかってきて、「なんぼでもええさかいに、これか言う口座にお金を振り込んで欲しい」、これが最後の電話で、以来、行方が知れない、しかし鴨川の納涼床を見るたびに彼の事を思い出す。■「今日の言葉」■ 「 きちんとした躾が土台となって 子供の個性が輝いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 14, 2010
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パイプタバコ、普通の紙巻タバコの葉っぱよりも粗い目の葉っぱ、そんな中でネービーカットと呼ばれる葉っぱがある、薄い板状になっていて、パイプのバウルに詰め込む時にはきれいにほぐれる、くっついたタバコの葉を何枚か重ねて、スライスした状態で、タバコの葉を何枚かに束ねて船の帆にぶら下げて、乾燥させて、潮風によって発酵させたパイプタバコの葉っぱ、アンポーラー・ボルクムリーフ、これらの銘柄は甘い香りがするが、辛口の、タバコそのものの香り、パイプタバコの初心者には少々きついタバコ、タバコの葉を潮風に当てて乾燥と発酵、タバコの葉っぱと海の関係、京都生まれの京都育ち、海には縁がない、だから海の傍へ行くと、思いっきり深呼吸をして、海の空気を吸い、潮の匂いをかぐ、そしてタバコに火をつけて、普段よりもユックリと、深く煙を吸い込む、格別に旨いタバコ。 映画などで夜の波止場の男には夜霧とタバコの煙、連絡船のデッキ、出て行くときも、帰ってきたときもタバコ、夏の浜辺で物思いにふけるときもタバコ、アラン・ドロンの、「太陽が一杯」、の映画でヨットの舵を握るシーン、金持ちの友達のモーリス・ロネを殺して、銀行からお金を引き出すために彼のサインを真似る練習の時も咥えタバコ、波止場でハンフリー・ボガードもジャン・ギャバンも石原裕次郎もタバコを咥えていた、鮎の塩焼きに蓼酢、鰻の蒲焼に山椒、鱧の落としに梅肉、鴨肉にはオレンジソース、このような出会い物と同じで海にはタバコ、にも拘らず神奈川県知事が県内の海水浴場の全面禁煙、これなどは完全に意味不明、趣旨不明の条例、タバコは悪、喫煙は悪、これを前提とした条例で、これで海水浴場にタバコの吸殻がなくなり、浜がきれいになる、タバコの吸殻のポイ捨てはマナーの問題である、マナー問題をルールの問題にするのは勘違いである、マナーの問題はマナーの向上のキャンペーンをすれば良い事であって、海水浴場を全面禁煙したところでゴミは減らない、吸殻のポイ捨てよりもゴミのポイ捨ての量のほうがはるかに膨大で、海水浴場の浜を汚している、この知事は将来に於いて海水浴場の浜を守るために、海水浴場の全面立ち入り禁止、ということをしかねない、知事本人はいかにも正義感のつもりで居るのだが、ファッシストのように感じる。 第22回参議院選挙は民主党の惨敗という結果が出た、菅首相の選挙直近になっての消費税増税発言、これが敗因のように言われているが、消費税増税発言を受けてそれが選挙の争点になった、もしこれがなければ確実に小沢一郎元幹事長と鳩山由紀夫元首相のお金の問題、「政治とお金」、これが争点になっていたことだろう、もしこれが争点になっていれば、民主党は30議席にも届かないほどの敗北を喫していた事が予想される、民主党大敗の敗因は2人のお金にまつわる問題であり、これ以外は考えられない、ただいや待てよ、秋のタバコの値上げ問題、その値上げでもまだ安いとの意見の持ち主も多く、公共の場所での全面禁煙の義務付け、現在のタバコの健康被害の医学的データー、タバコは健康にとっては害である、この結論を裏付けるために、その結論にとって都合のいいデーターばかりを集めて作成され、受動喫煙の健康被害に至ってはもっと根拠のないデーター、マウスを狭い箱に押し込めて、タバコの煙攻めにして、約4週間ほどで殺す事が出来た、このデーターがタバコの受動喫煙による健康被害の根拠となるデーター、この怪しげなデーターに基づいての政策、人に優しい、友愛の精神と言いながら、喫煙者にはそうではない、自民党時代よりも民主党政権になってからのほうが喫煙者に対して厳しい、これが露骨である、如何に減少したとはいえ、喫煙者人口は約40パーセントで、約4、000万人余、その大部分が有権者、個人の嗜好の問題に国や政府がとやくかく、口を挟む、この事に対する喫煙者の民主党への意思表示が敗因と考えられなくもない、民主党にだけではない、神奈川県知事にも、甘く見るなよ喫煙者を!。■「今日の言葉」■ 「 周りの働きに気付いたとき 自分の働きは一層生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 13, 2010
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15年ほど前、当時は見回りか、タイムカードを押しに行くかのように、夜な夜な祇園に出没、新門前の浮世絵画廊のオーナーと、お互いに目をつぶってでも行きたい店へ行く事ができるにも拘らず、道案内(同伴出勤の相手)をつれて、とはいうものの年に数度は彼の店で落ち合うと、「連れは?」、「いや~、今日はオレ1人」、「俺も相手なし」、ということで男2人で飲みに行く前に蕎麦屋で腹ごしらえ、花見小路を見下ろせる2階の窓際の席で、鰻の佃煮や精進揚げを肴に、ビールと蕎麦焼酎の蕎麦湯わりを飲んでいると、黒の余り掃除をしていない薄汚れたシーマ、その車の助手席から、テンセルのジャケットを品悪く着こなしたパンチパーマのお兄さんが、右手にカードの束のようなもの持って降りてきてビルに入り、10分も経たない内のそのビルから出てきて、隣のビルへ、何軒かのビルをはしごするように入って行き、すぐに出てきてその隣のビルへ、暫くすると車は数10メートル移動、連れに、「あいつ等は何を?」、「日掛け金融の取立てや、どこの飲み屋も苦しいノンや」、「どこも大変ナンヤね」、「店の賃貸の更新、内装換え、女の子の給料の遅配、勤めている間は待ってくれるけど、辞めていく子には給料の生産、酒屋の支払い、大会社のサラリ-マンでも、ツケがたまっているところにリストラ、挙句の果てに貸し倒れ、そこで簡単に借りられる日がけ金融に手をつける」、「日掛け金融って?」、「例えば100万円借りたとする、毎日1万円ずつの返済で、120日に渡って、120万円返済するんや、あいつらはその集金係りなんや」、「右手に持っていたカードの束は、掛取り帳なんかァ」。 飲み屋さんの店というのは、勤めている女の子が店を変わる、「今度ここに勤める事になりました、ぜひ一度ご一緒に」、とお誘いを受ける、そしてその店に行く、そこでその店でママが、「うちの店の一番若いニューフェースを紹介します」、ぽちゃぽちゃとした笑顔の愛くるしい、沖縄出身か?、いやポリネシア出身かと思わせる顔立ち、彼女が席に座ると、席がパーッと明るくなる、行けば必ずその女の子が席に着く、2年後くらいに、ママがこの商売もボチボチ定年、旦那とうどんやかお茶漬け屋でも、折角この店にエエお客さんがついていることやし、1年ほど先にあの子にこの店をやらそうと思うノンやけど、応援を頼みます、お酒を飲んでいる席でこういう話、「わかった、任しとき」、ぽんと胸を叩く、ところが間も無く突然その店が閉店、聞くところによると、その店でバーテンをしていた旦那が大の麻雀好き、借金がたまったところで、一発逆転を狙って、高いレートで大勝負、それにも負けてついに、夜逃げ、という事だった、「そうか、最後に行った時の帰りに、新しいボトルをおろしたのに」。 その店の噂話が途絶えかけた頃に、底抜けに明るい声で、「今日の夜にオープンする店に勤めるようになったので、顔立てに同伴お願いします」、いかにもバブリーなビルという雰囲気で、1階がぴかぴかに大理石の床で、吹き抜けの天井にはセザンヌ風の天井画、そのビルの4階の白を基調にした豪華な店、真ん中に白いグランドピアノ、その上に大きな花瓶に盛られた生花、30分おきに楽譜を抱えたピアノのオネーさん、お酒が飲めないらしく、お客さんからソフトドリンク、ボーイがピアノの傍へ持っていくと、そのお客さんに向かって軽く会釈、余り若くはないが落ち着いたいい女、暫くしてお客さんと同伴してきたママが、小柄だが着物を粋に着こなした、黙っていれば中々のママ、この店のどっぷりと2年ほど通う事に、1周年を向かえる頃まではそこそこお客さんは入っていたのだが、その後はお客さんが極端に落ち込み、専業のホステスがまず辞めて、殆どがアルバイトのホステス、ピアノのオネーさんも、2軒を掛け持ちをしていたのだが、その1軒が週末のみ、すると平日はピアノのオネーさん30分の演奏が終わると、30分間は行くところがない、つい気楽なお客さんの席で時間つぶし、しかし、こんな事は長続きをせずにその店でもピアノが演奏される事はなくなり、2周年を前にして、店が移転、その前にママが、「店の場所を変えて、心機一転、次の店もご贔屓によろしく」、お酒の席だからついつい、「ヨッシャ、わかった」、という事になって、次の店の客になる事に。 その新しい店に時折前の店の女の子が閉店前に来る事があり、離れた席で何やら込み入った話、給料の未払いがあった様子、そして間も無くして早い時間にこの店へ行くと、例の日掛け金融の取立て屋が店へ、早い時間に行くといつも、「ママ、日掛け金融から借金してるの?」、お客さんが誰もいない時間だから、「前の店をたたむ時に、借金が残って」、「前の店の女の子の給料の未払いも?」、「祇園は狭いさかいに、すぐに噂が広がるでェ」、「何ケ所からの日掛けを借りてるんや、ここが1本に纏めたらという話があるのやけど」、チラシを持ってきた、日掛けではないが、金利がべらぼうに高い、「この店は日掛け金融の親玉やでェ、ここで纏めたら最後、ケツの毛までむしられるで、風俗で稼ぐにしては年齢が」、この頃には不幸にして少々のお金なら工面が出来た、行く度にママが、いつも、「もう少し待ってね」、こうなると店に遊びに行っても面白くない、足が遠のく、暫くして、また店の引越し、3年間の間にクラブからラウンジに、そしてカウンターだけのスナックに、そうこうしている内にオレの方が祇園に足を踏み入れなくなった、たまにカメラ持参で、花見小路の飲み屋街を通り抜ける事がある、見覚えのあるビルの入り口に、管理地、管理ビルの看板がぶら下がっている、そしておニィーさんが日掛けの集金のためにビルに入っていくのとすれ違う。■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきり持っていないと 努力は喜びでなく苦痛となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 12, 2010
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第22回参議院選挙投票日、午後から雨がやむだろう、淡い期待も虚しく、時折、雨が激しく降る中を中学校の投票所へ、選挙の前に町内へ、町内の受付する人の推薦依頼がくる、最近は50歳以下の女性の推薦を依頼、投票時間も長くなっており、午前7時から午後の8時までの13時間、日当は支給されるのだが、この年齢に納まる人の推薦が難しく、オレなどは2年間町会長とはいうものの、こういう事を頼める人は残念ながら同じ町内には誰もいない、投票日に混む時間帯はほんの僅かな時間、この時間帯に長い行列が出来る事がある、これは年齢制限をすれば、若い人のほうがてきぱきと処理できるであろうと言う考えから、年齢制限が設けられたようである、この事が良いのかどうかは別にして、体育館の入り口に机を並べて、先に郵送されてきている投票券を自分の住んでいる町内のところで、選挙人名簿と照合、克っては生年月日によって本人照合がなされていたのだが、行き過ぎた個人情報保護の観点から、年齢が知られるという事で、誕生日の月日だけで本人確認がなされるようになっている、それが分っていても、あえて生年月日を告げることにしている。 「国会議員の仕事は」、「法律の立案、作成」、「いや違う、次の選挙に確実に当選するための準備をする事が仕事である」、これは克ってはジョークであったのだが、現在ではジョークではなく真実である、特に先の衆議院選挙と今回の参議院選挙の前は顕著であり、国会議員が国会議員の仕事をすることなく、次の選挙の事を考えて、まさに血道をあげているといった印象が強く、議員定数の大幅削減、議員報酬の大幅削減、等々、能力があって、本気で国政をになえる人物だけが国会議員になれば良い、天気のセイで投票率が低い事は予測されるが、これだけ多くの参議院議員を選びたくない選挙に対する意思表示の表れと、国会議員は理解されたい、選挙の投票は国民が政治に参加する事の唯一の方法と言うが、選びたい政党が無く、選びたい候補者が無く、この現状を一番理解ができていないのは国会議員本人である、今回の参議院選挙の争点は消費税率アップが争点になっているが、各党の代表がテレビに登場すると言葉は過激であるが、中身が全く無く、中身がないだけの言葉を歌劇にせざるをえない、真剣でないだけに、真剣さの演技、しかもその演技が余りにも下手すぎて、選挙の棄権の呼びかけのキャンペーン合戦の様相を呈している。 と書いているうちに投票が締め切り、テレビ各局がこぞって選挙開票速報番組、そちらが気になるので、ここらでテレビの前に、有権者になって以来、約48年、国政選挙、地方選挙の棄権は一度も無い。■「今日の言葉」■ 「 人への不満が生じている時こそ 自分を省みる時である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 11, 2010
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15年ほど前にベトナムへ行った時に、夜の遊びのナニにだが、需要はある、供給もある、ところが時期が悪かったのか、ベトナム戦争終結20周年の少し前、カラオケボックスで無事にペアリング完了、そして向かった先は、塀があって門のある大きなお屋敷、女主が出てきて、「20周年行事が住むまで営業休んでいる、警察がうるさくって」、けんもほろろに追い返される、そこで極怪しげなビルの一室で、事を成就、折角、重要もあり、供給もありながら、空間レンタル業なるものが未発達な国、その後この地を訪れた事無く、この空間レンタル業が発達したかどうかは定かではない、京都の東山に縁切り碑で有名な安井神社がある、この北側にそれぞれの規模は小さいがラブホテル街がある、江戸時代には月見の名所の閑静な場所であり、その北側にある祇園町が栄え、お座敷に祇園町の舞妓・芸妓を呼ぶと高くつく、少しでも安く遊びたいのは世の常で、お座敷にやってきてお酌もし、歌舞音曲もし、そしてその後に痒いところに手の届くサービス、「やとな」、が出現し、このやとな、大阪にもあるが、大阪は専らお座敷でのサービスのみで、京都のやとなは趣が違う、安くて、サービスがよく、素人っぽくて、若くて、きれい、こうなると人気が出て、人数も増えて祇園町を脅かすほどの勢いで、こうなるとお座敷の後でお客さんとやとなが行く場所が必要となってきて、この安井界隈にそういう場所が出来て、当初は懇意なお客さんだけ、余り大きな建物は必要でなかった、こうして出来た空間レンタル業街、このような特定のお客さんだけではなく、一見の飛び込みのお客さんも利用できるようにして、温泉マーク、逆さグラゲ、といわれる旅館街となり、建替え、新築などによりラブホテル街へと変化、このラブホテルも大きな、設備の豪華なものが好まれ、また利用する人も車に乗ったままで中に入れる、インターチェンジ近辺が好まれて、巨大ラブホテル街が形成された、それぞれが小さくて、部屋の狭い、部屋のつくりのしょぼい、安井ホテル街は一時期、時代から取り残された、ところが風俗業界は風俗のコンビニともいえるファッションヘルスが大流行、店舗を構えるハコヘルと、店舗を構えずに事務所だけの無店舗風俗、ホテヘルが出現、このホテル街の近くの事務所でお見合いをして、何軒かのホテルと専属契約をして、2人で事務所からそこのホテルの部屋へ行くという段取りで、安井のホテル街のお客さんはホテヘルのお客さんに移っている。 とここまでは安井のホテルの前ぶりで、どうもこういう話の前振りとなると長くなってしまうが、ここで遊ぶ時制限時間の15分前くらいにキッチンタイマーをセット、タイマーがなると帰り支度に慌ててしまう、怖いのは忘れ物、身に付けているものはテーブルの1ケ所にまとめておく、腕時計、両手首のラクワリストバンド、黒と赤のラクワネックレス、はずしはしないのだが左手の薬指と小指のプラチナの指、「おニィーさんって、アクセサリー好き?」、「アクセサリーというよりも、効いてるのかどうかわからんけど、お守りみたいなモンや」、「2つの指輪は?」、「これはエンゲージリング?」、「2つとも」、「そう」、「奥さんが指輪を置いて逃げはったん?」、「でもないのやけど」、10数年前にお袋が死んだ時に、お袋の形見は全て女性に、オレには何もない、オレには4つ年下の妹がいて、オレは乳離れが遅く、妹とお袋のおっぱいの取り合いをしていて、お袋の乳首に唐辛子を塗ったり、墨で怖い顔を書いたりして、オレが漸く乳離れ、おっぱい好きはこの頃の名残、咽頭部の癌でコバルト照射治療を5度、そのセイで胸部はやけどしたようになっていて、最後にそれを見た時に、無性に悲しくて、悲しくて、どうにも止まらないほど涙が、泣いている途中にお袋の薬指に結婚指輪をぬいて、そのお袋の指輪を小指にはめていた、その何年か後にヨメが指輪がきつくなった、「はずしてもいい」、「だったらお袋の指輪をはめてみる?」、「これなら丁度いいわ」、という事でオレの結婚式の時のエンゲージリンクを2つともオレがはめている。 エンゲージリンクも約40年経つと、薬指にはめているオレのほうは指輪の周りの飾りが残っているが、小指にはめているヨメのほうはその飾りが殆ど消えていて、傷がついたぐらいになっている、「何もしてへんようやけど、家事をするのはすごいんやねェ」、「くたびれているのは指輪だけと違うよ、これでも昔は可愛いといわれていたのに」、「あほう、10年間も貧乏してたら、貧乏はするモンとちごうて、味わうモンやという事ぐいわからんのか」、「どう違うノン」、「貧乏をすると我慢や辛抱がついてまわる、それが顔の表情に表れる、きれいになるわけはない、そうやけど貧乏を味わうと、やせ我慢をするようになる、我慢とやせ我慢は大違い、見栄っ張りとやせ我慢の区別が出来ないようでは大人ではない、自ら、能動的、すすんでするのがやせ我慢、やせ我慢も続ければそれが普通になる、そのやせ我慢が顔に良い方にでる、貧乏やけど暮らしと表情と生き方に余裕というモンがでる、わかったか」。 ■「今日の言葉」■ 「 親の恩に気付いた時から 新たな人生が開けてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 10, 2010
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2001年の始め頃に、リビング誌に西院に仕事でやってくる若い人が中心となって、第1回西院MUSIC FESTIVALを開催の予定という記事を見る、当時、今と変わりないほど開けていた、この地に住む人、この地に住んで商いをする人、仕事のためにこの地にやってくる人、この地を通過地点として利用する人、その人数たるや物凄い量である、しかしその人達が一つになるといえば、秋の西院春日神社の秋季祭ぐらいであり、これは古くまだ西院村の時代からの行事であり、終戦後、または平成の時代になってもこういう動きがなく、またオレのように長年住むものにとってはこの街はこういうことの出来ない街という既成概念を持っていた、このイベントをスタートさせようとしている人達は、比較的にこの街とのかかわりの年数の少ない人達であり、始めは本当にこんな事が出来るのかといういささか驚きの気持ちと、当時のオレは1999年の秋に会社を整理して、ネットショップで再起を図ろうと計画中、膨大な借金を抱えて、無収入、様々なセミナーに顔を出して、ITの丁稚時代、将来の不安も大きいが、還暦のプー太郎、自由になる時間は充分にある、ここへ飛び込むには、実行委員会のメンバーは20代の前半が中心、余りにもジェネレーションギャップが大きすぎる、気になりながらも時間が経過。 気に書けながらも何のアクションもしない、こういう事に耐えられないタチで、イベントの実行委員会とコンタクト、手紙とか電話ではとりにくいが、メールという便利なツールがある、ゴールデンウイーク明けの頃に、「西院に50数年住まう者、成功を祈ります」、エールを送るメール、すぐに当日スタッフも募集しています、毎週日曜日の13時から春日神社の社務所の2階にて会議をしています、のぞきに来てくださいという返事のメール、そしてその会議に出かける事に、約50名ほどのスタッフ会議、メンバーはほとんどが20代の前半、10代の学生も多く、物凄い熱気、その中へ還暦の親父、恐ろしいほどの違和感、お互いに、そこで音楽イベントでありなが音楽が聞こえてこないほど会場から遠くはなれた出演ミュージシャンの駐車場、現在の五条のイオンモールハナがまだ更地の状態で、南西の隅で遺跡発掘調査中、そこが駐車場、春日神社の御旅所の野々宮神社が駐輪場、ここの当番の担当、会議の出席はこの一度きりで、第1回は一日のイベント、当日参加、春日神社の境内に集合、行く道で多くのスタッフと出会う、元気な大きな声で朝の挨拶、これで随分と気分がほぐれる、そして持ち場の駐車場と駐輪場の配置につく、熱くくて日陰のない場所、熱中症に気をつけてこまめに水分補給、時たま出演ミュージシャンの車が入ってくる、夕方くらいまで入る車ばかり、日が暮れる頃になると、出演ミュージシャンが出番を終えて帰る車が出てくる、口々に、「ありがとう、楽しかったよ、また来年もよろしく」、と挨拶をして帰っていく、この時に始めてボランテイアの楽しさのようなものを味わう、しかし、この時でも夏のこの暑い時のイベントは無理、今年1年ポッキリ、そう考えていた。 暑い夏の一日が終わり、午後11時半を回った頃からリノホテルの地下の洋風居酒屋で、スタッフと出演ミュージシャンの打ち上げパーテイ、多くのスタッフはイベントの前々日位から半ば徹夜での作業、当日も飲みたいビールを我慢に、我慢、そして迎えた打ち上げの乾杯、この時のビールの味、長年ビールを飲んでいるがこの時のビールほど旨いビールの味は知らない、ビールを飲むというよりも、口と喉と身体にビールがしみこむ、ジョッキーに3杯も飲むと心地よいビールの酔い、周りの若いスタッフは、何かをやり遂げた満足感が爆発して大騒ぎ、端っこのほうの席で、眩しそうにその光景を眺めている、先ほどの駐車場で帰っていくミュージシャンの、「ありがとう、楽しかったよ」、の挨拶と笑顔が思い浮かぶ、なんとも心地のいい時間、それから半年後の翌年の2月、第2回の開催に備えてのキックオフの会議、その会議に出席、この西院の地域に住んでいて、昼間に動く事が出来て、開催の唯一とも言える収入、パンフレットの広告スポンサーの獲得、チラシやフライヤーの配布、ポスター貼り、パンフレットの配布、等々の広報活動、オレだからできることも沢山ある、という事で、始めは第1回ポッキリのつもりが、ついに昨年までの第8回まで、振り返ってみると第5回が終わる頃まで、果たしてイベントが終わるまで、夜逃げをせずに、西院の地にとどまっていられるかどうか不安定な生活、それも無事に乗り越えて第7回と第8回は実行委員長を務めるまでの付き合い。 2月からイベントの開催まで、日曜日の10数回の会議、自分の時間が取れない、という事で、懇意にしている60軒ほどのスポンサーの獲得、今年はその協力と、イベント当日のスタッフとしてのみの参加、その第9回の開催まで後1ケ月。■「今日の言葉」■ 「 自分から心を開く勇気が 不和や誤解を解いていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 9, 2010
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繊維メーカーの頃、会社での仕事、社長でありながらも伝票発行、零細企業の悲しさ、たった1人の事務員さんが辞めると、次の事務員さんが見つかるまでは、不幸な事にそのメーカー時代の殆んどの間が、今では信じられないほどの人手不足の時代、だから募集をかけても、なかなか次がみつからない、1、2ケ月の間、事務員さんの仕事をオレがする、5、6枚綴りのノーカーボンの伝票発行を半日ほど、自慢ではないが箸の持ち方も悪い、ボールペンの握り方も悪い、親の仇ほど力いっぱい指に力を込めて握る、しかも5、6枚綴りのノーカーボンの複写伝票、余計にボールペンを握る指に力がこもる、1時間もこの作業を続けていて、ちょっと、タバコ休憩と思っても、右手の指はボールペンを握ったまま指が開かない、左手の助けを借りて指を開いてボールペンを離す、だから当時は物凄く肩がこり、方から首がこる、これが続くと頚椎によくない、当時、パイロットから、ドクターグリップと言う極端に握りの太いボールペンが発売されて、これは筆圧の強い人がボールペンを使う時に頚椎に負担がかかり、痛める恐れがあり、それを予防するための理想的な握りの太さが、そのボールペンのグリップであるという事で発売され、グリップが通常のボールペンのグリップよりも随分と太く、初めは大いに違和感があったが、直ぐに慣れて、そのお陰で首への負担が少なくなった。 しかし当時はサウナなどへ行くと、必ずマッサージ、それだけではなく当時に流行っていたグイックマッサージなどもよく利用、「お客さん、右肩ばかりが極端にこっていますね、一度にきつく揉んでしまうと後が心配なので、1週間ほど毎日来て、ユックリと揉み解して、それから本格的に揉む方がいいですよ」、と言われていた、マッサージの時に、揉まれながら世間話をよくした、そんな中で、「お客さん宝くじは?」、「殆んど買った事が無いよ」、「私は、10万円や、100万円ぐらいは何度か当たってるのですよ、だからジャンボは毎回買っていて、発売の初日には仕事を休んで、数ケ所の売り場へ買いに行くのです」、「オネーさんに揉んでもらったから、ご利益があるかな?」、「お客さんに宝くじの話をしていて、その後でお客さんが宝くじを買ったら100万円があたって、お礼を言いにきやはった事があった」、「ジャーオレも当ったらお礼を言いに来るよ」、「頑張ってね」、という事があった、だからといってその後、宝くじを買うことは無かった。 ただ2度だけ宝くじを買った事があった、最初はマンションを購入して、借家の立退き料を頭金、住宅金融公庫から35年返済の借り入れ、幾つ折にもなった、35年分の返済一覧表を見た時に、頭が一瞬、クラッ!、その次の瞬間に思った事は、宝くじを買って、特等が当たれば、このローンが一瞬にして返済、という事で初めて宝くじを買う事に、幸にしてと言うか、不幸にしてと言うか、宝くじは当たる事は無かったのだが、10年目くらいに繰り上げ返済、2度目は今の家を買った時、4、000万円弱の住宅ローン、契約した時にはサマージャンボの発売中、引越しした時には年末ジャンボの発売中、この時にも特等が当たれば、その瞬間に住宅ローンの返済、残念ながらそんな幸運は舞い込むことはなかった。 克って2度宝くじを買った時には不動産を買った直ぐ後で、当たれば瞬時に住宅ローンが返済、非情にリアルな目的があった、今は、もしあたれば、今、住んでいる家の買戻しに850万、ほか諸々で150万円、西院フェスを1回自腹で開催して150万円、知り合いが投資話にのって1、000万円がまたたく間にパ~、それが今から4年前、命よりも大事なお金をギャンブルにつぎ込むな、つぎ込んだ君が悪い、早く忘れろ、もう死んだ子の年を数えるな、というと、「わかった、そうする」、と言っていたのだが、その投資話を持ちかけた人が身近にいて、その人は余裕のある中での投資、もうそんな事を忘れているが、その姿を観るにつけ、知り合いは心穏やかにはなれずに、ここ最近彼の笑顔を見たことが無い、うつ病ではと心配さえしている、全額とは行かないが、半額くらいは、「高い授業料だと思え」、と言うメモをつけて家へ投げ込んでやろうと思っている、お金さえあればと思うことが随分と多いのだが、さてと要るお金を計算してみると、その金額の少なさに少々驚いている、ただオレは昔から口の硬さで友達の信頼を得ていた、それには自信がある、「自分の右手のした事も、自分の左手に教えるな」、こう思っている、だからもし、特等が当たっても、如何に長く、自分だけの秘密にして置く事が出来るか、そんな事を考えている。 もし特等が当たったとしても、管理人の仕事は続け、タバコはエコー、晩酌は第3のビール、寝酒はアーリータイムズ、着る物はたまに買ってもユニクロ、カメラもマウンテンバイクも買い換える事無く今のまま、ヨメが留守の時に読売新聞の集金人が来ても、集金はヨメがいるときに来てくれと追い返す、時々、お金を貸してくれ、給料日に返すと、ヨメに借金をする、ズボンのポケットには千円札、1万円札は札入れに1枚、ヨメと外食の時に支払いはヨメに任す、祇園へは飲みに出かけない、テレビを見ているときに時折溜息をつく、タクシーには乗らない、眼鏡のフレームも換えない、毎年パナマ帽子を新調しない、テレビを見ていて貧乏人のこと考えろと叫ぶ、「お金で済む事や無いか」、と見得を切らない、地デジ対応テレビは来年の6月まで買わない、携帯電話は毎月19日から25日の午前中までは使えないままにして置く、支払わなければならないお金は督促状が来てから支払う、人の嫌がる地道な事を引き受ける、ヨメの、「将来のことどう考えてるの?」、というボヤキを大人しく聞き続ける、家では座ってオシッコをする、今から当った時に、ばれないように幾つかの事をチェクしておくと、10年、或いはもっと長く秘密にしておくことが出来そうな気がする、・・・・・・、少々嫌な事だが、苦労した分だけ確実に人が悪くなっている。■「今日の言葉」■ 「 相手の欠点を嫌がるよりも 自分にない良さに気付こう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 8, 2010
