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今日の午後から地域の自治会館でデジサポ京都主催の地デジ推進の説明会、共同アンテナで受信している世帯へ向けの地デジの説明会、エコポイントがらみで11月末に地デジ対応テレビを購入、今は近くのマンションの共同アンテナでテレビ受信、地デジテレビを見ようと思えば、自分で比叡山の方角に向けてUHFアンテナを立てるか、室内アンテナを購入するか、ケーブルテレビに加入するか、光ケーブルの契約をしなければならない、テレビの受信だけ考えれば、しかも家が電波状況の非常にいい場所なら室内アンテナ、そうでなければ、UHFアンテナを立てる方法が一番安上がり、だと思う、丁度、1年前の12月にもデジサポ京都主催の説明会が開かれた、たまたま去年と今年が町会長で町内の人が、「共同アンテナはどうなる」、と聞きに来る人がいた、「これは町会長が間に入る問題ではなく、総務省と個人の問題、聞きたい事がれば、地デジ化推進窓口に電話をしてほしい」、とこたえていて、以前にビルのオーナーから、「アナログ放送の時代はビルを建てようとすると、ビルが建つために電波障害が起きる可能性がある、そのためには必ず共同アンテナを立てて、近隣の人たちが電波障害なくテレビ受信ができるようにする、土下座までしてビルを建てさせてくださいとお願いした、ところが事が地デジになると、先にビルが建っていて、後から地デジ放送が始まる、ビルのオーナー側から言わせると、『そんなことは知ったことか』、という事で、地デジ放送の共同アンテナの事は全く考えていない」、と言っいていて、ビルのオーナーのいう事が筋が通っていると考えていて、町内の人が共同アンテナについて聞きに来た時もそのように返事をしていた。 ただ、これが町会長として正しいのかどうか定かではなかった、だから1年前の説明会に出席して、主催者のデジサポ京都のメンバーに確認すると、「その通りです」、との返事が返ってきた、この説明会に町内の人の出席はなく、説明会の後で、「どうでした?」、と聞きに来る人がいて、「町会長として出席したのではなく、個人として出席したので、その時の資料を渡しますので、読んでください、もしわからない事があれば、書いてある電話番号のところへ電話をして聞いて下さい」、といって当日の資料を渡した、この1年前の説明会では、京都は比叡山方面からの電波と生駒山方面からの電波を受信して地デジ放送を受信する、だから比叡山方面に向いたアンテナと生駒山方面に向いたアンテナの2本のアンテナを立ててください、デジサポ京都の担当者は説明、10年前に電波領域を整理して、テレビのアナログ放送から地デジ放送に切り替えると電波領域が整理されて、テレビ放送が使用する電波領域がコンパクトになって、将来において必要となる電波領域が確保できるという理由で、アナログ放送から地デジ放送に10年後の切り替えるという事が国会で決議されて、法律でこの事が決められた、その間、2011年7月24日から地デジ放送に切り替わるという有名タレントを使ったCM、チデジカなるキャラクターが作られて、地デジに切り替わる日の広報は行われていたのだが、各家庭のアナログテレビは各家庭の財産である、電波領域の整理という大義名分はあるが、国が個人の財産権を侵害してまで行うことが果たして、という疑問があり、総務省が各家庭にお願いをするという姿勢があってもいいのではないか、10年前に国会で決めた法律が出来て、これに従えという態度、この総務省の態度の少々立腹と大きい不信感、そのために1年前の説明会の時のデジサポ京都の作成した資料を町内の人数人に見せはしたが、口で説明をする事はしなかった。 この説明会の3ケ月後、マンション管理人の仕事をしている管理会社から、「京都では生駒山方面からの電波が弱く、比叡山の中継局を強化して、比叡山方面からの電波で地デジ放送の全チャンネルを受信できるよう、8月を目途に行われる」、という予定を聞かされた、この時に3ケ月前の説明の時には比叡山方面と生駒山方面との2本のアンテナが必要と説明、この説明会の時の説明を近所の人に話さなかった事を幸いにさえ思った、オレの説明を聞いた近所の人が2本のアンテナを立てていたらと思うと冷汗が出る思い、あの時に町会長が2本のアンテナがいるというたので、2本のアンテナを立てたけど、1本のアンテナでよかったんや、事ある毎にこれを言われる、現在の地デジ化推進の組織、総務省からデジサポ京都が委託されていて、こういう事のなんら責任をとることもなく、責任を感じることもなく、勧められていて、総務省とデジサポ京都に大きな怒りさえ感じていた。 高いビルやマンションの共同アンテナ、地デジ放送になれば共同アンテナの対応はしないと理解し、町内の人にもそう説明してきたが、ところが8月頃からアナログの画面の下に共同アンテナの施設に対する助成金のテロップが流れるようになって、共同アンテナで受信している家庭はその施設に相談してくださいと書かれている、それだけではないエコポイントがらみで駆け込みでテレビを購入の家庭、アンテナを立てるときに電気工事の人が共同アンテナで受信の家には、町会長さんと相談してください、それを聞いてまた町内の人が数名、共同アンテナのあのマンションへ行って、話し合いをして欲しいといってくる人も、またもや頭にくることが、そこで12月15日に説明会開催の案内の回覧板が自治連合会から来た、今日の午後に出席、デジサポ京都の説明が30分、電気屋さんとNTTの人が相談窓口として出席、デジサポ京都の人が、「地域内で共同アンテナの施設が32施設で現在既に地デジに対応している施設が6施設、その他の28施設は個別受信検討中、周知報告の時期は未定、と施設名ごとの状況をプロジェクターからスクリーンに映して一通り説明、後は個別受信の方法の説明とアンテナとケーブルテレビの事は電気屋さんに相談、光ケーブルに関してはNTT相談、という事で説明会は終了、出席者の20人ほどの殆んどが共同アンテナで受信の家庭の人、ここまでで何か質問、直ぐに手を上げて、先ほど見た地デジに未対応の28施設、個別受信検討中、周知時期未定、とある殆んどの施設、地デジ対応が無理なら無理というのがこの説明会の趣旨と違うのか、もう少し待てば共同アンテナの施設が何とかすると期待をする人も今の説明ではいると思う、もう切り替えまで7ケ月ほど、いまだに地デジに未対応の施設はその気がないと言い切ったほうが誤解を招かないのではないか」、「検討中という返事をいただいているから、そうとしか説明が出来ない」、「そんなこといっていて、検討中が来年の7月23日までかかって、その日の個別視聴に決定といわれたら、誰がどう責任をとるんや」、一番前の席だったので周りの反応が分らずに、勝手に腹を立てていたが、デジサポ京都にこんなことを言われてもと迷惑そうな顔、光ケーブルの説明にNTTが来ていたが、光ケーブルはNTTだけがしているのではない、そんな事を考えるとこの説明会も地デジ推進化と言うものの少々おかしい説明会。■「今日の言葉」■ 「 国があってこその個人の生活 である国の恩恵に感謝しよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 15, 2010
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我が家の浴室、冬になると脱衣場も浴室内も物凄く寒い、だからお湯は熱い目にしている、これは血圧の高い者にとっては良く無い事で、2年前の正月明けのある日に、仕事に出かける時に家のすぐ傍のお地蔵さんの水を替えていた斜め向かいのお婆さん、「おはようございます、いつもどうも有り難うございます」、と声をかけて、その日の夜に仕事を終えて午後9時前に帰宅、ピーンポーン、と玄関のチャイム、「警察ですが、夜分恐れ入りますが、少し伺いたことがありまして」、下へ降りて行き、玄関のドアーを開けると警察官が2人、「午後8時頃に大きな声や、いさかいの声を聞かれませんでしたか?」、「その時間は仕事中で」、1階から2階のヨメに聞くが、別に何も聞いていないという返事、警察官に何があったのかと聞くと、「斜め向かいのおばあさんが入浴中に倒れて、すぐに救急車の手配、救急車が到着した時にはすでに亡くなっていて、事故か事件かを調べているところです、そのおばあさん心臓の持病があり、寒い脱衣場で服を脱いで、浴室内も寒く、血管がギューッと収縮していて、その後に暖かいお湯の中、収縮していた血管が急に拡がり、一気に心臓へ流れ込み、そのために心臓発作、心筋梗塞のファーストアタック、これが命取りという事であった、余りにも身近にこんな事が起きて、脱衣場にストーブを置くようになった。 冬場に孫と一緒に風呂に入る事もある、オレが風呂に入る時のお湯の温度と、孫が風呂に入る時のお湯の温度に開きがあって、孫にとっては熱いわけである、足の先だけをチョッとお湯に入れて、熱さでオレの腕に必死で、ベソをかきながらしがみついてくる、「熱いお湯で無いと風邪を引くから」、といっても、まるで小猿が親猿にしがみついているようである、仕方なく水を入れてお湯の温度を下げて、漸く湯船につかる、新聞紙上を幼児に熱湯を掛けて火傷をおわし、虐待死の事件が報道される事がある、風邪を引かせないために熱くしたお湯でこの有様である、幼児は5、6歳までに親の顔を見て、心の底から信頼して笑顔を振りまく、これが親孝行である、親はこれ以上の事を臨むのは贅沢でもある、幼児が一生分の親孝行をしようという時期に、熱湯を浴びせて火傷を負わせたり、死なせてしまう、鬼か悪魔のなせる業であり、哀れで、不憫である。 自分の子供のしつけ、上が男の子、天真爛漫といえば聞こえはいいが、落ち着きのない、ザワザワとした子供、口で言ったぐらいではいうことを聞かない、5歳くらいの頃から、「パチン」、と平手打ち、それでも懲りずに、また平手打ち、「パチン」、小学校に入学した頃、ほっぺたに手形をつけて登校、担任のベテランの女の先生が、その手形を心配して家に電話、「家で何かありましたか?」、電話をヨメから代わって、「昨晩、言う事をきかないので平手で叩きました、これから当分の間はほっぺたに手形をつけて学校へ行く事があるでしょう、心配は無用です、叩く親のほうの胸が痛いです、話をしてわかるようになれば、話をします、それまではもう少しの間は叩かなければわからず、叩くでしょう、ご心配なく、電話有り難うございました」、「わかりました、早く話をしてわかるようになれば良いですね」、という事で電話が終わった、小学校の3年生くらいまでは、叩いてわからせようとした、小学校の4年生以降は、叩く事はなくなり、話をする事によって、殆ど全ての事が解決するようになり、叩く事はなくなった、口答えをしたり、反抗的な態度をとることもなく成人に育った、だから男の子は叩いてでも躾をする、そう思い込んでいるフシがある、しかし孫となると叩きたくない、また付き合いの密度の影響でそういうことが無かったのだが、小学生になってから、家に遊びに着ていて、父親に叱られると、「お父さんなんか嫌い、帰ってくるな、お父さんなんか要らない」、と言い出す、息子はそれを聞いていて声を荒げる事も無い、尚も、「お父さんなんか嫌いだ、帰ってくるな、出て行け」、と泣き叫ぶ、そこで子供といえども言って良い事と、悪い事がある、孫の胸倉をつかんで、「お父さんに謝れ」、と大きな声を出す、こういう怒られ方をしていない、だから余計にパニックになって、さらにエスカレートして泣き叫ぶ、「ジィジィなんか怖くない」、「怖くなければ泣くな」、といって頬を平手打ちにする、平手打ちにも免疫性が無い、余計に大きな声で泣き叫ぶ、「もう、遊びになんか来ない」、「もう来るな」、パチン、という具合になる。 テレビなどでも子供の虐待の阻止のコマーシャルも流れている、隣近所は漸く子育てを終えたばかりという家が多く、少々孫が泣こうが、喚こうが、「怒られているな、家でもつい最近まで、あんなだった」、別段、児童相談所に電話される事は無い、孫が帰った後で、ヨメが、「近所の人が児童相談所にでも、電話をしやはったらえらい事よ」、「確かにな、児童相談所も最近は明らかな児童虐待のシグナルを発信されていて、児童の命を救う事が出来なかったということがよくあるからな、孫の躾といっても信じてもらえないかも知れないな」、「そうよ、孫に向かって、生意気な口を聞いたら承知せんぞォ~、・・・・・すぞォ~、は良くないよ」、「わかった、気をつける」。■「今日の言葉」■ 「 きちんとした躾が土台となって 子供の個性が輝いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 14, 2010
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マンションの管理人の仕事、2人シフトで365日休みなし、相方は女性、年末、年始は家でのする事は女性が多い、だからこの仕事を始めた時から、12月30日、31日、元旦、1月2日はオレが出勤する事にしている、以前のように御用納めが済んでから、家の大掃除をするというわけには行かなくなって、12月の仕事のシフト表を睨みながら、この休みの日には、網戸洗い、この休みの日には、壁紙拭きと予定を立てる、ところがその日が雨だったり、物凄い寒波であったりすると、「別段、網戸をあらわなくても、正月はやってくる」、と横着を決め込む、去年がそうだった、今年は12月になると、「今年は早い目に、する事をしてね」、「そういうわけにはいかん、ちゃんと13日が正月事始になっているんやから」、今は何もかも便利な世の中になって、御用納めが済んでからでも、正月の準備をしても間に合うが、その昔は門松用の松や竹を山に入って準備、注連縄も自家製、このようにして正月の準備となると、13日ぐらいから正月の準備を始めるのが、丁度良い、という事で13日が正月事始になっている。 今年はうっかりとこの日を仕事のシフトにしてしまったが、休みだと、祇園の花見小路の辺りに出かけて行き、花街の置屋の女将さん、芸妓、舞妓、が踊りのお師匠さんを始め習い事のお師匠さん宅やお茶屋、普段世話になっている店へ行き、「おめでとうさんです、今年もよろしゅうにお頼み申します」、「おめでとうさんです、今年もおきばりやっしゃ」、と挨拶回りにうろうろ、それを写真に撮ろうとするアマチュアカメラマンが押し寄せる、一力茶屋の前には三脚をすえたり、重装備のカメラを構えて、5列か6列ほどの人垣が出来ている、この店の前は石畳で、歩道があって、車道、交通制限はしていないので、火っきりなしに車が通る、そして向かい側に歩道、こちらの歩道にアマチュアカメラマンが陣取っている、車も通るし、人も通る、何も知らない人が、一力茶屋の前の入り口を通るときに、挨拶を終えた芸妓、舞妓が出てくると、「わあ~、舞妓さんや」、携帯電話を取り出してそのカメラでパチり、パチり、長時間待ち構えていた人達は、折角の撮影のチャンス、モニターに写るのは携帯で写真を取っている人のお尻だけ、日本が銃刀類の所持のフリーな国ならば、毎年ここで死傷者が出る事が予想されるほど、凄まじいまでの怒声が飛び交う、「こら~、どかんかい、邪魔やァ~」。 花街の芸妓、舞妓の観光の人達の人気は凄く、祇園町でお座敷へ急ぐのを見かけると、取り囲んで写真撮影、逃げ出すように先を急ぐと追いかけてまで、たまりかねて、こういうことを防ぐ自警団までができる始末、8月1に日の、「八朔」、12月13日の、「正月事始」、1月7日の新年の、「年始周り」、観光の人以外に地元のアマチュアカメラマンも集まる、さまざまな事があるのだろうが、実に不機嫌で、不愉快そうな、愛想の無い芸妓、舞妓が多く、これも困ったものである、12月23日には昔より嶋原で餅つきが行われていて、男衆が次から次へと餅をつき上げて、太夫などが餅を丸めていき、その餅を近所の人に配る、これも克っては京都の師走の風物詩であったのだが、現在では昔ながらの営業をしている店は、「輪違屋」、ただ1軒のみで、嶋原の餅つきは途絶えていたが、ホテルで場所を借りて、有料の参加者を集めて行われるようになった、オレも昨年始めてホテルの横から司太夫と振袖太夫の太夫道中なるものを始めてみた、この嶋原に比べて京都の5花街は恵まれているといえる、余りの人気で迷惑を蒙る事あるとは思うが、あの不機嫌で、無愛想な表情はいただきかねる。 昔マンション住まいの頃、そこのマンションに高齢の、生涯独身で、元小学校の先生をしていた人が家でボランテイアの寺子屋ような事をしていた、息子はその先生とウマが合ったらしく、良くその家に出入りをしていて、12月12日の日に、「12月12日」、と書いた札を、上下さかさまに、入り口や窓に貼り付けていた、その事を懐かしく話していて、「あれは何だったんだろう?」、オレは知らないし、した事もなかった、12月12日は石川五右衛門が捕まって、かまゆでの刑にされたのがこの日で、「12月12日」、と書いた札を上下さかさまにして入り口や窓に貼り付けると、「泥棒除け」、になるということで行われていると知った。■「今日の言葉」■ 「 周りの働きに気付いたとき自分 の働きは一層生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 13, 2010
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午後から市内の真ん中へ、阪急電車でまず烏丸駅まで、いつもの様に、このあたりは路上喫煙禁止区域になる、それと旨い珈琲、イノダコーヒーショップのB1の喫煙OKの店へ、奥のほうの隅の2人掛けのテーブルへ、「ホット珈琲」、「お砂糖とミルクが入っていますが」、おネーちゃんが生まれる前から知っているよと思いながら、「ハイ」、砂糖とミルクを入れた珈琲が運ばれてくる、スプーンに極小の角砂糖が1つ、珈琲は殆んどブラックで飲むが、ここの苦い目の焙煎で、エスプレッソ珈琲だけは甘い目が好きで、この角砂糖も入れる、タバコを吸いながらユックリと飲む、このあたりが路上喫煙になる以前はタバコを3本だったが、今では4本吸ってからでる、大丸を通り抜けて錦方面に向かう、中はさすがに12月で人が多く、アクセサリー売り場はクリスマスプレゼントの下見のカップルが目につく、クリスマスイブまでまだ10日余り、昔のことを思い出してつい、「お大事に」、というのが、オレにしては珍しく、早い目にクリスマスプレゼントを準備、その贈る相手とクリスマス前のデート、彼女は黒のハンドバッグ、そのバッグの両端の縫い目のところに埃、何故かその埃が気になって仕方がなかった、そうなると会話が妙にちぐはぐに、その日のデートの終わりに、もう次は会わない、その日から数日後のクリスマスイブの日の夜、贈る相手がいなくなったクリスマスプレゼントはベッドの柵に引っ掛けたまま、寮の近くのおでんと焼肉の屋台で、1人でコップ酒、この時のことを思い出して、ツイツイ、老婆心ながら、「お大事に」、なんて、余計な事を。 その次の年のクリスマス、年末の阪神は、1-6、で荒れるというジンクスで、12月に入ってからはどのレースも、1-6、の1点買い、それが見事にはずれっぱなし、プレゼントを買うお金がなくなり、「そうだ、去年のプレゼント」、ベッドの周りを随分と探したが、見つからず、プレゼントを持たずにクリスマスイブのデート、食事をして、軽くお酒を飲んで、「おやすみ」、寮に戻って直ぐに電話、「今日は楽しかったけれど、クリスマスプレゼントを渡し忘れていた、そこで、『賢者の贈りもの』、の話をそれの変わりに」、こんな安上がりのクリスマスプレゼントながらも交際は続き、次の年のクリスマスイブも一緒に過ごす事に、当時梅田でよく行く喫茶店のそばに質屋、そこのウインドウにプラチナのネックレス、値段も手ごろ、値札をはずして箱に入れてもらう、店のオヤジが、「プレゼントですか?」、「ハイ、そうです」、「申し訳ありませんが包装紙がございません」、「新聞紙かチラシでもあれば」、店のオヤジが本当に申し訳なさそうに新聞紙で包んで持ってきた、食事の時に渡そうかと思いながらも、そこには他人の目が、新聞紙に包んだクリスマスプレゼントでは彼女に失礼になると、別れ際に周りをきょろきょろ見渡して、誰も見ていない、「ようし」、と彼女にクリスマスプレゼントを渡す、結婚をしてからは我が家には節の日には家のまっすぐに帰るというルールが出来て、正月、節分、バレンタインデー、夫婦お互いの誕生日、結婚記念日、正月事始、クリスマスイブ等々、以来クリスマスイブには格別な想いではなし、但しクリスマスイブの前後は妙に忙しかった、ある年以来、年末の高島屋の催しで、「文化人、画家のチャリテイ募金」、というのがあって、絵画その他を入札し、後日入札通知と引き換え日の連絡、京都新聞社の8階で、お金と入札した品物を交換、小さい作品をクリスマスプレゼント用に会社へ置いておき、それをクリスマスプレゼントにしていた事があった。 混雑していた大丸を通り抜けて錦通りの出口へ、右に直ぐのところが高倉通、錦市場の始まり、まだ正月の準備には早いがここも普段よりも混雑、買い物する人、錦市場を見物する人、写真を撮りに来る人、まだ歩けないほどではないが、ユックリしか歩けないほどの混雑、今の仕事をする前には、御用納めが済んだ後、網戸洗い、照明器具の掃除、壁紙拭き、高いところの掃除、普段は滅多にしな掃除を家のしきたりのように掃除をする、大晦日の午前中までに全てを済ませて、午後にこの錦市場に1人でやってくる、大混雑、人の流れにもまれながら、それでも左右の店を見て、正月の間に自分が食べたい物を探す、からすみ、このわた、本モロコ、鴨ロース、てっさ、マグロのブロック、ローストビーフ、ブルーチーズ、こんな物を買い込んで家に帰る、その後はお屠蘇をつけて、箸紙に名前を書く、最近では売っているところが少なくなったが、ヘギのついた箸紙、箸は柳の箸、箸紙に一家の主を、「主人」、重箱用には、「組重」、家族は敬称抜きで名前のみ、娘でもヨメに出すと、名前の後に、「様」、をつけ、息子の家族には名前の後に、「殿」、をつけて、1月の15日まではこの箸を使う、年が明けて宵恵比須か本恵比須が祇園の事始になる、クラブのママなどをさそって、恵比須神社へお参り、祇園の寿司屋へ予約を入れておく、すると店の中にカウンターに、ちゃんと名前を書いた箸紙が置かれている、○○様、上様、と並べてある、これも勘定の内とはいえ、馴染の客としては嬉しい事である、明日の12月13日は正月事始であり、セミリタイアの管理人も走る師走。■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきり持っていないと 努力は喜びでなく苦痛となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 12, 2010
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沖縄の基地移転問題、民主党政権が誕生した時点では、アメリカと日本政府、当時の自民党との間で辺野古沖への移転が合意に達していた、外国とのこのような合意事項は前政権の約束事に従うのが当然の事であるのだが、政権交代後の鳩山首相は、民主党政権発足時には社民党と連立政権を組んでいて、社民党は基地移転は国外への移転を主張、これに擦りあわすかのように、沖縄県外、日本国外への移転を口にし、また戦後長きに渡って沖縄に米軍基地を押し付けて集中さて来た国の方針に対して、沖縄県民に感謝とお詫びを口にし、誠に軽はずみながら沖縄県民の意思を尊重するといった、それ以後の沖縄県に於ける選挙、直近の沖縄県知事選挙まで、基地反対派がことごとく勝利、時間が経過すればするほど、辺野古沖への移転が困難になつって来ている。 沖縄県の基地の依存度、これは想像以上に低くなっていて、大規模な基地の押し付けのための助成金、この助成金が沖縄の新たな産業が興こり、雇用と拡大する需要が生まれると、沖縄県民が裕福になり、「沖縄に米軍基地は要らない」、こうなる事を恐れて、こうならない用途に使われ続けてきた、先日テレビの報道番組で、日本の地図を見た時、東京を日本の中心として考えると、南の端の島である、この感覚で沖縄に基地を押し付けた飴の部分としての助成金、助成金が南の僻地の島として使われ続けてきた、しかし、視点を変えて、沖縄から、東南アジアの国を眺めてみると、沖縄から飛行機で4時間以内で東南アジアの主要都市に到着する事が出来、東南アジアの主要都市の中心に位置すると言える、すでに全日空の貨物便は、東南アジアの主要都市向けの貨物は最終便で沖縄の那覇空港に運び込み、翌日に東南アジアの主要都市に向けて4時間以内に到着する事が可能な貨物を送っている、日本から送る東南アジアへの貨物を沖縄に集中させれば、基地があるために米軍が沖縄に落とすお金、或いは基地を押し付けるための助成金、沖縄のは確かにお金が落ちる、しかし、これにより沖縄の新しい産業が起こり、雇用が増加し、重要が増大し、沖縄県民の収入が増えるという事は望めないお金である、しかし沖縄の立地条件を最大に生かし、東南アジアの主要都市の中心、航空貨物を沖縄の集中させると、それにより新たな産業が興り、雇用が生まれ、沖縄の経済が活性化し、沖縄県民が豊かになる、こうなると米軍の基地依存どころではなく、米軍基地不要になる、沖縄県が基地無しでも経済が成り立つ、こうなると、沖縄県以外の日本人にとって沖縄に米軍基地が集中的に存在するのは非常ヌ都合の良い事ではあるが、基地無しで沖縄県が経済的に自立できるとなると、ここで始めて米軍基地問題は日本国、日本人全員の問題となる。 沖縄の米軍の基地が無くなれば、日米安保も含めて日本の国防問題が議論される番である、尖閣諸島沖での中国漁船の海上保安庁の巡視船体当たり事件後、日本の国防問題を議論する絶好の機会であった、しかしマスコミはというと、その事件のビデオテープの流出事件と、流出の犯人探し、そしてこの2週間余りは市川海老蔵暴行事件の報道、続いて大連立問題、マスコミのはもう、世論調査とワイドショー的なニュースしか流す事が出来なくなっている、マスコミが本来有する機能の放棄、そして政治家は政治を行う機能を放棄して、政局と選挙のために奔走するだけ。■「今日の言葉」■ 「 人への不満が生じている時こそ 自分を省みる時である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 11, 2010
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高校の2年生と3年生の時の担任の国語の教師、「ジョンブル」、という仇名で、少し頬が垂れ下がっていて、どこかブルドッグに似た容貌、大柄で背が高く、スマートな雰囲気で、英国の紳士の風格も漂っていて、ブルドッグの前に敬意を込めてジョンをつけた仇名、芭蕉と同じ病で痔と喘息が持病で、声はガラガラ声であった、高校の卒業を前にして、2学期から、新聞の社説には余り難しい漢字が使われていない、せめて新聞の社説に書かれている漢字くらいは書けなければいけない、という事で国語の授業の初めに、先生が新聞の社説を読み上げて、それを生徒が書いていく、これが今でも身についているかというといささか疑問ではあるが、新聞の社説を読むのがっ習慣になっている、「それと高校を卒業した後に、毎月1冊の本を読みなさい」、という言葉、当初は毎月1冊の本を読む、これはたやすいノルマ、と考えていたが、大学時代はまだしも、就職をしてから以後は本を読まない生活を長い間過ごしてきた、このブログを書いていて、高校時代の思い出を書いているときに、この、「月に1冊の読書の勧め」、を思い出した、大学を卒業してから約40年間、毎月1冊の本を読んでいれば、約480冊の本を読んだ事になるのだが、約480冊分の読書のノルマを果たしていない事に気がついた、この読書のノルマを果たそうとすれば、この後、読書の出来る生活が後約10年とすると、毎月、5冊の本を読む事にすれば、その時の月に1冊の読書の勧めのノルマを果たす事が出来る、昨年の後半から今年にかけて、月に7、8冊の本を読み出した、68歳にして最高に本を読んだ年となった。 まず初めに、読み出したのが、文化勲章を受章した小説家でありながら、新聞の記事などで見かける時には、およそふさわしくない服装で、下駄を履いて、傘を持って、買い物籠を下げて出かけている姿、ストリップ小屋の楽屋で踊り子との談笑、そういう記事であり、実際の本人とは少し異なった、そんな風変わりさの興味から永井荷風を読み出した、「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「すみだ川」、「日和下駄」、「?東綺譚」、「花火」、「西遊日誌抄」、「断腸亭日乗」、と読み、次に谷崎潤一郎、「刺青」、「蓼食う虫」、「鍵」、「卍」、「ふうてん老人日記」、「痴人の愛」、「猫と庄三と二人の女」、そして、「細雪」、は読まずに、いかにもオレらしいのだが、老人と性の問題がらみで川端康成の「眠れる美女」、この次に浅田次郎の、「輪違屋糸里(上・下)」、「壬生義士伝(上・下)」、この時に小説を読みながら涙を流す事の初経験、「プリズンホテル(夏・秋・冬・春)」、この時には小説を読みながら笑い出すことも初経験、「日輪の遺産」、「地下鉄に乗って」、「歩兵の本領」、「シェラザード(上・下)」、「鉄道員」、「椿山課長の7日間」、「活動写真の女」、幾つかの短編集を数冊、週刊誌のコラムを集めた、「勇気凛々瑠璃の色(数冊)」、「蒼穹の昴(1・2・3・4)」、「珍妃の井戸」、「中原の虹(1・2・3・4)」、「お腹召しませ」、「王妃の館(上・下)」、「月島慕情」、「霞町物語」、「真夜中の喝采」、「血まみれのマリア」、「三人の悪党」、「見知らぬ妻へ」、「オー・マイ・ガアッ!」、「サイマー」、「天切り松闇がたり(1・2・3・4)」、「薔薇盗人」、現在売られている文庫本のほぼ全て、今年夏の新作のハードカバーの、「終わらざる夏(上・下)」、小説で泣かされて、笑わされて、悪党のように見えて、実は善人で、その底には家族の絆、人間の絆、義理と人情、浅田ワールドに引き込まれて、最後にはいつもホッとさせられ、どこかカッコ悪くて、しかしカッコいい人物、約半年間は浅田次郎にどっぷりと、浸っていた。 次に読み出したのが、「敗れざるもの」、の沢木耕太郎、「一瞬の夏」、「テロルの決算」、「危機の宰相」、「無名」、「深夜特急(1・2・3・4・5・6)」、「凍」、「檀」、この、「壇」、を読んで、檀一雄の、「家宅の人(上・下)」、三浦哲郎の、「白夜を旅する人々」、「バーボンストリート」、「チェーン・スモーキング」、「右か左か」、「血の味」、「彼らの流儀」、「世界は『使われなかった人生で』あふれている」、「イルカと墜落」、ちょっと表紙が気になった本で遠藤周作の、「私が捨てた女」、作者がデリーからロンドンまでバスで旅行をする、「深夜特急」、の旅に持参した、林芙美子の、「浮雲」、有川浩の、「阪急電車」、タイトルで買った、三島由紀夫の、「不道徳教育講座」、澤田ふじ子の、「高瀬川女船頭唄(一・ニ)」、ノンフィクションの世界もフィクションの世界も、オレには区別がつかないが、大学時代には日本はもしかすると社会主義国家になるのでは、そんな事も考えていた頃もあったが、池田勇人首相が打ち出した、非常にわかりやすく、夢のあるスローガン、「所得倍増論」、しゃにむに働いて、なりふり構わず、何よりも仕事を最優先にしてきて、60歳でセミリタイア、この間に大きな忘れ物をして、生きてきたような気にさせられる、こんな事を考えるようになったのも本のお陰、今年はまだ後、数冊の本を読むことだろう、生涯で最高に読書をした1年。■「今日の言葉」■ 「 親の恩に気づいた時から 新たな人生が開けてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 10, 2010
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5年前の7月の京都では宵山の日に、ヨメの叔父がゴルフに行っていて、ゴルフ場で倒れて、救急車で病院へ直行、入院、集中治療室で治療、そのまま意識が戻る事無く、約3週間後に死亡、この叔父は面倒見のいい人で、兄と姉の子供、姪や甥たちを春休み、夏休みなどに、鳥取から大阪の家へ招いて、大阪で様々なところへ遊びに連れて行く、甥と姪が11人、全員が世話になっていて、お通夜と告別式には全員の甥や姪が参列して、口々に、「叔父ちゃんには随分と世話になった」、思い出話をしていて、さすがに面倒見の良かった叔父の通夜と告別式、そう思っていたのだが、叔母は生まれて間もない女の子を連れて叔父と再婚、実の親子以上に仲のいい父親と娘の関係を築いてきていた、ところが叔父が亡くなって遺産相続の段になって、叔母と娘が叔父の遺産の全てを相続する事思っていた、そこで初めて叔母の娘を叔父との結婚の時に養子縁組をしていない事に気付いた、叔父と娘の養子縁組をしなかったのは、今から約50年ほど前の区役所の窓口、サービス精神のかけらもない対応、不親切な対応、叔母が婚姻届を出しに行くと、窓口の係りの人は、「この子供さんの養子縁組をしますか?」、「この子供は実子です」、「そうですか」、といって叔母の婚姻届を受理、この時に、「この子供を養子縁組をしないと、法的な娘ではなく、同居人として扱われます」、このように説明をして、「このケースではこの子供さんの養子縁組をされた方がいいですよ」、この一声があれば、叔父の死亡による遺産相続にピリオドを打つのに、5年と数ケ月の歳月を要しなかった。 叔母は当初、遺産相続の全てを自分が相続するために、法的に遺産相続の権利のあるものに相続放棄の手続きを始めた、遺産相続の法的に権利を有するものは、叔母、叔父の兄、(長男)、既に死亡のためにその子供の3人、叔父の兄、(次男、ヨメが長女、弟と妹)、既に死亡のためにその子供が3人、叔父の姉、(長女、認知症で、その子供が5人)、法定相続人は叔母を筆頭に、ほか7人、の合計8人となった、長男の子供3人と次男の子供3人は相続放棄に応じた、ところが認知症の姉の子供の5人がこれに異議申し立て、叔父が娘の養子縁組をしなかったのは、血のつながっていない娘よりも血のつながった人間に相続をさせたいという願いがあったからで、相続放棄は出来ないと言い出し、長男の子供3人も説得されて、相続放棄しない事になった、相続放棄に同意したのがヨメの弟と妹との3人となった、叔母にすれば叔父はサラリーマン、面倒見が良くて、付き合いが良い、遺産といってもたかが知れている、今後、親戚の付き合いを絶ってまで争うほどの金額ではない、そう思っていたところに、今でま随分と世話をし、面倒を見てきた甥や姪たちがそれぞれの相続を主張、そこで相続の件は弁護士に依頼、弁護士は法定相続人の確定、ここで身内の者が誰も知らないもう1人の法定相続人が現れた、叔父の父親の戸籍を上げると、父親は再婚していて初婚の人に間に男の子が1人いた、その相続人の人は、この件に関して一切関わりあいを持ちたくないと弁護士さんへ話す、遺産の相続は放棄する、この件で煩わせられたくないというのである、法定相続人が確定された後は叔父の遺産相続の財産目録の作成である。 その作成された財産目録が少なすぎると異議申し立て、娘が結婚後に家を建てた、その時に叔父が資金援助をしていて、その分も相続の財産目録に入れろ、娘の学費、娘の結婚式の費用、娘の養育費の費用、こういうものまで相続の財産目録に咥えろ、叔父の銀行の貸し金庫の中身を立会い確認、弁護士もここまでいう人は始めて、裁判所の調停を仰ぐことなった、ここまで叔父の死後約5年が経過、裁判所は弁護士さんが作成した財産目録を支持、これ以上何かをしようとするなら、自分達で弁護士さんを立ててください、しかも財産の一部の株式投資、亡くなった時期から今までの間に値下がりもしている、これ以上長引かせてももらえる物が多くなる可能性は少ない、よく考えなさいという事であった、暫くして裁判所の調停案を受け入れようという事になった、その条件として2つの申し入れ事項、1つはこの件に関して鳥取から大阪へ何度も出てきている、その旅費と通信費として、相続放棄をしない8人の甥と姪に1人つき、10万円の支払い、2つ目は相続放棄をした3人の甥と姪の相続分を加算して相続、という条件を出してきた、1つ目の条件はOK、2つ目の条件はNOという事で最終の決着を見た、姉に830万円の相続、これは恐らくその子供5人で分割という事になるのだろう、長男の子供3人に総額、約410万円が相続される事となった、11月の末にこれを支払い、漸く叔父の死後5年4ヶ月目に解決を見た。 今日の午前中に叔母が家に来て、「いろいろ心配を掛けたけど、漸くこんなかたちで決着がついた」、と弁護士さんが作成した書類を持参して説明してくれた、「嫌な思いをして大変でしたね、これですっきりしますね」、「まだ済んでないことがあるネン、あんた達、兄弟3人には、感謝してる、私の気持ちとしては、先に支払った人たちの倍以上貰って欲しい、いらんといやろうけど、私の気持ち、だけ受け取って欲しい」、「気持ちだけありがたく、いただきます」、「それでは私の気がすまん、裏切られた気持ちの中で、あんたら3人の、お金よりもこれからの親戚付き合いを大事にという気持ちに感謝している、せめて支払わなアカン分の半分だけでも受け取っといて」、「気持ちだけやったら、5万円とか、10万円で」、「これは私が貰って欲しいお金やなんや、頼むさかいに気持ちよく受け取っといて」、と弟と妹の分、こちらから振込みをして欲しいといって、3人分総計210万円を置いて帰った。■「今日の言葉」■ 「 自分から心を開く勇気が 不和や誤解を解いていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 9, 2010
