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蜷川幸雄さん告別式、大竹しのぶさんらが弔辞読売新聞 5月16日(月)17時32分配信 蜷川幸雄さん告別式大竹しのぶさんらが弔辞 12日に80歳で亡くなった舞台演出家の蜷川幸雄さんの告別式が16日正午から、東京都港区の青山葬儀所で始まった。 長女の写真家で映画監督の蜷川実花さんが撮影したりりしい表情の遺影が飾られた祭壇の前で、平幹二朗、大竹しのぶ、吉田鋼太郎、小栗旬、藤原竜也という蜷川さんの演出作で活躍した俳優5氏が弔辞を読んだ。 平さんは「充実した演劇人生を生きることができた。本当にありがとう」と祭壇に向けて呼びかけ、藤原さんは、すすり泣きながら「蜷川さんの思いを受け継いで頑張っていく」と決意を語った。藤原竜也、弔辞でむせび泣く 蜷川さんへ「最高の演劇人生をありがとうございました」 先日12日に多臓器不全のため他界した演出家・蜷川幸雄さん(享年80)の告別式が16日、東京・青山葬儀所でしめやかに営まれた。 蜷川さんは1935年10月15日埼玉県川口市生まれ。55年に劇団青俳に入団、当初は俳優として活躍していたが、68年に劇団現代人劇場を創立し、69年に『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。日本だけではなく海外でも活躍し、世界中で「世界のニナガワ」と高く評価されてきた。 昨年12月半ばに軽い肺炎を起こし入院し、リハビリに励んでいたが、12日午後1時25分に肺炎による多臓器不全のため、死去した。80歳だった。 蜷川さんは1935年10月15日埼玉県川口市生まれ。55年に劇団青俳に入団、当初は俳優として活躍していたが、68年に劇団現代人劇場を創立し、69年に『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。日本だけではなく海外でも活躍し、世界中で「世界のニナガワ」と高く評価されてきた。 昨年12月半ばに軽い肺炎を起こし入院し、リハビリに励んでいたが、12日午後1時25分に肺炎による多臓器不全のため、死去した。80歳だった。 祭壇の遺影は、昨年9月に舞台『NINAGAWA・マクベス 』のけいこ場で、娘で写真家の蜷川実花氏が撮影した写真が使用され、赤と白色の花で彩られた。藤原のほかにも俳優・平幹二朗(82)、大竹しのぶ(58)、吉田鋼太郎(57)、小栗旬(33)の4人が弔辞を読んだ。“まな弟子”として知られる俳優・藤原竜也(34)が時折声を詰まらせ、むせび泣きながら弔辞を読み上げた。藤原は、1997年に蜷川さん演出舞台『身毒丸』で俳優デビューを飾り、蜷川さんは一人前の役者へと育て上げたくれた大恩人。その後も数多くの蜷川作品に出演した。◇藤原竜也の弔辞全文 「その涙は嘘っぱちだろ?」と怒られそうですけど、短く言ったら長く言え。長くしゃべろうとすれば、つまらないから短くしろと怒られそうですけど。まさか僕がきょうここに立つことになろうとは、自分は想像すらしてませんでしたよ。最期のけいこというか、言葉で弔辞。5月11日、病室でお会いした時間が最期になってしまうとは…。 先日、公園で一人『ハムレット』のけいこの録音テープを聞き返していましたよ。恐ろしいほどのダメ出しの数でした。瞬間にして心が折れました。「俺のダメ出しでお前に伝えたことは全て言った。今は全て分かろうとしなくていもいい。いずれ理解できる時がくるから、そうしたら少しは楽になるから。アジアの小さな島国の小さい俳優になるなと。もっと苦しめ、泥水に顔をツッコんで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなったときに手を挙げろ。その手を俺が必ず引っ張ってやるから」と蜷川さんそう言ってましたよ。 蜷川さん、悔しいでしょう、悔しくて泣けてくるでしょう。僕らも同じですよ。もっと一緒に居たかったし、仕事もしたかった。たくさんの先輩方、同志の方々がたくさんきてますね。蜷川さんの直接の声は、もう心の中でしか聞けませんけれども、蜷川さんの思いをここにいる皆でしっかりと受け継いで頑張っていきたいと思います。 気を抜いたら、バカな仕事をしてたら、怒ってください。1997年、蜷川さん、あなたが僕を産みました。奇しくもきのうは僕の誕生日でした。19年間、苦しくも…、まぁほぼ憎しみしかないですけど、最高の演劇人生をありがとうございました。蜷川さん、それじゃあまた。◇
2016.05.16
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