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日本のプロスポーツの世界でサッカーと大相撲、現在の置かれている立場はまさに天と地ほどの開き、サッカーはワールドカップ南アフリカ大会が始まるまでは、直前の国際試合に於いて4連敗、決勝リーグ、勝ち点が期待できるのは初戦のカメルーン戦、兎に角この試合だけは見ておこう、そんな気持ちで観た人が多かったと思うのだけれど、ところがいいほうに期待が外れて、1-0で勝利、その戦う日本選手の姿、兎に角、90分間、走り回る、フイジカルの力強さ、当たりでは敵わないから動き出す反応の速さでカバー、集中力を切らさないメンタル面での強さ、そして11人の緊張感溢れるチームワーク、観ているだけで自信喪失気味の日本、日本社会がどうすればいいのかの暗示を与えてくれているようであった、過信なうぬぼれと利己的な行き過ぎた個人主義を捨てて、ひたむきに自分の出来る事にベストを尽くす、本来政治家のするべき仕事だが、日本の政治家は選挙が仕事、少々オーバーだが、政治家が出来ない事をサッカーが多くの国民に示してくれた、まさにそのご褒美ともいえる、活躍した選手に海外のチームから高額のオファーが届いている、それに引き換え大相撲、ここ数年相撲協会を揺るがす事件が続発、その度に相撲協会は理事長以下が、陳謝をし、深く反省し、再発防止に努める、と言葉はあれど中身なし、いつの間にかうやむや、それの繰り返しであったが、今回の野球賭博事件、それを受けて特別調査委員会が設置、前代未聞の多くの力士が処分、力士だけではなく親方までも処分、無理を承知で目の前の名古屋場所開催にまではこぎつけたが、NHKが名古屋場所の大相撲中継放送を中止決定、NHKには名古屋場所中継の自粛を求める声が大多数、数年前にルーズな経費支出に端を発して、受信料の不払いが極端に増加、かくいうオレも当時は固定電話、携帯電話は止められる、電気代、ガス代、水道代、ライフラインが止められる寸前の綱渡り生活、当然のことながらNHKの受信料の銀行振り替えが落とせない、何度か督促状が来る頃に、受信料の不払いが増加、おっと幸いと、便乗不払いが数年続き、NHKも訴訟などで強硬な取り立て、数年間の不払い分を帳消しという条件で、前々念の年末より再び受信料の支払い、NHKも視聴者の圧倒的な名古屋場所の放映中止の意見を受けて、といいたいところだが、受信料不払いの増加を恐れた対応であっただろうと思われる処置。 年間随分と写真を撮っている、よほどの事が無い限り京都から出ない、7月には祇園祭という絶好の被写体があるが、7月から9月中旬くらいまでは例年さて何を撮ろうかと迷う、7月の蓮の花くらいである、JRの花園駅の向かい側にある法金剛院、真ん中の池に蓮の花がギッシリ、そして池の周りには鉢植えの世界の様々な蓮が植えられていて、池の真ん中の蓮は遠すぎる、この鉢植えの蓮はありがたい、アップでいろんな角度から撮る事が出来る、ただ朝早く出かけるのは苦手、朝早く出かけると蓮の花が咲く時にポンという音が出ると聞いているが、実際にその音を聞くことが出来る、ただ残念な事に、未だにその音を聞いた事がない、それだけではない蓮の花は咲くと、4日くらいで散るといわれていて、咲いた1日目には天候にもよるが午前8時か9時頃には花はすぼんでしまう、2日目はもう少し長く花が開いていて午前9時くらいから午前10時くらいまで、3日目は午前10時くらいから、午後でも花が開いているものもあり、4日目は午後になっても花が開いていて、音もなく花びらがはじけるようにハラハラと落ちてしまう、だからオレが行く時間からすると咲いてから3日目の蓮の花の写真を撮っているのだろう、3日目の花でもクローズアップして撮ると、みずみずしい、すけるようなピンク色で、花びらの縁や中心に向かって濃い目のピンクの筋が幾本も走っていて、どこかはだがすけるように白い女性の肌を思わせて、ふとなまめかしささえ感じる事がある、嵐山の天竜寺の池にも蓮が一杯ぎっしりと生えていて、その池の真ん中がひょうたんのように狭くなっていて、その狭いところに石の橋がかけられていて、池が北池と南池に分かれていて、日当たりや水の温度の違いか、北池と南池では蓮の花の咲く時期が少しずれる、ただこの池の外周には金網が張られていて、オレのカメラのズームでは撮りたい写真が撮れない、カメラを持った人と話すと、蓮の花の咲く頃には、毎日ではないが、3日に一度くらいはここへきているということである。 咲いた日の1日目の蓮の花、仕事の日、午前7時に西大路四条の東北の高山寺のバス停へ行く、ここは門を入って右のお地蔵さんの前に、鉢植えの蓮が、2、3鉢置かれる、もう咲き出している、蕾の膨らみ具合を見て、この蕾は明日の朝くらいには咲くと予想して、少し早い目にデジカメを持って家を出る、狙いをつけていた蕾が今朝咲いている、時間は午前7時、一つの蓮の花をいろんな角度から撮影、咲いた1日目の花、みずみずしさが違う、モニターを見ながら、「きれいだよ、美しいよ」、角度を変えたり、ズームを変えたり、アングルも変えたり、「横顔もいい、上からもいい、下からも、チョッと笑って、少しはにかんで」、笑ったり、はにかんだりしてくれるわけはないのに。咲いた1日目の蓮の花を撮るのはこの高山寺に限る。■「今日の言葉」■ 「 心配事が多いのではない心配 する気持ちが強いのである 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 7, 2010
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サントリーのコマーシャルで、「ウイスキーはお好きでしょ~、もう少しはなしましょ~」、小雪がハイボールを作る、ウイスキーなるものを初めて口にした頃のウイスキーの定番中の定番の飲み物、ところがすぐにこれは叔父さんの飲み物で、ウイスキーを炭酸で割るのではなく、コカコーラーで割る、コークハイが若者の主流となる、しかし当時はトリス、サントリーホワイト、そしてサントリー角となるとチョッとしたステータスでさえあった、その後にサントリーオールド、その瓶の形からダルマと呼ばれる銘酒が発売されて、トリスの高級版としてのサントリーレッド、これは家庭での晩酌や寝酒用、そして外では達磨のボトルキープ、そこへサントリーリザーブが発売されるようになり、瞬く間にダルマがリザーブに取って代わられた、ウイスキーは次第に高級な旨い銘柄が販売されるようになったのだが、飲み方はというとミネラルウオーターで割る水割りが主流となって、ミネラルウオーターで割るのがウイスキーだけではなく、ブランデー、しかもヘネシーであったり、昔からの憧れでさえあった、クラブレミースペシャル、今考えてみるとお酒を冒涜する様な飲み方であったと思う。 最近ではバーボンウイスキーをロック、或いはウイスキーと水を1対1で割るジャスト、そして時にはソーダー割り、ソーダーで割る時には何故かI・W・ハーパーのソーダー割、ハイボールとはいわない、サントリーのコマーシャルを見ていると、大きい目のクリスタルグラスのロックグラス、中には琥珀色のウイスキー、寝酒でバーボンを飲みながらでも旨そうに見える、しかし残念な事に良いロックグラスはオレの手のひらの大きさにしてはグラスが大きすぎるのである、持ち心地が良くないのである、だから寝酒で飲む時にはストレートのダブル用のグラスで飲んでいる、オレと同年輩で和食の店であろうが、寿司屋であろうがビールをコップ一杯飲んだ後はすぐに、ウイスキーの水割りを飲みながら食べる人がいる、カロリーと尿酸値が気になる人で、これもなれると刺身を食べた後で、煮物、こういう時にウイスキーの水割りを飲むといい口直しになって旨いという、これもサントリーのコマーシャル、日本人が戦後漸く海外旅行へ行きだした頃に、「トリスを飲んでハワイへ行こう!」、このコマーシャルが大ブレークした後、和食の店や寿司屋ではウイスキーはまだタブーだった頃に、こういう店でウイスキーを、二本箸作戦である、和食屋さんの厨房で仕事を終えた板前さんがウイスキーのロックを飲んでいる、白い割烹着の背中、手にはウイスキーのグラス、そこへバリトンで、「ロンロンロロン、ロロロロ~ン」、と流れてくる、和食屋さんの板前さんが仕事終えて、ホッと一息ついた後で、ウイスキーを飲ん、一日の疲れを癒している後姿、このコマーシャルを何度も放映、ついに二本の箸が置かれている店で、ウイスキーはタブーではなくなった。 美味しいウイスキーを飲んでいると行きに、「もう少し話しましょう」、七夕というと子供の頃の思い出、当時は短冊にどんな願い事を書いたのか思い出せない、恐らく、「何かが欲しい」、願い事といえばそんなことぐらいだろう、世界平和とか健康・長寿なんて書くわけがない、大人になってから一つだけある、もう10年以上も前のことだが3年程続いて、7月7日の七夕の日にだけ電話をしたりメールのやり取りをする女性が居た、その日以外の364日は店に行けばいつでも会うことが出来るのだが、電話をしても出ることはなく、メールをしても返事が来ることもなかった、「お客さんとはお店だけの付き合い、それ以上親しくなりたくない」、これが口癖だった、お母さんが再婚して家に居場所が亡くなり、家を飛び出して水商売の世界へ、水商売の世界にいるから今のような生活が出来る、誰かを好きになったり、誰かに好きになられたり、そういう事とは縁のない女、笑えば泣き顔になる女であった、会社を整理する事に追われて、店へ行く事はなくなった、ネオンがつく頃に加茂川を東へ渡らなくなって、もう10年余り、その最後の七夕の日の会話は、彼女の飼い始めたばかりのドンちゃんというティーカップトイプードルの話ばかりであった。■「今日の言葉」■ 「 物に恵まれた生活より感謝を 湛えた生活に幸福がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 6, 2010
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オレにとっての初孫と言うか、一番年上の孫が今日で7歳の誕生日を迎える、初孫が生まれた時、時代がと言えばそれまでなのだが、自分の子供の子育てに見事なほど関わらなかった、子育てはヨメの担当、オレは外でお金を稼ぐだけ、赤ん坊に乳臭い匂い、ミルクを飲ませる時に気持ちが静まって眠たくなる、こんな事が初めてのような経験で、余り過去を振り返って反省とか、後悔という事をしないたちだが、その時に始めてもう少し子育てに関わればよかった、これほど楽しくて、面白い事はないのではないかと言う気持ちになった、五体満足で生まれて、病気にもならず、怪我もせずに育った、1人だけでなく、4人の孫全てであり、信仰心にかけるオレでさえも、これら全てはオヤジやお袋の行いのセイではないか、お陰ではないかと考えて、感謝さえしている、その孫も今年の4月から小学校の1年生、オレと息子と娘、孫で3代目となる京都市立西院小学校、嬉しさのあまりに入学式にもついていった、ジィジィ馬鹿である。 四条堀川の産婦人科病院で生まれて、退院の日に荷物持ちとして病院へ、病院の入り口で記念撮影、看護婦さんがカメラを持って、情け容赦なく、オレに向かって、「おじいさん、おじいさん、おじいさんも一緒に」、初めておじいさんと呼ばれた瞬間、聞こえないふりをしていると、留めに、「面白いおじいさん、どうぞ」、ときた、心の準備の出来ていなかった、オレには少々、ショック、その時以来、若い女性には、「おじさんはなァ~、・・・・・」、と言うセリフがいえなくなってしまった、今振り返ってみると、人生約70年、若い時に戻りたいかと聞かれると、ノーである、だからと言って長かったわけでもないが、1942年生まれのオレは、戦争が激しくなって、五条通が拡張計画、住んでいた場所が拡張計画の予定地、という事で、亀岡に親戚宅に疎開、ところがその親戚宅は農業ではなく、漆職人さんの家、2歳を過ぎた頃から食糧事情が悪くなって、ついに栄養失調、体力と抵抗力が衰えて、様々な病気に感染、結核、脚気がひどくなり心臓脚気、腸捻転、等々、終戦が半年遅れていれば、と言うほど病弱で、虚弱体質であった、1947年の秋に亀岡から西院に引越し、家の近くの開業医の女医さん、診察は医院だけではなく、往診の行き帰りに、外で遊んでいるオレを見かけると手招き、脈を計って、聴診器で心臓の音を聞き、これが小学校の3年生くらいまで続いた、そんなある時、その先生が聴診器で心臓の音を聞いた後で、オレの頭を撫でながら、「もう大丈夫、どんなに暴れても」、この一言、大きな自信にもなり、実際に元気になり、身体も大きくなった。 この頃、近所の子供が外で遊ぶとなると、上は中学校を卒業して就職したおにいちゃんから、したは小学校の1年生までが数珠繋ぎで約20人ほどで遊ぶ、上のお兄ちゃんは、昨夜の赤線での自慢話、こういう事にませたガキになる弊害もあるが、例えばちゃんばらごっこ、秋になると街路樹のプラタナスの枝払い、その枝が剣のかわり、おにいちゃんが肥後の守を持ってきて、葉っぱを払い、握りよりも先の部分の木の皮を剥ぐ、刀の作り方だけではなく、肥後の守の使い方、刃よりも前に絶対に指を出さない、指を怪我する事無く肥後の守の使い方を習得、大人の作ったルールは守らなくても、子供同士で作ったルールは絶対に守る、「仲良く遊べ」、大人の作ったルール、だからしばしば喧嘩が起こる、しかし、「ちゃんばらの時には突きは禁止」、目に刺さったりするから、「喧嘩の時には物を持たない」、これは子供同士で決めたルールだから、これは絶対に守る、これが守れなければ、一緒に遊ぶ事は出来ない、仲間はずれになる、こういう事は代々大きな子供から小さい子供に引き継がれていく、こんな事を考えた時、育った環境の大きな違い、人生約70年、実に長く感じる。 8月の終わりに京都には地蔵盆というのがある、どこの町内にも1つか2つのお地蔵さんが祀られている、そのお地蔵さんをきれいに洗って、前掛けを替えて、祭壇をこしらえて、お膳や、お餅や、果物や、お菓子、お花を供えて、近所のお寺の住職がお参り、これを皮切りに子供達に午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、夜は花火遊び、翌日も午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、そして福引、2日間の子供達にとっては誠に至れり、つくせりの夏休み最後の伝統行事、京都には幾つもの賽の河原伝説があり、地蔵信仰の篤い地域である、「幼なくして亡くなった子供達が、父や母の悲しみを和らげようと賽の河原に出て石積みをする、それを見た鬼が片っ端から壊してしまい、地蔵菩薩がその鬼を懲らしめる」、と言う民話である、その昔には、「幼くして亡くなった」、これが日常的に起こっていたのである、だからこそ親は子供を大事に育てた、子供を大事にするのは親だけではなく、近所の人も子供を大事に育てた、この伝統行事はその名残でもある、ところが最近では医学や救急医療の発達で、その昔に比べて子供が幼くして亡くなる事が少なくなっている、それは良い事に違いはないが、残念な事に、その反面、いささか家庭においても、近所においても子供を大事に育てる事が少なくなっているように思う、今年も町内の地蔵盆の準備をもう始めている、この事を考える時、子供が少なくなりつつある町内で、準備には手間がかかる、しかし他所では殆んど行われなくなっている地蔵盆の行事、そのルーツを考える時、決して絶やしてはならない伝統行事と思っている。 孫の家では誕生日の者が、誕生ケーキの1ホールまるごと食いが恒例、手や口の周りにクリームを一杯くつけながら、ご機嫌な夜を過ごしている事だろう、ハッピーバースデイ、コウタ!。■「今日の言葉」■ 「 最後までやると心を決めれば 成し遂げる工夫が湧いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 5, 2010
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祇園祭の7月17日の山鉾巡行、午前9時に巡行の先頭を行く長刀鉾のお稚児さんが刀で四条麩屋町にはられた注連縄、これより東は八坂神社の神域、これより町衆の山や鉾が神域に入ります、一刀両断によって巡行がスタート、四条河原町で河原町通りを北へ進むために、方向転換、轍が固定式のために轍の下の割り竹を敷いて、水を撒いて、鉾を滑らせて90度の方向転換をする、これが豪壮な辻回し、河原町御池でもう一度90度の方向転換をして、御池通を西へ、ここへ差し掛かると祇園囃子が戻り囃子のテンポの早い囃子に変わり、御池新町で流れ解散で、各山鉾町に戻っていく、急なにわか雨で装備品に大きなダメージを可って受けた経験や、巡行によって、市中に散逸する悪霊や厄災を山や鉾が折角かき集めて巡行、それらが再び市中に飛び散る事のないように、各山鉾町に戻ると、大急ぎで片つけてしまう、だからこの日の午後3時頃にこのあたりを歩いていると、観光に訪れた人から、「鉾はどこへ行けば見られますか?」、「もう、巡行が終わって片付けられています、だから見れないです」、観光のお客さんの中には祇園祭は1ケ月間にわたる祭りで、この間にいつでも鉾が見られると勘違いしている人もいる、「祇園祭は終わったのですか?」、「いや、まだ終わっていないです」、「しかし、鉾はもうないのでしょう」、と恐ろしく噛み合わない会話になる、「鉾と違いますが夕方には八坂神社から3基の神輿が出ます、祇園の石段下あたりで見られたいかがですか、山鉾巡行も祇園祭の行事で、この神輿も祇園祭の行事です」、というと、少し首をかしげながら去っていく。 17日の夕方、3基の神輿が八坂神社を出て、それぞれの神輿の氏子区内を回って、午後の8時過ぎに、四条寺町南側の少し東に、左右に小さな神社があり、その真ん中に四条センターというみやげ物を売る店があり、この期間は一時的に土産物店を撤去して、3基の神輿が八坂神社の御旅所として、1週間後の24日の夕刻まで安置される、八坂神社のご神体が鴨川を渡って、町衆の住む場所へ、この間にお参りが多く、お参りの人がここで知り合いと出会う、言葉を交わさないで頭を下げるだけの挨拶、相手の人も心得たもので、「無言参りどすか、おきばりやす」、とこんな挨拶で、神輿が御旅所に安置されている1週間、この七日七夜、無言参りを続けると、どんな願い事も聞き届けてもらえるということで、無言参りをする人も多い、普段着の浴衣姿の花街の舞妓・芸妓の無言参りの姿も見かけることがあり、ついついどんな願い事と興味を引かれる。 17日と24日の神輿、3基の神輿で担ぎ手は千人以上、途中に腹ごしらえの弁当が配られる、竹の皮に包んだニギリ飯と真ん中に梅干、数切れのたくあんといった、極めて質素なもので、但しこのおにぎりつくり、人数が人数だけに手で握るのではなく、握り飯の形をくりぬいた木枠にご飯の詰め込み、ぎゅっと押し付ける、この後、握り飯を取り出すのに木枠のふちを、木槌でたたき出す、弁当タタキである、神輿を担いでいる途中に休憩で、担ぎ手がこの弁当を食べる、この時におなかの大きい女性を見かけると、「握り飯を一口食べていかんか、安産のまじないやから」、と声をかけることもある、母親とおなかの大きい娘が神輿見物、若い衆が握り飯を食いだすと、母親が、「娘が来月出産で、お産が軽くなるように、おにぎりを一口」、というときもある、この神輿の担ぎ手の弁当の握り飯を妊婦が食べるとお産が軽くなると言い伝えられている。 17日の祇園祭の巡行の日、巡行に数千人が参加、子の中で一番えらいのが、小学生の長刀鉾のお稚児さんで、7月13日の八坂神社でお位もらいなる儀式があり、この時に正五位少将十万石の地位を授かり、祭りに参加する人中で一番位の高い地位となる、お稚児さんはこの日から、巡行が済んで位を返すまで、食事の時には一番上座、土を踏む事がなくなる、馬にまたがるか、巡行当日に鉾に乗り込むときには、強力さんの肩に担がれて乗り込む。 祇園祭の長い歴史の中で、火災で消失したり、ひどいにわか雨でひどく痛んだりして、復旧できなかった鉾や山、昭和の末期に蟷螂山や綾傘鉾や四条傘鉾が復旧されて、記録には残っているが復旧されていない鉾1基、(大船鉾)、山2基、(布袋山・鷹山)、平成の時代になって未だに復旧されていない、僅かに残っているものを会所で展示するだけのひっそりとした居祭が行われている、記録や図面も残っていないものもあると聞く、焼山、休山鉾、といわれて久しく、図面や記録が残っているものの早期復活が望まれる。 ■「今日の言葉」■ 「 社会に役立ちたいと願ってこそ 身に付けた能力が生きる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 4, 2010
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7月になると、1日には長刀鉾のお稚児さんが八坂神社へ祇園祭の無事開催を祈願するためにお参り、「お千度の儀」、が執り行われ、2日には17日の山鉾巡行に於ける、始めから順番が固定されている山鉾、「くじ取らず」、以外の山鉾の巡行時の順番をきめる、「くじ取り式」、が京都市長立会いの下で京都市市議会本会議場で行われて、平山郁夫画伯の原画の幻想的な月夜の砂漠を行くらくだに乗った隊商の緞帳の胴かけを新調した、「孟宗山」、が1番くじを引きあてた、そして各山鉾町の今年の祇園祭の打ち合わせを始める、「吉附入り」、が行われ、四条繁栄会のアーケードには祇園祭の駒形提灯が飾られ、スピーカーからは祇園囃子が流れ、夜には祇園囃子の練習が始まり、いよいよ祇園祭の雰囲気が盛り上がりだしたところだが、「祇園祭は鉾建てが始まって本番」、といわれているように、10日くらいまで各山鉾町内に中での行事で、祇園祭が多くの人の目に触れだすのは10日から始まる鉾建て辺りからである。 10日、11日の2日間に亘って鉾建てが行われて、12日、13日の2日間に渡って山建てが行われ、どの山鉾も祭りが終わればすぐに解体され、毎年一から組み立てられて、実際に動かす事が出来るか、担ぐ事が出来るかのテスト、曳き初め、担ぎ初めが、それぞれの山鉾町で行われる、細い道をギシギシと、本番の巡行のときには広い道で、高いビル群の中、この曳き初めの時のほうが鉾の大きさや迫力を感じる、この鉾建てというのはどのようにして建てられるのか実際に見るまでは良くわからなかった、鉾を建てるのに車輪周りは、「車方」、胴体部分は、「大工方」、屋根部分は、「屋根方」、と分業制で、まず鉾の胴体部分の柱を、釘を使う事無く、荒縄だけで、独特の、「縄かけ」、組み立てていき、これを一旦仰向きに寝かす、四角い底の部分の真ん中に、梁のように太い、長い柱が取り付けられていて、寝かされるとその柱がぽんと高く飛び出している、これが鉾を建てる時のテコ柱となり、仰向けになった枠が建てられると、この柱は用済みで、取り外される、仰向けに倒された枠の真ん中に、「真木」、という長い柱が差し込まれる、巡行の時に鉾の真ん中に高さ約20メートルほどに聳え立っている柱である、この柱に紅白の布が捲き地けられて、飾り縄がつけられ、こより紐のついた白い、「紙札」、鉾建てに立ち会うとその町内の世話役人が願い事をしてから榊の枝にしっかりと結び付けてくださいと持ってこられる、その榊が取り付けられて、柱の一番上には、その鉾のシンボルともいう鉾頭を取り付ける、この祇園祭の期限は都に疫病が蔓延、それは怨霊に起因すると考えられて、怨霊退散、疫病平癒を祈願して、鉾を神泉苑に打ち立てたのが始まりとされていて、当時の鉾は7,8メートルの柱の先端に剣鉾が取り付けらたもので、幾つかの神社の祭りの時に見かけることが出来、西院春日神社の秋季祭の巡行の折にも、5基ほどの剣鉾が行列に加わり、これが鉾の原型といわれていて、現在の鉾の形にいつごろ、どのようにして変化したかは定かではない、ただ現在でも山鉾の巡行は都の中の邪悪なもの、怨霊退散、疫病平癒のためであり、鉾の真ん中のこの柱に上のほうに、各鉾のご神体が取り付けられる、このご神体の取り付けは一番最後で、飾り付けが終わると塩とお酒がこの柱に振りかけられて、お清め、テコ柱にウインチのワイアーが取り付けられて、鉾建ての準備完了、ここで町内の世話役さんが、ご神体に息がかからないように半紙を咥えてご神体を捧げ持って、取り付けて、人目にご神体が触れないように袱紗で覆われていて、やがてウインチがうなりを上げて鉾を引きお越しにかかる、寝ていた鉾がユックリと起き上がる、ご神体が人の頭よりも上に行った頃に、袱紗の端の紐が引かれて、この特に始めてご進退の覆いが取れるが、ご神体が決して人の目に触れる事はないのである、細い道で、電線を避けなが鉾が建てられる風景は圧巻である、鉾によってクレーン車による鉾建てが行われる鉾もある。 この鉾建ての頃、鉾町で育って嫁入りをした娘さんが子供をつれて里帰り、鉾建てを子供に見みせていて、鉾建てが終わった後は荒縄のきれっぱしが道に落ちている、それを拾いながら後片付け、女の子がそれを手伝いながらも、その荒縄のきれっぱしをまたいだりする、「女の子が、縄をまたいだらアカンいうてるやろう」、こうして建てられた鉾に、車方に轍を取り付けられて、胴体部分は大工方に胴書けなどで飾られ、屋根は屋根方に取り付けられて、飾られて、こうして出来上がった鉾が無事に動くかどうかのテストが曳き初めである、本番と同じ人数が鉾に乗り込み、この時だけは引き手の女性の参加もOK、町内を少し行ったりきたり、無事に動いて会所に戻ってくると、拍手が起こり、町内の人は、「今年も無事に動いてよかったなァ」、と口々に、鶏鉾の曳き初め、同じ町内に池の坊女子短期大学があり、浴衣姿の女子大生が曳き手に参加、オレも写真を撮り行く、車方に、「ここの曳き初めはいいですよね」、満更でもない顔付きで、「そうやけで、いう事を聞きよらんさかいに、こわいねん」、そんな会話の途中に浴衣姿の女子大生が出てきて、長い曳き綱の向うへまわるのに、次々と綱をヒョイとまたいで向うに、車方はニヤついた顔を急に鬼のようにして、「こら~、曳き綱はまたぐなァ、くぐって向うに回れ」、と怒鳴り声、八坂神社の紋が胡瓜の切り口に似ている為に祭りの間中は胡瓜は食べないという人も、祇園祭は別名鱧祭りともいわれていて、海から遠い京都では昔は鮮度のいい生魚を口にすることが難しく、鮮度が長持ちはするが、小骨の多い鱧、職人が骨きりという技術を考え出して、京都の人はとりわけ鱧が好きで、一年中で鱧に一番脂が乗って、梅雨の雨をたっぷり含んだ海水で育ち、旨い時期からこう呼ばれていた、また屏風祭りともいわれていて、山鉾町は室町で、呉服屋さんの町として栄え、老舗の、大きな呉服屋さんも多く、景気のいい時代には、書画骨董、掛け軸、屏風、ゴブラン織りの敷物、美術工芸品を買い集め、その収集品が蔵の中にどっさり、年に一度、虫干しを兼ねて、家の中に飾りつけ、宵山が近くなると競って道路から飾り付けたそれらを見えるようにする家が増えて、美術的に、骨董的に貴重で、価値のある作品、その日にしか見られないような物もあり、可って若き日の上村松園さんはそれをスケッチに出かけたといわれていて、「屏風祭」、ともいわれている、時節柄、最盛期に比べて、その数は随分と少なくなっているが、豪華で、優美である。■「今日の言葉」■ 「 楽な事は明日に延ばしても 苦しい嫌なことは今始めよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 3, 2010
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物凄く蒸し暑い日が続く、我が家では今年はまだクーラーをつけたことがない、自分の部屋の扇風機も持ち込んでいない、PCに向き合う時、2階、3階に比べて1階は随分涼しいのだが、それでもむしむしする、冷蔵庫の冷凍室に入れてある保冷剤をタオルにくるんで、首に巻きつけている、こうするとキーボードに汗が滴り落ちるという事は無い、休みの日には午後になると、「ちょっと散歩」、と言って出かけることが多くなる、デパートにでも入って涼みに行く、美術品売り場の画廊へ立ち寄る事も増える、これで応接セットに座って、タバコでも吸えると申し分が無いのだが、今日も出かける時に、ヨメが、「どこまで?」、「河原町」、「今晩はカレーでいい?」、晩御飯のオカズは何が良いと聞かれると、「なんでもいいわ」、と必ず答えるから、「カレー、ハンバーグ、オムレツ」、と3択の時が多く、間もなく古希を迎えようかと言う相手に聞くオカズではないが、いささか不思議な気はするのだが、この3つが大好きなのである、「カレーを買ってこようか?」、「お願い」、という事で高島屋に地下のカレー専門店でビーフカレーとキャベツのピクルスを買って替えることに、中身が透けて見えるビニールの袋2つに、カレーとピクルスを入れて、それをぶら下げて買えるのはあまり好きではなかった、ところが今日はその2袋のビニール袋を紙袋に入れてくれた、お客さんからの要望があったのか、男が買い物をするのにはこれはありがたい。 カレーというと気の強いお袋のことを思い出す、子供の頃のカレーというと今のように気のきいたカレールーなどの無い時代、メリケン粉をバターでいためて、カレー粉を入れて、一からカレールーを作る、だから時折だまが出来たり、焦がしたりという事もある、それとたまにはりこんで、良い肉の時もある、さいころに切ったフイレ肉とかバラ肉、今では肉の面を先に強火で焼いてから、炊き込むが、当時は肉を生のママ入れて、炊き込む、肉は硬く、完全に出しガラ状態、但し高い肉を使った時にはお袋も気合が入っている、ところが出来上がった時には肉はこの状態、カレールーを作る時に、メリケン粉にダマが出来て、しかも焦げている、まずいカレーの3条件がそろっている、一口食って、もうだめである、「お茶漬けにする」、妹2人も同じ、ここでお袋は大いに切れる、「もう、カレーは金輪際作らない!」、と鍋一杯のカレーを捨てて、それから5年以上もカレーを造る事は無かった。 大学生になって夏休み、百貨店でのアルバイト、女性の多い職場、こちらは大学1年生、可愛がってもらえて、極々楽しいアルバイト、ただ困った事は昼食の時の社員食堂、安いのだが、実にまずい、食べるものが無い、迷っていると、オネーさんが、「ここのカレーはカレー専門店のカレーで美味しいよ」、という事でカレーと生卵、少し辛い目だが、生卵で丁度良い具合、肉は大きめのバラ肉、脂身などはとろけるように柔らかい、それでいて肉の味がしっかり残っている、アルバイトは約60日間、毎日昼食はカレー、食堂もオバさんに、「アンタは、カレーが好きやねェ、こんなに毎日で飽きひんかァ」、と言われながらも毎日カレー、そしてアルバイトが終わる前日に、「オバちゃん、長いこと世話になったけど、アルバイトは明日で終わりやねん」、「そうか、毎日カレーばっかり、よう食べてくれたね」、そして翌日アルバイトの最後の日も昼食はカレー、「サービスしといたよ」、といつもの倍ほどカレールーがかかっていて、バラ肉が凄い量乗っかっている、実際のところ1週間ほど前から、さすがにカレーは飽きていた、そこへ最後の日にオバさんの心づくしの大サービス、残せば悪いと、途中で気分が悪くなるのを我慢して、脂汗を流しながら、最後まで完食、当然の事ながら、その後は暫くの間はカレーが食べられなくなった。■「今日の言葉」■ 「 気付いたことをすぐに行うことは 物事を好転させる元である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 2, 2010
