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源への回帰、そんな表現がぴったりの出会いが再びありました。
ひょんなことから、いつも懇意にしていただいている取引先からの依頼で、私は急遽、島根県に出張することになり、日帰りでトンボ帰りしてきました。
その場所は出雲大社からわずか30kmほどのところ。
こんなチャンスはめったにありません。
そうです、遠すぎて行けなかった参拝をする絶好のチャンスです。
私は、時間的にかなり無理を押して、仕事の後に出雲大社に向かうことにしました。
実は、先日のオフ会の時にも、今回の出雲行きの付箋とも言える会話がオフ会に参加された方との間でありました。
私にはなるほどと感じられる所が直感的にあったのですが、それは、日本列島の重要なエネルギーラインにまつわる話です。
我々は、歴史上、表面的に注目するのは伊勢と奈良のエネルギーラインです。
歴史的には、伊勢神宮の現在の地への遷宮なんかにも読み取ることができます。
しかし、オフ会に参加された方によれば、これは表向きのことであって、裏側においては、真に重要なエネルギーラインは、富士山と出雲のラインであるとのこと。
私には、理屈抜きになるほどと納得出来るものがあって、かねてからの出雲への再訪したいという気持ちとも重なり、今回の私的には偶然とは到底思えない展開となった次第です。

行ってみてびっくりしました。
出雲大社のエネルギーがガラッと変わっていたのです。
(ですが、これはとりもなおさず、出雲大社が変わったのではなくて、私自身が変わったということなのですが・・・)
出雲大社のエネルギー、正確に言えば、出雲大社と我々が呼んでいるエネルギーフィールドからくるエネルギーは、出雲大社に近づくにつれて次第に強まっていきました。
特に、明らかにそれが顕著となってきたのは、出雲大社の背後にある山脈が見えて来た時です。
あの雄大な山並みに意識を向けているうちに、ハートチャクラにずんずんと響き渡るように、澄んだ、それでいて力強いエネルギーがふつふつと込みあげてきました。
そして、巨大な第1鳥居をくぐった瞬間、さらにエネルギーが強まってきました。
今まで様々な神社を訪れてきましたが、これほどの強く澄み渡るようなエネルギーを感じたのは、伊勢神宮の伊雑宮という所です。
ですが、出雲大社の第1鳥居をくぐった瞬間に感じられて来たエネルギーは、伊雑宮のそれとは明確に異なっていました。
そのエネルギーを言葉にすると、「心の琴線にふれるような感じ」、こんな表現がぴったりです。
出雲大社の広大な境内は、その場所場所に応じて異なったエネルギーが感じられてきます。
出雲大社の境内全体は、ある種のエネルギーフィールドと言いますか、心の琴線にふれるようなハートフルなエネルギーに満ちていますが、例えば神楽殿などで光の柱を建てますと、伊雑宮と同一の根源的なエネルギーにたどり着きます。
今回初めて分かったのは、伊勢神宮の伊雑宮も、出雲大社も、同一の極めて高次元からきていると思われる根源的な源のエネルギーにつながっているということです。
私は今回の出雲での体験が、ここ数日感じられて来た、時代の転換期を思わせるようなエネルギーの高まりと妙にリンクしているなと改めて思いなおした次第です。
前回、出雲を訪れた際には、これほどまでの高次元かつ力強いエネルギーを感じませんでした。
ところが、今回は打って変わって、ある場所では心の琴線にふれるようなエネルギーを、別の場所では源に通じる根源的なエネルギーを強く感じました。
大切な人と離れ離れになっていて再び再開した時のような、魂と魂とが磁石のように引き寄せられるようなエネルギー。
それが、力強くで、持続力があり、出雲から自宅に戻った後もまだその余韻が心の奥底にありました。
私は、出雲大社の改修中の本殿近くで、ある存在に意識を向けていました。
それは、スサノオと呼ばれる存在です。

現場でリーディングしてみますと、スサノオは実在した人物だったと感じます。
心の琴線に触れるようなエネルギーの所以(ゆえん)は、スサノオが実在した人物であったからこそなんだろうと思います。
あくまでも私の見方として聞いていただきたいんですけど、スサノオと我々が考えている存在、そして実在したその人物というのは、今の出雲大社のあたりに出生していたと感じます。
意識をC1に置いたままでしたから、それ以上の深いリーディングはできませんでしたけれども、私たちから見れば、かつて人間であったこのスサノオという人物は、リーディングによれば「人格神」として、我々から見れば神のごとくに進化しているようです。
これは一体誰なのか?
スピリチュアルに興味がある方ならばもうおわかりでしょう。
この神のように進化した人物というのは、とりもなおさず、我々自身のことなのです。
もちろん、「自分」という概念を拡大して考える必要があります。
ちなみに、知人も、ほぼ私と同時刻に、根源的なエネルギーを感じ取っていたと言います。
このエネルギーは、我々自身の中からくるものですが、我々は自分と他人を切り離して生きる習慣がありますから、本来の自分自身の姿、言い換えればエネルギー的本質部分についても、自分の神的部分の象徴である神社、それも出雲大社の境内に入ることで、自分自身の根源部分からくるエネルギーに同調することができます。


「上の如く下もまた然り」、というよりも、今ここにおいては、「内の如く外もまた然り」であると強く感じる、今日この頃です。
この感動が伝わらないのが残念です。
かつてこれほど神社を参拝して感動したことはありませんでしたから。
