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今日は少し、ブッダについて書こうと思います。
ブッダとは、ご存知のように、仏教の開祖と言われている人物です。
以前、何度かブッダについてリーディングしたことがありましたが、かなりの誤解があるように思います。
それは、ブッダは特別な人だったという誤解です。
ブッダが特別な人物だというのは、後世の人が作り出した夢物語で、ブッダが生きていた当時の状況にフォーカスしていきますと、聖人とは程遠い、一人の人間として道を説いた教師としての姿が見えてきます。
ブッダは、多数の人に道を説いたともしかしたらされているのかもしれませんが、ブッダの布教活動というのは、どちらかというと面授面受といいますか、一対一の個人教授であったと感じます。
それも、弟子の方からではなく、ブッダ自ら弟子の家を訪れ、そこで道を説いている姿が見えてきます。
ブッダは、どちらかというと、多くの人を助けたいという思いが強かったようです。
ですから、ある意味、ブッダ自身が悟りへの道に対してさまよっていたところがあると感じます。
むしろ、ブッダが本当の意味で悟ったのは、死んでからです。
ですが、「ブッダが」「悟った」というのも、あまりにも人間的な見方であって、そもそもブッダなど存在していないに等しいのです。
ブッダが本当の意味で悟ったのは、ブッダという衣を脱ぎ捨てた時でした。
それはすなわち、ブッダ・キリスト、すなわち、キリスト意識に単に戻っただけのことです。
私は宗教は悪いとは思いませんが、もし悪い要素が仮にあるとすれば、誰かを特別視する見方です。
もしそれをする人物がいるなら、その人物はまだ悟りからは程遠いか、大きな誤解をしていると思います。
どの聖人の意識にフォーカスしても、自分が特別だと思っている人は誰もいないからです。
私の感応では、あのイエス・キリストでさえ、エジプト修行の後には自分が王であると強く認識するようになったと感じますが、でもそれは自分の背後にあるキリスト意識に気づいただけであって、裏を返せば自分自身のパーソナリティの本質をよく見抜いていました。
ですから、あるときリーディングで次のような情報が降りてきました。
地上の人々の大きな誤解は、私(イエス・キリスト)が特別な存在であると考えていることだ、と。
誰かが特別な存在であると公言すること自体、それを伝える者が本物ではないということです。
またそれは、今世の中で一人一人が、自分の中にある仏性に気づき、神的部分を発揮していく時代に差し掛かっていることと、真っ向から反します。
つまり、ある人物が特別だと公言すること自体が、あらたな依存関係を作り上げます。
本物ならば、自分のことを本物だと言ったり、他人を本物だと言ったり、そんなくだらないことはしないでしょう。
なぜなら、突き詰めれば自分と他人という対峙関係は瞬時に消え去り、全ては本物と捉えざるを得なくなるからです。
以前、私は、過去世として、ある僧侶の姿を見ました。
その人物からは、人を救いたいという強い決意のようなものが感じられました。
その人物は、死ぬまで僧侶を貫きましたが、ひとつだけ徹底していたのは、面授面受でした。
つまり、実際に弟子にあって、直接話をする対話や問答を重んじていたということです。
その人物の生き方を是とするならば、人を避けるよりもむしろ人に会うのが本物の生き方ではないかと思います。
私はただ、遠い過去の記憶を手繰り寄せているだけですが、そのように感じる今日この頃です。
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