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2010年ワールドカップ南アフリカ大会での日本の4試合をすべてを見たことになる、但しサッカーの経験もないし、ワールドカップの時だけのにわかフアンである、本大会の予選リーグが始まるまでは、FIFA世界ランキング上位の3チームが相手では予選リイーグの突破は無理だろうとさえ思っていたのだが、初戦のカメルーン戦での日本チームの雰囲気が従来の日本チームと少し違った、グランドの入るまでの選手の表情に、日本代表としての決意と覚悟のようなものが溢れていて、1-0でリードした後半、全選手の足が全くとまる事無く走り続けていて、冷や冷やしながら時間が過ぎるのを待つという事は無かった、いつも言われていた事だが日本人選手のフィジカル面での弱さ、それを感じさせ無かった、むしろ4戦目のパラグアイ戦での、120分にわたる0-0の死闘の後、ゲームで勝負が決められるのなら、もう120分でも戦うという言葉、本気の言葉に感じられた。 パラグアイ戦でのPK戦のよる試合決着、試合前に後半の35分頃に途中交代で中村俊輔が出て、そのまま延長戦でも勝負がつかずに、PK戦にも連れ込み、PKのキッカーとして彼がキーパーに止められるかゴールをはずすのではないか、それによって勝負が決するのではないか、そんな予感がしていたのだが、そういう場面に彼を起用すると、戦っている選手はその時点で、その交代は監督がゲームでの勝利を諦めて、PK戦を考えているというメッセージと受け取り、攻撃的に守り続けている全選手への悪影響を恐れて、あくまで残り時間内で得点という強い意思表示の表れのようでもあった、結果として駒野のPKがゴールバーを叩いてはずしてそれにより敗北が決まったわけであるが、この勝負決するPK戦というルールの非情さ、理不尽さ、時にははずした選手にとって残酷とも思えるルール、前の全日本の監督のイビチャ・オシムはPK戦が始まると、キッカーを指名して、その後、PK戦見届ける事無くトイレに行ったというエピソードがあり、20年前のイタリア大会で氏が率いるユーゴ対アルゼンチン戦のPK戦でユーゴチームは退場者が1人出ていて、キーパーを除くとPKを蹴る選手は9人、そこで監督に7人の選手が申し出、「キッカーからはずして欲しい」、蹴る5人を指名して、怯えるほどの緊張感と運の非情さから逃れるように、ロッカールームに引き上げた、それほどPK戦というものは残酷であり、非情である。 このPK戦というと、誰もが思い出すのがイタリアの、「イタリアの誇り」、「偉大なるポニーテール」、と言われていて、ファンタジスタそのもののプレースタイル、独特のファッショナブルなスタイル、世界中の人気者、自分のプレースタイルに拘るあまりに監督とはいつも確執、大きな怪我も多く、引退した時に、ジタンは、「彼をナンバーワンと認めなかったのはイタリアだけである」、と言う皮肉を込めた賛辞を送った、ロベルト・バッジオ、1994年アメリカ大会の決勝戦、イタリア対ブラジル戦がワールドカップの決勝戦初のPK戦となり、ブラジルがリードして向かえたイタリアの5人目にキッカーの彼が、大空に打ち上げるようにPKを大きくはずして、その瞬間にブラジルのアメリカ大会の優勝が決まった、彼はサッカーのプレーだけではなくサッカーに関して多くの名言も残している、「私のドーピングは努力である」、「サッカーのプレーが出来るなら寿命を縮めても良い」、「諦めるよりも夢を見ることが性にあっている」、等々である、勿論PKに関してもある、「PKをはずすことがでるのは、PKを蹴る勇気を持ったものだけだ」、「PKを決めても誰もおぼえていてくれないが、はずせば誰もが忘れない」、恐らく彼にしか言えない言葉だろう、日本代表選手の中で地味な存在の選手であるが、ひたすらに身体を張ってのプレー、その彼に神様が与えた、残酷で、不運な結果、慰めるわけではない、克っての世界のスパースターの言葉を送りたい。■「今日の言葉」■ 「 人生は今の瞬間の積み重ねである 今を大切に生きよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 1, 2010
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ほんの暫くのつもりでカメラを2台質入、ところがなかなか受けだしが出来ずに、あっという間に5年、質屋というのは品物を質屋に持ち込み、その品物を質草といい、それを担保としてお金を借りる、消費者金融等で借り入れる場合には最後には元金と利息を支払わなければならないが、質屋の場合は質入してから3ケ月間利息を支払う事も、質草を受けだすこともしなければ、その質草に所有権が質屋に移る、所謂、質流れ、或いは流質である、この点に於いては気が楽でもある、質屋の利息というのは月利5%から7%で、貸金規正法の最高金利に比べてべらぼうに高利であるが、金利だけではなく、預かった大切な品物を保管する業務、保管料も含まれる、質入している2台のカメラ、キャノンイオス55シグマズームレンズ付とフジ645ズームの2台である、質入の時の金額はこういうカメラなどでは上代の4分の1から5分の1、或いはそれ以下である。 普通の家庭にある品物で、質で10万以上の金額で預かる品物というのはないのである、宝石類などでも買った時の値段は関係なく、土台のプラチナや金の目方量って、その日のプラチナや金の相場が質入価格となる、だから壊れたアクセサリーであってもプラチナや金の目方が重ければ高額になる、絵画なども号ン10万円の作家の作品であっても、せいぜい額代に毛が生えた程度である、ある時店でであった、若い水商売風のギャル、箱に入ったハンドバッグを3つ、店の親父が、「質入ですか、買取ですか」、買取でお願いします、そのバッグを丹念にチェックして、おもむろに電卓を叩いて、「3点合計の値段です」、電卓をギャルの目の前に、覗き込んでみると、150万円をオーバーしていた、ナァ、ナァ、なんと、恐るべしギャル、150枚余りの福沢諭吉をヴイトンの札入れに無造作に入れて、店を後にしていった。 店の親父が、値札を作って、店の女性に、「ショウウインドウの最上段に並べておいて、今日中に3つとも売れてしまうやろう」、いかにも良い商売をしたという顔で愛想笑い、この質店、昔ながらの店構えで通に面して大きなショウケース、道行く人が品物を良く見ている、ところがその中に泥棒も下見、この店、この約15年程の間に8回も泥棒に入られている、時には凶器を突きつけて従業員を蔵の中に押し込めて、品物を取って逃走、発炎筒を投げ込んで店のものがひるんでいる隙にローレックスの時計ばかりをごっそりと、店の前にワゴンを止めて店の中の品物を見ていて、突如硝子を叩き割って品物を持ち出し、しかも時間は決まって夕方の閉店前の時間帯が狙われている、だから利息の支払いなども極力午前中に済ませて、巻き添えを恐れて夕方には絶対店に行かない事にしている、泥棒に入られるたびに、硝子を防弾硝子に変えたり、ビデオカメラを設置したり、警備会社と契約したり、それなりの用心はしているのだが、最近の質屋の中で泥棒が入り易い店構えになっているようである。 約5年間も、毎月月末の利息を払い続けていたが、もう最近ではカメラはデジカメばかりで、この5年間カメラは質屋の中だからフイルムではとっていない、ほんの暫くのつもりだったから電池は入れたまま、電池が腐食しているのではないか、受けだししても使えないかも、そんなことを考えていると、エ、エ、エイ、流してしまえ、そんな気持ちになってここ3月利息を払っていない、利息が6ケ月、滞っていて、店から流質の通知書がきた、キャノンイオス55のほうは流そう、しかしフジ645ズームには未練がある、ブローニングフイルムのハーフ版で、普通に構えると縦長の写真で、ポートレイトに向いていて、このカメラで撮りたい人がいる、祇園祭の宵山で、紅葉の頃の南禅寺の水路閣で、紅葉の頃の化野念仏寺で、嵯峨鳥居本の道で、モデルになる了解を得たわけではない、空想しているだけであり、それがまた楽しい事でもある、このカメラをなくしてしまうとそういう機会が訪れないのではないか、そういう想像もすることが出来なくなるのではないか、流質期限は6月30日、2日前に5年ぶりにこのカメラを質屋から請け出してきた、真っ先に電池を調べてみる、さすが保管業であり、蔵の中の温度と湿度が一定で、電池は腐食してはいなかった、久し振りに手にした感触、ズームを延ばしたり、縮めたり、5年間もさわっていないと、操作を忘れてしまっている、説明書を取り出して、露出補正をするには、絞り優先の時は、シャッタースピード優先の時は、マニュアルの時は、ファインダを覗いて、焦点の先に、もみじの葉が回りながら散り落ちてくる、それを見上げる彼女の笑顔を想像して、シャッタを空押ししている。 ■「今日の言葉」■ 「 さっさと実行しないと怠け 心がやる気を削いでいく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 30, 2010
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克って日本プロ野球界に於いて黒い霧事件というのがあった、発端はオートレースの八百長事件で、数名のプロ野球選手がオートレースの賭博の常連客で、このオートレースの八百長の中心的な人物が警察の事情聴取の中で、野球賭博の存在を証言し、この野球賭博に於いてプロ野球選手にお金を渡して、八百長工作をしていたと証言、日本プロ野球界に大きな衝撃が走り、1人の投手が日本プロ野球界を永久追放された、その彼は暫くの間、行方をくらましていたが、次のシーズンが始まる寸前に姿を現して、会見を行い、野球賭博に関わっていた選手が複数いると証言し、各球団は独自の調査を開始して、その球団の中心選手の名前も浮上、プロ野球界永久追放が複数、八百長に誘われたがお金を返して、八百長には関わらなかった選手にも、一定期間の出場停止、という厳しい処分がなされた、この八百長事件の黒幕が反社会勢力の者であったために、野球賭博や八百長事件にはかかわりがなくてもそのような勢力との交友さえも厳しく罰し、反社会勢力との絶縁を目指した、この時にはプロ野球経験者以外の球団の親会社オーナー、球団社長、各リーグのコミッショナーが球界に厳しい目を向けて、厳しい処分を敢行した、その事によって健全なプロスポーツとして、今日に至っている。 それに引き換えて日本相撲協会は、ここ数年間は角界を揺るがす大事件の連続である、その度に日本相撲協会の理事長は厳しい姿勢で対処する、指導を徹底する、膿を出し切る、言葉はあれどその実態は、この文部省管轄の公益法人である日本相撲協会を力士出身の親方が、日本相撲協会の理事、理事長として運営する所に無理がある、どう考えてもそういう人達のキャパシテイ以上の能力が要求される、そこでその時、その時に応じて外部委員会に判断をゆだねるという方法をとるが、殆どが理事長が推薦したメンバーで、まるで茶番劇であり、相撲協会の幹部連中はこれでその場を切り抜けた、誤魔化せたと思っているようであるが、結果として、このような解決の仕方が何も解決をしていないようである、今回の野球賭博の事件に関しても、先場所の終盤に現役大関が警察の事情聴取を受けた、その事情聴取をしたのがマル暴である、暴力団関係の取締りをする部署である、暴力団の資金源をめぐる調査中に、野球賭博のテラ銭が大きな資金源になっていて、野球賭博の組織を解明中に賭け客として複数の力士を始め相撲関係者の名前が浮上、しかも常習的な高額賭博者、のみならず勝ち金回収、負け金回収、野球賭博に関与の口止め料としての高額の恐喝の被害届けも提出されている、この時点でもう既に事件である、野球賭博の常習者にもそのお金が反社会勢力に流れているという認識がなかったという話であるが、これは力士を初めとした相撲関係者の常識のなさの証明でもあり、何の弁護たりえないのである、先場所終了後に相撲協会の幹部が取調べを受けた大関を呼んで聞き取り調査、その場で大関は関与をしていないとコメント、これを100%信用、いや、むしろ相撲協会の幹部はこれは大変な事だ、しかし本人が否定、否定のママに済ませてしまいたい、こういう意識が強く働いたようである、それといつも言われる事だが日本相撲協会の対応の遅さ、これは穿った見方をすれば早く対応うしていれば名古屋場所の中止論がもっとたかまったであろうが、これだけ土壇場になると、善意の第3者のような人達が大損を蒙る、名古屋場所は開催ありきの日本相撲協会の寝技が功を奏したかに見えるが、外部委員会が名古屋場所開催を可とする条件として突きつけた条件を日本相撲協会がどれだけ飲むかにかかっている。 勝負の世界に身を置くものにとっては賭け事はご法度である、というのは勝負の世界に身を置くからこそ己が生まれつき持っているツキというものの無駄使いはするべからずというのがオレの持論である、本業の勝負の世界でツキというものが必要な時がある、余計な事でそのツキを使ってしまうと、本当に欲しい時に己のツキが終了という事になってしまう事がある、オレは親父から会社を引き継いだ時に、あらゆる勝負事と縁を切った、自分のツキの残数というものが表示されるのならいいのだが、それがわからないだけにそのツキというものを大事にしたい、本業にツキを残しておきたい、その一心であった、振り返ってみるとそのお陰で本業に於いてこれはツキ以外の何者でもないということが2つあった、1つは得意先が有名なデザイナーとライセンス契約、その婦人物のナイトウエアーの製造を担当する事になった、そのデザインが細かい部分に於いて量産のし憎いデザインであり、準備していた工場の全てで生産が不可能になった、得意先は大々的にプレスに発表、立ち上がりの日が近づく、製品があがらない、工場探しの万策が尽きて、明日にギブアップしようか、明後日にギブアップしようか、そんな時に知らない工場から、「仕事はないか」、の電話、翌日に松山へ出向いて、その工場と生産の契約、どうにかデパートでの立ち上がりの日に納品が間に合い、このデザイナーズブランドの製品が数億の売り上げに繋がった、この工場との出会いはまるで奇跡のような出会いで、オレの会社を整理する時に廃業、品質のいい、主力工場であった、もう一つは、会社が所有していたゴルフ場の会員権、クラブハウスの建替えの50口限定の預かり金、通常のここの会員権の相場は約50万円、預かり金の金額は1、500万円、会社を整理している時に売るに売れない、紙くず並みに残っていた、10年経過後には退会がOKとなっていて、10年が経過するとすぐにゴルフ場へ電話、兎に角、ゴルフ場へ来てほしいということで、行ってみると、当初の販売予定の50口が殆ど売れずに10数口、販売から10年目を迎える前の理事会で、退会の申し出があれば預かり金の全額を返還しようという事に決議、ということで1週間後に全額が振り込まれて、そのうちの850万円は同業者と相保証のしあいで借りていた国民金融公庫からの長期借り入れ金の残債を全額返済をすることが出来て、相保証先に不義理をせずに済んだ、紙切れ同然の会員権が額面どおりのお金になった、これはオレに残された最後のツキとさえ思っている、また賭け事の全てと縁を切ったためにこのツキが残っていたと思っている。 力士と親方が野球賭博に関与ときいて、勝負事の世界に生きる者が、ツキの無駄使い、ツキがもったいないというのが第1印象であった。■「今日の言葉」■ 「 食べ物は感謝して頂いてこそ 生きる力となっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 29, 2010
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ここ数年、ゴールデンウイークが済んだ頃から蒸し暑くなり、日本は亜熱帯で無く熱帯かと思うような蒸し暑さ、ところが今年は5月中は気温も低く、何よりも湿度も低く、2階のリビングのテレビの前に2畳のホットカーペット、ゴールデンウイークが済んだあたりには籐の敷物に代える、ところが今年はまだホットカーペットの敷物の儘である、この涼しさのお陰で昨年の年末から読み漁っている浅田次郎の小説、随分と呼んだのだが、「蒼穹の昴」、全4巻の長編と中国清王朝末期の物語という事で、最後まで読み切る自信がなくて、買うのを躊躇していたのだが、ゴールデンウイーク明けの涼しさと、気持ちが良いほどの湿度の低さに、ついに第1巻から読み出した、第2巻まで読み出して、こういう力作という物は読んでいて疲れる、と中で短編集を数冊読んでいる間に、続きをどうしても読みたいという気持ちになるまで少し時間を置いて、第3巻と第4巻を読み終わった、全4巻で約1、600ページほど、人生約68年にしての最長編である、中国の村の裕福な家の青年と村の貧しい糞拾いで一家の生計を支えている少年が、老女の占い師に、「蒼穹の昴」、星の下に生まれた運命と予言されて、裕福な家の青年は中国には古くから、「科挙」、という制度があって、読み書きの出来る全ての中国人に幾つかの段階的な国家が行う試験に受験するチャンスが与えられており、だれでもその試験に合格すれば、階級が上がり、ついには中国王朝の帝を支える地位にまで上り詰める事が出来る制度が数千年の間続けられており、学問での出世街道を歩む事になり、貧しい少年は学問とは別の方法で、中国の全ての富をその手に握る道を歩む事になり、それは、「宦官」、といわれている、男性のシンボルをちょん切る事によって、中国王朝の宮中に仕えて、帝の后の寵愛を受ける、この道を歩む事になる、時は清朝末期で、時の権力を西太后が握っており、我々が知る彼女は夫の帝、我が子供の帝を殺して、尚、権力の座にとどまる悪女、鬼女、のイメージが強いのだが、歴史の古い超大国、数億の民の上に立つものとして、清朝末期において、欧米諸国は武力にモノを言わせた植民地政策時代、そこへ日本も明治維新を経て近代国家を樹立、富国強兵策も実って、国力、軍事力とも著しい発展を遂げて、中国への進出の野望を抱き始めた頃、如何にして清王朝と中国の国土と数億の中国の民を守る事に、その責任を老いた女帝が一身に背負い続ける苦悩が描かれていて、幾つもの試験の合格を経て、科挙登第制度によって高い地位に登りつめ、もう1人は宦官として西太后の寵愛だけでなく、絶大な信頼さえ得る事ができるまでの波乱万丈の物語。 奈良に都が築かれた頃、約1、300年ほど前、日本から遣隋使、遣唐使を派遣する事により、すでに栄えていた中国の文字を初めとして、都の造営、国家の体制、文化、様々な多くの事を学んで取り入れた、ただこの小説に出てくる、「科挙登第」、「宦官」、不思議な事にこの2つの事を取り入れることはなかった、この2つのうちで。「宦官」、男性が男性のシンボルをちょん切って、麻酔や外科手術が未発達の時代に、耐え難い痛みを伴う方法でちょん切るわけである、そうする事によって宮中での仕事を得て、何か事あれば動物のように叩き殺され、身体に障害が残るほどのお仕置きを受けて、お払い箱に、それでも運良く、仲間を蹴落としてでも這い上がって、高い身分と、高収入を得ることが出来る、しかしその身分は、男性を捨てた男として、誰からも卑しまれる身分であり、自らもそういう事を自覚しながら生涯を過ごす、日本にはこの、「宦官」、の制度は無く単に想像するだけだが、肉体的な宦官は存在しないのだが、精神的な宦官は存在するのではないか、そんな気がしてならない、丁度還暦の頃にオレは人生の山から谷に転落、その頃ヨメはオレに、「オシッコの時にトイレでたってするの?」、「アホか、マルでも散歩の時には足を上げてオシッコをするやないか、人間の男は立ってするモンや」、「友達のご主人は座ってしたはる」、「と、と、という事はオレにも座ってやれというわけか」、この時の気持ちは、「そこへなおれ、手打ちにいたす」、とこれほどの気持ちであった、当然の事ならお互いに口も聞かない生活が暫く続いた。 しかし、悲しいことに、生理的機能の衰えはどうしようもなく、オシッコをした後にトイレにしずくの跡が、トイレットペーパーを床に、スリッパで踏んでゴシゴシ、床をようくチェックしてからトイレを出るようになった、そして5年半前からマンションの管理人の仕事、管理人用のトイレは管理人、住人、出入り業者等々が使用、床の黒いピータイルに点々とシミが、それを掃除しているうちに、いつしかオレ自身もオシッコをするときに座ってするようになった、その時以来、オレは精神的に変化している、男として、男のメンツに関わる、父親として、カッとしたり、怒ったりすることがなくなっている、トイレを立ってするか、座ってするかだけではない、所謂、蛍族という現象、殆んどの場合は旦那が喫煙者、奥さんと子供が非喫煙者、仕方なく旦那がベランダや廊下や外で喫煙、これも一家の主が喫煙に気を使って部屋の外で喫煙、一家の主の趣味嗜好をこのような形にしておきながら、一家の主として、父親として、大黒柱として、時として力強い男権、父権を要求される、これは少々酷ではないかと思うこともある、オレがトイレを座ってするようになって、男権、父権を喪失したと少々大層に考えている。 ■「今日の言葉」■ 「 素直に聞いてそのまま実行する ことが習得の基本である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 28, 2010
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元々帽子嫌いであった、ゴルフの時、夏は直射日光避け、日焼け止め、冬は防寒、それとボールが飛んできた時のショックアブソーバー、帽子は大切なのだが、かぶりなれていないとジャマッけな物で、バンカーショットの時などは眼鏡が曇ったり、茶店で帽子を脱いで忘れたり、その上にどんな帽子も似合わない、だからゴルフの時には無帽で通した、皮膚の性質だろうか、日焼けをしても翌日には、丁度いい黒さになる、余り赤くなったり、皮がめくれたりしなかった、マンションの管理人の仕事をするようになって、仕事の日には西大路四条から河原町丸太町まで2往復、スーツやジャケットを着ずに、リュックを背負い、スニーカー姿、夏前にふと帽子が欲しくなり、スポーツ洋品店でキャップを試しに被るが似合わない 、ナイキ社製のネイビイのデニムのサンバイザー、これを試しにかぶってみる、目深にかぶると、初めての事だが、何となく様になる、その夏の間そのサンバイザーをかぶり続けていた、夏が過ぎて、秋になると、サンバイザーはどうも、ということで家の中を探して娘の黒のハンテイング、この頃にはどれくらいの深さに帽子を被ると様になる、そういう位置が漸く分かりかけた頃で、帽子の良く似合う人はどんなかぶり方をしても様になる、逆にオレなどはこの位置でないという極めて狭いポイントだけが様になるということがわかった。 そこで大胆にもソフト帽を被ってみようか、オヤジは60歳くらいまでソフト帽の愛用者でフラノ素材と、夏にはパナマ素材、ソフト帽を被った写真が多く残っていて、自分でも似合うと思い込んでいたようである、だからその息子のオレも、常々、「人類は親に似ないからここまで進化した」、といいながら自分の都合のいいように考えて、その頃、新京極にはただ1軒残っていた帽子屋さんへ行き、店の主が、「どうぞ、被って鏡で見てください」、と勧められて、何点かのソフト帽を被ってみる、同じサイズでも形によって、眉毛にかかる位の深さに被れる帽子と、被れない帽子がある、何点か被っていると、どんな形の帽子がその深さまで被れるかどうかわかるようになり、2点のうちでどちらかにしようかと迷っていると、つばの広さが6センチと5センチ、そこへ店の主が全身が写る鏡を出してきて、「全身を映して全体のバランスを見てください」、するとつば幅が6センチよりも5センチのほうが全体のバランスが良い、店の主は、「お客さんは背はそこそこあるのですが、肩が撫で肩のセイで、つば幅の狭い5センチのほうが全体のバランスが良いようですね」、ということでサイズ58センチ、つば幅5センチにすることに、「被っていかれますか」、「ハイ、そうします」、という事になって、ソフト帽のデビューになった、値札や下げ札をはずして帽子を手渡す時に、「被ったら帽子を気にせずに、昔から帽子を被っているという風にしてください、それが帽子が似合うコツですよ」。 ということでそれ以来、ソフト帽を愛用している、フェルトの黒、続いて茶色を買って、春先にパナマの帽子を探していて、インターネットの帽子屋さん、帽子のメーカーで、インターネットに於いてのみ自社製品を販売、 サイトにはパナマ帽のサンプルのみを並べていて、注文を聞いてから生産、1つの形で前・後・横・真上・斜め前横上・リボン部分の6枚の写真がある、その写真を見ながら形を選んで、サイズは58センチ、つば幅は5センチ、編み組織は石目、色はアイボリー、一度も被っていない、注文ボタンを押すににためらい、タバコを2本ほど吸う間、ためらいながら、漸く注文ボタンを押す、インターネットのショップは注文から納品までの日数を如何に短縮するかが悩みの種、ところがこの帽子屋さんはバイオーダーである、注文待ち人数120名、納期は40日後、極めて珍しいサイトである、待っている間の始めの10日間ほどは、サイズが合うだろうか、眉毛にかかるくらい目深に被れるだろうか、果たして似合うだろうか、インターネットのサイトで注文した事に後悔、10日目が過ぎ、20日目が過ぎ、次第にその不安が薄らいでくる、やがて今度は後10日、後9日、商品が届いた時の期待が次第に高まっていく、後6日、その頃にショップからメールが来る、「永らくお待たせしました、ご注文の商品は明日の発送になります」、というメールが送られてくる、受け取りを明後日の午前中に指定する、もうワクワク、ドキドキである、クロネコヤマとの代引きである、お釣りのいらないように丁度の金を準備、やがて、ピンポ~ン、とチャイムが鳴って、インターホ~ンから、「クロネコヤマトの代引きです」、準備しておいたお金を渡して、はんこを突いて、玄関で箱のガムテープを剥がす、ケースの中に楕円形の蓋はこげ茶色で、ターコイズブルーのハットケースが出てくる、蓋を開けると、薄紙で覆われていて、それを取り去ると、帽子をひっくり返した形で入れられていて、ハットケースの中で動く事無く、押しつぶされたり、皺にならないように、固定されたように納められている、こういう梱包を見ただけで、繊維製品もメーカーを約35年、それは伊達ではない、その帽子の品質を窺い知る事が出来る、そ~っと取り出して被ってみる、いつも被っているソフト帽の位置に収まる、鏡を見なくても、もうこの頃には被った感じが感覚でわかるようになっている、念のために洗面所の鏡に向かう、思ったとおり、もう何年も被っている帽子のように頭に納まっている、インターネットで買い物をして、約35日も待たせて商品が到着、その上の感動と感激さえ与える、物凄いインターネットのショップのサイト。 夏物のパナマの帽子、いくら涼しいとはいえ、頭に汗をかく、こまめに脱いで、額の汗を拭き、帽子の内側もハンカチで丁寧に拭いているのだが、リボンのところに汗の塩が噴き始める、ぬるいお湯で濡らして手入れをするのだが、白い地図のようなものが出来てしまう、我慢して被っていても3年が限度、去年に同じサイトで同じ形のオフホワイトのメッシュ入りを注文する、2度目になると何の不安もなく、ただ単に出来上がりを待つだけ、部分的にメッシュが入っていると日陰に入って風が吹くと、またバスに乗って頭の上から冷房の風を受けると、それだけの事で物凄く涼しく感じる、以前はマルの散歩の時には挨拶をされるが、マルを連れていない時には挨拶をされないという事があった、今はソフト帽を被っていると挨拶をされるが、被っていない時には挨拶をされないという事がある、だから近くのコンビニへタバコを買いに行く時にもソフト帽を被って出かけていく。■「今日の言葉」■ 「 愛情を持って叱ることは 我が子と最良の交流となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 27, 2010
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四条通のアーケードの飾り付けが、祇園祭バージョンに変えられる頃、そしてスピーカーから祇園囃子が流れ出して、7月にはいると京の町は祇園祭一色になる、祇園祭は7月1日に始まって、7月31日に終わる1ケ月の長い祭、正確には唯一長刀鉾に乗る生稚児、かむろ2人はすでに新聞にも発表されていて、その人選は既に早くから始まっていて、その年、その年の最初の山鉾町における祭りの打ち合わせの行事、「吉符入り」、という行事も、世話役の人は日曜日の方が都合が良いという事で、明日当たりの日曜日に行われる町内もある、場所柄、夜間人口の少ない町内では、そこの町内に住む10軒以下の家の人の手で祭りが行われている町内もある、そこで、「今年の1月にお祖父さんが亡くなり、喪中につき、お祭は遠慮させていただきます」、という風に喪中の間はお祭のお手伝いができないことになっている、同級生で山鉾町の町内へ嫁いだ人もいて、「結婚して以来、20年ほど経つけど、「今年始めて祭りの間にユックリさせてもらう」、そんな話を聞いた事があった。 1ケ月間の長い祭、7月1日の長刀鉾の稚児とかむろが八坂神社に参拝して、祭りの無事を祈願する、「お千度の儀」、に始まって、7月31日の八坂神社境内の疾神社の夏越払いで終了である、祇園祭は八坂神社の祭り事、17日の山鉾巡行がメインの町衆が中心の祭り事、華道・茶道・能・狂言・舞踊などの家元の多くが京都にあり、それらの八坂神社への奉納の行事、この3つが7月の1ケ月の間に執り行われて、祇園祭とされている、その昔は7月17日に鉾の巡行、7月24日に後祭りとして山の巡行が行われて、それぞれのその前日の宵山が行われていたのだが、巡行のコースの変更や、交通量の増加、等々の諸問題により、7月17日に全ての山鉾が巡行されるようになった、その昔には巡行の順序が決められておらずに、巡行の順番を巡って争い事や事故が起こり、運行の順序をくじ引きで決めるようになり、各山や鉾のある町内、随分と道の狭い時代に、その町内の立地によって、巡行のためにスルーする事が難しい鉾に関してくじを取る事無く順序を固定、例えば毎年の先頭は長刀鉾で、まず四条通を八坂神社の方角に向かって東へ向いて巡行、この鉾が四条通の一番東にあり、先頭で巡行するのに都合が良かったと思われる、このように数基の山と鉾が籤を取る事無く順序が決められていて、「籤取らず」、と呼ばれている、その他の山と鉾は7月2日に京都市会本会議場内において、裃姿の京都市長の立会いの下で、「籤取り式」、で籤を引いて巡行の順序を決めている、また7月17日の巡行の日には、祇園祭の奉行役の京都市長が裃姿で四条堺町で控えており、この籤取り式の順序通の運行をされているかを検分、「籤改め」、が行われる、祇園祭は八坂神社の宗教行事である、その宗教行事に京都市長が立会い、行われる場所が京都市会本会議場内である、共産党や公明党の市会議員から、宗教行事云々の文句の一つがあってもおかしくないのだが、さすがは長い歴史のある祇園祭、世界的にも知られている伝統行事でもあり、京都の大きな観光行事でもある、その歴史と伝統の重みに敬意が表されているのであろう、それに対して文句や苦情を言う人は無いのである。 山や鉾町、祭りの巡行のための費用、山で数百万円、鉾で1千数百万円といわれていて、京都府、京都市、京都商工会議所、等々からお金が出ているが、これとて約半分、残りの半分はその町内から、各山や鉾町で販売されている、「粽」、これが大きな収入源で、この粽は食べる粽ではなく、山や鉾の名前が書かれていて、「蘇民将来之子孫也」、と書かれていて、スサノオノミコトが南海へ旅行中に嵐にあって難儀をしている時、蘇民将来の家で休み、食べ物が供されて、お礼にスサノオノミコトが、「蘇民将来之子孫也」、と書いたお札を渡して、「これを家の入り口の貼り付けておくと、あらゆる災いから逃れられるであろう」、と言い残したといわれていて、ご利益は殆んどが厄除けであるが、中には安産、立身出世、学業成就、火事除け、雷除け、などのご利益のあるものもあり、各家庭では好きな山や鉾があって、毎年そこの粽を買い求めている、粽のご利益と共に、粽を買って祭りに参加している意識もある。■「今日の言葉」■ 「 物を大切にする暮らしの中に 心豊かな生活がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 26, 2010