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歩いている時、交差点の信号、青信号の点滅になっていると交差点を渡らない、工事現場の入り口や、ビルの駐車場の入り口に立っているガードマン、点滅棒で、「早く通って下さい」、と合図をする、「どうぞ、そちらのほうを先に」、合図に従わない、こういうと、非常にゆったりとして、急きも騒ぎもしない性格のように思えるが、本当のところは信号やガードマンによって、マイペースが乱されるのが嫌いなだけである、若い頃、ヨメと連れ立って百貨店へ買い物に、百貨店はアルバイトとセールス時代の経験で好きであり、自分のペースで買い物をしたり、売り場めぐりをしてもあきないし、疲れない、ところがヨメのペースに付き合うと、まず歩くスピードの違い、これを初めとして疲れるわけである、だから百貨店に着くと、入り口にところで、「イチロク、マルマル、現在地に集合、それまで散会」、(午後4時にこの入り口に集合、それまで自由行動)、という事になる、左足の怪我以来、随分と歩くのが遅くなった、先日久しぶりにヨメと出かけた時に、歩くスピードはヨメのほうが速くなっていて、暫く歩くとヨメに待っていてもらう、そうして到着したバス停。 行き先の系統のバスが来た、ほぼ座席はなし、そのバスに乗り込むのはオレとヨメと前に叔母さん、ノンステップバスで前のタイヤの上の席の右側が1つ空いている、前の叔母さんはその席を狙う、当然オレもその席を狙う、叔母さんの右側にオレが通れるスペースが開いていたので、右へ小さくサイドステップ、素早く左足を大きく、叔母さんの側に踏み出す、左足だけではなく、左腰と左肩も叔母さんの前に、この2歩でオレ、叔母さんと、開いている席との位置関係が逆転、その時の席取はオレが制する事になった、ヨメが、「仕事の日にはバス通勤を2往復、さすがに席取は素早いね」、「今の仕事を約6年、身体が反応するようになった、それと特に朝は同じ時刻に同じ人が同じバスに乗り込む、2日も続けて同じ相手にせり負けが続くと、3日目はもうこれ以上連敗はゴメンとばかりに、そのオヤジを相手にスクラッチの勝負、先に乗り込んで席を取る、これでは喜びが小さく、相手を先に乗り込ませて、逆転をして、お互いに狙った席を取る、こういうときは心の中で小さくガッツポーズ、毎日もまれているからね」。 昨日は午後から出かけていて、午後4時頃に河原町三条から3号系統のバスに乗る、四条河原町から若い女性が2人乗り込み、オレが座っている横に立つ、次の大丸前の停留所で前の席の人がその駅で降りるために席を立つ、若い女性2人がどうぞ、どうぞと譲り合っている、「アナタのほうが遠いから」、という事で1人の女性が座ろうとして、身体がその体勢に、2人の間隔が今までよりも少し開いた、その時、大丸前から乗り込んできた人、人というよりもトートバックとハンドバッグがその開いた席に素早く置かれた、置かれたバッグに人がついてきた、小柄な帽子を被った、叔母さんとお婆さんの間のような女性であった、こういう席の取り方はいつもの事と想像される、その平然とした座り方に、2人の若い女性は、顔を見合わせて、「凄いね、信じられないね」、という苦笑いの表情を浮かべて顔を見合わせていた、オレはというと席の取り方の素早さは見事、しかし品が無さ過ぎる、思わず、エアー・後デコパッチンを力を込めて。 京都の市バスの主流は、床の低いノンステップバス、バスの前に車椅子のマークが着いている、相変わらず車椅子の人の乗り込みに、もたつく運転手さんもいるが、大方の運転手さんは手際よく、車椅子の人を乗降させている、この低い床のバス、確かに乗り降りは楽だが、座席は随分と犠牲になっている、この床の低さ、足などを怪我している者にとっては、特に降りるときにはこの高さでもきつく、オレは去年の怪我の時に、椅子に座っても左足は曲げることが出来ずに、前の席の床下に足を伸ばして座っていた、こういう姿勢で座れる席は3つしかなく、バスのタイプによっては1つしかそういう席のないバスもあった、このノンステップバスというのは誰にとって優しいバスといえるのか疑問にも感じる。 バスに中に優先座席、お年寄り、病気の人、怪我をしている人、身体に障害のある人、妊婦、小さい子供連れの人、のための席が設けられるようになった、その昔は、こういう席が設けられていなくても、当たり前に行われていた事なのだが、ルールとかマナーといったものは自分で、心使いや気遣いで身につける時代ではなくなった、だからそういう注意書きが無いから、行われないが、行われれば、バスの中で快適に過ごす事ができるいくつかの事がある、京都市バスはワンマンカーで、真中から乗り込み、前から降りる、前のタイヤのある部分、通路が狭くなっている、その癖にこの両側に立つのが好きな人が多く、出口の近くで糞つまり状態、この両側にたっている人がリュックを担いでいれば、通る隙間が殆ど無し、バスの中ではリュックは肩からはずして脇に抱え込む事、前輪のタイヤの部分の両側には人が立たないこと、そこの片側に人が立っていれば、もう一歩の片側には立たない事、身体を進行方向の正面に向けた人は次の停留所で降りますという合図、次の停留所で降りる人はそういう姿勢の人の後ろについていれば良い、次の停留所で降りない人は、身体をバスの進行方向の正面に向けない、乗り口よりも後ろのシート、2人掛けのシートが通路の左右に、このシート幅は大人が2人掛けると窮屈で、冬場に着膨れていて、太目の人に詰めてくださいといわれると悲劇である、このシートは先客があれば太目の人には諦めてもらう事、それとこのシートは後で降りる人が奥に座る事に、もし奥の人が先に降りるような場合、通路側の人が席を立って降りやすくしてあげる事、こんな事を気遣えばバスの中も快適になる、全てが当たり前のことなのだが、最近でこういう事を注意書きのように書かなければ、「そんなことは知らなかった」、「早く言ってくれたら」、そういう時代でもあるようだ。■「今日の言葉」■ 「 相手の欠点を嫌がるよりも 自分にないよさに気付こう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 8, 2010
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今日は今年最後の定期診察日、約28年ほど前の年に一度の健康診断の時に、不整脈が見つかり、その時から暫くの間、負荷心電図をとったり、24時間心電図、心臓のエコー検査、MR検査、その結果から心房細動と診断、約1年間ほどは薬で不正甥脈の治療、薬の効果がなく薬での不整脈の治療を断念して、心拍数が上がって急激にファーストアタックが心臓を襲うというタイプの不整脈でないために、不整脈による脳梗塞の予防的な治療が専ら行なわれている、アスピリンや小児用バッファリン等で血液をサラサラの状態に保ち、血圧が高いので降圧剤、60歳を過ぎた頃からより一層、血液をサラサラにするワーファリンを飲んでいる、この薬は効きすぎると血液が止まらなくなる、だから2ケ月に一度は血液検査で薬の効き具合を検査して薬の飲む量の調整をしている、同じ頃降圧剤も朝1錠であったのが夕方にも1錠追加される事になった、ただ同じ病気で約30年弱も治療中、こうなるとその病気なれという事が起きている、それと、健康診断で不整脈と診断される、約10年ほど前、30歳の頃結婚を機に少し大きめの生命保険に加入、その時の診察の時に、先生が聴診器を胸に当てて、「いい心臓のリズムです、何か運動を?」、「高校の時に陸上部で中距離をはしっていました」、「陸上の中距離ですか、その影響でしょうか?」、ただそういわれても中学校時代はバスケットボールと陸上部、高校時代は陸上部の400メートルと800メートルと200メートルハードルの選手、毎日その練習に明け暮れていて、高校3年生の夏休み終了後に、大学受験の勉強のためにその練習をプッツリとやめてしまった、不整脈もその影響が出ていると思っている。 毎月の診療所での検診、心電図検査、尿検査、血液検査、レントゲン撮影、これら2つづつほど組合わせて検査、年に一度の心臓のエコー検査、大体、午前9時頃に診療所へ行き、検査は30分もあれば余裕で終了、後は検査結果が出て、そのカルテが主治医のところへ回り、その診察室から呼ばれるのを、ひたすら待つだけである、1時間半から、2時間ほど待って漸く、名前を呼ばれる、オレは大きい病院はここしか知らない、この待ち時間に苛々する、血圧もピークに達している事だろう、それでも診察待ちの人同士の会話、「ここも待たせるけど、他所に比べたらここはまだマシな方や」、そんな馬鹿な、そういう思いで、この会話を聞いていたのだが、実際に去年の春に、マウンテンバイクで遠出中に左太ももの血管が切れて内出血、家では湿布薬を貼るだけ、左太ももが内側から押し上げられるようなズキンズキンとくる痛み、寝る前になって足が曲げられない、トイレも左足を伸ばしたまま便座に座る、夜寝る時には、どの角度で寝ても足が痛く、脂汗を流しながら、殆んど眠る事ができずに、仕事のために午前6時に起床、這うようにして仕事場のマンションへ到着、午前中にするべき仕事を1時間ほどで片付ける、Gパンが左足だけがパンパンに張ってくる、左足が破裂しそうな、内側から来る痛み、兎に角、左足の太ももに何が起きているのか、窓口の札を業務に付外出中にして、病院へ行こう、という事で仕事場から一番近い大きな病院へ行く、午前9時30分に病院へ到着、診察を終えて、お金の支払いを済ますと午後2時を回っていた、その時に初めて、いつも行く診療所での、「ここはまだマシな方や」、の会話に納得した、以来いつも診療所での待ち時間、午前中に家に戻れればいい、そう思うようになって、イライラする事が少なくなった。 とはいうものの、1時間半か2時間の待ち時間は長い、診療所の外へ行かないとタバコが吸えない、タバコを吸っている間に呼ばれでもしたらという強迫観念でタバコも吸いにいけない、電車の揺れの中では直ぐに寝られるが、待合場所のソファーでは寝られない、最近では文庫本を持って行き、これで時間がつぶすことが出来る、今日も本を読んでいて、横を通る看護婦の足元が見える、黒いストッキングを履いた足、アキレス腱のところがきゅっと締まった、綺麗な足、オレは別段、谷崎潤一郎のように足フェチではない、しかし、その足が横を通るたびに足に目がいく、何度目か、その足が近づいてきた時に目を本からその足の持ち主の顔へ、オレが診察を受ける診察室の看護婦さん、眼のクリッとした、色白の可愛い看護婦さん、美人だが残念ながら好みの美人ではない、当然の事ながらその看護婦さんはオレを好んではいないのだが、名前を呼ばれて診察室へ入り、先生の横に座る、向こう側に机には看護婦さんが座っている、目があって、いつもとは少し違う、「こんにちは」、長い待ち時間の割りに診察はそっけない、「お変わりはないですか?」、「ハイ」、「血圧を測りましょう」、「160の85」、「胸を出して」、聴診器を胸に当てる、そして足のむくみを調べて、「いつもどおりの薬の処方箋を、42日分、お大事に」、これで終了、約5分弱、外へ出て待っていると、看護婦さんが処方箋をもって出てきて、カレンダーを見ながら、次の診察の予約日、「来年の1月18日でいいですね」、「ハイ、いいです、何をいまさらといわれそうですが、今日つくづく足を見ていて、本当に綺麗な足ですね」、「いえいえ、そんな事はないですよ、ほんとうに、いえいえ、でも、いつもオシャレな人にそんな事をいわれて嬉しいです」、「死ぬほどヒマな休みの日に、一度お茶でも」、「いいですよ」、「看護婦さんと付き合ったことはないのですが、業界では柔らかい約束は守るのですか」、「柔らかい約束?」、「今の、『いいですよ』、が柔らかい約束です」、「面白い人ですね」、「死ぬほど退屈な休みの日が早く来ることを」。 月に一度の定期診断の日、今日のようなことは始めて、毎月一回、午前中を診察のために、これを約28年間、330回余り、これを無駄な時間と思うか、一病息災の貴重な時間と思うか。■「今日の言葉」■ 「 心配事が多いのではない心配 する気持ちが強いのである 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 7, 2010
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手帳というと、買うものではなく、銀行辺りからもらうもの、持ったとしても、12月は忘年会の予定がびっしりと書き込まれているが、それ以外のページは殆どが白紙で、スケジュールのところにポツン、ポツンとゴルフの予定が書き込んであるだけである、携帯電話が無かった時には、手帳に電話帳を挟んでいた、得意先でゴルフの接待の話になると、手帳を取り出して、2ケ月ほど先のゴルフの約束をする、得意先の人がオレの予定日を書き込んでいる手帳を除き見て、「見事なほど何も書いていないね」、「さすがに12月の忘年会の予定は覚えられないですが、他の月のスケジュールは大概覚える事にしています」、あんまり手帳に頼ると記憶力が衰えますよ、そういう気持ちを込めて、ただ、手帳は閉じて服のポケットやバッグの中に入れてしまう、手帳を取り出して、手帳を開いてみる、この習慣が全くついていない、ただ、書き込むだけに終わってしまう、几帳面な正確でないために言い訳のようなものでもある。 では、仕事の時には、何も書いていなかったというと、そうではない、どうしていたのかというと、B5の用紙に月のスケジュール表と週のスケジュール表を作って、それに書き込み、机の上のいつも見られる場所に置いていた、これでスケジュール管理をしていた、2日前に書店で有川浩の、「阪急電車」、という本を買って、初めて読む作者の本で、買ってから、テレビドラマで現在放送中の、「フリーター、家を買う」、の作者と知った、買おうと思った動機はタイトルであった、長年スタッフをしている西院フェス、来年で第10回を迎える、その第3回目の時に、嵐電の西院駅から嵐山駅までの走っている嵐電車内ライブが始めて行われた、この時に嵐電ライブを行ったミュージシャンのうちの1組が、この日のために、「嵐電は恋の電車」、というオリジナル曲を作って、ライブを行った、四条大宮から嵐山駅まで、11の駅という、ローカル私鉄である、「太秦」、「蚕の社」、「帷子ノ辻」、「有栖川」、「鹿王院」、「西院」、などよみ方の難しい駅名、それらを歌詞に入れて、いかにも電車に揺られているような楽しい曲で、このローカルの私鉄を舞台にした物語か、小説でも誰かが書かないかなどと考えていた、それだけにこの、「阪急電車」、問いタイトルにつられてこの本を買った。 物語は関西の大手の私鉄の阪急電鉄の全国的に余り名の知られていない短い支線、宝塚えきから西宮北口駅までの8つの停留所しかない、今津線の往復の車内の模様の物語であって、宝塚を出た電車が次の駅、宝塚南口駅、この駅の近くに宝塚ホテルがあって、そのホテルの名前の入った結婚式の引き出物の紙袋を持った若いきれいな女性、引き手物の袋を持っているから結婚式の出席には違いないが、着ている服は花嫁以外は着るのをタブーとされている純白の高級なドレスである、純白のドレスを着て結婚式に出席したのには訳があった、社内恋愛で5年間付き合っていた彼がいて、周りでは2人の結婚が秒読みの段階と思われていた頃、結婚を間近に控えて、一過性のマリッジブルーで2人の関係がギクシャグしていた頃、彼女の職場の後輩で、取り立てて美人でもなく、仕事が出来るわけでもなく、目立った存在でもなく、自分を頼りにしていた女性と彼がいつの間にか交際していて、いよいよ結婚の話しかと思って彼と会うと、彼女も同席していて、「彼女は妊娠している、だから分かれてほしいと切り出された」、5年も付き合っていて結婚間近の彼女がいながら、人が良いだけが取柄の女性と付き合い、今日は安全だからといわれて安心してセックス、それで彼女は妊娠、片方の責任は放棄して、片方の責任だけをとろうとする彼のバカさ加減には愛想が尽きたが、彼も彼女も同じ職場、女としてのプライドが許さない、「話はわかったから、結婚式には必ず招待して」、と約束をさせる、その結婚式にタブーとされている白いドレスで出席、キャンドルサービスの時に、自分の座っている席に来た時に、花嫁よりもはるかにきれいな彼女を見た時の、花嫁が鬼のような形相で新郎に振り返り、新郎は目の前の新婦と彼女を見比べて、明らかに自分の選択間違いの後悔、結婚式を2人の生涯の最高の楽しい思い出にさせてなるものか、執念と呪い、自分の身に降りかかった事なら笑いは出来ないが、他人の身の上話、彼女の復讐劇に思わずエールを送り、胸のすく思い、まだ読んでいる途中だが、面白い本である。 結婚式の時に、健やかなる時も、病める時も、死が2人を別つまで生涯、愛し続けますと神の前に誓ったはずなのに、ついついしてしまう浮気、コンドームというのはじゃまっけな物で、これをつけないと妊娠というリスクが背中合わせ、浮気はしてもこのリスクだけは回避しなければ、当時の流行でもあったリスクマネージメント、浮気相手の生理の周期を手帳によって徹底的に管理、日付のところに二重丸、生理が始まった日、星印、整理が終わった日、丸印、安全日、ペケ印、危険日、の記号が書いてある、黒、青、赤、3色使っている時もある、ある期間にはオレンジと、グリーンの5色も使っていた時期もあった、この手帳は去年の年末には自分の部屋を大掃除、その時にこの手帳の類を全て処分、だからこの話はオレの話ではなく、人から聞いた話、昨日のテレビの中で、様々な種類の手帳が売り出されていて、これが良く売れているという事だった。■「今日の言葉」■ 「 物に恵まれた生活より感謝を 湛えた生活に幸福がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 6, 2010
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新聞代の集金、「自動振り替えにしょうか」、「集金も1軒でいくらの仕事、あのおじいさん小遣いかせぎ、集金のままでエエやないか」、そんな事を随分昔に話をしていて、集金のままになっていた、新聞社によってはちがうかもしれないが、当時購読していたのが、子供の頃から長く購読していたA新聞、だから考え方の中に、A新聞社的な考え方があるのは当然である、この新聞の集金というヤツの集金に来る日、実にランダムである、現役を引退後はヨメがパートに出ていて、オレだけが家にいるときに新聞の集金にくるという事がある、するとオレが立て替えて支払い、領収書とつり銭をテーブルの上においておくと、ヨメがオレに、4、000円を払って精算、ある時ヨメが、「新聞はお父さんが殆んど読んでいて、私はテレビ欄だけがあれば良い」、「それはどういう意味?」、「新聞代を払ってよ」、と実に細かい事を言い出す、そこでオレは、「集金の時に、支払った者持ちにしようや」、という事にした、こうすると妙なもので、いつもオレのいる時間帯に集金に来る、「うちの家は新聞代はヨメの財布から、午後の7時以降に来てくれるか」、すると翌月は午後の7時以降に集金に来て、ところが翌々月にはまた昼間のオレのいる時間に集金、集金する人の集金の順序として昼間に集金するのが段取りが良い、それぐらいのことは充分に理解はするが、新聞代をオレの財布から支払わされたらたまらない、「今持ち合わせがないから、午後の7時以降のヨメにいる時間に来てくれるか」、こんな事が2度ほど続いた後は、午後7時以降に律儀に来るようになった。 A新聞のアンカー店が以前に住んでいた家の4軒東で、顔なじみ、Y新聞を購読すれば随分と有利な条件を提示されるという事は聞いていた、また実際に飛び込みでセールスに来ていて、知っていたのだが何十年と読みなれた新聞を代えるのには、ちょっとした勇気のようなものがいり、アンカー店との兼ね合いもあり、そのまま購読を続けていた、ところがそのアンカー店の夫婦が60歳、仕事を続けるのがきつくなって、アンカー店を廃業して、別の店が引き継ぐこととなった、Y新聞に代える大きな枷の一つが取れた、そんな時にタイミングよく、Y新聞社の営業係が飛び込んでくる、「条件次第によっては長年購読してきたA新聞から変えても良いよ」、すると、「3年契約を条件として、まず1年間は購読無料で、その後3年の購読契約、1万円の商品券、ビール5ケースのサービス」、これを聞いた時に生唾をゴクリ、それを悟られないように、「しゃ~ないな、Y新聞に代えてみるか」、という事になって、今年の春に4年が経過した、するとセールス係りがやってきて、「3年の再契約よろしくお願いします」、と契約更新の用紙を取り出した、「おい、なめたらあかんでェ、エエ加減にしときや、そっちがそういうつもりなら、今月一杯で新聞を代える、6ケ月してからまた新規購読や、また条件を持って、出直しといで」、慌てて明日の夜に所長と来ますのでよろしく、紺のダブルのストライプのスーツを来たでっぷりとした所長と連れ立ってやってきた、家が競売にかかったときにやってきた少々胡散臭い、2人連れの不動産屋も、申し合わせたように紺のストライプのダブルのスーツを着用だった、オレの目から見れば安物の生地で仕立ての悪いシロモノ、そのセイで、オレも紺のストライプのダブルのスーツが好きだったのだが、それ以来殆んど着なくなった、連れ立ってきた所長も同じようなスタイルで、その所長の関知しないところで、オレはムカッ、しかも、新規購読の時よりは少々悪い条件を提示、「無理なサービスを慎むようにとの指令が出ていますので」、「指令どうのこうのはオレの知らんことや、新規購読の人にいろいろなサービス、契約更新のときにサービスをちびるのはおかしいでェ、契約更新という事は3年間購読したわけや、新規の人よりも手厚いサービスをするのが当たり前や、もうすでにお得意さんなんやから」、所長は冷や汗か、脂汗をハンケチで拭きながら、「では、どのような条件を」、「所長さんの顔を立てて、そう無理は言わんさかいに、新規購読の時と同じ条件」、こういう交渉の時に、オレの堅気の善良な商売人でないような口の聞き方に、少々嫌悪感を覚えながら、契約の更新をした、ホッとした表情で契約書を出す、署名捺印する前に所長の顔を見て、「ヨメさんは殆んど新聞は読まない、そうやからこの契約書は、オレがアライブオンリー有効と言う条件にして、4年は長いから」。 夕方の仕事に出かけるのが、午後3時45分、仕事の日には夕刊は仕事場のマンションで読む、夕刊の締め切り前に大きな事件があると、夕刊の締め切りが遅れ、配達は家を出る時間のギリギリになる、夕刊の配達人は家の近所の隣の町内の親父で、小柄で、細身で、オレよりは5歳ほど年上で、顔は皺だらけ、皺の中に顔がある、そんな感じで、目も皺のように細い、「トッツアン、居眠り運転はアカンで」、と冗談を言う、「ちゃんと、目を開いている」、と言い返す、新聞配達のかなりのベテランらしく、スーパーカブで配達、ちょっと走っては止まり、走っては、止まり、歳の割りにスーパーカブの運転が実に上手い、家の前の道は狭く、マウンテンバイクででも、靴の先を前輪のタイヤの擦るほどハンドルを切って、ようやくUターンが出来る、その道を軽く、Uターンをして戻っていく、2ブロックの配達が受け持ちらしく、家の近所の受け持ちブロックの配達は後回しらしく、いつもオレが家を出るギリギリに配達、時にはまだの時もある、家を出てバス停に向かう、その途中に出会うときがある、道で新聞を受け取る、ヨメが午後6時頃に新聞受けを見て、新聞が入っていない、その旨をアンカー店に電話を入れるといけないので、新聞を道で受け取ると、直ぐに携帯電話を家にかけて、「道で夕刊を受け取ったから」。 今日の夕方マウンテンバイクで、タバコを買いに行った帰り道で、その親父が息子さんに付き添われて、ユックリと足を引きずりながら歩いている、「久し振り、どうしたん?」、「配達中に子供が飛び出してきて、避けようとして、こけて、骨折や」、「いたみは?」、「もう痛みはないけど、足が動かへん」、「左足かァ、効き足やし、バイクはアカンかもしれんで」、オレも去年の4月に左太ももの血管が切れて、危うく太ももが破裂するほど内出血、すわっても、ねころんでも、立っていても足が痛い、歩けばずきんずきんと痛み、痛みが治まるまで2ケ月、左足は効き足、マウンテンバイクのまたがるには、左足の踏ん張りが効かない、乗れるようになったのが2ケ月半、「マウンテンバイクに乗ってたら、なんともないようやけど、歩いたらいまだにビッコを引いている、気長にせんと」、「ウン、年明けには配達が出来るように頑張るは」、「親父にもうせんでええというてるんやけど」、「もう一度配達をするいうのが、リハビリの励みにもなるしな」。■「今日の言葉」■ 「 最後までやると心を決めれば 成し遂げる工夫が沸いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 5, 2010
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仕事の日には目覚まし時計をセット、血圧が高いセイか目覚めは凄く良い、電子音のピィ、で目をさまし、次のピィ、で目覚ましを止める、そしてベッド脇のテーブルの上のタバコをとって火をつける、一息煙を吸い込むと、これで完全に目が覚める、今日は寒いだろうか、温かいだろうか、夜中に一度トイレに行くが、強烈に尿意を感じる、すぐにパジャマを着替え、夏場はラクなのだが、冬場は無類の寒がりのために着ているものが多くて大変、平日仕事の日は午前8時が始業のために午前6時に起床、最近ではこの時間はまだ暗い、電気をつけずに暗い中で着るのが大変、前の夜にパジャマに着替える時に、脱いだ物をベッドの脇に積み上げて脱いでいく、こんもりと山のようにつみあがっている、翌日の朝は最後に脱いだものから着ていく、昔は着たと思うと前と後が逆という事がよくあった、最近はユニクロの製品が多く、さすがはユニクロと言うか、洗濯ネームがきっちりと左脇につけてある、これを頼りに着ると前と後を間違うことは無い、タバコとライターと携帯電話をポケットに入れて、寝起き用の水の入ったペットボトルの飲みさしの水とぐらいを持って、ここでヨメに、「起きろよ」、と声をかけてから1階へ下りていく、顔を洗ったり、歯を磨いたり、新聞を取り込んだり、仏壇にローソクをともし、線香をたいて、手を合わし、そんな事している間にヨメが2階に降りた気配がないと、電話を2コールかける、暫くすると2階でヨメが動く気配をする。 どちらかというと目ざといほうだが、目覚まし時計がないと起きられない、何かの粗品でもらったラジオ付きの電機で動く目覚まし時計、これは随分と長く使っている、平日勤務の日には午前6時起床、土・日・祝日勤務の日には午前7時に起床、目覚ましのセット時間を合わせるのに、午前6時から午前7時に代えるのは楽なのだが、午前7時から午前6時に代えるのが少し厄介で、午前と午後を間違えてセットしたり、間違えた時間をセットしたり、時計の時間を狂わせたり、だから最近では午前6時に起床の日にはこの目覚ましをセット、午前7時に起床の日には携帯電話の目覚まし時計をセットする事にしている、結婚した当初、結婚祝いや、他の人の結婚式の引き出物などで幾つも目覚まし時計があったのだが、当時は飲んで遅く帰ることもよくあり、そんな翌日は朝起きるのがつらい、目覚ましがなってもなかなか気がつかない、するとヨメが起きないで目覚ましだけを止めてしまう、ハッと目が覚めて時計を見ると、1時間寝過ごした、「目覚ましは?」、「私が止めたみたい」、というが早いか着替えを抱えて下へ降りていく、そこでオレは枕もとの目覚まし時計をつかんで、ヨメの背中に向けて、目覚まし時計を投げつける、寝起きでもあり、2日酔い気味でもあり、2重のハンデイ、時計はヨメに当たる事無く、柱や壁にぶち当たって、「ガッシャ~ン」、という事で、幾つもあった目覚まし時計がなくなってしまった、そんな頃にどこかでもらってきた今のラジオ付き目覚まし時計、コードがついていてコンセントに差し込んである、「これは投げられないよ」。 最近では、オレが娘が使っていたシングルベッドに寝て、枕元に小さなテーブル、その上に目覚まし時計、灰皿、タバコ、ライター、目薬、水の入ったペットボトル、グラス、めがね、携帯電話を置いている、ベッドから1メートルほど距離を空けて布団を敷いてヨメが寝ている、目覚ましが鳴り続けていてもヨメが止めようと思うと、起き上がらなければならない、ヒョィと手を伸ばして止めるというわけにはいかないのである、だから夜に目覚ましをセットするのも、朝に目覚ましを止めるのもオレ、今日は仕事、土曜日だから午前9時が始業、起床は午前7時、夜中に一度トイレに降りて、次の寒さで起きる、午前6時頃、跳ね除けた上布団がずり落ちかけている、そのために寒さで目を開く、布団を足で元に戻そうとする、「あァ~」、コブラ返りが起きそうになり、慌てて状態を起こして、足の指を外側に曲げてコブラ返りを止めた、「助かったァ~」、もう一度トイレに降りて、「さあ、後1時間、寝よう」、他人にいわせると、「そんな量では効かないよ」、といわれるのだが寝る前に飲んだ睡眠導入剤、2分の1錠、のお陰ですぐに2度寝、3度寝が出来る、携帯電話の目覚ましがなる、すぐに目を覚まして目覚まし音をとめる、頭と身体は起きているが、PCと読書のセイで目が疲れていて、目だけが起きない、こういう時のため用のベッドの脇のサイドテーブルの上に目薬を置いている、目薬をさしさえすれば目も瞬時に起きる、昨日の夜、テレビを見ているときに目薬をさした、そのままコタツの上に置いてきてしまった、天井を見上げて目を開こうとするが、閉じる方の力が強い、ほんの一瞬目をつぶったつもりが30分経過、タバコに火をつけて、朝食は仕事場についてから食べれば充分に間に合う、ヨーグルトを食べて、ホットミルクを飲むだけにしよう、ヨメに、「30分ほど寝過ごした、ヨーグルトミルクだけ、アンパンは行ってから食べる」、急ぐといつもよりも5分ほど早く家を出る、バス停に着くと、慌ててタバコを消さなければならないほど、待つ事無くバスが来る、マンションについてからユックリとちびアンパンを2ケ食べる、こういう日には一日中イライラしていたものだが、最近はそういうことが無くなった、それでも、ヨメからいわせると、我儘で、短気で、自分勝手で、偏屈で、頑固で、助平で、いつなんどき何をしでかすかわからない、付き合うほうが大変とぼやくが、こんなオレと一番付き合っているのがオレ自身である、だからヨメが愚痴るそんなところがなくなれば、オレ自身が一番、退屈するだろう。 ■「今日の言葉」■ 「 社会に役立ちたいと願ってこそ 身に付けた能力が生きる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 4, 2010