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ワールドカップ南アフリカ大会の日本の決勝トーナメントの第3戦、キックオフは午前3時半、たまたま今日と明日が連休、少々睡眠不足になっても、2日間の間に取り戻せる、それと第1戦のカメルーン戦の試合寸前の選手の怖いほどの表情、日本代表としてワールドカップの試合にかける覚悟のようなものがにじみ出ていて、身体を張って、走り回り、90分間を戦い抜く試合を2戦とも戦い、第3戦は兎に角見よう、早く寝て、キックオフの時間に起きよう、この早く寝てだが、寝酒を飲んで、睡眠導入剤を飲んでも、いつもの寝る時間よりも早くというのは寝にくいもので、結局いつもどおりの寝る時間、12時前にベッドに入る、目覚ましをかけようかなと思いながらも、目覚まし時間をセットするのがめんどい目覚まし時計、それとオレと同年代の人なら同じと思うが、毎日、凡そキックオフの時間くらいには、一度はトイレに起きる、だから目覚ましをセットする事無く寝ることに、案の定、午前2時45分くらいに目が覚める、トイレを済ませる、ここで寝てしまうと45分後に目を覚ます自信が無い、そこでキッチンにあるキッチンタイマーを45分にセット、ピッ、ピッ、ピッ、血圧が高い分寝起きは良い、タイマーを止めるが、さすがのこの時間は眠い、タバコに火をつけて、目覚ましタバコ、寝タバコは火事の元で怖いが、寝る前のタバコと、起き掛けのたばこは毎日の習慣、寝る前のたばこの時に眠る事は無い、寝起きにたばこに火をつけると身体が条件反射で、それで身体も、頭も目覚める、向かいのワンルームマンションの部屋も電気がついている部屋が多く、テレビの音がステレオで窓から聞こえてくる、1階に降りて、顔を洗って、歯を磨いてテレビの前に座ると、もう本田のフリーキックが入った後で、日本が1-0でリードしていて、フリーキックのシーンがビデオで流されていた、折角この時間起きたのに、このシーンを見逃したのは惜しいと思われるのだが、オレの心臓と血圧には丁度良い、そしても1点と思っているところに遠藤のフリーキック、この1点の陰で後半は落ち着いて見ることができた、ハラハラ、ドキドキ、する事もなくノーサイドの笛を聞く事が出来た、また直ぐにベッドにもぐりこむ、寝ないでこの試合を見てから少し仮眠をして、仕事という人も随分いただろう、勝ったからテンションの高いままの勢いで仕事、しかし、もし負けていたとしたならば、朝から仕事の人は、多くの親戚のお年寄りを死なしていた事だろうと思う。 昨日の6月24日は、昭和が平成に変わり、平成という年号にようやく馴染がでてきた頃、昭和の大歌手・美空ひばりが無くなった日で、23回忌、子供頃に近くに3本立て専門の、いつ行ってもトイレの匂いが漂っている、いかにも場末の映画館という壬生館があった頃、オレが初めて友達同士で行ったのがこの映画館、悲しき口笛、東京キッド、あの歌超えて、そして嵐寛寿郎の鞍馬天狗、幼い角兵衛獅子の杉作に美空ひばり、新撰組の月形龍之介の近藤勇とらわれて、あわやという所に、石畳に響く蹄の音、八坂の五重塔の横を通り抜けてやってくる馬上の紫頭巾の鞍馬天狗、突如として映画館の中で湧き上がる歓声と拍手、比較的に年齢の近い憧れの女性スターであり、悲しき口笛のシルクハッとに燕尾服姿、当時はテレビも、勿論パソコンも無い時代、その代わり今では殆んど見られなくなっているブロマイドやさん、正月のお年玉で美空ひばりのブロマイドを買って、誰にも見られないように隠して、こっそりと眺めてニヤニヤしていた、ただそれ以後余りにも有名な大歌手、大スターになりすぎて、フアンだと名乗るのが恥ずかしくなった、同年代の男性で同じ思いを抱いている人多いと思う。 美空ひばりがなくなった当時、ゴルフに熱中していた時代で、日曜日の午前中に、桂川の堤防沿いの八条大橋を越して少し下流の打ちっぱなしにかよっていた、タクシーに乗って、行き先のゴルフの練習場を告げて、タクシーのドライバーは同じ年頃の女性、非常に気さくで話しやすく、初対面とは思えないほど話をしていて、桂川にかかった八条大橋あたりで、美空ひばりがなくなったねェ、子供の頃、映画の悲しき口笛を観てフアンになって、あの歌はカラオケでも良く唄います、橋を渡り終わって、桂川の堤防に差し掛かった頃、車がスピードダウンをして、道路わきに止まる、その女性ドライバーがハンドルにうつぶして、号泣、事情が分らないからうろたえる、車を降りて、「オレは、知らない」、と逃げるわけにも行かず、兎に角、こういうときにはまずたばこに火をつける、しかし言葉がかけられない、横を窓から覗きながら、が何台か車が通り過ぎていく、車のドライバーと視線が合うと、「ちがう、ちがう、泣かせたのはオレじゃないよ」、とばかりに手を横に振っている、やがてタバコを吸い終わる頃に、女性ドライバーは、鼻声で、「すみません、子供の頃からの大フアンで、長い間の追っかけで、亡くなったの知ってから泣いてばかりで、暫く仕事を休んでいて、今日は久し振りの仕事で、美空ひばりさんの話になって、ツイツイこらえられずに泣いてしまって、すみませんでした」、「そうか、それは悪かった、別にせくわけでもないので、泣くだけ泣いてもろうても良いよ」、「それではお言葉に甘えてというわけにも行きませんので、もう大丈夫です」、と直ぐにゴルフの練習場へ、この半年後の翌年の成人の日にも同じ車に乗ることになる、オレの方は車に乗って直ぐにルームミラーで顔に見覚えがあり、気がついたのだが、話をしてまた泣かれでもしたら大変と思い、気がつかないフリをしていたら、「お客さん、以前に乗ってもらったことがありますね」、「あ、あ~、覚えているよ、また泣かれたらと思って、知らないフリをしてました」、「あッ、思い出しました、あの時は迷惑をかけました」、「もう大丈夫?」、「ハイ、もう大丈夫です、今日はね、女手一つで育てた娘の成人式で、西京極の体育館へ送り届けてきた後なんです」、「では、着物姿?」、「そうですよ、はりこみました」、「そうか、今日は嬉しい日なんや」、「あきません、この話を続けていると、うれし泣きしそうです」、「ゴルフの練習場へつくまでは何も話をしない」、という事で目的地に付くまで無言、美空ひばりの命日が巡ってくるとこのタクシーの女性ドライバーを思い出す。■「今日の言葉」■ 「 金に対する執着が強くなるほど カネの苦労が多くなっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 25, 2010
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プロレスでは相手を振り回して、ロープの隙間から相手をリング外に投げ出し、投げ出されたほうもレフリーのカウント20までにリングに戻らないとかウントアウト負け、そのためにすぐに立ち上がって、リング内に戻る、これは普段のトレーニングに於いて、リング外に投げ出された時の受身のトレーニングをしているからである、しかし、ボクサーはというと、こういうことは滅多に起こらない事ゆえに、そういう時の受身のトレーニングはしていない、極めて希に、クリンチをしようという相手に対して、それをさせまいと、振りほどこうとして身体を回転させ、その弾みで相手が、ロープの間から飛び出してしまう、リングサイドには記者席などの机があり、それに身体を打ちつけたり、床に落下、こういう際の受身のトレーニングは全くしていない、だから身体を痛めて、試合の続行は勿論、立ち上がることも、自力でリング内に戻る事も出来ないという事がある。 この極めて希な事を今までに2度見ている、1度目はもう10年ほど前、長年にわたって世界ミドル級のタイトル防衛を続けている、チャンピオンのメイナード・ホプキンスのロバート・アレンがチャレンジ、アレンは絶好調でリングに上がり、ホプキンスは動きが鈍く悪いコンデイション、しかし強気のホプキンスはアレンを倒しにかかるが、それに対してアレンがカウンター、アレンのカウンターのタイミングのほうが会っている、ホプキンス危うしという立ち上がり、そこで百戦錬磨のホプキンスは得意のラフファイトに切り替え、クリンチしてから執拗に手出し、もみ合いになる、アレンもそれに対抗、ホプキンスは自分は散々やりながら、仕返しをされると、それをレフリーにアピール、レフリーは両者にクリーンファイトを促す、ホプキンスは調子の悪さをラフファイトで誤魔化そうとするが、ラフファイトでもアレンの勢いが優る、そして4ラウンド、クリンチになると揉み合いが激しくなる、ホプキンスはクリンチしながら、何発もパンチを、これはホプキンスの得意技、アレンはそれを嫌って振りほどこうとする、アレンの腰の辺りにしがみつこうとするホプキンス、アレンはそれをさせまいと、振りほどこうと腰を回す、しがみつきそこなったホプキンスは、ロープとロープの間から、リングの外に飛び出し、記者席の机に腰を打ち付けて、床に墜落、痛みにホプキンスは床を転げまわる、暫くの間休憩してホプキンスの回復を待つが、試合の再会に応じる事が出来ずに、結局、負傷引き分けかノーコンテストになって、世界ミドル級のタイトルは動く事はなかった、ホプキンスは永らく世界ミドル級にチャンピオンでありながらも、徹底したヒール役で、死刑執行人という仇名の通、リングに上がるときには、昔の死刑執行人がかぶっていた、黒い、先のとがった三角頭巾をかぶり、リングに登場すると観客はブーイングで向かえ、その三角頭巾を脱いでから、観客に向かって、喉をかききるポーズ、ここで観客のブーイングはさらにたかまる、そのブーイングを楽しむように不敵な笑みさえこぼれる、試合も時にはボクシングというよりもストリーファイト、そのホプキンスが余りにもの痛がり様、今日はどうも調子が悪い、それに比べてアレンは調子が良すぎる、試合が長引くと危ない、そこで思いついた窮余の一策がこれでは、これはホプキンスがわざと仕組んだと思い込んでいた。 もう一つの試合はつい最近のスーパーウエルター級のノンタイトルだが、実力者同士の対戦の12回戦、ポール・ウイリアムス対カーミット・シントロン戦、このクラスでは背が高く、リーチは208センチ、恐ろしく長いリーチ、このリーチを生かして左ジャブをつきながら右ストレート、いかにもこういうタイプに見えるのだが、性格が好戦的なのだろうが、打ち合いと連打が得意、アントニオ・マルガリートに完勝して一躍スターに、シントロンは距離の長い右ストレートが強烈な倒し屋で、マルガリートには2度倒されている、両者とも元チャンピオンであるが、現在は無冠でこのクラスでのサバイバルの一戦、普段の試合では長身に見えるシントロンもウイリアムスと向き合うと、随分と身長差が、リーチの長さにも随分と差が、いつもは攻撃的なシントロンだが、ウイリアムスが長いリーチからパンチを繰り出す、その打ち終わりに右ストレートのカウンター狙い、このタイミングがあっていて、ウイリアムスはリスクの大きな戦いぶり、それでも長いリーチのジャブをつきながら飛び込んでいく、勝負は一瞬に決まりそうな予感さえ漂うスリリングな展開、そうして迎えた3ラウンド、ウイリアムスガ飛び込み、シントロンの右ストレートが炸裂、ウイリアムスが一瞬腰を落とす、それで体勢を立て直して、ウイリアムスが飛び込む、シントロンが迎え撃つ、ウイリアムスがロープにはじかれ上半身がロープの間がら外へ、その時にシントロンの身体ははじかれたようにロープへ前のめり、ロープの隙間からまっさか様に転落、リングサイドの記者席でバウンドして床に落ちる、うつむいたまま起き上がることが出来ない、そこでレフリーは試合をストップ、てっきり負傷引き分けかノーコンテスト思っていたら、試合会場はカリフォルニア州、そこのローカルルールでは、3ラウンドにこういう事がおきれば、試合はそこでストップだが、それまでのラウンドの採点で勝者を決めるというルールが合って、2-1の判定でウイリアムスの勝利となった、シントロンはストレッチャーで頭と首を固定して、救急車で会場を後にした、リング下に落ちたシントロンは負傷判定負け、故意に落ちる理由は何も無い、ビデオを見てもこの試合は明らかに偶発事故、長くボクシングを見続けていると、こういう珍しい試合もあるものだ。■「今日の言葉」■ 「 一筋にやり抜く心が遂には その人を大きく造りあげる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 24, 2010
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ビール好き、アサヒスーパードライが売り出された頃、友達が、「このビールは旨い、ただカロリーが心配で、あんまり飲まんようにしている」、オレはカロリーの取りすぎの心配の無いたちで、カロリーが多そうなのでギネスなんかも良く飲むほうである、「ビールは何にしましょう」、と聞かれると、「サッポロラガー」、と答えて、「あ、あ~、すみません、それは置いてないです」、チョッと嫌な客である、とはいうものの、家ではビール、発泡酒、第3のビール、どれでもいい派である、だから当然の事ながら第3のビールである、350ミリの缶ビール1本が丁度いい量、特に明日が休みという夜には、「いただきます」、一口お酒のあてを口に入れて、ビールをゴクリ、思わず、フウ~、と声が出てしまう、しかし、こと食べるものに関しては、「あ~、旨い」、ということは滅多に無い、今年になってそれがあるだろうか、思い出せない、あるとすれば、京都に嫁いだ長野県のアイスクリーム屋さんの娘さんが、双子の赤ちゃんを連れて里帰り、その時に送ってもらったアイスクリーム、それを一口食べた時に、「あ、あ~、これは旨い」、と声に出した。 昼食は365日の内で、350日が麺類である、正月の1日と2日が仕事で、この2日間は仕事場の近くで開いている店となるととんかつ屋、確実に麺類ではない、だから363日の内で360日が麺類といえる、夏場以外は殆どは塩味、醤油味、味噌味の生ラーメン、間にパックのきつねかてんぷらの蕎麦か、うどん、これをあきないように適当にローテーション、夏場はソーメン、冷麦、冷やしうどん、ざる蕎麦、つけラーメン、冷麺、土曜、日曜、祝日の仕事の日には、仕事場の近くの手打ち蕎麦屋で蕎麦、ここで蕎麦粉10割のざる蕎麦の大盛り、秋になると蕎麦屋さんに新そばの張り紙、出町柳駅前の手打ち蕎麦屋さんへ行くようになって初めて新そばの旨さを知った、この店の女主、新そばの時期になると、蕎麦を打つのが楽しくてしょうがないと笑顔で話す、新そばの香りと新そばの弾力性がたまらない、1ケ月余り、新そばを楽しむことが出来る、今行っている河原町丸太町の手打ち蕎麦屋さん、手打ち蕎麦にしては細麺でそーめんよりやや太く、冷麦くらいの太さ、この店はあるそばやさんの蕎麦打ち道場で蕎麦打ちを覚え、そこの道場に通っていた何人かが、定年退職した人や、今は現役だが将来は蕎麦屋さんでもと考えている人達が数人集まって、共同経営で店をスタート、4人がけのテーブルが1つとカウンターに6席の小さな店で、3人づつ交代で店に出て、1人が湯がき専門、1人が客席専門、1人がてんぷら揚げ専門、全員がお客さん商売は始めてのことの様子、どこと無くお客さんとの対応にぎこちなさが残る、100%手打ち蕎麦の店では、皆がどこか偏屈そう、それも店の味、朝の7時くらいから蕎麦の手打ち、10割蕎麦は朝一番に打って、1日につき10人前限定、後は小麦粉を2割混ぜた28蕎麦、オレも2度ほど手打ち蕎麦を経験、麺棒で延ばしている間にひび割れがしてしまい、もう一度丸めて一からやり直し、ついにギブアップということもあった、細麺にするにはそれだけ細く延ばさなければならない、それを蕎麦粉10割で、これをいうと、少し鼻をうごめかせて、「そこは腕です」、この店の行き届いたところは店を開けてすぐのお客さんへの蕎麦湯は別の鍋に蕎麦粉を溶かし込んで、丁度いい加減の蕎麦湯を作っておいてある。 ここへ行くようになってから、秋の新そばが始まるのが楽しみで、店に新そばの張り紙が出るときには、辛味大根の張り紙も、当然の事ながら10割ざる蕎麦の大盛りと辛味大根を注文、辛味大根を蕎麦猪口に半分入れる、始めの一口は塩だけをつけて食べる、新そばの香りが口に広がり、新そば特有の弾力性が口に、そして二口目には付け汁につける、辛味大根の辛さが舌をさし、鼻に抜ける、そして新そばの弾力と香りが口と鼻に広がる、そして後からこの店特有のそばつゆの甘味が追いかけてくる、いつもは最後の三口ほどが飽きてくる、新そばの時期にはそれが無い、大盛りを食べた後ででも、もう一人前が食べたくなる、そば湯を飲みながら、年に一度は確実に、「旨い」、とつぶやいている、この店は11時から14時までは禁煙たいむである、超ヘビースモーカーのオレでもこの店での禁煙には賛成である、どう考えてもズルズルと蕎麦を口に入れた時に、タバコの匂いは蕎麦の香りと喧嘩する、だから店を出るとすぐにタバコを咥えて火をつける、ところが新そばに切り替わって暫くの間は、口に残る新そばの味と香り、それを歩きながらもう少し楽しもう、暫くタバコを吸う事をためらう、オレは食べ物には悔いは残さないタチではあるが、この店で間も無く新そばに切り替わるその寸前ならば、「せめて今年の新そばを食ってから」、とほんの少し悔いが残るだろう、きっと。■「今日の言葉」■ 「 困難も苦労もない生活からは 人生を学ぶことはできない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 23, 2010
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繊維メーカーの会社をしていた頃に、個人タクシーの組合の事務所があって、顔なじみの運転手も出来て、近くの喫茶店などで顔をあわすと、話し込む事があった、タクシーなどでノークラッチの車がまだ珍しい頃、そこの組合でもボチボチノークラッチ車に乗る人が出だして、シフトの車に乗っている運転者が、「アレは怖いよ、ブレーキとアクセルの踏み間違いが」、「ノークラッチの方が楽なんと違うノン」、「ノークラッチの運転手の車の前や後を歩くのが怖いねん、いつなんどき急発進されるか分らんから」、とそんなこと話していた、しかし、それは随分と以前の事であって、現在ではその運転手がノーくラッチの車に乗っているかは定かではない、ただ最近、特に年配の人の運転するノークラッチの車で、急に発進したり、急にバックしたりの事故が多いように思う、昨年の4月に左の太ももの血管が切れて以来、いまだに歩く事が元に戻っていない、だから歩く代わりに、マウンテンバイクに乗る事が多く、信号のない道から車が出て来た時に、ドライバーが携帯電話中の時は勿論、年配の人の運転する車の時には、手で合図をして、「お先にどうぞ」、とやりすごす事が増えた、基本的に急ぐ時にはマウンテンバイクに乗らないようにしている、結構、慎重なたちで青信号の点滅の時には信号は渡らない事にしている、これは慎重なだけではなく、信号のためにマイペースが乱される、この事が嫌いでもある。 今日は、もう約25年余り、月に一度の病院通い、40歳を過ぎた頃に定期健康診断において不整脈が見つかり、当初はその治療のために通いだしたのだが、心房細動、脈拍が上がっても急に心臓にバチンと来るタイプではなく、むしろ不整脈による脳梗塞の予防をかねての診察である、家からはバスで3駅の太子道の近くの病院で、マウンテンバイクで行く事が多い、ただ西大路通を四条から北へ、この道は登り坂であり、太子道の手前の150メートルほどが急勾配の登りである、還暦を過ぎた頃から、この病院へ行くためのこの登りがだんだんきつくなっていくのが分る、勾配がきつくなる手前からスピードアップをして、その勢いで登りきる、それがだんだんに出来なくなりつつある、最近ではマウンテンバイクのアシスト付が売られていて、それがサイクルショップで目につきだした、足がギリギリ地面に届くくらいに上げていたサドルも還暦を過ぎてから指1本ずつ下げ出して来て、随分と止まり易くなって来ている、マウンテンバイクも随分と古くなってきて、数ケ月ごとに、どこかのパーツが故障、サイクルショップで、こいつかオレはどちらが長持ちか、克っては良く見かけたが、最近では殆んど見かけ無くなった、と店員が懐かしそうに、そういえばこれを買った頃には輸入品のマウンテンバイクといえばシボレーぐらいしか見かけ無かったのだが、最近ではルイ・ガノ、ジャイアント、トレック、スコット、ビアンキ、キョノンデール、等々、本格的なマウンテン用からタウン用まで、オシャレなデザイン重視のマウンテンバイクまで、こうなるとせめて77歳まで、後9年、喜寿のお祝いにアシスト付をリクエストしよう、それまでは自力でこごう。 定期健康診断で不整脈といわれた時、それは何かの間違い、半年間ほど毎月検査、行くたびに心電図、その毎回の検査で不整脈、この頃になってようやく不整脈という事を信じるようになった、中学校時代はバスケットボール部と陸上部の掛け持ち、陸上は200メートルから800メートルまでの当時では中距離、高校では陸上部、真夏の校庭でインターバルトレーニング、汗が出尽くして、髪の毛や顔に汗の塩の結晶、意識も朦朧、そこへラスト5本の掛け声、300メートルを5本、最後はタイムが落ちすぎ、もう1本、「この1本で、今日のベストタイムをだそう」、そういわれろ本当に今日のベストタイムがでるもので、こういう練習を3年間、肺も心臓も鍛えられる、30歳くらいの頃に生命保険に入るために検診、その時に医者が、「何か運動を?、心臓のリズムがいいですね」、そういう事もあって、胃腸には自信は無かったのだが、心臓にはめっぽう自信があった、ところが不整脈、この時に心電図の24時間検査、頭や心臓に多くのコードをつけて、負荷をかけたランニングマシン、脈拍数を150以上に上げて、心電図の乱れをチェック、心臓のエコー検査、MRI検査、等々の様々な検査の末に、心房細動による不整脈と診断、数ヶ月間不整脈を治す薬の治療、これも効果なく、主治医は、「不整脈はもう持病かもしれない、これによる脳梗塞などの予防のために幾つかの薬を飲みながら、月に一度の定期的検査を続けましょう」、という事で月に一度の定期検査が始まってから、約25年余り、その月によって尿検査、血液検査、胸部のレントゲン検査、心電図検査、心臓のエコー検査、の繰り返し、といっても検査は僅か、数十分で終了、後は検査結果が出るまで、診察室から呼ばれるまで、ひたすら待つだけ、本を持参で行くが、数ページを読むと居眠り、時々、壁に頭をゴ~ンと打ち付けて目を覚まし、またウトウトと、最近では病院内に喫煙場所が無い、タバコは我慢をする、それでも待ち時間が2時間を越えると、待つ事とニコチン切れで、イライラが始まる、エ、エ~ィ、と病院の外へ出て行きタバコを一服、すると先ほどまでのイライラがうそのようになって待合室に戻る、オレよりも後のはずだった人が病室に呼ばれる、病室から出てきた看護婦さんに、「先ほど呼んでいましたが」、「すみません、その時トイレに行ってました」、クスッと笑いながら、「次に呼びますから、トイレもタバコも行かないで下さい」、「ハイ、わかりました」。■「今日の言葉」■ 「 夫婦円満は互いのはたらきを 感謝し合うことから生まれる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 22, 2010
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「始末書」、というものは何度か書いたことがある、罪や、ルール違反を犯して、その行為の反省及び再びその事を起こさない事の誓いを文章にした書面の事であり、自主的に自ら提出するのは、「詫び状」、であり、提出を求められて書くのが、「始末書」、中学校の3年生の卒業前に、当時の校舎は木造で、床や廊下も木製で、学期の終わりに、この床や廊下を油引きの作業を生徒がする、当番が決まっている訳ではない、なかば自発的に有志がそれを担当、どちらかといえばこういう事は避けていた、周りにはそういうやつらがいた、最後の油引きの日に、「もう最後だろうし、いっぺんぐらいやろうか」、という事で最後の油引きの日に、10数人が集合、言い出したのだからまず床を箒ではいて、その後、モップに黒い油をつけて、床と廊下に塗りつける、そしてその作業が殆んど終了した頃に、「この黒い、汚い油は何の油?」、「使い古したほかす油、廃油なんや」、「こんな油は燃えるやろうか」、「燃えへんでェ」、「燃えるやろう」、意見が分かれた、すると、「試してみよう」、という事になって、ポケットからマッチを取り出して、(こういう時に中学生でありながら、ポケットからマッチが出てくる、実に準備の良いやつがいたもんで)、マッチをすって、油引きを終えたばかりの床に近づける、指が熱くなってからマッチの火が消える、「マッチでは、アカンで、新聞に火をつけて、・・・・・」、となって、新聞紙に火をつけて、それを何人かが床にこすり付けている、そこへ、「がら、ガラ」、教室の戸が空く、戸をあけたのは男性の英語の教師、この教師の目に映った光景は、「卒業生が学校に恨みを抱いて放火寸前」、であった、顔は青ざめ、震えて、声は裏返り、「こら~、ほ前らは、何をしてるんや」、(がたがた震えて、声が裏返っているから、「おまえら」、というところを、「ほまえら」、であった)、何度も、何度も、「放火するつもりか」、と叫んでいる、やがて教師が顔を青ざめ、声を裏返して、震えながら叫んでいるのが、理解ができた、「成り行きを知らんと、この場に飛び込んだら、そう思うのも無理はないわァ~」、となって10数人が整列、「お前等は、今何をしようとしてたんや」、「遊び半分の冗談です」、「そんなアホか、燃焼の3条件とは?」、「発火点以上の温度があること、酸素があること、燃料があること」、(さすがに公立高校の受験日の前々日、3条件がすっと言える)、「学校に恨みを抱いて、校舎に放火しようとしてたんやろう」、という事で緊急職員会議を開催、そこで下されたのが、その場にいた全員に無期停学処分、ここで始末書云々の話になるが、中学校で残されているのが卒業式のみ、という事で生涯初の始末書を書くことは無かった。 それから約3年後の高校3年生の秋、クラスは理系と文系の進学クラス、文系のオレは数3の授業時間には、いつも陸上部の部室へ行って、タバコを吸うか昼寝、そんなある時にタバコを吸っていると、部室の入り口横の窓ガラスが割れた隙間から誰かが覗いている、「誰や、入って来いよ、タバコならあるでェ」、と声をかけると、入り口のドアーを開けて入ってきたのが、生徒補導の日本史の教師、逃げも隠れも出来ない授業をサボって部室で喫煙の現行犯、当然のことながら無期停学、担任の国語の教師から無期停学やけど、週末に家庭訪問をする、その時に今回の件の始末書を書いておけ、それを月曜日の職員会議に提出して、そこで無期停学は終了、次の日から学校へ出てきても良いだろう、という事で生涯初の始末書なるものを書くことに、「私こと、○○は○月○日の3時限目の授業を抜け出して、クラブの部室内において、喫煙行為、高校生として校則違反、あるまじき行為に対して、無期停学、この間家庭においの謹慎中に、自らの行為大いに反省し、多くの教職員の皆様方に多大なご迷惑をおかけした事に心よりお詫びを申し上げます、今回の件を深く反省して、このような行為を2度と繰り返したくない思いで、努力いたしたく考えますので、寛大なご処分のほどをよろしくお願い致します」、と書いて担任の国語の教師に渡し、職員会議に提出して、この始末書のお陰で無期停学が解けたのである。 そして再び登校した日の放課後、担任教師が、「この始末書の原稿はオヤジさんかい?」、「いいえ、自分で書きました」、「そうか、3年間の間、君の国語を担任していて、君の論文形式の答案は、実に面白い、自身のないことは、持って回った書き方で、これは正解ではないと思っていても、文章を読んでいて果たして間違いかという疑問もわいてくる、今回の始末書の中で、『このような行為を2度と繰り返したくない思いで、努力いたしたく考えますので』、の件、職員会議の中でこの始末書に異議を申し立てる教師は誰も無かったのだが、普通なら、『2度としません』、と書くところを、如何にも君らしい独特に言い回し、思わず職員会で噴出しそうになった」、この時には褒められているのか、けなされているのかはピンとこなかったけれど、「将来、君は文章を書く仕事につく気はないか」、「商売にしか興味は無いです」、「そうか、商売をするにしても将来に役立つから、最低でも月に1冊の本を読みなさい」、「月に1冊ですか、それは簡単です」、「生涯となると、案外難しいぞ」、大学の4年間はギリギリにノルマをこなしていたが、その後の約40年間ほどはまりっきりノルマをこなしていない生活、いやそんな約束さえも忘れていて、このブログでその高校の教師の思い出を書いていて、約500冊くらいの本を読むことの借りが出来ている、残りの10年間ほどでこの500冊を取り返そうと思っている、月に6、7冊、不可能な数字ではない、この1年間はそれを上まわるペースで読んでいる。 昨年の暮れから浅田次郎の本ばかりを読んでいる、「輪違屋糸里(上・下)」、「壬生義士伝(上・下)」、に始まって、「プリズンホテル(夏・秋・冬・春)」、「地下鉄に乗って」、「日輪の遺産」、「霞町物語」、「勇気凛々瑠璃の色(四十肩と恋愛・福音について・満点の星・人は情熱がなければ生きていけない)」、「歩兵の本領」、「鉄道員」、「三人の悪党」、「血まみれマリア」、「真夜中の喝采」、「見知らぬ妻へ」、「椿山課長の七日間」、「天国までの百マイル」、「月のしずく」、「姫椿」、「お腹召しませ」、「オー・マイ・ガァ!」、「月島慕情」、「沙高樓綺譚」、このほかにまだ数冊読んでいる、4冊に分かれている、「蒼穹の昴」、氏の本の中で、中国の清朝末期の西太后の頃の物語で、始めて挑む時代小説、しかも中国の、長い時間をかけて書き上げた力作と書いている、この長い小説を読みきれるか、少々自信が無く、恐る恐る、1冊目を買って読み出した、最初の10ページ、読んでいるだけで肩に力が入り、2冊目を読み終わった後で、当時の中国の風景、官位を象徴する服装、中国人の人名、しかも中国のこの時代のことは世界史の中でも、余り学ばない時代、少々疲れが出てきて、短編集を2冊ほど読んでから、早く続きが読みたいという気になるまで待ってから、一気に3冊目、4冊目を昨日に読み上げた、最後まで読むことが出来るかの心配は杞憂であった。 2度目の始末書はというと、ヨメに対する浮気のお詫びの始末書である、曖昧な不確かな表現は削除されて、恥ずかしながら、「2度としません、ごめんなさい」、に近い文章で、ヨメ曰く、「これは棺おけに入れる」、といっているが、果たしてオレのかヨメのかは知らない。■「今日の言葉」■ 「 現在の生活の中に喜びを見出せ 幸福はそこから始まる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 21, 2010
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日本相撲協会、ここ数年の間に様々な問題が明るみに、一連の朝青龍問題と・事件、八百長問題、大麻事件、新弟子暴行死事件、相撲協会維持員席における暴力団員の観戦問題、そして今回の野球賭博事件、現役の大関が場所中にも拘らず、警察の通称マル暴からの事情聴取、大関本人は関与を否定、しかしである、マル暴が暴力団の大きな資金源になっている野球賭博を調査、その中でその大関の名前が浮上、当初はその大関が暴力団員に強迫を受けている、事件のような報道であった、しかし事情聴取を受けた先が先であり、しかも本場所中、異例中の異例である、少なくとも親方及び相撲協会の役員はこの事件の大きさに気付くべきところであるが、ここ数年におきた問題・事件の度に指摘されている事だが対応のまずさ、対応のまずさ、小手先だけの対応、問題・事件そのものよりもむしろ相撲協会の能力、閉鎖的な体質そのものが問題にされている。 力士はプロスポーツ選手としての現役時代の収入というのは際立って高額とはいえないが、例えば30歳で引退して、親方になって相撲協会に残ると、親方の定年までの現役時代生活よりもはるかに長い期間の収入、これが極めて恵まれている、その昔、出羽の海部屋の系列部屋であった三保ゲ席部屋、この部屋は弟子が僅かで、部屋には土俵がなく、出羽の海部屋へ毎日出稽古、漫画などに出てくる貧乏部屋の最たるものであった、ところがその部屋から北の湖が横綱になり、長きに亘って横綱に在位、その間に三保ゲ関部屋は土俵がついた立派なビルになった、親方としての給料とそれ以外に横綱・大関・3役力士・幕内力士・十両力士を育てると、それに対してその部屋に場所ごとに収入があり、それだけではなく、タニマチと呼ばれている後援者からの接待、食事とお酒、親方と招待された力士に金一封が渡される、若くして横綱になった北の湖、三保ゲ関親方と同席で随分とこのような接待に呼ばれることがったであろう、引退して、今度は自身が北の湖親方として、部屋の力士と共に接待を受けるようになって、その時に始めて親方にだけではなく、招待された力士にも金一封が渡される事を知ったという、長い間親方が横綱への金一封をも自分の懐に入れていたということである、相撲協会の親方というのは実に美味しい仕事なのである、悪く言えば親方が現役力士を食い物にすすることができる巧妙な仕組みが構築されているのである、これだけのトラブルを起こして、日本相撲協会にその能力が無いといわざるを得ない、通常ならば外部からその能力のある人を迎えれば済むわけであるが、それを頑なに拒否、外部からの実力者にその部分を知られたくない、親方としての既得権益を守り続けたいのであろうと思う。 本場所と本場所との間に地方巡業、表向きは地方巡業の間に力士の実力アップ、出来るだけ本場所が行われない地方で相撲を見せる、フアンサービスの一環のようだが、地方巡業の興行にはその地方の工業主、勧進元といわれるその地方の実力者の協力が必要で、その実力者が暴力団であったり、○○興行という法人でも、暴力団と関係の深い法人であったりする、こういう経緯で日本相撲協会と暴力団との切るに切れないしがらみを大目に見られていた時代も克ってはあったが、最早その時代ではない、そのようなその地の実力者の協力を得ないと巡業興行の出来ない地方へは地歩巡業に行くべきではないが、そのようなリスクを犯してまで、その地に地方巡業をかける、これはよほどの美味しい事があるのではないか、そんなことを考えてしまう、それといじましいとも思える、「ごっつあん」、体質、この体質を変えない限り、黒い交際を断ち切ることはできない、百歩譲ったとしても、相撲協会や親方が現役力士の防波堤になる、それも出来ていず問題・事件が表面化すれば、当事者の処分というトカゲの尻尾きりに終始。 遅まきながら相撲協会がこの野球賭博事件に動き出して、「ウミを全て出し切る」、といって期限もうもうけて自主申告すれば、お咎め無しにする、そこで29人人の現役力士や親方が申告、事は仲間内での麻雀や花札やさいころ博打でもなく、競馬・競輪・競艇でもなく、違法の野球賭博である、理事長が期日までの自主申告すればお咎めをしない、これを言う事もおかしいし、自主申告をすればお咎めが無いと思い込んで自主申告をするほうもおかしい、違法野球賭博を咎めるのは法律である、この事を見ても日本相撲協会の理事長以下、理事、役員には文部省管轄の公益法人としての運営能力に極めて乏しいといわざるを得ない、その結果が相撲が一格闘技となるか、国技として存続するか、ここまで追い詰められている、スポーツでありながら部分的に神事の部分もあると理解している、大阪場所で知事杯の贈呈の際に、女性の太田・元大阪府知事が千秋楽の土俵に上がって贈呈を希望、女性が土俵に上がること云々の問題の時に、この事は女性蔑視とかではなく、神聖な土俵に女性を上げないこれが伝統である、この意見には賛成をした、土俵というものはそれだけ神聖なもので、力士が土俵に上がって四股を踏んで、五穀豊穣を願う、この神聖な土俵に違法な野球賭博をした力士を上げていいのか、これを考えた時、本場所の開催を1年間ぐらい休む決断が、国技としての相撲を守る唯一の方法になるであろう。■「今日の言葉」■ 「 自分を知る難しさが分れば 忠告の有り難さが分る 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 20, 2010
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間も無く68歳の誕生日を迎えようとしている、「若く見える」、「元気だ」、「まだ現役」、そういうことはもうどうでもよいが、興味のあること、美しい女性の事、士もネタの話、面白い事、楽しい事となると、目をキラキラ輝かせて、「どこか少年の面影を残し、色気のあるジジィ」、になりたい、年齢から行くと消灯ラッパを聴くまでには少し時間が残されていて、しかし、概ね戦いすんで日が暮れての状態で、同級生の中で突き抜けたやつは考えてみると、大手都銀の頭取の一歩手前まで行った男、京都府会の議長から国会議員を目指して、4度の国政選挙で落選後に政界を引退した男、5指に入る大手ゼネコンの重役になった男、そのほかはというと、京都弁で言うところの、「ぼちぼち」、である、ただオレ的偏見による羽振りのよさイコール出世度、オレが夜な夜な、立ちんぼの黒服が振り返るほどの美人と祇園界隈うろついていた頃、50万円が丁度おさまりの良いゴールドファイル社製のペッカリーの札入れを持参していた頃に、爬虫類系の札入れに、いつも100万円を入れて持ち歩いていたが男2人、1人は名古屋でパチンコ店5店と喫茶&パーラーを経営していた男と、もう1人は消費者金融(サラ金)、京都ではどこかでからみのある人と金銭の貸借関係が出来るかわから無い、あえて京阪神を避けて、知り合いのいない地方、石川、富山、仙台あたりで店舗を経営していた男、オレ的尺度で測れば羽振りが良かった、2人とも西院フェスのパンフレットの3万円くらいの広告スポンサー、第2回の時に依頼の電話をすると、「何のためにそんな事を」、「オレの顔立てや」、「それならわかった」、ということでスポンサーに、第5回の頃に名古屋のパチンコ屋の男が、「最近は大手が参入して、零細のパチンコ店は不況業種なんや、1万円口くらいにしてくれ」、と泣きが入った、そして第7回の年には、消費者金融の男が、「お前も知ってるやろうけど、過払い訴訟では連戦連敗、ケツに火がつきだした、1万円くらいのヤツなら協力をする」、という事になった。 6月18日から新しい貸金規正法が施行された、上限金利のグレーゾーンといわれている部分の金利を廃止と個人の消費者金融からの借り入れの総量規制、年収の3分の1以上を借りれすることが出来ないという法律である、高利の金利に苦しむ事無く、多重債務に苦しむ事を無くすのが目的、現在では日本人の10人に1人が消費者金融を利用、この新法が施行されると約600万人が新たに消費者金融からお金を借りることが出来なくなる、この消費者金融からの借り入れの人数、約600万人が年収の3分の1以上を消費者金融からの借り入れに依存、この事はどう考えても社会問題である、雇用問題、雇用の中身、格差社会、子供を育てるためのコストの問題、高齢者の福祉問題、原因はこれらにある、この部分を直す努力をせずにして、多重債務、高金利の返済という極表面的な部分に、特効薬つけようとしているに過ぎない、要は消費者金融に頼らなくても生活を成り立つようにすべきである、まさの本末転倒とはこの事で、昨日は街頭で貸し金規正法が変わるキャンペーンをしていた財務省の副大臣が、あることを治そうとすれば、副作用はつき物だ、とコメントしていた、国会議員は選挙のための活動しかしない、まさにこの典型とも言うべきコメント、根本治療をする事無く、部分的治療のみ、その部分的治療に恐ろしい副作用、命を落としかねない副作用を当然のことというように言ってのける無亜神経さ、困窮にあえぐ国民の命さえ守ろうとしない政治家、恐ろしく不人情な国になったものだ。 新しい貸金規正法が施行されると、消費者金融を利用している人のうちで、約600万人の人が個人の借り入れ総量規制によって消費者金融からの借り入れが出来なくなる、この人達は月々の不足するお金をどこで調達するか、個人金融には消費者金融というのがあって、財務省に届け出て、認可されている金融会社である、それとは別に財務省にも届けず、無認可の金融会社というのもが存在する、所謂ヤミ金である、金利も暴利であり、債権の回収は過酷であり、暴力的でもある、それでも今後このヤミ金の利用者が大幅に増える事が確実に予想される、貸し手の債権保護の名目で自己破産者や今回の新貸し金規正法で新規借り入れ不可能な人の氏名を銀行、カード会社、消費者金融会社、その他に於いてその情報が共有される、自己破産をすると、自己破産者の氏名が公表される、するとその後2ケ月間ほどの間にヤミ金の200社くらいから、「あなたへ融資額は30万円です」、「あなたの融資限度額は80万円に決定しました」、こういう葉書が送られてくる、もし、子供の学費などでどうしても近々の10万円が必要、そんな時にこの手の葉書、自己破産者のお金を貸すなんて、誰がどう考えてもおかしい事である、しかし、世の中にはそんなどん底の人間からでも銭儲けをたくらみ、銭儲けをする人間がいるもので、事務所に電話をして、事務所に出かけて行くと、「あなたの条件はいくらなんでも悪すぎる、いくら私でも貸すことが出来ない、特別の高い金利で、特別に悪い条件でよければ、その10万円を特別に融資をしましょう」、という事になって、高い金利、悪い条件でも、怖いヤミ金のお金に手をつけてしまう、恐らく新貸し金規正法で新規の借り入れが出来なくなった人へ、明日ぐらいからおびただしい数のヤミ金業者からのダイレクトメールが送り届けられる事であろう、この結果としてヤミ金業者からの借り入れが大幅に増加する事は火を見るよりも明らかである、だから6月18日に新貸し金規正法が施行されるのは決定しているわけである、この副作用も当然の事ながら予想されているわけである、だったらヤミ金業者の徹底的取締りも出来たはずである、それを実施したという話は聞かない。 多重債務者の救済策には自己破産という手続きがある、数年前から弁護士事務所の過払い訴訟に関するテレビコマーシャルが異様に増加している、この不景気な時代に於いてである、この過払い訴訟というのは弁護士事務所にとっては確実の訴訟に勝つことが出来て、弁護料が入り、それだけではなく過払い分が返還されれば成功報酬支払いの契約、この契約はクライアントのその契約時点の心理状況を考えると、明らかに不当な状況での契約といわざるを得ない、それと弁護士というのは正義のためにという後ろ盾がある時には、巨大な権力、暴力とも戦う事が出来るが、お金儲けのための弁護活動となると、強い気持ちで、命がけで戦う事は出来ない、自己破産の相談に訪れた人の債務状況を確認して、ヤミ金からの債務は除外して破産手続きに入り、自己破産をして、全ての債務が免責、但しヤミ金からの債務が残ってしまったという事例も発生している、財務副大臣は副作用というが、ヤミ金に手をつける人も命がけ、ヤミ金業者も命がけ、しかしこの方を作り、施行し、運用する立場の人だけが命がけでは無い、どう考えてもおかしい時代といわざるを得ない。■「今日の言葉」■ 「 自分が苦労を避けたら周りが その苦労を背負うことになる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 19, 2010
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ネットのあるシニアコミュニテイが、10年の活動を終えて、本日で以ってサイトがクローズされる事になる、このサイトに登録したのが2001年11月3日である、高齢者用のくつろぎ機を製造販売するネットショップを立ち上げて以来、多くの検索サイトに登録、様々なネットのサイトにリンクの依頼、次に思いついたのが、高齢者専用の衣料品という市場さえない、それを多くの人に知ってもらうために、幾つかのシニアコミュニテイにメンバー登録をして、ここで宣伝活動と販売促進をするのが目的であった、1999年10月末にオヤジの代からの繊維の製造メーカーの会社、順調だった経営が、突如として2年にわたって売り上げの急激な減少、数ケ月先での倒産の危機、これを回避する手立てが見つからずに、銀行・販売先・仕入先に7ケ月先には迷惑は一切かけないからと、会社の整理の支援を要請、「会社を継続のために支援は出来ないが、整理のためなら支援をしよう」、前へ進むなら応援はしない、退くなら応援しよう、これで腹は決まった、10月末まできれいに手仕舞いをしよう、長い付き合いの滋賀県の機屋さんのオヤジが、「ぎょうさん手仕舞いを見てきたが、こんなにきれいに手仕舞いをしようというのは滅多に無い事や、銀行が手形を割んとか言い出したら、いつでも手形を持ってきたら割るでェ、それぐらいの応援はさせてもらう」、この言葉が支えになって、10月末に社員の退職金の支払い、加工賃の支払い、仕入れの支払い、発行済みの手形を落とし、新聞の支払いまでの小口の支払いも済まし、残るは幾つかのリース代、金融機関からの借入金だけにまではこぎつけて、その11月からは無収入、会社の土地建物を売却して、金融機関からの借入金の返済に充当。 この時点ではまだ億単位の借金、翌年のゴールデンウイーク明けに会社の土地建物を売却して、金融機関からの借入金の返済に充当、しかし、京都保証協会の保証付借入金が数千万円が残る事に、ここでネットショップで借金の返済をしようと計画、ネットショップを始めるにはショップのサイトつくり、知り合いのサイトを作る会社へ、50万円を持って、「このお金でネットショップを作ってくれ」、「ちょっと待って~なァ、PCのことはどれくらい?」、「インターネットを見ることと、メールを送る事くらい」、「それは無茶や、少なくとも1年間の間、PCの事、ネット社会の事、ネットショップの事を勉強して欲しい、サイトを作るのはそれからにしましょう」、それから無料のIT関連のセミナー通いが始まって、大阪の産業創造館主催の超ハードなインターネットショップ開業支援セミナーに申し込む事に、このセミナーの講師陣は1995年頃にネットショップを開業して、売り上げの成果を挙げて、ネットショップ業界においては名の知られたネットショップのウエブマスター達であった、講義の内容は長実践的な、誰からも見向きもされないようなショップ立ち上げから、如何にしてここまで来たか、お客さんの信頼を得るネットショップにするにはどうすれば良いか、殆んどが自分のサイトでの経験談であり、講義時間の2時間だけでなく、その後のオフ会でさらに突っ込んだ話、これを1ケ月の間に13回講義、26時間、受講者は35人で全員が同じ目的、しかし、ITのスキルにおいては大きな差、自慢にはならないがITのスキルはオレが最低、息子より年下の受講生が、「ITでわからない事は、ITの中を探せば大体のことがわかる、しかし、ボクには経験が乏しい、これには時間がかかる」、この言葉には自信をなくしかけていたところに大いに勇気付けられた、このセミナーのお陰で大学を卒業して以来、約35年間ほどの経験をITの世界に置き換えることが出来るようになった。 お陰で歳の割りにすれたITユーザーになっていて、幾つかのシニアコミュニテイのメンバー登録していた中で、どうしてもそのコミュニテイとの相性のようなものがあり、幾つかの掲示板に話題を提供するよりも、写真投稿のカメラアングルコーナーというのがあって、そのコーナーにほぼ毎週京都の写真を投稿し、京都の絵葉書で見るような写真は一切なく、何気ない京都の風景が殆んど、ただ、時折京都の3大祭風景なども、これを1年も続けていると、お寺の塀の上に散ったもみじ、「大徳寺の散紅葉」、という題にすると、京都へ観光に訪れた事のある人が、その時の大徳寺の風景を思い出して、優しい、心温まるコメントをいただくようになる、しかも最近になってPCを覚えたばかりのような人達も、しかもオレよりも10歳も、20歳も年上の人たち、そうこうしている間にこのサイトのメンバーになった当初の目的、ショップの知名度を上げる、ショップの販売促進をする、このサイトにそれを持ち込む事は良くない事、との思いにいたり、このサイトの自称、善良なメンバーとして過ごすようになる、掲示板に書かれている投稿、無機質なPCの向こう側には、同年代の同じ喜びや、同じ苦しみや、同じ悩みを持つ人たちがいて、そこに敬いや、尊敬すら抱く人たちがいて、この間に数回のオフ会で、実際に会って、食事をして、お酒を飲んで、仕事の順調な時には周りに多くの人がいて、会社を整理してしまうと、その人たちは見事なまでの遠い存在の人となる、そんな中で新しい付き合いの人たちが生まれる、このサイトに登録した頃には、オレの前に魔の3択が待ち受けていた頃である、1、自己破産、2、うつ病、3、自殺、これをオレは当時は魔の3択と呼んでいた、このサイトのメンバーになって、約9年、その前半部分においては自分でもその魔の3択のどれを選ぶのか予想できない状態の頃であった、数年前に財産は無くなったが、同時に借金もなくなった身分になれた、このサイトとこのサイトのメンバーさんは、この苦しい時の大きな支えになった、今日の夕方このサイトを覗いてみた、サイトのクローズの挨拶と長年のお礼の言葉だけになっていた、苦しい時の戦友と別れような気分で今日のブログを書いている、しかし、京都の街に祇園囃子が流れ出す頃には新生シニアコミュニテイとして再スタートと聞く、ここ2年ほどは祇園祭の写真をあまり撮っていなかった、今年は頑張って撮りに行こうと今から思っている。■「今日の言葉」■ 「 物や道具に感謝できる人は 働きをより大きく伸ばしていける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 18, 2010
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マンションの管理人の仕事の日、8時15分前に仕事場に到着、入館、警備解除、名札をつけて、鍵を、一つは首から提げて、もう一つをズボンの左のポケットに入れて、ガレージのシャッターを開ける、私のゴミ回収業者のパッカー車が8時から8時15分の間に回収にきても回収が可能なように、出勤簿にその日の勤務時間を書き込む、管理日誌に書きも込む、ここで持参のジャーの珈琲を飲む、ついでに管理人室は禁煙なのでメールボックス投函用入り口の外に出る、丁度この場所は住人さんが窓から見ることができない全くの死角の場所で、オレの喫煙所、ここは夜間に暗いので、センサーライトが取り付けてある、タバコを吸いに出るたびに、センサーがキャッチ、電気がぱっとつく、これではたまらんと、センサー範囲を少しずらして、オレがタバコを吸いに出てもセンサーライトがキャッチしないようにセンサー範囲を少しずらして設定、エコーというタバコ、安いタバコだけあって、葉っぱがぎっしり詰まっていない、だから吸うのは極短時間、普通のタバコを吸う半分の時間、約1分30秒、吸殻は勿論携帯灰皿に入れて、「さあ、仕事!」。 空のプラスチックの衣装ケースをつんだ台車を持って7階へ、このマンションは各戸のエントランスにゴミだし、それを管理人が回収するのがゴミ出しのルール、一応午前10時までというルールがあったのだが、このマンション、この不景気な時代にセカンドハウス、或いはサードハウスとして購入の住人さんもいる、マンションにやってきて、帰る時に、時間に関係なくゴミだし、それもサービスのつもりで回収していたのだが、常時居住の住人さんものべつ幕なしにゴミだし、だから平均して1日に7回の館内巡回、その度にゴミを回収、中には1日に3回も、4回もゴミだしする家もあり、家に全くゴミを置かない生活、各家庭にゴミ箱が幾つあるのか、果たして無いのではと思う、しかもゴミの分別は全くなし、ゴミを分別すると、私のゴミ業者の月々の委託料が高くつく、乱暴な話だが、だからゴミの分別は全くしない、これがこのマンションの分譲が始まって以来約5年、一般家庭では京都市指定のごみ袋にてゴミの分別、ゴミを処理するところは同じ場所なのだが、私の業者は全く分別しないゴミを処理場に持ち込み、こんな事はそう長続きはしないと思いながらも、実際に今年の3月末までの長続き、4月1日より私の業者でもマンションの回収ゴミの分別を義務化、6月1日からは透明の袋及び白色でも中身が見える半透明の袋のみでのゴミだしが始まった、約5年余り無法ともいえる無秩序なゴミ出しに慣れている、これは結構ハードルが高い、一般ゴミは従来どおりのゴミだし、リサイクルゴミ、故紙・プラスチック包装容器・ペットボトル・缶・瓶等々は週に1度、金曜日の午前8時までにゴミだし、とマンション内でのゴミだしルールを作る、スタートして数日で、週に一度のリサイクルゴミがかさばる、何とかならないか、ゴミの分別が始まると、ゴミ箱の数を増やさなければ分別が出来ない、といってもゴミを部屋の中におきたくない、単なる我儘、ペットボトルをおいておくとアリが来る、ゴキブリが来る、という苦情、中身を空にして、半分ほど水を入れて、シャカシャカすれば、「ゴミの分別もろくに出来ないのか!」、と怒り心頭、ただリサイクルゴミ回収日には台車につんで、3回か4回ほどゴミ置き場へ、回収業者のパッカー車とリサイクルゴミ用のトラックの2台を、暫く待たせなければならない、だからリサイクルゴミのゴミだし指定日はあっても無いが如し。 毎朝一番に7階から巡回と、空気の入れ替えにエントランスの窓明け、そしてゴミの回収、チョッとづつルール違反のゴミ出し、こんな僅かなルールも守れないのか、それを思うと結構ストレス、これが終わると表回りの掃除、そして表の躑躅と皐月の植え込みの水遣り、1本の電柱の下の道路にへばりついたカラスの糞の水洗い、側溝にたまった砂の掃除を兼ねてマンションの前の道路に水撒き、30メートルのホースをリールに捲き終えて、ここでタバコを一服、水撒きを終えると、このマンションの輝きが増すように美しい、マンションの裏は鴨川の河川敷、これだけ鴨川に近いと、今日のように蒸し暑い日でも涼しい風が吹く、この時に吸うタバコの味、いつもより一層深く煙を吸い込む、吸い込んだ煙をユックリ、ユックリ吐き出す、タバコを吸った経験のない人には想像もつかないだろう、よくぞ喫煙者に生まれけり、喫煙者冥利に尽きる、この時のように旨いタバコを吸ってからポックリとなんて事を考える、そんな時に左のほうの道から曲がってきた女性、本当に久し振り、小柄だが元気の良い歩き方、決して美人とは言えない、色気のある笑顔からは縁遠い、しかし遠目からでもわかる満面の笑顔、イメージの中ではオレが両手を広げて、「久し振り、元気?」、走ってきて飛びついて、「元気でした?」、ところが実際には、彼女に気がついてから、タバコを咥えて、火をつけて、1メートルぐらいに近づいてから、テンションの低い、しわがれた声で、「ほんまに久し振りやねェ」、「お元気でしたか?」、隣の会員制のホテルの事務員さんで、数年前から彼女の出勤時間は午前9時から、オレが丁度表を掃除して、水撒きが終わった頃に、その左の道を曲がってくる、「おはよう」、の挨拶から、次第に立ち止まって数分間の立ち話、そして携帯電話の番号と、メールアドレスを聞き、2、3度はメールのやり取りをした事があるが、仕事の日には毎朝顔を合わす、メールする必要はなし、ところが去年の4月頃からばったりと会わなくなった、桜や紅葉のシーズンは忙しくて、1時間早出をする事がある、そうだと思っていたのだが、5月になっても、6月になっても朝に出会うことは無い、もう辞めたのかなと思っていた秋の頃に、ばったりと出会う、「てっきり辞めたのかなと思っていたよ」、「始業時間が8時からになりました」、殆どすれ違いながら、見事に出会うことがなくなっていた、年に2回の閑散期には数日休館、昨日から、たまたま今日は当番で出勤ということだった、しかし、こんなに久し振りでも取り留めの無い話、オレの話をニコニコ笑って聞いている、その笑顔を見ていると、それだけでこちらも楽しくなってくる、梅雨の晴れ間の楽しい朝。■「今日の言葉」■ 「 素直に聴く心がないと人は 本当のことを言ってくれない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 17, 2010
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ボクシングの世界で一番重たいクラスのヘビー級に於いては、歴代チャンピオンの多くは黒人によって占められていて、ところが現在の各団体のヘビー級チャンピオンは、イギリスのデビット・ヘイだけが黒人で、そのほかは旧ソ連圏の白人選手であるが、この選手達を決してホワイトホープと呼ぶことは無い、ホワイトホープはアメリカの白人でなければならないのである、だからホワイトホープと呼ばれる選手は余り好きではなかった、ところがここ数年間世界ヘビー級のチャンピオンにアメリカの黒人がその座に着く事さえ希で、アメリカンホープの出現を待たれているのがボクシング界の現状である。 ヘビー級でダメなら他のクラスでのアメリカ人の白人選手、2団体世界ミドル級チャンピオンのケリー・パブリックが長く世界ミドル級チャンピオンに君臨し、タイトル防衛を果たしていたメナード・ホプキンスを破ったジャーメイン・テーラーを倒してチャンピオンに君臨し、リマッチに於いても返り討ちにした、今や彼がホワイトホープである、このパブリックはホワイトホープと呼ばれているが、実に嫌味の無い選手で、格別の早いフットワークもパンチも無いが、愚直なまでに左右とワンツーを着いて前に出る、試合の序盤では相手の早い強打を被弾、時には始めにダウンを奪われたりもするが、徐々に打ち合いに持ち込み、強打の右ストレートが炸裂、連打で相手を倒しきる、タフでパンチは強いが、決してスピードのある、器用で、うまい選手ではない、逆にそういうところが好感の持てる選手である。 無敗で世界チャンピオンに君臨し、防衛を重ねている時に、ホプキンスがパブリックにチャレンジ、3段論法でいくと、ホプキンスにテーラーが連勝、そのテーラーにパブリックが連勝、その後でのパブリック対ホプキンス戦、パブリックは勝っても余りメリットの無い一戦、ホプキンスはテーラーに連敗し、ジョー・カルザゲにも破れ、しかし敗れたとはいえ、打ちのめされたわけではなく僅差の負け、対戦相手による3段論法ではパブリックが有利、ホワイトホープのパブリックが長年のヒール役のホプキンスを完膚なきまでに叩きのめす、これを期待したフアンも多かったのだが、イザ蓋をあけてみると、単調なワンツー攻撃しかないパブリックは百戦錬磨のホプキンスにかかってはまるで子供扱い、接近してワンツーを打ち込もうとするが、先にホプキンスの左ジャブが面白いようにあたり、距離を詰めては打たれの繰り返し、最終回終了のゴングをやっとの事で立って聞くことが出来たというほどの完敗を喫して初黒星。 色あせたホワイトホープ、ところがその後は防衛を続けて、迎えたアルゼンチンの世界スーパーウエルター級チャンピオンン、セルヒオ・マルチネス戦、スピードのあるテクニシャン、しかし体力とパンチ力で優るパブリック、中盤から後半にかけてパブリックが倒し切るだろうという予想の一戦、蓋を開けてみるとサウスポーのマルチネスは相手の外側に回り込んで早い右左のワンツー、からスリーまで交えて攻撃、倒そうというパンチではなく、しかし確実にポイントは奪えるパンチ、ただ両者の体格差は歴然、もみ合うとマルチネスは吹き飛ばされそうになるが、打つだけ打つと、さっとフットワークを使って離れ、パブリックが接近すると先にマルチネスが飛び込んで、攻撃をすする、マルチネスのパンチは当たるが、パブリックは距離を詰めるだけで手が出ない、手を出しても空を切るだけ、しかしきっとパブリックはマルチネスをつかまえて倒すだろう、そんな予感の1ラウンド、ただコーナーに戻ったパブリック、左の目の上が切れて出血。 パブリックは距離を詰めていくが、マルチネスはフットワークで必ず相手の外側に身を置き、パブリックのパンチは食わないが、自分のパンチが当たるポジション、大きな戦艦に戦闘機が波状攻撃を仕掛ける、序盤から中盤にかけて同じような展開、ところが5回を過ぎた辺りからマルチネスのフットワークが鈍りだす、飛び込んで攻撃を仕掛けるが、その後でさっと離れることが出来ない、パブリックの右があたるところに身を置きだす、7回には足が引っかかったように見えたがパブリックの連打でマルチネスがダウン、8回にはパブリックの攻撃がきつくなる、マルチネスを捉えて倒しきるか、そんな予感さえ抱かせたのだが、9回にマルチネスは試合の流れを変えるために、攻撃を仕掛けた、しばしば、パブリックが棒立ちになる猛攻、右の目じりからも出血、マルチネスはこのラウンドで一気に試合の流れを変えて、残りのラウンドも、倒すまでは行かないものの、ラウンドのポイント確実に自分のものにした、最終ラウンドの残り10秒に勝利を確信したマルチネスは早くもガットポーズ、ジャッジの採点表の集計の間、パブリックは全く自分の戦いが出来なかった歯がゆさに、悔し涙さえ浮かべていた、このホワイトホープには嫌味がなく、ついつい、次はガンバレと応援をしたくなる。■「今日の言葉」■ 「 自分の立場を見極めることで 今何をなすべきかはっきり見える 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 16, 2010