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その昔オフイス街などにクイックマッサージなる店が出来ていた頃、オレが40歳を過ぎた頃、肩の凝り症で、休みの日などは烏丸あたりに出て行くと、特殊な椅子に座って15分ほどのクイックマッサージ、肩や腰などの凝りには、寝転んでの本格的なマッサージが必要なんだが、15分程度のマッサージでも、終わってから店の外に出ると、目の周りにマッサージの効果か、店に入る前と別世界のように、周りの景色がくっきりと、はっきりと見える、散髪が終わった後などにほんの僅かにマッサージ、散髪屋のオヤジが、「背中に鉄板を入れているみたいですね」、と言っていた、現役をセミリタイア以後は、多額の借金を抱えるわけではなく、納期遅れや、不良品発生のプレッシャーも少なく、社員が17、8名、その家族も含めると約50人ほどの生活も背中にしょっていた、そいうものがなくなると、肩が凝る事が無くなった、ただ散髪屋のオヤジは今でも、「すごく、肩が凝っていますね」、相変わらず同じ事をいう。 オヤジも物凄く肩凝り症で、月に一度は家へあんまを呼ぶ、東へ5軒目の家、実に子沢山の家で家族は約10人ほどで、ご主人の叔父に当たる、この盲目のあんままでが居候、あんまでの稼ぎの殆どをそこの家の家計に入れていたのだろう、いつも感心していた事なのだが、揉みだしてから、揉み終わりまでが時計と同じほどにジャスト、1時間、この正確さには驚いていた、あんま中の会話、オヤジは近所の事には疎く、あんまも近所の事には疎い、世間話といってもお互いの接点が無く、話が続かない、ところがお袋もたまに、オヤジの後で揉んでもらう事もあった、お袋もあんまも歌舞伎好き、だから話し出すと1時間の間、歌舞伎の話をしっぱなし、若い頃には目が見えていて、その頃に好きな歌舞伎を見ていて、目が見えなくなってからは、ラジオで聞くだけ、耳で聞いて、何十年前の思い出を思い出しながらお袋と話、あんまに行く先で歌舞伎の話が出来る人は少なく、お袋を揉みながら歌舞伎の話をするのを楽しみにしていた様子。 お袋も、オヤジの事、3人の子供の事をまず、自分の趣味や、楽しみや、遊びは一番後回し、これが普通の時代でもあったが、年に一度の年末の南座での顔見世、南座の正面に招きが上ると京女の血が騒ぐ、と言うヤツで、最もお袋は純粋の京女ではなかったが、「日ごろはチマチマと細かい事にケチって、年に一度の顔見世だけには、パァ~と」、まさにその通で、夏が終わると、従兄弟の着物取次ぎ屋が反物を持ってきて、「これは派手すぎひんやろうか、これは地味すぎひんやろうか、これやと合う帯が無いないなァ~」、と思案しながら顔見世に着ていく着物の準備、顔見世の切符の手配はオヤジの仕事、取引銀行の支店長に切符の手配を頼み、見に行く前日には勿論のこと、美容院へ行って、当日は1人で、背筋をピンと伸ばして、一張羅を着て、ウキウキと出かけて行く、南座の傍で幕間に食べる弁当を買って、見終わってからは、松葉でにしん蕎麦を食べて、夕食用に握り寿司を5人前買って、まるでつき物が落ちたように、セイセイした表情で家に帰ってくる、着物を着替えて普段着で台所に立つと、「サァ~、1年間始末して、また来年も」、独り言。■「今日の言葉」■ 「 楽なことは明日に延ばしても 苦しい嫌なことは今始めよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 3, 2010
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11月の後半の2週間はシフトの休みの日には紅葉の写真を撮りに出かけて、今年の紅葉はこの10年間で最高の紅葉を楽しむ事が出来た、12月に入ってもまだ、今週一杯は見頃が続く場所も有るが、オレの気持ちの中で、早すぎた紅葉見物は許せるが、遅すぎた紅葉見物は許せないという気持ちがある、だから暦が霜月から師走に変わると、紅葉見物には出かけていかない、今日は朝から雨降りの予報だったので、DVDに録画した映画を見る予定、ところが雨が夜にずれ込み、昨日に引き続いて、温かい小春日和、街中のクリスマス風景でも撮ろうと午後から出かける、こういう時はまるで犬の散歩のように行くコースが決まっている、阪急電車で烏丸駅まで、改札を出て、直ぐのところ、右へ行けば京都の大丸へ、左へ行くと、階段を降りるとイノダコーヒーショップの地下2階店、ただここは全席禁煙の店のために、少し階段を上がると、美容院があって、その隣が同じくイノダコーヒーショップの地下1階店、そしてこの店は全席喫煙可能店、当然の事ながらオレは地下1階の店へ、このあたり一帯は路上喫煙の禁止区域、ただこの路上喫煙の禁止区域について凡その範囲は分るのだが、はっきりとした境界は定かではない、だから、ぶらぶらとしていてタバコが吸いたくなると喫茶店へ飛び込むことになる、こんなルールが出来る前には、コーヒーを飲みながらタバコを3本吸うのが常だったのだが、最近では1本余分に吸いダメをしてから店を出る。 心なしか混雑している大丸の1階を北へ通り抜けて、錦通の出口に向かう、途中から化粧品のコーナーが続く、オレが大学時代に百貨店でアルバイトをしていた頃は、百貨店の1階といえば、ネクタイ、カッターシャツ、タバコ、喫煙具、帽子、マフラー、手袋、ネクタイピンやカフスボタンなどの紳士小物、等々の紳士物の売り場であったのだが、今ではブランド物ショップ、婦人者のアクセサリー、そして多くのメーカーの化粧品売り場、別段この化粧品売り場を抜けていくのは嫌いではない、まずいい匂いがする、そしてばっちりとメイクをした女性が、男のオレとでも視線が会うとニッコリと会釈、この時にいつも思うのだが、化粧品の各メーカーごとに売り場にいる女性は同じ化粧品を使い、同じメイクの方法で化粧をするセイか顔が良く似ている、また時たま通勤のバスに乗り合わせて顔を覚えている女性もいる、バスの中ではツンツンとすまし顔なのだが、ニッコリと笑って、軽く会釈されると、声には出さないが、「やはり、女は愛嬌」、と思ったりもする。 錦を通り抜けていく事に、毎日普段からここで買い物をする人、大丸や高島屋へ来たついでのここで買い物をする人、観光に訪れたついでにここへ来た人、そしてオレのようにカメラをぶら下げて何か良い被写体がないかと来た人、いつもここは賑わいを見せている、古くからある店と、新しくここへ進出してきた店、新しい店は店の中や店の外で食べさせている店が多いように思う、当分の間はこのような店が増えていき、あまり増えすぎると、反動的にこういう店が少なくなり、絶えずその繰り返しが続いていくことだろう、まだ師走の2日、京都の正月の準備は13日の正月事始から、まだその類のものは、棒だらを並べている店が目につく程度、年末にはこの道が通りにくいほど混雑する鶏卵店、最近ではお客さんが錦に並ぶと、ここでフンつまり状態を起こすので、別の道に並ばせて、整理券を発行して、整理券のナンバーにしたがって、10人づつほどが店の前に並ぶようになってここの混雑が緩和されている、さすがに今日は1人、2人が出汁巻を買っているだけであった、錦を通り抜けて寺町通に出る、アーケードの天井にはもう既にクリスマスバージョンの飾りつけ、店の前や店のウインドウにもホンの少しクリスマスの雰囲気が見られ程度で、シャッターを押そうかと思うものは何もなしに、三条通りの1筋手前まで、この角には京都の老舗のスタンドバーがある、突き出しにはからつきのピーナッツが出てきて、からは床に落とすのが店の決まり、オーナーのカウンターはバーテンダーにとっては神聖な場所で、その場所が汚されるのを嫌うためとか、だから火のついている物以外は床下に落としてください、という事である、飲んでいてお酒が回りだしてくると姿勢が悪くなり、ツイツイ、カウンターに肘をつく、オーナーは悪い姿勢で酒を飲むのも嫌う、この店の北側に新京極までの細い、極めて短い道があり、丁度その道の中間あたりにカフェの看板が出ている、西洋骨董品の店であり、カフェでもある店。 かって知り合いの依頼で、この店で古いフランス人形の鑑定をしてもらった事が何年か前にあり、オリジナル品なら1千万以上という事であったのだが、保証書にはレプリカという表記があり、バブルの最盛期に百貨店がフランスの人形工房にレプリカを作らせて、30万円くらいで売られていたものであることが分かった、ここにこのような西洋骨董の店があるのは、デジカメで寺町通や新京極通の、さして珍しくもない、なんでもない風景を撮っていて、たまたま店の前を通りかかり、シーズンごとに飾り付けの商品が変えられるショーウインドウ、これを定期的に撮りに来るようになった、店の右側に入り口があって、店の奥がカフェになっていて、長い間、カフェの存在に気がつかなかった、入り口には古い形の外灯、すりガラスがはめられていて、すりガラスに珈琲の文字、実はこれも売り物だと思い、写真にも撮っていた、2年ほど前にカフェの入り口を正面の西洋骨董の店の入り口に模様替え、この時、道に看板が出ていて、初めてカフェも営業している事を知った。 入り口のドアーを引いて店に入ると、アンチークな調度品を置いた店ではなく、西洋骨董品点の中のカフェである、店の左側が背の高いカウンターになっていて、天井のハリから照明器具が4つほどぶら下がっていて、そのどれもがガラスのシェード、透明のガラスには絵が刷り込まれていて、すりガラスにも絵が刷られていて、このシェードも売り物で、ある時お客さんが値段を聞いた時に、「ピンからキリまでありまして、1万円くらいから100万円くらいまで」、という事であった、壁にはゼンマイ式の掛け時計が幾つも飾られていて、あちこちに小物を陳列したショーケース、椅子やテーブルは全てアンチークなもので、これも全てが売り物で、狭い店の中に6人掛けから2人掛けの席まで、席に座って物珍しさできょろきょろ、子供の頃には普通に身近にあったものを今それを眼の前にすると懐かしくもあり、物珍しくもあり不思議な空間、余り音の良くないラジカセからはBGM代わりのタンゴが流れていて、この店にぴったりの音楽といえばタンゴ以外には思いつかない、ぴったりのマッチング、この店のは数年前の金曜日にふらりとやってきて、住み着いている猫、金曜日にやってきたので金太郎と言う名前、ショーケースの上で昼寝をしていて、時折目を覚ますと、ソッと飛び降りてきて、お客さんの顔を見て、一声小さく、「ミャ~」、と鳴く、すると猫好きの客さんは抱き上げて膝に乗せる、特に女性の膝の上では寝心地がいいと見えて、直ぐに寝てしまう、この猫はこの店で寝泊りをしていて、いつしか店長とも言われており、「猫のいるカフェ」、「猫」、などの本に取り上げられていて、ちょっとした有名な猫らしい。 しかしいくら大人しくて、有名な猫とはいえ、オレは猫嫌い、最初にこの店を訪れた時に、オレの顔を見て、可愛く、「ミャ~」、と鳴いた、そこで、「折角でござんすが、あっしゃ~、猫嫌いでござんす」、きっちりと仁義を切っておいた、それでもたまにはオレの顔を見て、「ミャ~」、と鳴くこともあるが、暫くじっとオレを見ていて、「アっ、そうだった」、というふうにどこかへ行ってしまう、隅っこの2人掛けのテーブルがお気に入りだが、若い女性一人の先客がいて、その横の6人掛けのテーブルに案内された、座ってから帽子脱いだ時に軽く会釈をされた、恐らくこの店で何度か会っているのだろうが覚えていなかった、少し長い目のおかっぱ頭で、真っ黒でさらさらの髪の毛、携帯電話で誰かとやり取り、メールを送った後で返事待ち、その時に後のショーケースを除いていた、その時の思いがけないほどの可愛い表情、左側にカメラをいていた、カメラを構え、「そのままで」、声をかけたくなるほどの衝動、ただ珍しく店の中には何組かのお客さん、「写真を撮らせてください」、と声を書けると店の中で丸分り、じっと我慢をしているうちに、彼女の方が先に店を出て行き、女店主に、「彼女はよく来るお客さんですか?」、「学生さんでよく来られますよ、なにか」、「余り可愛いので写真を撮りたかった、次に来られた時に、そういっておいてください」、「いいですよとなったら?」、「次にであった時にぶっつけ本番の方がいいです」。■「今日の言葉」■ 「 気付いたことをすぐに行うことは 物事を好転させる元である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 2, 2010
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11月23日に起きた韓国領のヨンロン島への北朝鮮の砲撃事件、この事件で韓国と北朝鮮の両国はいまだに朝鮮戦争が終結したわけではなく、休戦中で資本主義と社会主義のイデオロギーの対立による冷戦が唯一残っている地域である事を再認識させられた、オレは残念ながら韓国旅行の経験がない、韓国旅行を経験した知り合いは、一度は板門店ツアーを経験していて、両国の軍事境界線上の村、板門店、そこに休戦中の韓国と北朝鮮の唯一の接点ともいえる会議場の建物、その建物の見学ツアー、このツアーに参加する時には、事前にこの見学に関する諸注意の説明会か開かれる、会議場へ入いる時に持参が許される持ち物、見学の24時間前からの飲酒禁止、許可されない服装及び行為、等々の説明、北朝鮮兵士を刺激しないためであり、最後に北朝鮮兵士による発砲の可能性に関する承諾書に署名、見学者はこの時に韓国と北朝鮮が現在も尚、どのような状況下にあるのか身を持って実感させられ、刑務所内の見学の時よりもはるかに緊張させられ、会議場内の中央に軍事境界ラインがひかれており、この会議場内においてのみ、見学者もそのラインを越す事が許され、金玉がキューんと縮む思いでそのラインをまたいだと言っている、この時の経験があるから、韓国と北朝鮮が休戦協定が締結して、約55年余り経過しているが決して朝鮮戦争は終結していない、このことが絶えず頭にあるといっている。 終戦後それまで日本の統治下にあった朝鮮半島の38度線以北をソビエト連邦共和国が支配し、以南をアメリカ合衆国が支配をし、北に金日成のよる北朝鮮人民共和国(北朝鮮)が建国され、南には李承晩による大韓民国(韓国)が建国された、38度線が両国の国境となった、当時は資本主義と社会主義のイデオロギーの対立があり、北朝鮮人民共和国はソビエト連邦共和国と現在の中国の後ろ盾、大韓民国はアメリカ合衆国の後ろ盾を得て、朝鮮半島の主権を巡る対立が激化、1950年6月25日 、北朝鮮が軍事境界線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争、朝鮮動乱、朝鮮戦争と呼ばれていて、社会主義国家と資本主義国家の代理戦争と化して激化、戦況が膠着状態になった、1953年7月27日に休戦に至ったが、以来約55年余り経過するが、未だに平和条約は結ばれず、緊張状態は解消されず、全土が戦場となり荒廃した朝鮮半島も、開戦前同様、南北二国に分断された状態のままとなっていて、現在まで、随時北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突が発生している、北朝鮮は情報を徹底的に非公開、韓国は情報を公開、そのためにこの両国に関して、韓国側のメデイアの発する情報しか知る事が出来ない、しかし、休戦協定締結後、休戦協定を破ったのは悉く、北朝鮮側であるのが事実で、今回の北朝鮮の韓国領のヨンロン島の砲撃も、例の滑稽ともいえる北朝鮮の居丈高な物言いしか出来ない、オバサンは韓国の近海での通常の軍事演習を、韓国が先に手を出したから相応の報復を行った、カムサムニダ、と時代がかったものいい、を全世界に向かって放映、多くの北朝鮮の人と、一部の中国人と、それ以外の人が果たして何人頷いただろうか、しかし、日本の戦後の復興期にこの戦争が勃発、朝鮮半島に近い日本に兵器などの修理、部品の調達、補給、大きな特需と言われている重要が起きて、日本の工業界が非常に潤い、日本経済の戦後の復興に拍車をかけたことも事実である。 この朝鮮動乱の頃、中国とイギリスの混血の女医の自伝小説が映画化された、映画よりも先にこの映画の主題歌の方がヒットしたという記憶がある、「慕情」、という映画で、ジェニファー・ジョーンズ演ずる女医、ご主人をなくした後、思い出を胸に秘めて、医療に生涯を捧げるべく医療の現場で働いている未亡人、このジョーンズという女優、彼女のフアンというのは聞いた事がない、しかし、この映画でのジョーンズは別という人は多くいる、これには素直に頷ける、その相手役はウイリアム・ホールデンが演じる新聞記者、奥さんはいるがすでに2人の間には愛情はなく、離婚にだけは応じない奥さん、あるパーテイで知り合った2人は恋に落ちて、香港の街を見下ろせるビクトリアパークで愛を語らい、愛し合い、新聞記者も奥さんとの離婚が成立、2人は晴れて結婚、というところだが、新聞記者に朝鮮動乱の従軍記者の命令が出る、ストーリー自体はこの命令が出た時には、新聞記者が死んで、この恋は悲劇に終わる事は予感できた、こう書いているオレも映画のここまでは殆んど覚えていない、ただこの後、新聞で新聞記者の死亡を知った女医が、悲しみに打ちひしがれて、2人にとっての思い出のビクトリアピークに登り、思い出に浸っていると、新聞記者が登ってくる、ここに、名曲の慕情が流れてくる、新聞記者の姿が消える、そして、また新聞記者が登ってくる姿が見える、この映画のラストシーン、ビクトリアピークから見える香港の街、この美しい風景、そしてジョーンズの悲しみの演技と、美しさ、このシーンとこの名曲で、この映画永遠の名画にしたといえる、この映画でウイリアム・ホールデンが演じた新聞記者がなくなったのが、朝鮮動乱中である、1950年から1953年がどれくらい昔の事かと考える時、この、「慕情」、という映画を思うとよく分かる。■「今日の言葉」■ 「 人生は今の瞬間の積み重ね である今を大切に生きよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 1, 2010
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11月も今日で終わり、約10年以上前というと、11月の第3木曜日が楽しみ、ボージョーレー・ヌーボーの解禁日、解禁日の翌日か、翌々日辺りに、飲み屋のオネーさんか、普通のOL、何処かのパーテイで知り合ったコンパニオンの女子大生、と連れ立って、フレンチ、イタリアン、地中海料理の店でその年のボージョーレー・ヌーボー飲むのが慣わしのようになっていた時期があった、ただこの時期、いくら京都のもみじが鮮やかに紅葉していようが、カメラを持って出かけると言う事は無かった、店から店へ移動する途中に祇園白川の辺りで、ライトアップされた紅葉を見る程度であった、それが、最近の約10年余りの間はテレビ、新聞などのニュースで、「あっ、そうなのか」、と言う程度に様変わり、ボトルに花のペインテイングを施したような、中身よりもボトルのほうが高いのでは、そんなヌーボーもあった、今は空輸便でありながら、1、000円以下のペットボトル入りのヌーボーも販売されている、死ぬ前に1杯のお酒を許されるのなら、どんなお酒を飲むだろうと考えると、良い心地まで味わえるなら、12年物のバーボンのストレート、癖が強く、味が繊細なスコッチのシングルモルトのストレート、長年飲み慣れたレミーのクラブスペッシャルのブランデーのストレート、大いに迷うところで、できることなら、シングルでいいから3種類とも飲みたい、良い心地を味わう時間がないとすれば、味わって酒を飲むだけならワインである、1日80本のヘビースモーカでも、ワインの味は結構わかる、ただ本格的にワインを飲みだしたのが45歳を過ぎた頃、気に入ったホステスの名前は覚えられるが、気にったワインの名前が覚えられないと言う欠点ともう一つの欠点は酔いが首から上だけ、酔い心地としてはあまりよくない、だから酒屋で買って来て家で飲もうという気が余り起きない。 11月にボージョーレ・ヌーボーと縁がなくなったこの10年、10日過ぎくらいから京都市内の紅葉が気になって、中頃になると辛抱が仕切れずに、マウンテンバイクで出かけて行き、ただ中頃ではまだほんの僅かに色づきだしただけ、それでもインターネットの紅葉情報を頼りに、シフトの休みの日には雨で無い限りでかけていく、それと京都の紅葉の見頃は勤労感謝の日を挟んだ最後の連休、車の混雑が凄く、この頃は市バスでないといけない場所は敬遠、地下鉄、私鉄沿線、或いはマウンテンバイクで行く事が出来る場所、そういう場所を選んで出かけている、哲学の道の北の始まり、少し東山によった法然院、ここの山門は苔むした茅葺屋根、山門の中から、左に大きなもみじの木、紅葉した木、その向うに山門の茅葺屋根、こういう写真を撮ろうと何度も出かけているが、歩のあたらない場所、もみじの木の紅葉が遅く、殆どが緑で、ほんの少し黄色、オレンジに色づいている程度の写真しか撮れていない、この法然院の少し南にある安楽寺、同じ日に行っても山門の横のもみじは真っ赤に紅葉、いつも中には入らずに山門のところだけ撮影、山門の水平の気をつけると階段が斜めに写り、階段の水平に気をつけると、山門の屋根が斜めに映る、幾たびに何度か失敗、新聞に出ていた写真は、山門の屋根も階段もきれいに水平に写っていた、今年は傍まで行きながら行く事が出来なかった、来年のチャレンジ、今年はおまいりをかねて円山公園に15日、18日に真如堂、19日に南禅寺と永観堂、この10年来、今年がベストコンデイションの紅葉、22日は終日雨のために出かけず、25日に嵐山、27日には東福寺、12月1日、2日は連休、しかし、12月の声を聞くと、紅葉の写真撮りに行く気にはなれない、恐らく27日の東福寺で今年の紅葉も散りもみじの写真も多く撮ったので終了。 こういうことをいうと負け惜しみのように聞こえるのだが、11月と言うと、ボージョーレ・ヌーボーが解禁されるとすぐに飲まなければ気がすまなかった、その時代もそれなりの楽しかったのだが、ボージョーレ・ヌーボーと縁がなくなった現在、仕事のシフトの休みの日には紅葉の写真を撮りに出かける、昔にも優るとも、劣らない楽しさである、ヨメからいわせると、「自分勝手な、好きなことばかりして、楽しいのは当たり前やァ~」。■「今日の言葉」■ 「 さっさと実行しないと 怠け心がやる気を削いでいく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 30, 2010
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家のテレビは未だにアナログテレビ、昨日、家の近くの大型家電店へ行き、32インチの地デジ対応テレビを購入、11月末以降はエコポイントが半減する、それの駆け込み購入、我が家のアナログテレビは我が家の財産である、アナログ放送から地デジ放送に切り替える、各家庭のテレビを好むと好まざるに関わらず、10年前に電波領域の整理のために国会で決まった事とはいえ、個人の財産権の侵害行為ともいえるような気がする、そんなことを考えていると、アナログ放送から地デジ放送に切り替える所轄官庁は総務省であり、2011年7月24日に地デジ放送に切り替わると言う事は知っていたのだが、何故地デジ放送に切り替えが行われるのか、実のところ、昨年の12月に地域での説明会で漸く知った、国会で決まった事とはいえ、克ってテレビ放送が始まった時には、テレビが家にあるということは大きな憧れであり、テレビを購入して、NHKに受信料を支払う、ある種のステータスでもあり、憧れでもあった、オレは高校の受験が終わり、すぐにオヤジがテレビを購入して、テレビが家にあると受験勉強の妨げになるというのがその理由であった、だから電機屋が家にテレビを持ってきて、アンテナを立てて、テレビのスイッチを入れて、画像を見た瞬間の事をおぼろげながら覚えている、このテレビの普及期の頃の事のまま、地デジ放送への切り替えを行おうとしている、総務相はお上が決めた事であると言う感覚で地デジ放送への切り替えを行おうとしていて、その移行までの手順が余りにも杜撰である。 テレビ放送が始まった頃には電波の領域とは無限にあるという間隔で、ラジオ放送、航空機や船舶の無線、アマチュアハムの無線、米軍の無線、自衛隊の無線、と極限られた使用であった、そこへテレビ放送の開始、民放各局の増加、UHF放送の開始、これらの電波領域は無計画に設定された、そして近年、PCの普及、携帯電話の利用拡大、それらによって電波領域の重要が急激に大量に増加、より多くの電波領域を利用する事が出来れば、それらの機能をより、効果的に利用する事が出来る、ここで無限にあると思われていた電波領域の不足と言う事がおきてきた、電波の使用領域が拡大すれば、さらに機能的に利用できる事も出てきた、そこでそれぞれが使用している電波領域の整理、テレビ放送が使用している電波領域を整理すれば、テレビ放送の使用電波領域が大幅に圧縮が可能と言う事で、アナログ放送を地上デジタル放送に10年後の切り替えると言う事が可決された、これが地上デジタル放送に切り替える理由である、テレビのコマーシャルなどで、2011年7月24日の切り替え日は有名タレントを使って、広報活動をしてきたが、何故切り替えるのか、この事の広報活動は殆どだれてこなかった、ここに総務省のお上が決めたことだ、と言う意識が潜んでいる。 京都の場合、昨年の12月の地域の説明会では、VHFアンテナを生駒山方面と比叡山方面の2本が必要と言う説明、それと現在供聴アンテナで試聴している家庭は、アナログ放送に比べて地上デジタル放送は電波障害の起きる地域が非常に狭く、アナログ放送を受信する事が出来た地域で、新しくビルが建つと電波障害おきる、供聴アンテナを立てないと、地域の住人との話し合いでビルが建たないということが現実で、電波障害には配慮しますからビルを建てさせてくださいという事だった、ところがアナログ放送では供聴アンテナを立てていたビルも、事地上デジタル放送の電波障害は、ビルが先に建っていて、地上デジタル放送が後で開始、だからそれは知ったことではない、電波障害には各家庭で電波障害がなくテレビを受信できる方法を選択してほしいと言うのが、アナログ放送の供聴アンテナを立てているビルの言い分であり、総務省もそれを支持していた。 仕事場のマンションも、住人さんの中にはセカンドハウスとして居住の人も多く、家ではすでに地上デジタル放送をテレビで見ている、同じテレビをマンションでアナログ放送を見ている、明らかに差がある画像、早く何とかしろと言う声が管理人へ、これは完全にお門違いの文句で、管理組合の理事長が管理会社へアンテナ工事の見積もり、管理会社の見積もりは約100万円、管理組合の理事長がインターネットで調べると約10万円という電機屋もある、アンテナ工事の見積もりで1年以上ももめていて、昨年の12月の地域での説明会で、一部のチャンネルは生駒山からの電波を受信と説明していたが、電波が弱く、電波障害がおきる、そのために比叡山の中継局をパワーアップして、今年の8月末から比叡山からの電波だけで地上デジタル放送の全てが見られるようになった、だから仕事場のマンションは何も工事をせずに地上デジタル放送が見られるようになった、もし1年ほど前に約100万円ほどかけてアンテナ工事をしていたならば、1年前から地上デジタル放送を見ることができたわけだが、工事代が無駄になっていた事になる、この事に総務省は頭を下げることもないだろう、勿論、責任を取ることも無いだろう。 また今年の8月頃から、アナログ放送の画面の下に、供聴アンテナで試聴している家庭はそのビルとの話し合いをしてくださいと言うテロップが神経質に流れている、オレは現在町内会長をしている、昨年の12月の地域の説明会で供聴アンテナの世帯は町内会長が間に入ってどうのこうのする問題ではなく、個人と総務省の問題、この確認をし、年明けには自治連合会の会長ともこの事の確認をした、だから時たま町内課長ということでビルとの話し合いに行ってくれといわれる事があったのだが、全て断っていた、ところが8月にこのテロップが流れるようになってから、またアンテナの工事を依頼すると、電機屋さんが、「町会長に、ビルとのかけ会いに行ってもらうように」、と言ったりしていて、聞きに来る人が増えている、12月の中旬に地域で供聴アンテナで受信している世帯用の説明会が開催される、地上デジタル放送の切り替えが8ケ月後に迫っているこの時期に説明会の開催、文句言いたい事が山ほどあるが、説明するのは総務省ではなく、地デジ推進のための委託会社である、振り上げた拳の下ろし先がないのである、2011年7月24日の完全に地デジ放送に切り替わり、テレビを受信できない家庭が総務省の予想をはるかに上回ると思う、恐らく暴動が起きないのが不思議なくらいの世帯でテレビが見られない、総務省は暴動などが起きるはずは無いとタカをくくっているだろう、振り上げた拳の下ろし先、地デジ放送切り替え暴動を扇動するのは余りにも乱暴すぎる、しかし、総務省の余りにも杜撰なやり方に反省を促すために、2011年7月24日のゴールデンタイムの午後8時から9時までの1時間、テレビをつけない事の呼びかけでもしようか、と思っている。■「今日の言葉」■ 「 食べ物は感謝して頂いてこそ 生きる力となっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 29, 2010
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娘が小学校の低学年の頃に、「お里が知れる」、とはどういう意味と聞かれた、「お前がどんなに偉くなったとしても、親が子供の頃に躾をきちんとしておかないと、行動の端々に育った家庭で躾がされいないことが露見すると言う意味」、大体こんな説明をして、「どうして」、と聞くと、「今日遊んでいてトイレに行きたくなって、おばあちゃんの家の近くだったので、トイレを借りた家に帰った、するとおばあちゃんから電話で、『直ぐにこちらへ戻ってきなさい』、と言われて、もう一度度おばあちゃんの家へ行くと、腕をつかまれてトイレまで、『こんなスリッパの脱ぎ方はないでしょう』、初めて怖い顔をして叱られた、『お前は女の子だから、どんな家に嫁入りするかもしれない、こんなスリッパの脱ぎ方をしていたら、お里がしれる』、と恥ずかしい思いをするのがおじいちゃんや、おばあちゃん、お父さんやお母さん、気をつけなさい」、と叱られて、膝をついてスリッパをそろえて、『ごめんなさい』、と謝ると、頭を撫でながら、これから気をつけなさいといわれて、お菓子を貰って帰ってきた」、という事だった、お袋が孫を叱ったのはこの時一度だけ、しかし、娘にとってはおふくろは特別の存在であった。 今年の大晦日のNHKの紅白歌合戦に、「トイレの神様」、を歌う植村花菜が初出場をするのニュースで知った、ただ残念ながらまだ一度も聞いた事がなく、歌の題名を聞いた時に、お袋と娘のこの昔の話を思い出した、歌詞を調べてみると、お腹の大きい嫁に、姑が身重の嫁にトイレ掃除を進んでさせようと、本当の意味は出来るだけ身体を動かしていればお産が楽になる、そういう気持ちで、「トイレ掃除をすれば可愛い子供が生まれる」、これはよく耳にした話でもある、そこで歌詞を調べてみると。 作詞:植村花菜・山田ひろし 作曲:植村花菜小3の頃からなぜだかおばあちゃんと暮らしてた、実家の隣だったけどおばあちゃんと暮らしてた 毎日お手伝いをして五目並べもした、でもトイレ掃除だけ苦手な私におばあちゃんがこう言った トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで、だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで その日から私はトイレをピカピカにし始めた べっぴんさんに絶対なりたくて毎日磨いてた 買い物に出かけた時には 二人で鴨なんば食べた新喜劇録画し損ねたおばあちゃんを泣いて責めたりもした トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで 少し大人になった私は おばあちゃんとぶつかった家族ともうまくやれなくて 居場所がなくなった 休みの日も家に帰らず 彼氏と遊んだりした五目並べも鴨なんばも 二人の間から消えてった どうしてだろう 人は人を傷付け大切なものをなくしてくいつも 味方をしてくれてた おばあちゃん残してひとりきり 家離れた 上京して2年が過ぎておばあちゃんが入院した 痩せて 細くなってしまったおばあちゃんに会いに行った 「おばあちゃん、ただいまー!」ってわざと昔みたいに言ってみたけど ちょっと話しただけだったのに 「もう帰りー。」って 病室を出された 次の日の朝 おばあちゃんは静かに眠りについた まるで まるで 私が来るのを待っていてくれたように ちゃんと育ててくれたのに 恩返しもしてないのにいい孫じゃなかったのに こんな私を待っててくれたんやね トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで おばあちゃんがくれた言葉は 今日の私をべっぴんさんにしてくれてるかな トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで 気立ての良いお嫁さんになるのが夢だった私は今日もせっせとトイレを ピーカピカにするおばあちゃんおばあちゃん ありがとうおばあちゃん ホンマにありがとう ざっとこんな歌詞のようです、歌は約10分弱で、どうしても歌詞をカットする場所がなく、このまま唄うという事です、男という事でトイレの掃除の経験がなく大学を卒業、大阪のメリヤス屋さんへ住み込みの丁稚の修業、会社の3階が寮で、約20人が生活、トイレは1ケ所、このトイレ掃除は新入社員の仕事、これが寮のルールという事で、新入社員が8人で、そのうち1人が東京勤務、7人が大阪で住み込みの寮生活で、1週間に1度、朝晩の2回に渡って、派手に汚れたトイレの掃除、当時には将来に大きな夢があった、何事も将来のための修業、それがあるから苦にはならなかった、しかし決して好きにはならなかった、ところが、時を経て約35年後、マンションの管理人をするようになって、1つだけ共用部分にトイレがある、それも管理人のオレの仕事、トイレ掃除はオレの仕事の原点、ただ今では将来の夢はきわめて小さい、そんな時にトイレ掃除、切ないような、寂しいような気持ちになることもある。■「今日の言葉」■ 「 素直に聞いてそのまま実行する ことが習得の基本である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 28, 2010