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昨日の南アフリカワールドカップの日本の初戦のカメルーン戦、午後11時からのキックオフ、試合が終わるのが午前1時、もしも負ければさぞ寝つきが悪いだろう、しかし、今日は仕事が休みという事でテレビの前に、両チームが守りあいの中で、松井が個人技のドリブルでデイフェンダーを交わして奥へ持ち込み、クロスボールを上げる、頭であわそうとする大久保の向うへ、本田がやわらかく足元に落とす、一呼吸を置いて、その間に飛び込むデイフェンダーとキーパーの動きを見て、ねらい済ましたようにシュート、ボールがネットを揺らしてグランドに落ちるまで、寝酒のバーボンのグラスを持ったまま、まるでフリーズしたように声もでずにじっとしていた、日本のゴールというとミドルシュートとかセットプレーでの得点のシーンしか見ていないような気がする、サイドを深くドリブルで持ち込んで、クロスを揚げて、それを足元に落として、落ち着いてゴールの隙間に蹴りこむゴールシーン、そんなシーンをはじめて見たような気がして、「ほんまに入ったんかいなァ」、一瞬間をいてから、「やったー」、と歓声、お陰で寝酒のバーボンウイスキーをこぼしてしまう。 今朝の新聞で、オシム前監督のコメント、この人のコメントは実に赴きがあって面白い、言葉を選んで遠まわしに言うようでありながら、ずばり本質を突いている、スポーツの監督のコメントというよりも、文学的な響きを持っていると思う、「本田は不慣れなワントップ、それをひたむきにこなしていた、ゴールはそのご褒美である」、彼は日本人のプロスポーツ選手にしては珍しくビッグマウスである、しかもそれが性格そのものように思われる、その選手が華々しいゴール、下手をすればこの後の試合で孤立するのではないか、チームが一丸となっての勝利、それを恐れるかのような発言が続いていた、「このご褒美のゴールを本田が勘違いしない事だ」、しかし昨日の試合後の本田のインタビューで、今日の試合のヒーローは俺だという素振りは一切出さずに、全員で勝ち取った勝利、とコメントしていて、岡田監督も直前の強化試合は無得点続きの敗戦続き、進退問題まででる始末、ぎりぎりになって中村俊輔を先発メンバーからはずし、本田をワントップにした、まさに背水の陣での戦い、しかしそんなことに触れる事無く、「今日の勝利で何かを得たわけではなく、今日のノーサイドのホイッスルは次のオランダ戦の始まりのホイッスル」、ワールドカップという長丁場の戦いを見据えた、良いコメントといえる。 あるテレビ番組で中田英寿と本田の対談、前のドイツのワールドカップの出場を決めて帰国した時、中田は今のままでは本線では勝てない、という発言、その中田の発言について、それ以上をチームに詳しく説明する事もなく、その発言の真意がチーム内で理解されないまま、本線に望んだ、中田がチーム内で孤立して、チームワークの面でもベストの状態ではなかった、ここのところを本田は鋭く質問をしていて、日本チームの一番不足する部分、日本は物凄くレベルの高い練習をしているが、それはあくまで試合に勝つための練習ではなく、練習のための練習、このあたりの話で2人は共感をしていて、練習の時でも試合と同じような精神状態での練習、海外では練習の時でも喧嘩が起きる、和気藹々といくらレベルの高い技術の練習をしていても、練習でできる事が試合ではできない、試合の時と同じ精神状態での練習、これが実戦で力を発揮する、そういう内容の対談であった、この対談で本田は自分がチーム内で孤立しないためにはどうすれば良いのか学んだように思う、この対談をメンバーが見たか、監督やコーチが短期間でこの事をチームに浸透させたか、昨日の試合ではメンバー全員が泥臭いまで、ひたむきに自分の役目を果たしていた、その事が試合前、試合中、試合後の表情に見て取れた、果たして寝不足が続くのか。■「今日の言葉」■ 「 国があってこその個人の生活 である国の恩恵に感謝しよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 15, 2010
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間も無く各神社で、「夏越の大祓」、という行事が行われる、多くが6月30日、北の天満宮に於いては25日の天神さんの縁日、6月25日、八坂神社境内の疾神社に於いては祇園祭の最終の行事でもあり、7月31日に執り行われる、大祓は年に2度で12月31日の大晦日にも行なわれる、半年間のうちで人は知らず知らずの間に、罪や穢れを犯してしまうもので、その罪や穢れを拭い去るために、行われるもので、地域の氏神さんから町内の神事係りへ、町内の組長を通じて各家庭に配られる紙に人形の絵を書いたものに、家族の名前・性別・数え年齢を書いて、一般的に500円(祈祷料)を入れて、各組長が回収して町内の神事係りへ、そして氏神さんへ、大祓の日に、その人形は人の身代わりで、罪や穢れを落とすためにご祈祷される、また夏越の大祓の日には、罪や穢れを吸取る霊力があるとされる茅にて、藁を芯にして、大きな輪が境内に作られていて、実際にこの輪を3度潜り抜けて、罪と穢れを落とす、茅の輪くぐりが執り行われる。 結婚した当初は白梅町の借家住まい、北野天満宮にも近く、6月25日の夜にお参り、ここの茅の輪は大きいので有名、ところが夜におまいりに行くと、茅は殆どなくなっていて、芯の藁がむき出しになっている、お参りを済ませた人が茅を抜き取って、家に持ち帰って、半紙に包んで、軒下などにぶら下げて、魔除、厄除のお守りにする、わが地元の氏神さんの西院春日神社に於いては、茅の輪が境内に置かれており、何箇所かに茅の輪の茅は持ち帰らないで下さいとか書かれていて、輪くぐりをして、くぐった人の罪や穢れを茅が吸取る、その茅を持ち帰ってもお守りにはなりません、茅のお守りは別に茅のお守りとして販売しています、という案内、他の神社では、茅の輪をくぐるのにルールのようなものがあって、くぐるのは3度、くぐった後、右に出るか、左に出るかの決まりごとがあって、そのイラストを見ながら、3度輪くぐりをする、時間にすれば約1分くらいである、ところが西院春日神社では輪くぐりの開始が午後6時、宮司、禰宜、巫女を先頭に来賓の参拝者、一般の参拝者が列をつくって、数珠繋ぎになって輪くぐりを行う、余り広く無い境内に長い列が出来て、輪くぐりが始まると、参拝の人がどんどん増えて、境内に何重もの人の輪が出来る、3度茅の輪くぐりを終えるのに約2時間ぐらいの時間がかかり、この時期になると境内にはやぶ蚊かが多く、虫除けスプレーや携帯用蚊取り線香や加の嫌がる周波数を出す機械などが必需品になってくる。 そして参拝者にも配られるが、「水無月」、というお菓子が食べられる、見た目は四角形だが対角線に切り目が入れられていて、これで2切れ分であり、本来は3角形の外郎で上に小豆がのせられていて、氷室から切り出した氷をイメージして作られた菓子で、クーラーなどが無い遥か昔、蒸し暑い夏に氷をイメージしたお菓子で涼を求め、夏負け防止に食べられていた、昔は余り好きなお菓子ではなかったのだが、特に6月30日にはお菓子屋さんで大量に作られて、外郎の蒸しが若くて、お袋曰く、「この日には水無月は食べない」、何となく中途半端な甘さであるが、少し固くなるが冷蔵庫で冷やしてからこれを食べると、この中途半端な甘さが丁度口に合いだした、それと昔ほど6月30日に水無月、土用にはあんころ餅を食べる、こういう習慣がなくなってきて、その日にあわせて大量につくるという事がなくなったセイで、その決まった日に食べても美味しくなった。■「今日の言葉」■ 「 きちんとした躾が土台となって 子供の個性が輝いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 14, 2010
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ここ数年間のこの時期の気候、日本は亜熱帯のはずだが、熱帯のように暑くて湿度が高かった、ところが今年は湿度が低くて、午後2時か3時ころに30度を越す真夏日になっても、午後の4時くらいになって、日陰に入ると涼しい風が吹いて、実に爽快な気分になった、夜と朝には長袖の薄手を羽織りたくなる、ところが昨日辺りから九州が入梅、今日には中部地方まで入梅の予報、朝から湿度が高く、額の汗が乾く事無く、薄い幕を張ったように、まとわり着いてる。 15年ほど前にこの時期にベトナムへ、雨季でもあったが、冷房の効いたホテルから出ると、急に汗ばんできて、それもだらだらと流れ落ちる汗ではなく、まるで霧吹きで汗が吹き付けられたようで、指で額を撫でると、顔に油を塗ったようである、今日の久し振りの湿度の高さにベトナムでの朝を思い出した、この時期Gパン以外のズボンを履く時には、ニットのボクサーブリーフをはいて、膝下まであるロングパンツを履く、所謂、ステテコというヤツである、オレはクレープ屋でありながらクレープのステテコは履かずに、多々また得意先が生産していた、極薄手の、強撚糸を使って、強撚加工を施した、履いた時に清涼感のある、シャリ感のある肌着の愛用者であった、同素材の半袖肌着も、百貨店で買うと3、500円から4、000円もする超高級肌着である、得意先は年に2度、社員の優待販売なるものが開催されていて、百貨店上代の7掛けの値段が付けられていて、そこへ出かけていって初めのころには約5万円ほどの買い物をしていて、ところが年に2度、それを毎年、となるとダンダン買う物がなくなりだしてきて、最後のほうになるとこの肌着の半そでシャツとステテコを何組か買う事にしていた、家のたんすの引き出しのその肌着がギッシリと詰まっていた、その社員販売へ行かなくなって10数年、毎年夏の終わりに古くなった肌着を年末の大掃除用のボロ布行きにする、こうして手持ちがダンダン少なくなっていき、いよいよ今年の夏にはユニクロの肌着でも買わなくてはならない、そう思っていたところに、プラスチックケースの底から新品の肌着が出てきた。 新しい肌着の上下を今日着る事に、得意先が何年もかけて、毛足の長いエジプト綿、試行錯誤を繰り返して糸の撚り回数を研究し、編みたてた後の処理を考案し、縫製の際のミシンの針による穴あきを克服し、商売をやめる1年前に、この素材は得意先の自家工場での縫製のみで、門外不出の素材であったのだが、この素材で婦人物のアウターのTシャツを販売し、好評につき大量の受注、自家工場の生産では追いつかないので、その生産の応援のためにわが社に白羽の矢が立った、こういう注文には意気に感じる方ななので、生産の応援をしましょうという事になって、普段は使わないニット用の細いミシン針を使って、イザ縫製を始めると、1枚の製品の中に、数ケ所のミシン針による穴が出る、ミシンの回転数を落としてユックリと縫製するが、それでも1枚につき1ケ所くらいの穴が出る、工場からは、「こんなに怖い素材は縫えない」、と泣きが入る、脅したり、なだめたりしながら、漸く受注分を生産、工場の親父からは、「二度とこの素材の注文は受けないで欲しい」、長い期間をかけてのこの製品の開発、その結果、出来たこの夏用のメリヤス肌着、オレは密かにこの肌着を、「肌着の宝石」、と呼んでいた。 ヨメは、「この頃は小遣いに不自由してなかったから、すべて自分の小遣いで支払い、値段を知らなかったけど、随分と高かったのやねェ」、と袋に貼り付けてある値段を見て驚いていた、長い時間をかけて素材開発をして、賃金の高い日本の自家工場に於いて、腕の良いミシン女工さんを育てて、ミシンの回転スピードを落としてユックリと縫製をする、どうしてもコストは高くつく、必然的に小売価格は高い物になる、目の前にはユニクロの新聞の折込チラシが置いてある、ユニクロの様加工の肌着も着た事がある、快適ではあるが、きたときに感動というものは無い、しかしGパンやズボンよりも値段の高いステテコ、残念ながこの事を説得させる力はオレには持ち合わせていない、オレの会社は1999年11月に42年間の営業をストップ、その得意先は半年後に100年余りの社歴にストップ、民事再生が行われた。■「今日の言葉」■ 「 周りの働きに気付いたとき 自分の働きは一層生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 13, 2010
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町内は約40世帯で、10軒づつほどの隣組4組、町会長は隣組の中から輪番制で選出、8年に一度自分の隣組にその番が回ってくる、約2年ほど前にその当時の町会長さんが、夜に家に来て、次の町会長の話、要は次の2年間の町会長を引き受けて欲しいという話である、「次の当番が回ってくるのは8年後、それを考えると、来年あたりに引き受けてもらうのが、・・・・・」、最後の方の言葉は濁されているが、飲み込みが早くて、殺し文句に弱い、究極の殺し文句、「町会長は、副町会長や会計の人に動いてもうたらええねん、大して動かんでもエエから」、こういう話が長引くのは大嫌い、「分りました、お引き受けします」、という事になった、10数年住んでいるものの、まだ町内に顔の知らない人もいる、最初の間は、「町会長を引き受けてもらって、おおきに」、という言葉あったのだが、なかなかどうして細々とする事が多くて、もたついていると、手のひらを返したように、「町会長を引きうけたからには」、風向きが見事なほどコロッと変わる。 防火用のバケツの水が少ない、掲示板のポスターがはがれている、掲示板の傍に雑草が生えている、ゴミを収集日の前日に出す人がいる、京都市の指定のゴミ袋以外のゴミが出ている、等々のクレームを町会長のところへ、それと回覧板や、配り物ものべつ幕なしであり、町会長は自主防災組織の部長も兼任、この用事もパトロールや、自主防災訓練などで結構ある、「何もせんで良い」、は大嘘つきと愚痴を言っても後の祭り、最初の1年を終えてみて、大きな仕事といえば区民運動会、町内のテントを張って、来た人や出場した人に飲み物などの接待、その後始末、敬老の日に町内の70歳以上の人に地域からの粗品と町内からのお祝い金、40世帯の中でその対象の人が約20人ほど、背広を着て、ネクタイを締めて、お祝いの言葉と記念品を届ける、この2つが大きな仕事であり、それともう一つ、これは現在では京都にだけ残っている地蔵盆という行事がある。 これは8月の地蔵菩薩の縁日の23日、昔は22日、23日の2日間に渡って行われていたのだが、最近ではその世話役の人の都合で、その近辺の土曜日と日曜日に執り行われる、京都市内の殆んどの町内にお地蔵さんが1つや2つ祀られていて、京都市内でビルやマンションが建てられる時に、そこにお地蔵さんが祀られているとすると、まず施行主が地域の人と建築の話し合いの席で、現在あるお地蔵さんをどうするか、建物の邪魔になるから撤去などというと、まずその建物は建たなくなる、だから、祠などを新しく作り直して町内の別の場所へ移転、或いは建築期間中にはお地蔵さんをお寺に預けて、元のあった場所から動かす事無く、新しく建つ建物の一角に埋め込むようにして、そこでお祀りをする、このようにお地蔵さんをどうするか、この話しを先に済ませなければ建築の話は一歩も先に進まないのである、この各町内にあるお地蔵さん、実に様々な形でお祀りをされている、新しい立派な祠がある、こういうお地蔵さんは、お地蔵さんがあったところに新しい建物、建築中はお寺などにお地蔵さんが避難し、建物が出来上がった後で、そこの施主さんが祠を新築してお地蔵さんをお迎え、またビルのこんな一角にと思うような場所にはめ込まれている事がある、カメラを持ち歩いていて、お地蔵さんを見かけると、2枚づつ写真を撮っている、約200枚ほどたまってきている、500枚ほどたまれば、アルバムにアップしようと思っているところ。 このお地蔵さんを地蔵盆の前日にきれいに洗って、新調の前掛けに変えて、当日の朝に道路に祭壇を造り、お膳を備えたり、紅白のお餅や果物やお菓子や花を供えて、テントを張って、敷物を敷いて、その道路の入り口に、地蔵盆の開催中につき通行止めの看板を立てる、道路使用許可を警察に届けるわけではないが、警察も文句は言わない、今年は京都市内の殆んどの町内で8月21日(土)、22日(日)の2日間開催の予定、他府県の人の車が行く先々で通行止め、迂回の連続、ついに迷子なんという事も起きる、京都市内の子供の夏休み最後のイベントともいえる、最近では非常に珍しい事だが、お地蔵さんの前に幼児から中学生までが寄り集まって遊び、朝の10時頃にお寺さんがお参り、これが地蔵盆の始まり、朝のおやつ、昼食はマクドナルドのハンバーガー、午後の3時にはおやつ、夜は花火、これが2日間続く、そして最終日の午後3時には福引、夕方にはお地蔵さんの祭壇の後片付け、夜には大人が足洗いの宴会、ガレージに敷物を敷いて、テーブルを並べて、各家庭から手作りの料理を持ち寄っての宴会、隔年では、この足洗いをどこかのお店に出かけていき、宴会となる、オレが子供時代のその昔は中学生くらいになると、地蔵盆の寄付集めや、福引や遊びのお手伝い、いつの頃からか子供の手伝いはなくなったのだが、子供にとってはこの地蔵盆の2日間は、「宿題をしたか?」、といわれない最後の日、それと年に一度、子供達が幼児から中学生までが大勢連なって遊び事の出来る貴重な日、仏教の宗教行事ではあるが、誰も宗教行事云々をいう事無く、伝統行事という捉え方になっている、今日の夜には町内の各組長さんとその打ち合わせ。■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきり持っていないと 努力は喜びでなく苦痛となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 12, 2010
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子供の頃、人の話を聞く時には話している人の目を真直ぐに見て、「フンフン」、と頷く、と教えられていたのだが、話している人の目を真直ぐ見る、ここまではいいのだが、「フンフン」、頷く時は首を立てに振る、ところがオレは首を横に振る、「そうかなァ」、「ほんとうかなァ」、「別の意味があるのでは」、そういう態度であった、所謂、嫌なガキである、ただ始めの頃は他意がなく、癖のようなものだったと思うのだが、年齢を重ねるにつれて、「本当だろうか」、「そうだろうか」、「こうでは無いだろうか」、「確かめてみよう」、という風に変わっていた、対象はマスメデイアだけではなく、口コミに至るまで、つい先日、家の近所の西大路四条の交差点、克って客待ちのタクシーの行列で交通渋滞、その解消策として、客待ちタクシーの停車台数制限と歩道を拡げてタクシーが客待ち停車しにくくする対策、そして広げた歩道に鉄柵で囲った緑化地帯、花壇を作った、余り背が高くの伸びて、視界が悪くならないようにとの配慮もなされていた、ところがメインテナンスが殆ど無い、年に一度この時期に黄色い花を咲かせるのだが、それ以外の時期は愛想の無い植物である、水遣りも無い、夏の太陽でやけた物は枯れて、そのままの状態、こうなるとゴミ捨て場であり、酔っ払いのゲロ吐き場になる、地域のボランテイアの人がこの花壇の里親申請をして、昨年の秋ごろから花を植えたり、球根を植えたり、最近では花壇らしくなってきた、その花壇に西院フェすのシンボルフラワーでもあるヒマワリを今年の第9回の開催日、8月7日、8日の両日に咲くように餓えてほしいという申し出、これは快諾された、ただ西院には第1学区と第2学区に分かれていて、その両方が協力して一つの事をするということは滅多に無い、この4ケ所ある花壇のうち四条通の北の2ケ所は第1が担当、南の2ケ所は第2が担当、ところが第2は昨年の秋から活動、しかし第1はトップは決まっているが動きはいまだなし。 そこで第1のトップの人に会いに行く、この人はオレよりも約5歳ほど年上で、大学の植物学の先生で、定年退職後は様々なボランテイア活動、この花壇とトップになるが、外灯が真夜中でも煌々と着いていて、24時間明るい場所、こういう環境で何を植えて、どうすればきれいな花壇になるかと熟考中、そこへヒマワリを植えたいと申し出、兎に角、その花壇のところで会う事に、会う前に兎に角チョッと変わった人という予備知識、ところがあってみると確かに変わっているが合わないタイプの人ではない、「花や植物の事は詳しいですか」、「全く知りません、小学校の頃の夏休みの宿題の朝顔以来です」、「実はこの花壇は夜でも外灯で昼間のように明るい、そんな環境ではたしてヒマワリの花が咲くかどうか、ヒマワリは昼と夜があって始めて花が咲きます」、「ヒマワリも随分種類があって、様々な交配、その結果、もともと、持っている性質が変わっているかもしれない、そうやからここでも咲くと思います」、大学の植物学の先生に向かって、「そんなモンはやってミンとわかりまへん」、「そらァ、あんたの言う通かも知れん、やってみましょう、一緒に勉強させてください」、いやオレとしては、イベントの日にこの花壇にヒマワリを咲かせたいだけ、その一心で屁理屈をこねただけ、ひょっとしてこの先生は植物学では有名な先生かもしれない、そんな事を考えずに、ガキの頃からの癖が出てしまった。 メデイア・リテラシーなる言葉がある、様々なメデイアから流れる大量の情報、この情報の中には誤った情報、偏った情報、情報の発信元がある種の意図を持った情報、どの情報が真実であるか見分ける事、情報の裏に隠されている事柄を見抜く事、そういう能力をさす言葉らしい、カタカナの英語で言うと大層で、学術的な響きさえあるが、ガキの頃の嫌な癖が、大人になってもぬけきらずに、「フンフン」、と頷く代わりに、全ての事に、「いやいや」、「そうかなァ」、「本当かなァ」、「こうではないのかァ」、と首を横に振って育ってきただけである、「どこか斜に構えるところがあるよなァ」、長い付き合いのある人に言われるとそうでも無いが、付き合いの短い人に言われるといささか不愉快である、これからはそういう人に対しては、「メデイア・リテラシーなんやァ」、とでも言おう。■「今日の言葉」■ 「 人への不満が生じている時こそ 自分を省みる時である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 11, 2010
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確か小学校の3年生の時だった、オレの席は教室の一番後ろの席で、ある日突然黒板の字が読めなくなった、「先生、黒板の字が見えへん」、「それなら、前の席に代われ」、そしてその時間授業が終わると、先生が保健室で視力検査をして来い、左右とも1、5だった視力が、左右とも0、2、「これは近眼やナ、眼鏡がいるデ」、家に帰ってその事をお袋にいうと、「私もきつい近眼、劣性遺伝子たんやなァ」、と言う事でオヤジに連絡、知り合いの眼鏡屋さんで、まん丸のメタルフレームの眼鏡を作って、以来、約60年間の眼鏡との付き合い、遊びと言えばドッヂボール、ソフトボール、すもう、どんま、喧嘩、バスケットボール、等々、眼鏡のフレームが良く壊れた、眼鏡屋さんでフレームの交換、その日の打ちにまた壊れてしまう、鬼のような顔をして、「眼鏡のフレームが壊れるような遊びはするな、そうか、そんな時には眼鏡をはずして遊べ」、小学校時代には眼鏡は極めて少数派、眼鏡でいじまられるという事はなかったが、小学校の高学年から中学校時代にかけては、女の子は、「眼鏡をかけた人は嫌い」、が多かった、現在ほどお洒落なフレームなどはなく、当時はあくまで視力矯正具のようなものであり、現在のオシャレグッヅと言うような感覚は全くなかった、その眼鏡のフレーム、大学の時代ぐらいからこだわりが始まった。 当時は舶来のフレームはローデンストックぐらいで、どちらかと言えば頑丈そうないかついフレームで、サングラスではレイバンのテイアードロップ型、なすび型ともいわれているのが流行っていて、その形のフレームを探すようになり、最後にはレイバンのサングラスのフレームに近眼のレンズを入れるようになり、次第にフレームが大きくなる、そしてレンズも太陽の光で変色するレンズになる、この頃になると、眼鏡のフレームが壊れるという事はなく、ファッションの一部となり、眼鏡も幾つか持つようになって、その日の気分や服装によって違う眼鏡をはめるようになり出した、しかも、海外の有名デザイナーがこぞって眼鏡のフレームのデザインをするようになり、一気に眼鏡もファッションアイテムの一つとなった、この頃は、「タバコの銘柄も良く変わるが、メガネも良く変わるね」、と言われるようになり、派手で、大きなフレームになっていった、ところが、海の向うの映画俳優が極シンプルなメガネフレーム、中にはフレームなしの眼鏡、何軒かの眼鏡屋さんでそのフレームを尋ねて、セビルローというメーカー製ということがわかった、今度は一気に小さい、シンプルなフレームに変わる、フレーム無しでレンズにネジ穴を開けたデザイン、映画の、ジャン・レノ主演の、「レオン」、のまん丸の小さいフレームの眼鏡、韓国バーのオネーちゃんにレオンと呼ばれて、悦に入っていた時代もあり、同じ店で3人が、短いヘアースタイルで、髭をはやして、小さいまん丸眼鏡、何となくなりきっている者同士が鉢合わせ、「ご同輩もかァ」。 長い間太陽の光線でサングラスのように変色するレンズのフアンで、長くガラスのレンズ派であったが、北大路白川のオシャレな眼鏡屋さんで、オーナーからプラステイックレンズをすすめられて、その眼鏡をはめると、プラステイックレンズの軽さに感激、眼鏡ってこんなに軽かったのか、一度はめるとガラスのレンズの眼鏡が重たくて、二度とはめる気にならない、はめない眼鏡を置いておいても仕方がないと、ガラスのレンズの眼鏡を全て捨てる事に、その眼鏡屋さんのオーナーに、「時折、眼鏡のクリーニングによって下さい」、これは実に凄い殺し文句、眼鏡のクリーニングによるたびに、ツイツイ、オシャレなフレームを見かけると、それをはめて鏡を見る、殺し文句はそれだけではない、褒め上手、行くたびに眼鏡を新調、極シンプルなオリバーピープル、色が素敵なアランミクリ、まるで工芸品のようなヴィンテージ、アメリカの工芸職人さんが1920年代の大不況の頃にメガネフレームも作っていて、それが長い間倉庫に眠っていた品物が、その頃に見つかったという、まさにヴィンテージ物のメガネフレーム、ここでは随分と眼鏡を買ったが、そのうちで一番のお気に入りは、黒い、小さいまん丸のフレームで、鼻当ての無い、つるがまっすぐの華奢な、軽いフレームで、ブランド名も変わっていて、「カメマンネン」、で元々は、「亀は万年」、ブランドであったらしい、レンズ込みで約5、6万円、商売を辞めてからはとても手が出ない値段。 ただ還暦の時に、家族からのプレゼントで赤いセロフレームの眼鏡、眼鏡が出来上がってそのお披露目は、小学校の同窓生からホテルでの還暦パーテイのお誘い、招待状には還暦の人は赤いものを身につけてきてください、とあった、パーテイの途中に還暦の人の3分間のスピーチタイム、殆んど知らない人ばかりで、まずは自己紹介、そして本日は還暦の人は赤いものを身につけてきてくださいという事で、その赤いものは、眼鏡ケースから赤いフレームの眼鏡を取り出して、初お披露目、これは結構受けて、「どんなメガネでも似合うね、眼鏡はいつから?」、「お袋のお腹の中にいる時から」、この話も結構受けた。■「今日の言葉」■ 「 親の恩に気付いた時から 新たな人生が開けてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 10, 2010