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長谷川穂積は、昨日、バンタム級から2階級上げてWBC世界フェザー級王座決定戦に挑んだ、相手は同級1位の25戦25勝18KO勝のメキシコのファン・カルロス・ブルゴス、同級2位の長谷川は、いつも試合の後のリング上のインタビューの最後に、「もっと強くなりますので、これからも応援よろしくお願いします」、この言葉で締めくくる、「もっと強くなる」、この事は即ち、「もっとトレーニングをすることである」、トレーニング好き、トレーニング熱心の宿命とも言える、トレーニングによって筋肉が増強される事である、これが体重増加につながる、世界バンタム級の王者を防衛するたびに減量がきつくなり、10数キロの減量が必要になる、試合前の厳しいトレーニングによって10キロ位までは体重が落ちる、契約リミットまでの数キロが問題で、試合が迫ってくると、対戦相手の戦力を分析して、目前の相手に勝つトレーニングと言うより、専ら数キロの体重を落とすためのトレーニングになる、プロボクシングの世界チャンピオンは試合に備えて体重を落とす苦労をフアンに知らせるのは仕事でない、どんなに苦しい減量をしようとも、しなくとも、そんなことではなくリング上で如何にして相手に勝つか、それが仕事である、過去の日本の13回連続防衛記録が眼の前にちらつきだしてきた頃から、減量が過酷になりだし、前日計量をパスした後、リングにベストコンデイションで上がることがでるかの限界の計量を克服、タイトルを返上して階級を上げての試合が選択肢の一つ、また日本の連続防衛記録の更新も選択肢の一つで、それとアメリカのリングに登場、これも選択肢の一つ、10連続防衛の後、バンタム級のパウンド・オブ・パウンド決定戦のように、フェルナンド・モンテイエルとのダブルタイトル戦が長谷川にとって11度目の防衛戦となった。 この試合は、立ち上がりから明らかに長谷川のスピードが上まわり、ペースを完全握るかに思われた3ラウンド終了間際、長谷川の最大の欠点とも言える、試合の途中に両グローブを股関節の付け根辺りにつけて、ふっと気を抜いて、あたかも仕切り直すような動作、そくへモンテイエルの右の振り始めはゆっくりなのだが、途中からスピードアップするアッパーカットが、正確に長谷川の顎を大きくはねあげ、大きく膝を揺らしてロープに後退、ここでダウンをしていれば、カウントが入り試合再開と同時に3ラウンド終了のゴング、ところがチャンピオンの意地のように踏ん張ってダウンを免れる、そこへモンテイエルの的確な強い連打、レフリーが両者の間に割って入って試合をストップし、11度目の防衛に失敗し、世界バンタム級のタイトルを手放した、モンテイエルの一撃で顎を割られた長谷川は顎の手術を受ける事となった、再選はマッチメイクが難しく、ここで階級を上げる決断、それもスーパーバンタム級ではなく、2階級上のフェザー級に転向、久し振りに負けた後の再起戦、しかも2階級上のフェザー級の王座決定戦、通常は2階級もクラスを上げると、比較的に安全な相手とテストマッチのような試合、フェザー級の相手の体格、フェザー級のパンチの破壊力、フェザー級相手の時の自分のパンチ力の破壊力、もみ合った時の体力、スタミナ、これらを馴らすために、試運転のような試合を挟むのであるが、それをする事無くぶっつけ本番のフェザー級王座決定戦となった。 対戦相手のブルゴスはフェザー級で戦っていて、長身で、25戦全勝、18KO勝の強打者、いつもリングサイドで声援を送っていた長谷川のお母さんが1ケ月前に亡なった、幾つもの不安材料を抱えての一戦であった、フットワークを使って、スピードを活かし、すばやく飛び込み、コンパクトなパンチ、出入りの激しいボクシングと予想していたが、力を込めた強いパンチ、長谷川は打ち合いの戦法を選んだ、必殺の右のパンチが早くも炸裂、ブルゴスは膝を揺らす事もなく、長いリーチを使って、あまりスピードはないが、長谷川のパンチの帰りばな、合間に強いパンチを繰り出し、それが長谷川の顔面を捉える、バンタム級の頃なら相手に大きなダメージを与えたようなパンチでもブルゴスは前に出て打ち返す、長谷川もフェザー級のパンチを受けても怯まない、尚一層の攻撃を仕掛ける、フェザー級のパンチを恐れる事無く、果敢に耐えている、長谷川5発パンチを当てるとブルコスも3発くらいは当て返す、長谷川の強気の真っ向からの打ち合いの作戦に驚きながらも一抹の不安。 長谷川はそのスピードで、ブルコスに急所に当てさす事はなく、連打には連打で対抗、打たれたらさらに打ち返す、土付き合いの展開が長く続き、序盤、中盤と着実に長谷川がポイントをリード、長谷川は右目の下を内出血で青く腫らし、ブルゴスも右目の下を大きく腫らせて右目の目が見えないほど、長谷川は飛び込んで連打、ブルコスはそれをむかえうって連打、終盤にはブルゴスがよろめきシーンも増えだす、しかし遠い距離からのアッパーにはなおも威力を秘めている、WBCのルールで4ラウンド、8ラウンドの終了後に採点の途中経過が公開される、いずれも長谷川がリード、この後のラウンド、ブルゴスは試合の流れを取り戻そうと強引に攻撃を仕掛けてくる、長谷川はフットワークを使って身体に位置を変えて、そこから飛び込んで連打したり、ブルゴスの連打に合間に、スピードのある連打で試合の主導権を渡さずに、最終ラウンドのゴングを聞く、3人のレフリーとも文句のない点差で長谷川の勝利を支持、2階級上げての2階級制覇となる。 試合後本人も今日のようなボクシングではこのクラスでは通用しないとコメント、彼独特の謙遜もあるが、バンタム級の頃にはスピードのある強打が、デイフェンスにもなっていた、ところがブルゴスはそういうパンチを受けても、踏ん張ってパンチを返していた、パンチ力のパワーアップを図るトレーニング、パッキャオのように構えたその位置からノーモーションでパンチを出して、相手がパンチに反応する前にパンチを当てる、それとこの日の試合でも、ノーファールカップがあわずに、足の付け根に食い込むのか、ラウンドの途中に両方のグローブを両足の付け根のところをしきりに押さえていた、これを見たブルゴスはそこへパンチを繰り出す事もあった、これが長谷川の癖なら直さなければならない、フットワークか拳でのガードを固くする、フェザー級で肉を切らして骨を、の先方は選手生命と長くの防衛が困難になる、それで長谷川は、いつも見る者を楽しませてくれるボクシングをする選手。■「今日の言葉」■ 「 愛情を持って叱ることは 我が子と最良の交流となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 27, 2010
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(昨日の続き)石畳の愛宕街道の登り坂、両側には柱を黒く塗った瓦屋根のどっしりとした古民家が並び、土産物店、民芸品店、陶器店、茶店、キョロキョロはするが店の中に入ってひやかしはせずに通り過ぎていくと、ここでは珍しく紅がら格子の土産物店が見えてくる、そこから化野念仏寺は一段高いところにあり、そこへの石段が始まる、その登り口のもみじも鮮やかに紅葉していて、石段の途中で振り返り、紅葉しているもみじを上にして、愛宕街道とその紅がら格子の土産物店を写す、数年前から紅葉の時期にはここに訪れていて、この辺りで写真を撮っているが、これだけ鮮やかに紅葉しているもみじを入れてとるのは初めてのような気がする、入り口の小さな山門の向うに、境内の紅葉が見えてくる、石段と山門とその中の紅葉、手前の建物を額縁にして、その中の紅葉の絵、好きなアングルで、今年になってからも数枚撮っていて、今日もすでに数枚撮っている、この石段を上る時は妙にドキドキしながらが登っていき、小さな山門をくぐると目の前に鮮やかな紅葉が広がる、そして周りを石塔で四角く囲まれた、数千体、いや数万体の石仏、長く風雨に晒された石塔と石仏、その周りを取り囲むように、色とりどりに、鮮やかに紅葉したもみじ、色のコントラストだけではなく、生と死のコントラストを、無表情な石仏とやがて散り行く、ほんの少しの間の鮮やかな紅葉、この極端なコントラストを描き出した風景、これが毎年ここへ足を運ばせるように思う。 この地は克っては西の果ての地で、葬送の場であった、古くはまさに骸をこの地に投げ捨て、朽ち果て、烏に啄ばまれて、やがては土に帰る、風葬であったが、いつからか土地に埋める土葬となり、埋めた場所の目印代わりのその場所に石塔や石仏が置かれるようになり、大雨で流されたり、土で埋まったり、雑然としていたのをこの念仏寺が建てられて、1ケ所に纏められた、おびただしい数の石仏、しかしこの石仏の数の数百倍、数千倍の人のなきがらこの地で葬送された、周りに植えられたもみじはその事を知ってか、知らずにかは定かではないが、毎年秋のこの頃にひときわ真っ赤に紅葉するのであろう、農家のように見える寺務所、その前に大きな床机が2つ置かれていて、そこには陶器の大きな灰皿が置かれていて、書いてはいないがここが喫煙所兼休憩所、いつもここで床机に腰をかけて、タバコに火をつける、前に枝垂れ桜の木があって、その向うに鐘楼、この鐘楼の下が、石塔に四角く囲まれた石仏が安置されている、「賽の河原」、の入り口で、ここでは、「西院の河原」、と書かれている、この入り口の向うにもみじの木がある、そこに番をするように大きい石仏が置かれていて、この石仏の横から、その向うにもみじ、何度訪れてももう枯れてしまっているか、まだ紅葉していない、今年になって真っ赤な紅葉のもみじを背景にした石仏を漸くカメラに収めることが出来た、例年ならここから引き返すところだが、ここからほんの少し先にある愛宕神社の一の鳥居の脇にある、創業400年余り、江戸時代から営業を続けている大きな茅葺屋根の茶店、平野屋がある、今年はそこまで足を延ばす事に。 念仏寺の横の急な石段を下り、石畳の愛宕街道に出る、念仏寺までは、瓦屋根の柱を黒く塗ったどっしりとした古民家が建ち並び、念仏寺から愛宕神社の一の鳥居までは茅葺屋根の古民家が建ち並んでいて、ひときわ存在感を放っているのが古い茶店の平野屋である、オレと同じようなアマチュアカメラマンが店の前に群がっていて、テレビの取材班もいる、平野屋の古い暖簾の前の緋毛氈を敷いた床机に腰掛けている、ネイビイ色の上品なパンツスーツ姿の細いふちなしフレームの眼鏡をかけ、にこやかな笑顔を浮かべた中年女性が腰をかけていて、茶店から出されるお菓子を食べるところ、アッ、黒田福美や、とカメラを向けると、テレビ撮影の助手が、たしなめるように、「撮影中です」、言われなくてもわかっている、邪魔にならないように撮っている、こういう時には、「スミマセンが」、と断るモンや、テレビの取材撮影、ン~、何様や、街中ならイザ知らず、こんなところまで来ているこちらのことを考えろ、と思っているところに、「スミマセン、シャッタを押してください」、リュックを背負い、眼鏡をかけた韓国の女性が声をかける、「あ、あ~、良いですよ」、いいデジカメの一眼レフ、モニターではなく、ファインダーをのぞくように切り替えている、「鳥居も入れるのかい」、「ハイ」、「もうチョッと前へおいで」、「よし、よし、韓国ではなんと言うのかしらないけど、ニッコリとな」、意味が通じたらしくニコッ、そこでシャッターを押す、ただシャッターを押すのを頼まれる事も多い、少しむかつくのは、モニターで写した写真をチェックされる事、「もう一枚撮ろうか?」、「きれいに取れていますので、ありがとうございました」、と足早に去っていった。 昔は家の台所に、「おくどさん」、というのがあって、ここで薪などの火を使ってご飯を炊き、湯を沸かし、煮焚物をした、そして昔の家は隙間が多く、風の強いなどには家の中に隙間風が入り、このおくどさんの火を消したつもりがその風でまた火がいこりだして火事になることも多く、火の用心に心がけていた、注意していてもおきる可能性がありそこで、そこで神頼み、この台所のおくどさんのそばに、「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は殆どと言ってよいほど京都の家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られている、古より参拝のお客さんで賑わい、嵯峨鳥居本辺りには茶店などの休憩所が出来ており、昭和4年から昭和19年まで、電車とケーブルカーに乗り換えて頂上まで登れ、ホテル、遊園地、スキー場まで出来ていて、今の比叡山に山頂のようであったが、戦争の激化と共に鉄の供出のために廃線になり、現在では夜は電気もなく、飲み物の自動販売機が在るだけになっている、清滝トンネルなど幾つかの当時の遺構が残っているのみであり、インターネットなどで僅かに往時を偲ぶことができるが、実際の乗った事のある人の話しを聞こうとするがいまだに聞けていない、幻の鉄道でもある、ワインレッドのレンタルの着物を着た女性が、風で舞い落ちるもみじの葉っぱを見上げたところ、この写真は来年に持ち越し。■「今日の言葉」■ 「 物を大切にする暮らしの中に 心豊かな生活がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 26, 2010
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午後1時に家を出て、数分歩いたところに嵐電の西院駅、桜のシーズンや紅葉のシーズンにはこの嵐電が便利で、約20分ほどで嵐山駅まで運んでくれる、右京区区役所の移転で新しく嵐電天神川駅が出来て、昔よりも2分ほど余計に時間がかかるが、この時期の交通渋滞に比べるとやはり便利である、小学生の頃、当時はプールのある学校が少なく、夏前に何度か水泳の授業、この嵐山まで来る、渡月橋のホンの少し上流のところに、川の端からから端まで臨時の堰が作られて、殆んど川の流れがなくなり、そこが臨時の市営のプールになったと記憶している、水泳の時間にはここで泳ぐ、男の子の殆んどが晒し木綿のふんどし、六尺ふんどしと言うヤツで、別段更衣室などなくても、パンツ一丁になってから、ふんどし片方の端を肩にかけて、もう片方をパンツの前から、前をしっかり包んで、お尻のほうに回す、腰骨のところぐらいから、腰に一周回して、腰骨の上辺りで、前からお尻に回した布に引っ掛けて、逆回しで腰に一周回して、端を腰に回すた布に巻き込む、先に方にかけたほうで前を包んで、それをお尻のほうに回して、腰に巻いている布の下をくぐらして、余った先を縦の布に捲き込んで、これで一丁あがり、それからパンツを脱げばよかった、この六尺ふんどしと言うヤツは泳いでいる途中に、アップアップし始めても、六尺ふんどしをつかんで引き上げれば良い、泳げる者は白帽をかぶり背の立たないところで泳いでもOK、泳げないものは赤帽をかぶり、縄の張ってある立てる所まで、ただこの話は極限られた地域の小学校で、極めて短期間の間に行われていたようで、同窓会以外でこの話しをすると、余り信じてもらえない、嵐山駅に着いて、その渡月橋のほうには向かわずに、最後の連休の頃に比べると随分とすいているだろうとおもうが、それで嵐山は紅葉の見頃、大勢の観光の人、人、人、で賑わっている。 駅前の車道は両方とも交通渋滞、車やバスの間を縫って向かい側の天竜寺のほうに道を渡る、毎年ここは帰りに時間があればと思いながら、ここへ戻ってくるのは大体、午後4時が過ぎる、ボチボチ薄暗くなりかけ、西山に日が沈むと急に冷え込んで来る、歩いて汗ばんでいた身体が冷え込み、また今度、もう何年も中に入っていない、二尊院も紅葉の名所だが、10年以上前は無料で境内の中には入れたが、現在は要入場料となっていて、ここも同じである、ただ切符売り場の直ぐ前のところまで行って写真は数枚撮っている、天竜寺の横の昼でも尚うっそうとしている両側の背の高い竹藪、このあたりに来ると前や後からひっきりなしに人力車、この人力車も今ではすっかりと市民権を得ていると言うか、お客さんを乗せてこのあたりの観光案内をしながら曳いている、その気配で歩いているお客さんは気持ちよく道を空けている、オレなどは人力車の車夫と言うと、無法松の一生の松五郎が直ぐに頭に浮かぶのだが、今では、細身の背の高い、ジャニーズ系の若い車夫が殆んど、もう20年以上も前の事になるが、知人の紹介で高校を中退した若い男性を会社で預かる事になった、細くて、背が高くて、足が長くて、小顔で、パンツ屋で丁稚見習いをするより、ジャニーズ事務所へ行けば良さそう、特にパートのオバちゃんを初め、全員が可愛がっていたつもりが、長く続く事が出来ずに、些細なきっかけで、会社を辞めてしまい、家にも戻らずに行方不明状態が暫く続いていた、そんなある時、テレビの番組で、京都市内で観光用の人力車の走り出した頃、嵐山での人力車を紹介、その中でテレビのクルーにインタビューを受けていた、背中に、「嵐」、の大きな文字を入れた法被を着た若いスラリとした車夫を見ると、今も人力車を曳いている筈がないのに、もしや彼ではと覗き込んでしまう。 どこを向いても紅葉の中の嵯峨野路を野々宮神社の前を通り、いつもホッとするのだが、刈り入れが済んだ田圃のはるか向うに、実がたわわに実った柿木の横に茅葺屋根の家、落柿舎、今年は畑のにコスモスがない、のっぺりした風景ながら今年も写真を撮る、常寂光寺、妓王寺も横目で見て通り過ぎて、このあたりまで来ると去年痛めた左足が痛み出す、もみじの綺麗なところで写真を撮る、実際は足を休めている、写真を撮るだけでなくタバコも一服、普段よりも煙を深く吸い込み、鼻からも、口からも思いっきり煙を吐き出す、例年思うことだが、秋にこのあたりで吸うタバコは格別旨く、目指す化野念仏寺までは距離も充分残っている、チェーンスモークで2本目に火をつける、足が痛いのに何故、遠くの化野念仏寺まで行くのか、10月の20日ぐらいに11月の仕事のシフト表の作成、この時に11月25日は嵐山に来て、化野念仏寺に来て、いつもは行かないその向うの愛宕神社の一の鳥居のところにある、創業以来400年の江戸時代から続いている茅葺屋根の茶店、平野屋まで足を伸ばすことに決めていた、長い目の休憩をはさんだために、その後は余り足が痛む事無く、落ち着いて、どっしりとした家並みが続く嵯峨鳥居本の端に着いた、好きな場所を歩き出すと足の痛みが無くなって来る、決して許される事のない2人が人目を避けるように、足早に嵯峨鳥居本の石畳を通り過ぎて、清滝で心中のために先を急ぐ、ここではいつもそんな事を考えながら歩く、だから不似合いな急ぎ足のカップルを見ると、もしやそうではなどと傍迷惑な事を考える。(続きは明日)■「今日の言葉」■ 「 金に対する執着が強くなるほど 金の苦労が多くなっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 25, 2010
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毎月20日過ぎになると翌月の勤務のシフト、仕事場のマンションは365日休み無しで2人シフト、オレが月に18日勤務、相方が月に12日勤務、オレが2勤1休、2勤2休、7日間で4勤3休になり、この繰り返しにすれば良い所だが、オレが西院フェスのスタッフをすると、2月から第2日曜日、第4日曜日が打ち合わせ会議のためにあらかじめ休みのスフトを組む、第1日曜日と第3日曜日は出勤になるようにする、7日サイクルで固定すると休みの曜日が固定される、と言う事で7日サイクルをイレギュラーさせなければならない、それとあらかじめ早くから予定のわかっている日は優先的に休みにする、こうしてシフトを組むわけだが、年に1日か2日くらいは双方に用事がある日がある、こうなると派遣会社のエリアマネージャーが代務で出勤するか、別のマンションの管理人が交代で代務、という事になる、会社によってはこういう場合のために代務要員を採用している会社もあるのだが、経費面の問題で努めている派遣会社にはその代務要員がいない、こちらとしては1ケ月ほど先の代務の依頼である、ところがいつもこの件でがたがたする、他のマンションの管理人応援を頼めない、最後にはエリアマネージャーが自分で代務出勤する事になる、往生際が悪いと言うか、新築マンションのオープンで忙しい、月末は忙しい、などと理由をつける、新築マンションのオープンで忙しいと言う良い訳に、5年7ケ月余り前、今の勤務先のマンション3月26日分譲開始日、工事が遅れていて、その前日でさえ、追い込みの工事中、館内に入ると工事の邪魔と言う事で、外で長い間待たされて、電機温水器の取り扱い方法だけ説明を受けて、翌日からぶっつけ本番、それを経験しているだけに、新築マンションのオープンで忙しいと言われても何の事かと言う思いである。 あるエリアマネージャーは2人シフトで代務が必要になるなら、3人シフトにしようと言う馬鹿な提案をした人もあった、2人とも都合の悪い日は年に1日が2日である、その理由は町内の行事、家の法事ごと、祭、等である、3人シフトにしても3人とも都合の悪い日が年に1日か2日はあるものだ、5年7ヶ月の間、オレも相方も同じまま、ところがエリアマネージャーときたら、現在で8人目、ヘッドハンテイングで引き抜かれた人もいるが、他はセクハラ行為やお金の使い込みや、上司と喧嘩、権限が無いのに管理人の首を切る、等々の不祥事による退職、だから、エリアマネージャーに物事をきめてほしくないと却下、管理会社のフロントマネージャーの理由を話して、代務出勤の依頼をするか、それも出来なければその日だけ窓口を閉めよう、どうやらこれが泣き所と見えて、「私が代務出勤します」、シブシブながら、オレは、「早くそういえばいいのに」、追い討ちをかけるように、「現場がフロントマネージャーを必要とするのは、年に1日か2日の代務依頼の時だけ」、年齢も若い、キャリアも短い、肩書きはエリアマネージャー、男性の管理人と言えば、殆どが還暦を過ぎている、一癖も、二癖もあり、食ってきたおマンマの数も踏んできた修羅場の数も違う、ついつい言い過ぎてしまう、住人さんとのトラブルで泣きつかれるよりはマシだろう。 相方は女性で家の宗派浄土宗であり、お盆の間は何かと忙しいだろうと、お盆の間はオレが出勤、11月20日過ぎに12月のシフトを組んだ、12月30日、31日、1月1日、2日はオレが勤務、仕事を終えて、夕食の時に雑煮を祝う、この4日間仕事に出かけるのが、今度の正月で5年目になる、これまでは年末は連日の忘年会、正月は正月で朝から酒びたり、その頃に比べると年末年始の後のオレの肝臓は随分と軽やかな気がする。■「今日の言葉」■ 「 一筋にやり抜く心が遂には その人を大きく造りあげる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 24, 2010
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終戦後、敗戦に打ちひしがれた日本人に大きな勇気と自信と希望を与えてくれたスポーツ選手といえば、大相撲からプロレスに転向して、アメリカ人のシャープ兄弟を必殺の空手チョップで滅多うちにした力道山、水泳の自由形の長距離で世界記録を連発した古橋広之進、そして日本人初の世界チャンピオンのボクシングの世界フライ級チャンピオンに君臨した白井義男、当時は団体は一つで、クラスはフライ級・バンタム級・フェザー級・ライト級・ウエルター級・ミドル級・ライトヘビー級・ヘビー級の8階級で、世界チャンピオンは各クラスに1人の、たった8人きりであった、現在はと言うと、WBA・WBC・IBF・WBOの主要4団体が存在し、各団体とも各クラスに世界チャンピオンを認定、クラスもミニマム級・ライトフライ級・フライ級・スーパーフライ級・バンタム級・スーパーバンタム級・フェザー級・スーパーフェザー級・ライト級・スーパーライト級・ウエルター級・スーパーウエルター級・ミドル級・スーパーミドル級・ライトヘビー級・クルーザー級・ヘビー級の17階級に細分された、白井義男の時代の各階級の間に1つの階級が作られて、クラスの前にジュニアという呼称がつけられた、例えばフライ級とバンタム級の間に1つの階級、ジュニアバンタム級と呼んでいた、しかしこのジュニアと言う呼称が改められて、ジュニアバンタム級をスーパーフライ級という呼称に改められ、混乱をきたす事もある、浜田剛は日本人から世界タイトルを奪い、日本人チャレンジャーを次々に退け、タイトル防衛を重ねて、日本人の天敵の様なリカルド・アルレドントを1ラウンドの終盤にコーナーに追い詰めて、衝撃の失神KO勝ちでつかんだタイトルは世界ジュニアウエルター級チャンピオンであった、それが現在では元世界スーパーライト級チャンピオンといわれるようになっている。 現在ボクシングの世界チャンピオンは各団体、各クラスに1人の世界チャンピオンが存在するとして、68人の世界チャンピオンが存在する事になる、だが実際には空位の世界チャンピオンもあれば、世界チャンピオンが怪我のために長期にわたってタイトルマッチが出来ない場合は、世界暫定チャンピオンが作られることもある、2キロ余りの体重差でクラス別けがなされている、このようにクラスが細分化され、クラスが増加される時にはそれなりの理由、元々の体格差のある選手が減量によって計量時には同じクラスとして体重をあわせても、軽量が済んでからリングの上るまでには時間がある、特に最近では前日計量が主流、リングに上るまでの1日半の間に充分な食事、計量時よりも5キロ以上体重増加でリングに登場、両者には明らかな体格差、対格差によるパンチ力の差、打たれ強さの差、もみ合いのによるスタミナの喪失度の差、体格の大きい者が有利で、フェアーな戦いが出来ない、それとダメージが大きくてリング禍、選手の安全面を考慮してのクラスの増設、しかしここにはチャンピオンのタイトルマッチの興行面でのメリットが主要4団体の本音が潜んでいるように思われる。 ボクシングの試合に於いて体格の大きなものが有利、これは長年の実績に裏付けられた事実であり、オレ自身もそれを信じていた、ビッグマッチで実力人気共に備えた選手同士の対戦、普段上のクラスで戦っている選手が圧倒的に有利、そうして試合の予想を立ててきた、しかし最近そうとは言えない選手が出現してきた、少し古くなるが世界ライトヘビー級チャンピオンのロイ・ジョーンズ・ジュニアが世界ヘビー級チャンピオンのジョン・ルイスに挑戦、世界ヘビー級チャンピオンはボクシング界の最強の称号のはずであった、過去に数人の世界ライトヘビー級の強いチャンピオンが世界ヘビー級チャンピオンに挑戦するが、リングに上って対峙した時のヘビー級選手の体格に圧倒されて、恐怖感の故に何も出来ずに倒されたと言う事がよくあった、ところがジョーンズはルイスを恐れる事無く、スピードのあるおパンチをあて続けて試合を終始コントロールし、大差の判定でヘビー級のチャンピオンの座につき、ヘビー級と下のクラスには越せない垣根が存在、このボクシングの世界の常識を覆した、つい最近、アントニオ・マルガリートとスーパーウエルター級王者決定戦で大差の判定勝ちで6階級制覇成し遂げたマニー・パッキャオ、6階級制覇だけでも偉大であるが、彼が始めに世界チャンピオンに君臨したのがフライ級であり、スーパーウエルター級は9階級上のクラスになる、アメリカのリングに再デビューして以来数々のビッグマッチ、その全て上のクラスの選手との対戦で、ことごとく勝利し、ついに8階級上、体重も20キロ以上増加しての戦いである、この体格さをの壁を打ち破っているもう1人の選手が、世界ヘビー級チャンピオンのデビット・ヘイ、クルーザー級のチャンピオンから、史上最長身、最重量の世界ヘビー級チャンピオンニコライ・ワルーエフに挑戦、素早いフットワークでワルーエフにパンチをあてさせずに、飛び込みざまに強打を的中させて、最終ラウンドにはヘイの強打で巨人チャンピオンのは膝が大きく揺れて、よろめき、あわやダウンかと思わせるシーン、圧倒的なポイント差の判定勝ちで世界ヘビー級に君臨、ジョン・ルイスとの初防衛に成功し、同じイギリス人の、10年前アマチゥア時代に同じナショナルチームに属してヘイはオリンピックで下のクラスで無冠、挑戦者のオードリー・ハリソンはオリンピックのヘビー級のメダリスト、スパーリングでグローブを交えた経験があるのだろう、その時にはハリソンが圧倒したと想像される、その時の記憶で自信満々でリングに上ったはずが、10年後のヘイの迫力に圧倒されて、1ラウンドが始まって、身体の大きいハリソが恐怖のために身体が動かず、両方のグローブで顔面をガードするだけ、ヘイはフットワークを使って、小刻みにフェイントをかけてプレッシャーをかけながら、飛び込むチャンスを虎視眈々と狙う、小柄なヘイがじわじわとプレッシャーだけでロープにつめる、3ラウンドに入ってヘイは、飛び込みざまにパンチを打って、ハリソンの固めたガードを割る、ヘイの迫力の前にハリソンはロープに釘付け、ヘイは一気に早い、強い連打の狙い撃ち、ハリソンはドッと音を立ててダウン、カウント8で試合再開、ヘイの連打の途中でレフリーがストップ、圧倒的な体格差をものともせずに早いラウンドでのストップ勝ち、ボクシング以上に快調だったのが口のほうで、試合後のインタビューで、来年はクリチコ兄弟のどちらとでも対戦する、と荒い鼻息、ジョーンズ、パッキャオ、ヘイ、この3人はボクシングは体格が大きいほうが強い、この常識を覆したともいえる、この事を考えた時にボクシングに小刻みなクラス別けは本当に必要かという疑問がわいてくる。■「今日の言葉」■ 「 困難も苦労もない生活からは 人生を学ぶことはできない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 23, 2010
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11月22日は、「いい夫婦の日」、と言うらしい、当然、別の話題のブログを書こうとして、今日はシフトの休みの日、天気さえよければ紅葉を見にどこかへ出かけるはずだったのだが、前日の天気予報どおり、朝から雨、基本的に雨の日には写真を写さない、後の手入れが面倒なためという横着な理由、朝はユックリと寝ていて、午前11時頃に朝食、テレビを見ながらケットを身体にかけて、ふくらはぎを揉み器でマッサージ、気持ちがいいからまたウトウトと、本でも探しに行こうか、烏丸辺りまで出て行こうか、「2時頃に、らーめんか、うどん」、「どこかにでていくの?」、「そのつもり」、給料日の3日前、明日、明後日は仕事、500円の一日乗車券が2枚、3日分のタバコ代、500円くらいの文庫本なら1冊買える、それぐらいしかお金が残っていない、出かけるとコーヒーを飲みたくなる、出かけるのを中止して、昼食にきつねうどんを家で食べ、また寝転びながらテレビを見ている、柳田法務大臣の辞任がワイドショーで報じられている、この10年程の間に国会議員、大臣が地元の講演会などでの講演の際に、地元の後援者、いわば身内も同然と言う意識が働いて、つい講演の枕の部分で、少し笑いを取ろうとして、口を滑らせて、放言、失言、暴言、それが問題となって、大臣の辞任、国会議員の辞職、次の選挙で落選、こういう事が何度も繰りかえされてきた、余りにも懲りなさ過ぎる今回の失言問題、確かに大臣の国会での答弁で、氏の言ったとおり、2通りの発現しかしないような大臣も何人もいた、それを講演の際に自慢げに話をして、種明かしをする、言い換えると正直な人といえるのだが、幼稚すぎる、それとこういう話をしてでも笑いをとって、聞く人の関心を引きつけようと、ある意味では涙ぐましい努力とも受け取れるが、話が下手で、講演の中身が乏しい、その事を証明しているようである、野党、特に自民党の国会議員がまるで鬼の首を取ったように、国会軽視だ、大臣の辞任要求、参議院での問責決議案提出と、叫んでいるが、この数ケ月間、野党の国会議員がマスコミに登場する時には、民主党の政府、政策、首相、大臣、などを口汚く批判、非難する時だけである、それも、ねじれ国会を盾にして、現在日本の国には待った無しの問題が山積していて、それを国会議員が議論する事が国会議員の仕事のはずで、それを一向にしようとしない、柳田法務大臣だけでなく、国会議員全員が国会軽視しているともいえる、そんなことを思いながら、テレビのワイドショーを見ていると、折角10月初めからのタバコの大幅値上げ後、一日の喫煙本数を半分に減らしたのがリバウンドしそうである。 「出かけないの?」、「小使いがないから出かけられない」、「だったら家にいたら」、「あ、あ、出かけるのをやめる」、「韓国ドラマの録画を見たいんだけど」、「見たらええやん」、「気が散るから1階へ降りたら」、「お湯沸いてるか?」、「沸いてるよ」、オレのカップにインスタントコーヒーを入れて、1階のPCの前に座って、本日のブログを書き始めたところ、テーマは、「いい夫婦の日」、にちなんでと思いながら、1971年10月21日に結婚以来、結婚後満39年が経過、波風の全くない平穏な結婚生活ではなかったが、別れるとか離婚のギリギリのところまでも行ったことがない、ただこれはオレが勝手に思っているだけの事だろうと思うのだが、最近自分の人生を振り返った時に、昭和41年(1966年)の4月に大学を卒業して就職して以来、実に長い間、仕事以外の事を議論したり、考える事をせずに生活をし続けてきた、28歳の頃に好きな女性がいた、漠然と30歳までに結婚がしたい、周りも、「1人所帯は持たないが、2人所帯なら何とかなるモンや」、というし、好きな女性と結婚すれば一緒に生活ができ、毎日、一つ布団に寝て、当然の事ながら、・・・・・・、それに付随してこの女性を幸せにする、この幸せにすると言う思いは持ちながらも、「幸せ」、という事も深く自分の事、相手のことを考えたわけでもない、兎に角、仕事を頑張って、金を稼いで、経済的に豊か、物質的に豊か、そのためにはあらゆる物を犠牲にしてもいとわない、何も迷う事もなく、これが正しいのかどうかも考える事無く、仕事をしてきた、夫婦の事、子供の事、そのどれよりも仕事が優先されてきた、私立の大学ながら息子も娘も卒業させる事が出来た、世間並み以上の蓄えもできた、息子に会社の3代目を譲って、勝ち逃げの人生が眼の前にちらついてきた、カラオケに行けば、「マイ・ウエイ」を気持ちを込めて、胸を張って、気持ち良さそうに歌うことが出来るようになった、零細企業の2代目経営者、オヤジから会社を譲り受けたときに、会社だけではない、倒産と言う重荷も引き継いだ、その不安を絶えず意識しなが10数年、それが1999年3月に不安ではなく、数ケ月先にに実物大の倒産が立ちはだかった、負債総額8億円の倒産、同業者の倒産は幾つも間近で見てきた、そ経営者がそのどのような生き方を余儀なくさせられたことも知っている、だからオレがもしそうなった時に、「堅気さんには1円の迷惑もかけない」、幕引きの美学のようなものも考えていた。 それとヨメにはお金の苦労と怖い目には合わせない、不渡りを出して、銀行取引の停止、倒産、こうすれば一気に方がついたところ、あくまでソフトランデイングに拘った、一応の方をつけるまで約7年の歳月が係り、この間の苦労と言うヤツを一通り経験、余り褒められない事もした、「右手のした事を、左手にも知らせない」、だからこの間の事をヨメには殆んど話しをしていない、それが最近になって、当時のことがヨメの耳に入る事が多くなってきた、一方的にヨメはその秘密にしていた事ををなじる、オレは無抵抗に聞くだけであるが、最後に大きな声で、「くどい」、と一括で終了、暫くお互いに口を聞かない時間が経過、それでも食事になると、「いただきます」、「ごちそうさん」、きちっと言う、「いい夫婦の日」、にちなんで書くつもりで書いた来たが、オレには本当の、「いい夫婦」、と言うのが実は分らない、年に一度くらいは、あらためてお互いに感謝の言葉、愛の言葉、こんな事が本当にいい夫婦の条件とは思わない、柳田法務大臣は法務大臣は国会の答弁で2つのフレーズの答弁をすればいいといって本日辞任に追い込まれた、オレは結婚して30年、40年経過した夫婦は、「ありがとう、ごめん、いただきます、ごちそうさん、どうぞ」、5つの言葉を毎日言うだけで良いと思っている、まさか夫婦軽視と言われる事もないだろう。■「今日の言葉」■ 「 夫婦の円満は互いにはたらきを 感謝し合うことから生まれる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 22, 2010