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このブログを始めたのが2004年1月、以来2、300日余り、今日の深夜に30万アクセス、始めて訪れた人か、それともいつも読んで頂いている人かは存じませんが有難うございました、ネットで高齢者用のくつろぎ着の製造販売用のサイト、「NASOT」、を2001年10月にスタート、オヤジの代から続いた繊維の製造メーカーの会社を42年目で整理、殆んどPCのスキルの無い時に、ネットでの物販で再起を図ろうという計画で、倒産寸前まで行って、何とか倒産をひっくり返そうとの思いで、「倒産=TOSAN」、英語のスペルをひっくり返して、ショップ名とする、高齢者専門のくつろぎ着、このような製品の市場さえない、その製品の製造販売、サイトを訪ねてくる人もいない、当然の事ながら注文などはない、兎に角、最初の注文がくるまで18ケ月間はなんとしても辛抱をしよう、サイトの手直しをしたり、検索サイトに登録をしたり、サイトのリンクの依頼を申し込んだり、そして2001年の11月に無料のBBSの掲示板を作った、勿論この掲示板に書き込む人は無く、そこで店長の日記を始めることに、仕事の手紙以外で文章を書くのは高校生の時の作文以来、その上、新聞はきっちりと読むのだが、本というものは全く読まない、ただ、BBSの掲示板に日記を書き始める時に、元々、自慢ではないが根気は全くない、だから兎に角始めたら長く続けよう、毎日書き続けよう、これが自分との約束、無料の掲示板、記録は100件分で古いものから自動的に削除、どうせ大した事を書くわけではない、削除を気にする事無く、時には以前に書いた事に手を加える事も、始める時の長くつずける事の自分との約束、それが信じられない事に約3年続いた、丁度その頃に息子の嫁が楽天広場の日記を(当時はまだブログと呼んでいなかった時代)を始めていて、ここは全ての日記を保存と聞いて、日記の過去ログ置き場として初め、毎日、BBSの掲示板とこの日記に書き込むようになった、連続投稿も去年まで続けていたが、その日によって書く時間がない日や、サーバーのメンテナンスの日などは凄いストレス、飲んで帰ってきてから書く日もある、文章にならない、物凄い誤字、脱字、連続して書き続けるという事が大きなストレスになり始めていた、そんなある日、意識的に書かない日を作って連続して書く事を途切れさせた、不思議な事に、その日以来、連続して書き続けることにストレスを感じなくなった。 ただ、1年程前頃から、日本語で書いていて、日本人の人が読んでいる、しかし、書いている事の思いや気持ちや事柄が正しく伝わっているだろうか、そんな疑問が大いにわいてきて、これはオレの文章力にあり、上手く書こう、スマートに書こう、オシャレに書こう、とかそういう思いではなく、正しく伝えようという思いから本を読むようになった、毎月、7、8冊のペースで読むようになっている、本屋へ行く回数が随分と増えた、読みたい本を探すだけではない、本を買ってレジに行く、笑顔で、「いつも有難うございます」、「カバーをお願いします」、「またお越しください、お待ちしています」、終始笑顔で、その笑顔を見るだけで気持ちが癒される、本のお陰で別の楽しみも見つけた、何年かすればもう少し文章表現も上手くなるだろう、このサイトを始めた時に、約7、000日の日記の目標、約2、300日余りが経過、この分で行くと、7、000日目くらいには、100万アクセス、こうして書きながら幸せに感じる、今日も朝・昼・晩と、「いただきます」、「ごちそうさん」、と3食食べた、12時になれば眠りにつくだろう、そして今日よりも僅かながらも確実に良い朝を迎える事が約束されている、これほど幸せな事は無いだろう、その上にボランテイアの花壇つくりの打ち合わせ、タバコも3箱吸い終わり、4箱目を吸っている、好きな珈琲も何杯も飲んでいる、朝刊も夕刊も読み終わった、昼寝もした、「蒼穹の昴」、も少し読んだ、散歩代わりにマウンテンバイクで少し走った、晩酌で缶ビールも飲んだ、今こうして、物凄く幸せな気分で今日の日記を書いている、もう一度、30万アクセスに大いに感謝。■「今日の言葉」■ 「 自分から心を開く勇気が 不和や誤解を解いていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 9, 2010
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昨年に北京オリンピックが行われ、只今上海万国博覧会が開催中、そして間もなく南アフリカでワールドカップが開催される、このような世界的規模の大きなイベントが行われる時に、古い町並み、あまり綺麗でない場所、好ましくない場所、国やその都市にとって障りな場所は強制的に排除されてしまう、華やかなイベントの陰の部分、そういうものに思いを馳せる事があり、克って、日本でも東京オリンピックが行われた、東京の土地勘は全く無い、だから国立競技場やその他の競技施設が築かれた場所にその昔に何があって、何が失われて、どんなものが消え去ったのかは知らない、後の大阪万国博覧会となるとまた別である、会場は千里丘陵を開拓された、ただ、万国博覧会には多くの外国のお役さんが来日、その外国のお客さんの眼に触れさせたくないものが万国博覧会開催の名の下に排除され、無くなってしまった物がある、そのうちの一つが尼崎の初島新地である、終戦後のドサクサの時代に阪神尼崎周辺に屋台やバラックの飲食店が出来て、その一角に売春をする赤線地帯が形成された、しかし数年が経過して、世の中に落ち着きが戻り始めると、婦人団体などから教育上好ましくない地域という事で、遠くへの移転を迫られて、赤線業者は集団で新たに土地を買って、建物を建てて、赤線地帯の移転を昭和29年にした、売春防止法が昭和33年4月1日の全面施行された、初島新地としての営業を始めて間無しの事である、そこで業態を小料理店、飲食店として、中身は従来の営業のままで商売を続けていた、オレは昭和41年4月の丁稚修業のために大阪へでてきた、会社の3階に男約20人ほどが住み込みである、些細な事で大喧嘩が起きる、だから給料日の後、3、4日は仕事が終わってから会社のライトバンでこの初島新地へ向けての便が出る、通称ガス抜き便、4月の給料日の後で始めてこの地を訪れる事に、赤線地帯としては歴史が新しく、廓とか遊郭という雰囲気は無かったのだが、街並みが途切れて一本道の向うに、ずらりと並んで、固まって営業している地域に足を踏み入れたのは初めての経験、売春防止法の全面施行後、8年目の事である、以来、毎月給料日の後で足を運んだ、そんなことが数ケ月続いた。 夏ごろだった、街並みが途切れて一本道、店が見え出してきた時にその一本道の両側にパトカー、警察官が停車を命じて、「どこへ行きますか?」、「遊びにです」、「現在、あそこの地域の取締り中です、ここから先は立ち入り禁止です」、仕方なく車をUターン、「帰えらなしゃ~ないかなァ」、「神戸側からの道に回ろう」、車はUターンをしたが、頭の中はノー・Uターン、この地域に入る神戸側からの道を探して近づくが、こちらにもパトカー、その日はもう帰る事に、次の月の給料日の後にまたもや出向く、やはりパトカーが、「しぶといなァ~」、(しぶといのはこちらであるが)、「長い間、目をつぶってきたのに、急になんでェ」、「大阪万博の前につぶしてしまいたいんや」、お客さんが行く事が出来ない赤線地帯、次第の廃業する店が続出、昭和43年の中頃に、初島新地の店は全てが無くなり、完全に消滅してしまった。 京都のわが街の西院でも、大阪万博開催のために、大阪万博を訪れた外国のお客さんの多くが、京都観光に訪れるだろうという理由でなくなったものが2つある、当時に阪急電車を利用していた人には記憶にあるだろうが、大阪から京都に向かう電車で、西院駅の手前で地下にもる辺りで、物凄く臭い匂いがした、そのあたりに魚のあらなどを天日干しにして、リン肥料を作る工場があった、特に夏場になるとその匂いが物凄く、当時は列車のエアコンが現在ほど発達しておらずに、夏場の車内は扇風機か窓を開けて涼をとる時代、西京極駅を過ぎると、窓を閉めて匂いをガード、オレの通っていた中学校も直ぐ傍、夏に窓を閉め切っての授業、あまりにもの蒸し暑さで、些細な事でトラブル、このあたりはこの肥料工場だけではなく、バタヤ部落もあった、それらが全て撤去された、今は肥料工場が児童公園に、バタヤ部落が住宅地、地域の人の大部分は撤去を歓迎しているが、ここで育った友達も数人いる、彼らはオレとは少し違った感情を抱いている事だろうと思う。 もう一つは、西大路四条の交差点の北西、現在は商業ビルのアフレビルが建っているところ、その昔は畑で、畑の奥に古い民家、そこの道に約10軒あまりの屋台が出ていて、焼肉屋、ホルモン焼き屋、おでん屋、串カツ屋、串焼き屋、等々が午後の5時頃になると、屋台の店を押してきて、店開き、阪急電車を下りて、そこを通過点としている人たちが、帰りの途中でチョイッと一杯の店であったが、この屋台も立ち退きを迫られて、代替の営業地として、阪急西院駅の西側に折り鶴会館なる物が建てられて、約10点あまりの店の代替地として提供された、屋台の店よりは広いが、全て狭い店である、当然、各店にトイレはなく、この会館の奥には共同便所である、会館も次第に古くなり、遊びの質も変化、客足も遠のく、会館の中の店が歯抜けのようになる、この中の店で飲んでいて、途中でトイレへ行く時には、財布を友達に預けてからトイレへ行った、友達が、「なんで?」、「ションベンしている途中に、金出せといわれたらどうするねん」、「そうやなァ」、「ここは昭和の終わりごろにはなくなるでェ」、とそんな話をしていたのだが、その予想は見事に外れて、今西院界隈で一番賑わっているのがここである、会館が建て替えられたわけでもない、昔ながらの共同便所でもある、10数年前に新しくこの会館へはいった店が、外から丸見えの立ち飲みの店、しかも安くて旨い、数人で以前は喫茶店で待ち合わせていた女性が、この店で待ち合わせ、生ビールの中ジョッキーが珈琲よりも安い、これから食べて呑みに行く、ならば待ち合わせはこの店で、開店して並ぶのはまずお尻の品評会、こうなると男のお客さんも増えてくる、待ち合わせの人数がそろうとお目当ての店へ移動、そして彼女達は約2時間もすると他の店で呑んで食べて、帰りに店の前を通る、この店で顔見知りになったお客さんが店の中から見つけて声をかける、「まだ、早いよ、飲んでいかんかァ」、とこうなると、ちょっとした合コン状態、冬は防寒用に透明のビニールが張り巡らされる、この外から丸見えのスタイルの立ち飲みの店が、京都市内でジワジワ増えている、このスタイルの店はこの折鶴会館が発祥のようである、今では駅前の屋台もかなり昔話、大阪万博の前に立ち退きさせられて、この折鶴会館が台替地として建てられた、この話でさえも、もう昔話である。■「今日の言葉」■ 「 相手の欠点を嫌がるよりも 自分に無い良さに気付こう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 8, 2010
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5年余りのバス通勤、ということはそれ以前の15年間ほどはタクシー通勤、朝8時に家を出る、西大路仏光寺の角の8時5分、いつも運転手のタクシーが止まっている、信号を渡り終えると、ドアーが開いて、乗り込み、「おはようさん」、この運転手は仕事の始まりから暫くの間、五条通あたりのマンションの住人さんで、阪急電車で沿線、或いは大阪までの通勤の他人を阪急西院駅まで、殆どワンメーターであるが、そんなお客さんを何人か乗せてから、8時にはいつもオレが乗る場所で待機、乗った後は居眠っていても河原町今出川あたりになると、「お客さん、出町ですよ」、と声をかけてくれる、そこから信号一つ先の、川端今出川の信号を東に越したところで降りる、だから出張の時などや大阪へ直行の時には、前もって言っておく、こういう事が何年も続くと、新車での初日の日には、最初に乗せるお客さんはオレという事になる、また、その運転手が急用で休みの日には別の運転手が、頼まれて代理としていつもの場所にまっていてくれる、そんなわけだからマンションの管理人の仕事をするようになって、「バス代って、いくらだったかなァ」、バス通勤に慣れるまで暫く時間がかかった。 しかし、平日の仕事の日には、バス停が約15停留所、この区間を2往復するわけである、車内アナウンスで、「交通事情により、遅れる事があります」、とあるが、バスの時間なんて端から当てにしていない、前のバスが時刻表よりも先に来て、後のバスが遅れてくる、こうなるといつもは待ち時間が5分のところが約10分ほどになる、この5分間とうのは実に長い、拳銃でも持っていれば何度運転手を射殺した事か、それほど最初の頃はイライラしていた、時給850円也の身分、これに慣れなければ、お陰で最近ではいつからタクシーに乗っていないのか思い出せないほどタクシーに乗る事はなくなった、この2往復、4回バスに乗るわけだが、8時、12時、16時、20時、このうちで8時と20時は大体空いていて座れるのだが、12時と16時はその日によって随分と差がある、座っている人の中で、早く降りそうな人に狙いをつけて、その人の傍に立つ、敬老乗車証を持っていそうな人、こういう人は乗る期間が極めて短い、1駅でもバスに乗る、それと座っていて降りる準備をしたり、停留所名を確認するような素振りの人、ところがこれが時々外れる時がある、オレが降りそうな気配と思っている動きが、実はフェイントだったりする時、単なるオレの思い違いに過ぎないのだが、「紛らわしい動きをするなァ」、と妙に腹が立つこともある、敬老乗車証を持っていそうな人の傍に立っていて、勘が見事に的中と思っていると、立つ時にお年寄りに声をかけて、「ここがあきますよ」、「そうかオレは、まだ若いからなァ」、と納得する、座った人も敬老乗車証を所有していそうだ、その人も2駅ほどで降りる、そして席を立つ時にまたお年寄りに、「ここがあきます」、と声をかける、こうなるともう忍耐の限界、「お前等は互助組合かァ」、という事になる。 後50日足らずで68歳、年々バスの中で席を代わられる機会が増えてきた、還暦を過ぎた頃、紅葉のシーズンで銀閣寺からの帰りのバスで、乗ってすぐにカップルの女性が席を立って、「どうぞ」、余りにも予期せぬ瞬間であった、フイに後から思いっきりドツカレたようで、次の瞬間には完全に拒否反応、思わずに、「イイエ、結構です」、と言って後ろのほうの開いている席へ、オレに席を譲るために立った女性がもう一度席に座って、カップルはオレのほうを見ながら話しをする、思いすごしか知れないが、「折角代わってあげたのに、可愛くないねェ」、そんな感じの会話であった、「よし、次にこういう事があれば、ニッコリと笑って、お言葉に甘えよう」、そう意を決したわけだが、席を代わられる事が度々あれば慣れるのだが、そんな事を忘れた頃に突然である、何度もぎこちなく断ったりしながら、漸く最近は席を立って、「どうぞ」、声をかけられると、ニッコリと笑って、帽子のひさしに手をかけてお礼の挨拶をして、うろたえる事無く、席を代わってもらえる事が出来るようになった、文字が見難くなって老眼に、下の毛に白髪が生えて、頭にも白髪が生えて、額が広くなり、マウンテンバイクのサドルも年々低くし、オシッコの後の水切りも丹念且つ慎重になり、バイアグラやレビトラに興味を持ち出し、歩く姿勢が悪くなり、スピードも遅くなり、固いものは食べられなくなり、若く見られて余り喜ばなくなった、徐々に老いの自覚症状を積み重ねてきているが、バスの中で席を譲られる行為は自覚症状では無いだけに、慣れるまでには随分と時間がかかった、それゆえに折角の親切な行為にたいしての、何度か失礼な、不愉快な行為に許しを請いたい。 ■「今日の言葉」■ 「 心配事が多いのではない心配 する気持ちが強いのである 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 7, 2010
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午後11時前のテレビの前に、ニュース23を見るために、寝酒のバーボンのアーリータイムスをチビチビやりながら、繊維のメーカー時代は寝る前には物事を考えない癖をつけていた、寝る前に物事を考えて、これは素晴らしいアイデイアなんて事になると、その考えがどんどん膨らんで行き、寝られなくなってしまう、こうなると当然のことながら、翌朝は睡眠不足、そしてその原因になった考え事、朝になるとなんとしょうも無い事、こういう事が良くあったために、寝る前には考え事をしないようにして、お陰で布団に入って天井を向いた途端に目覚ましが鳴っている、それだけ寝つきがよく、熟睡が出来た、ところが会社を整理した後、ひところ会社へ出勤をしなくなってからは、いくら後ろを振り返らないオレでもついつい、ああすればよかった、こうすればよかった、頭の中では、死んだ子の年を数えてもどうしようもないとわかっていながら、そうしてしまう、お陰で寝つきが悪くなり、寝酒の量が増える、寝酒のアルコールが残る、朝が起きられない、朝起きるともうすでにヨメがパートに出かけた後、まるで昔から憧れていたヒモ生活、なんて呑気な事を考えていた間は良かったのだが、過ぎ去ってしまったことをくよくよ考えるその自分自身のネガテイーブさに嫌悪感、その事を友達と飲みながら話していると、10年ほど前から飲んでいるという睡眠導入剤のレンドルミンの話を聞いた、彼はかかりつけのお医者さんから、「私も飲んでいて、長年飲んでいても量を増やすということはなく、寝つきが良くて、目覚めも良くて」、と進められて飲むようになった、夜中にトイレに起きてから、その後の寝つきもよく、朝は目覚ましが鳴るとさっと起きる事が出来る、それを聞いてから、毎月の診察の時に先生のレンドルミンの処方箋を頼む、降圧剤とワーファリンは2ケ月分の処方箋、レンドルミンは2週間分の処方箋、2週間おきにレンドルミンの処方箋を取りに行くのは面倒、といことで処方箋には一日2錠服用、ところが実際には毎日半錠服用、オレは極めて薬好きなのだが、頭痛薬、痛み止めの系統の薬は滅多に飲まない、だからこの系統の薬には耐性が無い、他の人には半錠ではきかんやろうと言われるのだが、オレにはこれで充分、布団に入って深呼吸、もう眠りにつくという感じで、夜中に毎晩一度や二度はトイレに起きる、トイレを済ませ眠る時も同じである。 ただこの薬を飲むようになってからいびきをかかなくなる、これはヨメ曰くである、それと夢を全く見なくなる、嫌なヤツが夢に出てきて、けんかをしたり、怒鳴りあいをしなくなる、これは誠に結構なんだが、今でも夢に出来て欲しい女性が2人ほどいる、その夢を見ないという事は淋しい限りである、ところが、昨日の休みの日、午前9時に起きて朝食を済ませて、タバコを吸って、コーヒーを飲んでいて、寝転んでクッションを2枚、枕代わりに敷いて、例年この時期、湿度が高くて蒸し暑いのだが、今年は空気が乾燥していて実に気持ちが良い、まだ寝たり無いのかウトウトと、お寺の日陰の広い廊下で、美女の膝枕で転寝、さぞかしこんなに気持ちがいいのだろうなんて思いながらウトウトしていると、本当に膝枕の夢を見た、寝返りをうって頭がクッションからずり落ちた、慌てて頭をクッションの上に戻そうとしたら、クッションの感触とは違う、女性の膝枕である、顔にユックリと団扇で扇ぐ風が心地良い、「美人の膝枕」、というが、乏しい経験から言うと、美人の膝枕は寝心地が良くない、寝心地の良い膝枕の主は美人ではない、そんな風に思い込んでいる、だから余りにも心地の良い膝枕、目を閉じたままでいよう、するとまたウトウトと、この膝枕の主は誰、確かめたい気持ちと、余りにも気持ちの良い膝枕のために確かめたくない気持ちと、両方の気持ちのせめぎ合い、顔を見てきたいと言う気持ちの誘惑に負けて目をあける、覗き込むようにオレの顔を見て、いつも店に行くと、「いつもありがとうございます」、と言う時のままのこぼれるような笑顔、オレが好感を抱いた女性とは、道でばったりと出会うことが良くある、彼女とはそう思いながらも数ケ月がたつが、1度も道で出会ったことが無い、その彼女が今オレに膝枕、しかも目を覚ましたオレにニッコリと微笑んでいる、目を覚ましてもまだ夢の中、ガラガラとガラス戸が開いて、洗濯物を干していたヨメが部屋に戻る、咄嗟の事で小心者のオレは大慌て、「何もしてへん、膝枕で寝てただけや」、夢と現実の境目で必死に弁解をしている、「さっきまで寝てたのに、よく寝られるね」、といって洗濯かごを1階へ戻しに階段を降りていく、ホッとしてもう一度目を閉じると、もうそこには彼女の笑顔も膝枕もなくなっていた、すぐに起き上がってタバコに火をつける、思いっきり深く煙を吸い込んで、ユックリと、ユックリと煙を吐き出す、一気に頭がはっきりとする、夜は全く夢を見ないのに、転寝の時には夢を見るのか、次に転寝をする時には、バーのカウンターに並んでお酒でも飲んでいる夢を。■「今日の言葉」■ 「 物に恵まれた生活より感謝を 湛えた生活に幸福がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 6, 2010
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今年は5年に一度の国政調査の年に当たる、前回の国勢調査の折、マンションの管理人になったのが、その年の3月末、マンションの管理組合も未結成、町内の調査員はその当時の町会長の奥さん、マンションと町内会とのつながりが全く無かった時に、調査員の人が管理事務所を訪れて、「ここのマンションはダブルオートロックで、セキュリテイが厳重で、調査が出来ないけど、手伝うてくれますか?」、その時には調査員の人は町会長の奥さんでもあり、町内会とマンションの顔つなぎと純粋に考えて、「あ、あ~、いいですよ」、と返事をして、まず国勢調査実施の案内のチラシが管理人事務所へ届いて、それを各戸のメールボックスに投函、ここで仕事に行っているマンションについて少し説明、7階建てで、55平米のワンルームから、200平米以上の5LDKまで、1平米当たり約100万円の超高級マンション、34戸、ダブルオートロック、セキュユリテイの厳重なマンション、警察及び消防署の住民調査といえども、ある日突然というときには、住民調査を拒否、あらかじめ予定を立てて調査の時には管理組合の理事長の許可を書面で得てから、住民調査のために館内立ち入りを許可する、住人さんの3分の1は非常時居住者、セカンドハウス或いはサードハウスとして利用、或いは利殖のために部屋を所有、子供のいる世帯が7世帯、子供は幼児から中学生までが、合計で8人という子供は以上に少なく、常時居住者の中で1人住まいが10件、しかも管理人室の窓の位置が悪く、住人の出入りが殆んど見えない、管理人は基本的に住人さんのプライバシーを重視、住人さんも長期間留守にする時でもほとんどの人が管理人に声をかけることはしない、という事は館内に何人住人さんがいるのかの把握が出来ていない、その日によって顔を合わす住人さんが限りなくゼロに近い日もある、だから常時居住の人でも長く顔を合わさない人もいる、こういうマンションである。 このようなマンションであるために調査員の人国勢調査の調査票を本人に手渡しるすというのが非常の困難なマンションともいえる、この国勢調査というものは、限りなく100%に近い回収率が理想的と理解をしていた、管理人の本来の業務ではないが国勢調査の実施と町内会とのつながりという点において国勢調査に協力する事はマンションの住人さんのためでもあり、調査員の人のためでもあると考えて国勢調査に協力、ところが国勢調査日は10月1日現在の調査である、調査票を受け取ったのが9月の末であり、直接手渡しできた住人さんは僅かであり、国勢調査実施者の中で手渡しが出来ないと予想される住人さんへはメールボックスへ投函して、10月4日までに管理人室の窓口へ提出して下さいというメモ書きをつけておいた、10月2日の日に窓口へ提出にきた住人さんが、オレのやり方にクレームがついた、町内の調査員の人が調査票を直接手渡しで、記入済みの調査票を調査員の人が直接回収が基本と主張、ここのマンションの状況を説明して、国勢調査を拒否するか、このやり方しか事実上不可能であったと説明、ところがその人は調査員の人に直接に調査票を手和したいと主張、そこで、「どうぞ、ご勝手に」、大いにふてくされて、その人は調査員の人は報酬を貰っているのだから取りに来るように言ってくれという、「ならば、自分で電話をしてください」、と調査員の人の電話番号のメモを渡す、しかし、結局のところは調査票を調査員の人の家のポストへ投函という事になった。 ところがそれで修まらないその住人さんは、オレではなくオレの相方に執拗にグジグジ文句を言い出す、個人情報保護云々を持ち出して、こういう個人情報保護という事になると、行き過ぎた個人主義大好き人間で、何でもかんでも声高に叫びたいという人がいるもので、数人がオレをバッシング、大体、個人情報保護というものはコンピューター時代になって、大量の個人情報を預かったり、取り扱ったりするところが、口では個人情報は大切にとはいうものの、それをお金ほど大切に管理、取り扱いをする事がなく、勝手の紙媒体の個人情報が記録されていた時代では大型トラック1台分ほどの情報量を、小さなMO1枚に記録をコピーして持ち出す事が可能になった、こういう事故、事件を防止するために、個人情報もお金と同等に厳重克つ慎重な管理を促し、実行するために出来た法律であるが、現実には極僅かな、ほんの少しの量の、個人情報保護に類するかどうか疑わしい、そんなところに向かって、議論をする余地もなく、議論を封じ込める刃のような使われ方をしている、オレは個人情報というものはお金と同じように扱わなければ、扱われなければならないと理解をしている、他人に、「お金を取っただろう、盗んだだろう」、これはよほどの証拠か、現行犯でない限りはいえない言葉である、所がである個人情報云々という言葉は、軽々しく口から発せられる、この事は常々思っていたことであり、苦々しく思っていた、たとえ住人さんと管理人という立場の違いはあっても、個人情報云々とは、「どこの馬の骨か分らんようなやつに、ドロボー、盗人と言っているようなもの、もう我慢ができん、こんな仕事は今日でやめる」、制服をクリーニングに出して、派遣会社と管理会社に仕事をやめる旨の電話を入れる、電話を入れた後でタバコを吸いながら、さて次の仕事、と考えると、ことの怒りは些細な事やないか、鰯の小骨が喉に刺さっても、まるで鯨の背骨が喉に刺さったみたいに騒ぐ、還暦を過ぎても余り進歩がないなあ~。 しかし何が幸いするか分らないもので、勤めているマンション、2人シフトで365日管理、という事は盆でも正月でもどちらか出勤しなけれなならない、勤務は午前8時から12時まで、5時間の中抜け休憩を挿んで、17時から20時まで勤務、これだけ拘束時間が長くて実質の勤務時間は7時間、極めて悪い雇用条件で、マンションのオープンの3週間前になって始めてオレと相方が面接、余りの雇用条件の悪さでこの不況下でも応募がなかったのであろう、この事が大いに幸い、派遣会社と管理会社のマネージャーが必死に思いとどまるように説得、そこで、「一度はいた言葉口に戻すのは好きではないが、この場はお言葉に甘えさせていただきます、お引止め有難うございます」、という事になって早5年、平成22年度の国勢調査の町内の調査員の承諾書が送られてきた、引き受けると、一定期間臨時公務員となる、国勢調査における総務省の態度に大いに批判的である、どこががという事は後日あらためて書くことにしよう、臨時公務員に任命されて、報酬を受け取るという事が嫌なのである。■「今日の言葉」■ 「 最後までやると心を決めれば 成し遂げる工夫が湧いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 5, 2010
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約10数年昔の話である、祇園あたりの飲み屋のホステス、専業のホステスとアルバイトのホステス、昼間はOLか女子大生で、週に何日かアルバイトでホステスをする、専業のホステスは若い頃より水商売に道に入り、その道のキャリア、10数年のベテラン、当然年齢は30歳を過ぎている、また同じようの若い頃から水商売で、一旦結婚をして、子供が出来て、やがて離婚、そして子供を引き取って育てるためにホステスにカムバック、同じく年齢は30歳過ぎ、残念な事にこういう専業のホステスを目当てに店に通うと言う事はなかった、正しくはその人を目当てに通うと言う専業のホステスがいなかったと言うほうが正しい、そうなると店のほうの策略もあるが、オレのほうも若くて、可愛いアルバイトのホステスが横に座るのを好み、しかも誰が見ても面食いとわかる、その店で一番の美人、わかり易いといえば、実にわかり易い好みであった。 店の策略で、慣れないアルバイトのホステスをオレの席に座らせるのは、別段、紳士的というわけではないが、断じて触り魔ではなく、それで困らせると言う事もなく、また初仕事の日で緊張しているアルバイトのホステスの緊張をほぐしたり、話で楽しませたり、時にはホステスの心構えなどのレクチャーをたれる、グラスの外側に水滴がつくとそれを拭くとか、新しい水割りを作る時のタイミングとか、余り好きで無い客に閉店後とか、別の日に食事を誘われた時の上手な断り方とか、逆に好きな客が誘うように持っていく方法とか、同伴出勤をすればママは機嫌がいいとか、トイレに行ったときには、トイレにあるオシボリで、トイレの床や、便器を掃除すること、ついついお節介ながら、ホステスの心得のレクチャーをしてしまう、自分よりもホステスを楽しませる店にとってに良い客でもあり、当時は何よりも金払いの良い客でもあった。 このレクチャー好きは、何も飲み屋にかぎったことではなく、昔から特利用していたホテトル、受付の電話を受けるにはオーナーの奥さん、一度もあったことはなかったのだが、何度も電話で、名前を言ってから季節の挨拶をするようになり、遊んだ女の子からオレの話を聞いたりするのか、次第に親しくなって、女の子と面接中に、オレが電話をすると、今面接中の女の子が、すぐにでも仕事がしたいと言っている、この業界未経験、時間をサービスするから一通りの事を教えてやってくれますか、こういう事も良くあった、店から電話を受けてお客の名前とホテルの名前と部屋番号を聞かされる、これは絶対にメモを取ったらアカン、変な証拠になる、これだけは覚えなアカン、あんたは背が高いから、客が椅子に座って、あんたが立って話をすると、しかも美人やし、(チョッとヨイショ)、偉そうぶっているように見える、こういう時には膝まづいたほうがいいよ、料金をまず受け取り、遊びの時間の確認、部屋にはった事を店に電話をして、ホテルを出る予定時間を連絡、それから、「お風呂にしますか、シャワーにしますか」、ときいてから風呂場へ、ハンドバックはテーブルに置いたままとちごうて、洗面所まで持って行きや、店へ清算に行く間がなかったら、客よりもあんたのほうがお金を沢山持っているから、この仕事するにはそれなりの事情があったんやろうと思うけど、楽しんでせえとはよういわんけど、作り笑顔でもいいから兎に角笑顔、それと客はお金に余裕のある人もあれば、命の次に大事なお金で遊びに来ている人もいる、喋る言葉が大切や、言葉は過剰スペッシャるサービスを上まわるモンや、70分間の恋人やで、客が勧める飲みモンは遠慮しいや、中に睡眠薬でも入っていたら、眠っている間にただで遊ばれて、財布のお金を抜かれて、客が先にホテルを出て、「ホテル代はつれの支払い」、なんて事になる、とまあ一通りのレクチャーが終わって、「何か質問は?」、「・・・・・・」、「質問がなければ、それじゃあ、遊ぼうか」、とこんな具合である。 飲み屋のアルバイトのホステス、女子大生なら卒業する、OLなら結婚とか、人事異動でホステスを辞めることがある、その度に大勢で送別会をする、食事を終えて、店へ流れる、店の閉店間際に、「楽しかったよ、かんばりや」、「また美味しいもん食べに連れて行ってね」、「あ、あ~、いいよ、いつでも」、と涙の別れ、店に出て、タクシーに乗って、すぐに彼女の携帯の番号を削除、アルバイトのホステスをしている時には電話をかけて食事に誘ったが、ホステス業から足を洗った時からは、オレのほうから食事に誘わないのがオレの遊びのささやかなルール。 ■「今日の言葉」■ 「 社会に役立ちたいと願ってこそ 身につけた能力が生きる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 4, 2010