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今から5年前頃、当時は専らハコヘル派であった、まずハコヘルの説明から始めると、江戸時代に遊郭と言うものが存在して、大まかに別けて座敷で歌舞音曲のみの提供する場所、これがはっきりと区分けされるようになったのは、そう古い話ではないがが、現在の京都の祇園街に代表されるような花街として現在も残っている、そしてもう一つはもっぱら女性の肉体が提供される場所、これが後に、終戦後まで公娼街が赤線地帯、私娼街が青線地帯として続けられてきた、この間、取締りがきつくなったり、緩和されたりが繰返されてきて、その度に新しい形態が生まれ、言い換えるとフーゾクの業界が進化してきたともいえる、そして戦後の赤線防止法の全面適用、これがフーゾク業界のビッグバンとも言え、ここに於いて江戸時代から続いてきた遊郭と言う形態が消滅した、では日本の国からそういう場所が無くなったのかと言うと、現在に於いてもこういう男性の需要は存在、また長きに渡る不況のトンネルのなか、国や政府の緩慢過ぎる、不毛な景気対策ゆえに、その犠牲者ともいえる主婦、人妻と言う男性にとっての魅力ある供給も生まれ、不況の中とはゆえ、フーゾク業界の総売上は膨大な金額にのぼる。 こういう話題を書いていると、公開するのボタンを押すと、1ケ所、わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています、その箇所の下に赤い矢印が出るはずながら、それが出ないのでどの表現か分らないので、中略とします。 ヨメにいつも言っていることだが、オレが倒れて運良く病院に担ぎ込まれて、身体に10本くらいの管が繋がれていて、綺麗な看護婦さんが来て、助平そうに目を輝かせたら、もう10本くらい管が追加されても大丈夫、しかしチラッと見ただけで、「もう、ええわァ~、とばかりに首を横に振ったら、すぐに管を全部抜いてくれ」、と馬鹿なことを頼んでいる。■「今日の言葉」■ 「 現在の生活の中に喜びを見出せ 幸福はそこから始まる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 21, 2010
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非常に少ない親戚を見渡して、最高齢者は85歳のオヤジの弟のヨメで、叔母が85歳、叔父は還暦を過ぎた頃のすい臓癌で亡くなる、来年辺りが23回忌、暫くの間はマンションで1人住まい、子供なし、叔母の肉親は1つ違いの妹、その妹もが主人を10年ほど前に亡くし、こちらも子供なし、そのご主人は京都に本山のあるある大きな宗派の家族で、若い頃から北欧文学に興味、そちらの道を進む事になり、こうなると、半ば宗派とは勘当状態になり、自身も大学教授となる、その後主人が無くなり、かなりの額の遺産を叔母の妹が相続、その妹と言うのが妙に見識が高く、気が強くて、口が達者、常識が無く、家事が出来ない、そのくせ1人住まいが出来ない人間、そこで叔母に、広いマンションを買うから同居しようと言う事になった、二条城の近くの、バブル期の頃には億ションだったマンションを格安で、購入、高齢の姉妹がマンションの最上階で暮らす事になった、年齢の割におしゃれで、いつもきれいに化粧をして、いつまでも美しい高齢者姉妹と言う感じで傍から見ると、優雅で、なかなか理想的な暮らしに見える。 オレの妹が週に2日ほどお手伝いさん代わりにそこへ行っている、こういう暮らしが10年も続くと我儘放題、訪問ヘルパーさんがきても、2人とも元気なために、買い物を頼んだり、掃除を頼んだり、お手伝いさん代わりにこき使い、これに文句を言うヘルパーさんには、事務所に物凄い剣幕で電話をかけて、こういう時にはお里が知れる言葉使い、ヘルパーさんのチェンジを申し入れて、そのヘルパーさんの悪口を長時間、妹に愚痴をこぼす、それ以前からオレは食べ物の好き嫌いの割りに、人の好き嫌いは極めて少ないタチである、そんなオレでも世の中に5人くらい嫌いな人間がいて、その5人のうちの1人がその叔母の妹であった、妹からそういう話を聞くにつけ、「何様のつもり」、そんな気持ちが高まり、オレ自身も商売をやめて、人生の山から谷底に身を落とした状態、そんな時に妹が、「オネーちゃんは年上やから、先に介護が必要になる、○○家の人間やから、そちらで面倒を見てほしい」、ここに2人とも子供を育てた経験がない悲しさ、お金で身内の世話は何とかなる、札びらで面を張るような態度、社長業をしていた頃には、こういうことはハナでせせら笑ってやり過ごしていたが、立場が変わってしまうと、屈辱である、叔母もそのことと同じ考えを持っている、親戚と言えども、付き合えば気分が悪くなる、出来るだけ疎遠状態にしていた。 ところが今年になって叔母が2度入院、2度とも転んで足の骨折である、完全介護の個室に入院、オレのヨメと妹と叔母の姪などが交代で病院へ、病院の食事がまずいから食べ物の差し入れと、差し入れた食べ物に文句をつける、ナースコールをしてもすぐに来てくれないから世話をしてほしい、ナースコールをして、瞬時に病室へ、これは無理な話である、1、2分もすれば来てくれる、これが待てないのである、要は気儘なのである、気儘を通すために身内の世話になる、この世話になるのが平気なのである、これが親子なら、なるだけ子供の世話にならないようにと言う気遣いが働くところ、子供を生んで、育てていない悲しさと言うか、子供が何故親の介護の世話が出来るのか、親の子育ての苦労、子育てのためには自分の楽しみは後回し、こういうことを身近に見て来て知っているからこそ、当然の事としてできるのである、子育ての苦労の無さ、自分の趣味や、旅行、観劇、身の回り品の買い物、学費や子育てのために費用が要らない気楽さ、それを充分に楽しんで、その後に老後の介護の世話、それをさも当然のように要求、虫が良すぎるというモンで、ヨメは一日おきに病院へ出かけているが、オレは2度の入院にも拘らず、お見舞いさえ行っていない、葬式代さえ残してくれたら葬式の一切の手配ぐらいはしてやろうと思っている、叔母とその妹はオレの事を情の無い、恩知らずと陰口を言っているらしいのだが、オレから言わせれば、「情が無いのはどちら?」。■「今日の言葉」■ 「 自分を知る難しさが分れば 忠告の有り難さが分る 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 20, 2010
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嗜好品、お酒も飲む、タバコも吸う、コーヒーも飲む、ヨメにいつもいわれていることだが、「我が家の支出の大分は嗜好品代である」、という事はエンゲル係数ならぬ嗜好品係数が高いわけである、その中の一つのコーヒー、現役の頃に比べて喫茶店でコーヒーを飲む機会は極端に少なくなっている、現役の頃には港港に女アリではなく、立ち回り先に行きつけの喫茶店あり、である、別段、格別にコーヒーの旨い店でもはなく、この銀行の○○支店へ行くと、直ぐ近くに行きつけの喫茶店がある、昼食後のコーヒーには砂糖とミルクは入れるが、その時以外に飲むコーヒーは基本的にブラックである、唯一の例外といえば、イノダコーヒーショップの濃いエスプレッソのコーヒーの時にはいつも、「ミルクと砂糖は入れますか?」、ときかれると、「ハイ」、とこたえている、するとミルクと砂糖をすでに入れたコーヒーが運ばれてきて、スプーンに小さな、小さな角砂糖が1ケ乗せられてくる、それも入れてしまう、いちにちにコーヒーを5、6杯も飲むと、糖分の取り過ぎが心配されるが、殆んどがブラックで飲むためにその心配がない。 最近、昔顔なじみだった喫茶店に久し振りに行くと、もう店が閉まっている事が多い、その殆んどが個人経営の喫茶店、梅の時期、桜の時期、杜若の時期、藤の時期、蓮の時期、萩の時期、紅葉の時期、こういう時期にしかその近辺へ行くことがない、今日は久し振りにあの喫茶店の方面へ行く、コーヒーを飲むならその店まで辛抱、昨日、今日と連休で、午後1時に南禅寺、永観堂方面に向かって、出かける、東山通と冷泉通の東南角のマンションの1階の喫茶店、以前にオレの一番色黒のガールフレンドのジャマイカ人の娘さんが、その店であるバイトをしていて、娘をアルバイトに使ってくれる店、その店で彼女と待ち合わせをしたことがあった、オレをその店の新規のお客さんとして紹介、妙に義理堅いところもある、ただ、「義理堅い」、などというと、「義理」、という事を説明するのに随分と時間がかかり、最後には、「くどい」、などと喧嘩になるからいわなかったのだが、明るい綺麗な店で、一番のお気に入りはそこの便所、男性用の小の便器、取っ手を観音開きにあけると小の便器、ふたつきの小の便器、それとコーヒーカップが舶来の高価なカップに入れられてくる、コーヒーカップ、ティーカップ、ケーキサラ、スプーン、フォーク、シュガーポット、これらの全てが綺麗で、センスがよくて、舶来の高級品、コーヒーの味はオレと同年輩のオーナーの好みの苦味のきついコーヒー、場所柄、桜の時期、紅葉の時期、岡崎でイベントごとのある時にしか寄らない、店の前に行くと、白いシャッターが降りていて、10月末にて閉店、祇園店のほうは営業をしていますの張り紙、どこかに良い喫茶店があればそこでコーヒー休憩のつもりで南禅寺に向かう。 南禅寺には大型の観光バスが後から、後から駐車場に入り、昨日の真如堂が嘘のように混雑、南禅寺には入ってすぐの南側にある天授庵、ここの庭の紅葉も素晴らしいのだが、見ている段には良いが、庭は東側、天気が良い日には太陽が砂に反射、カメラを構える場所は日陰、写真のコンデイションとしてはよくない、ただ建物の南側の庭、建物の入り口の土間から、座敷の向うのガラス窓、その窓を通して紅葉が見える、ここの土間からの写真は良い、門からズームの望遠をかけてモニターを覗く、三脚を構えてオヤジが撮影中、入ろうか、どうしようか迷いながらも、門の外から写真を撮って、入らずに、ここの東側の塀沿いに、毎年ひときわ鮮やかに紅葉する木が数本ある、そこで数枚撮影して、何も紅葉の時期に行くことはないのにと思いながらも、明治時代に琵琶湖からの疏水をこの南禅寺の東側を掠めるようにレンガつくりのアーチ型の水路が作られて、「水路閣」、と呼ばれていて、南禅寺の境内にある異国、子供の頃、夏休みの写生の宿題に何度も訪れている好きな景色、アーチ型の水路の下に入り、写真を撮る、女学生3人がアーチのところに腰を掛けて、手前のアーチのところにカメラをいて、セルフタイマーで写真を撮っていた、先のオレが彼女達を撮って、その後で彼女達のカメラのセルフタイマーのシャッターが下りる、もう一枚とろうとして、1人の女の子がカメラのほうに来る、「写真を撮らせてもらったお礼にシャッターを押しましょうか?」、「ハイ、有難うございます、お願いします」、という事になり、オレがカメラを持って構えると、3人ともピースサイン、「あの~、ピースサインの女性の写真は基本的に撮らないのだけど」、暫く間を置いて、3人ともピースサインの手を下げる、「いや~、ごめん、ごめん、今のは冗談」、また暫く間をいて、3人ともが大爆笑、そこでパチリ、1人の女の子がカメラのところへやってきて、モニターで撮った写真をチェック、「すみません、すました顔をもう1枚」、「注文をつけるなら、高くつくよ」、うつむきながら、真面目な顔で、「いくらですか?」、今度はオレのほうが昨日の夜に下の前歯が抜けた事も忘れて、口をあけて大笑い、南禅寺の本堂の南側の大きな銀杏の木ともみじの木、銀杏の木の紅葉が早く、もみじの木の紅葉が遅く、今年は珍しく、銀杏の木ともみじの木が紅葉して並んでいた。 南禅寺の北隣の永観堂、ここへは2年程続けて中へ入っている、午後3時半、中へ入っていると、出てくる頃にはもう薄暗くなっている時刻、マウンテンバイクで出かけて帰りが遅くなると捜査願いが出そうである、ここも塀の外から綺麗に紅葉しているところをカメラに収めて、家に向かう、家を出てからコーヒーを一杯も飲んでいない、コーヒーが飲みたい、喫茶店がありそうな道を走るが、大手チェーンのコーヒーショップしかない、この種類の店には入らない、喫茶店を探して、ホテルオークラの横まで来る、寺町三条に古くからある自家焙煎の喫茶店、この店は禁煙になっている、ここまで来たのなら、西洋骨董店のカフェに、ようやく飲めたコーヒー、店長の金太郎がニヤ~と鳴いて、「膝の上に乗せてくれ」、とばかりにそばによってきて、オレの顔をじっと見る、何年か前にこの店に初めて入った時にも、同じようによってきた、その時に顔をじっと見て、「悪いけど、猫は苦手なんで」、と仁義を切っておいた、だから鳴きながら、そばまできても、オレの顔を見ると、「そうだったんだ」、という顔をして、店の奥のあいている席のイスに乗りに行く。■「今日の言葉」■ 「 物や道具に感謝できる人は 働きをより大きく伸ばしていける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 19, 2010
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桜の季節が好き、冬が終わり春が来て、桜の咲く頃の気分、何もかもが一気に始まるような、はじけるような気分が好きだったのが、いつか秋の終わりの紅葉の頃のほうが好きになってきている、今日新聞を読んでいると、冬を迎える前に最後に、最高の装いをする、美しく、綺麗であり、鮮やかではあるが、どこかに寂しさがある自然の景色、とあった、オヤジが90歳を迎える秋、当時はもう軽いバカチョンカメラであったが、カメラ持参で毎日ほど昼食後に出かけて、夕食前の暗くなるまで紅葉の写真を撮りに出かけていた、ヨメに、「元気だなァ、100歳までいくよ、こちらが先になんてないように」、そんな冗談を言っていたのだが、曾孫の3つ参りに下鴨神社へ行き、その日の夜に、先頭で気分が悪くなり、斜め向かいの魚屋の大将に手を引かれて戻ってきた、家に帰ると、「たいしたことはない」、といって水をコップ1杯飲んで、押入れの戸にもたれてテレビを見ていた、するとユックリと、スローモーションのように左のほうに倒れる、慌てて起こすと、照れ笑いを浮かべて、「なんでもない、居眠っていた」、しかし起こしてもまた直ぐに、布団を敷いて寝かせて、近所のかかりつけの医院の医者を呼ぶ、自転車でやってきて、診察を済ませて、「細い血管が切れているかもしれない、入院して検査をすれば正確な事が分ります」、「入院はしないと言い張ると思います」、「そうでしょうね、今すぐにはどうという事はないでしょうが、1ケ月ほど家で安静にしていください、銭湯も当分ダメです」、という事で寝たきりではなかったが家の中で安静、この間に体力がガクンと弱り、以来、1人で外出する事が出来なくなった、1週間ほどったった後に、「3つ参りの時の写真を出したままで、そのままになっている」、写真屋へとりに行き、プリントされた写真を見てみると、水平が無茶苦茶、ピンボケではなく殆んどが手ブレ、3つ参りに出かけて写真を撮るようなコンデイションではなかった、その数日前の本願寺の銀杏や、二条城の紅葉は普通に撮れていた、オレもこの年になって、オヤジが紅葉の時期に、殆んど毎日のようにカメラ持参で出かけていた気持ちがようやく分かるようになってきた。 一昨日、「間もなく京の紅葉も見頃」、とこのブログで書いた、今日と明日が連休、22日、25日、28日が休み、この5日間でどこへ行こうと、考えながら書いていた、それともう一つ、仕事の関係で約1年の京都住まい、友達が京都見物にやってくる、その案内係をすると聞いている、このブログを読むかどうかは定かではないが、もし読んでくれたら何かの参考にと書いた、オレ自身行がこうと思う所ではなく、場所や時間的な問題で行かない所と思っていた真如堂、バスで行くか、マウンテンバイクで行くか、バスで行くとした交通渋滞がネック、マウンテンバイクで行くとしたら真如堂のある場所は黒谷、山というほどではないが小高い場所で、そこへいたるゆるやかな坂の道は知らない、その坂が問題で、今のオレの足とマウンテンバイクのチェーンのコンデイションでは無理で、北白川通りに止めて歩けば良いのだが、同じ場所に戻ってくるのが億劫で、ブログを書いたときには真如堂は今年はいかない事にしようと思っていた、ところが昨日の夕方の仕事の時に、マンションの住人さんの1人が、「夕方、黒谷のお寺に用事があって、真如堂の北門の前を通ると綺麗な紅葉、駐車場に車を止めて、暫く1人で紅葉見物、こんな綺麗な紅葉初めて見ました」、この住人さんは事業をしている女性で、物凄く表現力が豊か、だから少し割り引いて聞いておこう。 今朝はこの秋一番の冷え込み、日が照っていたかと思うと、急に暗くなって時雨、それが何度も繰り返し、この秋、初めてダウンのジャケットを着こんで家を出る、出た途端に時雨れだす、弁当は忘れても傘は持っている、傘を出せば忘れ物の元、帽子もかぶっていることだし濡れながら歩く、時雨がきつくなり、雨宿りをしながら、タバコを一服、平日という事もあって、西大路通の車が普段並、真如堂までバスに乗れば、約30分、昨日のマンションの住人さんの言葉を思い出す、時雨がやんで、信号を渡ると、真如堂方面へ行くバスが交差点で右折しかけている、「よし、真如堂へ行こう」、銀閣寺道のバス停で殆んどの人が降りて、同じほどの人が乗り込んでくる、そこから3駅で真如堂前、オレがたった1人そのバス停で降りて、歩道橋を渡って北白川通の西側へ、真如堂はこちら、矢印のついている道を、小さい河を渡ると、そこから急な坂、この坂を登りきるには2度ほど休憩が必要、何人かの人が真如堂へ向かう、先のやり過ごしてぽつんと1人になるのを待ってから、ユックリと坂を登りだす、左のふくらはぎと足首が張ってくる、一度休憩してタバコを一服吸ってから歩き出す、真如堂への石段の前で、また休憩、後から来た4人連れの女性のグループに追いつかれる、足を休めているなんて恰好が悪い、階段の反対側が開けている、東山の峰峯の紅葉を眺めているふりをする、「ここからの東山が綺麗やわァ~」、と横に来て東山を眺めている、ここでタバコに火をつける、煙を吐き出すと彼女達のほうに流れる、タバコは嫌とばかりに、「早く、行きましょう」、と石段のほうに向かう、悪いオレはニンマリ。 石段をユックリ、ユックリと登る、登りきったところで半ベソ状態、周りに誰もいないか見渡して、「アイタタ、イタイ」、と思わず痛さを声に出す、眼の前には渡り廊下の向うに真赤な紅葉、現金なもので、リュックからカメラを取り出すと、先ほどまでの足の痛さはどこへやら、今日の朝からの何度かの時雨でもみじの葉っぱが水にぬれて、新鮮でみずみずしく赤く紅葉して、輝いている、マンションの住人さんの真如堂の紅葉の表現は決してオーバーではなかった、南禅寺と永観堂は明日マウンテンバイクで行くとしよう、今日はここでユックリと、ここへ来ると2度ほどフイルムからのフイルム交換の時にふたが開かなくなったことがあった、戊辰戦争の時に殉死した会津藩士の霊だと思っていて、今日は先に帽子をとってから、手をあわせておいた、そのお陰で何事もなく家に辿り着いた、5日ほど前のブログに書いたぐらついている下の前歯、夕食後に歯を磨く時に、歯ブラシの先端が、この歯にこつんと当り、舌の上に硬いものが、歯が抜けてしまった、この歯が抜ける前に一つだけしておきたい事があったのに、残念。■「今日の言葉」■ 「 物や道具に感謝できる人は 働きをより大きく伸ばしていける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 18, 2010
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その昔、映画、「失楽園」、の中で主人公が最初に2人で食事をするときと、心中する前の食事、鴨とクレソンの鍋物、ワインはマルゴーの赤、この映画の後フレンチの店ではマルゴーのワインが倍の値段になった、鴨とクレソンは出会いものではない、これは2人の関係を表している、しかし2人がこの鍋を食べる時、鴨肉でクレソンを包み込むように口の中へ、クチャクチャというほど下品ではないが、ピチャピチャと、この食べる音が、この食べた後でのセックスに繋がる音のように聞こえ、口の中に鴨肉の脂が広がり、クレソンの苦味、この鍋が実に旨そう、カウンター割烹の店でこの鍋の話をすると、鴨はいいけど、この時期にクレソンは無理、クレソンの代わりに水菜、この次のこの鴨鍋を用意しましょう、「鴨と水菜だけにして、鴨はできるだけ薄切りで」、そしてその次に行った時に、鴨と水菜だけの鍋を食べた、鴨肉は薄切りをリクエスト、そのお陰で、さっと出汁にくぐらして、色が変わると引き上げる、鴨の脂が口の中に広がり、肉も柔らかい、出汁に鴨のうまみが出だしてくると、水菜が旨い、これも出汁に入れて、しゃきしゃき感がまだ残っているうちに、引き上げて食べる、鴨も旨いがこの水菜はさらに旨い、すぐに、「大将、水菜を追加」、薬味には山椒と冬場に鷹ゲ峰辺りの農家で栽培されている、おろし金でおろしても汁のでないような特別に辛い辛味大根、たっぷりと食べてから〆にはスープのたっぷり目の雑炊、このスープで飲んだお酒が気持ちよくまわる。 以来我が家の鍋物のメニューにこれが加わった、家では出汁は甘めのパックのうどんだし、鴨肉はどちらかといえば、水菜を食べるための出汁用、その日の夜に雑炊をしなければ、翌日の昼に蕎麦を入れる、この鍋の時に、ヨメがいつも言う、「鶏肉は食べないくせに、鴨肉は食べるとは」、ヨメからすると鍋物は洗い物がラクで、オレは雑炊好き、冬場は信楽焼きの土鍋が大活躍、最近は豚肉がうまくなって豚シャブが頻繁に、この豚肉が旨くなったお陰で、「今晩のおかずを何にする?」、「ハンバーグ、カレー、オムレツ」、であったのに1品加わった、「野菜と豚肉の蒸し焼き」、ホットプレートにキャベツ、玉葱、細切りのピーマン、もやし、その上に豚肉をかぶせて、軽く塩コショウ、そして蒸し焼きにして、これをポン酢で食べる、鍋物の出汁も豆乳、カレー、トマト、と種類も増えている、材料がセットになったちゃんこ鍋やうどん鍋、鍋物で無い日はオレの酒のあてに、湯豆腐、ふろふき大根、これは小の土鍋、最近ではキムチを入れてキムチ鍋というのもあるが、唐辛子の辛さにはめっぽう弱い、韓国バー通いの頃、韓国はキーセンの国、お客さんに食べさせるのが上手、オレは食事のときには食べながら飲むが、その後は一切食べない、ただ韓国バーでは、タイミングよく口に運ばれてくる、条件反射のように口を開く、それがなまこのキムチとか渡り蟹のキムチということもある、慌てて灰皿の吐き出す、そしてオネーさんに、「唐辛子の辛さはダメなんだ」、と言う、するとそれ以来は食べさせようとはしなくなる、良く気のまわる子はチヂミが出てくると、キムチをコップの水で洗ってから包んでオレの口へ、これぐらいなら食べる事が出来る、次はコップの水を替えてからキムチを洗って、チヂミに包んで口のほうへ、こうなるとオレの酒の飲み方のルールに反するが、その心使いに答えるために食べる事がある。 唐辛子の辛さには平気の韓国バーのオネーさん、蕎麦屋で蕎麦を食べる時、ワサビがダメ、ワサビは舌が痛くなると言って、全く受け付けない、唐辛子が全くダメで、ワサビや辛味大根は全く平気と言うオレにとって、不思議な気がした、会社の事務員の募集に珍しく若い女性が応募、彼女が応募の一番乗り、採用と決めていて、字は綺麗、電卓は早い、直ぐに採用します、「何日から来れますか」、「あの~、忘年会とかを不参加でもいいですか?」、「別に、それでもいいですが、何か理由がありますか?」、「知らない人と鍋物を食べるのが嫌なのです」、「分りました、君が会社にいる間は忘年会とか慰労会で鍋物はしないようにします、約束します」、「有難うございます」、という事で彼女の在職中の2年余り、忘年会や慰労会で鍋物をする事はなかった、彼女はもう40歳を過ぎていて、結婚もし、子供も出来て、今でもあまり知らない他所の人と鍋物をするのは嫌いだろうか。■「今日の言葉」■ 「 素直に聴く心がないと人は 本当のことを言ってくれない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 17, 2010
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ほんの2ケ月前まで、記録的な猛暑、酷暑、いつまで続く残暑、熱中症、こんな言葉が紙面を飾っていた、ところが今朝は冷え込みがきつく、朝食の時にガスストーブをつけて、「また、携帯カイロを買っといて」、四季があるということは、いくら暑い、長い夏でも、異常気象だなんだかんだといっても、終わりがあり、多少の長い短いはあるが、確実に秋がやってきて、そして冬がやってくる、街中の街路樹は今が紅葉の盛りで、緑、黄色、茶色、オレンジのグラデイエーションで街を飾ってくれている、どちらかと言えば不信心のオレ、お盆のお参りも、お彼岸のお参りも、保冷剤持参でも行く気になれず、パスをしていた、先日のヨメの誕生日に久し振りに花屋さんからシクラメンの鉢を届けてもらった、その日の夜に夕食後の食器洗いもした、その時、「象の背中」、という映画のことを思い出した、中年のサラリーマンが、癌の余命宣告を受ける、すると昔の些細な解決していない事、雨宿りしている時に赤い傘を貸してくれた女性にキチンとした御礼をしていない、実際に会ってみるとその女性はそういう事があったことも覚えていない、幼馴染と喧嘩をして、そのままになっている、その幼友達に会ってみると、その幼友達もそんなことは忘れている、余命宣告を受けてから、昔の未解決の些細な事を解決していこうと考える、遣り残した事や、未解決の事を生きている間に済ませておこうという、「死に仕度」というやつをする、その事を考えていると、急に久し振りにヨメに、「お参りに行こう」、その帰りに、「スーパーへ買い物に行こう、吉野家で牛丼も」、実は結婚以来約40年、一度もヨメと一緒にスーパーで買い物をしたことが無い、それと希少人種に近いだろうが、「牛丼も食った事が無い」、これを聞いたヨメは、「体調が悪いの?」、「いや、別に、ただオレの部屋の整理や、整頓を始めたら、いよいよ、死に支度かな」。 お参りといっても墓は無い、大谷祖廟、生憎12月まで改修工事中、花を供えて、ローソクと線香を手向けて、帰りは長楽寺のほうへ出て、この辺りのもみじがチラホラ紅葉、階段を降りて行くと、そこには立った坂本龍馬とひざまずいた中岡慎太郎の銅像、この前は修学旅行生とシニアクラブの人達でいっぱい、さすが、NHKの人気大河ドラマのすごさ、そこを人を掻き分けて円山公園に池の辺りへ行くと、池の周りの何本かのもみじが紅葉、色はきれいなみずみずしい赤ではなく、オレンジがかっているか、黒ずんでいて、葉が巻いていて、カリカリ、横を他府県から訪れた女性のグループが通り過ぎる、「わあ~、きれい」、と、すると、別にオレのセイではないが、こんなんできれいといわれると申し訳ない気持ちになり、「京都の紅葉はもっときれいですよ」、この10年余り、紅葉の時期には随分とあちこちの出かける機会が増えた、文化の日が過ぎるともううずうずとしてきて、早い紅葉の場所を探して、マウンテンバイクで出かける、オレの記憶の中での紅葉は、もっとみずみずしい、鮮やかな紅葉である、ただ、この10年間の間でも西賀茂車庫の近くの神光院、1本のおおきなもみじの木で、黄色、オレンジ、赤の見事なグラデイエーションに紅葉、この1本の木を撮る為に出かけたが、次の年に出かけると、木の勢いがなくなっていて見る影もなかくなっていた、また修学院離宮の奥のほうの赤山禅院、神仏混交の寺院で不思議な雰囲気の寺、この山は赤山と呼ばれているくらいだから紅葉の時期には山全体が赤くなる、ところがこの山にはもみじが多く、紅葉はしていたが黄色、オレンジばかりで赤山というよりもむしろ黄山という感じであった、記憶の中のみずみずしい、鮮やかな紅葉を毎年探しているが、残念ながらまだ見ていない。 この10年間の間でも紅葉の時期が遅くなっているのがわかる、11月の中旬までは紅葉を探して出歩かなくなってきている、勤労感謝の日を挟んだ最後の連休が紅葉の見頃になっている、ただこの連休の時の人出が問題で、物凄い交通渋滞で、ある時など永観堂に入る時に見かけた派手な車、中で2時間ほど時間を過ごして出てくると、その車はその間に20メートルほど前へ進んだだけでであった、また家から真如堂までバスに乗る、普段は30分ほど、それが2時間程かかって漸く到着、この物凄い交通渋滞を解消のために、「パーク・アンド・ライド作戦」、が行われている、大きな企業の広い駐車場、土・日・祝日は止める車は無く、ガランと空いている、その駐車場を会社の休みの日に格安にて解放、そこまでは車で行って、そこで車を駐車して、そこから先の観光地へは公共の乗り物で行きましょうという呼びかけ、徐々に認知はされてきているが、交通渋滞の緩和とまではいっていない、だからこの時期に出かける時には、専らマウンテンバイクを利用、市バスに乗るコースへ絶対に行かない事にしている、東山方面には銀閣寺から清水寺まである、朝から出かければ、車がすいている時間にバスで銀閣寺、そこから南へ清水寺までのコース、これは一日ではきついコース、どこも結果として、ユックリと観光が出来ない、地下鉄の東西線に乗って蹴上で降りてここから北へ行くか、南へ行くか、そのいずれか。 北へ行くなら蹴上から南禅寺、永観堂、哲学に道に出て、この道の西側に階段を降りた所に若王子というカフェ、店の中に犬や猫、鶏が出入りする店で、新撰組のブームに火をつけた栗塚旭が経営する店で仕事が休みの日には本人も店へ年配のフアンのお客さんも多い、声が矢鱈によく通る、大柄な、頭のはげたオッサン、ここでチョッとコーヒーでも飲んで休憩して、哲学の道を北へ、霊鑑寺、安楽寺、ここへ外から見る程度、法然院、苔むした茅葺の山門、門の傍にもみじの木、しかしこの辺りは日のあたらない場所と見えて、このもみじの木が紅葉しているのを見た事が無い、そして最後が銀閣寺、ここで拝観が終わるともう夕暮れ、蹴上から南のコースとなると、永観堂から南禅寺、青蓮院、ここは外からは想像できないが、庭に入るともみじの気が沢山、知恩院の前を通り過ぎて八坂神社を通り抜け、ネネの道に出てすぐに高台寺、霊山観音の前を通り過ぎて、産寧坂、ここに京都のコーヒーショップの老舗のイノダの店がある、店の奥が大きなガラス窓、その向うに古い茶室があり、小さな池も、池の傍らにもみじの木、この木が結構みずみずしく、鮮やかに紅葉する、コーヒーを飲みながら休憩するのにお勧め、一休みした後は、一層急になる産寧坂を上りきると清水道、左に曲がり、坂を上ると清水寺、清水の舞台から西を見ると夕日が西山に沈みかける時刻。 この勤労感謝の日を挟んだ最後の連休、嵐電に乗れば約20分で嵐山、この時間は確実、だから嵐山へ行く機会が増えた、駅前から暫くの間は、人が多く、その中を人力車、歩くのに渋滞、嵐山では一番遠くにあたる化野念仏寺、ここは本堂の前に床机が出されていて、灰皿がおいてある、嵐山界隈のお寺には喫煙所が設けてあって、タバコを吸う物にとってはありがたい、タバコを吸いながらユックリと紅葉見物、ただ西山のすぐ近く、午後3時が過ぎると日がかげる、すると先ほどまで歩いて汗ばんでいたからだが急に冷えだしてくる、嵐山駅まで戻る途中で必ず寄るのが、常寂光寺、日の光がなくなっていて、ここだけもう一度で直す事がある、と京都以外の人や京都に不案内の人が京の紅葉めぐりをする時用に書いている、半日で数箇所を回れる場所へ行くべきで、いくら更新を頻繁に行われている、「びらりと京都」、のサイト見て出かけても早すぎたり、遅すぎたという事がある、数ケ所を回るとそのどこかにあたりがあるもので、京都の紅葉を満足する事が出来る。 例年、紅葉の頃には5度ほど出かけている、定番のように毎年行く場所、今まで紅葉の時期に行ったことのない場所、昨年も桜の季節にはよく行く醍醐寺、地下鉄東西線で行くのに便利になった、しかし紅葉の季節には初めて、広い境内の一番奥の弁天池、この池の周りにはもみじとドウダンツツジ、両方が真っ赤に紅葉していて、池が燃えているように真っ赤であった、最近はフットワークが鈍って、1ケ所しかまわれ無い事も多く、京阪沿線の東福寺、マウンテンバイクで行ける、二条城と金閣寺と大徳寺、特に大徳寺の中の、細川ガラシャ婦人の墓がある、高桐院、ここの散紅葉が素晴らしい、もみじが終わる頃に行くと良い、阪急電車と阪急バスで行くことができる善峰寺、地下鉄東西線でいける山科の毘沙門堂、そして黒谷の金戒光明寺、そこの真如堂、ここへは市バスでは行く気にならない、しかし今の足ではマウンテンバイクで急な坂を登る自信がない、将来、電動アシスト付きのマウンテンバイクを買うまでの辛抱。■「今日の言葉」■ 「 自分の立場を見極めることで 今何をなすべきかはっきり見えてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 16, 2010
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先日、WBCスパーウエルター級王座決定戦がフイリッピンのマニー・パッキャオとメキシコのアントニオ・マルガリートの間で争われた、結果はパッキャオから初回からスピードのある、的確で、強いパンチをあて続けて、両目の周りを腫れ上がらせて、パンチが見えにくくなったマルガリートを終始攻め続けて、終盤にはKO寸前にまで追い詰めて、大差の判定勝ちでチャンピオンとなり、パウンド・フォー・パウンドを制し、6階級制覇の偉業を成し遂げた。 とこう書くと、一見ブログで書くような試合でない内容に思えるが、パッキャオはフイリピンでフライ級のチャンピオンになり、防衛に失敗し、試合の本拠地をフイリッピンからアメリカに移して、数回級クラスを上げて、アメリカのリングにデビュー、息の良い倒しっぷりで人気が急上昇、当時そのクラスにはメキシコの人気実力とも兼ね備えた、強豪の、マルコ・アントニオ・バレラ、エリック・モラレス、ファン・マニュエル・マルケス、実績と体格で劣るパッキャオが圧倒的に不利の予想の中で、次々と番狂わせとも言える勝利を収めて、一時期はメキシカンキラーとも呼ばれて、人気実力を兼ね備えた超スーパースターボクサーになる、組まれるビッグマッチの相手は上のクラスの強豪が殆んどで、フライ級で出発したボクサーが、どの階級まで戦え、勝つ事ができるか、オスカー・デ・ラ・ホーヤを引退にまで追い込み、リッキー・ハットンを倒し、ミゲール・コットを倒し、ウエルター級のチャンピオンに、実に9階級上のクラスの5階級制覇を成し遂げた、無敗のまま現役を引退していていたフロイド・メイウエザーにカムバックの決意をさせて、その試合が今年の年末くらいに実現の予定であった、マネージメントのもつれとメイウエザーの私生活の事件とで、この一戦が中に浮いた間の状態の中、母国では英雄のパッキャオはフイリッピンの政界へ進出し国会議員に当選し、その後の初めて組まれた試合でもあった、アメリカへ本拠を移して名伯楽のフレデイ・ローチと出会い、確実に一戦ごとに確実に進化している、左右に小刻みに動き、そのどこからでも素早く飛び込めるフットワーク、サウスポーからの構えから鋭く飛び込み、左右のどのパンチもノーモーションで、的確で強く、相手が予期する寸前にヒット、相手のダメージも倍化、柔軟でゴムまりのような身体、その上に絶えず柔らかいフットワーク、階級をあげるにつれて相手のパンチ力も強くなっているが、身体とそのフットワークで衝撃を緩める役目を果たしていて打たれ強く、普段の猛トレーニングの成果で12ラウンドをフルに動き回っても疲れないタフネスさと、ファイテイングスピリットの旺盛な精神力とボクシングの戦いが楽しくて仕様がない、唯一、マルガリート戦のフアンは母国の国会議員に当選による生活の変化によるコンデイションつくりのミスとボクシングへの情熱、これである。 対戦者のマルガリート、長くウエルター級のチャンピオンの君臨、身長は高いがこのクラスがナチュラルなクラス、ただパッキャオに比べてビッグマッチが少ない、これはマルガリートが無類のタフネス、好戦的な性格で遠い距離から長いパンチを繰り出し、ワン・ツーを当ててロープにつめると、そこから長い距離からのパンチの連打、そのパンチも連打するに連れてスピードアップし、威力を増す、倒しきるまでの凄まじい連打、この攻撃を恐れてなかなかビッグマッチの相手が見つからなかった、これがその理由でもある、ようやくコットと始めてともいえるビッグマッチ、序盤はコットの強いパンチを受けてリードされるが、早いラウンドでコットのパンチでは倒されないと見切り、前半と中盤にたとえコットにリードされていても終盤には確実につかまえて倒しきる、その戦法どおりに終盤にコットを倒しきった、そして昨年、シェーン・モズリーとの一戦でも同じ戦法、序盤から鋭いモズリーの強打を浴び続けて、ダメージの蓄積が多く、終盤の勝負どころで、逆にモズリーの強打の連打で止めを刺された、この試合のダメージが大きく暫く試合間隔が空いていた、どこまでそのダメージが回復しているか、序盤にパッキャオにパンチを打たれる事は予想される、そのダメージを最小限にとどめて、疲れの出てきたパッキャオを終盤にロープにつめて、つかまえる事ができるか、たとえ9ラウンドポイントをとられ続けていても、10回にワンチャンスで勝負を決める、ここがポイント。 1ラウンド開始のゴングがなる、両者リング中央に出来て向き合う、マルガリートが身長差11センチ、リーチの長さも随分と違う、体格差が感じる、パッキャオが出てくるまでは長年のボクシング界の常識、大きいほうが強い、この常識を覆した本人がそこに、時計の振り子のように左右に素早いフットワークを使う、パッキャオのこういうフットワークは防御のにおいよりも、どこから飛び込もうかの攻撃のにおいがする、マルガリートはモズリー戦の教訓から、いつもよりも両拳を上げてガードを固めて、身体を寄せてプレッシャーを掛けていく、左右に動くフットワークが止まった瞬間にパッキャオは飛び込み、ノーモーションでパンチ、マルガリートのガードを固めた拳の間を貫く、無反応のままパンチを食う、応じるように長いワン・ツー、パッキャオはすでにバックステップで、射程圏の外へ、パッキャオのノーモーションのパンチ、マルガリートにはまるっきり見えていない、攻め込むと、ロープ際につまりはするが、パッキャオは素早いフットワークで回り込む、パッキャオはパンチを当てて、さっっ距離をとる、ロープにつめるマルガリートに威圧感と迫力がある、有効なパンチは圧倒的にパッキャオ。 同じような展開が続く、マルガリートは元来好戦的、パッキャオのパンチを何発も受けている、そのパンチの威力も肌で感じている、ここで勇敢なメキシカンは中盤までいくらポイントをリードされても、終盤にきっとチャンスが来る、と確信したように強いパンチを打たれても、にやりと不気味な笑い、打ち合いに引きこもうと、パンチを多く出しだす、連打をすると、初回には高く上げてガードしていた両拳が攻撃に、そのガードの隙間を的確に強いパッキャオのパンチが直撃、マルガリートの右目の下が大きくはれだす、これだけでパッキャオのパンチ力を証明、マルガリートは右目を狙い撃ちされないように右の拳をあげ、そのガードに神経を配る、こうなるとボデイに隙が、マルガリートのコブのように割れた腹筋のその間を突き刺すようにパッキャオのボデイブロウ、ボデイブロウが当たる前に一瞬、腹筋に力を入れて、パンチ力を殺す、そこはパッキャオのパンチはボデイブロウでもノーモーション、構えたその位置からまっすぐに、腹筋に力を込めるよりも早くパンチがボデイに、身体全体で唸り声を出すように、身体を折り曲げ、腰が落ちる、歯を食いしばってマルガリートはこらえる、ボデイが効いたのが分るパッキャオはパンチをボデイに集中、そのたびに上半身をくの字に折り曲げてこらえる、こらえるだけでなくパッキャオのボデイブロウにあわせるようにカウンターのパンチを振るう。 中盤はマルガリートはパッキャオをロープにつめて、体力で押し切ろうと攻撃を仕掛ける、パンキャオはロープに詰まりながらも、マルガリートの連打に間にカウンターを打ち抜き、直ぐに回り込む、一度、何度目かのこのようなマルガリートの攻撃中に右のわき腹にマルガリートのパンチがあたる、このパンチが効いて3段目のロープに腰をけるようにしてかがみこむ、やっと待ち続けたマルガリートにチャンスが到来、パッキャオは徹底的にフットワークを使ってマルガリートの攻撃をかわす、ただ追いかけるマルガリートのスタミナにかげり、打たれ強さの自信、タフネスさの自信、それ以上にここまでのパッキャオの攻撃が勝っていて、一気にロープに追い込んでフィニッシュ、その気持ちは強いのだが、逆にパッキャオの連打で棒立ちになる場面も、マルガリートの右の目の下の腫れがどんどん大きくなって右目がふさがり、右目が見えない状態、さらに数ラウンド前から左目の下も腫れだしてきて、初めからパッキャオのノーモーションのパンチが見えていなかったのだが、終盤になって視覚的にも見えなくなって、10ラウンドあたりからレフリーが盛んにマルガリートの目のチェックを行う、無類のタフネスのマルガリートだからこそ、試合会場がダラス・カウボーイズのフットボールスタジアムで6万人の観客の前、もう勝負は決しているようなもの、マルガリートがロープにつめて攻撃を仕掛けるにしてもダメージがひど過ぎる、それでも倒れないボクサーの意地、もう止めるべきと思いながらも、ここで止められれば悔いが残るだろう、そんな思いで最終回の終了のゴングを聞かせてやりたい、11ラウンドのパッキャオの今日一番の右が決まる、マルガリートは大きくぐらつく、KO寸前、ふらつきながら11ラウンドす終了後コーナーへ戻る、コーナーでは意見が分かれていた、裏返ったような声の叫び、「もう辞めさせよう」、コーナーポストに頭を持たれかけて、両目は腫れでふさがったようなマルガリートは、つぶやくように、「止めるな」、12ラウンド開始のゴングが鳴り、ふらつきながらコーナーを出るマルガリート、パッキャオのパンチが1発決まれば試合は終わるだろうと思われたのだが、11ラウンドまでの激しい動きでスタミナ切れか、パッキャオは殆んど手を出さないで、フットワークを使って動くだけであった、自分の攻撃をこれだけ耐え抜いたマルガリートに立ったまま12ラウンドの終了のゴングを聞かせてあげよう、武士の情けのように感じた、一方的な判定ながら、ボクシングの醍醐味、次の瞬間に何かか起きる、そんな12ラウンドの死闘であった。■「今日の言葉」■ 「 国があってこその個人の生活 である国の恩恵に感謝しよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 15, 2010
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管理人をしている鴨川西岸、丸太町より少し南の7階建ての仕事場のマンション、朝はまず7階まで上がり、上の階からエントランスの窓を開けて、各戸のエントランスに出されているゴミの回収と巡回、7階でエレベーターを降りると、左手に、東側に硝子の大きな、幅の広い窓、4月の桜の季節と紅葉のこの時期に、約2週間ほど、真下に鴨川、やや左に、真直ぐに冷泉通が東に伸びていて、疎水が東から鴨川に流れ込み、鴨川の西側に二条から五条までに間に川床が出されている禊川が始まり、以前は雨が降るとぬかるみの河原だったのが地元の人達の熱意が通り、今ではきれいに整備された河川敷公園、こんもりと盛り上げられたところに大きなセンダンの木、北には大きな銀杏の木、丸太町橋の西南角には旧電電公社賀茂局のレトロな洋館、鴨川の北の北山には8月15日の大文字の、「妙法」、の、「法」、が見え、数日前からの季節外れの黄砂の飛来で、霞んでいるが比叡山から、大文字の如意ゲ嶽、緩やかな稜線を見せる東山三十六峰、ただ残念な事に黄砂のために東山の紅葉の様子は見えない、それでも春に目を楽しませてくれた鴨川東岸の桜並木、冷泉通の桜並木、赤みを帯びた茶色に紅葉、並木の銀杏やお寺の大きな銀杏も黄色く、柳の木は深い緑色、緑、黄緑、木、オレンジ、赤茶、のグラデエーションが広がっている。 東山は黄砂で霞んでいるが、麓のほうは良く見える、こんもりとした小山の吉田山、その左となりにさらに低い小山、黒谷、ここには、「ラストサムライ」、のロケによく使われた金戒光明寺、その大きな山門が見え、真如堂の塔等も見える、東山の麓には銀閣寺、永観堂、南禅寺、手前のほうに平安神宮の大鳥居の一番上の部分の一部も見え、知恩院、霊山観音像、八坂の五重塔、そして清水寺、それぞれの山門や本堂や五重塔が見ることができる、これが目の前に広がるパノラマのような景色、家を出てコンビニで、コンビニで、「黒酢にんにく」、のドリンクをグイット飲んで、元気付け、コンビニ前を大柄な女性が大またで、赤いキャーリー付きの重そうなスーツケースを引きずって前を歩いている、信号待ちで横に並んだ時に、「おはよう」、と声をかけると、一瞬驚いたように横を見て、そして満面の笑み、「おはようございます」、彼女とは3年前の梅雨の頃、オレが西院フェスのポスター貼りをしていると、「フリーマーケットのブースはまだ残っていますか?」、フリーマーケットのブースが埋まらずに苦労している時で、神の導きのような気がして、「まだあいていますよ」、「申し込みはインターネットで」、「友達に頼んで申し込みをします、ブースを1つキープして置いてください」、数日後にインタネットで申し込みがあり、ただ残念な事にその年の初日のフリーマーケットの日が8月の入っても梅雨があけ切らずに、午前6時の気象予報では、その日の午後の降水確率が90%となっていたために止む無く中止という事になった、日本人というよりも東南アジアの女性のような雰囲気で、身長は170センチくらいのスッピン美人のためにオレはよく覚えていた。 月に何度か日曜日の出勤の日、午前8時にバス停へ行く、時折、大きなスーツケースを曳きづったり、大きなバックを下げたり、凄いのは大きな荷物を頭の上にのせたり、今日は髪の毛をスカーフで包んでいたが、陽射しの強い頃にはベトナム人が被るような天辺がとがった傘を被ったりしている時もある、あちこちのフリーマーケットに出展するためのようで、フリーマーケット日焼けで色は黒く、いつも化粧はしていないが、なかなか良い顔立ち、スタイルも良い、そして女性ながら逞しくて、元気が良い、自分の手作りの服を販売しているらしい、店に収めたり、フリーマーケットで自分で売ったりして生活をしている様子、「今日はどこ」、「枚方です、ジャズフェステイバルも開催です、一緒に行きましょうか」、「日曜日にここで会う時は仕事です、残念ながら」、カーキー色の巻きスカート、左右に大きな外ポケット、後にもウエストポーチ風の大きなポケット、「そのスカートも手作り?」、「今日はこれが売り物で、この後のポケットにスカート全体も入るのです」、「部屋に本縫いミシンとオーバーロックミシンがあるの」、「殆どその2台で作っています、繊維関係の人」、「昔はね、アウターではなく、ナイトウエアーの」、「もっと話がしたいのに、こんな時に限ってバスが早く来る、チクショウ、行って来ます」、「おきばりやす」、ヨッコラショと掛け声をかけて重いスーツケースを持ち上げて、「一度ユックリ話をしましょう」、バスの中に消えていった、コンビニで飲んだ黒酢にんにくよりも彼女の元気をもらったようだ。 紅葉のシーズンよりもはるかに桜のシーズンの方が好きだったが、最近では逆になってきて、何年か前にテレビ番組で系列の地方局からその地の紅葉自慢の風景で、丹波篠山の紅葉中継で、きれいな紅葉風景と、そこの流されていた河島英五の、「時代おくれ」、紅葉の風景と歌の歌詞、オレはどうやらほんの少し器用に生きすぎたか、そんな事を考えると涙がハラハラと流れてきた、以来、山の紅葉風景が流れてくると、それを見ているだけで胸が詰まってきたりする。■「今日の言葉」■ 「 きちんとした躾が土台となって 子供の個性が輝いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 14, 2010
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大学を卒業して以来、1999年10月に会社を整理するまでの間、一貫して人手不足時代を過ごしてきた、だから会社経営も9人で野球をする機会はなく、8人、7人、時には6人で野球をせざるを得なかった、マルチプレイアーといえば聞こえはいいが、背に腹はかえられぬられぬとばかりに、社長のオレが兼任する事になる、その6人のうちの1人が辞めるとなるとさすがにあせる、すぐに職安へ募集をかける、求職に来た人の面接はオレの仕事、面接のプロでもなく、面接の勉強をしたわけでもない、5分や10分くらいの面接で人を見分ける自信もない、たまたまわが社へ求職のために来てくれる人は全員が良い人ばかりで、完全な性善説、だから一番初めに来てくれた人を迷わず採用、但し一つだけ条件があった、持参の履歴書に行く先は零細企業という安易さからか、写真が貼り付けていない事がある、こういう履歴書持参の人には、「どこかで写真を撮って、貼り付けてきたら面接をしましょう」、という、オレは写真をすぐに撮って、貼り付けてきたら面接をして、その人を採用するつもりであったのだが、こういう場合に出直してくる人はいなかった。 事務員さんが辞めた後、2ケ月ほど人が見つからず、次の事務員さんが見つかるまで事務員さんの仕事した事があった、元々、ボールペンを固く握って、親の仇のように筆圧を強く書くタチで、当時は複写枚数の多い、ノーカーボン紙の伝票が多く、1時間もこの伝票を発行し続けていると、ちょっとタバコを吸うために休憩と思っても、ボールペンを握った右手が開かない、左手で指を開いてから、漸くボールペンを離す事が出来た、こんな事を2ケ月間、ついに頚椎にダメージ、これに懲りて、次の事務員さんが辞めるとき、次を早く見つけるから、それまで早めないでほしいとお願い、職安に出す求人票、事務職1名募集、女性、年齢45歳未満、今までは35歳未満としていたところを年齢制限を45歳にまで引き上げた、職安に求人票を持って行った夕方に職安の担当者から電話がかかってきて、「御社の女性の事務職1名募集、年齢45歳未満の件に関してですが、女性事務職の求人の殆どが年齢35歳未満の条件で、35歳以上の女性の事務職の求職希望の人が大勢あって、長い間、面接に行く会社も無くただ待っていただいている状態です、兎に角2、3日の間で20人ほど面接してもらえないでしょうか、尚年齢制限以上の年齢の方の面接もお願いします」、求職に誰も来ないのも困るが、1人募集に20人もの面接も困る、実際に面接してみて、50歳以上の人も数人、全員が働かなければならない事情を抱えていて、会社勤めをしていたが親の介護でやめざるを得ずに、退社して親の介護、その親を看取った後に、婚期も逃して、職探し、真剣な求職、事務職経験も豊富、面接した全ての人を採用したい、そんな気持ちにさせられた、その約20人の中から、たった1人の採用、初めて味わうありがたい苦しみ、面接した中の1人が、面接さえなかなかいけない、面接しても不採用、不採用の場合は後日履歴書を返送とある、「今は事務員さんが居られない、お手を煩わすのも申し訳ないので」、ということで履歴書返送用に自分の住所の宛名書きした封筒を渡された、採用の決め手はこの事であった。 バブル期の頃、得意先の仕入れ担当者、その得意先では事務職とデザイナーが女性であったのだが、極端な男性社員の求人難、そこで女性の仕入れ担当者が採用されるようになった、MDと呼ばれて、申し合わせたように黒の生地の悪い、仕立ての悪い、パンタロンスーツ、このスタイルだといかにもキャリアウーマンのイメージになる、彼女達の商売の癖のようなものが共通、原料の仕入先、付属品の仕入先には一応敬意を持ち、メーカーを一段見下げた相手という態度、これが嫌いであった、モノポリーの素材で製造委託、その素材が全て消化を出来ずに次のシーズンの素材の手当て、2年もするとメーカーにかなりの量のモノポリーの素材の残生地がデッドストック、それだけではない、ネーム、下げ札、袋類などにも拘る、拘るだけならいいのだが、10年分くらいを一気に発注、その全てをメーカーの在庫にさせる、その在庫を全て消化する事無く、デザインの変更、そして数年で売上不振のためにそのブランドを中止、メーカーに大量のモノポリーの素材と副資材の在庫が残る、下手をすると会社を潰されかねない、だから女性のMDさんとの商談は避けていた、それでも新ブランドの立ち上げ、担当は女性のMDさん、そのメーカーとして白羽の矢、女性のMDは共通して、高そうなシステム手帳を商談の時に持参、オレは手帳というものは持たないタチで、書かなくて記憶するタイプ、商談中に話している相手の顔を見ずにしきりにシステム手帳に書き込み、別段、大事な事は話していないはず、何をそんなに書く事が、そんな事を思いながら商談を終える、長年商売をしていた仕入れ担当者がそのMDさんの上司、そのMDさんから、新ブランドの立ち上げのメーカーとしての報告、無条件でその新ブランドの製品の製造を引き受けたと報告、長年商売をしてきた経験から、オレが今の企画の段階から無条件で製造を引き受けることは考えられない、企画がもう少しに詰まったところで採算が合わなければ、断るかも知れない、その時点で想像される不利になりそうな条件には、いくつかの条件をつけているはず、おかしいと思って確認の電話がその上司からかかってきた、上司がおかしいと思ったことは的を得ていた、「商談中にあれだけメモを取っていて、何故もっと正確に報告が出来ないのか?」、「メモを取る事に一生懸命で、顔も見ず、話を聞かずに、書く事に集中、商談が終わった後で、メモを見直すことも無く、暫く時間が経ってから報告、多分そのセイだと思う、それまでは週に2、3度大阪へ、仕入れ担当者とはアポイント無しで商談、それが普通だという認識、ところが女性のMDさんはアポイントがなければ商談をしないというルールを作る、その癖に、次の商談日時をアポイント、そのシステム手帳のダイアリーにちゃんと書き込む、そのアポイントどおりに大阪へ出かけていくと、その時間には外出中、帰社時間は未定となっている、周りの人に聞いてみると、確かに手帳にこまめに書き込む、しかし書き込んだ後で読み消すということをしない、社内でもこういう事はよくある事、「あの分厚いシステム手帳はキャリアウーマンっぽく見せるアクセサリーかァ?」。 手帳は持たないと先に書いたが、手帳は持つが使わないというほうが正確である、自分の記憶力のキャパ内は記憶する習慣、キャパを越える部分はメモをする事にしてきた、机の引き出しの中に10数年分の手帳が残っている、そのどれもが1月から11月までは殆ど書き込みは何も無い、12月のダイアリーの仕事の日のところだけに、時間と場所と、カッコ書きの中に会の名前や人の名前が書いてある、同じ日に、時間が1時間ほどずれて、2つ書いてある、これらは忘年会の予定である、1日に2つ書いてあるのはたぶん忘年会のハシゴなのだろう、昭和の時代の手帳には12月23日や26日にも書き込みがあるが、平成になって23日が天皇誕生日で祝日、12月の忘年会の書き込みは22日で終わっている、その代わりに11月の末ぐらいから、忘年会の書き込みが始まっている、「12月は忘年会の予定がギッシリと詰まってしまった、肝心な人との忘年会を忘れていた」、「こちらも同じくや」、「11月にしましょう」、「11月なら日があるよ」、とこんな具合であった、12月の忘年会、京都での忘年会が殆ど、料理屋さんで、京都の12月の和食となると必ず、「蕪蒸し」、が出てくる、嫌いではないが、いくら好きでも5日も続くと、それも徐々に上等の料理屋さんの順にとなると良いのだが、往々にして逆の順序となる、すると5日目には、「もう、蕪蒸しはエエわァ~」、という事になる、その当時のツケが今回ってきている、昨年の12月にはその蕪蒸しとは縁が無かった。■「今日の言葉」■ 「 周りの働きに気付いたとき 自分の働きは一層生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 13, 2010
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下の前歯がぐらついてから随分久しい、もう1年以上、ぐらついたまま、力を入れればポロリと取れそうなほど、オヤジもお袋も歯症は悪かった、オヤジは40歳を前にして総入れ歯だった、元々歯が悪くて部分入れ歯をしていて、戦況が悪化するような予感、年齢、体格に関係なく、根こそぎ召集もありえる、召集されてから歯が痛み出したら、どうにもこうにもならないだろう、余程若い頃から歯痛に悩まされていたのだろう、という事で総入れ歯にしてしまった、ところが若くして総入れ歯、歯茎が尖って若い間に総入れ歯、歯茎がそういう状態の時に総入れ歯にしたので、総入れ歯が歯茎にぴったりとくっつき、90歳を過ぎる頃まで、大体の物は何でも食べることが出来た。 オレも克っては物凄い肩こりで、それが直ぐに歯痛になって表れた、ダステイン・ホフマンの、「マラソンマン」、という映画だったと思うが、何者かに拉致されて、歯に穴をあけて、そこを乱暴にグリグリされての拷問のシーン、それを見ているだけで歯が痛み出した事があった、また忘れもしない、1969年、7月のなかば過ぎにニール・アームストロング船長が乗り込んだアメリカの人工衛星、アポロ11号が月面着陸した、そのテレビ中継がされている日、その数日前から歯が痛み出していて、歯が痛み出した時には、直ぐに歯医者へ行く事がベスト、それが分りながら我慢、当時は大阪のメリヤス屋さんで、丁稚の修行中、会社の3階で20人ほどの寮生活中、寮生全員が月面着陸の瞬間をテレビで見るんだ、そんな中で、歯痛でのた打ち回っているオレだけが、午後11時頃に、トリスを飲んでから、寝心地の極めて悪い、スチール製の2段ベッドの上の段に、明日こそ歯医者へ行こうと心に決めながらもぐりこむ、しかし間もなく、トリスのセイで、神経が過敏になり、痛みが一層激しくなる、そこでまたトリスを飲む、ますます神経が過敏になり、顔半分を万力で締め上げられているような痛み、やがてトリスが覚めてきて、それと睡魔で、幾分痛みが和らいでくる、ウトウトとする、クーラーのない寮のために、夏はどの部屋の窓も開け放し、遠くで汽笛ではないが、マンションの鉄の扉の閉まる音、するとオレの歯の痛みに、ポッと微かに火がつき、その小さな炎が大きくなり、燃え盛って行くように、歯の痛みが大きくまして行く、やがてその痛みも自然に遠のいていく、やれこれで寝られると思った時に、またもや遠くでマンションの鉄の扉の閉まる音、そしてまた痛みが、その繰り返し、テレビの置いてある部屋が騒がしい、月面着陸が成功したのだろう、その頃は、打たれ続けて、耐え切れずにダウンしたボクサーのように、意識は朦朧、夏の早い朝が白みだす、午前9時、会社の近くの歯医者へ飛び込む、詰め物をしている歯のそのつめ物と歯に隙間が出来ていて、硬い物を噛んだ時に、その詰め物が梃子の原理で歯を真っ二つに割ってしまい、その根っこが化膿、「もうこの歯はどうしようもないです、抜きましょう」、とその歯を抜いて、小一時間もしないうちに昨日の痛みが嘘のように。 最近は肩がこらなくなった、だから歯の痛みに悩まされる事はなくなった、その代わりに、今ぐらついているは、間もなく、大きなくしゃみをした途端に、歯が飛び出すような抜け方をするのだろう、今まさに抜けんとする歯は下の前歯、笑った時には抜けたところが見える、部分入れ歯が出来上がるには時間がかかるだろう、今のマンションの管理人の仕事、笑顔も仕事の内、しかし笑いたくない、また話をする時に余り大きく口を開かない、元も声の通りが悪く、活舌も悪く、言語不明瞭気味、ますますそれに拍車がかかるだろう。■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきり持っていないと 努力は喜びでなく苦痛となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 12, 2010
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その昔、結核という病気は不治の病というイメージがあったのだが、過去の不治の病、治る病気、この病気に対する不安は感じなくなっていた、ただオレのお袋は娘時代に肺腺結核を患い、治療の末に完治、そしてその60年後、77歳の時に腸の腫瘍の手術、その腫瘍の真ん中に結核菌があった、体内に僅かに残っていて結核菌が、体内で息を潜めて生き残っていて、年齢による体力の衰え、抵抗力の衰え、それに反比例するように結核菌だ暴れだした結果でもあった、オレも終戦前、戦後の一時期の食糧難時代に、栄養失調から来る体力の低下、抵抗力の低下のために、肺腺結核に感染、完治するのに小学校に入学する頃までかかった、不整脈の診察のために、毎月一度病院で検査、約30年近く続いている、半年に一度、正面と真横からのレントゲン撮影、その3歳の頃に感染した肺腺結核の影が残っている、この事を考えた時に結核菌は実にしぶとい、怖い菌ともいえる。 この結核という病気、深窓の佳人の令嬢が、この病におかされる、小説やドラマの世界にホンの希にあるが、多くは、貧しい売れない小説家、女工哀史に見られる過酷な労働条件の下で働く事を与儀なくさせられた人、幼くして女衒に売られた遊郭で働く遊女、この病気には薄幸、貧困のイメージが付きまとう、過酷な労働条件の下に於いて、充分に栄養のある食事を摂る事無く、労働力の再生産をする事無く、厳しい労働を強いられる人々に残酷に忍び寄る悲劇的な病、現在の過労死のように突発的ではないが、その進行はもう少し緩やかではあるが、確実に死に近づく病。 最近のテレビのニュース番組で取り上げられていた、貧困ゆえに重症化する結核、体調に異常を感じながらも、病院へ行くお金の余裕がない、病院へ行くために休む事が出来ない、病院で結核と診断されてもここで入院すると仕事はクビになる、入院したくても出来ない、身体が動かなくなって始めて入院、この間に結核菌は空気感染をするために、結核菌をばら撒き感染者を増やし、入院した時にはすでに重症結核患者として入院、早期に発見された人よりもはるかに長く結核病棟での治療が必要とされる、また治療の効果が上って、無事に退院を迎える、しかし当人は結核病棟への入院中は入院費も、薬代も治療費も無料だが、退院するとすぐに、再就職の問題、生活費、退院しても当分の間は投薬治療で経過観察、薬代と定期診察代は実費負担である、非常に皮肉な事だが当人にとっては結核が完治して退院できる喜びよりも、退院後の生活、将来に於いての不安のほうがはるかに大きいという事になる、退院後の投薬治療、薬代が無いために体内の結核菌の全てがなくなるまで投薬治療を中断、そうすると体内に残された結核菌は多耐性菌となっているために、再び結核菌が増えると、薬の効かない結核菌のために次の治療が非常に長期になる、またその人が咳などによって空気中にばら撒く結核菌も、多耐性菌のために薬の効かない結核患者を増やす事になる。 結婚して子供が出来た家庭でもご主人が非正規雇用労働者、ギリギリの生活費を稼ぐために、2つの仕事を掛け持ち、これが長く続けば疲労が蓄積、体力の低下、抵抗力の低下、入院をしない、隔離されていない結核の羅病者の増加、当然のことながら、そいう人達の感染率も高くなる、それだけではない、家計を助けるために奥さんも仕事、保育園も、幼稚園も不足、民主党が掲げた子供手当も財源の確保の見通しが立たない、そんな社会情勢の中で、生活のために人妻ファッションヘルスで働く主婦も増加している、こういう主婦も結核の感染率も高くなり、子供やご主人の感染率も高くなる、管轄は厚生労働省、医療の事は厚生の分野、しかしそうとばかり入っていられない、貧しさ、貧困、イコール結核、となれば、貧困ゆえに重症化する結核患者、こうなるとこれは労働の分野ともいえる、日本国憲法に日本国民は健康で文化的な生活をする権利を有する、この日本国国家と日本国民との約束事が空々しく響く、現在は憲法改正の議論は一段落しているが、国会議員はこの憲法の国民との約束事を実現するための仕事を希望して止まない、オレも現在は人様の不幸に同情したり、哀れむ立場ではないのは承知しているが、貧困ゆえに重症化する結核患者、この現実を目の当たりにすると、こんな国にするために、長年にわたって、税金や社会保険料を支払い続けてきたわけではない、国、政府、国会議員に対して、大きな怒りさえ感じるのを禁じえない。■「今日の言葉」■ 「 人への不満が生じている時こそ 自分を省みる時である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 11, 2010
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尖閣諸島沖での中国漁船の日本の海上保安庁の巡視艇に対する体当たり事件のビデオ流出、ここ数日のマスコミの報道はビデオの流出の犯人探し、を大々的に報道、ここで使われている国民の知る権利、国民が本当に知りたいことはなんだろうと考えた時に、この事件の映像だろうか、この映像をユーチューブへ流した人は誰か、こんな事ではないと思う、尖閣諸島だけではなく、竹島に関しても、日本国政府は、「日本固有の国土」、とは言う、「何故、日本の固有の領土かという説明が要らないほど日本固有の領土」、という意味のようである、日本の教育レベルは世界で有数の高さである、こんな説明で納得する人いるはずがないのである、ただ悲しい事に、日本の義務教育の現場において、尖閣諸島、竹島について、それだけではなく領土問題、日本国の領土の意識、これらを学ぶ事がなく、しかもこれらの問題は非常にデリケートな問題だから教育の現場にふさわしくない、教育の現場で教えないことさえ正当化されている、だからこそこういう事件が起きた時に、マスコミが領土問題の真実と、中国と双方が主権を主張する尖閣諸島、韓国と双方が主権を主張する竹島、双方の言い分を公正に伝えるべきであって、中国のインターネットなどの書き込みで、「日本がごちゃごちゃ言うのなら武力で奪え」、こういう書き込みもあるようで、実際に中国海軍の戦艦が尖閣諸島を占領すれば、日本の海上自衛隊は自国領土の自衛のために自衛権を行使できるのか、本来なら国会で取り上げるべき問題であるが、与野党の国会議員の大きな関心は次の選挙の当落だけである、不毛の議論しかなされていない、こういうときにこそマスコミは、この事件の根底にある問題を提起し、その真実を国民に知らせる義務がある。 今から20年ほど前に韓国バーで遊んでいた時の、その店のマネージャー、長崎の大学に留学、1年間休学して京都でアルバイト、すらっと背が高く、男前で、言葉使いも丁寧で、ホテル関係の仕事を志望、店がヒマな時には席へ呼んで、お酒を飲ませて、韓国の話や、聞かれると京都の話などをしていて、ある時に竹島の話になった、「お客さんまで竹島は日本の領土というのですか?」、厳しい表情になって、「日本がこの小さな島の存在を知る前からこの島は韓国の島で、日本は韓国からいろんなものまで奪って、この島まで奪おうとしている」、悔しい事に、その当時は日本と韓国が領有権を争っている島程度の事しか知らなかった、彼のいう事にどう反論して良いのか分からなく、「君はこの島のことをどこで習い、どうして知った」、「みんな学校で習う事で、この島について僕だけが詳しく知っている事ではない」、こんな事は韓国では常識的な事だという、結構オレは執念深くて、しつこいタチだから、反論が出来なかった事が悔しくて、オレなりに、この竹島の事を調べてみた、韓国の古い地図に、日本海に幾つかの点がある、その古い地図の点がこの竹島だという、方角や、距離からいって、昔の時代の地図とはいえ、この地図に韓国の呼び名の独島という表記があるわけでもなく、この竹島が韓国の領土という主張には疑問点があり、しかもその後韓国は離島においては税の徴収が非常に困難を極めるために、また島民の生命財産を守るのが困難なために、離島への居住を禁止する国策を長くとった、船や航海術が未発達のために、長い間、日本海に浮かぶ孤島に過ぎなかった、江戸時代に入って島根の漁師が遭難してこの島に漂着をし、幕府にこの島への渡航許可を願い、漁の中継基地として利用するようになった、そして、1905年、明治政府は竹島を島根県に編入し国際法的にも日本の領土になった、しかし日本の敗戦後、GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外し、これを口実に1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる、「李承晩ライン」、を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得る事になり、これが日韓の竹島問題の始まりである、という事を知って、その彼に、「以前君と話をした竹島のことについて」、と切り出すと、少なからず、身構えるように、挑戦的な態度になる。 こういう領土問題は、「第三者にゆだねての決着は?」、すると、「これは第三者ぬゆだねる問題ではない」、その後は、「独島は韓国の領土」、と主張するのみ、「この問題はどうすれば解決する?」、「日本が韓国の領土と認めない限りは解決しない」、「君は日本が竹島を自国の領土と主張する根拠を知っていたか?」、「そんな事は知らない」、「世界のあちこちで領土問題というのは存在する、これを解決するにはどうすれば?」、「独島は領土問題ではない」、「もうやめよう」、とこの議論は中断ではなく、中止した、両国が固有の領土と主張しあえば、100年後でも解決しない、この島を共同統治をして、争いの島から、友好の島へと帰る事は、と言おうとしたが辞めにした。 この時に思ったことだが、韓国でのこの島に関する教育は決して正しいとは思わないが、日本の教育の現場に於いても、国会議員に於いても、「竹島は日本の固有の領土とは言うが」、それ以上は、デリケートな問題なので、と言う理由で、それ以上の説明もなければ、議論さえもなされない、これが正しいのかと言うと、決して韓国のようにとは思わないが、日本の教育の現場においても、第三者的に見て公平で、公平な事実を教える必要があるように思う、しかし、その後20年が経過するが、韓国は一方的に自国の領土であるという既成事実を積み重ねて来ているが、両国でこの島が論争になる時、「竹島は日本固有の領土である」、と言うだけである、今回の尖閣諸島の事件が発生以後、マスコミはワイドショー的に取り上げはするが、この尖閣諸島、竹島、この2つとは事情が違うが、北方4島の問題に横たわる、領土問題と、日本の領土について、それと国会議員は、日本固有の領土と言うが、ならばここで紛争が起きた時には、それは紛争ではなく、侵略であり、この侵略に対して日本の自衛隊は日本の領土防衛のために自衛権を行使は可能か、このあたりを議論、議論する切っ掛けを作る事がマスコミに課せられた義務のような気がする、マスコミの怠慢のような気がする。■「今日の言葉」■ 「 親の恩に気づいた時から 新たな人生が開けてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 10, 2010