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わが街の西院の風景をカメラに収めたい、「西院百景」、タイトルは何年も前にきめている、年間に京都の写真を数千枚は撮っている、京都には観光の名所なる社寺仏閣は数知れず、絵葉書で見られるような写真は自慢ではないが1枚も無い、それだけ写真を撮りながら、西院の写真となると、西院春日神社、そこのお祭りと行事、秋季祭、藤花祭、夏越払いの時の写真くらいである、2001年11月始めに登録した、シニアウイングスなるシニアのコミュニテイサイト、スタートして10年目で、初期の目的達成のために6月中旬に閉鎖になる、談話室のBBSへの投稿より、毎週、更新されるカメラアングルなる写真投稿のコーナー、ここのほうが馴染みが深い、このサイトの閉鎖の前に、京都の嶋原に江戸時代に栄えた花街の名残が、今では完全に住宅街に変化した街に3つの建築物が残っていて、現在も営業が続いている置屋兼揚屋の輪違違屋、克っての嶋原の置屋で、現在はもてなし館として嶋原と嶋原文化を今に伝えている角屋、その昔は嶋原には塀がめぐらされていて、嶋原への唯一の入り口であった、嶋原の東の大門、栄えていた江戸時代の名残をとどめている建築物はこの3つで、3週に別けて投稿した、その途中にこのサイトの閉鎖のメール、ラストの投稿は、わが町西院の写真ときめていた。 きめただけではなく、BBSの掲示板にもその事を書いている、ラストの1週前の今週の投稿は、嶋原の番外編として、江戸末期に嶋原への入り口が東の大門が1ケ所きり、ここへ遊びに来るお客さんの利便を考えて嶋原の西側煮に西門が開けられた、西の大門である、ところが平成の始めに輪禍により倒壊、以来、西の大門の再建が持ち上がるが、再建にまでは至らず、現在はその西の大門跡に石碑があるのみで、この傍に島原の住吉神社があり、神社としては誠に小さな神社であるが、神社周りの柵の石柱の寄贈者に、○○楼などの名前も見られ、尾上松之助の名前などもある、それと樹齢数百年の島原の銀杏がある、元々は住吉神社の境内に会った銀杏だが、この住吉神社は、ふるさとを遠く離れて売られてこの地につれられてきた遊女たちのために作られた神社で正式なご神体がなく、明治時代の廃仏毀釈によって取り壊され、この銀杏も切られるところであり、神社の境内は狭められ、この銀杏だけがぽつんと取り残されていたところ、この銀杏の木の根元にご神体を祭る事によって伐採を逃れる事が出来、狭い場所に朱の柵で囲まれてこの銀杏が残されている、これらを嶋原番外編として投稿する予定であった。 「西院百景」、とタイトルだけを決めてから数年、幼い頃に見た記憶に残っている風景、永らく探しているが、どこも思い浮かばない、この西院というところ、平安時代の淳和天皇の淳和院が建てられて、淳和院町という町名も残っていて、そのお妃が藤原氏の出身ということで、西院春日神社も創建され、少数の人が住む西院村となった、巽町、乾町、坤町という町名がある、西大路四条から考えると、それぞれの町の位置がおかしい、当時の西院村は西大路通より西、佐井通(春日通)よりもう一筋西の中の橋通と四条通の角が西院村の中心であった、すると3つの町の位置があってくる、現在西院の住宅地図を見ると、敷地の広い大きな家がある、その家の苗字を見ると、約5つつほどの苗字で、その5つつの苗字の家の本家と分家であって、古くは室町時代の応仁の乱以前の住人さんで、また応仁の乱の折に遠くからこの戦に馳せ参じて、余りにこの戦が長引いたために、戦が終了後も故郷へ戻る事無くこの地に住みついたという家もある、しかし、京の街の西端は長く千本通までであり、そこより西は殆どが竹薮とドロ地であって、ぽつんと離れて、まるで陸の孤島のように西院むらの僅かな集落があった、明治40年産まれのオヤジ、子のどの頃に親から、「千本通より西へ、絶対に遊びに行ったら、イカン」、といわれていて、実際に千本通より西は薄気味悪くて、怖くて遊びに行く事ができなかったといっている、昭和の始めの地図を見ると、その時代でも、千本通より西には民家は殆どなく、ぽつんと離れて西院村に僅かな民家が存在、実際にその頃に千本通より、夜に西を見ると、嵐山の旅館の灯りが見えたということである、現在の阪急電車が西院から地下に潜り四条大宮まで延長されたのが昭和6年の暮れである、以後、間も無くしてこの西院駅を中心として家が建てられるようになった、オレがこの地に住み始めたのが昭和22年の秋である、まだあちこちに畑や田圃が多く残っていた、勿論、高いビルなど何も無い時代、オレが幼稚園か小学生の頃に見た景色、約60年ほど前の景色、その風景と変わらない風景探しが始まった。 西院の地域は広い、子供の頃の行動範囲は限られている、ある地域に古い、大きな家が固まっている場所がある、そこは残念ながら、オレの子供の頃の遊び場ではなく、そういうところは除外、まず最初に頭に浮かんだのが阪急電車の地下に潜る入り口、オヤジにつれられて、抱き上げられて、線路を覗き込む、入り口に立派な字が書かれた鉄の銘板あり、その下に鷹が羽を広げて下を覗き込むようなレリーフがあり、これを見るのが好きであった、当時はコンクリートの塀だけであったのだが、線路上に落下物防止のために高い金網が張り巡らされていて、その金網の隙間がオレのカメラレンズと同じ大きさ、レンズを金網の隙間に差し込むことは出来るが、差し込むだけで、上下左右にカメラを動かす事が全く出来ない、カメラを差し込んで、そのままシャッターを押さなければならない、銘板と鷹のレリーフが収まるアングルの隙間を探して、カメラを差し込んではダメ、ここもダメ、時間をかけて漸く丁度良い隙間を見つけ出す、入り口の銘板と鷹のレリーフは電車の安全運行を見守り続ける役目、約60年余りの間、そしてこれからも長く変わることの無い風景。 小学校の校門を出て東を見ると目に飛び込んでくるのが、焼杉板の塀で囲まれて、塀の上から覗くきれいに手入れをされた松ノ木、入り口には古い暖簾、東の端には大きな白い蔵、大きな看板に、質・井澤の文字、その周りの家の記憶は無い、全てが新しく建替えられているが、この店だけは小学校の頃に見た時と少しも変わっていない、それと嵐電が西院駅を出て三条駅へ向かう線路脇の西側に古い洋館立て、背の高い棕櫚の木があり、建物よりもないがい白い塀、この塀に2つの四角を90度ずらして重ねたような、ダビデの星に似た形の窓が幾つも開いている、この塀が記憶に残っている、何人かで嵐電の線路脇の金網にもたれて、こんなお屋敷にどんな人が住んでいるのだろう、同じ年頃の可愛い女の子がバイオリンのケースを手にして出てくる期待を抱きながら、ただ残念ながらここの家の人の姿を見る事がなかった、このお屋敷は明治時代に建てられた、造り酒屋さんで、後に染物屋さんを営む人のお屋敷で、1966年の第33回の日本ダービーで12番人気ながら、4馬身もブッちぎって優勝した、テイトオーの馬主さんでもあり、現在はよく手入れの行き届いた庭を見ながら食事のできる、京のオバンザイ居酒屋として営業、ここも約60年余り前と殆ど変わらない風景の一つで、ただこのあたりは右京区と中京区の境目で、ここは正式には中京区壬生であるが、ここではよく遊んだためにオレの頭の中では右京区西院である。 こうして3つの変わらない風景を写真に撮った、来週の3枚は西院の街の阪急西院駅近辺は高いビルが建ち並び、賑わいのある風景だが、西院の街に相変わらず残っている下町の場末感、ゴチャゴチャとした、決しておしゃれでない、垢抜けしない猥雑間に溢れる、それでいてどこか元気で、始めて訪れた人も、「ただいま」、と言いたくなり、この街の人も、そういう人に、「おかえり」、と声をかけるような街の雰囲気、そんな景色を探してマウンテンバイクで走る予定。■「今日の言葉」■ 「 楽な事は明日に延ばしても 苦しい嫌なことは今始めよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 3, 2010
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鳩山首相の辞任、昨日はまだ政権運営に強い意欲を見せていたはずである、一夜にしてというが、昨日まではテレビのカメラの前に立って、何をコメントする時でも、大きな目が絶えず右の上のほうに泳いでいた、このことが物凄く気になっていたことであるが、昨年末の普天間米軍基地移転問題が迷走しだし、母親からのお金の問題が浮上し始めた頃からであると思う、最近は視線が右上に彷徨う事が実に顕著であったようで、今日の辞任会見の時から、視線が右上に彷徨う事はなかった、この一夜にしての心境の変化、オレにも似た経験がある、1998年の10月末に会社の売り上げが大幅に減少、10数年間に亘って毎年積み上げてきた利益、それを全て吐き出して、まだ足りない決算をしてから11月からの新しい期、その赤字を取り返すべく踏み出した、売り上げが伸びない、資金繰りが苦しい、何とかここを乗り切れば、そのことばかりを考えていた、その翌年の2月末あたり、6ケ月先の資金繰りを組むが、備蓄期間を終えて、製品の納品時期に差し掛かる、例年ならこの6ケ月間の資金繰りが比較的に楽で簡単に資金繰りが出来る、3月くらいから、備蓄資金として調達した短期借入金の返済が始まる、3月も返済が出来ない、4月も返済が出来ない、5月も同じである、6月になると返済は出来ない、その上に資金がショートする、7月末になると、振り出す予定の手形の決済も危うくなる、この時には土下座してでも手形のジャンプの依頼、なりふり構わず如何に会社を継続させるか、ところがそれで切り抜けたところで、次の年のことを考えると、備蓄用資金の調達が完全に出来ない、継続から白旗に変化したのは一夜にしてである、倒産すれば連鎖倒産もありえる、それだけではない連鎖倒産した人の自殺という最悪の事もありえる、100%の継続から100%の白旗までは一夜にしてであった、悪いくじしか残っていないところで、最悪のくじだけは引かないようにしよう、その決断であった。 辞任が遅きに失したという声もある、確かに何度か辞め時はあったのだが、待望の政権交代、前の3人の自民党首相の短期間での政権投げ出しがあった、それだけに苦しい中での政権維持の意欲があり、ただ、オレも会社の経営に白旗を掲げる前の日まで、頭の中では、「まだ、いける」、が100%であった、ただそれを客観的に観ると、「もう、おそい」、であった、それと最近のマスコミは政治をワイドショー化しようとしすぎである、まるで芸能人のスキャンダルのように鳩山首相の批判・非難を面白おかしく書き立てる、国会議員が国政を行わずに、選挙対策に汲々としている現状の批判すらしない、「国会議員の仕事は何ぞや」、そういう問いかけもしない、「こんな党首では選挙は戦えない」、なんと恥ずかしいような言い草ではないか、そんな軟弱な国会議員こそ議員を辞めろといいたい、国会議員でありながら職責を果たさない国会議員が多すぎる、特に参議院議員は6年間身分が保証される、これこそ大きな税金の無駄使い、参議院議員定数の削減、マスコミが政治に対していわなければならない事はもっとあるはず、鳩山首相のその意図があったかどうか知らないが、戦後の日本の首相の中で、初めて米軍基地の多くを押し付けられて沖縄の苦しみに言及した首相である、日米の安全保障に関する議論を盛り上げる機会でもある、この問題の議論する事をリードするのがマスコミの努めである、今日も鳩山首相の辞任を巡っての番組が殆んどであった、街頭のインタビューも多くあった、暴言のような発言も多くあり、それがテレビの画面から何度も流れる、またこの人が政治問題に関して発言、首をかしげる事もあった、まさに、「鳩山首相辞任劇」、である、政治の不信という言葉も何度もささやかれていたが、それを眼にしながらマスコミに不信感を抱いたのはオレだけであろうか。■「今日の言葉」■ 「 気付いたことをすぐに行うことは 物事を好転させる元である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 2, 2010
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零細企業の社長というのは、社長らしい仕事は時間外か、休日出勤か、家でするもので、会社での通常勤務時間には、社長らしい仕事以外の仕事をする、サンプルを作って、営業してきて、生地の仕入れ、工場の手配、工場へ投入、出来上がり製品の納品や倉庫入れ、物流に関わっている時間が多く、長い、物流という仕事は好きである、丁稚時代にこの物流に関して無駄な製品の動き、製品の動かし方、生意気にも無駄が多いなあとまず感じた、オレは生まれつき決して働き者というタイプではない、分類すれば怠け者の部類に属する、丁稚時代に物流に関わっている上司、先輩は勤勉を絵に書いたような働き者が多く、一日中物の移動、しかし、この動きを見ていると、どうも無駄な製品の移動が多く、果たしてこの無駄な製品の移動は利益を生むのだろうか、丁稚の分際で大いに生意気な事を考えていた、本当のところはこの無駄をなくせば仕事が楽になる、そうすれば一仕事終えてからユックリタバコ休憩なんかも出来て、この物流の仕事は働き者ではなくて、オレのように将衣装怠け者がするのが丁度良いのでは無いか。 そういう事で物流という事に大いに興味を持ち、物流は自分の天職とも思うようになった、生地が会社へ入荷、工場送り、工場で裁断、刺繍やプリント身頃を会社へ送らせる、刺繍及びプリント工場へ発送、刺繍工場やプリント工場から、刺繍上がり、プリント上がりを会社で受け取り、それを縫製工場へ送る、縫製工場より製品上がりを受け取る、生地を製品にするまでこれだけの動きがある、会社は元来夏物の紳士のクレープ肌着にメーカーである、クレープ素材は、高温多湿の日本の夏に適した素材で、肌触りがシャリッとして、涼しくて、紳士物の夏物の高級肌着素材として人気製品であったのだが、住環境、オフイス環境、その他の生活環境の変化、特にクーラーやエアコンの復旧、ファッションの変化、メリヤス肌着の進化、こういう様々な原因で1970年の大阪万博の年をピークとして、年々生産数が減少、その頃に丁稚を終えてオヤジの会社へ戻る事になり、当然のことながらレープ肌着以外の新規製品の開拓であった、そこで手がけたのが婦人物のナイトウエアーであった、デザイナー、パタンナーを採用して、本格的にこの分野の製品を開拓、時代は好景気、バブル期、得意先が有名デザイナーとのライセンス契約、好条件がそろって、約10年ほどで紳士物のクレープ肌着の年間売り上げを上回り、会社の売り上げの約70%を婦人物のナイトウエアーが占めるようになったのであった。 ナイトウエアー用の生地も、製品もカサが高く、狭い会社の中で身動きができなくなりそうで、そこで1つの製品を製造するのに何度も会社へ出たり入ったり、これを出来るだけ少なくする、理想は、生地を工場へ直送して、刺繍やプリントの裁断地を工場から直接刺繍工場やプリント工場へ直送、その出来上がりを工場へ直送、工場で縫製、縫製上がりの製品を工場から会社へ、ここで初めて1つの製品の物流に会社が関わる、この間、生地屋さんに工場への生地の出荷指図、工場への加工指図書、仕様書、刺繍工場やプリント工場への製造指図書、仕様書、出来上がりを工場へ直送指図書、工場から送られてくる製品の段階になって始めて製品の顔を見る、そこまでは全て加工指図書と仕様書の発行だけで済ます、この製造のルールを作り上げた、お陰で商い金額の割りに、バタバタ仕事をする事無く、生産をすることが出来た、物流はの合理化は怠け者に限ると思っている、ただ加工指図伝票と仕様書を毎日鬼のように書く、その頃に生涯で始めてペンだこなるものが出来た。 笑い話のような事があった、仕事帰りに祇園へ行く時には、びしっとスーツを着て、ネクタイをしめている、その姿を見慣れている飲み屋のママさんが、暑い中を会社へお中元、会社の前の道は細い道、通る車の殆んどが会社に関係のある車、天気の良い日にはその道に製品を持ち出して荷造り、当然の事ながらそれもオレの仕事、半袖のTシャツに、綿パン、大汗かきだから首に手拭、耳にボールペンを挟んで汗まみれ、オレだと気付かずに、ママさんが仕事中のオレを捕まえて、「○○です、社長さんはいやはりますか」、「さあ、分らんけど中の事務員さんに聞いてくれる」、「はい、そうします、暑いのに大変ですねェ~」、「へえ~、おおきに、オレや、オレ」、そこでようやくオレという事に気がついて、その途端に、今度はママさんがどっと汗を噴出す、「化粧が落ちる、化粧が」、大笑いをした事があった、そこで、「社長も仕事をする事があるノン」。■「今日の言葉」■ 「 人生は今の瞬間の積み重ねで ある今を大切に生きよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jun 1, 2010
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オレが中学生の頃、先生は武闘派と文化派、文化派は若い先生が多く、生徒に対する暴力行為は無しで、授業中怒る時には大声を出す程度、これでは収まりがつかずに、先生が危うし、そういう事がたまにはある、すると隣の教室で授業をしていた武闘派の先生が隣の教室の騒ぎに気が着いて、文化派の先生の助っ人、騒ぎを起こした張本人を10人ほど並べて、順々に平手打ち、ビンタというヤツで、この武闘派の先生は、比較的年齢が高く、無事に勤めていれば校長か、教頭かという年齢だが、推測するに生徒への体罰事件、暴力事件で出世が遅れていて、共通するのははげ頭、戦争中に南方で鉄兜をかぶって戦闘、そのために頭がはげたという先生、武闘派の若い先生となると、終戦時に予科錬か特攻隊上がり、中に特攻隊員として出撃、連合軍の戦艦に体当たりを敢行、途中に飛行機を撃たれて、海上に墜落、意識が戻った時には連合軍の艦船の病室、顔に大やけどで、皮膚移植がすんだ後、移植された皮膚がメキシコ系か、ヒスパニック系の人の皮膚のために、目の下の皮膚が部分的に色が黒ずんでいた、終戦後暫くして釈放されて、故郷に戻ると、死んで、お墓まで建てた孫が突然帰ってきて、お祖父さんが死ぬほど驚いた、墓は自分が生きている間は墓石を寝かせてある、こんな先生もいた、予科練上がりや、特攻隊上がりの若い先生は、怒るとすぐに、「俺は終戦までに死んでいる身、・・・・・」、凄みのあるタンかをきる、そして、「そこへ並べ」、若くて体力があるから、10人くらい並ばせて、派手な音を立てて、力強いビンタ、南方帰りの年のいった先生、始めの2人ほどは力強いビンタ、スタミナがすぐに切れるのと、叩いたほうの自分の手の痛みに、3人目くらいからは、派手な音はするが、痛くも痒くもないビンタ、こういう先生の時には並べといわれても、ビンタの始まりは決まって右側から、だからなるべく左の端の方に並ぶ事にしていた。 一学年上の、卒業前の遠足、行き先は奈良の若草山、長時間若草山で自由行動、他所の中学校や高校も来ている、小さな小競り合いの末に九州の高校と乱闘騒ぎ、相手は高校生、体力に劣り劣勢、それを見かねた中学校の武闘派に先生が生徒に助っ人、これにより忽ち形勢逆転、恐るべし武闘派、南方帰りのはげ頭、頭突きを交えれて、アッというまに、10人ほど片付けて、最後には高校生の頭と思しきヤツ、マウントをとって左右のパンチ、これには生徒のほうがビビってしまい、約10人がかりで先生を引き離した、翌日は先生の武勇伝の花盛り、「先生、昨日は凄かったらしいすね」、はげ頭を撫でながら、「これで、定年まで、教頭の目はなくなった」、昨日の武勇伝が嘘のような優しい笑顔で、そして武闘派にも文化派にも属さない先生もいた、生徒に暴力を振るう事は極めて希で、余り大声で怒りもしない、それでもチョッとした注意をするだけでもどこかに凄み、戦前に思想犯として治安維持法違反の疑いで、憲兵に捕まり、人相が変わるほどドツかれて、凄まじい拷問にも、自らの信ずるところを曲げなかった、こういう先生もいた、温厚ではあったが、どこかで一目をおいていた、当時は文化派の先生は心の中では武闘派の先生の暴力行為を批判、しかし、その行為を職員会議で糾弾する事もなく、行き過ぎた体罰行為で、校内で問題になっても、庇うというか、むしろ弁護していた。 昨日は中学校の校庭で自主防災訓練が実施、かぶりなれないヘルメットをかぶって参加、集合の時間はまだ肌寒いくらいで、空気も乾燥していて良かったのだが、日陰の無い校庭で約2時間、天気がよく、日差しが強く、温度も急上昇、するとプラスチックのヘルメットがダンダン熱くなり出して来て、頭に汗がグッショリ、気温はどんどん上がる、頭が熱い、7月と9月にも訓練の地域がある、応援を頼まれた時にはヘルメットの隙間に保冷剤でも入れようか、プラスチックでもこれだけ熱い、鉄兜だったらどんなに熱いのだろうか、しかももっと陽射しの強い南方で、長い期間、頭が禿げるだろうな、そんなことを考えていると、「私がはげたのは、戦時中の南方での鉄兜のせい」、中学校のその先生の事を思い出した。■「今日の言葉」■ 「 さっさと実行しないと怠け 心がやる気を削いでいく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
May 31, 2010
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今から6年ほど前に、子供の頃から読みなれていた朝日新聞、育った家の4軒東が朝日新聞の配達所、そこが配達所をやめることになって数ケ月、読売新聞の販売拡張員が家に来て、読売新聞の購読時の特典、これが恐ろしく魅力的で、3年の購読契約をすれば,初めの1年間は無料購読、1万円の商品券、缶ビール20本入りを5ケース、完全にこの特典に目がくらんで、朝日新聞から読売新聞に変更、読売新聞の購読を初めて暫くして、「検証、戦争責任」、という長いシリーズの特集が組まれた、お陰で先の戦争の事を頭の中で随分と整理する事が出来た、その中での沖縄戦の記事、昭和20年(1945年)6月23日に沖縄での組織的な戦闘が終了、その約3週間ほど前に、現在の那覇空港周辺の小禄地区で孤立無援の戦いをしていた、そこの海軍守備隊司令官・太田実少将からの緊急電が大本営の海軍次官宛に届いた、「左ノ電文ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度」、で始まる長い電文で、沖縄県民の実情は本来は県知事から報告されるのが筋ながら、すでに通信手段はなく、県知事から依頼を受けたわけもないが、沖縄県民の実情を見過ごす事に耐えられず、緊急の連絡、戦闘の様子でもなく、攻撃する米軍の情報でもなく、沖縄戦における沖縄の民間人、老若男女を問わずに軍に対して非常に協力的、乏しい食糧事情の中にも拘らず軍へ食料の配分、砲弾の運送、負傷兵の看護、切り込み隊の申し出、等々、これは沖縄戦が初める以前の守備隊到着時より長期にわたって行われていて、沖縄戦はすでに末期にあり、沖縄はすでに焦土と化した、沖縄の状況の真実を述べて、最後に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」、死に望んでの最後の太田海軍少将の沖縄県民への感謝とその感謝に対する国の沖縄県民に対する御高配の願いの電文であった。 戦争末期において、このような軍人がいたのかと驚かされると同時に、戦後60年以上の長きに渡って米軍の基地の大部分を沖縄に押し付けて、穏やかに、平和に暮らしてきた事に大きな罪の意識さえ感じる、沖縄の市街地のど真ん中にあり、危険極まりない普天間米軍基地の移転、自民党政権とアメリカが長時間かけて協議した結果とほぼ同じ結果で決着する気配である、鳩山首相の軽々な発言により、沖縄県民に基地負担の軽減という悲願に淡い期待を抱かせたり、日米関係にヒビを入れたり、社民党との連立解消、様々な問題が引き起こされた、しかし、沖縄の大きな基地負担の継続が是か非か、沖縄の米軍海兵隊員に、「日本の首相は誰か知っているか」、という質問に、食堂にいた数人の海兵隊員の誰もがこたえられない、「グーグルで調べようか」、こんなコメントまで飛び出す始末、日本の国にいる米軍はアメリカのためには戦うだろうが、日本のために戦うだろうか、そんな疑問さえ抱く、米軍が日本にとっての抑止力というが、日本の全くの錯覚に過ぎないのでは、そんな疑問を感じるとともに、果たして日本に米軍基地が必要かどうか、今後の日本の防衛はいかにして、こういう議論が活発なされるようになれば、鳩山首相の優柔不断さが、怪我の功名、端から世論をそういう方向に導く予定であったとすれば、もしそうい首相であれば、これは誰でも望んでいるところだが。■「今日の言葉」■ 「 苦難は必ず活路を伴っている 逃げずに向き合えば道は開ける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
May 30, 2010
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小説を読んでいて、この言葉はいただきという言葉がある、しかし、そういう言葉が実際に使えるかどうか、そんな機会が訪れるかどうかは定かではないが、ボクサーは100以上のパターンの攻撃のコンビネーションを、来る日も、来る日も繰り返してトレーニングをする、リング上でそのコンビネーションを使うことできるかどうかをわからずに、実際のリング上でそのタイミングが来たときに無意識にでもその攻撃のパターンが出来るように、そういう言葉を覚えるのはどこかそれに似たようなところがある、「あんな別れかたて、嫌よね」、「そもそもつきあう時の動機が、安っぽい打算だからね」、「一目惚れだったのかな」、「オレは幾つになっても一目ぼればかりだけどね、あんなだったら付き合わないほうがマシだけどね」、「一人でいるほうがマシよね」、「互いに、言いなりになりやすい、手軽な相手で、もの欲しそうに見えたんじゃない」、「あつきあってみれば案外という感じ?」、「周りを見渡せば、殆んどが、そうだろう」、「そういう2人でも、未練たっぷりで分かれるのは可哀そう」、「まるで不倫みたいだね」、「もう少しマシな別れの言葉がなかったのかな」、「女の方はちゃんと別れの言葉を言ったけど、男の方がねえ」、・・・・・、若い女性と、オレのお気に入りのレトロなカフェでの、昨日の民主党の鳩山首相が福島大臣を罷免した事の会話、ここで、「別れの言葉というのは、男が女に惚れた時に用意をしておくもんだ」、浅田次郎の小説中での言葉で、これはいただきと思っていた言葉を意外に早く言う機会が訪れた。 まるで関係のない前振りの後で、全く関係のない話で、阪急西院駅界隈のおびただしい数の不法駐輪の問題、阪急西院駅の横から西の方面に向かう客待ちタクシーが数珠繋ぎに並んで、西大路通にまで並んでいて、車の通行の邪魔をしていて、交通渋滞を引き起こしていた、警察も取り締まるが、稼ぎが少なくなっているタクシーの運転手も生活がかかっていて、いたちごっこの繰り返し、そこで歩道を広げて、タクシーが客待ちが出来ないように、これによりこの交差点で客待ちのタクシーは激減、歩道を広げた効果はあったのだが、広がった交差点の東西南北に、囲いをした植え込み&花壇が出来た、客待ちタクシーの減少か、花壇を作るのが目的かは定かではないのだが、行政に何度も陳情の結果により完成、間に市会議員や国会議員が仲介、行政はこういう陳情に対して、最後には作りましょうという事になるのだが、乏しい財政から作る費用は捻出しましょう、但し、後のメインテナンスに関しては予算が、というのが常套手段である、こういう場合、作るものが地域の人たちの長年の悲願のような物ならば、地域のボランテイアを募って、そこのメインテナンスをする組織、或いは会のようなものができるのだが、そういう組織・会が出来る前に花壇の工事にとりかかり、完成した、出来上がった当初は花が植えられて、それなりに綺麗であったが、やがてその花が終わり、枯れてしまい、行政はメインテナンスはしない、荒れ放題になる、次第にここはゴミ捨て場兼酔っ払いのゲロ吐き場となる、そこに放置自転車問題、自転車置き場の不足の問題、そこでオレはこの交差点の東西南北の名ばかりの花壇を壊して、有料駐輪機の設置を提案。 たとえゴミ捨て場兼ゲロ吐き場と化しても、花壇は花壇であり、地域の緑化という名目がある、それを壊して、有料駐輪機の設置というのは暴論であると総スカン、「行政は一度作ったものは、少なくとも100年間は形を変えたがらないもんだ」、せいぜい毒つくだけであったが、放置自転車追放協議会が少し進化して、「きれいなまち西院推進協議会」、なるものが発足して、昨年の後半にそのうちのメンバーと有志で、この行政が作った花壇を、経費は出してもらわなくても良いから、使わせて欲しい、こういうケースに対する、里親制度というのがあって、その許可が下りて、地元のボランテイアの人たちの手で花壇つくりが始まり、毎週水曜日の午前10時に現地に集合して、まず草むしりから始まって、土を入れて、化学肥料をまいて、花の種や、球根を植えて、春にはチューリップを初めきれいな花が咲き、花壇らしくなってきた、変わり身の早さがオレの身上、汚い花壇なら一層のこと壊して有料駐輪機の設置といっていたが、西院フェスのシンボルフラワーはヒマワリである、8月末には阪急西院駅の西側に阪急電鉄経営の有料駐輪場と有料駐車場がある、放置自転車の大きな原因には阪急の西院駅、その割に駐輪場が少ない、その声にこたえて阪急電鉄が有料駐車場を壊して、有料駐輪場にする事になり、それが完成する、そこで今年の西院フェスは8月7日(土)、8日(日)であり、そのイベントの日にヒマワリを咲かせたいので、この花壇の里親に是非ともヒマワリを植えさせて欲しいとお願い、しかも快く許可、6月に入るとヒマワリの種をまいて、イベントの日にヒマワリを咲かせようという計画である、オレの年から行けば庭いじりりなどが分相応だが、未だに他の興味が多くある、こと園芸に関して全くの無知であり、他のスタッフはオレに輪をかけてぐらい園芸に無知、「咲く、咲かせると思ったら、必ず咲くモンや」、その気持ちだけでイベントの日にヒマワリを咲かす事にチャレンジする。■「今日の言葉」■ 「 食べ物は感謝して頂いて こそ生きる力となっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
May 29, 2010
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