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世界フェザー級チャンピオンのプエルトリコのファン・マニュエル・ロペスにメキシコのファン・マニュエル・マルケスの弟のラファエル・マルケスが挑戦、過去にプエルトリコとメキシコの対戦で幾多の名勝負、激闘が繰り広げられてきた、互いにKO率80%の強打者同士の対戦でこの試合もその一つに加えられるであろう好カード、全勝のロペス、サウスポー、右をまるでジャブを打つようにフックを打ち、しかもこの右一発で勝負をきめてしまうほどの強打で、彼のデイフェンスはこの右である、強打者でありながら右の手数も多く、猛獣使いが鞭で猛獣をコントロールする、まさにこれである、右のフックでダメージを与え、左の切り返しのフック、力一杯に振り回すというよりも、身体の回転で打っている、ただ最近の試合では、倒そうと力んで、身体の回転の軸がぶれていて、またチャンスと見てロープに押し込んで、連打、そこへ相手のカウンターで顎を大きく跳ね上げられて、膝ががくがくというシーンも増えている、相手のパンチが効いていても、強気で強引に打ち返してピンチを脱出、マルケスの強い左を受けても、例えそれが効いていても下がらずに打ち合いに挑むだろう、そこへマルケスの強い連打、顎を打ちぬかれて、初めてのキャンバスに倒れてテンカウントを聞くシーンも予想される。 マルケスはオーソドックスの構えから、遠い距離から強烈な左を打ち込み、ハンサムな顔に似合わず、至って好戦的な性格で、打ち合いを好む、同じメキシコのライバル、イスラエル・バスケスとのいずれもKO決着で、4戦戦い、3勝1敗で、バスケスに引導を渡した、この4戦の疲労とダメージが不安材料、もっと早くの試合予定であったが練習中に親指を故障して試合が延期された、この事が却って好コンデイションでリングに上る事が出来るだろう、ガードも固く試合の安定感では上、ロペスの全勝をストップするか、の興味がある。 1ラウンドの開始のゴングが鳴ると、マルケスはガード高く上げて、左を狙う、ロペスは柔らかい構えで、右フックをジャブのように繰り出す、全く力みが見られずに、軽く打っていく、それでもマルケスにはダメージ、両者の体格は体重、身長、リーチ、サイズ的には全く同じだが、ロペスの身体が一回り大きく見える、そのロペスの右がきれいにヒット、マルケスにはロペスの右が全く見えていない、ラウンドの終了間際にロペスの連打、2R、3R、4Rとロペスの右フックが目立つ、マルケスはプレッシャーを受けて下がらされる、ここまではロペスが各ラウンド1ポイントリード、5R、ロペスの攻撃がラフになり、攻め込んだところにマルケスの左がヒット、派手に顎を跳ね上げられて、膝がガクガク、チャンスと見て、マルケスが攻め込む、ロペスも応戦、もみ合ったところでレフリーが一時的に試合をストップ、1Rからマルケスはロペスがクリンチしながら打ったり、頭を押さえつけて打ったりに、対してレフリーに再三アピールをしていて、レフリーここでロペスに1点の減点を与える、この減点のために試合をとめていた、マルケスは減点で1ポイントを取る事が出来たが、その間にロペスのダメージが回復、マルケスにとってこの損得勘定は。 6R、マルケスがチャンスのはずだがロペスに攻め返される、この辺りで両者の体格差、体力差が出始め、ロペスの攻撃にマルケスは守勢、ダメージも蓄積、マルケスも時折きれいに左を当てるが、追い討ちをかけたと所だが、連打で打ち返される、ラウンドが進むにつれて、ロペスの連打攻撃の時間が長くなり、マルケスはダメージが大きくなっていく、8Rが終わり9Rの開始のゴングがなる前にマルケスは肩を痛めて、棄権を申し入れた、8R終了レフリーストップ、両者KO率8割の強打者同士の対決、結局1度のダウンの応酬も無かったが、それを補っても余りあるスリリングな打ち合いであった、年末には恒例の2010年度のベストバウトの選出がある、この試合はベストテンには入るだろう。■「今日の言葉」■ 「 自分から心を開く勇気が 不和や誤解を解いていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 9, 2010
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今朝の朝刊に、嶋原の、「嶋原貸席業組合」、の解散に伴い組合の余剰金を処分するために、実際には嶋原という地名は存在しなのだが、克っての島原の道を御影石調の舗装道路を作り、その通り初めとして、同地で唯一の現在も営業を続ける置屋兼お茶屋でもある、「輪違屋」、の如月太夫が2人のかむろを先頭に、浮き舟と日傘をさしかける男衆を従えて、白檀の3枚歯の独特の高げたを素足にはいて、内八文字歩きの太夫道中を行ったと出ていた、知っていれば昨日は休み、写真を撮りにいったのにという残念な想いと、この地にまだ組合が残っていたのかという驚きと、この組合が解散されれば、嶋原はどうなるのだろうかという不安を感じる。 組合というのは、オレが長く関わっていた、京都の繊維製品関係の組合で説明すると、戦前と戦後の昭和20年代にかけて、祇園当たりで派手な遊びをする人を見ると、「あの人は糸偏や、羽振りがエエ」、そういわれる時代もあった、大阪は1本の糸で編みたてた生地で製品を作るニット及びメリヤスが盛ん、京都は経糸と横糸で織る織物の生地での製品の布帛が盛ん、そこで戦前に京都で布帛の製品を扱う問屋、メーカー、工場の3業態が集まって、「京都布帛製品同盟会」、なる厳しい会を任意で結成、これは年2回、春の総会、秋の臨時総会と称して、1泊2日で、大手を振って、ドンちゃん騒ぎをして、ハメをはずして、幾つかの武勇伝をおこす会に参加するだけの会であり、この会で遊びだけではなく、お互いの仕事にプラスになるようなことが出来ればいいのに、そこで戦後に、中小、零細企業振興のために組合法がつられて、1959年、(昭和34年)、に京都の布帛製品を扱う業者の問屋、メーカー、工場の3業態、120数社が集まって、「京都布帛製品工業組合」が結成された、京都の繊維関係の他業種の組合で、染色関係の組合など、京都の地場産業でもあり、最盛期には組合員も多く、組合費も潤沢、そこで組合の事務局などの不動産も取得、繰越金を資産運用にまわして、組合の所有財産が増加、しかし時代の流れと共に京都の染色業も衰退、広い工場の敷地を利用して、染色業を廃業して、マンション業に転業、それでも組合費を払い続けて、染色業の組合員のママでいる、組合が豊富な資産を所有、組合が解散の時には多額の配当、それを期待しているのである、京都布帛製品工業組合も最盛期には京都産業会館内に事務局と専従職員を抱えていたが、組合員減少と共に、事務局家賃と専従職員の人件費を他の組合と割り勘、それでオレが理事長に就任した頃は、組合員数20数社、年間の組合費は事務局の家賃と、専従職員の人件費と、総会の費用でパー、これでは何も出来ないと組合の大リストラ、組合の事務局は理事長の会社内に置き、事務関係の作業は理事長の会社の事務員が処理、こうすると、乏しい組合費ながら、総会、臨時総会を開催しても、7、80万円の活動費が捻出できる、サアこれどのようにして組合員のために使おうかと議論を始めた矢先。 1999年、オレの会社の清算を決心、同時に組合の迷惑をかけないように理事長職を辞任、副理事長が残りの任期の間は理事長に就任という規則があるが、副理事長は、「理事長をしなければならないのなら組合を退会」、急遽、時期理事長決定のための臨時総会を開催、ところがこの時に次期理事長の受け手が無く、組合の解散動議が提出されて、議論は紛糾したが最終的に多数決の決議となって、圧倒的多数で以って組合の結成40年目にしての解散の議決となり、解散手続き終了で以ってオレの理事長の辞任となった、通産省へ組合の解散をしたい旨伝えると、解散届けと組合解散までの手続きを流れを書いた書類が送られてきて、まず解散届けを出す、管財人を任命して、組合の資産目録を作成し、臨時総会を招集して、組合資産の配分方法を決議し、組合の資産をゼロにする、そこで司法書士の手で法務局で組合解散の手続きをし、3ケ月以内にこれらの全てを終了し、これらの全ての書類を通産省へ送付、ここで始めて組合の解散が認められる、京都布帛製品工業組合は不動産などの資産は何もなく、組合費と商工中金の出資金10万円ののみであった、解散時の組合員19社に組合費の賦課金に応じて配当を決定、当然のことながら全組合員異議なし、この点に於いては非常に楽であった、嶋原貸席業組合の場合、最盛期に不動産などの資産を保有、組合の解散価値が高く、貸席業を廃業した組合員が存在すると、組合解散時の組合財産の処分方法でもめることが想定される、この組合解散時に貸席業を現在も営んでいるのが輪違屋、ただ1軒のみである、そして現役の組合員もただ1軒のみとする、と組合の資産は輪違屋のみがその配当を受ける、これをすると、こういう話には尾ひれがつき易い、組合を解散してだれそれがその資産を懐に入れた、この手の話は世間にゴロゴロ存在、組合の財産目録を作成、それを換金して、そのお金で世話になった島原の道を御影石調の舗装道路の費用に使う、なかなかきれいな組合の解散方法、輪違屋の当主は十数代目の当主、お金は一代でも稼ぎ方を覚えるが、お金の使い方を覚えるには3代かかる、まさにその通である。 嶋原のこの組合、貸席業とある、よく似た名前の席貸業というのもあるが、この2つは似てはいるが非なるもので、席貸業は空間スペースのレンタル業であり、旅館業やホテル業がこの業種に属する、貸席はその昔、「おちゃや」、と読んでいたのである、その空間スペースで、舞妓や芸妓を呼んで歌舞音曲を楽しむ場所が、「貸席(おちゃや)」、であり、時を経て、「お茶屋」、となった。■「今日の言葉」■ 「 相手の欠点を嫌がるよりも 自分に無い良さに気付こう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 8, 2010
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今まで随分多くの結婚式に出席している、かく言うオレも1971年10月21日に結婚式を挙げている、早いもので来年満40年を迎える、25年は銀婚式で、50年を金婚式という、これぐらいは知っているが、40年はなんだろうと調べてみると、ルビー婚式というらしい、ヨメに余計な事を言うと高くつきそうなので、再来年の41年目くらいの時に過去形でいう事にしよう、妹2人の3人兄弟で先に上の妹が挙式、次にオレで、最後に下の妹が挙式、全て同じホテルで、しかも披露宴の係りの主任が同じ人、披露宴の最中にその主任に、その事を言うと、「私も披露宴の途中から気がつきました、何となく見覚えのある人が」、と、その結婚式での主賓の挨拶を何度も聞いている、新郎側の主賓も、新婦側の主賓も、この時ばかりは褒めことばの羅列、途中でちょっとしたエピソードを挟んで、笑いを誘ったりして、最後に将来の幸せを願って、お祝いの言葉に代えさせていただきます、で締めくくり、こういう挨拶に慣れている人はまさに立て板に水の如く、また慣れていない人は、マイクを持つ手も震えて、言葉に詰まったり、かんだりで、しどろもどろ、聞いている人は挨拶が終わると、ホッと胸をなでおろし、わきの下や、手のひらに汗のにじむ思い、しかし、そのどの挨拶も内容は記憶には残っていないものである。 ある時期、仕事の関係で、組合の理事長や銀行の親睦会の会長で挨拶をする機会が増えた、その昔は別段あがり症ではなかったのだが、途中からあがり症、そのために、なかなかこの挨拶に慣れる事はなかった、ところが還暦を過ぎた頃から、これは他人に言わせると、老化現象の一つといわれるのだが、このあがり症が直ってきた、ところが活舌の悪さ、言語不明瞭さは治らず、兎に角、そういう時には出来るだけユックリと話すことを心がけるようになり、かって得意先の社長の告別式の折に公私とも親しかった台湾人の友人が弔辞を述べた、勿論、台湾の人ゆえに実にたどたどしい日本語で、生前の楽しかった思い出を語り、「さようなら、○○さん、ユックリ、休んでください」、それまで社葬などで何度も弔辞を聞く機会があったが、たどたどしい日本語での弔辞ゆえにかって記憶に残っている、上手く話すのではなく、気持ちを言葉に表し語れば良い、とこういう挨拶をしなければならない時に、それを心がけて、この時の台湾の人の弔辞を思い出す。 1年程前の結婚式で、招待状を送るので住所を教えて欲しいという電話があって、「披露宴の時に挨拶」、という依頼があって、その時には挨拶をする人がまだ、決まっていなくて、一応、オレには保険のつもりだろうと早合点をしていた、きっと挙式の日が近づいてくると、もう一度念押しの連絡があるだろうと勝手に思っていた、ところがその連絡が何もなしに、挙式の日を迎えた、やはりオレは保険で、会社の上司に依頼したのだろう、なければないでと思って、披露宴の会場へ行き、司会の人から、披露宴の式次第の紙を見せてもらった、すると乾杯の後で、新郎の主賓の挨拶のところにオレの名前が、そうか保険ではなく本線だったのか、まあ乾杯の後だし、ビールを何杯か飲んで挨拶、あがることはないだろう、いざという時には結婚式の挨拶の持ちネタがある、そのひとつをしよう、頭の中で、今日の新郎との係りを話して、お祝いの言葉を述べて、持ちネタを話して、最後に締めくくりの言葉、約3分半、実際にユックリと話せば5分だろう、乾杯の後、急ピッチでビールを3杯ほど、丁度気分がよくなったところで、司会者より指名、丁度挨拶をする場所は、会場が吹き抜けになっていて、降りてくる階段の途中の踊り場がそのスペースで、ちょっとしたステージ状態で、スポットライトがあたって、マイクのコンデイションもよく、普段の話し言葉をユックリと話して、気分良く挨拶をする事が出来た、披露宴の途中で司会者が、「ありきたりの新郎のエピソードではなくて、話がよかったです」。 その結婚式の挨拶の持ちネタというのは、「目の前の新郎、新婦の2人に愛が芽生えた時から、夢に見、憧れていた新郎、新婦としてのこの時を迎えられておめでとうございます、しかし新郎、新婦としての時間は人生においては悲しいほど短く、もう少しの時間で終わりを告げます、その後は夫、妻として、父、母として、比較的平凡で、退屈な時間を長く過ごす事にます、しかし幸福というものは、晴れやかな短い新郎、新婦としての時間にあるのではなく、平凡で、退屈で、長い、夫、妻、父、母としての時間の中にあるように思います、どうかその時間の中で幸福を2人して探し、見つけられることを祈りします」。■「今日の言葉」■ 「 心配事が多いのではない心配 する気持ちが強いのである 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 7, 2010
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シニアのコミュニテイで、10数年前にスタートした、「パワーウイングス」、というサイト、約10年間の活動を経て、スポンサー等々、諸般の事情によりサイトの閉鎖の予定となった、カメラアングルや様々なテーマの談話室を通じて、こういうインターネット上のコミュニテイながら、メンバーの多くがシニアと呼ばれる年齢で、ヴァーチャルの世界ながら、リアルな親近感も芽生え、この間に何度かのオフカイの開催を経て、より一層の親近感も芽生えて、同窓生のような親しみさえ覚え、メンバー同士はこれから先も長いお付き合い、そう考えていた矢先でのサイトの閉鎖の予定の発表、サイトの閉鎖の大きな理由は経済的な問題、サイトの継続を望むメンバーも多く、メンバーもサイトの運営にたづさわり、有料の正会員生を導入して、一時的にサイトを閉鎖して、「新生パワーウイングス」、として再スタートをする事になった。 再スタート後の今日が京都のオフ会、京都が2人、大阪、関東から参加、計8人が参加、まず祇園会館で祇園東の祇園踊りを見て、それから食事、普段はネットのサイト上での付き合い、実際にお目にかかるのが多い人で数度、殆んどが2、3度の顔合わせ、このオフ会の時にいつも不思議に思うのが、同級生のように、過去に数年間、濃密な時間を過ごした人とか、長く親しい付き合いをしていた人と同じような雰囲気、ネットの世界は基本的に性悪説に限りなく近い世界と理解をしている、しかし、このコミュニテイのメンバーにはそれが全く当てはまらないような気がする。 食事をして、飲んで、名残が尽きないながら午後10時にお開き、帰ってからの更新、幹事さん、出席の皆さん、有難うございました、楽しい一日でした。■「今日の言葉」■ 「 物に恵まれた生活より感謝を 湛えた生活に幸福がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 6, 2010
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年賀状は最近ではネットの印刷屋さんに依頼、1999年10月末に会社を整理、当然のことなが翌月の11月からは無給、57歳故に厚生年金受給まだ、銀行、国民金融公庫からの借り入れ残あり、工場のミシンとコピーの複合機のリース残あり、消費税の未払い残が2期分あり、会社は存続、社員はオレ1人、それでも社会保険料の請求が来る、お金に変えられるものは全て換金済み、会社の収入は何も無く、支出ばかりである、僅かな個人の貯えのお金で支払いを済ませていく、会社の55坪の土地と建物、その売却によって、負債がどれくらい圧縮できるか、個人的には家の生活費と約2、500万円余り残っている住宅ローンの返済、毎月約22万円余りの返済を約10万円ほどの減額した返済に切り替える、ただこの住宅ローンの返済をいつまで続けられるかは定かではない、任意売却か競売かのいずれかの方法で手放さざるを得ない、だから年賀状を出して、年明け早々に引越しの挨拶状を出さなければならないかもしれない、それを考えるとなかなか年賀状の印刷を依頼できない、約200枚ほど年賀状、その殆どが年賀状だけでのつながり、年賀状を出さないとその繋がりがたたれてしまう、それでもいいから出さないでおこう、と散々に迷いながらも12月の20日頃、ネットでまだ年賀状を受け付けているショップを探す、ネットショップ開業支援セミナーを一緒に受講した印刷屋さんがさすがに一番遅くまで注文を受けている、そこへ依頼、年々依頼が楽になってきてサイトが進化している、初めのころはデザインを選んで、必要事項を書き込む、それをレイアウトしてメールで確認、それが何年か前から、その場で確認が出来る、印刷の出来上がった年賀状が届くのが、12月の27、8日頃である、だからこの10年間は元旦につくことが無く、1月3日か4日ごろである、5年ほど前に住宅ローンは解決、引越しする必要が無くなった、それでも年賀状の印刷は年末ギリギリである、12月30日、31日の仕事中に宛名書きを済ませ、出さなかった先から来ている年賀状は元旦の仕事中に宛名書きをしている。 そのネットの印刷屋さんから喪中の葉書の受付のメールが来ていた、平成7年にはお袋の、平成14年にはオヤジの喪中の葉書を出した、それでも10枚やそこいらの年賀状は来ていた、喪中の者は喪中につき年末年始の挨拶は失礼するが、相手の人は喪中でもなんでもない、喪中の人宛に年賀状を送ったところでどうという事は無い、夢中の年の正月に届く僅かな枚数の年賀状、これって結構嬉しいものでもある、随分昔の事だが、妹の嫁ぎ先のお父さんが無くなり、喪中の年の正月、だんなの弟は仕事の都合で北海道で1人住まい、仕事は旅行関係、年末年始は忙しいので、京都へ帰省せずに、正月の7日過ぎに帰省の予定と連絡がった、4日の日に帰ってくる日の都合を聞こうと連絡するが、電話を何度かけても連絡がとれず、会社も休んでいる、旦那が北海道へ行き、マンションの中に入ると、洋服ダンスの引き出しにネクタイをはさんで、それを首にかけて亡くなっていた、自殺の遺書も心当たりも無く、部屋にはその年の年賀状が1枚も来ていなかった。 何年か前までは、送られてくる喪中の葉書は祖父母、或いは両親の喪中の葉書であったが、最近では当人の奥さんから送られてくることが随分と増えた、お通夜や告別式に会葬した人はそうでもないが、遠くに住んでいたり、一時的に疎遠であったりで、喪中の葉書で始めて知らされた時には、後からいきなり頭をガツンと殴られたような気分になることもある、大学時代の4年間、麻雀と喫茶店での議論、濃密に顔を合わせていた友達も、卒業した当初は度々顔を合わせていても、一通り全員が結婚をして、子供が出来ると全く会わなくなる、そして毎年の年賀状に、「今年こそ、一度会おう」、と書きながら、還暦が済んでユックリする頃まで無理だろう、そう思いながら、心の隅には合いたいと言う気持ち、それがあるから毎年同じ文句を書いている、丁度厄年の正月に大学時代の友達の奥さん、彼の喪中の葉書が送られてきた、毎年年賀状に書くだけではなく、実際に会って、酒を酌み交わし、話をしておけばよかった、この時の衝撃は大きく、毎年、年末の喪中の葉書が来る頃には彼の事を思い出して、そしてその年以来年賀状に、「今年こそ、一度会いましょう」、と書き込むことは無くなった。■「今日の言葉」■ 「 最後までやると心を決めれば 成し遂げる工夫が湧いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 5, 2010
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冬場になると、大・中・小と3種類ある土鍋が大活躍、夫婦2人の生活、大の土鍋をつかうのはおでんの時である、1日目は味がしゅんでいない、2日目ぐらいが丁度良い味、しかし、最近では2日で片付かない、だからおでんを炊くと確実に3日おでんとなる、下手をすると4日目におでんの残り食べるという時もある、コンビニなど滅多に行かなかったのだが、タバコの自動販売機煮たスポが導入されて以来、タスポの申し込をしていないから、タバコは専らコンビニで買う、だから毎日コンビニへ行く、8月の暑い時から、夏おでんを始めましたの張り紙、なかなか美味しそうないい匂いがしている、テレビでおでんダネの業者の選定のための試食、この最終試食に最高経営責任者も立会い、何度も試作と改良を重ねて、店頭に出す前の最後のチェック、この放送を見ていてコンビニのおでんは美味しいのは当たり前と思わされた、ある時、若いアルバイトの女の子が、おでんの出汁の味見をしている、味見をした後で、袋に入った出汁を足している、いつも勘定の時に極端に語尾を延ばす喋り方、「語尾を伸ばすな!」、いつも言っている、意外にもその若いアルバイトの女性がおでんお出汁の味見をしている、ついつい余計な事だが、「オネーちゃん、おでんの味がわかるの?」、笑顔無しで、「はい」。 おでんといえば、その昔は、芸者か花街出身をどこかに宿している年配の女性の店、オッサンのお客さんしかいなかった縄のれんの居酒屋が女性同士のお客さんが増えだして、たまに1人で飲みに出るときに腹ごしらえをしながら飲める店が少なくなり出し、そんな時にこういうおでん屋、店では顔馴染みのお客さんしか出会わない、そんな店で、客はオレ1人きり、女将さんがウンコでもしたくなったのか、「ちょっとすんまへん」、店の奥へ引き込む、ビールも無くなり、皿のおでんも無くなる、勝手にビールを出してきて、栓を抜き、おでん鍋から適当に見繕っておでんを皿に入れて、勝手に飲んで、食べている、女将さんの話し相手をする事も無く、これはこれで気楽でいいのだが、腹もふくれて、店を出て別の店へ行こうとするが、女将さんが一向に帰ってこない、飲んだり、食った分の勘定の見当はつく、大体のお金と、「ご馳走さん、お釣りはいらない、行って来ます」、とメモをおいて帰ろうとするが、ふといやな予感、女将さんも年も年、奥で倒れていたり、死んでいたりしたらといやな予感、仕方なく、店の中から店へ電話、暫くして店の奥から女将さんが出てきて、ホッとすると同時に、「生きてたんかいなァ、それにしても長いウンコやなァ」、「すんまへん、店で立ってると足が冷えて、チョッとおこたで足を温めていたら、ついつい居眠りしてました」、という事があったり。 また別のおでんやで、カウンターに11席、そこへ10人でいく、「1時間ほど貸切や」、店の前には準備中の札、「おかァはん、勝手にやるから、椅子に座って1時間ほど寝とき」、「ほな、すんまへん」、10人で飲み食いして、「おでんがなくなった、帰ろうか」、という事になった、椅子に座ってカウンタにうつ伏せになって、イビキをかいて眠り込んでいる女将さん、「おこすのは、かわいそうやで、自己申告で食った分と飲んだ分の金を置いて帰ろう」、という事になって、全員がそれぞれ1万円札を於いて、「釣りはいらん、あばよ、達者でな」、とメモを残して店を出る、翌日に女将さんから電話、「長いこと祇園で店をしているから、飲み逃げ、食い逃げは何度か、お金を払いすぎての飲み逃げ、食い逃げは初めて、あんまりぎょうさんお金が置いてあるので、びっくりした」、「人聞きの悪い事は言わんといて、あんまり気持ちよう寝てたんで、起こすのはかわいそうになって、帰えったんや、お金足らんかったか」、「そんなことあらへん、もらいすぎや」、「次の店で、オバはん目を覚ましたら、びっくりしよるやろうなといって大盛り上がりやった、そのお礼や、お釣りは、正月の餅代や」。 当時でさえもかなり年配の女将さん、もう今は店がなくなっているか、代替わりをしているか、その昔、花街にいる時に、年の離れた旦那さん、その旦那さんが先に無くなり、その旦那さんに操を捧げて、生涯独身、旦那さんも自分が先に死んで、その後の生活ことを考えて、生きている間に店をもたせたのか、このあたりは聞けばよかったのだが、あくまでオレの想像の世界、おでんがこういうおでん屋から、コンビニに移っている。■「今日の言葉」■ 「 社会に役立ちたいと願ってこそ 身に付けた能力が生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 4, 2010
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68歳にもなると、弱ったなァ~、衰えたなァ~、年をとったなァ~、と時折、折々、節々に感じた事がある、こういう話になると下半身事情が幾つかある、女性とナニを、ナニしている時、このは話になると長くなるので、今日はこの話ではないので、30歳を過ぎた頃会社の帰りに、バスに乗るために数十メートルを全速力で走って、バスには間に合ったのだが、息が整うまでに一駅かかった、高校時代は中距離ランナー、想像も出来なかった事である、オシッコが済んで、ズボンに仕舞いこんで、その後数秒後に、ようく水切りをしたはずなのに、ジョロッと、トイレの時に下の毛に1本の白髪を見つけた時、これはオレの友達の話だが、20代頃から約10年ほど付き合っていた彼女、その彼女の下の毛に白髪を見つけた時、と言っている、と話はやはり下半身に集中するが、毛に関しても年齢を感じる事が多い、短気そうな額と言われていたのが、幾分額が広く見えるようになった時、去年の夏はそうも思わなかったのに、今年の夏、サンバイザーをかぶってみると、額の両側が随分と禿げ上がったと感じた時、バスで若い女性から、「どうぞ」、と席を譲られた時、机の引き出しの中の分厚い封筒、中から、誰にも見せたくない自分の写真、飲み屋さんのママやホステスと一緒に撮っている写真、約15年余り前、丁度、髭の伸ばし始めの頃、当時は頭に白髪はなし、ところが髭には随分と白いものが目立つと思っていたのだが、その頃の写真では髭が黒々と写っている、今は髭は完全にごま塩である、数年前に、頭の髪の毛はどちらかと言えば短髪、ところがふと伸ばしてみよう、伸びたら後の髪の毛を束ねてちょんまげスタイルにしようと、3週間に1度行っていた散髪屋へ行かなくなって10ケ月、長く伸ばした事がなかったので知らなかったのだが、髪の毛がくるくるとカールしている、裾のほうが長く伸びて、ゴムバンドで止められるくらいの長さ、ところが天辺はというと、10ケ月の割りに大して伸びていない、中学校の頃に渦巻きの位置を見るのに合わせ鏡で頭の天辺を見て以来、久し振りに毛の伸び具合を見るのに合わせ鏡、髪の毛の隙間に頭皮が見える、随分と薄くなっている、短い髪の毛の頃には気がつかなかったことである、それを見た途端に髪毛を伸ばして薄くなっているところを隠しているような気がして、おぞましさを覚え、しかも梅雨の頃、自分の髪の毛の先が顔の皮膚に当たる不愉快な初めての感触、それとオレよりも数ケ月後から伸ばし始めて、もうすでにちょんまげスタイル、それを見て久し振りの散髪屋へ、店の大将にこの話しをすると、「髪の毛にこれ以上伸びるスタミナが無いのや」、この時にもつくづく年齢を感じた。 高校の頃から髭を伸ばすことに興味、1ケ月ほど髭を剃らずにいても、無精ひげの程度、オヤジは髭が濃く、朝に髭をそってから家を出かけても、帰りが遅いと、髭ガ伸びて来ているのが分るほど、だから髭が濃いから朝の髭剃りは一仕事、熱いタオルで髭を蒸して、それから石鹸の泡を塗りたくって、西洋剃刀で、ジョリ、ジョリ、と音を立てながらゆっくりと剃っていく、オヤジから髭の濃い体質は受けついておらず、むしろ髭が薄いほうである、お袋が腸の手術をして、主治医から癌であったと報告を受けて、それを誰にも言わないでおこうと決心した後、周りの人にフェイントをかけるつもりで、12月20日頃から、髭剃りをしないでいた、正月が済んで、事始の日、鼻の下の髭と顎の髭を残して髭剃り、こうするとようやく髭を伸ばしているのが分る程度であった、事始のまず最初は、大阪の得意先へ正月のあいさつ回り、得意先では散々に冷やされたが、デザイン室のデザイナーや女性のバイヤーには、「似合っていますよ」、とおおむね好評、周りに髭を伸ばしている人がいないために、髭の手入れ方法がわからず、散髪屋へ行った時に、店の大将が髭を伸ばそうと何度もチャレンジしたが、髭剃りは週に一度で十分というほど、極端に髭が薄く、髭を伸ばす事をギブアップ、この大将に髭の手入れ方法を習う、鼻の下の髭は唇にかからないように切りそろえる、左右が同じになるように気をつける、普通の安全かみそりでは細かい部分が手入れが出来ず、髭の手入れ用に幅の狭い安全かみそりがある、それと髭の手入れ用の良く切れる小さな鋏、これだけあれば髭の手入れが出来る。 それまでは2日に1度の髭剃り、シェービングフォームを塗って、髭剃りは約1分、ところが髭を伸ばすようになってから、髭の手入れには時間がかかる、髭そり用の安全かみそり、これは最近で老眼が進み見にくくて、血液をサラサラにする薬のために、切ると血が止まりにくいために、ユッタリとした気分の時以外には使わない、小さい良く切れる鋏、髭の手入れだけにつかっていたら100年は大丈夫といわれた鋏、眉毛の手入れ用のつげの小さなくし、電機バリカンの小型のようなのシェービング用のトリマー、口の周りや唇の周りの毛の手入れ用に鼻毛カッター、小さい電機かみそり、これだけが髭の手入れ用のグッヅ、旅行の時の手入れ用キッド、小さい鋏、小さいくし、小さいブラシのセット、現役の頃はリタイアすればもっと丁寧に手入れ、ところがリタイアしても、髭の手入れは面倒で、ほぼ毎日ちょっとづつ手入れ、そして週に1度本格的に手入れ、最近の安全かみそりは6枚歯で、誤って横に走らせても切れないというスグレモノが出ている、髭剃りは随分と楽で、かみそり負けもない、傍からはそうは見えないが、髭の手入れには、結構、手間がいる。■「今日の言葉」■ 「 楽なことは明日に延ばしても 苦しい嫌なことは今始めよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 3, 2010
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中国漁船の尖閣諸島付近での日本の海上保安庁の巡視船衝突事件、それを受けて中国の強硬な態度、そんな中でロシアが中国に急接近、そして昨日ロシアの大統領が戦後65年間不等占領を続けている北方4島のうちの国後島を訪問、外交官、外交というとどこか品の良い響きがあるが、実際に中国とロシアの行った事は、「噛まない犬は邪険に扱う」、「溺れている犬は棒で叩け」、日本には無い、誠に品の無い諺の通の事が行われている、東大及びそれに類する国立大学出身の官僚が外務省の中心を占めていて、こういう品の無い外交交渉には少し無理がありように思う、官僚主導ではなく政治家主導といっても、与党の民主党議員も似たり寄ったりである、外交顧問にその昔、反社会勢力組織に在籍して、現在は足を洗っているような人を迎えたほうが、うまくいくのではないか、考えてみると反社会勢力組織には昔から起きていた出来事である、稼ぎのために表面上は手を握っているように見せかけていた日本組と中国組、最近、日本組の親分が交代、そして組の結束を固めていた古いご法度に、代替わり、若返りなどを理由に片っ端から手をつけ、組織の結束にゆるみ、しかも、今回の親分は武闘派ではなく理論派、中国組の武闘派幹部はこの時期に、両組の間に横たわる将来ドル箱になりそうなシマを己の縄張りに、しかし、ながら世間様の目もあること故に先に武力でシマを取り上げるのはまずい、ということでまずは鉄砲玉にシマの内で揉め事、中国組はこの鉄砲玉はあくまで1つの駒で、このコマの何手か先まで読んでいて、最終的にシマを自分のものにする、これが上がりである、ところが日本組には新親分の下、こういう端っこのシマに於いての、常時戦闘、常時戦場意識が全く無い、先に何が起きるかも考えないで、日本組のご法度に照らして、つかまえた、待ってましたとばかり、次から次へと脅迫、そればかりか、所用で中国組の縄張りの中に入っていた人間を、「膏薬と罪名はどこへでもくっつく」、とばかりに人質として逮捕、ここから先は日本組は後手の先行、日中関係の配慮してと言いながら、中国側の筋書き通に、手を打たされてきている、ここで外務省に元反社会勢力組織に在籍していた人間がいれば、最初に鉄砲玉が揉め事を起こした時に、鉄砲玉の背後関係を読んで行動、どんな事があっても日本組のご法度で徹底的に裁くか、一旦逮捕しても、取り調べも何もせずに、今回は許してやる、次は殺す、とようく言い含めて、土産の一つでも持たせて帰らせる、すぐに周辺に自衛隊の艦船を派遣して警戒にあたらせる、もしこうしていたら中国組はどんな対応をしただろうか。 それと大きなシマを持ちながら、火事場泥棒のような事しか出来ないロシア組、組の利益のために普段は余り仲のよくない中国組と俄な盃事をして急接近、2つの組の揉め事に顔を出しておこぼれ頂戴という、卑しい組もある、克ってナポレオン組、ヒットラー組との出入りの再にも、単に縄張りの広大さゆえに、縄張りの寒さゆえに相手が自滅、特にヒットラー組との出入りの際には、日本組とヒットラー組が兄弟盃、普通ならヒットラー組に加勢するところが、日本組とロシア組にも不可侵という盃事があって、身動きがとれず、しかも律儀に義理を果たして、ヒットラー組の助っ人をしなかった、普通なら義理を感じてもバチが当たらないはずのところ、その40数年以前の出入りに負けた事に遺恨を持っていた、だから65年前、義理を通した日本に後足で砂をかけるようにドサクサ紛れに、連合組に加勢、その時に分捕った北方のシマへロシア組の親分が酔狂にいくらを食いに行った、こういう相手には、克って反社会勢力組織に在籍しような人が外務省の顧問にでもなら無い事には、渡り合うのは不可能のような気がする、北方領土問題を棚上げして、シベリア開発の経済協力、北方領土の4島返還、これをなくして経済協力をしない、この事をロシアだけでなく、全世界に向けて発信すれば良い。 韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題、この2つの問題とロシアとの北方領土問題は大いに異なる、終戦後、世界にはイデオロギーの対立があり、社会主義体制のソビエト連邦、革新思想の持ち主は社会主義を支持、一部のマスコミも、終戦前後のソビエト連邦行為に対して、余りにも寛大で、多めにみすぎてきた嫌いがある、戦前と戦中に日本と日本軍の行なった行為、戦争だからと良い訳もしない、事実は事実として認める、だが、終戦の直前にソビエト連邦が行った行為も、すくなくとも日本、或いは世界に知ってもらわなければならない、日本とソビエト連邦の間には日ソ不可侵条約が締結されていた、不可侵というのお互いの国境を侵さない、国境を越えて攻め込む事はしませんという条約である、この条約があったために、ソビエト連邦は背後からの日本の攻撃を心配する事無く、ヒットラーと戦う事だけに専念でき、勝利する事が出来た、ひたすらその条約を律儀に守り通した日本に感謝する立場であった、ソビエト連邦はヨーロッパ戦線には貢献し、戦勝国の一員であったが、対日本との戦争では、全く戦っていない、日露戦争敗北の屈辱もある、そのあだ討ち、対日本との戦争に於いて戦勝国の一員として名を連ねたい、そこには領土的野心が存在、昭和20年8月15日正午、天皇陛下のポツダム宣言受諾、無条件降伏の玉音放送が行われる1週間前の昭和20年8月9日、日本近海の制海権、日本上空の制空権も連合軍に握られ、広島と長崎に原爆が投下され、各主要都市は空襲で焼き尽くされ、日本の残された道は無条件降伏か本土決戦、一億総玉砕、日本にとってこの戦争の趨勢は概ね決していた時にソビエト連邦が一方的に日ソ不可侵条約を破棄して、国境を接する満州の国境を越えて攻め込んできた、その1週間後に天皇陛下の無条件降伏の玉音放送、軍隊の解体、兵士の武装放棄と即時帰国の命令である、いくら頭の悪いソビエト連邦でも、この無条件降伏の放送は理解ができたはずである、ソビエト連邦の兵士には日本との戦争は継続中と全軍に命令、こうなると弱いソビエト軍の軍隊でも兵士でも、勝つ事が出来る、武器を捨て、帰国しようとする兵士、民間人の区別無く、昭和20年9月3日、戦艦ミズーリー号の船上で、ポツダム宣言、無条件降伏の受諾書の正式署名までの半月余りの期間、殺し続けた、多くの国では対日本戦の終結の日は昭和20年8月15日とされているが、ロシアではソビエト連邦が終戦後の日本人にたいする残虐な殺戮行為の正当化のために、対日本戦終結の日は昭和20年9月3日となっている。 終戦後、日本人に対してソソビエト連邦軍が行った、犯罪的残虐行為は約2週間余りの無差別殺戮だけではない、史上空前の強制労働という名を借りた、大量の「シベリア抑留」、といわれている、極寒の地シベリアで乏しい食べ物しか与えられず、長時間の過酷な労働で、その1割に当たる約6万人が死ぬという、その実態は日本人捕虜に対する虐待、残虐行為が行われた、戦後ほど無く左派社会党の国会議員団がシベリアの強制労働所を視察に訪れたが、ソビエト連邦が事前に準備した場所のみの視察で、捕虜から託された苛酷な環境での、過酷な労働の実態を訴える手紙を握りつぶして、「比較的良い環境の元で、充分な食事を与えられている」、というウソの報告を行い、昭和22年から始まった帰国事業の帰国者に告発されて問題にもなった、この抑留者帰国事業は昭和33年まで続けられた、最長11年間の抑留生活を余儀なくさせられた人もいる、たった1度だけ、ロシアになってエリツイン大統領が、このシベリア抑留に関して、この非人道的行為の謝罪がなされた、克って日本人が住み漁業などによる生活を行っていた北方4島が敗戦と同時にソビエト連邦に奪われて、その後にロシアに引き継がれて、65年経過する今日においても不当に占領されたままである、この領土問題を棚上げして、シベリア開発援助しようとしている、日本にはシベリア開発を援助すれば、北方4島が戻ってくるかもしれないという、非常に甘い期待感があるが、過去の歴史を考える時、ロシアという国はそのような常識の働く国ではない事が分る、経済援助は北方4島の返還が前提であるという意思表示を強くする必要がある、この領土問題を抱える国との交流は、どうせ喧嘩をしなければならない喧嘩は先にしておく、現在の日本の外交はどうも逆で、可って反社会勢力組織に身を置いたような人を顧問につけたほうが良いようである。■「今日の言葉」■ 「 気付いたことをすぐに行うことは 物事を好転させる元である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 2, 2010
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10月1日よりタバコの大幅値上げの実施、この1ケ月間の間で1社だけ今回のタバコの値上げに関するアンケートが来ていた、勿論アンケートの答えた、大幅値上げということはタバコ1本当たりの税金も大幅アップになっているのだが、値上げ以前の喫煙者率40%が、値上げ以降どれだけ喫煙者率げ低下しているか、病院の禁煙外来が大混雑していると聞く、一時的に禁煙をしても、再喫煙という人も多くいるだろう、喫煙率の正確な数字が出るまでには数ケ月の歳月がいるだろう、喫煙者率は30%ぐらいに落ち着く事になると予想している、またオレの様に喫煙量を半分にして、タバコに対する支出を増やさない、むしろ減らすようにした人も多くいるだろう、度重なる最近の執拗なタバコの値上げ、値上げ当初は少し税収が増えるが、3年もすると値上げ以前の税収と同じになるということが、最近の数回の値上げの実態である、ということはタバコの値上げは決して税収アップとは結びつかずに、今回の大幅値上げの結果、喫煙者数の減少、節煙、これらによって値上げ当初から明らかにタバコの税収は落ち込む事が予想される。 タバコの値上げのたびに感じるのは、タバコは諸悪の根源論の横行、非喫煙者のマナーの低下、オレは路上喫煙禁止区域外では破路上喫煙をしている、すれ違った時にあからさまにタバコの煙を手で払うようなそぶりの人が増えている、その度に中指を突き立てて、「フアック」、なんて品の無い言葉を叫んでいる、タバコの煙に対してあからさまに拒否のしぐさをする人は、経験上、中年からそれ以上に年齢に女性が多いように思う、タバコの煙というものは、例えばバーのカウンターに座ってお酒を飲みながら、横に非喫煙者の女性、こうい時には反射的にタバコに火をつける、それから、「アッ、タバコよかったですか?」、「ハイ、良いですよ」、「家族で誰かタバコを吸う人はいますか?」、「いいえ、誰も吸いません」、こういう時彼女はオレに少なからず好意を寄せているシグナルであり、そのように受け取っても間違いはない、タバコの煙はくさい、タバコの煙は嫌い、といってもこういう事もある、こういうことをとっく昔に忘れ去った年齢の女性に多い気がする。 タバコ嫌いの人は煙の副流煙の健康被害を口にする人も多く、その時に、車の中に自動車の排気ガスを引き込むと確実に1地時間で死ぬ事ができます、車の中に非喫煙者の人を閉じ込めて、何人かがかりで、車の中へタバコの煙を吹き込む、果たして中の人は死ぬでしょうか、おそらくその車の中の人は餓死はしても、タバコの煙で死ぬ事は無いでしょう、「しかし、医学会やお医者さんや、厚生労働省はタバコの副流煙の健康被害を指摘」、「そうですね、それは非喫煙者、特に嫌煙家は100%信じているでしょうが、喫煙者は声高に叫ぶ事は決してないですが、200%信用していません」。 今回のタバコの大幅値上げ以前はエコーを一日に80本喫煙、10月1日より40本に減らす、最初の2週間くらいは意識して1日の喫煙本数を40本に抑えるようにしていた、日によって5本ほどオーバーする日もあり、日によって30本くらいの日もあった、1ケ月が経過、2、3本の誤差こそあるが、一日の喫煙本数40本のペースを身体が覚えてしまった様である、80本吸っていた頃はタバコを吸う合い間にタバコを吸っていて、火をつけてすぐに、消す事を考えているといった吸い方で、1日40本になって、そういう雑な吸い方をするタバコをなくして、むしろ、タバコを美味しく、丁寧に吸っている。 次に値上げになれば半分の1日に20本の喫煙、その次の値上げになれば又半分の1日に10本の喫煙、ただ厚生労働省のタバコに対する対応、タバコの健康被害の指摘、禁煙区域の拡大、度重なるタバコの値上げ、これを見ていると中国の反日デモを見ているような気がする、格差問題、就職難、その他の批判、非難が国と政府に向かわないために反日運動で目くらまし、これとよく似ている、消えた年金問題、高騰を続ける医療費問題、杜撰な介護保険制度、非正規雇用が生み出す、失業者問題、ワーキングプアーの増加、格差の拡大、これらに対して友好な施策が打ち出せない、それらに対する批判、非難を交わすために喫煙者とタバコを非喫煙者を巻き込んで悪者にする、それがあからさまであり、逆にタバコ好きは、死ぬまでタバコを吸い続けていたい、死ぬ時にはタバコを吸っている時で、指にタバコを挟んでなどと考えている者にとっては、むしろこんな時に意地でもタバコをやめられるか、そんな気にさせられる。■「今日の言葉」■ 「 人生は今の瞬間の積み重ね である今を大切に生きよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Nov 1, 2010
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繊維メーカーの時代、同業の社長連中と酒を飲む機会が多かった、普段は得意先の取り合いなどをしているが、こういう機会では先輩社長が後輩の社長に指導したり、またオレはオヤジから会社を引き継いだ2代目社長、事業継続の時期、タイミングなどの相談を受ける事が多かった、オレは昭和41年から大阪のメリヤス屋さんで5年の丁稚修業を経て、オヤジの会社へ昭和46年に戻り戻り、この当時はオヤジの会社といえども男性社員の中で一番年下、その後約5年間ほどは繊維メーカーとしての丁稚修業、営業、生産、企画、事務、経理、人事、福利厚生、等々会社の全ての業務を経験して、8年目の昭和54年に専務取締役、12年目の昭和58年12月に、42歳で代表取締役に就任。 オヤジはその12月の残りの10日ほどは会社へ出勤、翌年の事始の日に出勤して、その後2度ほど会社へ顔を出しただけで、会社へくる事はなかった、この事は会社を引き継いだ2代目としては非常にやり易い事で、事業の継続の話をするときには、事業を譲った人間は、サッと会社から身を引くべき、先代が会社へのこのこやって来て顔を出すとろくなことはない、会社の中が2代目の社長派と先代社長派に分裂したりするという事を幾つも見て来ている、そして、42歳くらいの年齢で2代目に継承させる、だから42歳で社長を引き継いでも充分にやっていけるように口移しで商売の事を計画的に教え込む、こう話していると、社長は、「頼りないからなあァ」、という事が多い、「社長、息子さん商売へ行く時に財布の中身をご存知ですか?」、「大した給料を払っていないから、財布の中身は知れている」、「そんな事では、夕方まで商売をしていて、これから食事でも、誘えませんでェ、そういう金額の金がいつも財布の中にある、これが1年もすると、見違えるようにしっかりするようになりますよ、商売の自信と財布の中身は正比例、2代目に投資ですわァ」、「そうやろうか」、「これは私の実体験ですわ、財布の中に福沢諭吉が1人か2人、こんな頃は商売をおどおどとやっていた、ところが福沢諭吉が30人連れ、50人連れになると、妙に商売に自信が出来てきて、商売のスケールも大きくなりました」、ただこれを聞いた社長はオレの言う通の事を実践したかどうかは定かではないが、「あの時アンタにいわれ通の事をやってよかったわァ」、とお礼を言われた事もない。■「今日の言葉」■ 「 苦難は必ず活路を伴っている 逃げずに向き合えば道は開ける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Oct 31, 2010
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平成6年11月3日がお袋の命日、今年で17回忌を迎える事になる、ヨメもパートに出るようになってから、お寺さんの月命日のお参りを断っている、法事の時にしかお参りがない、11月3日はお寺の報恩講という行事で、法事ごとは前でという事で、明日の10時から自宅で行う。 16年前の5月のゴールデンウイークが済んだ頃に、お袋の喉の辺りがはれだしてきて、幾つかの病院へ行くが原因が分からない、ただその前年に腸のポリープの手術、そのポリープに癌細胞があった、この事はオレと上の妹2人だけの秘密でもあった、だからオレはヨメにもそれをいう事はなかった、但し手術は成功、翌年の1月には退院、自宅療養を経て、3月には床上げも終わり、桜が咲く頃には、オヤジと連れ立って花見に行くまで回復していた矢先である、喉がはれだしてきた時には癌の移転、嫌な事が頭を掠めていて、5月末の精密検査で咽頭部の腫瘍が原因という事が判明した、直ぐに腸の手術をした同じ病院に入院、主治医も同じ先生、お袋はこの主治医の先生に絶対的な信頼を寄せていた、そしてこの主治医の先生も高齢のオヤジが前回の腸の手術の時に大いに動揺し、オレはその頃52歳、バブルがはじけて久しいが、会社は順調、銀行の親睦会の会長、京都布帛製品工業組合の理事長に就任、一番自信に満ち溢れていた時代、そういう事もあってかお袋の病状に関してオヤジではなく、長男でもあるオレに報告と相談、前回の腸の手術の後、「腸の手術に関してはパーフェクト、ただ取り去った腸の腫瘍には結核菌と癌細胞、この事をお母さんとお父さんに告知されるかどうかの全てをあなたにお任せします」、完全にオレに下駄を預けられた、そこでお袋とオヤジには癌細胞の事は話さないことに決断。 2度目の入院の前日に、前回の入院の時には、「手術が終わればお見舞いに来る人もあるから」、といって長年の行きつけの美容院で髪の毛をセット、「美容院へは?」、というと、声は出さずに、「もう、いい」、といわんばかりに手を横に振る、お袋には今回の入院は、もう2度とは家に戻れない予感、ある種の覚悟のようなものが感じられ、「何かあたら、お父ちゃんを頼むわね」、これだけ言って入院、手術をする、その後主治医の先生がオレと会いたがっているという伝言、仕事の合間を縫って主治医の先生と面会、この主治医の先生極めて冷静で、穏やかで、やさしい話し方、お袋が絶大の信頼を寄せている気持ちも理解、したがってオレもお袋と同じように大きな信頼を寄せるようになっていた、「全ての咽頭部の癌細胞切除にベストを尽くしました、ただ残念な事に頚動脈にへばりついている癌細胞をとるために、頚動脈を破る寸前までトライしましたが、取れませんでした、ゴメンなさい、癌細胞を検査すると転移のスピードの速い、凶暴なタイプの癌細胞で、今後の治療方法としては抗癌剤療法とコバルト療法の2つがあります」、オレは何人かの抗癌剤療法をした人の話を聞いたことがあった、口をそろえていう事は、「肉体的な苦痛はともかく、うつうっとし湛え難い気持ち、これが嫌だった」、そんなことを思い浮かべながら、「先生、抗癌剤療法の時の助かる可能性は?」、「何%と数字で答えることは出来ませんが、低いと思います」、「先生、時間をかけても結論が出るとは思いません、数分だけ待ってください」、「いいですよ」、喫煙所へ行ってタバコに火をつける、頭の中は抗癌剤療法とコバルト療法がグルグル回っている、タバコはどんどん減っていく、吸い終わるまでに結論を、「ザ・ベスト・オブ・ザ・ワースト」、最悪の中の最良の選択、お袋の苦しみの少ないほうを選ぼう、「先生、コバルト療法をお願いします」、「分りました、5回ほどコバルトを照射しましょう」。 結局、間隔をあけて5回コバルトを照射する、5回のコバルト照射が終わると、その後は点滴をしながらベッドに寝ているだけである、お見舞いに行ったり、時折病院に泊まる事もあった、オレの顔を見ると、「帰れ、帰れ」、といつも手で追いやるような仕草、「病院になど来ないで仕事せえ」、2回の入院生活で、怖い、苦しい、痛い、辛いなどとたったの一言もいう事がなかった、しかしコバルト照射のセイだろうが、胸の辺りがどす黒くケロイドのようにただれているのを見た時に、思わず息を呑んだ、7月の末に、「家に帰りたい」、それを主治医の先生に取り次ぐと、「それも良いでしょう」、夏の暑い時期に家に戻る、勿論、家では点滴も出来ない、ホンの少しジュース類を飲むだけで、後はお茶と水だけ、家での1ケ月、ただ布団に寝ているだけ、8月の終わりの頃に、「先生の顔が見たくなった」、という事で病院へ戻る事になる、自宅での1ケ月間、点滴もなし、食事もせず、身体には栄養になるものは何も入れず、この簡易は癌細胞もじっと静かに大人しくしていた、病院に戻ると点滴が始まる、この点滴で癌細胞も元気になり暴れだす、10月の入ると下血、吐血が始まる、そのたびに家族や親戚が病院に駆けつける、10月21日はオレの結婚記念日、ヨメと食事をしている時に娘から電話、「おばあちゃんが危ない」、タクシーで直ぐに病院へ駆けつけるが、応急手当も済んですやすやと寝息を立てている、「お袋、もう充分戦った、もうエエよ」、オレに出来る事は早く楽になるのを願うばかり、その数日後主治医の先生から話がある、「今、お母さんは、変な言い方ですが、理想的な形で死に近づかれています、この状態で延命治療を継続すると、この状態が長く続く事が予想されます、延命治療を中断すると痛いことも、苦しい事もなく、枯れ木が音もなく朽ち果てるように、ローソクの火が消えるような穏やかな最後を迎えられると思います」、11月1日点滴の栄養剤から食塩水への切り替えをお願いする、11月2日午後3時、79歳にて没。 オレも幼稚園の頃に祖母を亡くし、依頼久し振りの身内での葬儀、初めての葬儀のようなもの、オヤジの心労がきつく、告別式を無事に終えられるかが心配、初めての葬儀で、全てを差配、オヤジはお袋よりも8歳年上、お袋の葬儀の一部始終をオレにしては珍しく、一部始終を書き留める、間もなく16年を迎えようとしている、癌の告知、抗癌剤療法かコバルト療法の選択、延命治療継続の決断、幾つかの大きな、重たい決断を迫られた、今同じ決断ができるかどうかは定かではない、しかし当時に決断した事に揺るがぬ自信を持っている。■「今日の言葉」■ 「 さっさと実行しないと怠け心が やる気を削いでいく」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Oct 30, 2010
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5年前の祇園祭の日に、ヨメの叔父がゴルフ場で倒れて、救急車で病院の集中治療室へ入院、集中治療室から出る事も無く、意識が戻る事も無く、3週間後に無くなった、鳥取の中学校を卒業して、本人は東京で就職を希望していたが、汽車賃が無くやむなく大阪で就職、その就職した先は荒物問屋、小柄な丁稚がリヤカーに荷物を一杯積んで納品へ、登り坂で悪戦苦闘をしていると、「小さいのに、ご苦労なこっちゃ」、と後ろから押してもらった事もあった、小さな荒物問屋であったが、プラスチック製品の普及によって、「これからの荒物はプラスチックの時代」、とばかりにいち早くプラスチックの荒物を取り扱い始め、売り先の多くは個人経営の荒物店が殆どであった、間も無く流通革命といわれた時代に突入、ダイエーを初めとしたセルフサービス・デイスカウント・ショップが出現、所謂スーパーと呼ばれる小売業態、そのスーパーと取引が始まり、売り上げが驚異的に伸び、それに歩調をあわせるように会社も急成長、丁稚からのたたき上げ、生まれつきの面倒見の良さ、得意先にも、会社内にも、信用と人望ができて、重役にまで登りつめる、65歳の重役定年で退職して、その後はゴルフ三昧の生活を夢見ていたのだが、園芸ブームに目を付けた会社は園芸洋品の別会社を設立、社長の息子が社長に就任、その社長の補佐役として相談役に就任、仕事の多くは得意先とのゴルフの接待であった。 その叔父は兄2人、姉1人の末っ子で、生まれつきの面倒見の良さで鳥取に住んでいる甥や姪達を学校の休みの時期には家に預かって面倒を見たり、オレのヨメも家庭がゴタゴタした一時期にはそこの家から中学校に通っていた事もあった、お通夜と告別式には鳥取から甥や姪達、その子供達も大阪へ、賑やかに叔父の思い出話に花が咲いていた、長年勤めていた会社の別会社の現役の相談役である、本社の人事部や庶務部から手伝いの応援、仕事関係の人の多くの列席者が予想されて、大きな会館で、盛大な葬儀、この時叔母は社葬になると考えていたのだが、社葬の文字はどこにも見当たらない、少々いやな予感をしていたのだが、結局、会社からは葬儀費用の2割くらいの金額が包まれてきたそれでちょン、内外共に信用と人望のあった人だけに実に多くの仕事関係の列席者、世話になった甥や姪たちも全員が列席、変な言い方だが良い葬儀であった。 ところが叔父の遺産相続の段になって大きな問題がおきた、叔父は女の子が1人いる叔母と再婚、婚姻届は叔母が区役所へ提出に行く、「区役所の窓口で、この子供さんは養子にしますか?」、といわれて、叔母は、「実子です」、と答えて、その子供と叔父の養子縁組をする事無く婚姻届を提出、その戸籍のままで誰も気がつくことはなかった、3人家族として幸せな生活、大学を卒業して、就職、その後結婚して娘が1人、数十年間実の親子としての生活の実績、しかし叔父の遺産相続となると一番重要視されるのは戸籍である、数十年間の親子としての生活実績よりも、戸籍が上回るのである、法律上は親子ではなく、単なる同居人として扱われ、法律上遺産相続の権利を有しないのである、先ごろ江戸時代末期生まれの人の死亡届が出されずに戸籍上は生存しているということが問題になった、これを受けて行政の戸籍を預かる窓口の人が、これはあくまで戸籍上であって、戸籍によって選挙権云々というのではないと戸籍を軽視する発言があった、実の親子同然に生活した実績がありなが戸籍上では同居人として扱われて、戸籍が最重要視される、大きな矛盾を感じざるを得ない。 叔父の遺産の全てを叔母と娘が相続する、これで相続は完了のはずであった、ところが娘は戸籍上は単なる同居人に過ぎず、遺産の相続の権利が無い、ここから叔父の遺産相続が完了するのに5年余りの歳月を要した、叔母以外の法定相続人、死亡している長男の子供4人、死亡している次男の子供3人、生存している認知症の姉が1人、この8人が相続放棄をして叔母1人が叔父の遺産相続をすれば済んだ話である、ところが長男の子供の婿が相続放棄に異議、そして認知症の姉の子供4人もこれに同調、法定相続人の5人が相続放棄をしないと対立、困った叔母は弁護士を立てて、遺産の半分は叔母が相続し、残りの半分は法定相続人が相続する、と解決を図ろうとした、そこで弁護士は遺産の財産目録を作成、その作成された財産目録が過小とクレーム、重役まで勤めたといえサラリ-マンである、面倒見の良い者はそれだけ出費も多い、貯えといっても数億円の単位ではない、せいぜい数千万の世界である、親戚の縁を切ってまでもめる金額か、甥や姪に小遣い渡したり、プレゼントや祝い金を張り込む事があっても、遺産を残すとは考えられない、「叔父さんは甥や姪に自分の遺産を相続させようとして、娘をわざと養子縁組しなかった」、これが言い分のようである、5年余りが経過して裁判所の和解案にも応じず、つい最近5人分の相続金、鳥取から大阪へ出てきた経費、弁護士費用などの諸経費込みで、1千万円で決着がつき、叔母は1日でも早く済ませようと積み立て型の生命保険を解約して支払いを済ませたと連絡。 余り豊かといえないヨメの兄弟3人が相続を放棄した、この遺産相続を放棄したのはもう1人、この人の存在は誰1人知らなかったのだが、叔父のお父さんは再婚で、最初の結婚の時に男児が1人、お母さんに引き取られて離婚、以来50年以上の間、音信が途絶えていた、身内でそれを知っている者はすでに亡くなっていて、誰もその人の存在を知らなかった、お父さんの戸籍謄本を取り寄せて始めてその存在を知ったわけである、その人は名古屋に住まいということで電話連絡と郵便のやり取りだけで相続放棄が終了した。■「今日の言葉」■ 「 食べ物は感謝して頂いてこそ 生きる力となっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Oct 29, 2010
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10月24日(日)、仕事の日、給料日の1日前、お金が無い、バス代、往復440円、タバコ代、エコー2ケ480円、これらを差し引くとポケットには残金千円余り、今日に昼食は二八のざる蕎麦大盛りにしよう、バスはこのそば屋さんの前を通り過ぎて、すぐのバス停留所、手打ちの店だから朝は早い、バスで通る頃には蕎麦打ちをしている最中、店を開けると、歩道の柵に蕎麦の幟を2本立てている、ところがその日は3本の幟が立っていて、新そばの幟、それを見て、「今日から新そばかァ」、恐らく新そばは10割蕎麦だけだろう、「こんなお金のない日から始めやがって」、とブツブツ言いながら、新そばを食って、今日のタバコはエコー1箱だけにするか、事食べ物に関してこういうことは特別、この手打ち蕎麦の店の新そばは唯一の例外、死ぬんだったらこの店の新そば食った後でとさえ思っている。 1ケ月ほど前から、「今年の新そばはいつごろから」、「早稲は取り寄せて打ってみましたが、やはりもう一つ、10月末くらいからになるでしょうね」、この店の蕎麦は北海道の幌加内産の蕎麦で例年新そばは早い、オレの記憶では時代祭りの前後、店で、「新そばに切り替わっても、1週間ほど幟もたてずに、店の中に張り紙もしなかった、何人のお客さんが新そばと気付くだろう」、なんて与太を飛ばしたことがある、「それは面白いですね、やってみましょうか」、「そうなるとこの時期、客のほうも根性を据えて、そばを食わんならん」、しかし店のほうも新そばの幟を立てて2週間ほどの間に少しでも多くのお客さんを呼び込みたい、「いつから?」、「今日からです」、「10割ざるの大盛り」、柱には辛味大根の張り紙も、「辛味大根もつけて」、「今年の新そばの第1号のお客さんです」、ここの手打ちは、ソーメンよりは少し太いが、超細麺の手打ち蕎麦、ゆがく時間が短くて20秒足らず、キッチンタイマーがなると蕎麦をさっと引き上げて、たっぷりの氷水にくぐらして、その中で余分についた蕎麦粉を洗い落とす、出町の手打ち蕎麦屋さんはざる蕎麦のことを、「あらい蕎麦」、と呼んでいて、この余分な蕎麦粉を手際よく洗い落とすのも店の腕、気のせいか出てきた蕎麦の色艶も違う。 「今年もこの店で新そばが食えます、感謝」、と手を合わせてから、まず塩を振りかけて蕎麦を一口、鼻から新そばの風味と香りが抜ける、そして新そば特有の弾力性と、新そばの甘味が口に広がり、喉越し、鼻から息を噴出す、そして次にそばつゆにつけて二口、舌、鼻腔、喉で、新そばの甘味、風味、弾力性を味わう、この味わい方どこか喫煙と似た部分がある、変なコジツケを考えながら、辛味大根の半分をそばつゆに入れる、唐辛子の辛さには極端に弱い、キムチをあらわせるくらいである、しかしワサビや大根の辛味は大好き、オレはおろし蕎麦が好きなのだがこの店の普段のメニューには無い、冬場の一時期だけに辛味大根を置いている、新そばプラス辛味大根、珍しい事だが昼食が昼食が楽しみな時期である、ヨメに言わせると、「時給850円のパートタイマーが、昼食に10割の手打ち蕎麦は贅沢、まだバブル当時の気分が抜けていない男」、らしいのだが、「オレは食ものの事で、量を少なく以外に文句を言った事があるか、ここの蕎麦だけは別や、金持ちは金の心配してもエエけど、貧乏人は金の心配なんてするな、人生がつまらなくなる」、と意味不明なことを口走る。 「辛味大根の辛さはどうですか?」、「新そばの甘味がかえって強くなる、ただ余り辛くは無いよ、例年の鷹が峯の辛味大根は、汁が残らない」、「これは北海道の辛味大根、おろしていていつもに比べて水っぽい感じでした」、「これぐらいの辛さが丁度良いと言う人も入るやろうね、オレはこれぐらいの辛さでもあるほうが良いよ」、ウイスキーでも上等はストレートを口に入れると、口の中にパァ~と広がって、喉をスムーズに通っていく、これで判断する、新そばも大盛りを食べたあとで、並みをもう一人前食べたいと思う、一気に食べ終わって、滅多に言わへんのやけど、「あ~、旨かったァ~」、普段は無愛想なカウンターの中の3人は、そろって頭を下げてくれた。■「今日の言葉」■ 「 素直に聞いてそのまま実行する ことが習得の基本である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Oct 28, 2010
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一昨日までは、タンクトップに半袖ポロシャツ、薄手のブルゾン、昼食にラーメンを食べた後、天気の良い日には汗ばむ事もある、ホンの少しの間、扇風機を回していた、寝酒のバーボンを飲む時、例年は秋のお彼岸が済んだ頃から、水割りをお湯割りに切り替える、ところがまだ水割りを飲んでいた、当然の事ながら2ケ所あるトイレのウオッシュレットの電源を抜いていた、月に一度の定期検査の昨日、そのままの恰好で病院に行くためにマウンテンバイクを漕ぎ出す、信号待ちの間、冷たい強い風、着替えに家に戻るのも面倒、ブルゾンのファスナーを締めて漕ぎ出す、病院は西大路太子道を少し西のところ、西大路通は太子道の1つ手前の信号からきつい登り坂、時々不思議の思うことだが、このようなきつい坂、ところが1筋迂回すると、まるで嘘のように坂がない事がある、あの道の坂はどこへ、そう思うことがある、だからこの坂も1筋西の春日通に出ると、殆んど平らな道で、最近は弱気で、この道に迂回をする、病院に着くと丁度身体が温まっていた、その帰り道先ほどまで陽が照っていたのが、急に雲り空、細かい時雨が降り出し、暫くの間は秋らしい気候だったが、身体にあちこちに今年の夏の酷暑の名残が残っていたのだが、家に帰りつくと、そこはもう冬、慌てて2台出ていた扇風機を天井収納庫に仕舞うために、羽を洗い、ヨメに、「便座のコンセントを入れるでェ」、何年か前から殆んど使う事のない1階のトイレのウオッシュレットの電源は抜いたままである、いつも使う2階のトイレは最高気温が20度を下まわると、電源を入れる事にしている。 それだけではない、最低気温が10度を下回るまで、暖房器具を使わないことにしている、エコでもない、少しは電気代の節約でもある、しかしオレの泣き所は、「身体が軟弱になっている」、これには弱い、だから我が家ではこんなルールを作って、それに従っている、便座の電源を入れた次には、着替えである、ヒートテック加工の長袖肌着を着て、長袖シャツを着て、フリースのジャンバー、克ってフリースのジャンバーといえば、パタゴニアの約2万円ほどする製品であった、10年以上前にユニクロが、1、980円で売り出し、数年で、ン千万枚の売り上げ、と聞いたときに、この売り上げ枚数は1桁、或いは2桁くらいの間違いではないかとさえ思っていた、それでも驚異的な数字で、1枚買ってみた、1冬着て、春になればマルのベッド、そう考えていたのだが春になると、毛玉が出来ているわけでもない、どこかが痛んでいるわけでもない、「とりあえずクリーニング出しておいて」、それが今年で12回目の冬を迎える事になる、恐るべしユニクロ、上はこれだけで、下は裏毛のスエットパンツにレッグウオーマー、PCの前に座る時には、足にブランケットを巻きつけて、フリースの冬用のスリッパ、マウスを持っていると指先が冷たい、その時には薄手のカシミアの手袋、首筋が寒いとマフラー、それと去年から毛糸の帽子。 本格的な冬になると携帯カイロ、ポケット用2ケ、靴下のつま先に貼り付け用、踝の上まであるスニーカー、ヒートテック加工の肌着の2枚重ね、これだけが冬の装備、冬になると、終戦後、ソ連の捕虜となって、捕虜収容所で極寒のシベリアで過酷な、理不尽な強制労働を強いられて亡くなった人たち、生き延びた人たち、の事を考える事がある、昨日から寝酒のバーボンはお湯ワリである、そして休みの日の外出にはフラスコにバーボンを入れて出歩く、身体が冷え切って喫茶店に入ると、熱いコーヒーにこっそりとそのバーボンをたらす、アイリッシュ・コーヒーならず、勝手にケンタッキー・コーヒーと名付けている、冬の朝食の時にははちみつ漬けのしょうが、熱い紅茶のこれを砂糖代わりに入れて、生姜も食べてしまう、仕事の日の朝はケンタッキー・コーヒーやケンタッキー・ティーという訳にも行かないので。■「今日の言葉」■ 「 愛情を持って叱ることは 我が子と最良の交流となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Oct 27, 2010
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